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[18692] Struggler of Other World to World 【リリカルなのは×ガンダム種死クロス】《書き下ろし海短編投稿しました》
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/19 20:05
 この作品はガンダムSEED DESTINYとリリカルなのはストライカーズのクロスオーバー作品です。
 HPの方に掲載しているSSを改訂した上での投稿しています。
 1~25話まで三点リーダー等の変更行いました。
 時系列は、リリカルなのはストライカーズは原作終了後、ガンダムSEED DESTINYは原作より二年後となっています。
 致命的な設定の矛盾などがありましたら、ご指摘等お願いします。
 また、感想や意見などがいただければ幸いです。
 よろしくお願いします。
 
 追記
 26話からHPにあるものから、一部大幅な改訂を行いました。

追記の追記
以前某所に投下したまま未完成だった海短編完成させて投稿しました。



[18692] 0.序
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/10 08:48
0.序
 夢を見ていた。
 夢の内容はいつも茫洋として内容はつかめない。
 分かっているのは少女の夢。
 少女はいつも悲しそうに泣いている。
 気丈な瞳の奥で涙を溜めている。
 それでも少女は諦めることなく、夢に向かって歩みを止めない。
 笑って、泣いて、笑って、泣いて。

「……また、あの夢か。」

 目が覚めれば、与えられた兵舎の一室。
 彼は――シン・アスカは今も戦っていた。

「どんなに吹き飛ばされても、僕達はまた花を植えるよ」
「それが俺達の戦いだな」

 そこはオーブの慰霊碑の前。戦いで破損し、傷ついた慰霊碑の前で、シン・アスカはアスラン・ザラとキラ・ヤマトにそう言われた。

「一緒に戦おう」
「……」

 言葉が出なかった。身体が震えた。
 言葉が出ないのは耳に入ってきた情報の意味を理解できなかったから。
 身体が震えるのは放たれた言葉に込められた“気安さ”への怒りと悔しさから。

 ――呆然と、シン・アスカは俯いた。それは自分が負けたモノの正体を思い知らされたから。

 何のことは無い。自分が負けたのは“力”にだ。強大な力はより強大な力によって淘汰されると言う、ただそれだけの運命という名の法則に過ぎなかった。
 そこには理想も理念も関係なく、存在するのはただ単純な力の鬩ぎ合い。
 理念や理想は自分達にだって存在した。
 たしかにデスティニープランは間違っていたかもしれない。

 極端すぎる政策だと自分もそう感じてはいた―――けれど“戦争の無い平和な世界”と言う確固たる目的が、その先にあった。
 その目的に向かって自分達は――自分は全てを賭けたのだ。それが打ち砕かれた。敗北した。
 よりによって、その勝者がこのような力だけの無法者だったことは皮肉としか言いようが無かった。
 知らず、頬を零れ落ちる涙。流れた理由は二つ。自身の悔しさと情けなさからだった。
 弱いことが悔しかった。弱いことが情けなかった。

「……」

 無言で、差し出されたキラの手を取った――瞬間、自分の中の大切だった何かが折れたような気がした。心に染み渡るのは諦観。自分は負け犬なのだと言う烙印。
 心が磨耗し、磨り減っていくような錯覚を覚える――何かが終わったことを確信した。
 彼の中の大切な何かがその時“終った”のだと。

「はい……」

 呟きに力は無い。考えも纏まらない――違う。もう、何も考えたくなかった。



 そしてシン・アスカはザフトに迎え入れられた。
 キラやアスランはシンを元々の赤服として――そればかりかフェイスとして扱ってくれると言ったが、周囲の人間が取りやめるように言った。

『デュランダルの懐刀だった彼にそういった力を持たせるべきではない。』

 「世界の平和の敵」に最も近い彼の立場からすると当然とも言える。本来、極刑にされてもおかしくないのだから。
 そうして彼はザフトに迎え入れられてから幾つもの戦場を渡った。

 その殆どは旧ザラ派残党の掃討やデュランダル派の軍人たち――要するに軍人崩れのテロリストだった。
 彼らにとってシン・アスカは憎悪の対象だった。デュランダルの懐刀として最も寵愛されていたと言うのに、戦後あっさりと裏切ったからだ。
 何度も罵倒された。罵られた。憎まれた。幾つもの憎悪を受け止め、プラントを守る為に戦った。
撃墜し、捕縛する。
 何度も何度もそれを繰り返した。
 来る日も来る日もそれを繰り返し続けた。

 疲れは無かった。戦後、シンは考えることを止めていたから――兵士は何も考えないのだから。
 シン・アスカにとって平和と言うのは何者にも耐え難いモノである。
 だからこそ遺伝子に寄って人を選別すると言うデスティニープランをシン・アスカは支持した。
 戦争がない世界――シンにとってはソレだけが平和な世界その物だったから。
 シン・アスカがラクス・クラインの元で戦うのも同じ理由である。
 “戦争が無い世界”を平和と捉えるシンにとってギルバート・デュランダルであろうとラクス・クラインであろうと関係が無かったから。

 トップが誰にすげ替えられようとも関係は無い。平和を作ってくれるのなら、戦争を消してくれるのなら、誰であろうと関係がないのだから。
 だからシンは考えることを止めて、戦いに没頭した。
 『クラインの猟犬』、『裏切り者』、『虐殺者』
 幾多のシンへの罵倒は消えることなく続いていた。任務に没頭し、思考を放棄して、磨耗していく毎日。
 ルナマリアとは戦後すぐに別れた。

 元々、傷の舐め合いから始まって、ただお互いに溺れただけの関係だ。
 それがずっと続く方がおかしかった。

 戦後、彼女はオーブに行くと言った。メイリン・ホークからの誘いがあったらしい。シンも誘われたが断った。
 彼はその時、既に軍に入ることを決めていたから――これ以上考えを迫られることに堪えられなかったから。
 シン・アスカとルナマリア・ホークはそうして別れた。唐突に始まった二人の関係は、同じく唐突に終わった。

 僅かばかりの未練はあった――けれど、それも直ぐに消えた。彼らは、ただ肌を合わせただけの他人に過ぎなかったから。
 来る日も来る日も出撃し、戦い続ける日々が始まった。
 磨耗していく自分。日に日に色を失っていく現実。
 そうして、いつかは死んで行くのだろう。

 彼はそう思っていた――そして、“その時”は、思ったよりも“遅く”やってきた。
 終戦より2年。
 シン・アスカは19歳になっていた。
 幼さを残した顔つきは少しだけ大人になり、身長は既に175cmほどになっていた。
 そして、その表情に映りこむ陰鬱は消えることなく――変わらず、陰鬱は彼の中に存在していた。


 プラントと地球連合の間に和平条約が締結された。これによって世界は本格的な平和への道を模索することになった。
 その日、哨戒任務に出かけていたシンはテロリストに急襲されていた。
 共に出撃した同僚は既に逃げおおせている。
 交戦自体は直ぐに始まるだろう。
 敵は3機のザク。こちらも同じくザクウォーリア。ただし、数は一機だけ。

「……行くぞ。」

 呟き、ザクウォーリアを動かす。ザクウォーリアのモノアイが暗闇に輝いた。


 戦いは直ぐに終わった。
 周辺には2機のザクの残骸と1機のザク。こちらは自分の乗っているボロボロで動いているのが不思議なくらいのザクウォーリア。

「……恨むならクラインを恨め、か。」

 テロリストの言葉だ。戦闘中に聞こえた。
 その時、シンは全てのコトを理解していた。
 元々おかしな任務ではあったのだ。今回の任務は単なる哨戒任務であり、本来なら自分に言い渡されるような任務ではない。
 そこに待ち構えたように現れたテロリスト。彼らは逃げていく同僚には目も暮れずに自分を狙っていた――だからこそ、同僚は逃げることが出来たとも言えるのだが。

 最後に接触通信で拾ったテロリストの言葉――恨むならクラインに寝返った自分を恨むんだな。
そこまで符合すれば大よそは理解できる。
 多分、軍に自分は捨てられたのだろう。これからの世界にとっては自分は不要となるからだ。
 和平条約によって自分のような者を使い続けることに意味が無くなった。そういうことだろう。
 前大戦の残り香は全て消しておきたい――道理である。
 だから、自分は最後に捨て駒にされた。そういう訳なのだろう。

 『和平条約締結後、テロリストの急襲で前大戦の引き金を引いた故ギルバート・デュランダルの懐刀が戦死する。それも同僚を守って。』

 ――それなりに感動できる話だ。結果、平和は“加速”する。

「……まあ、いいか。」

 真実に気がついてもシンには裏切られたことへの怒りなどありはしなかった。
 どうでもよかったというのが一つ。
 そして自分の命の最後が平和の役に立てるなら十分だと言うのが一つ。
 そして、寂しいなというのが一つ。

 その三つがシンの心にあった思いだった。
 もとより助かることは無い。諦めると言うよりも淡々と事実をシンは認識していた。
 ザクウォーリアの推進剤は切れ、通信も出来ない。
 モニターどころか殆ど全部の計器も死んでいる。

 何せコックピット内の色んな場所から火花が散っているのだ。
 機体自体がいつまで保つのかなど分かったものではない。
 正直、いつ爆発していてもおかしくはない。更に具合の悪いことに自分の位置も分からない。
 敵の機体の爆発に巻き込まれて吹き飛ばされたせいで現在の座標が分からなくなったのだ。
 言うまでもない。状況は完膚なきまでに絶望的だ。

 コックピット内の電灯が消え、非常用電源に切り替わる。ヘルメットを外して、ため息をついた。
 戦闘中にかいた汗がコックピットの中に水滴として浮かび上がった。
 それをぼんやりと見据え、懐に入れておいたマユの携帯を手に取る。
 画面は消えていた。電源ボタンを押し込んだ――動かない。電池切れか、それとも壊れたのか。
 なるほど、ついていない時はとことんついていないと言うのは本当のことらしい。
 そんな馬鹿なことをシンは思い、再びため息。
 そして、小さく呟いた。

「これで終わり、か。」

 マユの携帯を懐に仕舞いこむ。

「――レイ、ごめん。お前との約束守れなかった。」

 瞳を閉じて顔を上げる。生きろ、と約束した親友の顔が思い浮かぶ。

「……ちくしょう。」

 力の無い呟き。

 ――これが終わりなのだ。自分はここで死んでしまうのだ。

 そう思うと悔しかった。本当は死にたくなどなかった。
 生きていたい。生きて……・誰かを守りたかった。思えば、何も守れない人生だった。

 家族を守れなかった。
 守ると約束した少女を守れなかった。
 未来を託してくれた親友を守れなかった。
 守ると誓った国を守れなかった。
 守りたかった。誰であろうと、何であろうと。

 戦争はヒーローごっこじゃないと言った奴がいた。
 その通り、戦争では英雄になれてもヒーローになどなれはしない。

 ――だから、自分がやっていることはヒーローごっこなのだろう。
 目の前の苦しむ人々を守るだけの自己満足に過ぎないから。
 それは永遠に世界の平和になど繋がらない。

 それでも守り続けることには意味があると信じて縋り付いた。自分には力しかなかったから。
 けれど、それも今――終る。
 力だけを拠り所として戦い続けてきた。
 戦い続けて、戦い続けて……・その終わりがこの薄暗いコックピットの中。
 そう思うと、その余りにも似合いの末路が、どこかおかしくて―――シン・アスカは薄く微笑んだ。力の無い、諦めの笑みを浮かべて。

 胸に去来するのは、また守れなかったと言う後悔だけ。
 後悔があるとすればそれだけ。夢があるのならば、それが夢だ。

 ――生まれ変われるなら、せめて誰かを守れる人生を。

 そう願って。瞳を閉じて、力を抜いた。
 気付かない内に疲労はあったのだろう。ストン、と落ちていくように意識は薄れていった。



「……なんだ……?」

 いつの間にか寝入っていたらしい。時計を見ればあれから既に数時間が経過している――そこでおかしなことに気がついた。
 室内が、やけに“明るい”のだ。
 非常用の電源にしては異常なほどに――いや、正常な状態よりも明るいかもしれない。
 ふと、前を見る。
 外部カメラが壊れたせいで何も映るはずのないモニターに何かが映っていた――いや、違う。
 映る場所など無い。何故ならその画面は、空中に“浮かんでいた”からだ。

「……な、に?」

 それは泣き叫ぶ少女と女性の映像だった。
 映像に映る町並みはどこかオーブを連想させる町並み。

 ――これは何だ。どこかから発信されている電波なのか。

 シンはすぐさま、キーパネルを操作するも反応は無い。
 考えるまでもない。先ほど確認した通り全ての計器は“死んでいる”のだ。
 というよりもこの機体にこんな機能は付いていない。
 空間投影式のディスプレイなどまだ実用化すらされてないはずだ。

 ――ではこれは何だ?

 女性は空中に浮かび上がり光の中に消えていく。まるでコミックや映画の世界だ。

「……何なんだ、これ」

 何より恐ろしいのがその目だった。
 画面越しの女性の目は逸らすことなく“自分”を見ているのだ。

「くっ――」

 怖気が走る。恐怖で心臓が早鐘を打っている。理解できないモノに対する純粋な恐怖。
 死の恐怖なら何度も味わっている。だがそれはそのどれとも違う全く別の領域。未知なるモノへ抱く人間の原初の感情だ。

「落ち着け、落ち着け、シン・アスカ……」

 ぶつぶつと呟きながら、シンは動揺を抑えようと必死に落ち着けと繰り返す。
 映像の中の女は空中に浮かび上がり光に包まれていく。
 輝きは強まりその姿などまるで見えなくなっていく。

 輝きは休まらない。女が“自分”に向けて視線を飛ばす。
 背筋に悪寒が走り、シンは思わず後ずさる。
 けれど、逃げ場など無い。そこはコックピットという閉鎖空間なのだから。

「……何なん、だ、よ。」

 恐れからの呟き。そして――胸の奥で何かが“弾けた”。刺し貫かれるような激痛と共に。

「は……あっ…が……あああああ!!?」

 それは銃を撃たれたような激痛。胸を射抜かんばかりの耐え難い激痛。
 胸を押さえて、彼は蹲る。呼吸が出来ない。耳鳴りが酷い。

「ひ、ぎぃ……!!!」

 か細く漏れる声は正に虫の吐息。
 理解できない事態と胸を刺す激痛がシンから正常な判断力を奪っていく――この状況で判断力を維持できる方がおかしいといえばおかしいのだが。

 《……主を頼んだぞ。シン・アスカ。》

 声が聞こえた。「名前」を呼ばれた。

「ア、アン、タは……」

 閃光が視界を埋め尽くす。爆音で何も聞こえない。
 同時に見たことも無いような“幾何学的な文様”がコックピットを埋め尽くしていく。

「アンタは一体何なんだあああああ!!!!」

 絶叫。世界が純白に染め上げられたその瞬間――シン・アスカは、この世界から姿を消した。



[18692] 1.異邦人
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/10 08:49


 新暦75年。
 ジェイル・スカリエッティとその配下であるナンバーズ――ウーノ、トーレ、クアットロ、セッテの4名が脱獄した。
 脱獄の方法は未だ不明。まるで消えるように“いなくなった”と言う話だ。
 当然時空管理局は上へ下への大騒動となる――そして、騒動はそれだけに収まらない。
 その後始まった全次元世界規模へのガジェットドローンの襲撃。
 ミッドチルダを含めた全次元世界への次元漂流者の“極端な増加”。
 誰もが不穏を覚えだした暗雲深まるミッドチルダ
 これは、運命に翻弄され続けながらも、前に向かって走り続ける、ある一人の男の物語。

1.異邦人

 誰かの為に頑張れる人間は美しいと言う。
 ならば、誰かのためにしか頑張れない人間はどうなのだろうか。
 無論、美しいに決まっている。けれどそれは太陽のような正当な美しさではない。

 それは月のように儚いからこその輝き。
 いつ消えるとも知れぬその儚さが美しさを装っているだけの幻。
 いつか来る終わりに向かって駆け抜ける幻想。

 それでも、男はその幻想に自分自身を賭けた。
 その終わりはいつなのか……それはまだ語るべき時ではない。
 世界から拒絶された男は別の世界で目を覚ます。
 そこは異世界ミッドチルダ。
 男の――シン・アスカの新たな戦いが今、始まる。


「……う」

 目を開けば、そこは気を失う前と同じコックピットの中だった。
 違いがあるとすれば、身体に重みを感じること――重力があると言うことだった。
 よく見れば酸素の残量は既に底を突いている。なのに自分は生きている。
 つまり――

「救助、されたのか?」

 考えられる結論はそれだけだった。
 だが、それでも違和感が付き纏う。
 コロニーの中であるならどうしてコックピット内で放置されているのか。
 違和感があった。何か取り返しのつかないことが起きていると言う違和感が。

「……夢だったのか。」

 息を吐くように小さく呟く。
 思わず胸を押さえ、顔を歪めた。
 あの激痛――胸を弾丸で撃たれたような激痛を思い出して。
 知らず、身体が震えた。恐怖ではない、怖気だ。背筋を這うような怖気があったからだ。
 あの赤い瞳。そして、自分の名を呼んだ女。伸ばした手は自分に向かって伸びていく。
 そう、それはこの胸に届き、この胸の中を突き進み――

「……馬鹿か、俺は。」

 夢を現実として認識し、恐怖するなど馬鹿のすることだ。
 シン・アスカは心中でそう断じると、思考を振り切って、計器類に目をやった。
 状況は異常だ。何が起きているのか、さっぱり分からないがとにかくおかしい。
 
 一つは救助したとして、どうして機体に乗ったままなのか。
 今は収まっているようだが先ほどなどはいつ爆発するか分からないと言う状況だった。
 爆発寸前の機体を救助せずに捨て置くならばまだしも、どうしてそのまま救助したのか。

 もう一つの異常は肉体が覚えている。
 空気が違うのだ――否、風が違うとでも言うべきか。プラントの中に漂う空気とは空気清浄機によって“作られた”空気だ。だが、今感じる空気はどうだろうか?
 それは、清浄な、澄み切った空気だった。そう、故郷(オーブ)でいつも嗅いでいたような――

「……とりあえず、出よう。」

 先ほどから頭を掠めるくだらない思考を振り切ってシンは、コックピットハッチを手動でこじ開けた。
 そして、そこに広がる光景を見て、シン・アスカは今度こそ言葉を失った。何かの冗談だと信じたかった。それは予想していた光景とはまるで違った場所だったから。

「何……?」

 前後左右の全てが木だった。日の光が差し込み、木々を照らす。それは間違いなく自然に存在する森。決してプラントには存在しない。存在するはずの無い本物の“空”。

「……」

 信じられない思いが胸を占める。自分はどこにいるのか。自分に何が起きたのか。何もかもが理解出来なかった。
 分かることは一つだけ。自分は得体の知れない“何か”に巻き込まれた。
 それだけだった。

 その周辺を散策してみたがまるで手がかりは無かった。
 少なくともプラントではないと言うことだけは空に上る太陽を見て、理解できる。

 ここは、“少なくとも”地球である。それは間違いない。
 どんな悪い冗談だとしても決してあの空までは騙せない――無論、自分が狂っていないと言う前提での話ではあるが。
 ザクウォーリアの前で座り込み、ため息を吐く。
 考えられる手段は既に講じていた。

 通信はこの世界に着いた瞬間から何度も何度も、繰り返した。
 整備班ではないシンにはマニュアル程度の応急処置しか出来なかったが、それでも何とか通信機器の復旧くらいは出来たからだ。
 無論、残量電力にも限りがある為、定期的に且つ広域範囲に。だが、既に数時間を経過していると言うに何の音沙汰も無い。

「どうすりゃいいんだかな。」

 手の中でもう壊れた携帯を弄ぶ。諦めにも似た感覚が胸中を満たす。救助は来ない。このままここで死ぬのを待つしか出来ないかもしれない。
 とりあえず、どこかに行こうかなどと言う考えは不思議と浮かばなかった。

 ――ここでひっそりと死んでいく。それもいいかかもな。

 そう、思ったから。

(どうせ、プラントに戻っても殺されるだけだし。)

 確証は無いのでそれは彼の妄想かも知れない。だが、シンにはその確信があった。
 ――現プラント議長ラクス・クラインという人間は善性の塊である。その伴侶にして最強の剣であるキラ・ヤマトも同様に。
 彼らには悪意というものが無く、自分達がすることは正しいと信じて疑わない。
 彼らはあくまで自身の善性を信じて戦っている。

 だからこそデスティニープランという極端な政策に対して、人間の未来を殺すとして反発し、当時のザフトを打ち倒した。
 無論、彼らに何かしらの考えがあった訳ではない。ただ、彼らは反発しただけだ。その有り余るカリスマと戦力を使って。
 だから、戦後のザフトは大いに混乱し、戦争の火種はそこかしこに存在していた。
 ラクス・クライン政権は直ぐに崩壊する。傍から見る第3者はそう考えていた。

 だが、彼女の政権は信じられないほど優秀な治世を行った。
 地球連合との和平交渉。プラントの復興。周辺航路の治安維持。
 細かく挙げれば切りがないほどのそれらを全て成功させてきた。

 勿論、それは彼女の周りに集まった優秀なプレーンの力あってこそだろう。
 だが、数ある選択肢の中から、選びぬいたのは他ならぬラクス・クラインであり、彼女の力であるのは疑いようも無いことだった。
 民衆は当然クライン政権を支持する。傍でずっとそれを見ていたシンとてその手腕には感服していたのだ。民衆からの支持が低い訳が無い。

 さて、ここでシン・アスカについての話である。
 以前、語った通りシン・アスカとは前議長ギルバート・デュランダルの懐刀。
 専用機デスティニーを駆る、いわば前ザフトの象徴でもある。
 クライン派にとって彼は当然面白い存在ではない。
 はっきり言ってしまえば死んでもらった方が良いに違いない。
 前ザフトの象徴である彼がいる限り火種は消えないからだ。

 彼自身にはクライン政権に対する反抗心は無かったが、内心どう考えているかなど分かったものではないからだ。
 むしろ憎悪の対象にしていると考える方が普通である。クライン政権にとっては処刑にするべき男である。
 だが、戦後のプラントはそんな危険分子ですら駆りださなければいけないほどに混乱していた。
 無論、その裏にはラクス・クラインやキラ・ヤマト、そしてアスラン・ザラ等の“英雄”達の進言があったのは言うまでもないが。

 頻発するテロ、航路の襲撃。それらはクライン派となったザフト兵だけでは不足していた。
 故にシン・アスカは必要だった。
 真実、戦いの為だけに彼は必要とされ、戦うことになった。
 テロリストを駆り立て、駆逐する。彼は戦後、「裏切り者」「猟犬」とも呼ばれ蔑まれながらもテロリストの恐怖の象徴として君臨し続けた。

 だが、そんな彼も――否、そんな彼だからこそ平和な時代において不要な人材だった。戦後の混乱が収束していき、彼の力は徐々に問題視されていった。
 恐らくその結果として自分を殺したのだろう。
 シンはそう思っていたし、哨戒任務の際の待ち構えていたような襲撃とテロリストの言葉はシンがそういった考えを持つには十分すぎる状況証拠だった。
 だから、今のシンにとって死ぬことは問題ではなかった。どうせ戻ったところで殺されるのだ。
 ならば、ここで死のうとプラントで死のうと、あまり差は無い。
 シン・アスカは捨て鉢な気分を宿していた。
 無気力、そう言い換えても良い倦怠感に見を包まれて――彼自身、その倦怠感がどこからやってくるのか、判断しきれていなかったのだが。
 シンがそうやってぼうっとしていた時だった。
 がさりと音がした。思わず彼はそちらを振り向いた。そして、そこには信じられないモノがあった。

「何だ、これ。」

 それは球だった。機械仕掛けの球体。大きさは数mといった程度。いつ現れたのか、気付かなかった。
 冗談のようなその巨躯にシンは呆気にとられて見つめていた。
 機械は小さな駆動音を鳴らしながら、横方向に回転する。まるで、向きを変えるかのように。

(やばい)

 背筋を這う悪寒。シンは直感の任せるまま、その場から転がるようにして離れた。
 同じタイミングで球体の前面に開けられた穴から幾つもの黒い弾丸が放たれた。
 弾丸がザクウォーリアを蹂躙する。
 ザクウォーリアは弾丸の衝撃で仰け反るようにし、倒れた。転倒の衝撃で幾つもの箇所で小さな爆発が起きた。

「嘘だろ!?」

 モビルスーツが――例えどれだけ損傷していようともあの程度の攻撃で破壊されるなど想像の埒外だった。
 ザクウォーリアを破壊したことを確認すると球体は呆然とするシンに向かってその穴――砲門を向けた。
 打ち込まれる弾丸。シンはそこから飛び退き、後方にあった木に隠れる。
 木ごとシンを殺そうと言うのか、球体は障害物などお構いなしに弾丸を乱射してくる。

「くそっ!!」

 懐から拳銃を取り出し、安全装置を外す。
 こんなものが役に立つとも思えないがシンにとってそれが残された最後の武器だった。
 木から木へ移動するようにシンは乱射から身を外す。
 幸い、球体はこちらの位置を完全に確認している訳ではない。

 大方、カメラで確認して、確認できた対象に照準を合わせているだけだろう。
 だが、そんなことが分かったからと言って状況が好転する訳でもない。
 木の陰に隠れるようにしていたところでいつか見つかる。大体、弾丸の乱射に巻き込まれない可能性など殆どないのだ。
 現状のシン・アスカの行動は死ぬことを先延ばしにしているだけに過ぎない。

(どうする)

 自問。けれど、その答えなど簡単なモノだ。
 隠れ続けて逃げるのは論外だ。そんなことをしている内に、後ろから狙い打たれる。
 もしくは乱射に巻き込まれる羽目になる。今、目前の機械から視線を外してはならない。
 ならばどうするか。答えなど一つだけ。

(一か八か、強行突破しかない……!)
 
 無謀な賭け。だが現状でシンが取れる選択はそれしかない。
 少なくともシンはそう考え――そして、それは恐らく正しい。
 火力で勝る相手に、逃げ回るなど愚の骨頂。
 それは耐える為の戦い――補給や仲間、武器などがあり、長期戦が出来る場合の考えだ。

 現状はそれとはまるで逆。
 武器は無い。
 仲間はいない。
 補給など出来るはずもない。ここがどこかも分からないのだから。

 だから、それしかない。強行突破を行い、敵が方向転換している間に逃げる――そんな策とも言えないことしか出来ない。
 機銃の乱射が止む一瞬。その一瞬に賭けて突進し、血路を拓く。息を潜み木の陰に隠れながら、その期を探るシン。
 機銃が止んだ。

(行くぞ。)
 シンが木の陰から飛び出そうとしたその時、上空から“落ちてくる”人影があった。

「……え?」

 人影は女性だった。
 レオタードにジャケットを羽織ったような服を見につけ、ローラーブレードのような靴を履き、左手に巨大な円形の物体――例えて言うならリボルバーの弾倉のようなものをつけていた。

 女性は、落下の勢いそのままに強烈な後ろ回し蹴りを放つ。仰け反る球体。
 そして女性は、その懐に飛び込む。胸を張り、左腕を引き絞り、右足を前に。
 矢を要るような予備動作――放つは鉄の矢じりではなく、刃金の拳。

 「はああああ!!!!!」

 左腕の弾倉が回転し、輝く。刃金と鋼の激突。耳を塞ぎたくなるほどの轟音。
 球体は沈黙した。
 放たれた刃金の拳は、あろうことか、球体の装甲を貫き、破壊したのだ。

「……」

 シンは拳銃を構えたままその女性を呆然と見つめていた。
 拳銃を握る手には力がない。現実離れした光景が連続したせいで思考が停止した訳でもない。
 見惚れていたのだ。目前の女性の使った“力”に。
 それはモビルスーツなどを介することなく、個人が振るう個人のレベルを超えた圧倒的な絶対たる“力”
 初めてモビルスーツに乗った時よりもはっきりと、初めての実戦の時よりも大きく、胸の鼓動が鳴り響く。

『これは何なんだ。』

 心に響くその問いに答える人は誰もいなかった。


 シン・アスカ。
 19歳。男性。出身世界:オーブ首長国連邦。生年月日:CE57年9月1日。
 元々の世界での職業:軍人(15歳から)。モビルスーツのパイロットをしていた。
 特記事項:コーディネイター(遺伝子を操作した人間。ただし健康方面のみと本人が主張)
 補足:コーディネイターとは発生段階の受精卵に遺伝子操作を行って生まれてきた人間の総称。
 モビルスーツとは彼の出身世界における人型の機動兵器。

「モビルスーツ、ザフト、プラント、地球連合、コロニー、コーディネイター……」

 自分で書いた報告書を手に取り、長髪のスーツ姿の女性――ギンガ・ナカジマは呟いた。

「……まるで漫画やゲームの中の話ね。」

 その報告書を手に、最近保護した赤目の青年について嘆息した。

 あの後、シン・アスカは長髪の女性――ギンガ・ナカジマに保護された。
 そこで彼はとんでもない事実を教えられる。
 「異世界ミッドチルダ」
 「数多に存在する次元世界の中の一つであり魔法文明が最も発達した世界の一つ」
 「別の世界から「次元移動」をしてこの世界に来た」
 「球体は「ガジェットドローン」と言う。3ヶ月前に収束したある事件で使われた機械兵器」。

 聞いたことも無い単語の連続。
 「魔法」という単語に反応したシンを見て、さっきの私が戦う際に使ったモノのことですと至極簡単そうにギンガは説明した。
 シン・アスカは呆気にとられた。信じられなかった――だが信じざるを得なかった。

 何故なら、彼は一度その力を目前で見ていたからだ。伊達に何年間も戦場で戦い続けた訳ではない。
 彼とて目の前で見せられたモノが真実かどうか判定する程度の眼は持っている。
 どう考えてもあの時の彼女の力はトリックにはどうしても思えなかった以上――信じる以外に無かった。
 それからシンはギンガに連れられて陸士108部隊の兵舎にて事情聴取、その後肉体の検査を受ける。



 ジェイル・スカリエッティの脱獄から始まったガジェットドローンのミッドチルダ全域への散発的な襲撃。それにより、時空管理局は緊張を強いられていたせいである。
 シンにされたその処置もその一環である。何せ時期が時期だ。スカリエッティの脱獄と関連があると思われるのも仕方なかった。

「毎日、検査ですいません。」
 そう言って、ギンガ・ナカジマはシンに対して缶コーヒーを手渡した。次の検査は20分後。
 今シンは検査室の前の椅子に腰をかけている。着ている服は病人服。こういった部分は異世界だろうと変わらないらしい。

「……別にいいですよ。コーヒーありがとうございます。」

 ぶっきらぼうに言ってその手のコーヒーを受け取る。

「それで結果はどうでした?」

 ギンガの問いにシンは手元の紙を見ながら答えた。

「よく分かりませんよ。リンカーコアがどうだとか、免疫機能がどうだとか言われても。」
「ちょっと見せてくれます?」

 そう言うとギンガはシンの手元の紙を手に取るとまじまじと見始める。

「……ふう」

 なにやらブツブツと呟いているギンガを見ながらシンは缶コーヒーを開いて口につける。
 正直、検査した医者の言ってることも殆ど理解できなかった。何せ魔法が存在する世界である。理解できないのも道理だった。
 物思いに耽っているとギンガがこちらを見ていた。

「……何ですか?」
「やけに落ち着いてますね。」

 その言葉に苦笑する。
 確かに自分は落ち着いている。見知らぬ世界に漂流し、身寄りも何も無い。
 しかも自分の知る常識はこの世界にはまるで通じない。魔法と言う非常識がまかり通っているのだから。
 そんな世界に放り出されたばかりだと言うのに自分は落ち着いている。変だと思われてもおかしくはない。

 だが、実際シンには不安は無かった。自分でも不思議に思うほどに。
 シン・アスカはあの世界で“殺された”。結果的には死んでいないだけで、実際は殺されたも同じだ。
 縋り付いていた『平和』に見捨てられて本来なら死ぬべきところで、死に損ねた。
 だから彼は今更、元の世界の状況を知りたいとも思わなかったし、元の世界に戻ることなどに価値を感じることは無かった。

 シン・アスカの願い。それは戦争が無くなることである。
 皮肉なことにそれを願う本人がいては願いが叶わない。
 それを自分自身でも強く理解しているからこそ、彼は“戻りたい”とは思わない。
 戻ることで火種になるくらいなら、死んだ方がマシだった。

「元々、戦災孤児なんでこういう状況に慣れてるだけです。」

 後者の理由は言わないでおくことにした。要らぬ誤解を受けたくは無かったから。

「アスカさん、次の検査始めます。」
「はい。」

 シンはそう言って立ち上がり、ギンガに声をかける。

「じゃ、検査あるんで行きますね。」
「あ、分かりました。」

 彼女は椅子に座りながら答えた。シンはそれを見て検査室の中に入っていった。

 数時間後、シン・アスカの検査は滞りなく終了した。
 その結果判明したことは、以下の通りである。
 シン・アスカには魔導師としての資質があること。
 本人の言うとおり、彼の肉体は免疫機能が著しく発達している以外は一般人と変わらない。
 運動能力、体力、反射速度はどれも卓越したものがある。
 だが、遺伝子を操作した形跡が無い為、それらは軍人としての訓練等によって身に着けたものであると推測される。

 それ以外に怪しい部分は見当たらなかった。プロジェクトF、人造魔導師等の形跡は全く無かった。
 結論から言うと三日間の検査の結果、彼とジェイル・スカリエッティには何の関連もないことが判明した。
 その日の夜、シンは陸士108部隊隊長ゲンヤ・ナカジマ3等陸佐に呼び出された。
 その隣には、来客なのかこれまで見たことの無い茶色い髪の小柄な女性がいた。年齢は恐らくシンやギンガと同年代。もしかしたら、年上かもしれない。
 自分の部屋にやってきたシンを見つめ、ゲンヤは話し出した。

「結論から言うとこれでお前さんは自由の身だ。どこへなりと行っていい……と言いたいところだが、そういう訳にもいかんだろう?」

 頷く。実際その通りだった。
 身寄りも無ければここがどんなところかも分からない。
 考え方によってはオーブからプラントに渡った時よりも酷いかもしれない。

「現在、こっちも忙しくてその世界の捜索に手を回すほどの余裕は無いんでな。しばらくここにいてもらうような状況なんだがどうする?」
「……別に、どっちでも構いません。」

 気だるげに呟くシン。それをみて、「ふむ」と唸るゲンヤ。

「まあ、いいさ。一応、これからの選択肢も伝えておく。一つは元の世界に戻る。まあ、普通はこっちを選ぶ。誰だって故郷に帰りたいって言うのが本音だからな。もう一つはこの世界で暮らす。向こうの世界を忘れてな。少数だがこういう奴らも中にはいる。」

 そして、と前置き、ゲンヤは続ける。

「時空管理局で働くって選択肢も一応あるにはある。これを選ぶ奴は本当に少数だが、優れた魔導師としての才能を埋もれさせるって言うのは人手不足の管理局としては辛いもんでな。実はそこの八神はやて二等陸佐もその口だ。」

 茶色の髪の女性が手を差し出してくる。

「八神です。よろしく。」
「……よろしく。」

 差し出された手を掴んで握手する。
 変わったイントネーションの言葉を話す。これが彼らの世界の標準語なのだろうか。
 シンはそう思って八神はやてという女性に目をやる。
 シンとそれほど変わらない年齢だろうに2等陸佐……ザフトで言えば白服くらいなのだろう。シンは心中で素直に感心する。

「まあ、何にしても、もうしばらくはここで暮らしてもらうことになる。どうだ?」
「ああ、はい……充分です。」

 気だるげ、というかやる気が無い返事。心底、どうでもいいといった感じの。
 そう、答えてシンは部屋から退室する。
 シンが退室したのを見計らってはやてが口を開いた。

「……彼の検査結果見ましたが、こら凄いもんですね。」

 ゲンヤが手元にある検査結果を記した紙をめくりながら、答える。

「純粋な魔力量で言えばお前くらいかもな。その上、身体能力も高いときた。鍛えればとんでもない魔導師になるかもしれん。」
「次元移動の原因は何なんです?」
「証言の内容からは、誰かが召喚したっていうのが一番有力だな。」
「……少女と女……・どういうことやろか。」

 考え込むはやてに向かってゲンヤは呟く。

「まあ、その内分かるだろうよ。あいつの乗ってた機体の中に記録も残ってたらしいからな。そいつを解析すれば多少は進展するだろう。」
「多分……落ち込んでるのは、別の世界に来て不安やからなんでしょうね。」

 はやてが先ほどのシンの様子を思い出す。
 暗い、という訳ではない。どちらかというと元気が無い、と言うか無気力が一番近かった。
 別の世界にいきなり放り込まれて、不安もあるのだろう……いや、不安が無い方がおかしい。
 それに――何かを感じる。彼女のように魔導師の資質を持っている人間というのは実は酷く珍しい。
 どこから来たかも分からない次元漂流者が、魔導師の資質を持っているなどと言うコトは
 資質を持っている、と言うのは酷く珍しいことだ



「……まあ、私が考えても仕方ないことですね。ではナカジマ三佐、そろそろ行きます。色々とありがとうございました。」
「ああ。お前も頑張れよ。」

 そう言って八神はやては部屋を出て行った。
 一人残された室内でゲンヤは思った。

「……不安、か」
 違う、とゲンヤは思った。
 シン・アスカ。あの青年はきっと不安など露ほどに感じていない。
 どこか、何かが欠落したような表情。
 ゲンヤははやてにこそ告げなかったがシン・アスカに対して大きな危うさを感じていた。


 あてがわれた自室に戻るとシンはベッドにそのまま倒れこんだ。

「本当、何なんだろうな。」
 あの時、死ぬと思った。
 そうしたら訳の分からない力で別の世界に来てしまった。
 おかげで死ぬはずが今も生きている。
 死にたかった訳ではないし、生きているのが嫌な訳でもない。
 ただ、肩透かしを食らったような感じがあった。
 生きている理由を奪われた。それが一番適当な表現だろう。
 元の世界から弾かれて来たこの世界。厳密には誰かに召喚されたと言うことらしいが、シンにはそう感じられて仕方なかった。
 あの世界で殺されそうになった。平和の礎に殺されそうになった。自分がいては平和の邪魔なのだと。それは同時にあの世界での自分の役割が終ったことを意味している。
 つまり――自分はもうあの世界に帰ってはならないのだと。

(……寝よう)

 連日の検査と慣れない場所――世界での生活はシンの肉体に思った以上に疲労を溜め込んでいるようだった。身体中に倦怠感があった。目を瞑ると即座に眠気が押し寄せてくる。眠りに付く直前、ゲンヤの言葉を思い出す。

 ――元の世界に戻る。

 戻れる訳が無い。戻れば自分は火種になる。安定していくあの世界。それがどれくらい続くのか定かではない。だが、願わくば出来る限りの長い間平和を維持してほしかった。
 なら、自分はどうするべきなのか。検査の間ずっと考えていたが結局その答えは見つからなかった。
 ふと、ギンガの使った魔法を思い出す。

(あの力があれば、ステラやレイを守れたかもな。)

 眠りにつく瞬間、胡乱な頭はそんなことを考えた。
 寝顔は安らかな子供のような笑顔だった。



[18692] 2.烈火
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/10 08:54
 シン・アスカの調査結果を見て、ギンガ・ナカジマは自身の机の前で陰鬱な表情をしていた。
 身体検査、事情聴取。
 そしてモビルスーツの残骸から回収できたブラックボックス内の記録。
 その3つの結果はシロ。彼とジェイル・スカリエッティの間に繋がりはない。
 ここまではいい。だが、問題はシンの証言の内容だった。
 コーディネイターとナチュラル。持つ者と持たざる者。その間で起きた戦争。
 何か些細なきっかけで起きた戦争。愛すべき隣人は互いに銃を持ち殺しあった。
 これが時空管理局の管理世界であるならそれほど問題にはならなかったかもしれない。
 現在、時空管理局の管理する世界では質量兵器の使用は全面的に禁止されている。
 それゆえこのような泥沼の全面戦争――殲滅戦になることはあり得ない。
 だが、如何せんシン・アスカのいた世界は違った。
 そこは質量兵器が発展した世界。モビルスーツと言う機動兵器が闊歩する世界。
 その中でデスティニーと言う専用機を与えられるまでに強くなった少年。
 少年は与えられた任務に対して忠実に従い何万人もの人間を殺してきた―――そう、“殺している”のだ。
 非殺傷設定というものが存在する時空管理局において殺人とはタブーの一つである。
 そのような人間を野放しにしていいものか。恐らくそういった問題が発生する可能性が高い。

「……でも、そういうことする人には見えないのよね。」

 ぼそりと呟き、彼の顔を思い出す。
 時々こちらを射抜くように鋭くなるものの平時は柔和な感情を浮かべる赤い瞳とどこか子供っぽさを残した顔つき。
 聞いた限りでは自分よりも一つ年上のはずだが、時折自分よりもよほど子供っぽい仕草をしているように思う。
 卑屈ではあるが、非道ではない。それがギンガの見た、シン・アスカだった。父であるゲンヤも同じくそう思っていることだろう。
 だが、彼は実際に何人も殺している。彼の話を信じればそれこそ、何千人―--もしかしたら何万人もの人間を。
 レコーダーから聞こえてきた彼の叫び声は鬼を連想させるように狂気を纏っていた――けれど、彼は恐らく任務に忠実だっただけだ。軍人である以上、上官の命令は絶対である。
 だから、彼はその戦争において殺し続けた。そして、戦争は彼の所属する側の敗北で終わり、幕を閉じる。

 その後、彼は敵に乗っ取られた軍――ザフトに復帰し、数え切れないほどの任務をこなし、そして、撃墜される。
 テロリストの鎮圧。航路の治安維持。
 その幾たびの戦いは彼の乗っていた機体、ザクウォーリアに残されていた戦闘記録に残されていた。
 それ以前に彼に与えられた専用機デスティニーの分も。
 彼の機体に備え付けられていたOSはデスティニーのモノを移植して作ったモノらしい。
 通常のOSでは彼の動きに追いつかないためのやむを得ぬ措置だったとか。
 結果、そのおかげで自分たちは彼の証言が正確だったことを知ることが出来たのだが――結果としてそのせいで彼の処遇に悩むことになってしまった。
 一度、彼が軍に入ろうと決めた理由について聞いたところ、

「身寄りも無い戦災孤児が生きる為にはそれが一番都合が良かっただけです。」

 ということらしい。だが、それだけで、僅か13歳の少年が組織のトップになるほどに努力することが出来るのだろうか。
 復帰した理由を聞くと、彼はその瞬間、それまでのような愛想笑いを消し去って――ぞっとするような冷たい赤い瞳で覗き込まれた。
 何も感情を写さない虚ろな赤い瞳。何があって彼はあれほどに冷たい瞳を手に入れたのか。

「……・シン・アスカ、か。」

 ギンガは小さく呟くと、再び報告書の作成に没頭する。没頭しつつ彼女は思った。
 ―――彼はこの後どうするつもりなのか。
 その問いに答える言葉をシン・アスカは持っていなかった。今は、まだ。


 その日、八神はやては自分の机の前でいつもなら気にもしないことを気に病んでいた。
 赤い瞳の男。シン・アスカ。陸士108部隊にて保護され、現在も108部隊にて留まっている次元漂流者である。とりあえずと言うことで陸士108部隊にて受け入れられている。
 気に病んでいるのは彼のことだった。別段、一目ぼれとか好みだったと言うような浮ついた話ではない。何が気になったのか、自分自身でも分からないが、何かが気になった。どこかで会ったことがあるのだろうか。そうも思った。
 けれど、はやてには彼との面識などあるはずもない。
 報告書ははやても、読んだが彼と自分の間に接点となるものは一つも存在しなかった。それも当然。彼は異邦人である。
 ならば、胸に在る違和感は何なのだろうか。例えるなら、再会した相手が自分の思い出とはまるで別の人間だった時の、落胆と懐かしさと嬉しさが同居し混ざりきって混沌とした気持ちだった。

(まあ、ええか。また今度や。)

 はやては頭を切り替えて、机の前の書類を片付けていく。
 どの道、彼女が今従事している――そしてこれから行う任務においてゲンヤ・ナカジマ三等陸佐の協力は必要不可欠であり、陸士108部隊にも頻繁に顔を出すことになる。つまり、シン・アスカと話をする機会など幾らでもある。
 ならばその時に確認すればいいだけのことだ。そうして再びはやては書類整理に没頭し始めた。それは翌日陸士108部隊に提出しなければならない書類。つまり明日にでも会えるのだから。
 この時、八神はやては知らなかった。いや、ミッドチルダに住む誰もが知らなかった。
 翌日はそんな暢気なことを言っていられる状態には決してならないと言うことを。


 仏頂面でシンはギンガと共にあるいていた。空は青く、風は気持ちいい。本来なら喜ぶべきところだ。そんなシンにギンガは苦笑しながら呟いた。

「浮かない顔ですね。外出は楽しくないですか?」
「いや、楽しくないと言うか……」

 ギンガに睨まれて、シンは両手の荷物に目をやる。右手は生鮮食品やらお菓子やらの食品。左手は服とかタオルとかの洋服関連。

「重いんですが。」
「我慢してください。」

 ギンガは一言告げると直ぐに歩き出す。
 その後ろ姿を見ながらシンは呟いた。

「……何で俺ここにいるんだ?」

 シンはこの世界に来て始めての外出をしていた。



 朝、寝ているとゲンヤから呼び出しを受け、言い渡されたのが「外出命令」。
 ギンガが買い出しに行くと言うのでその手伝いをしろと言うことだった。

「……何で俺が行くんですか?」
「今日非番の人間はギンガだけでな。暇してる奴って言ったらお前くらいしかいないんだよ。一日、ベッドで寝てるよりは健康的だと思うぞ?」
「……好きで暇してる訳じゃないんですが」
「だったら、グダグダ言わずに行ってこい。今のお前さんは誰がどう見ても暇してるさ。」

 そう言われると立つ瀬が無かった。ため息を吐き、シンは答えた。

「……分かりました。」

 結局シンはそのまま流されて、ギンガと共にここに来る羽目になっていた。

「……はあ」

 シンの前を歩くギンガは見た感じ笑顔で歩いていた。たまの休日を謳歌していると言う感じだ。だが、当のシン・アスカは冗談じゃないと言う感じで歩いている。ありていに言ってかなり帰りたそうだ。 ぱっと見たら分かるくらいに。何せため息をついている。
 ギンガがそんなシンの様子を見て、ようやく立ち上がる。

「それじゃそろそろ行きましょうか、アスカさん。」
「……やっと終わりですか。」

 先ほどから数えて三件目。両手の荷物は順調に増えている。幾らなんでも一つくらい持ってくれてもいいんじゃないのかとも思ったりしたが、止めておいた。流石にそれはなんとも情けないにも程がある。
 だが、疲れは蓄積する。ザフトのトップエースと言えどそれは例外ではない。買い込んだ荷物も服だけではなく日用雑貨等、まるで引越しの前準備のようなものばかり。何で自分がこんなことをと言いたくなる。

「何言ってるんですか?これからが私の用事です。」
「私の用事?……じゃあ、これ誰のですか?」
「さっき話したじゃないですか……今日はアスカさんの服とか買いに来たんですよ?いつまでも、その服着てる訳にもいかないでしょう?」

 ちなみに今シンが来ている服はゲンヤの服である。茶色いジャケットにスラックス。元々、服装に頓着しないとは言え流石にセンスが古かった。ありていに言ってオヤジ臭い。

「……ああ、そういえばそんなこと言ってましたね。」

 自分の為にやっていると言われて、何で自分がなど言えるはずもない。
 少しだけ居た堪れない気持ちになって、シンは俯いた。
 ギンガはそんな彼を見て、溜息を吐き、口を開いた。

「……これから食事して、ブラブラするつもりなんです。アスカさんだって、荷物持ちしに来ただけなんて嫌でしょう?」

 痛いところを突かれるシン。確かにその通りだった。

「いや、まあ。」
「荷物はそこのロッカーにでも入れておいて帰る時に持って行きましょう。」

 ギンガはそう話すとロッカーに向かって歩いていく。てきぱきとしたその様子からすると、こういった買い物に慣れているのだろう。
 それに対して、不貞腐れて、ぼうっとしている自分。買い物に慣れていないにしても話を聞いてないのは、自分でも流石にどうかと思った。

「……ホント何してんだろうな、俺」

 自分は何をしているのだろう。情けないにも程がある。ふて腐れるにも程がある。
 今日の外出自体、ゲンヤやギンガが自分を気遣ったからこそ起こったことなのは良く分かる。
 本来、こんなことにギンガが来る必要はまるで無い。
 それどころか自分をこうやって外出させる意味なんてまるで無い。
 もし自分が彼女の立場であれば独房にでも入れて動けないように縛り付けておく。
 そっちの方がよほど確実だし、安価だからだ。それをわざわざここまでして気遣うなどシンの感覚からするとどうにも信じられなかった。
 基本的に人のいい親子なんだろう。
 てきぱきと前を歩いていくギンガの後姿を見つめながら、歩き出す。頭の中にはこれからのこと。
 自分は一体何をしているのだろう?
 ふて腐れて、いじけて、諦めて、そして今も動けないでいる。
 起きるべきだ。動くべきだ。そう、思う。思うけれど、どうしても心は動かなかった。
 自分は何をするべきなのか。何をやればいいのか。
 その答えがどうしても見つからずに、一歩も動けないでいる。
 上空からは陽光が指し照らす異世界ミッドチルダ。その只中で自分はあまりにも無力で弱くて情けなかった。


(元気を出してくれればいいけど……多分無理かな。)

 ギンガ・ナカジマは半分以上今日の目的に諦めを感じていた。
 日々無気力な様相を続けるシン・アスカ。
 彼女はそんな彼に少しでも立ち直ってもらおうと思っていた。
 とても放っておいて、立ち直るようには思えなかったからだ。
 そこに昨日の夜、ゲンヤに呼び出され、外出許可とシン・アスカの付き添いを言い渡された。
 こういったことは本来捜査官である自分の任務ではないのだが、「異世界から次元移動を行って現れた人間。しかも魔導師の素養があり、その出自は特殊なモノ」という特殊な事情があって、事務官ではもし彼が拉致されたりした場合に対応しきれないと言う判断からだった。
 それ故、生真面目な彼女はやったことも無い異性と外出ということをする羽目になった。
 無論、彼をどうやって立ち直らせるかということを考えていた彼女にとっては渡りに船であったことは間違いない。
 そうして今日に至る。
 不謹慎ではあるが、ギンガもそれなりにワクワクはしていた。
 正直期待するのも甚だしいほど憔悴しきったシン・アスカと街を歩いたところで楽しいとはとても思えなかったが、年齢的にはギンガも少女と言っていい年齢である。
 しかも仕事仕事でそういったこの年代の少女が持つ楽しみ――いわゆる色恋沙汰とはまるで無縁の生活を彼女は続けてきた。
 故にギンガにとって今日の外出は、保護対象とは言え“男性”との始めての外出であった。男の影などまるで無い彼女にとっては初めての経験である。
 2週間前まではこんなことをするとは思いもよらなかったことを考えると、表面上は完璧に振舞っていても内面では割と葛藤していたりするのだ。
 彼からは見えないようにカンニングペーパーを懐から取り出し、そこに書いてあるチャート図を見て、さも「慣れてますよ」と言わんばかりの態度で先ほどからギンガはシンを案内していた。
 その時々のシンの反応を見て、心の中では一喜一憂している。
 本質的に良いお姉ちゃんを地でいっているため、基本的に見栄っ張りなのだ。

「あ、アスカさん、このロッカーです。」
「……ああ、はい。」

 このロッカーへの案内にしても、右手に隠したカンニングペーパーに書かれている道だった。
 ギンガ自身はここに来たことは一度も無い――そこは駅の構内のロッカーでありギンガ自身はこういったものを利用する機会が無かったからだ。
 シンはロッカーを開けると、気だるげにに今日買った荷物を入れていく。
 その横顔を見れば、ギンガで無くとも、息抜きにすらなってはいないなと分かる。
 気だるげで、虚ろで、覇気というものが欠片も無い表情。簡単に言ってやる気が無い、無気力だった。

(……前途多難ね)

 ギンガはシンからは見えないように影でこっそりとため息をついた。
 仕事とは言え初めての異性と遊んでいるというのに、その相手にやる気がまるで無い。
 自分は何やってるんだろうかと考えたくもなる。
 せめてもう少しくらいはやる気を出してくれてもいいんじゃないだろうか、と。

「で、次はどこに行くんですか?」

 ロッカーに荷物を入れ、シンは物思いに耽っていたギンガに尋ねてきた。

「ああ、次はですね……あれ?」

 その時、ギンガはシンの後方にそれまでとは違う景色を見た。シンの身体越し――恐らく数km以上離れた場所にソレはあった。

「……?」

 怪訝に思ったシンが振り返る。遠方に立ち昇る煙がある。工場から噴出している白煙のように高く立ち昇っていく煙。

「……煙、あれは、火?」

 ギンガが呟き、慌てて、その場所から駆け出し、外に出る。そして、音がした。空気を震わす轟音が。そして同時に立ち昇る炎。天を焦がさんばかりに炎が登る。それはまるで天に向かって助けを求める手のように。

「嘘でしょ」

 呟き。そして再び爆発。轟音。炎。終いには火の粉がここからでも見えるほど上空を舞い散った。馬鹿げた大きな炎から飛び散る火の粉も馬鹿げた上空に舞い踊る。
 一瞬。正に刹那。
 時間など幾ばくかの間に、平穏で牧歌的で穏やかそのものだった街は、阿鼻叫喚の煉獄と化した。
 周辺で爆発が起きる。上空には幾つものガジェットドローンの群れが見える。
 空は赤く染め上げられ、街のそこかしこで爆発が起きている。
 一刻前の光景など最早どこにも存在していなかった。

「どうなってるんだ!!」
「誰か助けて!!助けて!!」
「いやああああああああああ!」
「娘が、娘が!!!」

 悲鳴と怒号。
 いきなりの事態に誰もが恐慌しパニックを起こしている。
 我も、我も、とその場から逃げ出す。
 シンはただその光景を呆然と見つめていた。
 ギンガは懐から慌ててインテリジェントデバイスであり通信機でもあるネックレスに向かって何事か大声を張り上げている。

「……けるな。」

 シンは呟きと同時にその場から駆け出した。走り出した方向は炎が立ち昇るその中心。
 押し寄せる人波を掻き分け、泳ぐように走っていく。表情はギンガからは、陰になってまるで見えない。

「あ、アスカさん!!どこ行くんですか、アスカさん!!」
 通話中だった電話から耳を外し、突然走り出したシンに向かってギンガが叫ぶ。
 シンはギンガの叫びなど意に介すこともなく人並みを走り抜ける。
 止める間もなく彼女の方からシンの姿は見えなくなった。

「ああ、もう!!ブリッツキャリバー!」
『Yes,sir.』

 ギンガが胸に下げているネックレスが答える。
 閃光が煌めき、ギンガの姿が変わる。それは初めてシンを助けたあの時の姿。
 足元の車輪が唸りを上げる。

「ウイングロード!」
『Wing Road』

 叫びと共に地面に拳を突き立てる。つき立てた場所から空中に向かって伸びて行く薄っすらと輝く空中へと続く道。
 その道をギンガは走り、目的地へ一直線に向かっていく。
 シンの行き先は恐らく被害の中心部。あの爆発が起きた場所だろう。
 ギンガはそう当たりをつけて駆け出した。

 身体が重い。全力で何百mも走り抜け、尚且つ人ごみを掻き分けてきたのだ。
 疲れない方がどうかしている。それはコーディネイターとて同じ。普通ならそこで座り込んでもいいような疲労。
 だが――顔を上げる。炎を見つめる。
 赤い瞳が憤怒で歪み釣り上がる。

「ふざけるな。」

 声に感情が篭っている。無気力では決して込めることの出来ない感情が。

「ふざけるな……!!」

 疲れた身体から送られる「休め」というシグナルを全力で無視し、シンは無理矢理走り出した。

「ここも同じなのか、平和じゃないのか・・・・!!」

 燃えている。世界が、赤色に染め上げられていく。
 炎で燃え盛る街はベルリンを思い出す。
 炎で逃げ惑う人はオーブを思い出す。
 理不尽な光景。戦いとはまるで無縁の一般人を狙った襲撃。否、惨劇、だ。
 それはシン・アスカの心を刺激し、無気力を忘れさせるには十分すぎるほどの刺激だった。

 ―――シン・アスカの心には傷がある。戦争という名の傷痕が。
 一度目の戦争で彼は家族を失くした。
 二度目の戦争では守ると約束した少女と親友を失くした。
 それはトラウマとなってシンの脳裏に刻み込まれている。
 トラウマ――シンにとって戦争とはトラウマそのものである。
 もっと具体的に言うなら、身を守る力を持たない弱き人々が苦しむコトそのものを憎んでいる。
 無気力でやる気など欠片も無かった心には今や暴風雨の如く激情の波濤が押し寄せていた。
 それはこの世界に来てから一度も感じたことの無い感情。
 シン・アスカという男の本能に巣くう感情。「理不尽に対する怒り」という炎だ。
 シンは怒りの形相のままにそこに向かった。
 何が出来るのか。何も出来ないのか。
 足手まといにならないのか。自分は逃げるべきではないのか。
 そんなものは一切関係なかった。考えすら浮かばなかった。
 彼の中にあるのはただ一つ。
 強迫観念のように畳み掛けてくる“守る”と言う願い。
 それを彼は、思い出した。
 自分がどうして生きているのか。その理由を。己にとって初心を。
 思い返すのはあの日のオーブ。散らばる身体。
 右手だけの妹。顔の無い父。臓腑がはみ出た母。
 善でも悪でも関係なく、理不尽に苦しむ人を失くしたい。理不尽な横暴で苦しんで嘆くのは自分だけで十分だったから。
 だから、どんなに疲労してもシン・アスカの疾走は止まらない。身体の命令を心が拒絶し、無理矢理に動かす。

「くそったれ……!!!」

 目的地までは未だ遠く、シンは走り続けた。


「どうして、こんな辺境にまで……!!」

 ギンガはウイングロードを展開し、空中を疾走する。目的地へはもう少し。だが、思うようには前に進めないでいた。
 空を飛行し、街を蹂躙するガジェットドローンⅡ型が彼女の邪魔をしているからだ。高速で移動する飛行機のような形をしたソレはギンガのような陸戦魔導師にとって鬼門のような存在だった。
 ギンガの使う魔法は、以前シンの前で使ったリボルバーナックルによって魔力を高め、拳の前面に硬質のフィールドを形成し、フィールドごと衝撃をぶち込む「ナックルバンカー」に代表されるように、その魔法は主に「格闘」を強化しているものばかり。
 ウイングロードを使用することで空中の敵との戦いは行えるものの、あくまで突撃用。広域への射撃魔法を持たないギンガにとって、援護する――もしくは共闘する仲間のいない単独でのⅡ型の大群など鬼門以外の何者でもなかった。

「これじゃきりが無い。」

 あまりにも数が多いこと。そして前述したように相性が悪い。ギンガは周辺の地形を観察しながら、思考を巡らせる。無論、回避の為に身体は止めずにだ。
 ガジェットドローンⅡ型というのはその見た目どおりにとにかく動きが早い。だが、その代わりに直線的な動きしか出来ない。ありていに言って小回りがまるで利かない。
 思考を加速させていく。小回りが利かない高速移動。攻撃箇所は前方のみ。つまり、決して

「……いけるわね。」

 ――ギンガ・ナカジマの顔色が変わる。鋭く細い視線は明らかな戦士の瞳。
 ふと、シン・アスカを思い出した。
 何も力を持たない癖に、彼は後先を省みずに走っていった。
 それまでとはまるで違うあの様子ならガジェットに生身で喧嘩を売ってもおかしくない。
 だが、彼が向こうの世界でどれほどの実力を持った軍人だとしても、こちらでは魔法も使えない一般人。

 ――それは、ただ死にに行く自殺行為となんら変わらない。

(死なせる訳にはいかない……!)

 心中の叫びと同時にブリッツキャリバーに連絡。返答は問答無用の『Yes,sir』
 直ぐにウイングロードを展開し、その場所に向かう。風切り音と共にⅡ型も追いかけてくる。

「――予想通り。」

 だが、遅い。こと直線に限って言えば、ブリッツキャリバーに敵う者など殆どいない。追いすがれるとすれば同じ系統の、そう彼女の妹――スバル・ナカジマの持つマッハキャリバーのみ。
 鋭く細い鷹の如き視線がⅡ型との距離を推し量る。
 ――その距離およそ数十m。
 頃合だ。そう思ったギンガ・ナカジマはそこで急停止をかける。
 彼女が今いる場所。そこは、ビル街のど真ん中―---彼女が目指した目的地だ。
 そこでは通り抜ける場所が限定され、必然ガジェットドローンⅡ型の動きは“直線的な動き”だけに限定される。振り返り、彼方を向く。リボルバーナックルが回転し、カートリッジロード。
 見れば――引き離したⅡ型がこちらに向かって突進してくる。その数、凡そ20。

「ブリッツキャリバー、いいわね。」
『Yes,sir』

 足元のブーツ――ブリッツキャリバーが答えを返す。
 次瞬、ウイングロードを自分を中心に複数展開。
 それも平面ではなく三次元的に段差を設けて。
 これは自身の行動範囲を広げるライン。これまでのように「走る」為のラインではない。「戦う」為のラインである。
 ラインは蜘蛛の巣のように幾何学模様を描きながら、広がっていく。
 ――小さな構え。腕を折り畳み、ギンガ・ナカジマの瞳は敵を射抜く。
 ひゅっ、と息を吸い込み、踏み込む。そして、ギンガの足元の車輪が唸りを挙げる。
 左拳のリボルバーナックルに再度のカートリッジロード。ガシュンと薬莢が飛び出し、蒸気があふれ出る。そして、ナックルが回転する。
 僅かに身体を前傾に押し倒し――瞬間、ギンガ・ナカジマが弾け飛んだ。否、弾け飛んだかのように突進した。

「はあああああ!」

 裂帛の気合と共にこちらに向かっていたⅡ型が攻撃する前に左拳を叩き込む。拳を叩きつけられたⅡ型は攻撃する間もなく沈黙。その背後が光る。攻撃の為にただ一瞬のみ動きが止まったギンガに向けて狙いを済ました射撃。左右、そして後方のガジェットからだ。
 放たれた射撃。それを彼女は確認することも無く、上空に向かって跳躍――何も無い虚空に“着地”した。そこにあるのは薄く輝く光の道――それは先ほどあらかじめ段差を付けて広げられたウイングロード。そして、それを足場に再び跳躍。
 くるり、と回転し左かかとを方向転換してきたⅡ型に浴びせる。
 その後方に再びⅡ型。跳躍。そして先ほどと同じく段差をつけて作られたウイングロードを足場にⅡ型目掛けて跳躍し、左拳を叩き込む。
 ギンガ・ナカジマがやっていることは実に単純なことだ。
 予め高低差を設けて作られたウイングロードを足場に、相手が攻撃してくる瞬間を見計らって回避し背後もしくは上空を取って攻撃する。ただそれだけ。Ⅱ型はその性質上、前面にしか武器がついておらず、上空・真下・背後が死角となる。
 後はそれを繰り返すだけ。単純な作業しか出来ないガジェットは状況への対応が出来ない為に対応策を練ることもない。いわゆるハメ技だ。

「これで、最後……!」

 左拳を打ち込み、最後のガジェットがその動きを停止する。
 戦闘用に展開していたウイングロードを全て破棄し、彼女は再び爆発のあった場所に向かった。

「……無茶はしないでくださいね、アスカさん。」

 あの無気力なシン・アスカならそんなことはしない。
 だが、多分、無茶をしている。何故だか彼女にはその確信があった。
 最後に一瞬だけ見えた彼の瞳。赤い瞳には焔が宿っていたのだから。



 シンはその場所にたどり着いた時、何をするべきかなど考えはしなかった。彼はただ反射的にその場所に向かっただけだ。
 だから逃げ遅れた人はいるのか、破壊の規模は、原因は?
 そういった基本的な事柄の確認の一切を忘れて、その場に直行した。だから、着く直前になってシンは思ったのだ。どうするべきか、と。
 今更戻ることには意味が無い。もし、戻ってから、逃げ遅れた人がいるとなれば取り返しのつかないことになる。だから、彼が出来ることは逃げ遅れた人がいないかどうかを確認するくらいだった。何とも間抜けな話である。
 自嘲気味に嗤うシン。慌てたせいで空回り。まるで意味が無い。だが、

(いいさ。確認だけでもしてってやる。)

 とりあえず現状ではやれることをやろう。そう思ってシンはその熱気の中に身を晒す。建物の影から出た瞬間、そこは正に別世界だった。
 熱気が呼吸を阻害する。炎が生み出す上昇気流。熱量その物も凄まじくその場にいるだけで、息が苦しくなるほど。
 車はひっくり返り、煙を上げている。空は朱く染まり、火の粉が空から降り注ぐ。
 地獄と言って差し支えない、そこはそんな場所だった。

(酷いな。)

 予想以上の惨劇にシンは胸中で舌打ちする。如何なる方法を用いたのか、この僅かな時間でここまで徹底的な破壊を引き起こすその敵の力量に。
 戦後、シンは兵士として戦っていた際にこういった場面には何度も出くわしていた。無論、その全てが既に廃棄されたコロニー内での出来事ではあったが。だが、それでもここまでの徹底的な破壊というのはそうそうあるものではなかった。
 焔と瓦礫を避けて、赤く染まった道路を歩く。道路の両脇に建てられたビルは軒並み崩壊し、傾くか崩落するかのどちらかだけ。更に酷いものは既に瓦礫が残るのみで殆ど更地と化している。
 周囲に注意しながら歩いていく。崩れているビルや抉られた道路。何かの爆発でも起こったのだろうか。よほどの破壊力を持つ爆弾でもなければこんな結果は生み出せない――いや、魔法と言うものがあった。
 あれならば問題なく出来る……のかは分からないがシンは恐らく出来るのだろうということにしておいた。モビルスーツや爆弾と言った質量兵器を嫌うこの世界では少なくともそれ以外には考えられない。
 そして曲がり角に指しかかり、シンはそこを曲がろうとした――瞬間、動きが止まり、慌ててその場に身を隠した。

(何だ、あれは)
 そこには一人の人間がいた――いや、人間かどうかは定かではない。
 ただ、見えた姿はそうとしか思えなかっただけで――けれど、それは人間とは懸け離れた存在だったが。
 ソイツは蒼かった。
 蒼い――蒼穹というべき青。白混じりの蒼。全身を覆うは甲冑。
 鋭利に尖り、優美に曲がり、一目見て目を奪われるほどの造形。
 世辞を抜きにして、ソイツは美しかった。機能美などあるはずも無い姿でありながら、ソイツはそれ以外の姿を許されない。
 およそ2mほどの体躯。その体躯に比べて腕や足は細く長い。背面から突き出した翼を思わせる二対の羽金。そして腰に差し込まれた二挺の銃。
 鎧騎士。それを表すとするならその言葉が適当だろう。無骨さなど欠片も無く、優雅さすら忍ばせた華麗な“騎士”。
 その鎧の白混じりの蒼穹を見てシンはふと似ていると感じた――それはどこか、自分がいつか倒したあの機体を思い返させる、と。自由の名を冠した前大戦で最強を誇ったモビルスーツ。
 ――フリーダムを。

「……ぁ」

 ソイツが、上を向く。背部の羽金が変形する。その変形は機械が変形するのとはまるで違う――変形というよりは再構成。そういった方が良い変化だった。
 砲身を形作り、構成されていく羽金。その間、僅かに数瞬。間髪いれずに放たれる白光。光熱は一瞬で、世界を激変させる。
 熱風が飛び交う。立ち昇る熱風は旋風を生み出し、粉塵を巻き上げ――一瞬、世界が粉塵に覆われた。そして、その只中でシンは見た。
 ガラス状に融解したビルを。

「…………」

 それを見て、シンは瞬時に察した。眼前に佇む蒼穹の翼持つ鎧騎士。ソレがこの惨状を作り出した元凶なのだと。
 ガラス状になるほどに融解したビル。それは一体どれほどの高温で熱せられたと言うのか。
 シンの体からいきなり冷や汗が流れた。生唾を飲み込む。目が見開いた。

(まずい。)

 身体が動かない。思考もまるで働かない。今まで一度もこんなことは無かった。
 元の世界で戦っていた時もこんな風に――「恐怖で動けなくなること」など一度も無かった。
 真の恐怖に出会った時、人は震えることすらしない。ただ、停止する。極限の怯えは肉体の活動よりも延命を選択させるのだ。隠れ、逃げることで一分でも一秒でも長く生きる為に。
 今のシンが正にそれだ。一目見てシンは理解する。
 治安維持の為、その前は復讐と平和の為、何度も何度も戦い続けてきた。
 その膨大な戦闘経験がシンに告げたのだ。
 コレに触れるな、と。
 “生き物”としてのレベルではなく、ステージが違う。例えるなら、蟻と象。比べることも馬鹿馬鹿しいほどの絶対的な差がそこにはあった。

「……っ」 

 蒼穹の鎧騎士がこちらを向いた。いつの間にか背部の砲身は羽金に戻っている。
 シンの背筋を怖気が走る。シンはじっと息を潜め物陰に隠れ続ける。冷や汗が止まらない。心臓の鼓動がやけに煩い。シンはソレの一挙手一投足からまるで眼が離せない。恐怖と、そして絶望で。

 ――ソレが歩き出した。動き出す。

 ソレはシンに気付かなかったのか、彼の前をゆっくりと通り過ぎていき、そして、ソレは右手を振り上げる。
 何をする気なのか。シンはそう思い、眼をこらす。
 今度は、右手が変形――“再構成”されていく。
 その姿は剣。それも大昔西洋の騎士が使ったと言う片手剣――サーベル。
 そして、シンはそこで気付いた。
 それの振り下ろす先には、気絶しているのか、うつ伏せに倒れている小さな――凡そ年のころ9、10歳の少女がいることに。

(……え?)

 心中で間抜けな声が上がった。
 ドクン、と心臓が跳ねる。鼓動が大きく耳の奥で鳴り響く。

 ――間違いない。ソイツは、その少女を殺そうとしている。

「……ぁ」

 止めろと口にしようとしても声が出ない。止まってしまった身体と同じく、恐怖で口が開かない。
 少女は死ぬだろう。確実に。剣は明確に子供の心臓を貫く。万が一、億が一にも外すようなことはない。

(俺は)

 かちり、と、シンの頭の奥でチャンネルが切り替わる。
 瞳に今を映すチャンネルから、思いの過去を写すチャンネルへ。

 ――焼け焦げた丘。家族は吹き飛んだ。父は死に、母は死に、妹は死んだ。残されたのは妹の右腕と唯一の形見へと成り上がった携帯電話。
 自分は叫んだ。力が欲しいと。不条理をぶち壊し、理不尽を駆逐し、平穏を押し付ける絶対的な力を。

 ――チャンネルが切り替わり元に戻る。そこには剣を振り上げた蒼穹の鎧騎士。
ソレに怯えて動けないでいる、無様で惨めで生き汚い汚泥の如き自分自身。

(俺は)

 止められない。止められない。止めることなど出来はしない。
 無力だからだ。無力な自分は此処でこうやって怯えて生きるしかない。

 ――がん、がん、がん、がん、がん、がん。
 頭痛が走り出す。ハンマーで何かを殴るような音が鳴り響く。

 ――ガチガチガチガチガチガチガチガチ。
 身体の震えが止まらない。さながら虫の羽音のような音が鳴り響く。
 頭の中はさながら大合唱。まるで大音量のライブハウスの中にでも放り込まれたよう。

 痛みが教えることは一つだけ。震えは告げることも一つだけ。
 救え、と。それが答えなのだ、と。
 目前で行われようとしている光景。シン・アスカが望むモノはその中にしか存在しないのだと。
 怯えを殺せ。恐怖を殺せ。命など捨てて、全てを「守れ」。
 恐怖と保身から助けられたかもしれない命を見殺すくらいなら、守れなかった後悔で身を切り裂かれるくらいなら、死傷の痛みの方がはるかに良い。

(俺は)

 唐突にシンの呪縛が解ける――何故か。
 何故ならば、目前で起こるソレを止めること、それこそがシン・アスカの積年の望み。
 積み重なり、澱のように沈殿した願望――「誰かを助けたい」という常軌を逸したヒーロー願望。
 シン・アスカはそれを成就する為「だけに」これまで生きてきた。そしてそれはこれからも変わることなく。

(俺は)

 何かが割れる音がシンの中で鳴り響く。
 それは、戦時中、幾度もシンを救ったあの感覚。シンの瞳から焦点が失われる。同時に張り巡らされていく全能感。

 ――今、此処にシン・アスカは蘇る。

「――う、」

 声が弾けた。足が動く。身体が動く。思考など既に置き忘れた。

「うわああああああ!!!!」

 迸る咆哮。血走る瞳。裂けんばかりに広がった口。
 憎悪と怒りが燃え上がったその表情は、焦点を失った瞳と相まって悪鬼を思わせる邪悪で苛烈な顔だった。
 シンの雄叫びを聞いて、ソレはシンに気がついたらしい。
 彼の方へ振り向き、剣を構え――その時にはソレの懐に入り、右足を両手で掴み、思いっ切り――柔道で言う、すくい投げの要領で投げた。
 ソレはバランスを崩し、後方に倒れる。
 そのまま馬乗りになると相手の首の部分を左手で掴み、全身全霊を込めて握り締め、そして残っている右腕を振りかぶり――殴りつけた。

「あああああああ!!!」

 叫びながら一発といわず何発も連続で殴りつける。
 硬い鎧で拳が割れようと、まったく痛みなど与えていないとしても、構わない。何度も何度も殴りつけた。引き出せるだけの力で思いつくだけ殴り続ける。
 シンの右拳は自分の血で赤く染まり、掴んでいた左手からも同じく赤い血が流れ出ている。
 だが、それがどうしたとばかりにシンの拳は止まない。

「うううう、ううううう!!!!!」

 獣のような唸りを上げ、今度は両手でソレの首を締め付ける。細身ながらもシンの身体能力は鍛え上げられた結果としてかなり高い。少なくともスチール缶を片手で握り締める程度には。
 その、全身全霊を賭して、シンはソレの首――鎧ではなくその継ぎ目――を両手で握り締める。
 呼吸を止める為にではなく首の骨ごと“折る為”にだ。
 だから首と身体の繋ぎ目を狙った。どんな硬い鎧を着ていようと関節部分は絶対に脆くなる。
 それはモビルスーツだとて例外ではない。
 事実、今触っている感触だとて、殴りつけた鎧のように鋼の感触ではなく柔らかいゴムのような感触。
 首を狙ったのは本能によるものか、それとも考えてのことか。それは定かではないが、それはこの時点でシンが出来る最上の殺害方法。つまるところ、先手必勝考える間もなく殺す。
 だが、全力で首を絞めているにも関わらず、ソレには苦しむ様子がまるで無い。否、苦しむどころかソレは右手を挙げて、シンの額に触れ――ソレの右腕が僅かに動いた。
 優しげに触れただけの右手はその瞬間、シン・アスカの肉体を軽く“押した”。見た目には軽く触れただけのような――赤子を撫でるような優しさで。
 だが、その優しげな手つきから生まれた力は、剛力などと言う言葉を馬鹿らしく思うほどの、怪力だった。

「うおおお!?」

 叫びと共にシンは吹き飛んだ。軽く力を込めて押されただけで、数mほどの距離を吹き飛ばされ――そして、落ちた。地面に激突する瞬間、わずかばかりに身体を捻り、何とか受身を取る。
 硬いアスファルト舗装の上に叩き付けられるシン。交通事故にでもあったような衝撃がシンの全身を殴打する。だが――血走った目で、荒い息を吐きながら、鼻血をぼたぼたと流しながらも、彼は直ぐに立ち上がった。痛みなど感じていないかのごとく。

「はあっ!はあっ!はあっ!はああああ!!!」

 再び突進。ソレは面倒そうに剣を振った。いきなり現れた異常者。そんな風に思ったのだろう。事実、今のシンは健常者とはとても言えない。
 迫る剣。面倒そうとは言ってもそこに込められた力はシン如きの肉体など易々と破壊するほど。
 だが、シンはそれを身体を僅かに前傾させることで回避する――ボクシングで言うダッキングだ。
 紙一重の差で剣はシンの背の上を通り抜けていく。

「ほう?」

 ソレから初めて声が発せられた。どこか知性的な、されど嫌らしさを滲ませた声。その声には驚いているような調子があった。
 シンが右手を振り被る。狙いは先程と同じ首と体の継ぎ目。どこが脆いか、どこが強いのか。
 そんなこと調べる暇も力もない。だから彼に出来ることはソレを繰り返すだけ。

 愚直に、ひたむきに。
 ただ、力任せに殴る以外に無いのだから。

「うわああああああ!!」

 右拳が当たる。その次は左拳。拳戟は止まない。幾度も幾度も、シンはソレを殴りつける。
 だが、まるで効果は無い。当たり前だ。シンは鎧の上からただ力任せに殴りつけているだけなのだから。
 だから、ソレは面白くも無さげに剣を振りかぶる、その鎧騎士のちょうど瞳の部分にある窪み。そこに白い光が灯る。猫の瞳が輝くように、ソレの瞳が開き、輝く。
 瞳は静かに告げる。
 ――死ね。

「あ――」

 本能が恐怖を覚え、肉体は硬直しようとし――されど、理性はそれら全部を裏切って、彼の身体を目の前の鎧騎士に向かって“押し出した”。

「あ、あ、あああ!!」

 振り下ろされる剣。それに向かって、シンは更に殴りかかった。
 ソレもさすがに驚いた。自殺志願としか言いようが無いその所業に。

「ああああああああ!!!!」

 そして、それまでよりもひときわ大きな叫びと共にシンの右拳がぶち当たる。
 拳程度でソレは微動だにしない。決して、ダメージなど受けることは無い……はずだった。
 だが、ソレがよろけた。シンの拳の一撃で。先ほどまでは何の痛痒も感じなかったソレが初めて、“動いた”。

「くっ」

 たたらを踏んで、後方に倒れ込もうとする身体を、剣を支えとすることで倒れ込むのを防ぐソレ。呆然と――無論、外側からはその表情は見えないが――シンを見る。

「はあっ!!はあっ!!はあっ!」

 止まらない鼻血。全身を襲う殴打の痛み。歯を食いしばり、唇を噛み切って、それでも耐え切れないほどの激痛。けれど、それを全て振り切って、彼は再び視線を向けた。
 鋭く、苛烈な、焔の瞳を。

「……」

 ソレは静かにシンを見つめていた。彼の拳、それが朱く燃えていた。彼自身はまるで気付いていないようだが――それともそんなことは初めから“どうでもいいこと”なのか――炎は朱く、高らかに燃え上がっている。
 両手に灯る大きな炎。デバイスも詠唱も無しに資質だけで無意識に起こした魔法。

「……ふむ、中々面白いことをするじゃないか。」

 ソレが口を開く。流される言葉はどこか軽薄な響きを感じさせる。しばしの睨みあい。そして、ソレが上空を見て、口を開いた。

「……来たか。」

 シンも血走った目で空を見た。そこには、この間、ゲンヤの部屋で会った八神はやてが浮かんでいた。白と黒を基調としたバリアジャケット。背中に生える3対の黒き羽。そして、手に持つは魔法使いの杖。

「八神、はやて……?」
「アスカさん、その子連れて離れてや!」

 その言葉を聞いてシンは直ぐに子供を抱えて、その場から飛び退くようにして離れる。瞬間、はやては呟く。

「いくで、リイン!」
『まかせるですぅ!』
「――仄白き雪の王、銀の翼以て、眼下の大地を、白銀に染めよ。来よ、氷結の息吹。」

 高らかに謡われる歌。それは詠唱。即ち、魔法を使う為の言霊。魔力が収束し、形を為す。
 生まれ出でるは幾何学模様の魔方陣。重なり、回転し、そして。

「氷結の息吹(アーテム・デス・エイセス)!!」

 はやての周囲に出現した4つの立方体から幾つもの光が放たれる。放たれる光、それは光ではなく、圧縮された気化氷結魔法。
 放たれた光は着弾した瞬間、着弾地点の熱を一気に奪い取り凍らせ、氷結へと導く。

「す、げえ」

 呆然とシンはその光景を見つめる。はやてが放った魔法は付近一帯を鎮火……いや、凍結させていた。燃え上がっていた街は一瞬で白く凍った世界となり、阿鼻叫喚は極寒の地獄へと変化する。

「アスカさん!大丈夫ですか!」

 いきなり腕を掴まれ、シンは振り向いた。そこには、ギンガがいた。出会った時と同じ格好でこちらを睨んでいる。

「アンタは……」
「ここは八神二等陸佐に任せて速く!!」

 そう言ってシンが抱えていた子供を奪い、彼の手を取ってギンガは叫んだ。
 手をひっぱられるシン。上を向けば、はやては以前としてあの鎧騎士に向かって氷結魔法を放ちながら、付近の鎮火を行っている。あの鎧騎士は沈黙している。確かにあれほどの魔法の直撃を受ければ、どんな生物であろうとも動きを止めるのは間違いない。

「……分かった。」

 ギンガの言うとおりだった。自分がここにいても意味は無い。危険すぎる上に足手まといになるだけだ。既に炎の消えた拳を握り締め、無力を痛感する。
 力が無いと言うのは、つまりは何も出来ないのと同じことなのだ。自分ひとりではこの子供一人助けることも出来なかったのだから。

「……アスカさん?」

 そんなシンを怪訝に思うギンガ。どこか助けてもらったことに不満そうな、駄々をこねる子供のような。そんなこれまで――とは言っても2週間にも満たない期間だが――見たことの無い表情を見せたシンを。



[18692] 3.願い
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/10 08:58
 世界は残酷だ。
 誰も自分を救ってくれなかった。
 世界は残酷だ。
 誰も自分を見てくれなかった。

 “だから”世界は残酷だ。だから、こんな世界など滅んでしまえばいい。

 それが、彼の――ラウ・ル・クルーゼの切なる願いだった。


「それでも!!守りたい世界があるんだあああ!!!」
 返答ではない、ただの叫びだ。決して、その言葉に意味など無い。
 そこにあるのはただ私が放った 言葉への反応。
 決して、質問への返答ではない――無論、自分の言葉も質問になどなっていないのだからお互い様ではあったのだが。

 目前に迫る光の刃。仮面が壊れた。熱量が跳ね上がった。
 溶けていく。世界が。自分が。終わる。
 断末魔の声など上げる暇があればこそ。その時、自分は死んだ。その確信があった。
 死。細胞が燃焼した。骨が折れた。頭蓋が破裂した。ヘルメットに弾けた脳漿。世界が消えた。

 ――たかが、ヒーローごっこをしようとしていた人間に私は完膚なきまでに殺された。それも、人類最高の才能と言うふざけたモノの前に。

 後悔があった――違う。ソレしかなかった。
 伸ばしたモノに手は届かなかった。
 世界は私のモノにならなかった。
 怒りなど無かった。結局、人の人生を決めるのは才能なのだ。遺伝子調整などと言う神への冒涜。その前に私は敗れた。
 もう、何もかもがどうでも良かった。

 ――思考することさえ出来ない死の中で私の意識は拡散していった。
 願わくば、今度こそはもっと“まともな”人生を。それだけを願って。


 ――おかしなことに“目覚めた”。
 おかしなことに、と言うのは他でもない。死んだ人間が目を覚ますなどと言うこと自体がおかしいのだから。
 目が覚めれば見えたのは、にやついた瞳と釣りあがった唇。
 次の瞬間、耳に入り込んできたのは肌を舐めるような怖気を奮う鳥肌すら立たせようとすら、嫌らしい声。
 声の主は自分に聞いた。

「君を助けてやろう。その代わり、君は私に力を貸してくれないか?」

 自分は、返答しなかった。その男は沈黙をイエスと捉えたのか、勝手に自分を助け、力を与えた。自分にとってそんなことはどうでも良かった。
 心中の思いは一つ。

 ――また、ろくでもない人生が始まりそうだ。

 その、一つだけの絶望だった。



 月日が流れた。数ヶ月か、それとも数週間なのか。そんなことはどうでも良かった。時間の感覚など、ひたすらにどうでもいいことだったからだ。

 ありていに言って、その時から彼は死んでいたからだ。
 あの瞬間、人類の最高傑作と名高いスーパーコーディネイターと戦い、敗れた瞬間から彼の心は完全に折れてしまっていた。願いを叶えることは出来なかったからだ。
 世界を滅ぼすことも、人類の驕りそのものとも言える彼を殺すことも、結局、何もかも為すことの無いまま彼は死んだ。
 苦痛や悲しみは無かった。あったのはただの虚無。自分がこの世界において、何を為す事も出来ないと言う虚無だった。
 けれど、皮肉なことにその虚無があったからこそ、彼は生き残ることが出来た。
 死んだ人間が生き返るなどと言うことはありえない。いわんや別世界に来て生き返るなどと言う御伽噺など、ただで起こり得るはずが無い。
 毎日毎日着替える度に見える、自分の身体。ところどころに機械が“現出し”、胸の中心で薄く輝く心臓――レリック。
 彼は助かる為に――自分では望んでもいなかったが――人間の身体と言うモノを捨てなければならなかった。

 人として生きる為に人を捨てる。
 彼を助けた人間は助かったことを喜びもしない彼に何も言わなかった。
 ただ、自分の行った処置が上手くいったことに満足した――そんなご満悦な顔をしていた。

 彼は、人間では無くなった。
 男が言うにはデバイスであり、人間であると言う。
 人類における初の試み。その初の成功体なのだと。意味が分からなかった。知ろうとも思わなかった。どうでも良かった。

 その無気力の虚無があればこそ、その人間では無くなった虚無に対応出来た。
 そして、その虚無があればこそ、彼は日に日に腐っていった。
 前にも後ろにも進めない無限の停滞――少しずつ腐食して行く日々。

 早く誰か私を殺してくれ。ずっと、そう思っていた。

 ――今日、この日までは。


 空中から間断なく放たれる氷結魔法。規模からして恐らくはオーバーSランクの魔導師だろう。
 鎧の中でソイツはそろそろいいかと考えた。
 耐えろと言うならこの、“身体”は幾らでも耐えられるだろうが、いい加減ソレにも飽きてきていたし、欲しかった「結果」は予定通りだった。
 そして、そこでこの付近に潜伏しているように伝えていた、部下の一人に念話を送ろうとし――その部下から逆に念話が送られてきた。

『一つ、いいかね?』

 声の調子は、どこか押さえ切れないモノを抑えられないと言った、まるで誕生日のケーキを前にした無邪気な子供のように、“逸っていた”。そして“昂ぶっていた”。
 鎧の中でソイツは逡巡する――だが、別に構わないかと思い、答えを返した。面白くなってきた。そう、思って。

『……何かな?』
『手助けをしても構わないかい?』

 声の調子は先程よりも強く、強く、抑え切れない熱を感じさせる。
 鎧の中のソイツは、背筋を這い上がる鳥肌を抑えられない。
 口元に浮かび上がる笑みを押さえられない。
 面白い。面白い。
 愉悦が身体中を走り回る。
 何事があったかは知らないが、無気力一辺倒であったこの男に焔が灯ろうとしていること――それが面白くて。
 けれど、そんな感情を一片も表に出すことなくソイツは続ける。

『君が……かね?これはどうした風の吹き回しだい?』

 返す声には愉しみが混じっていた。
 そう、暴虐の限りを尽くすことに悦びを感じる人類最低の、汚泥よりも尚汚い廃棄物の如き愉悦が。

『なに、気まぐれさ……狙いはあの少女で構わないんだね?』
『ああ、出来れば生かしたまま撃ち落してもらえると助かるんだが。』
『……了解した。』

 念話を切って、シツは笑いを抑えられなかった。

(面白い――やはり、腐った人間ほど面白い。)

 ソイツは鎧の中で思いを馳せる。これから起こるであろう惨劇に向けて。

(さて、彼女たちはどうやって“回避”するのかな?)


「……不愉快なことだ。」

 男はまだ倒壊していなかったビルの屋上に現われた。男の名はラウ・ル・クルーゼ。
 シン・アスカと同じ異世界からの異邦人である。美しく艶めいた金髪。
 身長は180を少しばかり超えている肉体。以前はトレードマークとすら言えた仮面を今はつけていない。
 その顔は、彼の大本であるアル・ダ・フラガと同じであり、シン・アスカの親友であったレイ・ザ・バレルと同じ顔。
 彼は心底忌々しそうに、“嗤い”ながら、呟く。

 先程のシン・アスカの戦い。
 ここから全てを俯瞰していた彼には全てが理解できた。
 あの男は、身も知らぬ少女の為に命を懸けて、戦いを挑んだのだ。

 シン・アスカ。己と同じ世界より現れた異邦人。
 管理局内部の間諜から得た情報によると、ザフト所属の人間だと言う。
 そして、彼が乗っていた見たことも無いモビルスーツ――恐らく彼は自分よりも未来のザフトからこちらにやってきたのだろう。だが、それはどうでもいい。そんなことはどうでもよかった。

 大事なのはそんなことではなかった。
 シン・アスカ。
 その経歴。それは自分と――ラウ・ル・クルーゼと同じく自分勝手な個人主義である。

 家族を戦争で失い、オーブからザフトへ流れ、アカデミーへ入学。
 そして、その中で自分の専用機を得るまでに成長した少年。
 少年はその後、再び起こったザフトと地球連合の戦争に駆り出され破竹の戦果を上げ――そして、彼は戦争に敗れた。
 その後、彼は敵に乗っ取られた自軍――ザフトに再入隊し、軍務に励み、そして、最後は殺され、此処に来た、と言う。

 目的が違うだけでやっていることは自分と何も変わらない。
 ヒーローになりたがるも、なれるはずがない。
 何故なら彼は「特別」とは程遠い人間だからだ。
 CE世界の戦争とは極論を言えば、ヒーローごっこをしていた人間が世界を救った。
 それだけに過ぎない。
 彼ら、ヒーローごっこをしていただけの人間がヒーローになれたのは他でもない。
 コーディネイトと言う戦争そのものの発端と言う技術の結果だった。
 つまりは、彼らはなるべくしてなったのだ、ヒーローに。
 努力もあるだろう。研鑽もあるだろう。だが、本質的には、彼らはただ単純に出来て当然の結果としてヒーローになったに過ぎない。

 だから、彼はヒーローになどなれない。彼にはそれだけの才能が無いからだ。
 キラ・ヤマトは言わずもがな。
 アスラン・ザラ、イザーク・ジュール、ディアッカ・エルスマン。
 彼らは全てプラントでも資産家の息子だった。
 コーディネイトとは基本的に高額であればあるほど大きな効果を発揮する。
 アスラン・ザラなどがあの若さであれほどの戦闘技術を誇っていたように。

 シン・アスカにはソレがない。ただの戦災孤児だ。だからヒーローになどなれるはずがない。精々主役ではなく端役がいいところだ。
 なのに、何故、この世界に来てまで足掻き続けるというのか――決まっている。自己満足の為だ。

 あの瞬間、シン・アスカは全てを捨てて、少女を救うために走り抜けた。

 自身の命などどうでもいい。助けられるならば、“守れる”ならば何も必要ない、と。
 ――その姿が酷く癇に触った。殺人者でありながら、重罪人でありながら、聖者にでもなったつもりなのか、と。

 ぎりっと奥歯をかみ締める。仮面をつけていないクルーゼの瞳に焔が灯りだしていた。
 焔の名は嫌悪。認められないモノ、自身とは決して相容れないモノへ抱く生理的な嫌悪だった。

 彼は――ラウ・ル・クルーゼは折れた挙句に失敗した。
 だが、シン・アスカは折れそうになっても、構わずに走り抜けた。人を守ると。それ以外は全て雑多でしかないと。

「……不愉快だ。」

 まったくの逆恨みでは在るが――その姿勢その態度は彼を嘲笑っているように見えた。
 “お前には出来ない”、と嘲笑っているように。

 ラウ・ル・クルーゼの願い。それは、“八つ当たり”である。
 自分を拒絶した世界。
 そして、自分とは逆に世界に愛されたモノ全てへの、厳粛とした“八つ当たり”である。
 俗物根性のみで構成されるその憤怒こそがラウ・ル・クルーゼの原風景。

 世界を変革するなどそんな大それた目的はどうでもいい。ただ、自分を苦しめた奴らを苦しめ返せればそれでいいと言うだけの感情。

 男は懐から、仮面を取り出した。今はもう付けていない――付ける必要など無い仮面を。

 ラウ・ル・クルーゼにとって“八つ当たり”とは正当なモノ。正当な“逆恨み”なのだ。
 シン・アスカはその“正当”を著しく、傷つけている――だから、彼は憤怒する。その胸で虚無として燻っていただけの憎悪に火が灯る。

 仮面を顔に付けた。
 アル・ダ・フラガのクローンとしての顔を隠す為ではなく、ラウ・ル・クルーゼがラウ・ル・クルーゼであるが為の“儀式”。

「――君は不愉快だ。」

 顔は忌々しげに歪み、唇は釣りあがり、微笑みを形成する。
 その笑みは見る者全てが顔を背けるような汚らしい微笑み。
 そこに映る感情は虚無と絶望。そして、“逆恨み”。
 絶望を嗤い、全てに八つ当たりせずにはいられない俗物極まりない醜悪の微笑み。

 此処に――ラウ・ル・クルーゼが蘇る。醜悪に。汚らしく。そして、何よりも――華々しく。

「――プロヴィデンス、セットアップ。」

 呟きと同時に彼の肉体に“変貌”が始まる。
 時間は数瞬。されど、一度見たならば決して忘れられぬであろう、その“変貌”。
 クルーゼの肉体に灰色の光が奔る――毛細血管のように細く、そして回路のような幾何学模様の光。
 全身から灰色の液体が流れ出る。同時に辺りに立ち込める濃密な匂い――血液の匂い。
 その液体は色こそ違えど紛れもない血液。
 灰色の人にあらざる血液がラウ・ル・クルーゼの肉体から流れ出ている。粘り付くような醜悪さと鼻に絡みつくような嫌悪を伴わせて。
 単細胞生物の生命活動のように蠢きながら灰色の血液が、ラウ・ル・クルーゼの全身を覆っていく。

 覆われていくその姿。
 例えるなら、多くの蛇が彼の身体中に噛み付いているようにも見え醜悪なおぞましさを強調する。。
 灰色の血液は服を飲み込み、仮面を飲み込み、靴を飲み込み、ラウ・ル・クルーゼと言う人間の全てを飲み込んでいく。
 その中にあって、ラウ・ル・クルーゼはただ狂ったような微笑みを浮かべていた。亀裂を貼り付けたような嗤いを。
 変貌は収束を迎える――そこにはラウ・ル・クルーゼの原型などまるでありはしなかった。
 子供が粘土細工で作ったようなノッペリとした顔の無いヒトガタ。
 灰色の光が今度は彼の身体の外側を走り抜けた――所々が鋭利なヒトガタを描いて。それはどこか、モビルスーツを連想させるような軌跡だった。
 そしてその軌跡に従い、灰色の血液が、蠢き始める。軌跡は設計図。そして血液は装甲。

 ――さあ、始めよう。世界を股に掛けた“八つ当たり”を。

 心中の呟きが終わり――その時には“変貌”は既に終わっていた。
 そして現れたのは灰色の鎧騎士。それはどこか、モビルスーツ・プロヴィデンスを髣髴とさせるシルエットだった。張り出した肩。スマートなデザイン。ただ違うのは背後のバックパック。モビルスーツ・プロヴィデンスほどに巨大ではなく、小型化している。
 それがプロヴィデンスを髣髴とさせながら違うと思わせている。
 セットアップと言う言葉から察するに“恐らく”バリアジャケットなのだろう。
 だが、それはバリアジャケットというには、そこに至るまでの過程があまりにも禍々しかった――見たもの全てが嫌悪を示す程度には。

 その名を「ウェポンデバイス」。
 技術者ではないラウ・ル・クルーゼはこれに関しての詳細を知らない。
 だから、彼が理解していることは一つだけ。
 これは、「モビルスーツとデバイスと人間を融合させたモノ」である。
 それが必要となった背景など彼は知らない。

 現在のラウ・ル・クルーゼの姿は戦闘用――つまり、内面に収納していた機体を外界に展開した姿だ。
 “意図限定の小規模次元世界の作成”と言う技術を利用することで、展開された小規模次元世界に装甲及び全ての機械を収納し、展開した姿。プロヴィデンスと似て非なる姿となるのは当然だ。表から見える部分はあくまで一部分に過ぎないのだから。
 流れ出た灰色の液体はプロヴィデンスそのものであり、ラウ・ル・クルーゼそのもの。身体を奔った灰色の光はモビルスーツ・プロヴィデンスの設計図であり、デバイス・プロヴィデンスの設計図。
 レリックウェポンの一つの究極。
 誰が、どこで、どうして、そんな技術を手に入れたのか。
 そんなことは誰にも分からない。それに元よりラウ・ル・クルーゼはそんなことに興味を抱かなかった。そう、どうでもいいのだ。

 大切なのはコレが比類なき力を与えてくれること。
 それによって、彼は全てに“八つ当たり”する力を手に入れていると言う事実。それこそが大事なのだから。

『――ドラグーン』

 ラウ・ル・クルーゼは呟く。その声は壁越しのように少しだけしゃがれた声に変化していた。
 そして、その呟きと共に背中に浮かび上がる魔方陣。そしてその中から浮かび上がるようにして現れるプロヴィデンスのドラグーンに酷似した西洋の槍――ランスの如き突起。
 それが浮かび上がり、彼の目前にまで移動する。

『すまないな、君に恨みなど欠片も無いが……』

 言葉と共に右手を八神はやてに向け――止めた。
 浮かび上がった突起が彼の眼前にまで移動する。彼はその“ドラグーン”と呼ばれた突起に手を触れ、

『――愉しませてもらおうか。』

 冷たく、言い放った声には言葉の通りに愉悦と、そして憤怒が込められていた。
 その憤怒は全て己が為の憤怒。まるで関係ない誰かにぶつけるただ一つの感情。
 声に呼応するように、“ドラグーン”は彼女に向かって高速で飛行し、そして――その姿が変化する。
 その速度は正に弾丸。そして、その大きさは先程までよりも大きく、大きく、“5mを超える”サイズへと変化する。それは、モビルスーツ・プロヴィデンスが戦時中に使用していた“ドラグーン”そのもの。大きさも、見た目も、何もかもが同じモノ。

 ――墜ちろ。

 ラウ・ル・クルーゼの仮面の下で邪悪な笑顔が咲き誇っていた。


 ――瞬間、リインフォースⅡは“それ”を索敵した。
 信じがたい速度で迫る巨大な――少なくとも数m以上と言う馬鹿げた質量を感知する。

「はやてちゃん、下方より高速で飛来する物体があります!これは……!?」

 はやては咄嗟にリインフォースⅡが示した方向に向かって、防御魔法を展開――シールドを張る。
 さほど得意ではないもののどれだけかは持つだろうと思っていた……だが、飛来した物体がその勢いそのままに“放った”魔力弾を止めた瞬間、凄まじい衝撃が発生した。
 一撃だった。たった一撃でそのシールドは意味を失った。
 だが、彼女はその事実よりも目前に現れた物体――その姿にこそ驚愕する。

「ブラスタービット……!?」

 驚くはやて。それはそうだろう。それは、“あの”高町なのはの切り札。ブラスターモード時に展開されるブラスタービットにどこか似ていたモノだったからだ――だが、その大きさは比較にもならない。

 目前に現れたソレ。全長は5mを優に超えている。一見したところ自動車くらいのサイズがあると思って良い。そしてその先端に開いた穴から放たれる一撃の威力は比類なきモノだ。これまで、一度も“感じたことがない”ほどに。
 背筋に冷たいものを感じながら、現状、構築した全ての魔法を破棄し、八神はやてはその場を離脱する。
 だが、それはまるで自立した一基の兵器であるかの如く飛行し、はやてに近づく――砲口は今も彼女に向けられている。緑色の光が灯った。

「次弾来ます!!」
「くっ……!!」

 緑色の光刃が彼女がそれまでいた場所を突き抜けて行く。何発も何発も。
 避け続ける。声を出す暇すらない。彼女は逃げ続ける。ただ、ひたすらに。
 止まれば死ぬ。その事実に恐怖すら覚えながら。


『一基では足りないか。』

 上空で、はやてが必死に避け続けている様を見ながら、クルーゼは呟き、そして彼の背中に先程と同じように魔方陣が浮き上がり、そこからもう一基、這い出てくる。
 浮かび上がるは新たに一基の突起――その名はドラグーン。

『さあ、踊ってくれたまえ。』

 新たに浮かび上がった一基のドラグーンが飛翔する。風を切り、八神はやてに迫る。
 先程と同じように駆け抜ける間に巨大化し、凡そ5mほど――つまりはプロヴィデンスの背中に配置されていた姿に舞い戻っていく。
 放たれる光熱波。その致死の雨を放つ瞬間、彼は再び唇を吊り上げた。
 優美な口調とは裏腹の、どす黒い汚泥のような微笑みを。



 ――新たに飛来した先程と同じカタチをした一基の巨大な突起。
 それが初めから彼女を追い掛け回した巨大な突起と連携し、囲まれた瞬間、はやてが考えたことはまず現状からの離脱方法。次に防御方法。最後にそれらに対する諦めだった。
 動きながら、けれど決して穴を生み出さない絶対の連携。
 それと同時に自身の上下左右前後の視界全てに回り込みながら放たれる魔力弾――確信は無いが恐らく魔力弾であろう――の連撃。
 回避方法は無い。先程、防壁は一撃で壊れた。故に二撃と三撃と続けば、防ぎきれる道理は無い。離脱は無理だ。この包囲から抜け出るほどの速度を自分は生み出せない。
 ならば、殲滅魔法で一気に消し去る……構築や詠唱までの時間が足りない。考えるまでも無く不可能。

 結論は簡単に出た。
 眼前の巨大な二門の砲口に緑色の光が灯る。

(私、死ぬな)

 あまりにもあっけない結末。駄目で元々、そう思って残された時間で注ぎ込めるだけの魔力を全て防御に回し――視界が閃光で埋め尽くされた。


 爆炎がはやてを覆い付くし、クルーゼの方からは何も見えなくなる。
 だが、確かめるまでもなく、撃墜した。
 手応えを感じ取り、彼は彼女を撃ち落としたであろうドラグーンを此方に戻すことに決め、呟いた。

『終わったが。』
『さすがはラウ・ル・クルーゼと言った所か。では、戻って休んでくれたまえ。』
『……そうさせてもらうとし――』

 彼の背筋を寒気が走り抜けた。肌がざわついた。

「紫電」

 瞬間、クルーゼはその巨体に似合わぬ速度でその場から一瞬で凡そ3mほどの距離を飛び退く。

「一閃!!」
 次瞬、上空から振り下ろされた炎熱の剣が一瞬前まで彼がいた場所に激突する。
 赤い髪を後ろで縛ったその女性。それは八神はやての守護騎士であるヴォルケンリッター、シグナムとその愛剣である炎熱の魔剣レヴァンティン。
 自身を攻撃した者が何者か、クルーゼが認識した時、彼は自身のすぐ後ろに気配を感じた。反射的にその場から離れようとし、動きを止める。
 彼を覆う灰色の鎧――その首筋に当たる部分に金色の刃が当てられていたからだ。

「抵抗はやめなさい。時空管理局のものです。」

 低く静かな声。そしてクルーゼの首に黄金の刃を押し当てる金髪の女性。
 八神はやての友人にして機動6課ライトニング分隊の隊長フェイト・T・ハラオウンだった。
 そしてそれから少しばかり離れた場所に槍を構えたエリオ・モンディアルとキャロ・ル・ルシエ、彼女の使役する竜フリードが空中に浮かんでいる。
 彼らも油断無く、クルーゼを睨み付けている。

「動かないで。動けば、反抗の意思有りとして攻撃します。」

 フェイトが手に持つバルディッシュアサルトに力を込める。

「…………」

 上空を見れば、先ほど撃墜したと思った少女はまだ空に浮かんでいる。そこには赤い帽子を被り巨大なハンマーを持ったまだ幼女と思しき子供が、赤い魔法防壁――パンツァーガイストと言う古代ベルカの魔法だ――を発生させている。どうやら撃墜には失敗していたようだ。

(失敗か。)

 周囲を一瞥する。
 一見しただけでは分からなかったが、自身の後ろにいる女と前で剣を構える女が最大戦力なのだろう。それから後方でこちらを見ている子供たち。
 そのどれもが通常の管理局員から見れば卓越した能力を持っていることは理解出来る。
 感じ取れる魔力量、構え、動き。
 だが――そこには注意こそあれど、殺意など欠片も無い。

(不愉快なのは彼だけではない、か。)

 心中でのみ放たれた静かな、侮蔑。
 苛つく激情を、押さえ込み、クルーゼは、後方のフェイトからは決して分からないように仮面の下で嗤った。
 瞬間、クルーゼから得体の知れない鬼気を感じ取るライトニング分隊の一同。
 感じ取る感情は虚無。世界を侵食し、怖気を振るう腐食した虚無。
 周囲の空気が緊張する。その場にいる誰もが、次の瞬間に向け、緊張を高める。
 そして――不意に、何の前触れも無く、“爆発”が起きた。

「え?」

 間抜けな声を上げたのは誰なのか。フェイトなのか、キャロなのか、エリオなのか。
 ラウ・ル・クルーゼは全身を微動だにしていない。“動いていない”。だが、突然、キャロとエリオの後方に緑色の光熱が降り注いだ。
 誰もがそちらに意識を奪われた。一瞬。ただの一瞬の意識の空白。
 だがウェポンデバイス・プロヴィデンス――ラウ・ル・クルーゼにとってその一瞬は、長すぎた。
 間髪いれず背中に魔方陣が展開される。
 その中より現れる新たに三基のランス型の突起――ドラグーン。
 瞬間、それが空中に疾駆し、先程と同じく巨大化していく。
 同時に付近の瓦礫の影から高速で飛来する二基のドラグーン。
 八神はやてを撃墜した時とは違い、その二つは既にサイズを元の大きさ――およそ1mほどにまで小さくしていた。
 それが瞬時に巨大化――先程と同じサイズへと変化する。およそ5mほどの大きさへと。
 緑光の雨が降り注ぐ。全員がその場から離脱する。

「踊れ、踊れ、踊れ、踊れ、踊れ踊れ踊れ踊れ踊れ…………!!!」

 クルーゼは逃げ惑う彼らを見ながら、狂ったように呟く。
 空中に浮かび上がり、背中から更に数基の――今度は先程よりも小型の――ドラグーンを射出する。
 ラウ・ル・クルーゼは八神はやてを撃墜した後、ドラグーンを収納していなかった。
 収納せず、ただ先程とは逆に“小型化”し、ビルの陰に隠れるように配置していたのだ。
 そこに魔力の流れは無い。何故なら、これは“量子通信”。厳然たる科学の通信手段――魔力による操作ではないからだ。
 フェイト・T・ハラオウンがバルディッシュアサルトを構えた時、既に彼は配置を“終えていた”のだ。

「さて、まずは一組――死んでもらおうか。」

 ラウ・ル・クルーゼの右腕が先ほどの蒼穹の鎧騎士の如く“再構成”される。生まれ出でるは黒く巨大な鋼の銃。それを――エリオ・モンディアルとキャロ・ル・ルシエに向けた。

「させない!!」

 ラウ・ル・クルーゼの後方――そこには決死の形相で、弾幕を掻い潜り彼に迫るフェイト・T・ハラオウンの姿があった。
 魔法――ソニックムーブによる補助を受け、最高速度で彼に迫り黄金の刃を形成する鎌を振り被り、背後から奇襲する――だが、

「そうくると思っていたよ。」

 ラウ・ル・クルーゼは振り向かずに呟き、その背中に再び魔方陣が生まれ出る。後に射出した凡そ3mほどの小型の――とは言えそれでも小型車くらいの大きさはあるのだが――ドラグーンが現出する。
 それは現れ出でると同時に、砲口を彼女に向かって狙いをつけていた。そして緑色の光が灯る。同時にエリオ、キャロの方向へクルーゼの手元の銃も緑色に光が灯る。

「っ―――!!!」

 フェイトは反応すら出来ない。突然、背中から出現したのだ。反応など出来るはずもない。
 エリオとキャロは辛うじて反応できた。だが、その状況で展開した防壁はその一撃を受け止めるにはあまりにも弱く、不完全なものだった。
 瞬間、放たれた光熱波は狙い違わず彼女に迫り、彼女自身が咄嗟に展開した防壁によって阻まれるもののその勢いを殺すことは出来ないまま、彼女の身体は後方の瓦礫の中に吹き飛んでいった。
 彼女に動きは無い。意識を失っていた。
 そして、それとは逆側。そちらを見れば――同じくエリオとキャロも瓦礫の中に倒れこんでいるのが見えた。クルーゼが生み出した巨大な銃。そこから蒸気が立ち昇っていた。
 放たれた光熱波を受け止めきれずに吹き飛ばされたのだ。


「何と言う……」

 シグナムは驚愕していた。相手が使った武器の威力もだが、それ以上にその手腕に。
 一番初めの光熱波の雨。あれで全員を分断し連携する暇が無くなった。
 次にキャロとエリオを狙ったのはフェイト――もしくはシグナムを誘うため。
 そして無防備な背中を晒すことで好機と捉えた自分たちはそこに付け込む為に迫ると睨んでだ。
 わざわざ、言葉に出してからエリオとキャロを狙ったのはそこで砲撃をさせない為と自分たちの動きを直線的な動きに限定するため。激昂を誘い、無防備な姿を晒すことで無茶な攻撃を行わせる為に、だ。
 まんまとその罠にはまったフェイトは切り伏せるどころか、吹き飛ばされた。
 全て一分にも満たない数十秒のことである。

「……貴様、何者だ。」

 レヴァンティンを構えシグナムは呟く。
 彼女にとってこの状況は流石にまずかった。隊長であるフェイトは未だに起き上がらない。恐らく気を失っているのだろう。キャロ、エリオは言わずもがな。
 状況は絶対的に最悪だ。眼前の化け物――恐らく人間なのだろう――と自身の相性は最悪に近い。
 空中を高速で飛行し光熱波を放つあの奇妙で巨大な突起。それを複数同時に操作しながらも自身の戦闘能力を損ねない単身の戦闘能力。

 一対一では勝てないだろう。踏み込めば後ろから狙われ、下がればその火力で押し流される。
 と言うよりもあの大きさ。あの巨大さの前ではそんな理屈など全て押し流される。この時ほど彼女は自身が握る愛剣が、か細く見えたことはなかった。

 負ける。まず、間違いなく。それが理性によって自己を制御した彼女の判断だった。
 そして、それは恐らく――否、間違いなく正しい。
 故に目前の一挙手一投足をつぶさに見入る。相手は僅かな予備動作すら必要とせず、あの突起を動かした。
 対応するには読み取るしかない。僅かな動き。僅かな感情。何であろうと構わない。
 そこから次の動きを感じ取る以外に彼らが生きる術は無い。
 シグナムの額から冷や汗が一筋流れていく。張り詰めた帯電したような空気。
 そしてシグナムの前に立つ化け物――ラウ・ル・クルーゼが口を開いた。快活な声で。

『目的――そんなものは昔から一つも変わらない。』

 右腕に携えた銃が構えられた。その砲口がシグナムに向けられる。

『八つ当たりだよ。』

 その言葉と同時に放たれた一筋の緑光。シグナムは動けない。
 彼女の後方には未だ意識を失ったエリオとキャロがいる。避ければ彼らの命は無い。
 逡巡など一切無く迷うことなく彼女波は瞬間的に全魔力を投入し、眼前に魔法防壁――パンツァーガイストを展開する。

「――はああああ!!!!!」

 咆哮と共に放たれた緑色の光熱波を、塞き止め、相殺する。
 緑と赤の光のぶつかり合いで生まれた爆風が辺りの埃を舞い上げ、一帯を覆い隠す。

『では、これでさよならだ、お嬢さん方。』

 声の調子は軽薄な薄ら笑い。ラウ・ル・クルーゼはその足元にいつの間にか生まれた魔法陣に吸い込まれていく。

「待て!!」

 シグナムは逃げようとするクルーゼに向かって飛び込み、レヴァンティンを振り下ろす。
 しかし時は既に遅く、彼女の姿は既にそこには無かった。空を切るレヴァンティン。

「おのれ……!」

 周辺を探索しようとシャマルに通信を送ろうとする――だが、繋がらない。ジャミングか?そう考えた時、シャマルの声が聞こえてきた。

「シグナム!はやてちゃんが!はやてちゃんが!」

 その声を聞いてはっと上空を見上げれば、ヴィータに背負われたはやてがいた。意識を失ったのかぐったりとしている。
 周辺の三人の意識は未だ戻らない。逃走を妨害することすら出来なかった。
 トドメを刺さなかったのはただの気まぐれか、それとも何か理由があるのか。
 どちらにしろ、見逃されただけに過ぎない。
 唇を噛み、悔しげにシグナムはレヴァンティンを収めた。

「……完敗か。」

 機動6課ライトニング分隊は、たった一人の人間に完敗した。


「どうやら終ったみたいですね。」

 上空ではやてが運ばれていく様を見つめるギンガ。
 その隣でシンは壁に寄り掛かり座り込むようにして上空を見つめていた。

 ――シンとギンガは八神はやての指示に従い、その場から去って、駆けつけた108部隊と合流。
 子供を保護してもらった。シンは保護されたことを確認すると直ぐに現場に戻るべく走り出した。
 ギンガはそんなシンを確認すると直ぐに追いかけた。シンとて怪我人なのだ。
 両手は真っ赤に染まり、身体中埃や泥、何よりも血まみれだった。
 だから彼女はそんなシンを止めに行こうとしたのだが、シンはまるで言うことを聞かなかった。
 聞かなかったと言うよりは殆ど無視していた。

 そんなシンを見てカチンときたギンガは、無理矢理連れて行こうか、などと考えたがあまりにも真剣そのもののシンの顔を見るとそんな気が起こらなくなり、その横についていくことにした。

「……止めなくていいのか?」

 ギンガをちらりと見てシンは呟いた。
 ギンガはそんなシンに対して当てつける様に――実際そうなのだろうが――盛大にため息を吐いた。

「はあ……だってアスカさん、止まる気ないでしょう?」
「・・・いや、その」

 しどろもどろになるシン。申し訳ないとは思っているようだ。

「だから危険なことに直ぐ対応できるように私もついていくことにしました。」

 ギンガはそう言って前を向いた。シンもそれに釣られて前を向く。
 上空から間断なく放たれる八神はやての氷結魔法。
 火災は既に大部分が鎮火されてきており、これで事件は収束するだろう――ギンガはそう思っていた。
 ギンガがシンを止めなかった理由もそこに起因する。既に鎮圧されかけている事件なのだ。これは。
 だから何かあっても自分ひとりで事足りる――彼女はそう思っていたし、誰もが、そう思っていた。
 だが、そこで彼らは信じられない光景を見ることになる。
 凄まじい轟音が鳴り響き、下方―-おそらくどこかのビルの屋上より八神はやてに向けて、何かが飛来していった。
 二人は見た。ソレを。八神はやてに向けて飛んでいく「巨大な突起」を。
 その前で八神はやてはまるで無力だった。彼女は瞬く間に劣勢となり、そしてその「巨大な突起」がもう一基飛来した瞬間、爆発が起きた。

「くそっ!」

 それを見た瞬間、シンは居ても立ってもいられなくなり、走り出した。
 胸一杯の後悔と、一瞬でも安堵して彼女に――八神はやてに全てを任せようなどと考えた無力な自分に吐き気すら感じながら。

「ちょっと落ち着きなさい!」
 ギンガが走り出したシンを無理矢理に引き止める。

「離せ!俺があそこにいれば!俺が盾になれば!」
「貴方のせいじゃない!大体そんな身体で行けば死んでしまいますよ!?」
「うるさい!俺は、俺は、俺は……くっ!?」

 いきなり、膝を付き、シンは嘔吐する。体力の限界を超えて、それでもまだ身体を動かそうと言うのだ。胃が拒絶してもおかしくはない。そして自分が吐いた物に顔を突っ伏し……・けれど、彼はそれでも前に進もうとする。

「く、そ」
「アスカさん!」

 ギンガはシンの吐しゃ物に触れることにも怯むことなく彼を無理矢理壁に押し付けるとそのまま、座らせ、休ませた。
 暴れる――暴れようとするシン。だが、今の彼にそんな力があるはずも無い。結局、息が収まる頃には八神はやては救われていた。

 そして今に至る。
 シンは上空で運ばれていくはやてを見つめている。悔しげに。

「何で、俺は、こんなに弱いんだ。」

 俯き、力なく呟くシン。ギンガは何も言わない。
 涙は流れない。声も出ない。だが、それでも彼は哭いていた。
 もう少しで八神はやてを死なせるところだった。
 彼女の言葉の通りに自分は死にたくないからと逃げ出した。
 残っていたところで確かに邪魔にしかならなかったかもしれない。だが、それでも弾除け程度にはなったはず。
 そんなことも出来ずに誰かを選んで、誰かを見捨てた。
 自分はそんなことして良い訳が無いのに――

「……いい加減にしなさい!」

 突然、シンの頬が高い音を上げた。ギンガの右手が振り下ろされていた。
 続いてシンは自分の頬に痛みを感じ始める。
 ギンガに頬をはたかれたと気付いたのはその時だった。
 見れば、彼女は少し怒っていた。

「あの子を助けたのは貴方でしょう!もう少し、喜びなさいよ!」
「喜、ぶ?」
「そうです。貴方はあの子を助けたんでしょう?なのに、喜びもせずに悔やんでばかりで。それに誰も死んでない!皆、生きてます!貴方が悔やむ必要も、いじける必要も無いんです!」
「ナカジマ、さん?」

 声を荒げるギンガを見て、呆気に取られるシン。そんなシンの視線に気付いたのか、ギンガは、こほん、と息を落ち着けて彼女はシンを見つめる。

「貴方は守ったんです。あの子供を。もうちょっと喜びましょうよ。」

 泥と血と吐しゃ物で塗れた掌を開き、見つめる。

「そっか……俺、守れたのか……」

 血色を失い青白い顔。今にも倒れそうなほど傷ついたシン。だが、ギンガのその言葉はシンの胸にすっと染み込んで行った。

 ――守れた。
 その言葉だけでシンの中にあった後悔や悲しみ、自分を卑下する全てが消え去っていく。

「……よかったぁ。」

 満面の春の息吹のような優しい微笑みをシンは浮かべる。子供のように無邪気で綺麗な笑顔を。
 どくん、と彼女の鼓動が跳ねた。
 そうして心の底から安堵したのか――シンが瞳を閉じた。
 一つ緩やかに息を吐き出すと――彼の身体から突然力が抜け、ずるずると地面に倒れこんでいく。

「ちょっと、アスカさん!?アスカさん!!」

 青白い死人のような顔。ギンガの幾度もの呼びかけにもシンは答えない。
 緊張が緩み、それまでの無理が祟ったのだろう。
 意識を保つことなどまるで出来ず、シン・アスカの肉体から力が抜けていく。
 見れば、彼の身体中には痣や裂傷が数多く――それこそ今まで普通にしていたことが信じられないほどに存在していた。
 ギンガは蒼白な顔をして、即座にウイングロードを展開。流血や吐しゃ物で身体が汚れることなど関係無しにシンを担ぎ、足元のパートナーに向かって声を上げる。

「ブリッツキャリバー!」
『Yes sir』

 爆音と振動を伴い、シンを担ぎギンガは急ぎ避難所に走り出す。少しでも速く、と。
 シン・アスカはそれでも目覚めない。疲れていたのだ。
 だから、彼の意識は落ちていく。闇へ、闇へ、暗闇の中へ――。


 瞳に映るのは罪という名の追憶。
 金髪の少女が沈んでいく。冷たい水の底に沈んでいく。
 戦争という時代に翻弄され、戦いしか知らなかった心と身体を痛めた少女。
 もう誰にも傷つけられないようにと沈めた少女。
 彼女は今もあの湖のそこで眠っている――彼女は今の自分を見て何と思うのだろう。

 金髪の少年が苦しんでいる。命が短いと彼は言った。そして戦時中にあの少年は死んだ。混乱と悲しみの中で。
 そして自分は彼を殺した奴らの下で力を振るい続けた。
 弱者を守る為と言ったところで彼にしてみれば裏切ったも同然だろう。
 彼は自分に未来を託してくれたと言うのに。彼は今の自分をどう思うのだろう。

 焼け焦げた丘。散らばった肉体。残されたのは妹の右腕。助けられなかった家族。
 二度と繰り返したくは無い光景。
 それから戦った。戦い続けた。
 自分のような者をこれ以上生み出さない為にという理由を以って、考えるのも馬鹿らしいほど多くの人間の命を奪い去った。
 そんな今の自分を家族は一体どう思うのだろう。

 目を開くと、金髪の少年と金髪の少女、妹がそこにいた。
 ベッドに眠る自分の両脇に立ってこちらを見下ろしている。
 恨んでいるのか。憐れんでいるのか。そう思ったが彼らは何の反応も示さない。
 その瞳はとても悲しげで……自分にはまるで泣いているようにしか見えなかった。
 どうして泣いているのだろう。どうして悲しいのだろう。
 それがどうしても自分には分からなかった。
 見詰め合うこと暫しの間。気がつけば、彼らの姿は消えていた。
 そこにあるのは守れなかった誰かではなく、見たことも無い天井だった。

「……夢か。」

 シンは眼を覚ます。電灯が消えていることから時間は夜なのだろう。
 ベッド脇にはギンガ。そしてシンの隣には八神はやてが眠っており、更に奥には金髪の女性と赤い髪の子供と桃色の髪の少女がいた。あの戦いで怪我を負った人間なのだろう。
 彼らの前には、シンよりも少し年下に見える青い髪と栗毛の少女が二人、幼い赤毛の少女、気の強そうな赤毛の女性、おしとやかそうな金髪の女性が肩を寄せ合ってベンチに座って眠っていた。
 その下には犬が寝そべって――

(何で犬?)

 その犬は大きな犬だった。どれくらい大きいかというと「抱きつかれると重くて死にそう」という程度。 まあ、病院側が了承したならいいんだろうと考えシンは犬から眼を離し、ベッドに寝そべる。視界にあるのは薄暗い天井。

「やりたいこと、か。」

 呟き、自分は何を迷っていたのだろうと思った。やりたいことなど決まっている。誰かを守ることだ。
 それはこの世界だろうとあの世界だろうと変わらない。
 どちらの世界にも変わらず、理不尽で横暴な不条理は存在する。それに苦しめられる人々もいる。
 何のことは無い。世界が変わっても人は変わらないのだから。
 今日見たあの光景などまるで同じだった。自分のいた世界と何も変わらない。
 だから、自分の願いも変わらない。何一つ変わらない。

 ギンガに言われ、あの子供を守ることが出来たと自覚できた時、自分は救われた。
 暗闇の荒野に少しだけ晴れ間が見えたような気がした。
 自分にとって人を守ると言うことはそういう――ただ自分の為に、行うことだった。

 だから、これは覚悟や決意ではない。これは願いだった。
 シン・アスカという男にとって、何よりも優先される唯一の願い。

 だから、彼の進むべき道など初めから決まっている。
 彼にはもうその道しか必要ないのだから。




[18692] 4.怪物
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/10 09:02
「それでお前は魔導師になりたいと?」
「はい。」

 身体中を包帯まみれにしたシンが神妙な顔のゲンヤ・ナカジマに言い放つ。
 その目はそれまでのように無気力なものではなく、真っ直ぐに前を見据える、赤い炎の眼。
 彼の中で燻っていた何か――その何かはゲンヤには分からないが、迷いが晴れたのは確かなのだろう。

「たしかに管理局は常々人手不足に悩まされてる。そしてこないだの事件みたいな襲撃も頻発している。優秀な人材は正直喉から手が出る程欲しい。」
「じゃあ」
「慌てんな。というかお前まだ魔法使ったことも無いだろ?」

 身を乗り出すシンをゲンヤは手で制すると静かに告げる。

「どっちにしても、その怪我治してからの話だ。」
「……はい。」

 ゲンヤはそう告げると、シンのベッドの横に備えられていた椅子から立ち上がる。

「そんじゃ、俺は行くぞ。なんかあったらすぐにギンガに伝えるように。」

 シンのいた病室から出てゲンヤは部屋の外で待っていたギンガと目が合う。

「……アスカさんは何を?」
「魔導師になりたい、だとよ。まあ、SSクラスの逸材ではあるからな。」

 その言葉を聞いて、ギンガは顔を伏せる。ギンガの脳裏には倒れる前のシン・アスカが焼きついていた。
 白い壁に一筋の線を引く鮮烈な赤。そして土気色の顔と動かない身体。正直、肝が冷えたとはあれのことだった。

「……アスカさんは魔導師になれるんですか?」
「あいつが望めば、間違いなく、な。デバイスも無しで魔法の理論も何も知らない人間が本能で魔法を使ったんだ。常識外れにも程がある。」

 それはそうだ、とギンガは思った。
 魔法というものを発動する為には複雑な工程があり、それを簡略化する為にデバイスという自動詠唱や魔法の発動補助を行うものが生まれた。現行の魔法はよほどのことがない限りデバイス無しでは使用することはない。

 更に――次元漂流者が魔導師になった場合、それまで基礎的な訓練というものをまるで受けていないが故に基本的に魔法の使用はデバイスに依存することが多い。そしてそこから訓練を受けて基本を覚えていく。

 しかし、この間の襲撃の際に行われた広域スキャンの際に拾われた映像――どこかの監視カメラに映っていたシンと蒼い鎧騎士の戦いだ――から見えたのはそんな常識を覆すものだった。
 デバイスも持たない、全くの魔法の素人が、魔法を使っているのだ。
 無論、使用した魔法は魔力を炎に変換すると言う、資質があれば簡単に出来る魔法である。だが、それでもそれは異常だった。
 故にシン・アスカが望めばそれこそ引く手数多の受け入れ先があるだろう。
 今でこそ単なる魔導師志望だが、その素質は折り紙つき。成長性は凄まじく高く、将来的に高い戦力になることは間違いない。Sクラス……SS、もしかしたらその上さえも。

 だが、ギンガには一つの懸念――不安があった。それは件のシンの戦いだ。あの様子が頭から離れない。嬉しそうに微笑んだシン・アスカと戦いの中の悪鬼のようなシン・アスカが結びつかないのだ。

 あまりにも極端な二面性。
 ギンガにはそれが何を引き起こすのか分からなかったが、それでも一抹の不安を感じていた。

「……」

 そう物思いにふけるギンガをゲンヤはじいっと見つめる。そして、「おお」と何か納得したのか、ニヤニヤと笑みを浮かべ出す。

「……何ですか?」
「ギンガ、お前……惚れたな?」

 瞬間――ボンっと湯気でも噴いたかのように顔を真っ赤にするギンガ。

「ちょ、父さん、何言ってるのよ!!」

 混乱の余り、常には狂わぬ口調が素に戻ってしまう。

「隠すな、隠すな。そうか、あの堅物のギンガにもとうとう春が来たのか……そうかそうか。父さん嬉しいぞ。多分、きっと母さんも喜んでるに違いない。」

 そう言って懐から彼女の母であり亡き妻――クイント・ナカジマの遺影を取り出すゲンヤ。いちいち芸が細かい。

「何でそんなものを持ってるのよ!」

 ニヤニヤしながらクイントの遺影に何事か呟いているゲンヤからばっと奪い取る。年の功なのか、性質が悪すぎる。

「……まあ、あの男はお前には荷が重いかもしれねえが……頑張れよ。」

 そう言ってゲンヤはギンガの肩をポンと叩くと、彼女がその手に持っていた遺影を奪い取ると懐に仕舞いこむ。
 出口に向かって歩いていくゲンヤの後ろ姿を見ながら、ギンガは呆然と見送った。


 屋上――頭に包帯を巻き、病人服を着た、八神はやてとシグナムがそこに佇んでいた。
 彼女の前には空間に浮かぶ立体映像――念話による映像通信である。
 そしてそこに映るカリム・グラシア――ミッドチルダ北部に位置する聖王教会の騎士であり、時空管理局内で少将と言う地位を持つ正真正銘の実力者である――がいた。
 はやては神妙な面持ちでついこの間の戦いについて語っていた。

「カリム、あいつらについて何か分かったん?」

 はやては聖王教会所属であり自分の直属の上司でもあるカリム・グラシアにある依頼をしていた。
 入院して気が付いた時即座に連絡して。

『そうね。まあ、時間も無かったら何にも分からなかったんだけど……一つ、異常な点が見つかったわ。』

 異常と言えばあの場にいた全ての存在その物が異常だったがこれ以上何があるというのだろうか。
 今思い出しても寒気がするほどの圧倒的な強さ――いや、怖いのは強さではない。その正体がまるで見えないことが、だ。
 自身にとって虎の子であるはずのフェイト・T・ハラオウン率いる機動6課ライトニング分隊の完敗。
 それを行ったのはどこの馬の骨とも知れぬ人型の化け物。
 その上、あるカメラに写っていた映像から察するに、金髪の仮面の男が変貌した姿であることまでが判明していた。肉体そのものを変容させる魔法。それも恐らくは戦闘能力を得る為だけに。
 八神はやてとしてはこれ以上の悩みの種はごめんこうむりたいところであった。

『一応映像回してもらって確認したんだけど……この人……って言っていいのか分からないけれど、どうやら……魔導師じゃない、みたいなの。』
「魔導師じゃない?」
『むしろ、人間に似た何か、と言ったほうがいいのかしら。魔力も感じ取れない、それに記録によると生命反応も通常とはまるで違う――そう、まるで内燃機関でも搭載した機械。それが解析班の見解よ。』
「何や、それ?せやったら、この男は人間じゃない……そういうことなん?」

 信じられないと言いたげに八神はやては呟き、カリム・グラシアはそれに言葉を返すことで対応する。

『恐らく……いえ、確実に、ね。この男は少なくとも人間じゃない……それに戦闘機人とも違う。完全に人間とは違うモノよ。』

 言葉の意味が理解できない。
 人間ではない。ならば、何と言うのだろうか。

『……簡単に言えば化け物よ、はやて。この男の変貌には恐らく魔力が使用されている。けれど、魔法ではこの男の使った武器はどうしても説明できない。あれだけの大質量を人間の力で構成できるとあなたは思う?』
「……それは。」

 答えるまでもない。不可能だ。如何に不可思議に見えようとも魔法とは物理法則に従う術理。
 理であるが故に魔法は物理法則を越えられない。
 あれだけの大質量を個人の魔力で補うなど不可能に決まっている。
 呆然とするはやてを尻目にカリムは続ける。

『どんな技術が使用されてるかなんて正直想像もつかない。こんな技術、どこの次元世界でもまだ確認されて無い技術よ。』

 絶句するはやてを尻目にカリムは傍らに立つシグナムに向けて話しかける。

『……シグナム、貴方なら勝てる?』

 シグナムはその言葉にあの化け物を思いだす。
 あの男に勝つ方法。
 幾つか方法はある。そして、その中でもっとも現実的な方法。それは――

「私では無理でしょうね。テスタロッサが万全の状態ならばあるいは……それも彼女と同等の能力を持つ者が幾人もサポートに回った状態でなら、なんとかなるかもしれません。ここからは私見になりますが」

 一つ、言葉を切ってシグナムははやてとカリムを見る。続きを話していいのか、伺っているのだ。
 二人は同時に頷いた。シグナムはソレを見て、再び口を開いた。

「アレに勝とうと思えばまず第一に速度が必要です。あの雨のような攻撃を全て掻い潜り懐に入り込む速度と、
そして、一撃で勝敗を決するだけの攻撃力。有り体に言って先手必勝。それくらいしか私には思い浮かびません。そして、それを出来るのは6課ではフェイト・T・ハラオウンただ一人。それ以外のメンバーではあの雨のような攻撃の前で沈むだけです。」
『でしょうね。私もそう思うわ。アレは単騎で現在の機動6課と張り合うだけの能力を持っている。』

 再び絶句するはやて。
 当然だ、時空管理局内部でも異常とすら言える戦力を集中した機動6課と、たかだか一人の人間――人間かどうかは定かではないが――が同等と言っているのだ。絶句する以外にない。

『……問題は次にアレが出てきた時、どうするのかということよ。フェイトさんを6課の全戦力でサポートすると言う条件下で当たれば確かに勝てるかもしれない。けど、』
「敵がアレだけとは限らへん。万が一フェイトちゃんがやられた場合はその時点で終わりや。それに……フェイトちゃんには――」

 苦虫を潰すような声。それでもはやては言葉を放つ。現状の認識を確かなモノとする為に。

「うちの子達じゃ……多分無理や。」

 言葉を返さずにこりと笑うカリム。物分りが良くて助かる。そう言いたいのだろう。

『そうね、その通りだわ。あなた達、機動6課の子達の能力は確かに高い。正直、ここまで強くなるなんて思ってもみなかった。これからだってどんどん強くなるでしょう。』

 確かにそうだ。思い起こすあの子達――スバル、ティアナ、エリオ、キャロ。あの子達はきっともっと強くなる。だけど、

『それでも勝てない。あの戦い方――ああいった相手の弱点を突く、傷口を抉る……そういう戦いに、貴方たちはまるで慣れていないから――ううん、シャッハやシグナムだって同じこと。そして相手の戦闘能力は間違いなくSSクラス以上。』
「笑えてくるな、ほんま。」
『ええ、その通りね。けど私たちは――貴方には笑っている暇は無いの。』
「うん、そうやね。」

 強いカリムの言葉。それに向き合うようにはやてはカリムから視線を逸らさず答えた。

『アレを倒す方法……考えられるのは、おびき寄せた上で大規模殲滅魔法で倒すこと。これなら反撃の暇を与えずに倒せる。本当ならこれを選びたいところなのだけれど、管理局の立場上これは選べない。』
「そうやね。周辺被害もとんでもないことになる。」
『だから選べるのはこれ以外の方法になる。単騎精鋭による一対一。それも速度と威力に優れた近接型の。』
「その、誰か一人を足止めに使うということなん?」
『アレがいるからバランスが崩れるのなら、バランスが崩れないように足止めすればいいということ。』

 たしかにいい方法だ。唯一の解決策と言ってもいい。だが、問題がある。

「けど、そんな人間どこにおる?」

 そう、その人材だ。それほどの強さを持った人間を倒せる人材など限られている。
 だが、カリムはその問いに即答する。

『一応、こちらで用意した人間を6課配属にして、出向させるわ。』
「……えらい、手際ええな。」
『ただ、少し時間がかかるわ。今、その男は別件で動いてる最中だから。それに……正直、この男は先程シグナムが言った条件には該当しないの。能力は申し分ないのだけれど――だから、足止めの為にはもう一人必要になる。この男はあくまでサポートよ。突撃役はそのもう一人になるわ。だから、はやて――』

 言葉を切って、八神はやてを覗き込むカリム・グラシアの瞳が鋭くなる。それはあまり表には見せない表情。“謀略”を実行する魔女の顔。

『――そこで、提案があるのだけれど』
「提案?」
『彼はどうかしら?』
「彼?」

 はやての顔が僅かに曇る。

『シン・アスカ。報告書ではSSクラスの潜在魔力量を持っているらしいわね。』
「……せやけど、彼はまだ魔導師ですらあれへん。それに彼の適正もまだ分からへん。」

 その八神はやての当たり前の返答にカリム・グラシアが嗤う。先程の魔女の微笑みで。

『なら、そういう風に鍛えてもらえないかしら。』

 謡うように軽やかに。その言葉は羽毛の如き軽さで以って八神はやてに襲い掛かる。

『正直、適任よ?戦争を経験して、その後何年間も戦闘に従事している。死線を潜り抜けた経験は恐らく6課の誰よりも多いでしょうね。汚い手管への対処法も学んでいる……少なくとも貴方たちよりは。』

 八神はやては奥歯をかみ締める。言い返せないからだ。その通りだと理解しているからだ。

『勿論、普段はスターズかライトニングのどちらかに所属させることにはなるけど、アレが出てきた場合はこちらが送る戦力と共同で足止めすることになるわ。6課の戦力を損なうことなく、ね。それに、こちらから派遣する男のたっての希望でもあるわ。シン・アスカを自分の部下に欲しい、とね。』
「……どういうことや。」

 搾り出すような八神はやての声。カリム・グラシアは視線を逸らすことなく答えを返す。

『言った通りよ。シン・アスカ個人を指名しているのよ。こちらから送る戦力は。』

 ――八神はやては今度こそ解せなかった。この強硬手段とも取れるようなシン・アスカの採用。確かにその案は自分も考えた案だ。考えて……そして、破棄した。
 この考えはシン・アスカの潜在能力に依存した考えだ。そして、彼をこちらの思う通りの戦力として成長させると言う理総論でもある。
 人の成長過程と言うのは複雑なモノである。陸上競技で言えば短距離走者を望んでいても練習の過程で中距離走の資質を見つけられ、そちらに移行する。そういったことが往々にしてある。

 誰も他人の才能を思い通りに成長させるなど出来はしない。人間の育成とはゲームではないのだ。
 カリム・グラシアの言っていることは正にそれだ。“そういう風に鍛えろ”などと現場を知らない単なる素人意見以外の何物でもない。彼女自身がそんなこと不可能だと知っているであろうに。
 そして、もう一つ。シン・アスカ個人を名指しで指名していると言うことが何よりもおかしい。
 名指しと言うことはシン・アスカを知っているということだ。この世界に来てまだ間もないばかりの彼をどうして知っているのか。

「どういうことや、カリム。何で彼のことをそこまで知っているんや。」
『彼と同じ次元世界の出身者――そう言えば納得出来るかしら、八神はやて二等陸佐?』
「……なん、やて?」
『その男がこう言っているのよ。“シン・アスカならば、その預言を覆す”、とね。勿論、確かな情報として、こちらで確認したわ。』

 ――詳細についてはまだ言えないのだけれどね。そう、彼女は言葉の後に付け足した。
 躊躇い無く返された答えにはやては、とうとうカリムから視線を逸らし、俯いた。
 二等陸佐――その言葉に込められた重みに耐えながら。

「……彼を、鉄砲玉にしろ言うんか、カリム。」
『ええ、その通り、捨て駒にしろと言っているのよ、八神はやて“二等陸佐殿”。預言を覆す為に、ね。』

 言葉に嘘は無い、とはやては感じていた。例えも何も無い。
 これは“何も知らない人間に鉄砲玉になれ”というのと同じこと。それは“死ね”と命令するのと何も変わらないのだ。
 しばしの逡巡。そして、彼女は沈痛な面持ちで呟いた。

「少し、考えさせてくれへんか。」

 彼女はそういって踵を返し、屋上のドアを開けて、降りていく。シグナムもその後に付き従って降りていった。

 ――通信を切り、聖王教会の自室でカリムは目の前に置かれた紅茶に口を付ける。

「これでいいのかしら?」

 腰まで届くような長いウェーブがかった黒髪を後方で纏め、顔には銀色の仮面をつけたスーツ姿の男がいた。どこか優美な品の良さを感じさせる仕草の長身の優男が彼女の前の椅子に座りながら、頷きながら紅茶に口をつける。

「問題ない。むしろ、そうでなくては困るさ、カリム・グラシア。それはキミも分かっているだろう?」
「……そうね、分かってるわ。これからの危機は犠牲無しじゃ乗り切れない。あの子にもそれを自覚して貰わないと……それに、どの道、この方法しかないのでしょう?」

 優雅な仕草で紅茶のカップを口から離し、テーブルに置く。
 男は確かに、と呟き、自分の前におかれた紅茶を同じくテーブルに置いた。
 カリムはため息を吐いた。
 彼女自身、このような方法を使うのは本意ではないのかもしれない。

 だが、此度の事情はそんな本意を置き去りにしなければ解決できないほどに重大だった。
 彼女が言った預言。『預言者の著書(プロフェーティン・シュリフテン)』。
 古代ベルカ式魔法の一種であるそれは、最短で半年、最長で数年先の未来を、詩文形式で書き出した預言書の作成を行う魔法。的中率や実用性は割とよく当たる占い程度ではあるが、以前、カリムが預言した詩文は時空管理局の崩壊を示していた。
 二人はそれを覆す為に機動6課を設立し、一切の犠牲を出すことなく、聖王のゆりかごを破壊し、防ぐことに成功した。J・S事件と呼ばれた事件の終息である。

 そして預言はこれで覆した。そう、誰もが思った。
 だが、J・S事件の黒幕である、ジェイル・スカリエッティの脱獄により状況は一変する。
 つまり、預言の事件はまだ終っていないのではないのか、と。目の前の男から得た情報、そして今回の事件で彼女はそれを確信した。そして、これは時空管理局史上に無いほどの強大な闘いになるであろうことも。
 そして――ある日、予言が追加された。
 追加された預言。それは末尾に以下の一文が追加されることとなる。

『だが、心せよ。朱い炎だけがそれを止める。狂った炎は羽金を切り裂く刃となるだろう。』

 これはあの襲撃が起こった日。そう、八神はやてが撃墜された、あの日に書き込まれた。
 現在、これは管理局の中でもカリム・グラシアと八神はやてしか知らない。
 預言が追加されることなど原理的にあり得ないことだ。だが、それが起こった。そして書き込まれた記述。
 彼女の能力『預言者の著書(プロフェーティン・シュリフテン)』とは、曖昧な世界の運命を書き出す能力である。
 それはただこれから起こるであろうことを淡々と書き出すだけであり、その性質上、的中率はどうしても低くなる。『未来』という曖昧で確定されていない事象を観測すると言う能力であるが故に。
 だが、この一文はそれとは明らかに違う。これは預言ではない“伝言(メッセージ)”だ。
 どうやって、自身の魔法に干渉したのかは定かではない。その方法も、発生条件も、発信場所も全てが定かではない。
 だが、カリム・グラシアが決意を固めた理由。その一つがこれであった。
 故に彼女は本意を置き去りに、解決を求めた。
 彼女がこれから八神はやてに強いることはそういった類のことだ。そして、そうでなくては事は成しえない。数多の次元世界に降りかかる焔を払う為には。

「では、行くとしよう。まだ、準備は残っているのでね。」

 男はそう言って、立ち上がり、出口に向かう。
 ドアノブに手を掛け、男は外に出て行った。その背中に向けてカリムは呟く。

「では、後は頼みますよ、ギルバート……ギルバート・デュランダル。」
「……今の私はデュランダルではない。グラディス……ギルバート・グラディスだ。」

 ギルバート・デュランダルと呼ばれ、ギルバート・グラディスと名乗った男は彼女に背を向けたまま部屋を後にした。


 部屋の中は混沌と化していた。
 ギンガやはやての予想以上に子供の面倒見がいいシンは、すぐにエリオやキャロと意気投合。
 ついでに同室にいたフェイトも一緒に4人でトランプをしていた。ちなみに内容はババ抜きである。
 ギンガはいきなりのその様子に少し呆気に取られてしまっていた。
 昨日までのシンなら決してこんなことはしなかった。絶対、間違いなく、確信が持てるレベルで。

(な、何があったの!?)

 焦るギンガ。当然だ。辛気臭いことこの上ない、陰鬱この上ない男がいきなり無邪気な少年のように人の輪の中に溶け込んでいるのだ。
 彼女でなくとも何があったのか、聞きたくなるに違いない。

「フェ、フェイトさん、これどういうことですか?」
「あ、久しぶり、ギンガ。……これどういうことって?」
「いや、アスカさんが妙に打ち解けてるので……」
「良い人よね、アスカ君って。キャロやエリオ、私のことも慰めてくれたし。」

 嬉しそうに微笑むフェイト。
 信じられない。何事にも無関心無気力だったシン・アスカはどこいった。ギンガは何か詐欺にでもあったような気分だった。
 
「あ、ナカジマさんも来てるならババ抜き一緒にやりませんか?」
「い、いえ、私はいいです。」

 シンに呼びかけられ、ギンガは一層疲れてきた。心の中で思ったことは一つだけだ。

(いや、貴方誰ですか?)

 ついこないだまでのシン・アスカはどこにいったんだ。少しだけ、肩肘張って気合入れてきた自分が馬鹿馬鹿しくなって――

 ――お前、惚れたか?

 先ほどの父の言葉が舞い踊る。

(いや、私は別に気合入れてなんて無いし、そういうのじゃないし、別にアスカさんがどうこうなんてないんだから)

 ぶんぶんと頭を振るギンガ。傍から見るとこっちの方が危ない人である。

「……何してんのや、ギンガ。」
「はっ!?や、八神部隊長、お久しぶりです!」
「いや、久しぶりはええねんけど、椅子に座ってぶんぶん頭振って何や?ライオンの真似か?」
「い、いえ、違います。気にしないでください。」
「まあ、ええけど。ほんでギンガは……あ、アスカさんの見舞いか?」
「ええ、そうです。」

 そう言って4人で仲睦まじくババ抜きをしているシンに目をやる。

「部隊長はアスカさんのこと知ってます……よね?」
「一回だけ会ったことはあってんけど……ああいう人やったかなあとは思うてるね。」

 はやての頭にあるシンはやる気の無さそうな無気力人間だった。ところが目の前にいるのは非常に人当たりのいい好青年である。180度ターンというよりも次元跳躍ターンと言っても過言ではなかった。

「いえ、違う、と思うんですけど……」

 混乱する二人を尻目に4人はトランプに熱中していた。
 まずはエリオが一番、キャロが二番、現在負けをシンとフェイトで最下位争いをしている。
 両者の性格――思い立ったら一直線――が如実に出たような結果である。

(あんな子供のようなフェイトちゃんは久しぶりやな。)

 口には出さずはやてはそう思った。
 そうこうする内に勝負は決まったらしい。何とかフェイトが上がってシンが最下位。

「……それじゃ、ここらへんにしようか。キャロもエリオも明日にはここ出なきゃいけないんだしね?」

 優しくフェイトが諭すと

「はい!」
「分かりました!」

 と、元気よく返事を返すエリオとキャロ。実に素直ないい子供だった。

 ――シンの笑顔の理由の一つにこの二人があった。

 シン・アスカには妹がいた。マユ・アスカ。故人である。
 シンは家族の遺した唯一の形見として戦時中マユの携帯を肌身離さず持っていた。
 家族で一緒に住んでいた時も帰りの遅い両親の代わりにシンが勉強を教え、夕食や掃除を二人で行い、両親の帰りを待つ。シン・アスカとマユ・アスカはそんな仲睦まじい兄妹だった。
 キャロとエリオ。彼らはちょうど年齢も同じくらいで、シンにそれを思い出させていた。

 そしてもう一つ。今のシンには迷いが無いのだ。やりたいこと。やるべきこと。
 シン・アスカは「誰かを守る」という自分の道を選んだ――それは選ぶべくもなくそこにあったのだが。
 結果として彼を覆っていた無気力は今や存在しない。ここでこうして落ち着いているのも身体を治す為だ。ゲンヤは怪我が治ってからだと言った。全てはそれからなのだ。
 シン・アスカはそうやって自分の中の問題に人知れず整理をつけていた。エリオ、キャロ、フェイトは「整理をつけたシン」にしか会っていないから「整理できていないシン」のことしか知らないギンガやはやてとは話が噛み合わないのは当然だろう。
 ちなみにエリオとキャロとフェイトは肋骨の骨折などで一週間――両者共に咄嗟に張ったシールド及びプロテクション等の魔法防壁とバリアジャケットの性能によってその程度で済んだのだった――程度であり、シンは全身の裂傷と打撲と肋骨の骨折、右拳の骨折、火傷などで全治2週間――火傷や裂傷は魔法によって優先的に治癒された――だった。
 一時は危険な状態だったものの一度峠を乗り越えてからはこの部屋に移された。余談だがシンが目を覚まし、「自身の願いを確認した」のは峠を越えてからのことである。

 仲睦まじいエリオ、キャロ、フェイト。それはまるで本当の親子のように――実際義理の親子なのだが、そんなことをシンは知る由も無い――見える。そんな三人に充てられたのか、シンは立ち上がると、

「俺は少し、外に出てくるよ。」

 と、呟き、病室から出て行った。出て行く一瞬前、ギンガに目配せして。
 ギンガも立ち上がり、その後を追う。何か話しがあるのだろう。そしてその内容をギンガはおおよそ予測していた。


 屋上と言うのは秘密の話をするには実に適している。
 密室ではないが、実質的には密室なので誰かに話を聞かれる心配はないからだ。
 別に、シンが今からする話は他の誰かに聞かれたところで不都合があるわけではないが。

「魔導師に?」
「はい。魔導師になるにはどうしたらいいのか。それを教えて欲しいんです。」

 それは半ば予想できた問いだった。
 昨日のシンの態度を見ていればこうなることは見えていたし、ゲンヤにもシンは同じことを聞いている。その時は素気無く「怪我を治せ」で終ったようだから今度はギンガに、ということだろう。

 けれど彼女には分からなかった。力を求める理由、ではない。どうしてこの世界で戦おうとするか、その理由がだ。
 彼にしてみれば縁も所縁も無い別の世界。
 その世界でその世界の為に――実際はミッドチルダの為だけではないが――戦おうとする理由。それがギンガには見えてこなかったのだ。

「魔法を覚えるのは別に構わないんですが……どうしていきなり?」
「別に大した理由じゃないんだけど……俺の経歴、知ってますよね。」
「ええ」

 報告書を書いたのは彼女なのだ。知らないはずがない。

 ――軍に入ったのは力を手に入れる為。戦後、再び軍に入ったのは戦う力の無い弱い人達を守る為。

 彼はその為に力を手に入れ、そして戦い続けた。けれど、彼は此処にきてその目的を失い、無気力となった。自分には何も出来ない。自分は無力だから――と。
 そこで、ギンガは思い至る。一つの結論に。

「時空管理局は“守らせて”くれるんでしょう?」
「え、ええ。それが仕事ですから。」

 真摯なシンの態度にギンガはたじろぎながら、答えた。

「だから、魔導師になりたい。時空管理局に入りたい。そこで俺にも「守らせて」欲しい。それだけです。」

 彼は嗤う。あの「無邪気な笑顔」で。
 ギンガはそこで確信した。自身の出した結論に。
 彼は、今、自分で言っている通り「守りたい」だけなのだ。その結果、何が起ころうとどんな結果を産もうと関係なく、ただ有象無象を老若男女を問わず眼に映る全てをただただ「守りたい」だけ
本来なら守ると言うのは目的のためだ。

 「愛する人」を「守る」。「大切な夢」を「守る」。

 だけど彼は違う。シン・アスカは「守りたい」から「守る」のだ。目的が手段と成り果てた妄執である。

「も、元の世界に戻ると言うのは考えなかったんですか?」

 少しだけ彼の雰囲気が変わる。にじみ出る陰鬱。それは彼女が良く知るシン・アスカの空気。
 シンの瞳が射抜くようにギンガを見つめた。

「それを考えての結果です。あの世界に戻ったところで、もう誰も“守れない”。だから、俺は、ここにいたい。」
「アスカさん……」

 かすれた声でギンガは呟く。それは彼の言葉に感動してなどという理由ではない。
 彼の言葉に、願いに圧倒されて、だ。寒気と同時に怖気を感じ取り、ギンガは目前のシン・アスカに得体の知れない恐怖を覚えた。
 その時、がちゃりと音がする。屋上のドアが開く。二人はそちらに注目し、そして、

「あー、なんや、重要な話しとるようやけど私も混ぜてもらってええかな?」

 そこには、しれっとした顔で「盗み聞きしてましたよ」と言いたげな八神はやてがいた。

「……何の用でしょうか、八神2等陸佐殿。」

 シンの雰囲気が変化する。
 話の邪魔をされたことが気に食わないのか、それとも自分の「邪魔」をするのだと予想したのか。
 敵意をむき出しにして、シンははやてを睨みつける。
 シンが醸し出す「敵意」。はやてはそれを微風のように受け流し、二人の傍に歩み寄り、シンに向かって話し出す。
 一触即発。当人同士はどうなのかは分からないが、ギンガから見る二人はそう見えた。今、ここで戦いを始めてもおかしくはない。そう思える程度には。
 はやてが口を開く。

「盗み聞きするつもりはなかったんやが、ちょっと聞こえてきたもんでな。アスカさん、さっき言ったことに偽りはないんやな?」
「……ええ、例え誰が嗤おうとも、俺にとってはソレが全てです。」

 嗤いたければ嗤え。シンは言外にそう言っている。
 はやてはそんなシンの心情を察しているのか、いないのか。あくまで淡々とした態度を崩さない。

「さよか。」

 何事か思案するはやて。そして、十秒ほど経った後彼女はシンに呟いた。

「魔導師になりたいんやったな?」
「はい。」

 躊躇いなく返される答え。
 はやてはその返答に満足したかのように頷き、言葉を口に載せる覚悟をする。そう、これは覚悟だ。指揮官として、「使う側」であることを肯定する覚悟。
 シン・アスカを鉄砲玉にしろ。カリムはそう言った。はやてはその問いに返答出来なかった。彼女には覚悟が無かったからだ。
 「死んで来い」と部下に告げる覚悟が。だが、それが無ければ、彼女を撃墜し、ライトニングを倒したあの化け物と渡り合えないのもまた事実。
 小を取って大を生かすか、それとも一蓮托生で戦うか。
 どちらを選ぶべきか。彼女はそれを迷っていた。覚悟を決められなかった。だが、

 ――守らせてくれるんでしょう?

 シンがギンガに言い放ったその言葉がはやてに覚悟を決めさせた。
 捨て鉢なその言葉。自分を一発の弾丸としか思っていないその言葉が、はやての奥底にある記憶の琴線に触れた。そう、10年前。救えなかった彼女を思い出させた。

 リインフォース。闇の書の管制人格であり、己の名前も忘れるほどに辛く長い世界を歩いてきた守護騎士ヴォルケンリッターの一人。そして、八神はやてにとっての忘れられない「犠牲者」。
 思い起こすは彼女との最後のやり取り。


 空に消えていく彼女にはやては泣き叫んだ。

「やっと、やっと救われたんやないか。」

 そうだ、彼女はようやく救われたのだ。

「私が暴走なんかさせへん。だから消えたらあかん。」

 長い年月を渡り歩いてようやく見つけた安息のはずなのだ。

「駄々っ子は友人に嫌われますよ。聞き分けを」

 なのに、彼女は諦めて、勝手に覚悟を決めて、

「これからもっと幸せにしてあげなあかんのに」

 これからなのだ。これから彼女の前にはもっともっと幸せなコトがたくさん待っている。生きていれば、そこにいるだけで、彼女は幸せになれるはずなのに。

「大丈夫です。私はもう世界で1番幸福な魔道書ですから」

 けれど彼女は嬉しそうに、幸せそうに微笑んだ。彼女は消えた。遺されたのはその欠片。

 ――それが八神はやてに残された癒えない傷痕。
 シン・アスカの言葉はそこに触れた。
 互いに掛け替えの無い「喪失」を経験し、その為に力を求めたシン・アスカと八神はやて。
 方向は違えども、二人の本質はよく似ている。そして至った道は真逆の道。

 シン・アスカは守る為に全てを捨て、八神はやては守る為に全てを欲した。

 それゆえに、全てを欲する彼女にとって自分の命に欠片も意味を見出せない彼の言葉、それが彼女には許せない。
 だから、彼女はこう思った。
 ならば、守らせてやろう。その為の力をくれてやろう。そして、決して止めることなく守り続けろ、と。

 カリム・グラシアとその配下の男――それが誰なのかも定かではないが――が何を考えていようと、自分は、八神はやては決して捨て駒になどしない。鉄砲玉になどさせるものか。鍛えて、鍛えて、鍛えて、鍛え続けて、全てを覆す最強として君臨させてやろう、と。
 その力で以って全てを守ってみせろ、と。
 そんな彼女にシン・アスカの敵意など如何ほどの意味も無い。
 内に秘めた怒りのまま彼女は続ける。こちらを睨みつけるシンに笑顔すら忍ばせて。

「それやったらアスカさん、私のところに来る気ない?」

 だから、この言葉が出る。カリム・グラシアの言った指示。その“斜め上”を行く為の一歩目の言葉が。

「は?」
「え?」

 鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする二人。はやては微笑みを浮かべながら付ける。

「私のところ……機動6課で鍛えてみんかと思ったんやが。」
「俺が、ですか?」

 そうや、と頷きながらはやては続ける。

「勿論、今のアスカさんじゃ来てもらうのは難しい。せやからBランク試験に受かる言う条件がつくが。」
「Bランク!?」

 驚くギンガ。新人魔導師にとっての最初の難関。それは魔法をまるで知らない素人に突きつけるコトではないからだ。
 だが、そんなことを知らないシンは――いや、彼ならば知っていたところで変わらないかもしれないが――はやての返答に答える。唇を喜びで歪ませながら。

「……八神さんのいるところは、俺に“守らせてくれる”場所ですか?」
「そうや。あんたの望む通りに“守らせたる”。老若男女問わず一切合切選ばず全部守ってもらう。あんたが望む限り、ずっとな。怪我して……死んで休んでる暇なんて無いくらいにな。」

 その答えにシンは我慢できずに笑みを浮かべた。
 唇を吊り上げ、瞳を吊り上げた、獰猛な獣の笑みを。

「そのBランク試験っていうのに受かればいいんですね?」
「いや、アスカさん、Bランクって言いますけどそれはかなり……」

 そのギンガの言葉を遮って、はやては続ける。

「そうや。次の試験は準備期間を含めて今から3ヶ月後。アスカさん一人で受けてもらう。それでもええか?」
「……俺はそれに受かれば“守れる”んですね?」
「そうや。」
「分かりました。」
「そんなら、また三ヵ月後にな。連絡は追ってするから、アスカさんはそれまで訓練したっといて。そうやな……ナカジマ三等陸佐に私から進言しとくさかい、ギンガがアスカさんの相手してあげてくれへんか?」
「わ、私がですか?」
「そうや。もう、知ってるやろうけど、またギンガには機動6課に出向してもらうことになってる。アスカさんにも来てもらうんやったら適任は……ギンガやろ?」

 そう言われると立つ瀬も無いギンガ。確かにその通りである。共に同じ部隊から出向する形になるのだ。引率するとしたら自分以外には無い。

「わ、分かりました。」
「よし、ほんならな。二人とも。」

 八神はやては踵を返すと二人の元から離れていく。

(……またカリムに頼んで裏から色々と手を回してもらわなあかん、か。焚き付けたんはあっちやし、無理にでもしてもらうけど……)

「八神はやてさん!!」

 歩きながら思考に耽っていたはやてに後ろから大きな声がかかる。
 振り返るとシン・アスカが真剣な面持ちをして直立不動で彼女に向かって立っていた。
 何事かと彼女は怪訝に思い、

「本当にありがとうございました!」

 そのまま一礼。
 そして再び直立不動に戻る彼の顔には本当に綺麗なギンガが見惚れたあの笑顔があった。
 コロコロと変わる表情。きっとそのどれもが本心からの表情なのだろう。傍らのギンガはそんなシンに圧倒されて言葉も無い。

 清廉潔白で純粋無垢な欲望の塊。人はそれを怪物(モンスター)と呼ぶ。彼は今その入口に足を踏み入れたのだろう。

「――は、そういうのは受かってから言うもんやで、アスカさ――いや、シン・アスカ。」

 彼の言葉に笑顔を返す。それは先ほどまでの何かを溜め込んだ笑顔ではない。本当の彼女の笑顔だった。
 ――その笑顔は彼女もまた踏み入れたことの証。表と裏が乖離した化け物共の一端に。
 爽やかな風が吹く―-―風だけは爽やかだ。風には心象は映らない。

 ギンガは恐れる。シン・アスカを。彼の選んで歩く道のその果てに彼がどうなるのか。それを恐れる。

 はやては挑む。シン・アスカに。彼が選んで歩く道のその果てに彼がその道を越えていけるのか。それに挑む。

 彼らが選び、駆け抜ける道は血と硝煙が渦巻き、死臭と腐臭が漂う獣道。
 その果てに何が待ち受けるのか。今はまだ誰も知らない――。



[18692] 5.訓練
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/10 09:03
 新暦76年某日ミッドチルダ。
 世界は今―――変革を迎えている。
 そう、誰もがまことしやかに噂していた。
 全次元規模でどこからともなく現れるガジェットドローンの大群。
 世界を揺るがしたジェイル・スカリエッティの脱獄。
 そして、何よりも―――世界に蔓延る次元漂流者の極端な増加だ。
 それはいつから、始まったのか分からない。だが、気がつけば、次元漂流者の数はその数ヶ月の間に極端に
増加し―――その半数以上が死骸で発見されていた。
 ある者は炎よりもはるかに“高熱の何か”で身体を焼かれ、
 ある者は“巨大な何か”に踏み潰されたような傷があり、
 ある者は酸素のあるはずの地上で“何故か”酸素欠乏症となっており――そのどれもが、「普通」に生きている人間では決してなるはずの無い怪我ばかりだった。

 時空管理局はこれに対して高度に発達した質量兵器が関与しているとその世界の捜索を開始する。しかし、
その捜索は一向に前進することなく、凍結されることになる。
 ガジェットドローンの襲撃が発生するようになったからだ。しかも、時空管理局のお膝元とも言えるミッドチルダにて。
 管理局はその処理に追われる中でその事件のことを忘れていった。誰しも目前の脅威の方が重要なのは明白。
 故に―――その事件は記憶の底に追いやられていくことになる。
 だから、誰も気付かなかった。
 シン・アスカがこの世界ミッドチルダに現われたその日から―――“一度”も時限漂流者は発見されていないことを。


 ギンガがシンに課した訓練。それはとりもなおさず基本の反復。そして模擬戦と座学。この三つに尽きた。
 何しろ、本来数年かけて合格するべきモノをたった数ヶ月で合格するというのだ。まともな訓練で出来るはずがない。
 よって三ヶ月と言う期間の全てを使って彼女はシンの望む系統の基本魔法の習得、そしてその習熟に費やし、あとは全て模擬戦と言うスケジュールを組むことになる。
 今日で7日目。初日はずっと魔力の認識と基本の魔法。
 驚くことに――と言っても一度魔法を使ってはいるが――シンは通常2週間から1ヶ月はかかる魔力の認識と発動を物の見事に一度目で成功させた。流石のギンガもモノが違うと感じた。八神部隊長が眼をかけるだけはあると。
 それから分かったことはシン・アスカの適性は空戦魔導師の中近距離型。元の世界でパイロットをやっていたせいか飛行に必要な一通りの能力を全て高いレベルで保持していた。ギンガ自身は飛行に関してそれほど得意でもない為――というか官理局の多くの魔導師が――詳しく教えることは出来なかったが。
 そして一週間。とにかく基礎の反復と習熟を繰り返させた。
 寝ても醒めてもデバイスの起動を繰り返し、基礎魔法――魔力弾の発射と魔力の収束、そして魔力の変換をとにかく何回も繰り返させた。そして、以前シンが無我夢中で使用した魔法―-炎熱変換と呼ばれる類の魔力変換を特に重視して反復した。
 知らずに使える以上最も高い適性を持っているのだろう、とギンガはあたりをつけ、重点的にそれを反復させた。炎を垂れ流すだけではなく、それを収束し、放ち、爆発させるなどの変化をつけて。
 結果としてシンは一週間で“とりあえず魔法を使える”と言ったレベルにまではなった。
 無論、とりあえずである。殆ど素人と変わりは無い。だが、これでようやく模擬戦を訓練に組み込むことが出来るレベルなのだ。
 模擬戦――ギンガは基礎を怠るような真似などするつもりは無いが、何よりもBランク試験に受かる為に必要なのは経験と発想力。それを手に入れるには実務経験が最も有効な訳ではあるが、シンをいきなり陸士108部隊の職務につけるなど出来る筈もない。故に模擬戦でそこを補うしかない。
 これでようやく二歩目。ギンガはそう考えていた。

「おはようございます、ナカジマさん。」

 訓練場にやってきてギンガが目にしたのは陸士108部隊の訓練用の運動服を着込んだシン・アスカだった。

「おはようございます、それじゃ早速始めましょうか、アスカさ……えっと、今日からは、シ、シ、シンと呼ばせてもらいますけど、い、いいですか?」

 物凄いどもりながら、ギンガは言い放つ。
 目前に立つシンはそれについて怪訝な顔をする。当然だろう。何故かギンガの頬はわずかばかりに赤面しているのだ。

「別に構いませんけど……なんでいきなり?」

 怪訝な顔をするシン。

「あ、いや、いきなりと言うか……ア、アスカとかナカジマよりお互いにシン、ギンガの方が呼びやすいかなあとかあったんですけど……ど、どうですか?」

 少し赤面し、話すギンガ。緊張しているのだ。
 彼女はかつてこのようにして異性と話したことなど無いから。あっても基本的に全て同僚。つまりは、ギンガ・ナカジマと言う個人の前に、組織を介した付き合いである。
 だが今回は違う。
 初めは保護者と言う枠組みではあるものの、出会ってからずっと彼らは個人同士の付き合いと言ってもいい。
 故に、ギンガは緊張する。
 気になる異性の前では乙女と言うのはすべからく緊張するというのは世界が変わろうとも常にそこにある真理なのだから。
 その相手がこんなどうしようもないほどにひねくれてねじれ切った変人だといのはギンガにとって憂うべき事態なのかは定かではないが。
 ちなみにこの提案はゲンヤからのものだった。シンとギンガの訓練を見ていた彼は訓練後にギンガに言った。

「お前ら、もう少し仲良くしろよ。」

 ギンガ本人は仲良くしているつもりだったが、どうにも空気が硬い上に呼び名がどっちも硬すぎて傍から見ればかなりギクシャクしているように見えるらしい。
 別に、決して仲良く見られたい訳では無いし、積極的に仲良くなりたいわけでもないが周りからそう思われるのも嫌なのでギンガはゲンヤの提案に乗ることにした。

(べ、別に、仲良くなりたいとかそんなんじゃないのよ?)

 誰に言い訳しているのかギンガは心中で呟き……彼女を不思議そうに見るシンに気付く。

「あ、アスカさん?」
「俺は別にどっちでも構いませんけど。」

 シンは少し苦笑気味に頷く。呼び名など別にどう呼ばれても気にはならないからだ。

「そ、それじゃ模擬戦を始めますね、デバイスの準備はいいですか、アスカさ……シン?」
「はい!」

 シンは答えを返すとデバイス――彼に支給された銃剣型のデバイス「デスティニー」を起動し、魔力を込める。
 途端に刀身から赤い炎が燃え上がる。
 目前で「デスティニー」を構えるシン。
 デスティニー。それは今回シンがBランク試験を受けるに当たり、機動6課からシン・アスカ個人に対して支給されたアームドデバイスである。
 名前については、シンの乗っていたモビルスーツに残されていたデータからつけられたとか。そしてその設計思想も。
 基本素材は全て機動6課ライトニング分隊所属エリオ・モンディアルの持つアームドデバイス“ストラーダ”と同じである。
 ストラーダのスペアパーツを元に作り出された、いわばストラーダの兄弟とでも言うべきものである――その内容はツギハギ同然ではあったが。

 およそ長さ1m、幅15cmほどの片刃の刀身と40cmほどの長さの柄。そしてその刀身の背に存在する銃身。
 「銃に剣を装着する」のではなく、「剣に銃を装着する」というその外観。
 それは、銃剣(バヨネット)と言うよりも剣銃(ガンブレード)と言った方が正確である。
 そして何よりも奇異なのは鍔の部分に突き刺さるようにして収まっている僅かに刀身が反り返った二本の短剣。
 コンセプトは「如何なる距離であろうとも優れたパフォーマンスを発揮する」と言うモノ。
 その特性は機動6課の中ではフェイト・T・ハラオウンの持つバルディッシュアサルトが一番近い。
 中距離、遠距離においては刀身に装着された砲撃武装「ケルベロス」のモード切替により速射と砲撃を。
 近距離においては大剣「アロンダイト」による斬撃。そして鍔に収納されている双剣「フラッシュエッジ」により取り回しが不便な超接近戦における適性も持つ。
 急造仕上げであるが故に、インテリジェントデバイスではなくアームドデバイス――それも非人工知能搭載型として作り出された。一応AIは存在するものの、補助のみの役割であり、思考することは無い。

 故に――ギンガには一つの疑問があった。
 どうしてこんなに早くこの人にデバイスを支給するのか。急造仕上げと言うことは「間に合わせなければいけない理由」があったと言うことだ。
 その理由がギンガにはどうしても分からなかった。
 確かにシン・アスカの潜在能力及び成長速度は並ではない。異常とすら言える速度だ。元々魔法への認識能力が高かったにしてもその速度は、才能の一言で済ませられないほどに際立って異常だった。
 故に、彼がいずれ自分専用のデバイスを手に入れるであろうことは想像に難くないのは確かだった。
 だが、それでも、未だまともに戦闘も行えない魔導師にデバイスを渡すなどどう考えてもおかしい。
 ましてやこれは専用デバイス。本来は「使用者を観察し、そのスタイルに見合ったデバイス」として開発するのが常であるのに、今回のこれはまるで「デバイスが求めるスタイルの使用者を作り出す」ように思えてならない。
 結果と過程があべこべになっている上に、このデバイス「デスティニー」の性能がギンガの疑念に拍車をかける。
 「デスティニー」は、いわば「何でも出来ることそのもの」が武器のデバイスである。遠距離から近距離まで如何なる距離においても平均して戦果を生み出すことの出来る――要するに器用貧乏のデバイスだ。
 「如何なる距離においても平均的な戦果を生み出せる」と言うことは逆に言えば「絶対的な戦果を生み出せる距離」が無いのだから。
 だが、それも使用者の実力一つではある。もし、使用者が如何なる距離をも得意とするなら――このデバイス「デスティニー」
は極めて強力な「単騎精鋭」を作り出すことになる。だが、これはあり得ない。何故なら、戦闘とは個人戦ではないからだ。
 個人戦で無い以上、そんな技などまるで必要ない……・だが、もし、個人戦、もしくはそれに近い環境での戦闘を強制させられるならば、辻褄は合う。

 それともう一つ。
 器用貧乏とは言い換えると全ての距離適性――つまりは戦闘技術に対する適性を持っていると言うことになる。
 逆に言えば、右も左も知らない素人に基本技術を叩き込むには最も問題の無い手法ではある。
 後者は理解できるのだ。
 短期間で成長させる為の方法論としてはいささか疑問が残るものの、基本技術を叩き込むと言う姿勢には意味があるからだ。
 だが前者―――単騎精鋭を作り出すという考えはどうしてもおかしい。
 おかしいのに、ギンガはその可能性を馬鹿げたこと、と切り捨てることが出来なかった。
 それは、多分、あのシン・アスカを見せ付けられていたからかもしれない。
 個人戦に近い状況。
 それが選択される状況とは基本的に劣勢だ。総合点で勝てないから個人戦という局地戦に持ち込むのだ。
 その戦場がどれだけ殺伐としているかなど考えるまでも無い。
 そして、そういった状況で矢面に立たされる誰か――この場合はシン・アスカである――は基本的に命の危険に晒されるか、もしくは捨て駒――要するに殿(シンガリ)として配置される可能性すらある。
 トカゲの尻尾切りのように、捨て置かれる末端として。
 それに思い至ったギンガは一つの仮説を思いつき―――それを振り払う。
 これを彼に支給した機動6課部隊長八神はやて二等陸佐の顔を思い出す。
 ギンガの知る彼女はそんなことを考える人ではない。そう思って。
 彼女は今度こそ、自身の頭に思い浮かんだ考えを馬鹿げたことと一蹴した。
 そうだ。そんなことがあるはず無いのだ。
 八神はやてが、シン・アスカを、“捨て駒”もしくは“鉄砲玉”として作り上げようなど、あり得るはずが無いのだから。
 目前ではシンがデスティニーを振りかぶり、地面を這うようにギンガに向かって疾走する。彼女はその一撃を前に考えを振り払い、模擬戦に没頭することに決めた。
 考えても仕方が無い。そう割り切って。


 そこは医務室。ベッドの上でシンが眠り、その横でギンガが椅子に座り、彼の寝顔を見つめている。

「こうしてると子供みたいな寝顔なのに……どうして倒れるまで止めないのよ。」

 苦々しく呟き、ギンガは目前のシン・アスカの寝顔を見る。それは酷く満足げで、満足感にあふれた顔だった。
 ――模擬戦はギンガの完勝に終った。シンはその時点で疲れ切って動けなくなっていた。
 当たり前と言えば当たり前である。
 デバイスを使った戦闘というのは、非常に過酷である。
 特に接近戦においては強固な守りを常に張り続けると言う大前提がある。
 こちらの最大威力の攻撃を当てることの出来る距離というのは、逆に言えば敵の最大威力の攻撃を受ける距離でもあるからだ。
 シンは無謀にもそんなギンガに接近戦を挑んできた。負けると言うのは当たり前である。
 そのエリアに立つと言うことはシンも同じくギンガの攻撃を受け止める為の防御を行わなければいけないのだから。
 そんな彼が彼女に勝つことなどどう足掻いても不可能だ。というよりも相手の得意な分野で勝負しているのだからしょうがないとは言える。
 ギンガの見立てでは、シン・アスカの資質は彼女と同じフロントアタッカーではなく、ガードウイング――所謂中衛に位置する。
 高い反応速度と身体能力は確実な回避を旨とするガードウイングに適していると言う見地からの考えだ。
 その考えは間違っていない。だが、シンはその性質上どうしても最前衛にならざるを得ないのだろう、そうギンガは考えていた。
 シン・アスカの願いは守ることだ。誰をも。眼に映る全てを。
 そんな彼が果たして、誰かを前にして戦うことなど出来るだろうか?

(……多分、無理でしょうね。)

 ため息を吐いて、胸中で断言する。その理由があるからこそ彼は力が欲しいと考えた。
 ――俺は、どうして、こんなに、弱いんだ。
 あんな顔をする彼が、誰かを盾にして戦うなど恐らく――否、断じてあり得ない。
 暗澹たる気持ちが渦巻く。このまま、魔法を教えていいのかとすら思うほどに。

「……はあ。」

 ため息を吐く理由はまだある。
 彼がこうして、医務室のベッドに横たわる原因は何も模擬戦で倒されたからと言う訳ではない。
 問題はむしろ模擬戦の後――ギンガが言い渡した基礎訓練だった。
 彼女は模擬戦の後、力尽きて倒れたシンに向かって、魔力に炎熱変換を行いその上で収束と開放を命じた。
 基本中の基本である。回数は特に問わない。「出来る限りでいい」と。
 それが失敗だった。
 彼は気が付けば、凄まじい回数をこなし、ギンガが一時その場を離れ、職務をこなし、昼食を買って戻ってくるその瞬間まで続けられた――実際、続きはしなかった。
 彼女が再び訓練場を訪れた時に見たのは床に倒れているシンだった。
 その後彼女は大慌てで軽い脱水症状を起こしていた彼を医務室にまで運び、処置を頼み、付き添って看病している。
 一体どこの世界にいることだろう。自身が倒れて気を失うその直前まで延々と魔法を行使し続けるなどと。
 普通は物理的な限界の前に精神的な限界で人は諦める。
 そこが安全ラインなのだと肉体は知っているからだ。
 だが、本当の限界はその先――精神的な限界を超えて肉体の血の一片、細胞が慟哭する瞬間に初めて訪れる。
 けれど普通はそこに行き着くことはない。
 エンドレスでマラソンをすることが出来ないように精神的なラインを超えると言うのはあまりにも苦痛であるからだ。

「……死んだらどうするつもりだったのよ。」

 文句が知らず漏れ出る。
 分かってはいたが彼は常軌を逸している。ブレーキの壊れた機関車ではなく、ブレーキの存在しない機関車だ。
 あの時、彼が魔導師になる理由を語った時、ギンガは彼の異常を感じ取った。
 コロコロと変わる表情。内から滲み出る陰鬱。そして、獰猛な怪物のような笑み。
 それが仮面ならばまだ良かった。だがそれが全て本心からのものだとすれば。
 「守る」と言うことに拘り、その為ならば他の一切合切――自分の命ですら必要ないと切って捨てることが出来る怪物。
 人間には決して理解できない人外の化生。彼女はシンにそういったモノを感じ取っていた。
 そしてそれは間違いなどではなかった。「守る」ために、彼は訓練に置いて自分自身を非常に軽く見積もる。
 少しでも速く強くなる為に、自身の命を削らんばかりに常軌を逸した訓練を施し、尚且つそんな訓練を当たり前にこなす。
 それが、正気の沙汰であるはずがなかった。

「守る、か。」

 小さく呟き、ギンガはシンの顔を見つめる。
 椅子の背もたれに身体を預け天井に目をやる。
 ―――思い返すのは、あの記憶。
 朧気に覚えている、最愛の妹の敵となり、戦いを強いられ、そして妹に助けられたあの記憶。
 改造され、心を侵され、そして戦い続けた無機の記憶。
 情けなかった。自分が――妹を守るべき自分があろうことか敵に回り、危うく妹を殺すところだったのだ。
 ギンガにとって妹であるスバルとは守るべき対象だった。
 姉が妹に送る――いや、家族が家族に送る感情とは大概にそういったものではあるが、彼女も同じくそうだった。
 母を亡くし、父と妹の三人で自分は生きてきた。
 自分よりも弱い妹は自分にとってかけがえのないモノで、守らなくてはならないものだった。
 それが――守るどころか手にかけようとした、などと到底看過出来るはずがない。
 だから、彼女は義手となった左腕をそのまま残してもらうことにした。
 二度と忘れ得ぬ痛みとして―――悔恨の戒めとして残しておきたかったから。
 故に彼女の左腕は今もジェイル・スカリエッティが作り出した義手である。
 けれど、自分は何も失うことは無かった。最愛の妹も、自分を愛してくれた父親も、何よりも自分自身を失うことなく此処にいる。
 最初は自分が許せなかった。妹を殺そうとしたことが許せなかった。
 けれど――誰も死んでいないのだ。結果が良ければ全てが許せると言う訳ではないが、それでもそれは満足の行く結果の一つなのだ。
 生きていると言う、それだけで。自分は死なず、誰も死なず。
 けれど――ギンガはベッドで眠るシンを見る。

(この人は……守れなかった。)

 シン・アスカは家族を守ることも出来ずに奪われた。守れなかった。それはどれほどの苦痛と怒りを生み出したのだろう。
 話を聞けば彼はそれまでは軍人などの教育を受けたことは無い一般人だったらしい。
 そんな少年が、軍に入って自身の専用機を会得するようになるなどどれほどの努力を必要としたのか……想像など出来るはずも無い。
 そして、彼はその果てに、敗北した。詳細は聞いていない。けれど、それを告げた時、彼は一切の感情が抜け落ちたような顔をしていた。
 それだけで理解できた。恐らく、彼の努力は報われることなどなかったのだ――彼は、“また”守れなかったのだ、と。
 納得は出来ない。出来ないけれど――彼女はそれを理解出来てしまう。彼のその感情を。守れなかった後悔と守りたかった悔恨の、身を切り裂かれるような痛みを。

「……鍛えるしかないのかな。」

 ギンガにはそれしか解決策が見当たらなかった。
 彼を誰よりも強く鍛え上げ、彼が自分の望みを叶えることで、彼の傷跡は癒えていくだろう。
 けれど、それは解決策と言うほどに前向きなモノではない。
 ただ、シン・アスカがこれ以上傷つかない為だけの応急処置に過ぎない。
 ギンガは思う。鍛えて、鍛えて、鍛え続けて、その果てに彼は一体どうなると言うのだろうか。
 分かり切ったことだ。
 その道の果てには何も残らない。ただの虚無だけが残るのみ。そんな道はただ戦うだけの機械と同義。
 けれど、それでも彼女にはそれしか思いつかなかった。
 理由は一つだけ。

(この人はもう、ソレを貫くことでしか笑えない。笑えない人生なんて……悲しすぎる。)

 彼の笑顔を覚えている。あの花のような笑顔を。
 別に彼のことを良く知っているわけではない。知っていることは上辺のことだけで――内実は知らない。
 恐らくは単なる同情だろう――
 天井を見ていた顔を下ろし、シンを見る。
 少しだけ綻びが見えるものの――彼女の瞳には強い光が浮かんでいた。覚悟という名の光が。
 とことんまで付き合おう。この人を傷つけたくないと願うのなら――その意思をとことん貫かせよう、と。
 あの日、妹に救われた自分を悔しく思った。だから今度は自分が助ける番だ。今度は自分が「誰か」を助けなければいけない――いや、助けたい、と。そう願ったから。
 それは単なる代償行為。けれど、その心は決して汚れることなく、綺麗な硝子球のようで。
 ギンガ・ナカジマはそうして彼の頬に手を当て、髪を漉き……呟く。
「……私が、貴方を強くします。だから――強くなりましょうね、シン。」
 小さな呟きと共に彼女は穏やかな笑顔を浮かべる。それはどこか母性を感じさせる笑みだった。


 翌日からギンガのシンへの訓練は苛烈さを増した。それは訓練と言うよりも修行と言う言葉が似合うほどに。
 内容は変わらない。
 相も変わらず魔力の収束と開放、変換と言う基礎を幾度と無く繰り返し、何度と無く模擬戦を繰り返すこと。
 変わったのはその密度。そして、態度。
 それまでのギンガはあくまでシンを生徒として扱っていた。名前で呼び合うようにしたのも親しくなるべきだと考えたからであってそこに深い意味は――ある意味あったのかもしれないが――基本的には存在しない。
 だが、今のギンガは違う。そこに遠慮は一切無い。
 そう、ギンガはこと此処にいたりシン・アスカを「弟子」として扱っている。
 リボルバーナックルによる一撃を防御出きるか出来ないかの速度で打ち出し、シンに防御技術の鍛錬を施し、その重要性を認識させる。「効果的な防御術」とは如何なるモノか。それを彼自身の技術として編み出させる為に。
 そして本来なら空を飛ぶシンの方が有利であるはずなのに、それでもギンガに翻弄される。
 速度ではない。そのフットワークの巧妙さによって。それを認識させ、自身のポジションを無理矢理にでも認識させる。

 元よりシンとギンガの間には素人と第一線のプロと言うほどの隔たりがある。
 まずはその格差を認識させ、自分自身に何が足りないのか。何を得るべきなのかを考えさせる。
 これがギンガの教育方針。曰く「習うよりも慣れろ」である。
 元々、シューティングアーツと言うミッドチルダにあっても希少な魔法の使い手であるギンガは、教師としては向かない。
 性格的にどうかと言われると確実に「教える側」の性格ではあるが、技術――スタイル的に向いていないのだ。
 なぜならシューティングアーツは少数派(マイノリティ)だから。

 それは簡単に言えば、魔法ではなく、むしろ武術に近い。魔法で強化した武術とでも言うべきモノである。
 その根幹にあるのは“戦闘距離を戦闘思考で補う”コト。
 一撃が届かないのなら“届く距離まで近づけば良い”。
 一撃を避けられるのなら“避けられない状況を作り出す”。
 その為の方法論として魔法を使用する。
 こういった極端極まりない魔法を素人に教えたところで意味は無い。
 妹であるスバルのように、同じシューティングアーツを学びたいというのであれば問題はないのだが。
 いかんせん、デスティニーがシンに求めているのは「単騎精鋭」であり、シン自身そうなりたいと思っている。
 そして、彼女はその思いを尊重することに決めている――それゆえギンガはシンに基礎だけを教え込むことにした。
 その他の能力は自分では無い誰かが教えればいい、そう割り切って。
 結果、ギンガは模擬戦を重視することを決めた。
 当然のことだが、如何に戦闘に慣れていようと、それはモビルスーツなどの機動兵器による戦闘のことだ。
 生身の肉体を用いた戦闘と言うのは、肉体の運用方法から短所、長所など全ての分野で違い過ぎる。
 例えば戦車を扱わせたら一騎当千と言う人間がいたとしよう。
 ならばその人間がナイフによる白兵戦でも強いのか、と言われれば首をかしげざるを得ないのと同じように、その二つに繋がりは無いのだ。
 模擬戦はその為だ。
 シン・アスカに今必要なのは肉体の効果的な運用方法を学ぶこと。つまり、「魔法を使った戦闘に慣れること」。
 これに尽きる。

「シン、そこは違います!そこはもっと小さく防御しなさい。次撃への対応が遅れるでしょう!」
「くそっ、分かりましたよ!」

 吹き飛ばされ、毒づきながらシンは再び、目前のギンガに向けて『デスティニー』を構える。モードは「アロンダイト」。
 つまりは接近戦用である。
 だが、シンはアロンダイトを振り回すばかりで、斬撃と言うものには程遠い剣戟を繰り返す。
 ギンガはそれを受けることなく捌き、懐に入り込むと左脇を締め右腕を前面に展開し顔面を防御。
 そして左腕を空手の正拳突きの如く構え、放つ。

「うおおおお!!!」

 叫びながらシンはアロンダイトを無理矢理に振りぬいてギンガの左正拳突きにぶつける。
 弾ける魔力の余波と衝撃。爆風と共に両者が吹き飛ばされ距離が開く。
 だが、その程度で戦闘に切れ目は入らない。
 直ぐに二人は活動を開始する。
 シンは舌打ちをしながら、思い通りに動かせない自分に苛立ちを隠せない。
 ケルベロス――砲撃モードは問題ない。出力、範囲と申し分が無い。
 フラッシュエッジ――取り回しの良い短剣であるが故に接近戦ではこれ以上無いほどに頼りになる。
 そして、刀身を折り畳み――モビルスーツの方のデスティニーが装備していたアロンダイトのように折り畳むことで、いわゆる反動の少ない拳銃のような運用が可能となるケルベロス速射モード――これも悪くない。使い勝手の良さは折り紙付きだ。
 だが、

「くそっ!何でこんなに動かし辛いんだ!!?」

 アロンダイト。これが拙い。
 デスティニーを駆り、戦っていた時は同じ名前の大剣に幾度と無く助けられたと言うのに、いざ生身で似たような武器を使うとこれが使いづらいことこの上無かった。
 取り回しが悪い。そして、その長さゆえにどうしても振り回すような形になる。
 剣術を学んでいたならば違っていたかもしれないが、シン・アスカは軍人で、CE時代の軍人は当たり前の話しだが剣術の指導など受けない。
 精々がナイフによる白兵戦くらいである。
 現在のシンにとって、基本形態である「アロンダイト」こそが最も厄介な代物となっていた。
 頭の中にあるモビルスーツ・デスティニーの見様見真似で振り回すも先ほどのように簡単に捌かれ、懐に入られる隙を作ってばかり。
 その代わり威力は折り紙付き。
 当たればプロテクションやシールドなどの防壁を破壊しながら、敵にダメージを与えるそれは破格の斬撃武装と言って良かった。
 故にシンは一撃逆転を狙って何度もアロンダイトを振り回す。
 しかし当たらない。当たらないどころか徐々にギンガの攻撃を受け止めるだけの盾に成り下がっていく。

「ひゅっ」

 ギンガの鋭い呼気。
 僅かばかり大振りだったその一撃を紙一重で回避するとシンは上空に飛び上がる。同時にデスティニーへ指示を送る。

「デスティニー!カートリッジロード!モードケルベロス!」
『Mode Kerberos』

 デスティニーが電子音による返答と共に変形。刀身の中腹辺りに取っ手が現われる。
 同時に刀身が白熱し、その背部の砲門へと魔力が収束する。
 即座にシンは現われた取っ手を掴み、柄の部分をしっかりと握り締め、デスティニーを地面に向ける。
 収束する魔力。刀身の弾装から一発薬莢が飛び出る。同時にガシュンと言う音と共に漏れ出る蒸気。

「くらえ!!!」

 その目的は上空からの大規模砲撃による一撃必殺。
 接近戦で嫌と言うほどに味わったリボルバーナックルの味は身に染みている。
 あの拳撃の嵐から逃れ、一矢報いるにはそれしかない。そう判断して、だ。
 だが、シンのその思考は既に“彼女”の範疇の中。

「そう、来ると思っていました。」

 余裕を感じさせる声でギンガは既にシンの真横――左側にいた。

「なっ!?」

 ギンガはシンへの一撃が外れた瞬間、即座にウイングロードを展開し、シンの視界に入らないようにシンの死角へと向かう軌道で上空に既に到達していたのだ。
 慌てて、シンはデスティニーの柄から三日月上の短剣――フラッシュエッジを引き抜き、ギンガに向かって振り抜いた。だが。

「慌てて、攻撃しても意味はありません。攻撃とはこんな風に落ち着いて――」

 笑みを浮かべ、ギンガはシンのフラッシュエッジを落ち着いて捌く。シンの背筋に冷や汗が流れる。
 シンの右腕はデスティニーを地面に向けて固定している。そして左腕は今しがたフラッシュエッジを振りぬいた。
 つまり、シンの胴体部分はがら空き。
 どうぞ、攻撃してくださいと言わんばかりの絶好の好機。左手のリボルバーナックルが回転し唸りを上げる。
 幾度も幾度もこの身を打ち抜いたその鉄拳。
 シンはその一撃に恐怖を感じることも無く、最後の足掻きとばかりに、無理矢理に身を捻り、少しでもその一撃から身を逸らそうとする。

「撃ち貫くものですよ!」

 叫び。そして、打ち出される鉄拳。
 瞬間、声を出す間さえ無く吹き飛び、地面に向かって突き刺さるようにして叩き落されるシン。

「……ちょっと、やりすぎたかな?」

 展開したウイングロードから見下ろすと、地面に突き刺さるようにしてシンが気絶していた。
 


 シン・アスカとギンガ・ナカジマはこのようにして毎日毎日模擬戦を繰り返した。
 基礎訓練の際にはやりすぎないようにきつく(主にリボルバーナックルで)、回数制限を行い、残りの時間を模擬戦に当てる。
 筆記試験に関しては元々軍で座学などは習っていた為かシンにとっては復習程度で十分だったらしく、満点――とまでは行かずとも及第点は確実に取れるようになっていった。
 そうして二人の修行は続く。
 余談だがどんなに期間を空けたとしても3日に一回は医務室に運び込まれる彼はその内に「陸士108部隊始まって以来の特訓マニア」などと不名誉なあだ名を付けられることになる。
 そして彼を介護し、何度も叱責し、それでも鍛え、挙句の果てに叩き落とし、殴り倒し、吹き飛ばすギンガはいつからか畏怖と賞賛と揶揄を込めて「特訓マニアの鬼嫁」として呼ばれることになる。
 


「……せやけど、本当にギンガがやってくれるとは思わんかったわ。」

 陸士108部隊隊舎内の一室にて二人の女性が向かい合って座っている。
 一人は八神はやて二等陸佐。機動6課部隊長。
 もう一人はギンガ・ナカジマ二等陸尉。二人が今いるのは応接室である。

「シン・アスカの調子はどうや?」
「かなりいい感じです。このまま進めば本当にBランク試験に受かっちゃいますね。」

 微笑みながらギンガは先ほどまでの模擬戦を思い出す。いつものことながらアロンダイトの扱いに四苦八苦していた。今頃は自分の言っておいたメニューをこなしていることだろう。
 彼の様子を思い出し、楽しそうにするギンガを見てはやては紅茶を口に付けると、不敵な笑みを浮かべる。

「へえ……何や、ギンガはえらい楽しそうやな。」
「ええ、楽しませてもらってます。」

 くすりと笑いながらギンガは自分の前に置かれた紅茶をもって口に運ぶ。

「ふふん……まあ、ええけど。今日ここに呼んだ理由についてはナカジマ三佐から聞いてる?」
「いえ、何も。」
「そか。」

 紅茶をテーブルに戻し、組んでいた足を戻すはやて。それを見て、ギンガも居住まいを正す。
 雰囲気が変わる。和気あいあいとした雰囲気は消え去り、厳粛な空気が立ち込める。
 はやてが口を開く。ぎろりとギンガに視線を飛ばす。

「……シン・アスカについて、ギンガはどう思う?」
「どう、とは?」

 聞き返すギンガにはやては繰り返す。

「単刀直入に言うで、シン・アスカは前線に出して使えるレベルなん?」

 それを聞き、ギンガは言葉に詰まる……も、素直に状況を説明し始める。

「……現場によりけりです。少なくとも聖王のゆりかごやナンバーズクラスの相手に対しては……無理です。」
「まあ、そうやろうな。」

 再び紅茶に口を付けるはやて。それは諦観でも気落ちでも無い。予想通りと言う反応だった。
 ギンガはそれを見て、以前から考えていたことを口に出す。
 自分が機動6課に出向する理由。それは、

「やっぱり、6課では……」
「うん、これから6課が行う任務はそのレベルや。そやさかいにギンガに来てもらうことになった。正直、なのはちゃんの抜けた穴を埋めるんはそれでもまだ足らんくらいや。」
「……確かに。」

 高町なのは一等空尉。
 管理局のエースオブエースの異名を持つ彼女は聖王のゆりかご戦で行ったブラスターモードの後遺症によって現在療養中である。
 ギンガが出向するのはその為。エースオブエースが抜けたことで生まれた大きな穴を少しでも埋める為、である。
 だが、はやて自身が言っている通り、ギンガ一人が出向した程度で埋められるほどその穴は浅くはない。
 オーバーSランクの魔導師の実力とはそれほどに大きい。

「……彼は6課にはまだ、早い、か。ほんまはその方がええんやろうな。」

 はやては呟き、顔の前で両手を組み、何事か思案するような顔をする。
 ギンガの胸中は複雑だ。
 シン・アスカは“守る”ことが出来るからこそ、機動6課に入る為にあれほどの地獄の訓練に身を浸している。
 だが、実際彼がBランクの魔導師となって機動6課に入ったところで、彼が即座に役に立つとも思えない――いや、思えるはずが無い。
 はやてがどうしてここまでシンに拘るのか。その理由は正直理解できない。故にギンガは確信じみた疑念を持っていた。
 八神はやては何かを隠している、と。
 無論、上官である八神はやてが自分に隠し事をするなど当たり前のことだ。
 そのことについてギンガ自身は別に何を思うこともない――それがシン・アスカに関わらないことであるのなら。
 ギンガ自身気付いていないが、シンに対する彼女の感情は、管理局が次元漂流者に抱くものとまるで違っている。
 彼女はシン・アスカを“保護”するべき対象としてではなく、“庇護”するべき対象として捉えている。
 故にギンガは上官である八神はやて二等陸佐であろうとも“シンを害する”つもりで隠しているのであれば、それに対して反抗するつもりであった。
 それはまだ、「気持ち」というほどに確定していない、“つもり”程度のものであったが。
 はやてが顔を上げる。思案は終ったらしい。

「今日ここにきたんは、ギンガに言うべきことがあったからや。今度の模擬戦の内容について、や。」

 場の緊張が一斉に張り詰める。

「内容はギンガとシン・アスカの一騎打ち。そこで彼がギンガに勝てばBランク。と言うことにしてる。」

 あまりにもあっさりと告げられ、ギンガは一瞬はやてが何を言っているのか理解できなかった。
 それはその内容がBランク試験という昇級試験の“意味”や“内容”からあまりにも常軌を逸していたからでもあったが。

「……え? いや、ちょっと待ってください、それ、どういう……」
「反論は受け付けん。これは決定事項や。」

 厳しいはやての目つき。それに射すくめられ、怯みながらもギンガは反論する。

「ちょっと待ってください!どう考えてもおかしいじゃないですか!」

 大きな声を上げ、テーブルを両手でばんっ!と叩く。
 紅茶の水面が揺れ、波紋を広げる。

 ―――Bランク試験。
 それは新人魔導師がまず最初にぶつかる壁である。
 その内容は複数試験課題を用意され、そのうちの一つがランダムで選択され、それを突破すると言うもの。
 内容もBランク試験という名に違わない、「Bランク魔導師の能力があり、資格を得るに適性であるかどうか」という部分を見る試験である。
 断じて――断じて、戦闘能力だけを見る為の試験ではない。戦闘能力と共に、判断力、発想、行動力、安全性等の様々な要因を確認する試験である。模擬戦という戦闘能力だけを見るようなそんな試験ではない。
 八神はやてがその程度のこと知らない筈が無い。いや、知っていなければおかしいのだ。

「おかしいか?」
「おかしいです!Bランク試験ですよ!?模擬戦って言う内容はそれまでの期間や経緯を考えれば理解は出来ませんが納得は出来ます!けど、どうして、その相手が“私”なんですか!?」

 現在のギンガ・ナカジマのランクはAランク。前述した「Bランク魔導師の能力があり、資格を得るに適性であるかどうか」を見るにはまるで意味が無い。
 そう、Bランクの能力があるかどうかを見るならBランク魔導師をぶつけるのが筋である。
 これではまるで、Aランク以上の昇級試験である。如何にシンの成長が早かろうともそれは不可能。無謀である。
 ギンガはシンのあの笑顔を守る為に鍛えようと思ったのだ。彼があの笑顔を出来るように、“守れる”ように。
 けれど、これでは彼を騙しているだけだ。ぬるま湯のような期待を与えるだけ与えて、叩き落す。
 今のギンガにとって絶対にそれは看過できない。シン・アスカを裏切ることだけは絶対に。
 それがギンガ自身未だよく分からない感情が発端であったとしても。
 はやてはそんなギンガを見上げ、二人から見て左側になる空間に画面を生み出す。

「ギンガも、コレのこと知ってるやろ?」

 そう言ってはやてが空間に投影したディスプレイ――念話の応用だ――に写した画面に一人の鎧騎士が映る。
 八神はやてを撃墜し、そしてライトニング分隊を撃退したと言う化け物。

「……知ってます。」
「この男の力な、推定で少なくともSS以上だそうや。」
「SS、以上……?」

 それは、管理局においても最強クラスの魔導師を意味する。一騎当千を地で行く魔導師の最強。SSランク。
 ギンガは絶句し、その男を凝視する。

「機動6課の虎の子、フェイト・T・ハラオウン率いるライトニング分隊が殆ど何も出来ずにやられた。正に悪夢みたいな化け物や。」

 その言葉にギンガは眼を見開いて驚く。
 “あのフェイト・T・ハラオウン”が何も出来ずに倒された――その詳細を知らず、何かしらの理由があって倒されたと思っていたギンガにはそのことが俄かに信じられなかった。
 驚くギンガを気にせず、視線を移すことも無くはやては続ける。

「シン・アスカを機動6課にどうして入れようって話しになったか。理由は複数ある。その一つ……それはこの男の足止めをさせる為や。」
「どういう、ことですか。」

 一瞬の静寂。
 ギンガはその次の言葉を大よそ予測していた。

「これからの任務には捨て駒が必要になる。」

 はやては、そこで一度言葉を切り、再び繋げる。

「――シン・アスカはそれに選ばれた。」

 その言葉を聞いてギンガは椅子に腰を落とし、顔を伏せる。
 それは自分の知る八神はやての言葉とは信じられなかったから――否、それがおよそ自分の予想していた現実と同じだったことに衝撃を受けて、だ。
 沈黙が場を満たす。
 八神はやてはそんなギンガに構わず続ける。

「せやけど、“私”はシン・アスカを殺すつもりはない。彼には彼の望み通りに守ってらうつもりや。全てをな。」

 そうだ。八神はやては決して「捨てない」のだ。
 誰であろうと何であろうと、零れ落ちる全てを拾い続ける。
 故に、シン・アスカを利用する。
 彼の願いを利用して、全てを守り抜かせる。

「私はシン・アスカを最強の魔導師にする。そして彼の力で以って化け物共と相対する。これが私のプランや。」
「それ、は……」

 ギンガには言葉も無い。はやての言葉は、そこに込められた目的こそ違えど、大筋で彼女がシンに対して決めたことと同じだったから。

「その為の一歩目。シン・アスカを現在のうちのフォワード陣と同格にする。」
「だから、私を……?」

 力無く呟く。ギンガの体から力が抜けていく。
 彼女は今、自分自身が彼に施そうとして居た処置の正体を見せ付けられ、打ちひしがれている――断罪されているのだ。彼女は、彼女の思い描いたシン・アスカの姿に。

「今のギンガは恐らくAAからAAAくらいの実力がある……私はそう思ってる。それは機動6課のフォワードと同じくらいの実力や。」
「だから、私を、試金石にする、と?」
「そうや。」

 躊躇い無く答えるはやて。

「その為にこんな、登れもしない壁を作る、と?」

 疑問を呟く。けれど、その疑問に返される答えはどこまでも自分自身の思い描いた彼の行きつく果てと同じで―――

「その壁を登るか、ぶち壊す力が必要なんや。無理を通して、理不尽だろうと不条理だろうと、道理を全て吹き飛ばす。そういうむちゃくちゃなヒーローがな。シン・アスカが……彼がなりたいのはそういうヒーローや。」

 ヒーロー。
 八神はやてとギンガ・ナカジマの見解は一致している。
 シン・アスカの成りたいもの。それは何であろうと全てを救う無敵のヒーロー。
 コミックスやアニメ、映画……・平たく言えば空想の中にしか存在しない、してはいけないご都合主義の塊。
 八神はやては、これまでの経験から。
 ギンガ・ナカジマは彼との触れ合いの中で。
 違う経緯を辿りつつ、彼女たちはシン・アスカの本質に行きついている。
 シン・アスカとはどこにでもいる存在だ。
 “偶像を崇拝する人間”ではなく、“偶像になりたい人間”。
 違いがあるとすればその思いが肥大化し過ぎただけで。
 だから、彼の傷を癒す方法など一つだけ。
 鍛えて、鍛えて、鍛え上げて、越えられない壁を越えさせて、撃ち抜けない壁を撃ち抜かせて、届かないユメに手を届かせる。
 けれど、その代償は大きい。
 ギンガははやての言葉に耳を傾けながら、思考を沈める。以前――あの時、ギンガが覚悟した時には沈めなかった深度まで。
 一つの懸念を浮かび上がらせる為に。

「……それで、全てが終わったら、どうするつもりなんですか。」
「戦い続けるだけや。ヒーローに終わりは無い。いや……“終わりが無い”からヒーローなんやから。」

 それは、虚無。
 戦って、戦って、戦って、世界を守る為、自身を削り続ける鉛筆削り。
 けれど、鉛筆は永遠に削ることは出来ない。鉛筆はいつか折れる。細く尖った鉛筆は鋭く強く……けれど繊細で脆い。
 いつか辿り着く終わりに向けて、駆け抜けてゆくだけの、ドラッグレース。
 ああ、だからこそ単純で明快で一途で。それはシン・アスカにとっては何よりも安息を得るであろう一つの理想―――。

「ふざけないで……ください。」

 血を、吐くような声でギンガが呟いた。

「どうして、そこまで、シンを」
「――捨て駒として消費するよりはよほどマシやとは思うてる。違う?」

 滑らかに、まるで初めから用意されていた答えを読み上げるようにはやては答えを返す。

「あの子は守りたいんや。私は守らせる。その為に、あの子には強くなってもらわなあかん。」

 ギブアンドテイク。彼女はそう言っているのだ。
 八神はやてはシンをヒーローとして鍛え上げ、彼を癒し、自分も利を得ると言うギブアンドテイクを提案している。
 その果てにシンがどうなるのか――それを知った上で。
 か細い声でギンガは尋ねる。

「道具扱い、ですか。」
「違う。“手駒”扱いや。」

 その言葉をこれまで通り、躊躇い無く言い放つ。

「……もし、シンが私に負けた時、彼はその後どうなるんですか。」
「どうもせん。まあ、ここまで強引な手を使うんや。出来ませんでした、じゃ済まんやろうから……魔導師としてはもう生きていけへんかもな。」

 魔導師としては生きていけない。それはもう、誰も救えないと言うこと。彼が望む願いを剥ぎ取られると言うこと。
 ――それは、それだけは駄目だ。そんなことをして、彼を、最悪の絶望の淵に追い込むくらいないっそ――
 そんなギンガの思考を読んだのか、はやては断罪するように呟いた。

「……一つ言っておくで。」

 びくっとギンガの肩が震える。

「試験時の監督は私、八神はやてと機動6課が全面的に執り行う。手抜きしたら直ぐに試験は中止にして、この話しは初めから無かったことになる。」
 ギンガは答えを返す力すら無く、俯いたまま顔を上げられない。
 それで話しは終わりだった。
 八神はやては立ち上がる。見れば、いつの間にか、彼女は紅茶を飲み干していた。

「ほんなら、後は頼むでギンガ。シン・アスカをたの……」

 その言葉を切るように、ギンガが呟く。

「……部隊長はシンをどう思っているんですか?」
「どう思っている?」
「シン・アスカという個人を。」
「私が、彼を……?」

 八神はやてがシンに拘る最も大きな理由。それは預言の末尾に付け加えられた一文である。

『狂った炎は羽金を切り裂く刃となるだろう』

 狂った炎――それは恐らくシン・アスカのことだとカリム・グラシアと八神はやては予想した。
 時期を同じくして現れた異邦人。臓腑に清廉潔白な狂気を隠し持った一人の男。
 そして、カリム・グラシアの配下のある男は言ったそうだ。破滅の預言を覆せるとしたら、シン・アスカだけだと。その情報は確かな筋の情報だとか。
 故に、時空管理局という組織は、シン・アスカを捨て駒とすることを決めている。
 それは管理局としての決定。
 組織としての決定である。それに対して八神はやてという一局員には別段文句は無い。
 では、自分――八神はやてはどう思っているのか。
 見栄っ張りで強情で、人の話を聞かない猪突猛進。それは、彼と同じ赤い瞳の彼女を思い起こさせる。
 だから、これはみっともない八つ当たり。
 あの時、助けられなかった彼女と同じく、自分の好き勝手に生きて周りを省みない彼への嫌がらせ。
 八神はやてはそんな自分を卑下し、自嘲の笑みを浮かべ、ギンガに答えを返す。
 嘘と、少しだけ真実を混ぜ込んで。

「……亡くなった誰かに似てる。そんな気がするから拘ってるのかもしれんな……・ギンガはどうなんや?」
「私は……あの人に傷ついて欲しくない。それだけです。」
「そか。」

 二人はそこで別れた。

 車に乗り込み、帰路に着いた彼女――はやては顔を顰めると自身の鞄の中からミネラルウォーターと白いケースを取り出し、その中から白い錠剤――胃薬を取り出すと一気に水で流し込んだ。
 落ち着かない感情。軋むように痛む胃。そして罪悪感で砕け散りそうになる自分自身。それら全てを飲み込むようにミネラルウォーターに口を付ける。

(……ごめん、ギンガ。ごめん、アスカさん。)

 ごめんと心中でのみ彼女は繰り返す。幾度も幾度も。数え切れないほどの懺悔を。
 そんな懺悔をする資格は自分には無いのだと分かっていながらも、彼女――八神はやては“変われていない”自分自身に嫌悪を示し、挫けそうになる心を強く戒める。

 ――自分は強くならなければならない。誰よりも何よりも。“この世界を救う為に”
 悲壮な決意と思いは誰にも知られない。彼女の心の内にのみ潜むが故に。
 ―――それは誰にも知られることなく沈殿する。


 部屋の中、ギンガは俯き、ずっと彼のことを考えていた。
 どうしたら、彼を救えるのだろうか……救い“出せる”のだろうかと。
 答えは出ない。気が付けば既に夕暮れ。
 茜色の空は彼女が思考を焦がす彼の瞳のように真っ赤で、胸を抉られるような鈍痛の中、彼女はただ強く、強く拳を握り締めた。
 答えの出ない自分自身に憎悪すら感じながら。ティーカップの中の紅茶は既に冷め切っていた。



[18692] 6.乙女
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/10 09:06
「……あの今日はどうしてこんなところに?」
「息抜きです!」

 ギンガがそう力強く叫ぶとシンはため息を吐く。

「何を、するんですか?」
「だから、息抜きです。何と言っても、試験日が決まったんですから。最後の休暇だと思って少しは楽しみませんか?」

 シンに向かっていつもよりも上機嫌にギンガは呟く。
 けれど、試験日が決まったのなら、それを励みにより一層訓練するべきではないのだろうか?そう、思ってシンはソレを口に出す。

「いや、それならもっと頑張って訓練した方が……」
「いいですよね!?」

 先ほどよりも更に強い調子で言われる。
 それは基礎訓練を規定の回数以上やったことがばれた時のギンガの眼と同じだった。

 ――曰く、リボルバーナックルで撃ちますよ?

「……そうですね。」

 少しだけため息混じりに呟くシン。流石ににそう言われれば何も言うことが無い。本心では今すぐにでも戻って訓練を再開したいとは思っていたが。

「息抜き、か。」

 天気は快晴。季節は初夏の匂いが漂い始めた6月。
 そこは以前シンが訪れたあの街―――そう、あの襲撃によって破壊された街だった。

 シン・アスカはその日、あの襲撃があった街にギンガ・ナカジマに連れてこられていた。
 ギンガ曰く息抜き――ということらしい。
 シンに先日伝えられたBランク試験の日程。
 そこから逆算してちょうど2週間前の今日、息抜きをし、疲れを取って残りの期間を十二分に訓練に充てられるようにする。
 理屈は分かる。総仕上げに至る前の休憩。そして思い新たに、と言うことなのだろう。

 けれど、シン・アスカに思い新たになどあり得ない。彼の思いは変わらない。
 守る為に力を手に入れる。それも絶対的な力を。
 それがあれば、何であろうと守り抜けるはずだから――否、少なくとも力が無いと嘆くことなど無いはずなのだから。
 そんな思いを持ったままどこに連れていかれるのかと思い、来た場所は、あの日、襲撃があった街。それはシンでなくとも驚くことだろう。
 よりにもよってココを選ぶのかと。
 その街はシンにとって普通の街ではない。彼にとって、その街は、自身の弱さを自覚し願いを自覚した切っ掛け。
 なるほど、確かに心機一転には都合のいい場所だろう。誓いを新たにするにはここは確かにうってつけた。

(……上等だ。)

 そう思い、シンは拳に力を込め、唇を吊り上げた獰猛な笑みを浮かべる。
 通行人がそんなシンを見て、幾人かが目を背ける。
 当然だ、いきなり現れた誰とも知れぬ全てを射抜かんばかりに鋭く釣り上がった瞳をした男。
 街を破壊されたと言う「傷」を持つ住民にとってそんな男は警戒の対象にしかならない――だが、ギンガはそんなシンの心とは裏腹にいつもとは違う笑顔で彼に微笑みかけた。
 そして、少し緊張しているのか、頬を赤面させながら呟く。

「……き、今日はここで、あの日の続きをしたかったんです。」

 そう言ってギンガはシンの右手に手を伸ばし、握りしめられた。

(……ギ、ギンガさん?)

 握られたことを不可解に思い、シンはギンガの方に向いた――そこで彼は一瞬彼女に見蕩れてしまう。
 ギンガの服装は白色のワンピース。
 派手でもなく、かといって地味でもない。ありていに言って普通。そう、普通に可愛かった。
 シンとて正常な男だ。女性に全く興味が無いと言う訳ではない――それ以上に興味があることが他にあるというだけで。
 それ故、その姿を見た時はいつものギャップと相まって、柄にも無くドキリとしたのは言うまでも無い。
 ましてや、今いきなり手を繋がれるなどと言う突発的な状況に陥った彼の心臓が早鐘を打つのも無理は無いのだ。シン・アスカは内に秘めたその願い同様、純情で一途なのだ。

「つ、続き……?」

 どもりながら、ギンガに尋ねるシン。

「そう、続きです!」

 そう言って、ギンガはシンの右腕を力強く引っ張った。

「うわっ!?」
「え?」

 いきなり引っ張られ、バランスを崩すシン。
 二人の身体と身体がぶつかり、足がもつれ、土煙を上げて、二人はぶつかるようにして倒れた。

「いった……ご、ごめんなさい、シン……ってきゃああああ!!?」
「い、いや、こっちこそすいませ……って、うわああ!!?」

 シンは自分の顔が“埋められて”いた場所―――目前を見つめる。そこは豊かな双丘。
 ぶっちゃけギンガの胸である。シンは今ギンガの胸に顔をうずめるようにして倒れてしまっていた。
 ギンガはいきなり感じた自分以外の体温と匂い、そして胸に感じるその頭の感触で。
 シンは目前に突然現れたその双丘と自分以外の体温と匂いを感じ取って。
 二人の思考が混乱し錯綜する。
 ギンガは顔を赤く染め上げ、シンは全く予想だにしなかったその展開に慌てふためき、

「す、すいません、今どきます!」

 そう言ってシンは直ぐにその場所からどこうと身体を起こす――瞬間、手に感じる、むにゅっと言うあまり感じることの無い柔らかな感触。
 思わず、それを“握り締めて”しまい――そして、理解する。それが何なのか。
 ああ、何と言うことだろう。それはおっぱいである。ギンガの胸に実った豊かな双丘それそのものなのだ。

「……え?」
「……っっ!!!ど、どこ触ってるんですか!!?」
「す、すいません、今直ぐにどきます!!」

 シンは今度こそ、ギンガの体から身を離す……ギンガは俯き、顔を赤くし――その表情は髪に隠れて見えないが――心臓はドクンドクンと爆発寸前。シンも似たような物で呆然と今しがたの惨劇を思い出し、右手を握り締め、そして開く。
 ちなみにそこは往来のど真ん中。
 前述したように周りには通行人が一杯いる。

「……お盛んなことね」
「おい、いきなり押し倒したぞ、あいつ!」
「目つきが悪いとは思っていたが、いきなり押し倒すとは……」
「ママ、あれってプロレスごっこ?」
「見たら駄目よ!!」

 沈黙が二人を包む。もはや、二人は沈黙するしかない。
 その様々な言葉はもはや拷問である。
 ギンガ・ナカジマは花も恥らう乙女である。
 男女間の営みなど結婚初夜までは許してはならぬと考える古風な女性である。
 流石に、コウノトリが赤ん坊を運んでくるとか、男女が一緒に寝るとキャベツ畑に赤ん坊が生まれるだとかそこまで純情というか、そういうことを知らない訳ではないが、それでも最近流行りの“出来ちゃった婚”など彼女の“倫理法則”内には存在していないのだ。

 そんなギンガにとってそれらの言葉は臨海を軽く越えさせるに充分であった。
 ゆらりとギンガが立ち上がり、シンに向かって歩いていく。白いワンピースが風に煽られ棚引く。

「ギ、ギンガさん?」

 異様な雰囲気に包まれたギンガにシンは一瞬気圧される。そして、ギンガは小さく呟いた。

「ブリッツキャリバー。」
「Yes,sir.」

 主の窮地に答えてこそ従者。間断なく、ブリッツキャリバーは答え、閃光が光り輝く。一瞬でギンガの姿は白いワンピース姿から、バリアジャケット姿へと変容し、

「ウイングロード!!!!」
「WingRoad.」

 展開する天駆ける道に足を掛けると、ぐわしっと呆然とするシンの首根っこを掴み、ギンガはその場から駆け抜けていった。


「……これからは気をつけてくださいね。」
「いや、その……はい。」

 気まずげに、シンは頷く。よく見れば彼の頬が赤く紅葉の形で腫れている。
 ギンガは既にバリアジャケットを解き、その姿は先ほどと同じく、白いワンピース姿。だが、気分は既に台無しである。

「…………」
「…………」

 気まずい雰囲気が二人の間に漂う。
 どうしてこうなってしまったのだろうか?
 ギンガは表情こそ硬いモノだったが、内面は非常に困惑し、頭を抱えていた。

 ―――ギンガ・ナカジマが今日ここにシンを誘ったのには理由がある。

 伝えなければいけないことがある。伝えるべきことがある。
 今のギンガ・ナカジマは“あの時”、見つからなかった答えを持っているから。それは、あまりにも個人的で、感情的な答えではあるけれども。

「……そ、それじゃ、行きましょうか?」
「行く?」
「今日は、ここにこの間の続きをしに来たんですよ?」
「と言うと……」

 シンは思い出す。“この間のこと”を
 破壊。廃墟。初めての戦い。撃墜されるはやて。
 いや、それよりも更に前。たしか自分はギンガと共にこの町で色々と買い物をしていた。
 つまり――

「私と一緒にココで休暇を満喫しましょうってことです。」

 そう言って、ギンガは改めて、手を差し伸べる。
 先ほどよりも勢いは弱く、けれど差し伸べられた手は開き、シンを誘い、その手を握り締める。
 握られたその手は暖かく、先ほど握り締めてしまった彼女の胸の感触を思い出させて、シンは思わず赤面し―――年下であるの彼女にリードされていることが少しだけ気になってギンガから顔を背けるようにする。
 そして顔を背けた瞬間、その方向に目をやって、ふとあることに気付く。

「何、照れてるんですか、シン?」
「ち、違いますよっ!」

 ニヤニヤと笑うギンガに、シンは今気付いたことを呟く。

「ここって、あそこだなって思ったんですよ。」

 それはあの日の被害を直接受けた場所。未だ復興の目処が立たない廃墟区画。
 恥ずかしさの余りに知らぬ間にそこまで彼女は彼を連れてきたのだが、そこは彼にとって、非常に感慨深い場所だった。
 そこは今の自分が生まれた場所。今の自分――此処ミッドチルダで、何かを守りたい。あの世界で出来なかったことを今、此処で。
 その自分が生まれた場所。それが此処だった。
 あの蒼い鎧騎士と対峙し、命を賭けてあの子供を救い、ギンガに言われたこと。

 ――守れたことを喜べ。

 それが今の自分に繋がる発端。

「まだ、復興はされてないんですね。」
「……ええ。ここらへんは特に被害が酷かったので後回しにされてるんでしょうね。」

 ギンガは付近を見渡す。
 眼に映るだけで様々な店がある。
 コンビニ。喫茶店。パン屋。少し遠くには学校があり、その隣の体育館の屋根には穴が開いている。 どれもこれも焼け焦げ煤塗れで、あの日の光景をありありと思い出すには充分だった。

「少し、歩いていいですか?」
「ええ。」

 シンの呟きに答え、二人はその場を歩き始める。
 歩きながら変わる光景。けれど、傷跡は決して消えない。
 粉々になったガラス窓。破片は今も地面に散らばったままだった。
 傾き、倒壊した建物の群れ。コンクリートの破片がそこかしこに散らかっている。
 コンビニの棚は全て倒れ、中は縦横無尽に亀裂が入り、喫茶店のカーテンは半分以上が燃え落ち、かろうじて掛かっているだけ。店内のテーブルはコンビニの棚と同じく、全て倒壊している。それはパン屋も同じく。そしてそれは民家も同じ。

 到底―――到底、人が住めるようなモノではなかった。
 ギンガがシンに目をやる。この光景を見て、どう思っているのか……そう、思って。
 シンは穏やかな視線でそれらを見つめている。瞳に映るのは悔恨と侮蔑。悔恨はこの風景に対して。侮蔑は―――それを止められなかった自分に対して。
 ギンガはそれを見て、瞳を逸らすことなく、見つめた。
 彼女は、初めから“ここ”に連れてくる気だったから。
 シン・アスカに自分に勝て、と告げる為。その為に彼女はここにシンを連れてきた。
 これはシン・アスカにとっての一つの始まり。だから、あの日の続きをしようと決めたのだ。
 この瓦礫の山――此処から始めるべきだと考えて。
 八神はやてとの問答で得た一つの問題――シン・アスカを救い出す方法とは何なのだろうか、と言う問題に対する答え。
 その回答がそれだった。彼を信じること。そう、“シン・アスカが自分を倒せない訳が無い”と信じることだった。

 ―――八神はやての考え。それはシン・アスカを最強の魔導師として作り上げ、彼をヒーローとすること。結末や規模こそ違えど、以前ギンガがシンを鍛えようと思ったのも同じ理由だ。

 「守りたい」と言うシン・アスカの持つその願いを叶え、その為の力を与える。
 確かにそれはシン・アスカに絶望をもたらすことは無い。
 そうすればきっと彼は、彼にとっての幸せの中で生きていけるだろう。ヒーローと言う名の偶像と成り果てて。

 ――けれど、それは永遠に続くのか?

 答えは否、だ。
 風船はいつか破裂する。楽園とはすべからく儚いモノだ。終わりは来る。
 いつか、必ず。いわんや戦い続ける人間の末路などそれ以外にありえない。
 故に――それはいつか来る終わりを遅らせるだけの応急処置ですらない問題の先送りとなんら変わり無い。
 シン・アスカは真っ当な幸福を得ることなく死ぬ。それは避けることの出来ない命題だ。何故ならシン・アスカはそれをこそ望んでいるのだから。
 だから、ギンガは考えた。どうしたらいいのか。どうすれば彼を“救い上げる”ことが出来るのか。

 その答えがそれだ。“信じること”。それに他ならない。
 その答えを得たのは八神はやてとギンガ・ナカジマの問答より数日後、里帰りと言う名目で陸士108部隊に彼女――スバル・ナカジマが彼女の元に来た時。
 歩きながら、その時のことを思い返すギンガ。
 それは彼女ら姉妹が部屋で話していた時のことだった――。


 それは彼らが自室で談笑していた時のこと。
 久しぶりに会った二人は話を弾ませる。
 互いに多忙の身。特にスバルはジェイル・スカリエッティ脱獄の影響を受け、休暇など無いに等しい。それが今回どういう経緯かは分からないが、彼女にのみ休暇が言い渡されたと言う。

「家族と仲ようしとくんや。」

 彼女は八神はやて機動6課部隊長にそう告げられたとか。
 ギンガはそれを聞いて、思った。
 あの時、打ちひしがれていた自分に対する八神はやてからのフォローなのか、と。
 小さな屈辱が胸に生まれる。敵に情けをかけられたような―――別段敵と言う訳では無いはずなのだが――そんな複雑な気持ちだった。
 目前のスバルはその指令に対して不思議に思いながらも、純粋に家族と会えることを楽しみに此処に来た。
 そうなれば自分とて可愛い妹との逢瀬を嫌がるような気持ちなど寸分も無い。

 そうして、夜、自室にて二人は語り合った。
 J・S事件収束後の自分たち。
 特に目まぐるしい変化のあったギンガについてスバルは聞きたがり、ギンガは仕方無しにスバルにそれを話すことにした。
 シン・アスカ。彼女の心に住み着いて離れないある一人の男のことを。


「……それで、気絶するまで訓練するのよ?直ぐに医務室に連れていったからよかったようなものの本当に何考えてるのかと思ったわよ……他には」
「ま、まだ、あるの?」

 ギンガがシンについて話し出してこれで既に一時間。
 内容は殆ど愚痴だった。
 訓練に関する話題から、普段の身だしなみは結構だらしないだとか、何度言っても寝癖を直してこない、etcetc……
 話題の切れ目を生み出さないマシンガントークはスバルに相槌以外をさせる暇を与えない―――そしてそれが更に拍車をかけていく。

「……言い出したら切りが無いわよ。あの人、放っておくと直ぐに無茶するし、気が付いたら倒れてるし……ってどうしたの、スバル?」
「……ん、いや、ギン姉が凄く楽しそうに話すから―――何か、好きな人の話みたいだった」

 好きな人―――その言葉でギンガの顔が真っ赤に染まる。

「は、はい!?好きな人!?」
「うん。」
「……な、何言ってるのよ、スバル!?今のは私の苦労話であって、絶対にそんなのじゃないのよ!?」

 必死に身振り手振りを交えて、自分はそんなのじゃないと否定するギンガ。
 スバルはその様子を苦笑交じりで、眺め、的確な指摘を呟く。

「ギン姉の苦労話って言うか、ギン姉とそのシン・アスカさんの苦労話でしょ?」
「う……」

 図星だった。
 確かに、今までギンガが言っていたことは全て、“ギンガ・ナカジマ個人”の苦労話では無い。“ギンガ・ナカジマとシン・アスカ”の苦労話である。
 その指摘で「うっ」と硬直し、唇を歪め、心底困った顔をするギンガ。スバルはその顔が見えているのかいないのか、更に指摘を続ける。

「だって、ギン姉本当に楽しそうに見えたんだよ。なんていうのかな……うん、あれだ!」

 右の人差し指を立てて、スバルは一人で勝手に納得する。
 なんとなく嫌な予感がしたギンガは聞くのを躊躇いつつ、尋ねる。

「……あれ?」
「亭主の無茶に苦労する嫁さん?」
「て、亭主!?ば、馬鹿なこと言わないでよ、スバル!?」

 どもりまくり喋れていないギンガ。動揺が漏れまくり、姉の威厳は欠片も無かった……と言うかどんどんどんどん、ボロボロと崩れて行っている。

「だって、ギン姉の顔って私がこの間見た昼ドラに出てきた人に良く似てた……」
「そんなのと比べるな!」

 別に昼ドラが駄目な訳では無いが、花も恥らう乙女(自称)であるギンガに対して、昼ドラに出てきたと言うのは幾らなんでも失礼であった。

「えー。」

 無茶苦茶不服そうにするスバル。だが、ギンガはそんなことに取り合わずにテーブルを叩いて、否定する。

「えー、じゃない!全くもう、スバルも父さんも何を考えているのよ……」
「父さんも?」
「そうよ、あのクソオヤジよりにもよって母さんの遺影、胸に潜ませて「母さんも喜んでるぞ」とか何とか言ってたのよ!?どれだけ芸が細かいのよ、あの人は!?」

 その時ギンガの脳裏にはその時のゲンヤがありありと浮かんでいた。
 キラン、と歯が光るくらいに良い笑顔だった。

(な、殴りたい。)

 ギンガの切なる叫び。わなわなと震える拳。
 けれど、スバルはそんなことは気にも止めない。

「あはは、父さんもギン姉に春が来たと思うとやっぱり嬉しいんだよ、ギン姉そういうの一切無かったし。年頃の娘に男の影が無さ過ぎるって言うのはやっぱり父親としては複雑だろうしね。」
「そ、そう、そんな風に思われてたんだ、私……」

 最愛の妹から割とドギツイことを言われ、落ち込むギンガ。

「だって、ギン姉、男友達なんていないでしょ?」
「ど、同僚はいるわ。」
「いや、プライベートで一緒に遊ぶような人は。」

 一瞬の逡巡。小さく悔しげに呟く。

「……いないわ。」

 でしょ?と言ってスバルは目の前に置かれたお茶請けの煎餅を手に取ると、口に運びバッキバキと噛み砕きながら、続ける。

「大体、ギン姉の趣味も渋すぎるもん。編み物とか料理とか掃除とか。」

 その言葉にギンガは今度こそ目をひん剥かれるような衝撃を受けた。

「なっ!?編み物駄目なの!?」
「いや、趣味が編み物とかあんまりいないよ?」
「そ……そうなの?」
「そうだよ、編み物だっていつも凝った物作ってるし。と言うか相手もいないのにセーター作って自分で着るなんてギン姉くらいだよ?」
「……う、嘘。」
「うん、私の周りにはいないかな。」
「そ、そうなの。編み物って自分で使うために編むんじゃ無いんだ……」

 用途としては間違っていない。だが、年頃の娘としては大間違いだ。

「少数派だと思うよ?それになんていうのかな……微妙に苦労じみてると言うか……うん、子供何人もいる肝っ玉お母さんみたいな感じがあるしね!」

 全く悪気の無い無垢なる笑顔でそう断定するスバル。
 しかし、その言葉がギンガに与える衝撃は大きい。
 ギンガ・ナカジマ。その年齢は18歳。自慢じゃないが未だお肌の曲がり角は程遠い。
 それが、それが、「肝っ玉母さん(しかも子供一杯)」などと言われているのだ。
 確かにおばさんくさいかもしれない。そういう部分はあったのかもしれない。けれど、正直、ギンガにしてみれば、もう少しこう何と言うか手心と言うか、空気を読んで欲しかったりする。

 ギンガの心の弱点をピンポイントで突き続けるようなことをする最愛の妹スバル。
 ギンガ・ナカジマは今度こそ完膚なきまでに陥落した。

「…………」
「あれ、ギン姉どうしたの?」
「……い、いえ、何でも無いわ。」

 愕然とするギンガ。
 部屋の中に、バリッバリッと言うスバルの煎餅をかじる音が鳴り響く。
 ゴクンと、煎餅を飲み込むとスバルはお茶を啜り、彼女が口を開く。

「あのさ、ギン姉。」
「……私は若い、大丈夫、私はまだいけ……え?何、スバル?」
「その人、今度6課に来るんだよね?」

 先ほどとは違い、真剣な眼差しのスバル。ギンガはその目を見て、切り替える。
 そして、本来の問題を思い出す。
 シン・アスカについての問題を。

「……模擬戦で、勝てば、ね。」
「相手は?」
「……私。」

 幾ばくかの沈黙の後に彼女は呟く。

「……え、だってギン姉、Aランクだよね?」

 彼女の疑問は最もなモノだ。
 Bランク試験にどうしてAランクの魔導師が――それも模擬戦と言う戦闘能力だけを比較するような試験をするのか。
 正直、考えられない事態だった。

「そうだけど、私らしいわ。」
「じゃ、能力限定するとか?」

 それならば、まだ納得も出来よう。けれど、ギンガは首を横に振る。

「いや、勝てる訳ないよ……それ。」
「……うん、私も、そう思う。」

 姉妹は、沈黙する。
 そう、勝てる筈が無い。
 仮にもAランク魔導師が潜在能力が高いと言えど、Bランクになろうとするレベルの魔導師に負ける筈が無い。
 能力限定での場ならば理解も出来る。納得も出来る。だが、それすらしない。それは全力の勝負と言うことを意味する。
 決して負けることなどあり得ない。もし、そんなことになればAランクの沽券に関わる問題だ。
 こと此処に至ってスバルはギンガが悩んでいることに気付く。
 彼女が苦しんでいると言うことに。
 沈黙が続く。
 ギンガは俯き、スバルは天井を眺め。
 二人の姉妹は考える。
 ギンガはシン・アスカをどうすればいいのか。
 けれど、スバルがその時考えていたのはそれと似て非なること。

 ―――ギンガ・ナカジマはどうするべきなのか。
 それを考えていた。

「……ギン姉はさ、本当は負けたいんでしょ?」

 天井から目を離し視線をギンガに向け、ぽつりと呟く。

「私は……」

 ――その通りだ。
 私が勝てばシンの笑顔は曇るどころか消えて行くのは間違いない。
 それだけは見たくない。嫌だった。だから、自分はわざと負けたいと思っていたのだ。
 なのに、八神はやては断罪するように呟いた。
 手加減は許さない、と。そんなことをすれば、シンの話をなかったことにする、と。

 ぎりっ、と奥歯を噛み締める。八方塞がり。そう呼ぶに相応しい状況だった。
 俯いていた顔を上げる――スバルと目が合う。

「……その人はきっとギン姉がわざと負けるようなことをすれば、ギン姉のことを許さない、と思う。」
「……」

 その言葉を聞いて、ギンガはスバルから眼を逸らす。
 だってその通りなのだ。
 もし、仮にギンガが手を抜いて、それでシンが勝ったとしよう。
 そんな偽りを彼が喜ぶ訳が無い。
 彼の純粋な性格はそんなことを決して許さない。

「その人、一生懸命に頑張ってるんでしょ?それをそんな風に手抜きなんてされたら……・私なら絶対に許せなくなる。」
「私は……。」

 ―――どうするべきなのだろう。
 答えが、出ない。
 戦って負かして嫌われるのは嫌だ。
 嘘を吐いて負けて嫌われるのも嫌だ。
 ……あの人に、嫌われるのは、もっと嫌だ。

(私は、どうしたら)

 涙すら滲みそうになり、ギンガは瞳を瞑り、それを堪え――

「……ギン姉、その人のこと、本当に好きなんだね。」

 スバルのその一言が思索に沈み込んでいたギンガを引き上げた。

「……シンを好き―――私が?」

 寂しさを伴った優しい微笑み。それはどこか、亡くした母を思い起させる。

「私はさ、そんな風に男の人を好きになったりしたことないからわかんないんだけど……」

 言葉を切り、スバルは繋げた。

「もう、その人以外は目に入らない―――そんな感じだよ?」
「………………」

 先程よりもはるかに顔を真っ赤にし、言葉も出ないほどに固まったギンガを無視してスバルはニヤニヤと人を食ったような笑みをして呟く。

「だから、多分、ギン姉は勘違いしてるんだよ。ギン姉が考えなきゃいけないのは、その人に“どうしたらいいのか”、じゃない。“ギン姉がどうしたいか”。」

 そう言ってスバルは話しは終わりだと、立ち上がり、電灯のスイッチに手をかける。

「さ、もう寝よ、ギン姉!明日も早いんだしさ!」
「え、ちょっとスバル?」
「おやすみ~。」

 スバルはギンガの声に耳を貸すことなく、直ぐに電気を消すとベッドに潜り込む。

「ど、どういう……」

 声を返すもスバルの声は無い。

「おやすみ、ギン姉!」

 そう言って布団を被るとスバルは直ぐに眠りにつく。

「……スバル?」

 訳が分からないと、か細く呟くギンガ。しばしの沈黙。……そして、立ち上がると部屋から出て行こうとする。

「……ギン姉、外行くの?」
「うん……ちょっと外の空気吸ってくる。スバルはもう寝る?」
「うん。」
「……おやすみ。」
「おやすみ、ギン姉。」

 がちゃりとドアノブを回し、ギンガは部屋から出ていく。その背に彼女に聞こえるか聞こえないかの 小さな声でスバルは微笑みを絶やすことなく告げた。

「頑張れ、ギン姉。」


「……私がどうしたいか……か。」

 夜空を見つめながら彼女は呟く。そこは屋上。シン・アスカが自分に魔導師になりたいと告げた場所。

「……どうしたいのかな、私。」

 自分がどうしたいかなど考えたことがなかった。彼女にあったのはどうしたら“シン・アスカの願いを潰さないで済むのか”、それだけだったから。
 だから、自分がどうしたいかなど考えるまでもなく決まっている。

「……負けたい。私に勝って、欲しい……」

 それが、願い。
 だが――とギンガは思う。それだけなのか、と。どうしてそう思うのか、と。
 彼女がシンに抱く思い。その一つに恐怖がある。シン・アスカのその末路。それがどうなるのか。それを恐れている。
 けれど、それは、何故なのだろうか。どうして、自分はこんなにも彼を心配して、その結末に心を痛めているのか。
 ――もう、その人以外は目に入らない―――そんな感じだよ。と、スバルは言った。
 そうなのかもしれない、と思った。

 あの激情を。あの幼さを。あの純粋さを。
 自分は確かに好ましく思っているから。
 気がつけば、スバルの言う通りいつだって頭の中にはシンのことがある。
 自分――ギンガ・ナカジマはシン・アスカを中心として生きているのだ。
 ふと、あの笑顔を思い出す。

 ――よかった。

 あの微笑みを思い出す。
 思い出すと同時に胸に広がる気持ち――簡単な気持ち。誰でも経験したことのある気持ち。

「……恋、してるんだ、私。」

 口に出して呟く。驚くほどすんなりと、それは彼女の胸の中に入り込んでいった。
 気恥ずかしくて、けど決して不快じゃない暖かな気持ち。
 それは「恋」という名の想いだった。
 同時に悟る。彼を救い出すにはどうしたらいいのか、その答えを。
 シン・アスカを救うには手を差し伸べるだけでは無理だ。
 何故なら彼は救いなど求めていないから。……だから、彼を救い出そうと言うならば答えは一つ。
 それは酷く単純な、たった一つのシンプルな答え。
 彼は全てを守り続ける為に戦い続ける。それが、それだけが彼の願い。けれど、それはいつか折れる儚い幻想。
 それが何よりも怖い。
 あの笑顔が見れなくなる。

 ――それは何よりも怖くて恐ろしい。
 だから、守りたい。ただひたすらに彼を。彼の笑顔が輝く日々を。
 あの孤独に囲まれ悲しみに揺れることすら無い心を。守って、癒して、救い上げたい。

 これは答えではないのかもしれない。答えとは方法論だ。どうするのか、どうするべきか、と言った。
 だから、多分――これは願いだ。
 ギンガ・ナカジマが抱いた純粋な願い。

 少女は恋を知り、女としての願いに身を任せる。
 それは無理と無謀を殴って壊す“女の意地”。それが導く、模擬戦への答え。

「シンを信じる。」

 それだけだ。
 彼を信じること。彼が自分を“超えられない訳が無い”と信じて、全身全霊を振るうこと。
 もし、それで彼が絶望に苛まれると言うなら、自分が支える。
 もし、それで彼が願いの果てに命を使い果たすと言うなら、その命を守る支えとなる。
 恋する乙女は折れず、曲がらず、ただ己が想いを貫くのみ。
 それがギンガの答え。
 満天の星空を見上げ、彼女は決然と微笑む。
 恋とは――自覚した時、何にも負けない強い力となるのだから。



[18692] 7.邂逅
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/10 09:07
「ギンガさん?何ぼうっとしてるんですか?」
「えっ?」

 物思いに耽っていたギンガの思考が一瞬で現実に引き戻される。
 眼前には思い人であるシン・アスカの顔。
 心臓が跳ねる。頬が熱い。

「う、あ、いや、ちょ、ちょっと熱っぽくて」

 赤面した顔を隠すようにして顔を背ける。

「風邪、ですか?」

 シンがそう言って顔を近づけてくる。
 赤い瞳と幼さを残した顔が彼女の瞳に映る。それが余計に彼女の心を騒がせる。
 胸の鼓動が治まらない。

「い、いえ、そ、そんな、か、風邪とかじゃないんですから!」

 どもりながら喋るギンガ。けれど、シンは訝しげな視線を送り、彼女の顔を見る。

「そう言えば……顔赤いですね。熱は……」

 ギンガの額にシンが手を触れ、自分の額にも手を当てる。
 彼の体温を感じる。
 ドクン、と心臓が一際大きく跳ね上がる。
 シンの赤い瞳が彼女を見つめ、熱に浮かれたように―――ある意味熱に浮かされているのだが―――彼女は呆けたように彼を見つめ、

「熱は無いようですね……ギンガさん?」
「あ、は、はい?」
「ど、どうしたんですか?やっぱりどこか調子悪いとか?」
「え……あ、いや、別にこれは……!」

 ばっとその場から離れ、焦るギンガ。当たり前だ。“貴方に見蕩れていました”などと言い出せる訳も無い。
 心臓がドクドクと鼓動する。音が小さくならない。顔の体温が下がらない。

(だ、駄目だ。不意打ちは駄目だ。)

 幾ら自分の気持ちを自覚したとは言え、そうそうこんな風におかしくなる訳も無い。
 そうであれば幾ら朴念仁であるシンであっても奇妙に思うだろう。
 だが、二人が顔を合わせるのは殆ど模擬戦の場合のみである。
 その中ではギンガはシンとどれだけ触れ合おうが別に顔を赤くすることは無い。気持ちの切り替えが行えているからだ。
 だが、今回のように切り替えをする前に近づかれたり触れられたりするとギンガの動揺は一瞬で最高潮に辿り着く。

「ほ、本当に大丈夫ですか?」

 彼女を心配するシンの言葉。

「あ、あははは……や、やっぱり、一度どこかで休んでも良いですか?」

 そう言って彼女はシンと距離を取り、空に眼を向ける。これ以上彼と眼を合わせればおかしくなってしまいかねない。
 そうなれば、言いたいこと、言わなければいけないことを言えなくなる。それだけはどうしても看過出来なかった。
 伝えたいこと。伝えなければいけないこと。
 彼女にとって本当に大事なコト。それを貫くために、今日此処は彼女にとっても“始まり”なのだ。

「別に構いませんけど……本当に帰らなくて大丈夫ですか?」

 訝しげに見つめるシン。空を見上げ、切り替えが出来たのか、ギンガはいつもの調子でシンに笑いかける。

「……大丈夫です。それに、ほら、もうお昼だし……一度休みましょう?」
「……まあ、ギンガさんがそう言うなら……でも、少しでも調子悪くなったら帰りますからね。」
「あ、あははは、分かってます。」

 苦笑するギンガ。心中でのみ、誰のせいだと呟きながら、周りを見渡す。
 いっそ、清清しいほどに付近は廃墟だらけだった。
 けれど、都合よくその一角―-少しばかり離れた場所に公園が見えた。
 その公園はこの廃墟の中にあって、殆ど被害を受けていなかった――被害の中心地から大分離れた場所だからかもしれない。
 その公園は廃墟の中に存在するだけあって、まるで人気が無かった。

「あそこはどうですか?」
「いいですよ。」

 シンが返事するとギンガは左手に握っていた鞄の重みを思い出す。
 それは少し大きめの手提げ鞄だった。
 思えばよく落とさなかったものだと思う。
 バリアジャケット姿になってもしっかりと握り締めていたことが良かったのかもしれない。
 並んで歩き、ギンガは公園の中に入るとその中のベンチに座る。
 だが、シンだけはいつまで経っても座らない。

「シン、どうしたんですか?」
「あ……そうですね。」

 その横顔には傷があった。感傷と言う名の傷が。
 気にすることでは無い。自分がいたからどうなった訳でも無い。
 そういった事柄だ。“それ”は。
 本来、公園からは付近の町並みが見れたのだろう。高層ビルや、並ぶ家、テナント街。
 けれど今、それはない。殆ど全てが倒壊するか崩壊するかしており――それがその公園からは一望出来るから。

「……はあ。」

 シンはため息を吐き、ベンチに深く腰掛け、心を落ち着ける。
 気持ちが逸る。その光景を見るとどうしても湧き上がってくるからだ。
 力が欲しいと言う気持ちが。今すぐにでも戻って訓練を再開したいと言う気持ちが。

「シン?」

 そんなシンを見ながらギンガはため息を吐く代わりに、右手に持っていた鞄を自分の膝の上にまで持ち上げ、シンに声をかけた。

「あ、はい?」

 考えを中断し、ギンガに向き直るシン。

「そう言えば……私、お昼作ってきたんですけど、食べますか?」
「昼?」
「ええ、お弁当を。」

 その言葉を聞いて、シンは感心したように返す。

「へえ、ギンガさん料理とか出来るんですか?」
「ええ、これでも家事全般は一通り。」

 微笑みながら、そう返答するギンガ。
 そのギンガを見て、シンはうんうんと納得したように頷く。

「ああ、でもそんな感じはしますね。」
「そうですか?」
「はい、何か、お母さんとかお姉さんとかそんな感じがしますから。」

 瞬間、グサッとギンガの胸に言葉の刃が突き刺さる。

 ――うん、子供何人もいる肝っ玉お母さんみたいな感じがあるしね!

 奇しくもソレは少し前に妹であるスバルに言われたことと同じ。

「あ、あははは、お、お母さんはちょっと……でも、まあ、お姉さんって言うのは当たってるかな。」

 彼女は手に持っていた鞄を二人の間に置きながら呟いていく。

「あ、兄弟いるんですか?」
「妹が一人。私、母が死んでからずっと家事とかしてましたから。……あ、気にしなくてもいいですよ?昔の話ですから。」

 鞄の中から弁当箱を取り出しベンチの上に置きながら、顔色が少し変わったシンを見て、ギンガは慌てて、言葉を付け足した。

「そ、そうですか?」
「ええ、もう、ずっと昔の話しですから……本当に気にしなくてもいいですよ。ほら、弁当食べませんか?久しぶりに作ったんで味は保障しませんけど……」

 そう言って、ギンガは弁当の箱に手をかけて、ぱかっと開く。

「いや、そんなことは……」

 シンの言葉が止まる――と言うよりも二の句を告げなくなっていく。
 そこにあったのは、シンの想像の斜め上を行くだのと言うレベルではない、想像の遥か上を行くモノが揃っていたからだ。
 メニューは肉じゃが、卵焼き、きんぴらごぼう、から揚げと言う弁当と言うジャンルでの定番メニュー。
 傍らにはお握りに、水筒まで準備してある。
 しかもその量がまた凄い。一つだけだと思っていた弁当箱は見る限りおよそ4つ。
 そのどれもが黒く大きな箱―――俗に言う重箱である。その量は軽く見積もっても4人前はあるだろう。
 思わず絶句する。

 シンとてオーブに住んでいる頃は“普通”の子供だった。
 忙しいとは言え母は弁当を作ってくれたりもしたし、自分が母に教えてもらっていたりもした。
 プラントに来てからはめっきりすることは無くなったが。
 そんなシンから見てもこれは“完璧な弁当”だった。
 何より、細部に至る拘りが細かい。
 しっかりと仕切られ、肉じゃがの汁が他の具材を浸し、味を壊すことなどが無いように配慮され、色とりどりの色彩が楽しめる配置。
 主婦顔負け――否、主婦以上の力作であった。

「……す、凄いですね。」
「あ、あははは」
(き、気合入れすぎちゃった……かな?)
「と、とりあえず、食べてみてください!」

 声を大にして、シンに迫るギンガ。

「はあ、分かりました。」

 そう言って、まずはと卵焼きに箸を付け、噛り付く。
 口内に卵と出汁とほのかな甘みが広がる。

「……これ、美味しいですね。」
「ああ、それは自信作です。卵焼きは得意料理……と言うか初めて成功した料理なんで、得意なんです。」

 そう言って、ギンガも卵焼きに手を付ける。

「ああ、大抵そうですね。皆、初めは卵焼きから料理作り出して……俺もそうだったなあ。」
「シンも料理するんですか?」

 意外そうなギンガ。いつも訓練ばかりのシンにそういったことが出来るとは思っていなかったからだ。

「昔、妹に作って上げたりしてたんです。妹が生まれてからは父さんと母さんは忙しくなって……だから、俺が親代わりみたいなことしてたから。……まあ、随分と作って無いんですけどね。」
「へえ……シンの妹さんはどんな人だったんですか?」
「……普通の妹でしたよ。たまに喧嘩もしたし、遊んだり、勉強を教えたり……仲は良かったんでしょうね。あ、これいただきます。」

 傍らのギンガが紙コップに注いでくれたお茶を手に取り、シンは眼を細めて、眩しそうに上空を見上げる。
 太陽が、高く昇っている。
 思えば、妹の、家族のことをこんな風に――穏やかに思い出すことなどあっただろうか?
 オーブを出てからこれで6年目。
 色々なことがあった。それは大別すると鍛えるか、戦うかの繰り返しだった。
 家族のことを思い出すことはあっても、それは憎悪の引き金でしかなかった。
 思い出すことなく戦った。考えることもなく駆け抜けた。

 大事な親友。一度は心を通わせたはずの女性。尊敬出来たかもしれない上司。そして、命を懸けるに値すると信じた理想。
 それらを砕かれて、それでも縋り付いた平和。その為に戦いに没頭した2年間。終わりなど無い繰り返し。
 振りかえってみれば、単に力を求めて戦い続けてきただけなのかもしれない。
 そしてこの世界に来て、それでも、自分はまだ力を求めている。
 自分はもしかしたら今も一歩も前へ進んでいないのかもしれない。
 あの日から。きっと、自分はこの繰り返しを続けているだけ。

「シン、どうかしたんですか?」

 黙り、お茶に口をつけないシンを訝しげにギンガが見やる。

「え、ああ、何て言うんですかね……俺も変わらないなって思って。」
「変わらない?」
「……なんでも無いです、気にしないでください。」
(俺はいつまで、ソレを続けられるんだろう?)

 心中で自問するシン。
 彼とて馬鹿では無い。
 自分がやりたいことが人の領分を大きく外れた願いだと言うことはよく理解している。恐らく、誰よりも。
 そして、その果てに破滅しか待っていないであろうことも。
 それでも構わないと思うのは、どうしてだろうか。
 理由など一つだけ。
 それは楽な生き方だからだ。
 弾丸は――兵士は何も考えない。ソレは込められ、放たれるだけのモノだ。思考を放棄し、ただ突き進むだけ。
 だからこそ彼は守る為の場所を望み、それに縋り付く。
 もし、本当に守りたいのなら組織の力など当てにせずに個人の力のみで守れば良い。
 守ることの責任を全て個人の責任で背負い、その結果として死んでいく。それが正しい“守り方”だ。誰にも迷惑をかけない守り方だ。
 それが出来ないのは怖いから。死ぬことが、ではない。選ぶこと、選択することが、怖いのだ。
 ソレを選び、その生き方に自分を乗せること。それだけがシンにとっての恐怖である。
 
 選んだ時、彼は一変する――否、一変しなければならない。
 思考を放棄することなく、手繰り寄せ紡ぎ上げた思考の果てに守ることへの“答え”を見つけ続けなければならない。導くのか、捨て置くのか。
 それとも別のやり方なのかを選び続けなければならない。
 それが、怖い。その時、自分がどういう選択をするのか。それこそが怖い。
 無論、自身の願いを自覚した時、それを理解していた訳では無い。
 けれど、守り続けると言うことは本来そう言うことだ。
 守る――救うと言い換えた方が良いだろうか。ただ救われた誰かがどうなるかと言うその末路。
 シン・アスカはそれを誰よりも理解しているのだから。

 戦後のラクス・クラインはそういった意味で素晴らしかった。
 救った誰かへの責任を放棄することなく、理想と責務、欲望を見事に両立させ、その果てに起こる責任を全て背負い込む覚悟をしていた。 
 名君とはそれだ。
 シンにはそれがない。その決意はあってもその為の“覚悟”が無いのだ。

 ―――だからシン・アスカが望む願いは歪で、それ故に美しい。

 救った誰かに背を向けて、次の人間を救って、また背を向けて、次の人間を救う。救うことだけを突き詰めそれ以外を放棄した願い。
 故にその願いは幻想であり、現実には届かない。
 殉教者としての生き方は美しいかもしれない。けれどそんな空想は現実として成し得ない。
 そんな生き方は人を惹き付けても、人を引き寄せない。
 彼の願いは子供の持つ願い―――13歳の時から一つも変わっていない。
 あの日のまま、彼は、何を選ぶことも無くただ流され、ここまで大きくなっただけだ。
 違いがあるとすれば一つだけ。

 ザフトにいた時は力を与えてくれた誰かの為に。
 その後は居場所を与えてくれた誰かの為に。
 今は――守りたいと言う自己満足の為に。

 それは少しは前に進んでいるのかもしれない。
 楽な方向に流されていると言うベクトルは変わらないけれど、それでも進んでいるだけマシなのかもしれないのだから。

「……」

 押し黙り、天を睨み続けるシン。それを眺めるギンガ。

「……シ」

 それを見て、ギンガは彼に声をかけようとする―――瞬間、ベンチの後方の茂みから音がした。

「……何だ、この音?」

 懐に忍ばせていたバッジ型のデバイス――デスティニーの待機状態――を手に取り、油断無く構え、ソレが現れた。

「え、何か後ろから……ぎゃあああああああ!!!!」

 ギンガが先ほどまでの柔和な微笑みからは想像も付かないような顔をして、絶叫した。

「ギ、ギンガさん!?」

 シンがその声に驚き、思わずギンガを振り向く。
 どこの世界にうら若き女性が「ぎゃああああ」などと色気も素っ気も無い絶叫をすると思うだろう。

「あ……あ、あ、あ」

 そこにいたのは、おばけ―――そう、おばけだ。言うなれば映画に出てくるゾンビ。
 ぱっと見ワカメのようにウェーブがかった艶めいた黒髪と枝や葉っぱで塗れた黒い見るからに高価そうなスーツ。そして白いワイシャツ。
 優美さすら感じさせるその佇まい―――ならば、何故ゾンビなどギンガは勘違いしたのか。
 それはその顔を隠している木の枝の群れと、身体中を覆い隠すような木の葉と枝。そして……銀に輝く仮面である。

 口元だけを外に出し、顔のほぼ全てを覆い尽くした仮面。
 ぶっちゃけると、あからさまな変態である。
 そんな変態が高そうなスーツを着て、林の中から現われれば、ギンガで無くても絶叫する。少なくとも顔のデッサンが崩れるくらいには。

「お、おばけ!?た、倒さなきゃ……!!」

 混乱の余りギンガはいつの間にかバリアジャケット姿に移行し、リボルバーナックルが回転している。そして、振りかぶり、特大の一撃を撃とうとしているのだ。

「ちょ、ちょっと、アンタ、何殴ろうとしてるんだ!?殺す気か!?」

 シンは混乱するギンガを後ろから羽交い絞めにするようにして動きを止める。口調も思わず素に戻っている。だが、ギンガはひるまない。混乱の余り、もはや何がなんだか分からなくなっているのだ。
 そんな二人が騒がしく、喚いている中――――男は仮面の下で薄っすらと微笑み、呟いた。

「……いちゃつくのなら、影に行ってやるべきではないかね?」
「……は?」
「あ……」

 そして、その後の展開は正に劇的だった。
 シンはそこで気付く。自分がギンガを羽交い絞めにしていることに。
 ギンガはそこで気付く。自分がシンに羽交い絞めにされていることに。
 ―――二人の頬に朱が差し込めた。

「……い、いや、これは」
「ちょ、ば、ど、どこ、触ってるんですか!!?」

 二人は仮面の男の呟きに反応し、一瞬でその場を離れる。
 シンは羽交い絞めにしていたギンガの身体の感触を忘れるように、すーはーすーはーと深呼吸を繰り返す。
 ギンガはギンガでにやけてるのか、歪んでいるのか、定かではない顔で俯き、ブツブツと呟いている。呟きの内容はこうだ。

(どうしようどうしようどうしようどうしよう)

 男はそんなギンガの呟きを聞いて、顔を引きつらせる。ちょっと怖かった。

「いや、すまない。逢引きを邪魔するような趣味は無いのだが、」
「お、俺たちはそんなんじゃ」
「ち、違います!」

 男の申し訳なさそうな言葉に二人はそろって反応し―――そして、その姿に男は口に手を当てて再び微笑んだ。

「な、何がおかしいんですか!?」
「どう見ても逢い引きにしか見えないがね。君たちはもう少し素直になるべきだと私は思うが……・おっと」

 言い終わる前にシンが男の襟を掴んでいた。赤色の瞳に凶暴な色が宿る。

「……あのな、俺とギンガさんはただの“仲間”でそういうのじゃない!さっきからそう言ってるだろ!?」
「……ふむ。」

 激昂するシン。それと対照的に男はシンに気付かれないように、仮面の下で視線を動かす。
 その視線は彼の背後で俯き、呆然と再びブツブツと呟き出すギンガの元へと。再び顔が引き攣る。

 やっぱりちょっと怖かった。如何せん恋する乙女とは基本的に恐ろしいのである。
 男が再び視線をシンに戻す。凶暴な朱を宿した鋭い瞳。その瞳は変わっていない。何一つ、として変わっていなかった。

(……君は変わらないな、シン。)

 男は心中でのみそう呟き、激昂するシンに向かって、返事を返す。

「まあ、それならそれでいいんだが……キミたちはこんな廃墟で何をしているのかね?」

 その問いに対してシンは答えに窮した。まさか、偶然押し倒してしまい恥ずかしかったので魔法でここまで逃げてきましたなどと言えるはずも無い。

「人気の無い場所で若い男女が二人でいる――――状況的には逢引きが適当だが?」
「…………た、ただの散歩だよ。」

 苦しい。余りにも苦しすぎる言い訳である。

「散歩、ね。」
「……」

 暫しの沈黙。そして、男がその沈黙を破るように口を開いた。

「分かった。すまないね、変な誤解をしてしまった。」

 予想外の返答にシンは驚きを隠せなかった。目前の男はもっとしつこく嫌らしく聞いてくると思っていたから。

「え?あ、いや、分かってくれたなら、いいさ。」
「ああ、最後に一つ聞かせてくれないかね?」
「……何だよ?変なこと聞くなら今度こそ、承知しな……」
「ここはどこだね?」

 ―――シンとギンガの二人を沈黙が襲う。そして、どこかでカラスが鳴いた。
 こう、かあかあと。


「いや、すまない。」

 迷子の男――あからさまに怪しい仮面で長髪の男は二人の前に座ると、ギンガの作った弁当に口を付けていた。
 迷子に道だけ教えてそのまま帰すのは人道的にどうかと思ったこと。
 そして何よりもギンガの作ってきた弁当はどう考えても二人分以上の量があったからだった。
 どうせ、道を教える為に案内するのだ。ならば、飯を食べる手伝いをしてもらった方がいい――そういった判断である。
 無論、この案はシンからだ。提案した時、ギンガの頬は僅かに引きつったモノの否定する理由も無い為に、頷いた。

(……折角、シンに作ってきたんだけどなあ。)

 少しだけ俯き、ギンガは卵焼きを口に運びながら心中で呟く。
 確かに作りすぎたのは認めよう。どう考えても二人分の量ではない。三人分――下手をすれば四人分以上の量である。
 ただ、それでも想い人に食べてもらいたいと言う一心で気合を入れて作ってきた――と言うか作りすぎてきた訳だが――ソレは何も眼前の仮面の男の為ではないのだ。

「……。」

 二人に気付かれないようにギンガは仮面の男を見つめた。
 銀色の仮面。長髪を後ろで束ねた俗に言う尻尾頭。
 その格好を見るだけで眼前の人物が尋常ならざる人物であることは理解できる。
 何故なら仮面である。仮面を被って日常生活をするなど変人のすることだ。
 普通は仮面は被らない。
 だが、ギンガが男を怪しむのはその格好のせいだけではなかった。
 男の名前を聞いた瞬間のシンの態度が、どうしても解せなかったからだった。
 グラディス。
 男が名乗ったのはそれだけ。それが苗字なのは名前なのかは定かではない。
 だが、その名前を聞いた瞬間、シン・アスカは一瞬硬直し、そして再び元に舞い戻った。それがどうしても解せなかったからだった。

 ――シン・アスカが硬直した理由。ギンガがそれを解せないのは当然のことだ。
 彼女は彼の過去を口頭でしか聞いていない。その詳細――つまり、そこに登場する人物のことなどは知らないのだから。

 グラディス。それは彼が過去、所属していた戦艦ミネルバの艦長であり、故ギルバート・デュランダル議長の愛人の名前である。
 だから、シンは硬直した。まさか、と思ったからだ。目前にいる仮面の男。それが死んだはずのギルバート・デュランダルなのではないか、と。
 だが、彼はすぐに思い直した。あり得ないからだ。
 ギルバート・デュランダルはあの戦争で殺された。
 殺したのはシンの親友にして戦友であり、ギルバート・デュランダルの子飼いの少年――レイ・ザ・バレルの手によって。

 そこにどんな理由があったのかは、シンには分からない。シンとレイは親友であり戦友である。
 だが、その心の最奥を知っていた訳ではないからだ――それは当然のことではあるのだが。
 だから、あり得ない。死んだ人間が生き返るなど決してあり得ない。
 そして、否定する理由はもう一つ。目前の男の声はデュランダルの声とはまったく違う――それは否定するには十分な理由だ。
 幾つか怪しい部分はあった。
 だが、故人が声を変えて生き返り、なおかつ別世界にいる、などと言う不可思議極まりない現象が起きるなどはあり得ない話だろう。
 シン・アスカはそうして、目前の男への認識を、確定した。即ち、額面通りに仕事でたまたま、ここに来た人間なのだ。

「ほお。」
「あ。」

 二人同時に呟く。何かと振り向くギンガ。二人の視線の先には、4歳くらいの子供が数人とその親らしき人物がいた。
 親たちはこれから昼なのか、シン達と同じように弁当を広げ、子供たちは公園に広がる遊び道具に我慢し切れずに遊んでいる。
 人気の無かった広場にはいつの間にか人気が戻りだしていた。
 恐らく――復興作業中なのだろう。つまり、彼らはこの廃墟に住んでいた住人――難民とも言える――なのだと。
 それは穏やかな日常のヒトコマだった。生きていれば、誰でも素直に味わえるはずの当然の産物。
 だが、とシンは思った。

 親たちの服装。子供の服。弁当の中身。そして――彼らが時折自分たちに向ける視線。
 好奇と恐怖が織り交ざった視線。恐らく、あの襲撃の恐怖が彼らの心に傷を負わせているのだろう。
  その視線に込められた恐怖は異邦人――見知らぬモノに対する恐怖だった。
 たかが公園にいた見知らぬ人にそれをぶつけるほどに彼らは追い詰められているのだろう――いや、いた、か。
 少なくとも彼らの表情からは今、駆り立てられるようなストレスは感じられない。感じられるのはその名残程度。けれど、その名残は恐らく簡単には消えはしない。
 彼らはこれからもしばらくは眠れぬ夜を過ごすに違いない。いつ襲撃されるかと言う不安と恐怖で。シン自身がそうだったのだから、良く分かる――彼の場合は恐怖と言うよりも怒りが先立ってはいたが。

 一つ、ため息を吐き、シンは今度は公園で遊ぶ子供たちに眼を向けた。
 グラディスが呟いた。

「なるほど、廃墟ではなかった訳だ。」
「……ああ。」

 それに気乗りしないように返事を返すシン。
 先ほどまでと違う雰囲気をかもし出すシン。それを見てグラディスは彼に向かって仮面を付けた顔を向けて、問いかけた。

「どうかしたのかね?」
「え、あ、いや……」

 シンはどうしてから、彼に問いかけられると口ごもる自分に違和感を感じていた。
 “守ること”を選んだ、その時からシンにとっての他人とは単純に守るだけの対象に成り上がった。
 別に他人との係わり合いが変わった訳では無い。
 ただ、その結果としてシンは以前よりも他人に対して無頓着になっていた。故に誰であろうと言い淀むことなどは無かった。
 特別な反応をするのは特別な相手にだけだ――特別な相手がいなければ、特別な反応をすることなど無い。。
 だから言い淀む自分にシンは違和感を感じていた。久しぶりに感じるそれはどこから、教師に間違いを咎められた生徒の如き居心地の悪さ。

「……別に……ただ、何となく嫌だったから。」

 グラディスの声色が変化する。神妙な声色から、何かを思案するような声音へと。

「……嫌だった?」
「だって、この間の襲撃で此処はこんな風になってさ。そのせいで、あんな風にしてる人がいる。」
「……ふむ。」

 悼む訳でもなく、惜しむ訳でもなく。淡々と事実を告げるように――どこか子供のような口調でシンは呟いた。
 ギンガはそんなシンを痛々しげに見つめ、グラディスは――仮面で隠れて誰にも見えないが――そんなシンを真剣な眼差しで睨み付けていた。
 シンはそんな二人の視線に気付くことなく、ぼうっとしたまま、続ける。

「俺にもっと力があれば、ああいうのを失くすことが出来たのかなって。」
「……。」

 ギンガは何も言わない。
 シンのその言葉は大筋ではあっているからだ。

 力があれば守れると言うそれは一種の真理である。
 力だけでは守れないモノはある。けれど力が無くては何も守れないのも、また事実。
 だが、その言葉に男が返事を帰した。

「それに対して根拠はあるのかな?」
「……そんなのは無いさ。」

 根拠。そんなものはどこにも無い。
 力があれば守れた――それは単なる可能性に過ぎない。単なる“もしも”の話だ。
 だが、それでも、とシン・アスカは思った。苦しげに。シン・アスカの瞳に悲しげな虚無が滲み出す。

「けど、力があれば、守れる。少なくとも力が無いよりはもっと沢山の人を守れるんだ。」

 俯き、吐き出すようなか細さでシンは呟いた。
 力無く、弱々しく、儚く――何よりも、嬉しそうに。

「だから――」

 儚げな呟き。
 微笑みが浮かぶ。
 どこか壊れた微笑み――或いは自嘲の嗤いが。

「――俺はこれから“ずっと”守っていくんだ。」

 俯き、両手を合わせて力の限り、握り締める。
 溢れ出しそうな喜びの感情を押さえ込むようにして――呟きの最後は小さく、聞こえない。
 それは自分自身へ向けた言葉。
 口元が緩みそうになるシンを見て、グラディスが溜め息交じりに呟いた。

「それに終わりはあるのかい?」
「……終わりなんていらない。」

 小さな呟きと共に儚げな虚無(ワライ)が滲み出す。

「俺は、それだけで、いいんだ。」

 それを見て、グラディスは少しだけ表情を変えた。
 哀れみと同情と――紛う事なき“喜び”が混じりこんだ表情へと。
 シンは何も気付かない。元よりそんな表情など見てもいない――見えているのは常に自分だけ。
 周りのことなど最初から目に入ってなどいない。

「君は、強いな。」
「……何が言いたいんだ?」

 少しだけ、苛立った。
 その言葉の意味が彼には上手く理解出来なくて――苛立ちが募るのを止められなかった。
 肩を竦めるグラディスを睨み付ける。滲み出す虚無が空間を侵食する。

「すまない。少し老婆心が過ぎたようだ。……歳を取ると説教っぽくなっていけないな。気に障ったなら謝ろう。」

 その言葉を聞いて――浮かび上がる嘲笑。

(……強い、だと?)
 
 目前の男が言い放った強さとは、決して力のことではないだろう。
 自身の――シン・アスカの心を強いと言ったのだ。
 守ると言う行為を延々と継続し続けること。ソレを貫き通そうとする強さ。
 恐らくはそんな類の強さだろう。
 浮かび上がった嘲笑が消えない。
 違う。まるで違う。笑わせるなと言いたいほどに――笑い出したくなるほどに、それは“違う”のだ。
 自身が求めるモノは強さではなく力。
 シン・アスカはそういった一切合切の過程を捨て置いて、力を求めているだけ。

 全てを、目に映る全てを――守る為に。
 
 その言葉自体の聞こえは良い。
 だが、その内実はまるで真逆だ。
 “誰を”、“何を”、“何の為に”。
 そういった対象が存在しないソレはただの自己満足に過ぎない。
 自己満足――そう、シン・アスカはその為だけに生きている。
 決して、誰かのためにというココロなどどこにもない。シン・アスカはただ自分の為だけにそうしているのだ。
 そこに善意など欠片も無い。あるのは自己満足の願望だけ。
 強いなどと言われるようなことではない。
 嗤うしかない。
 そんな風に俯いたシンに向かって、グラディスが呟く。

「すまないが……名前。名前をもう一度聞かせてくれるかな」
「シン・アスカ。」

 俯いたまま、シンは名乗った。
 俯いたままなのは、自分の中の汚さを見抜かれるような気がして。
 だが、男はそんな彼に気付くことはなく、微笑んだ。――無論、仮面からその笑顔の全ては窺えなかったが。

「……シン・アスカか、良い名前だ。」

 男が空を見上げた。つられてシンも、ギンガも空を見上げた。
 そこには蒼穹。抜けるような青い空が広がっている。綺麗で、不確かで、誰の手も届かないそれは一種の聖域。……・幻想の聖域だ。

「誰にも負けない。そんな気持ちにさせてくれる、強い名前だ。」

 その言葉にシンは、瞳を閉じて――そのまま瞑目する。

 ――誰にも、負けない。

 違う。自分はそんなに強くない。

 ――シン・アスカは誰も“選ばない”。

 選択肢を“放棄”し、見限ることを“放棄”し、ただ全てを守り抜くことだけを遵守する。彼のやりたいこと。したいこととはただ、それだけ。

 朱い眼に映る全てに差異は無く、何を選ぶこともなく全てを守る。それが彼の願い。神様にしか出来ないような馬鹿げた願い。
 それでも――それ故にシンはその願いを捨てきれない。眼に映る全てを守りたいと言うその願いを。そうでなくてはならない。そうでなくては、選択の重みが彼に迫り来る。
この願いはただの現実逃避である。選択の重みから逃げるためだけの、ただそれだけの、一つの願い。
 だから、シンは呟いた。

「……買いかぶりさ。俺は、ずっと負け続けてるんだから。」

 恐らく、それはこれからも。選択から逃げ続けるだけの彼に勝利など舞い込むはずが無いのだから。

「……君はただ、ずっと勝ったことがないだけさ。きっとね。」

 シンはその言葉に何も言えなかった。それはあまりにも的を射ていたから。


「……シン・アスカ、か。」

 グラディスは小さく呟き路地裏を歩いていた。
 あの後、彼は二人に道案内を頼み、知っている場所まで案内してもらったのだ。
 そして、その後別れ、帰路に着いた。
 今日、ここであの二人に出会ったのは真実、偶然であり、彼自身にとっても予想外の出来事だった。
 男の名はグラディス――ギルバート・グラディス。だが、そんな名はまやかしだ。彼の真実の名は違う。

 男の本当の名はデュランダル。ギルバート・デュランダル。前ザフト議長であり、シン・アスカにとっては守ると誓った理想そのもの。
 グラディスと言う名はある誓いだ。
 『世界を救う。』
 その大望を忘れぬ為に、彼が自らに刻み込んだ誓い。救えなかった、ただ一人愛した女性。
 幸せに出来なかったただ一人の女性。それを世界になぞらえて――彼は二度と忘れえぬ為に、その名を自らに課した。
 周囲を見れば、空はいつの間に朱く染まっていた。

 ――かつて、デスティニープランと呼ばれる政策があった。
 内容は簡単だ。
 遺伝子によって人を選別し、生まれ持った遺伝子特性によって社会的役割を決めると言う、徹底した管理社会の実現を目的とする政策である。
 この政策の目的は戦争の根絶。血統により無能な人物が不当に高い地位につくことでおこる混乱、自分の境遇・待遇への不満からおこる“争い”が理論上は根絶出来る。
 その結果として戦争が二度と起こらないようにするという政策であり、デュランダルの考えたナチュラルとコーディネイターの“終わらない争い”を終わらせるための政策である。

 馬鹿げたプランだ。空想と言ってもいい。
 例え、そこに意味があるのだとしてもそんな性急過ぎる政策は決して実現出来るはずがない。多くの人間の理解を得る為に長い年月を掛けたなら、まだ理解できる。それこそ数十年単位で、だ。
だが、デュランダルは唐突に――あまりにも唐突にこれを実行しようとした
 無論、これは暴挙であると世界各国から糾弾された。そして彼はネオジェネシスという破壊兵器によって世界を脅した。無理矢理にでも従わせるために。
 結果、英雄が現われた。英雄は彼とその国であるザフトを襲い、世界を救った。
 そして、世界はシン・アスカの知る“平和な世界”へと歩を進めて行った。
 それは世界全てが称えた一つの結果。そしてデュランダルは世界の敵として処理されていった。

 ――だが、彼は今でもデスティニープランそのものを馬鹿げたモノとは思っていなかった。

 確かに性急過ぎた上に予定通りの効果が得られたのかというとソレは否だ。
 ギルバート・デュランダルのリアリストの部分はそう結論付けている。だが、そのリアリストの部分を以ってしてもそのプランには意味があった。
 それはあの世界、コズミックイラの世界にてギルバート・デュランダルと彼の僅かな側近――それも特に信頼していた学者達のみである――くらいしか知らない“ある事実”によるものであったが。
デスティニープランとは、まず遺伝子を選別する。それによって各個人の適性が得られる。
 適性には様々なモノがあるだろう。料理人、運転手、配管工、建設業、整備士、SEなど数え上げれば切りが無いほどの職業が。
 無論、そこには“戦闘に適した人種”も存在する。
 デスティニープランにはこの“戦闘に適した人種”を全人類規模で探し出し隔離し鍛え上げ、“戦闘に適した人種”同士を交配させ、その子供に更にコーディネイトを行い、真実“戦闘に適したコーディネイター”を作り上げることにあった。

 世迷言だ。妄想だ。彼の愛した息子同然の存在であるレイ・ザ・バレルですらこの事実を知らない。 そんなコトを行おうとしていたことが知れたならば、デスティニープラン程度の騒ぎでは済まない。
 だが、彼にはそれほどの多大なリスクを払ってでも、その計画を推し進める“必要”があった。

 彼とその僅かな側近しか知らない“事実”である。そして誰よりも先に彼が確認し知ってしまった“事実”である。
 それが故に彼は、その道を進まざるを得なくなった。
 それが故に彼は、この世界に来ても生きていなければならなくなった。
 それが故に彼は、そんな狂気に支配されたようなコトを行わなければならなくなった。
 彼がそこまでした“理由”。それは――

『感傷かい、ギルバート。』

 声がした。振り向けば――そこにはゆらゆらと陽炎のように揺らめきながら立つ白衣の男がいた。
 男の表情はにやついた笑顔。嫌悪を感じさせる笑みだった。

「……君か。何のようだね、スカリエッティ?」

 スカリエッティと呼ばれた男はデュランダルの方を見ながら話しかける。

『なに、私の手がけた君たちがどうなっているのか、気になってね。』
「それなら、心配には及ばない。私も、ハイネも問題なく“稼動”している。君の手には及ばない。」

 そう言って、デュランダルは笑顔すら忍ばせて胸の辺り――心臓の位置を優しく撫でながら。

『ああ、確かに君であればこの程度の処置は簡単に行えるだろうね。』
「では、もう消えたまえ。君と話すのは正直骨が折れる。」

 心底、疲れたように肩を竦め、グラディスはスカリエッティに対して背を向けた。その背中は完全な拒絶を示していた。
 ――曰く、失せろ、と。

『つれないね。こちらは、一つ頼みがあるんだが――』

 だが、スカリエッティは構うことなく続ける。彼にとっては相手の拒絶など別にどうでもいいことなのだから。
 そして、その返答を聞いた瞬間グラディスの――ギルバート・デュランダルの瞳が釣りあがった。

「――消えろ、と言ったのが聞こえなかったのかね?」

 両の手の手袋が光り輝く――それはブーストデバイス。名前をナイチンゲールという。手袋の色は赤。穏やかな彼の物腰には似合わない――深紅の紅。
 網目状の幾何学模様の光が彼の全身を覆い、消える。その光の色は紫。それは一瞬で消え去り、彼は“ナニカを握り締めるようにして振りかぶった”。
 構えは右手を左手側に伸ばしたブーメランやフリスピーを投擲するような構え。
 何も持っていない、ただグローブで覆われただけのその右手を、彼はそうして構えた。

 ――瞬間、空間が歪んだ。帯電する空気。そして、まるで“空間から引き抜く”ようにして、右手は数本の“武器”を掴み――そして、投擲した。流れるような動作。それは文官の動きではなく、武術家の動きである。
 放たれた武器――それは3本のナイフである。それはインパルスの使用していたフォールディングレイザーそのものの姿だ――は狙い違わず、スカリエッティの幻影を貫いた。
 だが、幻影を物質が貫くなど当たり前だ。幻影とは虚(ウツロ)であるが故に実(マコト)の物理は通用しない。

『……さすがはギルバート・デュランダル。「ナイチンゲール」の加護を受けたその武術は正に達人もかくやと言ったところかい?』

 その言葉を前に、デュランダルは視線を更に険しくする。その瞳に映る威圧は正に王者。
 彼は敗北者だ。
 世界を敵に回し、英雄を敵に回し、自身の理想を貫こうとした一種の暴君である――その暴君の裏にあった“事実”を知らないが故に世界は彼を敵として認定したのだが。
 「ナイチンゲール」。それは一種のブーストデバイスである。無論、キャロ・ル・ルシエの持つ「ケリュケイオン」とはまるで違うモノだ。

 ウェポンデバイスとは「人とデバイスとモビルスーツ」を融合させたモノである。
 これはそれとは違うアプローチ。デバイスによって人間を超人と化させると言うモノ――要するに魔法によって“コーディネイト”を行うと言うデバイスだ。

 このデバイスは身体能力・反射神経・肉体強度の強化を行い、脆弱な人体をその限界にまで引き上げ、その動作を全て達人へと“書き換える”。
 故にそのスーツの中に隠れし肉体は鋼の如く。
 呼気は息吹となり、歩法に至るまで達人と化させると言う遺伝子に直接作用する魔法である。ギルバート・デュランダルの脳裏に刻み込まれた遺伝子学の知識があればこそ生まれたデバイス。
 それが、「ブーストデバイス・ナイチンゲール」である。

 武器は全て彼の周囲を覆うようにして存在する“小規模次元世界”――ウェポンデバイス・プロヴィデンスに使用されていた技術である――に収納されている。その武器の数は凡そ数百。
 脳裏にイメージした武器をそこから手繰り寄せて引き抜いたのだ。ギルバート・デュランダルの記憶に強く刻み付けられているのはシン・アスカの乗っていたインパルスである。今、フォールディングレイザーの如きナイフが引き抜かれたのはその影響だ。常勝不敗のフリーダムを撃墜したインパルスとは一つの奇跡に他ならないのだから。

 そして、遺伝子に作用すると言う特性上、その反動は凄まじい。鍛錬した人間ならばともかく、一般人――デュランダルなどの文官も此処に該当する――ならば起動と同時に肉体にかかる負荷に耐え切れずに死んでもおかしくはない。
 ならば、何故脆弱な文官であるデュランダルがソレに耐えられたのか。答えは簡単である。彼も既に人間ではないからだ。
 その胸の中心――心臓があるべき場所に輝く光。それはラウ・ル・クルーゼと同じモノ――レリック。彼はクルーゼと同じくレリックウェポンとして――人外として生を許されているのだ。
 それ故にギルバート・デュランダルの肉体は「ナイチンゲール」の酷使に耐え抜いている。高密度の魔力の発生に伴って常時彼の肉体には「人体の再生能力の活性化」が行われ、強制的に彼の肉体を“復元”し続けているからだ。
 また、このデバイスにはバリアジャケットは存在しない――否、見えないのだ。不可視のバリアジャケット。ジャケットというよりはむしろ単純にバリアと言うべきモノだろう。デバイスの稼動時にはそれが常に四重の枚数で以って周囲を覆っている。今、仮に魔力弾が襲いかかろうとも、ソレは彼に辿り着く前に霧散するだろう。

 難攻不落の武術の達人。
 現在のギルバート・デュランダルを言い表すならばそれが適当だった。

「失せろ、スカリエッティ。私には君と戯言を語り続けるような“時間”は無い。」

 彼には似合わぬ口調でデュランダルは言い捨てる。そして、スカリエッティは唇を吊り上げ、嬉しそうに微笑んだ。

『ああ、そうか。君には――君たちには“時間”が無かったんだね。』
「…………」

 デュランダルは答えない。険しい刃の如き王の視線で以ってスカリエッティを睨みつける。

『今度は沈黙かね?――まあ、いいさ。では、本題に入ろう。』
「……何かね。」
『シン・アスカ。彼を殺さないでいて欲しい――そして、彼に力を与えて戦わせてもらいたい。』
「なるほど、君の目的の為に、か。」
『そうさ。それ以外に何が在る?』

 ジェイル・スカリエッティの瞳は変わらない。何を当たり前な、とでも言いたげ視線だ。

「…………君に言われるまでも無い。」

 言葉と同時にデュランダルは不敵に微笑んだ。敗者になって尚その微笑みは不遜なる王として翳り一つ生み出さない。

「元より、そのつもりだ。彼は炎となって君たちを燃やし尽くすだろうさ。」

 スカリエッティが唇を歪ませた。それは壊れた亀裂の微笑み。狂気すら従える強欲の微笑みだった。

『……期待しているよ、ギルバート。』

 そう言ってスカリエッティの幻影が掻き消えた。後に残るのはただの廃墟の路地裏。それを見てデュランダルは小さく呟いた。

「……怖いものだな。狂気の至りというのは。」

 自身もそうなっていた――否、今もそうなっていることを考えて、彼は静かに苦笑した。
 至極、楽しそうに。


 グラディスが彼らの前を去ってから数時間後。
 シン・アスカとギンガ・ナカジマの二人は今、ある丘の上に来ていた。理由は簡単なもので、ギンガの散歩でもしないかという提案だった。
 弁当を片付け、一時間ほど経った後の話だった。
 お茶を飲み、空を見て、呆っとしていたシンにギンガは意を決したように呟いた。

「シン、これから、ちょっと付き合ってくれませんか?」
「……付き合う?」
「ええ。ちょっと行きたい所があるんです。」
「別にいいですよ。」

 そうして、二人が歩くこと数時間。
 そして、着いた場所がそこだった。その街の外れに存在する丘だった。
 そこは街を一望できる観光ガイドにも乗っているような場所だった。普段ならば、きっとそこはもっと賑わっているに違いない。
 それほどにそこから見える光景は綺麗だった――今は破壊され見る影も無いが。

「……へえ、いいところですね。」

 感心したように呟くシン。
 天頂高く上る太陽。日の光に照らされて見える街は、一部瓦礫の山があるとは言え美しい。
 肌を撫でる風が心地よい強さで吹いていく。

「座りませんか、シン。」
「……ギンガさん?」

 どこか思いつめたような――けれど決然とした表情でシンに呟くギンガ。その胸に揺れる思いが彼女を後押しする。

 ――シン・アスカを、好きな人を信じる。

 ただそれだけの純粋な気持ち。それがギンガ・ナカジマの真実ならば。

(私は、今ここで、言わなきゃならない。)

 本気の気持ちには、本気で応える――否、応えたい。自分の恋慕に嘘は吐けないのだから。

「2週間後の模擬戦について、話があります。」
「……はい。」
「今回の試験は特殊な形式で行われます。本来なら、試験目的の成否だけではなく、安全性や判断力等様々な要因を試験官を観察した結果、合格というものです。ですが、今回は、ただ勝つか負けるかのみです。」
「要するに、勝てば合格。負ければ不合格……ってことですか?」
「はい。」
「……分かりました。相手は、どんな人なんですか?」

 一瞬の逡巡。そしてギンガはその言葉が生み出す変化に怯えながらも――決意と覚悟を込めてその言葉を押し出した。

「私です。」

 一陣の風が吹く。

「私と戦い、私に勝つこと。それがシンが機動6課に行く為の条件です。」

 彼女は静かな闘志を瞳に込めて、言い放つ。自身の恋した男が自分を超えてくれると信じて。
 そして、その言葉を切っ掛けに、シン・アスカが“変質”する。

「ギンガさんが……相手、ですか。」
「はい。」

 躊躇無く放たれた答え。シンの唇が釣りあがって笑みを形成する。

「……ギンガさんは、俺の邪魔をする、ということですか?」

 壁がそこにあった。超えるべき壁が。その壁は気高く、美しく、何よりも高い。だが、それがどうした。 本心では無理だ、駄目だと喚きたがっている――だが、そんな“怯え”は全部捨ててしまえ。
 状況は単純。勝たなければ自分には“守ること”さえ残らない。勝てば自分は“守れ”る。
 敵意が空間を侵食する。
 シン・アスカの視線が変質する。それは八神はやてに向けた敵意と同質。
 ギンガはその敵意を受けて、萎縮する自分を必死に鼓舞する。
 恋した男に睨みつけられ、敵意をばら撒かれ、それで平常心を保つなど不可能に近い。
 今にも泣いてしまいそうなほどにギンガの心は波打ち、砕けそうになる――けれど、それでも彼女は堪える。
 これは彼女にしても始まりだから。好きな男を支えると言う彼女自身の願いを叶える為の第一歩なのだ。だからこそ、彼女はその敵意に負けない。威圧に押し潰されない。

「ええ。全力で、邪魔させてもらいます――“守りたい”なら、倒してみなさい、私を。」
「……上等だ。」

 ぼそりと呟く。その言葉、その態度を引き金に、この時、シン・アスカはギンガ・ナカジマを敵と設定した。



[18692] 8.決戦
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/14 00:59
 シン・アスカとは狂気に塗れることが出来ない人間である。
 彼の心に常にあるのは勝利への渇望では無く、平和への憧憬だ。
 その結果として彼は戦時中にデスティニープランという極端極まりない政策を己が理想として身を任せた。
 けれど、その中にあって彼の心に在ったのは迷いだった。

「戦争を失くす」
「平和な世界を作る」

 デスティニープランとはその為の政策である。
 だが――そこに“幸福”はあるのか?
 人の未来を失くすとはラクス・クラインの言葉だ。本来ならそれは唾棄すべき言葉であるはずなのに、彼は心のどこかでそれを否定出来なかった。
 それでも彼が選んだのは「未来」ではなく、「平和」だった。
 平和な世界。それこそが守るべきモノなのだと決断したのだ。決して迷いが晴れた訳ではなかったが。
 彼が真に狂気に塗れることの出来る人間であるなら、デスティニープランに迷いを抱くはずなどは無く――あの赤い正義の名を冠した機体に敗れることも無かった“かもしれない”。
 別に、迷いが晴れていれば確実に勝利していたと言う訳ではない――迷いは刃を鈍らせた。ただ、それだけ。その結果、鈍った一刃は、無限の剣の前に叩き折られた。

 彼は、迷う人間だ。
 迷いは人を弱くする――だが、その迷いこそがシン・アスカの強みでもある。
 迷い、考え、導き出した結論。それが確固たるモノであればあるほど、彼は如何なるモノであろうとも“喰らい付く”。足掻き、試行錯誤を繰り返す。
 その結果として倒せ無いこともあるだろう。届かないことも在るだろう。
 けれど、彼は決して“諦めない”。
 意地汚く、浅ましく、足掻き続ける、潔さなどまるで無い、その生き方。
 それだけが誰にも真似出来ないシン・アスカだけが持つ強さ。迷いを力に変える力。

「ええ。全力で、邪魔させてもらいます――“守りたい”なら、倒してみなさい、私を。」
「……上等だ。」

 言葉とは裏腹に、心中に迷いはあった。彼女への恩を仇で返すと言う迷いが。
 それでも彼は選んだ。その言葉、その態度を切っ掛けとして決別の道を。
 己が力で己以外の全てを守る。
 その願いの前では彼女への親愛など些事でしか無いと投げ捨てて。

 ――決して戦いたかった訳では無い。けれど、自身の目的を邪魔するのなら誰であろうと打ち倒す。
 ――迷いはあった。けれど、彼はそれを自身の深奥に押し込める。

 守る為に。
 力を振るう場所を得る為に。
 前へ前へと駆け抜ける為に。
 駆け抜けるその道。それが現実逃避であり、終わりは無様で滑稽な孤独の死であると知っていて、尚、彼は駆け抜ける。
 その過程の遵守こそが彼の願い。その願いを果たす為に。

 これは、男と女の物語。
 願いを叶える為に走り続けた「女達」と自分を手に入れる為に駆け抜けた「一人の男」の物語。


 そこは決戦場だった。
 施設の名前は訓練場。けれど、今から戦う二人にとって、そこは紛れも無く“決戦場”だった。
 シン・アスカは今、今日支給されたばかりの真っ赤なバリアジャケットに身を包み、静かに佇む。
 赤一色と言ったそのバリアジャケットは彼が以前来ていたザフトエリートの証である赤服を連想させるものだった。
 同じくギンガもバリアジャケットを着こんで瞳を閉じている。心を落ち着かせているのだろう。

『……ルールを一応伝えとくで。』

 マイク越しに喋る試験官八神はやての声がホールに響き渡る。

『時間制限無し。どちらかが動けなくなるか、降参するかで勝敗は決まる。まあ、ルールなんてあってないようなもんや。』

 彼女は言葉を切って周囲を見渡す。
 観客はそれなりに入っており、入場料でも取ってやれば結構な収入になったかもしれない――そんな馬鹿な考えが思いついては消えた。
 そこは陸士108部隊隊舎内の訓練場である。
 今日この日の為にゲンヤ・ナカジマに許可を貰い、借りている。
 観客の殆どは陸士108部隊の隊員である。

『では、前置きはこんなもんにして……今から十分後。始めるで。』

 淡々と言葉を切るとマイクを置いて、自分の席に戻るはやて。
 声の調子は軽やかでいつも通り。その場にいる誰もが彼女の深奥が塗り換わっていることになど気付きはしない。
 それほどに彼女の“擬態”は完璧だった。
 赤毛の少年と桃色の髪の少女が座っている。
 エリオ・モンディアルとキャロ・ル・ルシエだ。そしてその後ろには彼らの保護者であるフェイト・T・ハラオウンが座っている。
 それから少し離れた場所――ギンガ・ナカジマが立っている側の近くに彼女の妹であるスバル・ナカジマとその親友であるティアナ・ランスターがいた。
 そして試験官である彼女の周りにはいつもの通りに守護騎士――ヴォルケンリッターが座していた。
 時空管理局において最強であり異常の戦力の集中を誇る名実共に最強部隊。
 「機動6課」の全戦力がそこにいた。

 ギンガ・ナカジマは居並ぶその威容に少しだけ緊張しつつも、彼女の前に佇む彼を眼にして気を引き締める。
 彼女には彼女の願いがある。それを叶える為にも、彼にはここで“全力の自分”を超えていってもらわねばならないのだ。
 けれど、そんな心中は浮かべることもなく。
 彼女、ギンガ・ナカジマは、不敵に微笑み、呟いた。
 その微笑みは戦乙女の如く美しい。

「……私に勝って、「守れる」ようにはなりましたか?」
「――ああ。俺はアンタに勝って、守る為に“そこ”に行く。」

 視線は刃。声は毒の如き威力で以ってギンガ・ナカジマの心根を打ちのめす。
 だが、彼女は退かない。媚びない。省みない。
 そんなことをしても、何も手に入らないのだから。

「やってみなさい、シン・アスカ。」
「やってやるさ、ギンガ・ナカジマ。」

 今、此処に、男と女の戦いが始まる。

 フィールドは、崩れ倒れた廃墟。ビル郡が立ち並び、アスファルト舗装された道路が縦横に走っている。
 戦いの展開は予想通りの展開となった。

「はあああああ!!!!」
「うおおおおおおお!!!」

 シンはギンガに対して距離を取る。射撃による牽制と飛行、そして突然行う突進。
 対するギンガは奇をてらうことも無く、ただ前進する。無論回避と防御を怠ることなく。
 追う者と追われる者。
 ギンガはその予想通りの展開に僅かながら落胆し――シンはその落胆にこそ勝機を見出し、彼女からは見えないように、笑いを堪えきれずに頬を緩め、唇を吊り上げた。
 そう、罠が成功したことを喜ぶ子供のように邪悪な笑顔で。


 ――2週間前。
 ギンガ・ナカジマは、あの宣言の後、一人帰っていった。
 2週間後まではお互いに会わないことにしようと言って。
 平然と自分は頷いた。
 彼女は敵だった。敵である彼女に自分の手の内を晒すことは出来ない――そう、思って。
 けれど、どこかでナニカが痛かった。胸の奥でしっかりと、ナニカが痛んでいた。
 ナニカ――多分、それはココロ。彼女を敵に回したことが自分は辛いのかもしれない。味方だと思っていた。仲間だと思っていた。ソレが、裏切られた気がして。
 感傷だ。
 シンは、その想いを振りきって彼女とは別の道から帰路に着いた。その道中、彼はしきりにギンガとの模擬戦について考え込んでいた。
 ギンガ・ナカジマ。
 彼女はシューティングアーツと言う独特の魔法を使うAランクの魔導師である。
 シン・アスカとの模擬戦の戦績は数えるべくもなく彼の全敗である。
 彼の攻撃は彼女にまともに当たったコトなどなく、彼女の攻撃は全て彼を撃ち貫いた。
 近距離特化と言う凡そ魔導師と言う分野において異端と言わざるを得ないスタイルでありながら、その戦闘能力は極めて高い。

 その理由の一つとして、挙げられるのが“回避率の高さ”である。
 無論、フェイト・T・ハラオウンのように眼にも止まらぬ神速による華麗な回避では無い。
 実直その物と言ったプロテクションやシールドなどの魔法による単純な防御である。
 敵の放つ攻撃の内、直撃だけを確実に回避し、致命傷を決して受けない。ただ、それだけ。
 そして射程が短いなどどうと言うこともなく簡単に懐に入り込むと彼女は一撃を放つ。その一撃はすべからく必倒の威力で以って迫り来る。
 判断力、そして洞察力が優れているのだろう。こちらが、何を考えて次に何をしようとするか。それを読み取る能力が非常に高い。
 アロンダイト――大剣を未だに上手く扱えないと言うことを差し引いても、現状の能力ではシン・アスカは奇跡でも起きない限り彼女には勝てないだろう。
 それほどにシン・アスカとギンガ・ナカジマの間の差は大きかった。
 そして、それは今も大して変わらない。


 飛び回るシン。そして追いかけるギンガ。
 シンの動きは、これが3ヶ月前まで本当にズブの素人だったのかと疑いたくなるほどに、速く的確な飛行を繰り返す。
 縦横無尽。ギンガを射線から逃すことなく、上下左右を移動する。その様は正に疾風の如く。
 観客席で見ていたエリオが思わず感嘆を挙げる。

「……凄い。」

 それはエリオ・モンディアルの師であり保護者でもあるフェイト・T・ハラオウンをして、感嘆の溜息を吐かせるほどであった。
 逸材である。その成長速度は彼女の親友である女性を思い出させるほどに。
 彼は“あの”高町なのはと同じく天才と呼ばれる区分なのかもしれない。
 このまま成長していけば、彼女と同じく――エースと呼ばれるような魔導師にもなれるかもしれない。
 故に、無理をせずに頑張って欲しいと思った。
 無理をして、なのはのようには満足に戦えなくなって欲しくない。そう思いながら。

 話を戻そう。
 端から見ても紛うことなく非凡を見せつけるシン。対峙するギンガもこれまた非凡であった。
 以前、ガジェットドローンに使ったように多数のウイングロードを展開し、攻撃の場を広げる。
 今回はそれよりも一歩進んだカタチ。
 この戦いの場は模擬戦である。模擬戦である以上、この場所には限りがある。外界のような距離の限りがない場所で戦闘する訳ではないからだ。
 故にこの場は限定空間。その場において、速く鋭く動くことにどれほどの意味も無い。
 シンを注視し、その動きを探る。
 身体の動きではない。身体の各部位の動きを観察することで、次の動きを読み取る。
 何十回と繰り返された模擬戦でギンガはシンの考え方、思考パターン、追い詰められた場合の対処法等の情報を彼女はあらかじめ殆どを取得している。
 取得している以上、ギンガ・ナカジマの読みは的確だ。
 シンがどう鋭く動いたところでギンガは既にそこに向かっている。

 右へ動けば、自分は左へ。
 左へ動けば、自分は右へ。

 自分から離れるように、けれど射線は外さないように。そう動くシンの動きは悲しいかな、綺麗な円を描くようになり、行動予測があまりにも簡単になる。
 行動予測が簡単になってしまえば――彼女にしてみれば、それは止まっているのと同じこと。

「……」

 ギンガが踏み込む。
 その踏み込みに呼応し、その場から一旦退がろうとしたシンの背中が何か建物にぶつかる。

「くそっ!」

 それはビルだった。もはや誰もいない廃墟のビル。
 それがそこにあることをシンは知らずに退いてしまい、自分自身で逃げ場を無くす――無論、それはギンガの誘導による状況操作。
 ギンガが踏み込む。
 同時にブリッツキャリバーが急加速。
 シンの背筋に怖気が走った。
 紡ぐ言葉は危険を示すものばかり。曰く――逃げろ、と。
 ギンガが左拳を脇に仕舞い込み、構え、突き抜ける弾丸の如く疾駆。
 自身の左足に体重をかけるように踏み込み、その左足の動きに巻き込むようにして全身を突き上げる。
 狙うはシンの左脇腹。即ち五臓六腑の一つ――肝臓。

「もらいます……!!」

 言葉と共にギンガの左拳が轟と唸りを挙げ、疾走する。

「やらせるかぁあ!!!」

 シン、咄嗟に右手で引き抜いたフラッシュエッジをギンガの拳に向かって力任せに叩きつける。
 込める魔力に制御などしていない。ただその一撃を逸らす為だけに瞬間最大出力でぶち当てる。

「くっ」
「うおおお!!」

 衝撃の余波で二人の身体が離れた。
 その距離およそ20m。シンにとっては攻撃可能。ギンガにとっては一足で攻撃出来る距離では無い。
 彼女の足元のブリッツキャリバーが唸りを上げた。

「っ――!!」
『Mode KerberosⅡ』

 右手に大剣の柄から引き抜いた短剣、左手に大剣を変形させたケルベロスⅡを構え、制御出来る最大速度で一気に上空へ飛翔。
 そのままギンガの周りから離れるように飛行すると、左手のケルベロスⅡによる射撃を行う。
 無論、その射撃は攻撃を意図して行ったものでは無い。ただただ、離れる為の牽制。狙いも何もあったものではない。

「――トライシールド。」

 その魔力弾の雨を前に彼女は右手を掲げ、魔法防壁――シールドを展開し、疾走する。
 そして、状況は再び元に戻る。
 追う者と追われる者。
 シンにとってギンガの拳は致命の一撃。喰らえば即座に吹き飛び意識を失う危険極まり無い打撃だ。
 対するシンの一撃がギンガの意識を刈り取ることは無い。
 心中でシンは息を吐く。
 状況は絶望的。劣勢にも程がある。例えるなら戦車に向かって拳銃で挑むようなモノ。
 分が悪いどころではなく――勝とうと思う方がおこがましい。
 だが、それは当然のことだ。2週間前までの差。それをたかが2週間――14日間で埋められるなどとは思っていない。
 真っ当に戦えば負けるのは自明の理。だが――彼は、決して負けるつもりで戦っている訳では無い。

 彼の願いは唯一つ“守る”こと。負ければそんなもの全て奪われる。
 奇しくも八神はやてがギンガに言い放った――恐らく魔導師としては生きていけんやろうな、という言葉。
 それを彼はしっかりと認識している。
 聞いてはいない。
 だが、そんなこと、考えてみれば簡単に予想はつく。
 自分がBランク試験を受ける。それが、かなりの話題になっていることはシンも朧気ながら知っている。
 わざわざ一人の人間の為だけに、本来ならば年に数回と決まっている試験を無理矢理するのだ。反発も大きいだろう。
 そこで必要と成る時間、準備、資金を考えれば、どれだけ八神はやてが無理をしているかが見えてくる。
 その結果失敗した時どうなるのか、も。

 怖かった。
 自分がどうなるのか――死ぬとか生きるとかの話では無い。
 失敗した場合、折角見つけた目的を完全に奪い取られる話しになるかもしれない。
 そう思うと、怖かった。怖くて怖くて仕方なかった。
 もし負ければ、守ることが出来なくなり、結果自分は安寧として生きていくことになるのかもしれない。二度と戦うことなく。
 それは幸せな人生だ。今、自分が望む人生よりも余程真っ当で幸せな人生だ。
 だが、それで誰が喜ぶ?
 少なくとも自分は喜べない。そんな“幸せ”などこちらから願い下げだ。
 そんなもので自分は決して救われない。救われるはずなど無い。
 だって、自分には何も無い。守る以外に何も無い。それ以外に自分が生きていても良いとする理由は一つも無い。
 死んで無いし、死ぬことも許されない。
 だから、守らなくてはいけない――それはシンの中に根差した衝動。屑である自分が生きていても良いとする衝動。

 だから、考えた。必死に考えた。
 どうしたら、現状を打破出来るのかを、必死に考え抜いた。
 彼に残された手段はただ、勝つことのみ。勝たなければ“守る”ことさえ出来ない無気力に逆戻りする。
 それは、それだけは嫌だった。
 何度も考えた。訓練を重ねた。気絶するまでアロンダイトを振り続けた。開放と収束と変換を繰り返し続けて何度気を失ったか分からない。
 2週間の内、まともなベッドで寝た回数など数度だけだ。その他全て起きているのか、寝ているのか分からない状態だった。
 鍛えた。考えた。そして――見つけた。一つの策を。

「うおおおおおお!!!」

 ケルベロスⅡを途切れぬまま連射させ、ギンガとの距離をとにかく開かせる。疾風の如き動きに鈍りは無い。
 シン・アスカは、“その時”が近いことを感じ取る。
 自身がここまで身体を張ってかけ続けた“罠”が、身を結ぶ時。それが近いコトを。


 それは残り一週間を切った日のことだ。
 シンは珍しくベッドで眠ることが出来ていた――と言うか倒れて運ばれたところを108部隊の誰かに運び込まれたらしい。
 慣れたモノで誰も何も言わなかった。皆が口々に聞くのは、ギンガのこと。突然、険悪になった二人を108部隊の人間はとても心配していた。
 部隊員でも無いよそ者に対して、部隊全てが優しかった。

「……ザフトじゃこんなこと絶対無かったよな。」

 お人好し、なのかもしれない。この世界全てが。

「馬鹿か、俺は……いつっ!?」

 自分の発現の馬鹿さ加減に苦笑しようとして、腹筋がつりそうな程に痛かった。肉体は流石にギシギシと軋みを上げ、動かそうと思ってもまともに動きそうに無かった。

「だ、駄目だ。もう、寝よう。」

 そして、眼を閉じる――けれど、眠気は一向に襲ってこなかった。

「……」

 頭の中には何回も見た自分のデバイス「デスティニー」の姿があった。思い描くのはやはり、どうやって彼女に勝つか。それだけだった。
 シン・アスカの持つ銃剣型――“銃剣(バヨネット)”と言うよりも“剣銃(ガンソード)”と言う外見をしているが――非人格型アームドデバイス「デスティニー」。
 このデバイスに装備されている武装は4つ。
 柄の部分に刺し込まれるようにして収納されている「フラッシュエッジ」
 大剣として使用する「アロンダイト」
 刀身を砲身として利用する「ケルベロス」
 そして刀身を折り畳み、取り回しを改善し一発の威力を犠牲にして連射性能を高めた速射モード「ケルベロスⅡ」
 この4つの武装の内、鍵となるのは間違いなくアロンダイト。あの大剣の一撃のみが彼女にとっての脅威。
 だが、それは彼女も承知のコト。恐らく、そう易々と当たってくれる訳も無い。
 また、アロンダイトは取り回しが悪く使い勝手が悪すぎる。
 コレを使いこなすとすれば、何かの方法で「必ず当たる状況を作り出す」以外に無い。
 彼女の戦闘方法から考えれば行きつく答えは一つ。
 「距離を取って戦い続け、隙を見て突撃する」。コレに尽きる。
 彼女自身の弱点でもある「射程距離の短さ」を徹底的に尽く。そして、隙あらば、アロンダイトによる一撃必殺を敢行する。
 その際に、何らかの方法で彼女の動きを一瞬でも止めることが出来れば――勝機はまだある――否、それしかないと言っても良い。
 だが、どうすれば、動きを止められる?
 生半可な方法では無理だ。ケルベロスⅡによる射撃で動きを止められるかと言えば、あれは牽制程度の役にしか立たない。ケルベロスならば可能かもしれないがまず当たらない。
 故に答えは“ケルベロスくらいに威力があって直ぐに撃てる魔法。それがあれば、どうにかなる”ということだった。

「……そんなのあったら苦労しないよな。」

 そう、彼の言う通り、物事はそう単純な話では無い。そんな都合の良いモノがあるのなら、悩む道理は無い。

「……けど、待てよ。」

 だから、シンはそこで発想を変えた。そんな都合の良いモノが無いのが問題なのだ。ならば、無いなら――作れないのか、と。
 シン・アスカの現状。
 つまりギンガ・ナカジマが知るシン・アスカはデバイス無しでは攻撃方法を持たない魔導師だ。
 無論、誰しもそうだと言えばそれまでだが、少なくともギンガはシューティングアーツ・ウイングロードというデバイスに依存しない魔法を保持している。
 これは、差だ。シン・アスカとギンガ・ナカジマとの決定的な差。
 デバイスが無ければ何も出来ない自分とデバイスが無くとも何かが出来る彼女。
 彼女は模擬戦当日もそう思っているだろう。シン・アスカはデバイス無しでは魔法を使えない、と。
 なら――そこを突く事が出来たら?
 つまり、“デバイス無しでは魔法を使えない”という先入観を利用することが出来れば――それはこれ以上無いほどの奇襲になる。
 それは奇しくも“あの時”の自分と同じコトだ。
 未だ稚拙な魔力をただ垂れ流し炎として燃やし、叩きつけた自分。今思えば、自殺行為のようなものだと思った。
 けれど、あの鎧騎士はよろめいた。何故?大した威力も無かったであろうに。大したダメージは与えていない。けれど“よろめいた”。その理由。
 それは、

「……“知らなかった”からだ。俺が、魔法を使えるって。だから、予想外だったから反応出来なかった。だったら……」

 あの時、シンは魔力を纏った拳で殴りかかった。
 けれど、自分はあの時と同じでは無い。
 あの時はただ垂れ流すだけの魔力を今の自分は完全に制御出来ている。
 制御とは、抑え付けるだけのモノではない。逆に間欠泉のように噴出させることも可能なはずだ。だから、

「く……」

 ぶるぶると震える右手を持ち上げ、毎日繰り返している通りに、そして今までとは少し違うように、ソレを――収束と開放と変換を“同時”に行った。
 どうして、その時、そうしようと思ったのか。
 「奇襲」という言葉が元々の世界でシンの搭乗機であるデスティニーにだけ取り付けられていた“隠し武装”を連想させたからか。それともただの直感か。
 けれどもそれが答えだ。対ギンガ戦において、恐らく真に鍵となる魔法。
 それこそが、彼が今から“作り出す”魔法の名前。その名を――

「――パルマフィオキーナ。」

 呟く。同時に左手で右手を掴み、右掌の魔力をそれまでやったことも無いほどの“高密度”に収束し始める。

「……くっ、う、うう……!!!」

 それまで込めていた魔力を10とするなら、今こめている魔力はおよそ100。
 あまりの過負荷に全身の意識をそこに集中し、制御に一心に努める。ガタガタと右手が震え出す。全身から汗が流れ出す。

「……ううううう……!!!」

 収束は圧縮となり、それまでの明滅とはまるで違う輝きを放ち出し、真っ暗な部屋を照らし出す。
 それは太陽の如き眩い輝き。輝きは凄まじい勢いでその光度を増していき――霧散した。
 再び部屋の中は暗闇に舞い戻る。
 息を荒げ、シンは呆然と霧散していく自身の魔力を眺め、そして――最後にそれらを生み出した己の右手を見つめて、口を開いた。

「……いけ、る、ぞ。」

 その呟きと共にシンの意識も霧散した。


「うおおおおお!!!」

 シンの放つケルベロスⅡの魔力弾をトライシールドで掻い潜り、ギンガは次のシンの動きに思考を巡らせる。
 好きな男と戦わねばならないと言う心の痛みと裏腹に、思考は明瞭に彼の行く手を紡ぎ出し、彼女の肉体に行動を指し示す。
 シンが右に動く。その速度は鋭く速い。未だ動きは鈍っていない。そのスタミナと集中力は流石に卓越したモノがある。だが、

(予想通り、過ぎるんです、シン……!!)

 悲しいかな。シンが如何に速度を上げたところでギンガ・ナカジマのシューテングアーツの前ではまるで無意味に帰するのだ。
 ギンガが今シンを追い詰めているのはその卓越した洞察力である。
 洗脳され、ナンバーズとして戦っていた時のギンガには無かったものだ。
 そして、妹であるスバルにもその洞察力は存在していない。
 そして、現在のギンガですら、完全なソレを体得している訳では無い。
 完全なソレ――シューティングアーツを体得したのは彼女たちの母であるクイント・ナカジマただ一人。故にギンガは不完全に、スバルはそれすら知らないでいた。

 では、シューティングアーツとは何なのか。
 それは、立ち技系格闘技――言うなればキックボクシングやボクシングを魔法を使って発展させたモノである。
 それは魔導師としては規格外なほどに、“近距離特化”と言うリスクを背負う。
 魔法とは、すべからく“放つ”ものだ。故に魔法による戦闘は格闘技とはある程度距離を置くことを前提とする。
 無論、近距離を得意とする魔導師もいるだろう。八神はやての守護騎士ヴォルケンリッターのシグナムがその一例だ。
 だが、それでも彼女にも長距離砲撃魔法は存在する。戦術の幅を考えた際に最も求められるのは距離の幅であるからだ。
 近距離から長距離と言う戦闘距離を持つ者と、近距離のみの戦闘距離を持つ者であれば、必然的に前者が有利となるのは自明の理。
 ではそれを覆すことは出来ないのだろうか?
 無論、その答えは否だ。距離と言うものは絶対ではない。
 何故ならば、一撃が届かないのなら“届く距離まで近づけば良い”。一撃を避けられるのなら“避けられない状況を作り出す”
 それがシューティングアーツの発案者クイント・ナカジマ――ギンガとスバルの母親の見出した答え。
 シューティングアーツとは、それを覆す為にクイント・ナカジマが考案した、凡そ全ての魔導師の天敵と成り得る“武術”である。
 ローラーブーツ、ウイングロード。他に類を見ない――と言うか誰も好んで使用しないそれらはその為の鍵である。
 スバル・ナカジマは未だその深奥を知らず。ギンガ・ナカジマは未だ体現すること叶わず。
 シューティングアーツ。その全貌は多くは知られていない。
 だが――もし、それを体現するならば……稀代の砲撃魔導師高町なのはであろうとも苦戦は必死であろう。
 繰り返そう。
 シューティングアーツ。それは魔導師の天敵。即ちそのコンセプトは“魔導師殺し(カウンターマギウス)”。
 その前で、シン・アスカの高速など烏合の衆も同然。
 飛び回る彼を叩き落とすなど障害物を生かし、彼を追い詰める術を持つ彼女にとっては造作も無い。
 現に先ほどからシンはギンガの一撃から辛うじて逃げているに過ぎない。
 機動6課の面々も同じように思っているのだろう。同じく陸士108部隊の面々も。終わりは近い。誰もがそう、確信していた。

 ――戦っている張本人であるギンガ・ナカジマと審査官である八神はやて、そしてシン・アスカを除いて。

 八神はやては、不敵に微笑んだままだ。
 ギンガ・ナカジマは未だ警戒を解けない。
 その理由。それは、彼の――シン・アスカの目が未だに死んでいないからだった。
 未だギラつく彼の瞳は燃え盛る炎の如く、こちらを睨み付けている。

 ――胸が苦しい。あの瞳で射竦められるとどうしようも無いほどにココロが痛む。この場から逃げ出したくなる。
 以前の模擬戦ならばこんなことを思いはしなかった。彼を撃ち抜く拳の感触は、彼を強くしようとするための拳だった。純粋にそう思っていた。けれど、今は違う。
 私は彼を叩き落とす為、絶望させる為に、此処にいる。
 それが悲しい。本当に辛い。だが、

(そんなこと初めから分かっていた。分かりきってたことだ……!)

 放たれるケルベロスⅡの乱射を巧みに避け、ウイングロードを疾駆しながら、ギンガは僅かに顔を歪め心中でのみ叫んだ。
 そうだ、分かっていたことだ。シン・アスカと敵対するなら、こうなると。
 自分はそれを織り込み済みで彼と敵対したのだ。
 だから、振り切れ。情けは無用。審査官である八神はやては今もずっとこちらを見ている。手加減しないかどうか、を。
 ギンガははやてと一瞬だけ眼を合わせると決然と不敵に微笑んだ。

「……手加減なんか、しない……手加減なんか、するもんですか……!!」

 ケルベロスⅡを変形し、シンはアロンダイトに切り替え、突進する。
 突然、リズムを狂わせられたギンガの動きが鈍る。考え事をしていたのも関係しているのだろう。
 アロンダイトが迫る。それを上空に跳躍し、くるりと回転。
 彼女の上下が逆さまになり、既に展開していたウイングロードを足場に再び跳躍。向かう先はアロンダイトを振り下ろした状態のシン・アスカ。
 リボルバーナックルを振りかぶり、撃ち抜く。シンも同じくアロンダイトを振りぬいてそれを迎撃。
 弾ける魔力。そして状況は鍔迫り合い――この場合はぶつかり合いの方が正しい――に移行する。

「はああああ!!」
「うおおおおおお!!」

 裂帛の気合と咆哮の叫び合い。
 紫電と火花が舞い散る。赤の魔力と紫の魔力がぶつかり合う。拳と剣の力は互角――だが、ジリジリとギンガの左拳が押されていく。

「ううううおおおおああああ!!!」

 砕けろとばかりにシンが叫びと共に更に力を込める。
 釣り合っていた均衡が崩れる。
 全身全霊を込めて、シンのアロンダイトが“振り切られた”。
 凄まじい金属音を伴い、ギンガの左拳が後方に勢い良く弾かれた。

「――うそっ!?」

 驚きの表情を表し、ギンガは咄嗟に後方に跳躍し、距離を開ける。
 これまでのどんな模擬戦でも自分の拳は彼に届いた。また彼の剣は一刀足りとも自分には届かなかったはずだ。
 確かに、こうなるだろうとは思っていた。二週間という時間は彼が成長するには十分だとは思ってはいた。だが、いざソレを見せられると驚愕が勝っていた。

 彼の剣は彼女に今、届いた。
 彼女の拳は今、彼に届かなかった。
 シンの瞳が鋭くなる。一瞬ギンガの眼に浮いた驚愕。それを見逃さなかった。

「行くぞ……!!」

 シンが突進する。ここを勝負処と判断し突進する。その判断は正しい。
 これまで一度も退くことなど無かった彼女が“退いた”。それは、彼女にとっても予想外の事態なのだから。

「シン……!!」
「ギンガさん――!!!」

 稚拙な剣戟。けれどそこに込められた気持ちと迷い無く振るわれる剣はどんな技巧に勝る剣戟よりも、“彼女には”輝いて見えた。
 先ほどとは打って変わって守勢に回るギンガ。その剣戟の中で迂闊に攻撃などしようものなら即座に倒される――そう、直感して。
 ことここに至って、彼女は、認識を改める。
 シン・アスカは既に弱者ではない。自身を食い荒らさんばかりの強者だ。
 そこに込められた想いは本気。馬鹿げた願いを叶える為に紡ぎ挙げた想いは心の底から本気なのだ。
 本気の想いに対しては、本気で応える。
 ――そう、手加減など真実不要。全力を出し、その上で彼に敗れる。その願い。それは決して叶わないものではない。それが、今此処に見えた。朧気ながら確信を持てた。
 だから、

(全力で、貴方に挑みます。シン・アスカ――!!!)

 もし、彼がここで自分に叩き潰され、絶望に落ちると言うのなら、自分は全身全霊でその責任を取ってみせる。
 もし、彼がここで自分を超えて、はるかな高みへ羽撃(ハバ)たいていくというのなら、自分は是が非でもそれに追い縋る。
 馬鹿で無謀と嗤われようと、胸の想いは止まりはしない。
 退く道など非ず。在るのは彼を想い従うこの道のみ。
 それは通常の女人が抱く恋とは懸け離れた苛烈極まりない恋慕。
 だが、恋する乙女は、ギンガ・ナカジマはそんなコトに気付きはしない。
 何故ならば、恋する乙女は常に猪突猛進究極無比。その理に従うなら、周りが見えないなど至極当然であるが故に―--!!

「ナックル――!!」

 ギンガのリボルバーナックルが紫電を伴い、回転する。

「アロン――!!」

 シンのアロンダイトが炎熱を伴い、赤熱する。

「バンカー――!!!」
「ダイト――!!!」

 三度、拳と剣が激突する。
 空気が帯電し、衝撃が旋風となって周囲を駆け巡る。
 退かぬ女と男の鍔迫り合い。

「シン・アスカアアアアッッ!!」
「ギンガ・ナカジマアアアアッッ!!」

 両者が、自身の得物を“振り抜いた”。
 瞬間、爆発が起きた。爆風が吹きぬける。その場にいた皆の髪を揺らし、空気が振動する。
 片方が押しやられる訳ではなく、互角であるが故にぶつかり合いによって空間に留まった魔力が行き場を失い爆発した。
 その衝撃で二人の距離は再び離れた。
 そして――シンの瞳が変わる。
 何かを狙っているような瞳から、何かを決意したような瞳へと。燃える炎は、射抜く矢となり、ギンガを見つめる。
 そして、ギンガもそれに気付く。彼が、何かを仕掛ける気なのだと。

「……アスカさん、狙っとるな。」

 八神はやてがシンの瞳の色が変わったことに気付き、呟いた。

「はい。恐らく次の一合に勝負を賭けるつもりなのでしょう。」

 シグナムもそれに続く。
 歴戦の勇士たる彼女もまたそれに気付いていた。

「……シグナムはどうなると思う?」
「……言いにくいことですが、ギンガの完勝ではないかと。」

 主が執心する人間に対する態度ではないかとも思いながらシグナムは返事を返した。
 けれど、恐らく自分の意見はここにいる大多数――否、全ての意見であるとは思っていたが。

「ヴィータは?」
「あたしも同じ。見込みはあるけど、まだ早いぜ、アイツには。」

 あっさりとそう言い放つヴィータ。
 後方のシャマルも同じく頷き、犬の姿のままのザフィーラも頷く――と言うか、ワンと吼えた。恐らく「私もだ。」と言いたいのだろう。

「やっぱ、そう思うんやな。」

 はやては、自らの家族でもある彼らの意見を聞いて、そう答えた。
 その口調には諦めと寂しさと……そして、少しだけ期待が込められていた。

「主はやては……違うのですか?」

 シグナムははやての言葉に込められたソレに気付き、怪訝な顔で聞き返す。

「私は……もう少し、見てるわ。まだ、分からんよ。」

 だが、はやてはソレについての返答を避けた。まだ、答えるべき時期ではないと。

「主はやて?」
「はやて……?」

 シグナム。ヴィータ。
 二人が同時に怪訝な顔をする。
 はやては、それに取り合うことなく観戦に集中する。
 ――シン・アスカはギンガ・ナカジマを超える。
 その一抹の期待に賭けて。

「……行きます。」

 シンが、呟いた。
 これまで、基本的には逃げに徹していたシンが真正面から突進してくるというのだ。
 先ほどのように流れが向こうにある訳ではない。一度流れが切られた以上、現状はそれまでと同じく距離を取るのがベストだと言うのに。
 そして、その呟きと同時、ギンガが構えた。
 その構えは、これまでとは違う構えだった。右手を下げ、左手を顎の辺りにまで上げ、僅かに身体を前傾した構え。ボクシングで言えばデトロイトスタイルに近い。
 今のギンガに油断は無い。手加減も無い。突進してくると言うのならば、簡単なことだ。
 正面からカウンターで撃ち貫くのみ。故にこの構え。これはギンガにとって最もカウンターを放ちやすい構えである。

「……」

 無言でシンが走る。速度はこれまでで最高。振りかぶったアロンダイトにその速度を上乗せして一刀の元に切り伏せるつもりなのだろう。
 だが、甘い。
 如何に最高の速度とは言え、直線的過ぎる。そんな攻撃はカウンターを合わせてくれと言っているようなモノだ。
 落胆が生まれる。
 シンはその表情を見逃さない。落胆すると言うことは彼女は“罠”に気付いていない。
 速度を緩めることなく、シンは突進する。

「――アロンダイト。」

 言葉と同時に刀身が赤熱し、振りかぶったソレを叩き付ける。
 そしてアロンダイトが振るわれるよりも僅かに速く、構えたままのギンガが身体を動かし始める。
 シンの肉体に一撃を撃ち込む為にタイミングを計り、そして交差に向けて全身を動かす瞬間――違和感を感じ取る。

(――変だ。)

 別に何があったと言う訳ではない。強いて言うなら虫の知らせ。そんなレベルだ。そんな小さなレベルで何かが伝えている。
 危険だ、と。
 それは近づくことでシンの瞳の内面に気付いたからか。シンの瞳の内面に確かに見える。“罠に嵌めた”愉悦に。
 そこで気付く。
 シンの右手が既にアロンダイトを“掴んでいない”ことに。
 彼は両手で振りかぶり、両手で振り抜く振りをしながら、ギンガがカウンターを始める僅かに数瞬前に右手を離していた。
 左手一本で振りかぶったアロンダイトは狙いを保つことなど出来ず、既にあらぬ方向に向かって振り抜かれ始めている。
 そして自由になった右掌が、しっかりとギンガに向けて狙われていた。

「っ――!!?」

 ギンガは、“見た”。シンの掌に集まる赤く輝く小さな光球を。
 魔力を変換し収束し、自身の限界まで圧縮し、そして生まれた魔力球の一部分のみを開放させ、間欠泉のような勢いで炎熱の魔力を撃ち放つ。
 それが今、正にギンガの眼前に展開されている。
 カウンターを狙っていたのはギンガだけではなかった。
 シンもまた彼女がカウンターをしてくると読み切って、それにカウンターを合わせる腹積もりだったのだ。
 罠とはこれだ。彼は身体を張って、彼女の意識をアロンダイトにのみ集中させた。シン・アスカの切り札はアロンダイトしかない。そう“思い込ませる”為に。
 シンの口が開く。今、打ち放たれるそれこそが、シン・アスカがこの2週間で作り上げた近接“射撃”魔法

「パルマ――フィオキーナ!!!」

 朱い光球が爆ぜた。威力は申し分無い。それはその名の如く、“掌の槍”として彼女を貫くだろう。
 だが、ギンガ・ナカジマはその只中にあって、未だ諦めてはいない。
 繰り返すが乙女とは猪突猛進究極無比。
 この程度の障害で終る訳にはいかない。何故なら、彼女もまた“切り札”を出していなかったのだから。
 そして、シンがその魔法を放つ寸前、ギンガが叫んだ。

「ブリッツ――キャリバアアアアッッ!!」
『Calibur shot, Maximum.Cartridge overload!!』

 ブリッツキャリバーが応える。言葉の意味は一つ。それは一人の女が全身全霊を放つ為に決めた言葉。
 リボルバーナックルが回転する。カートリッジが高速で3発連続リロード。
 彼女の身体はそれまでよりも更に一歩踏み込み、左腕を振りかぶるような態勢へと無理矢理に移行する。
 身体を前傾させた、背負い投げのような構え。それは身体ごと全身の全ての力を叩き付ける全力の一撃を意味する。

「リボルビング――」

 言葉を紡ぐ。自身の切り札。
 洗脳されて敵となり最愛の妹と殺しあったその怒り。
 二度と負けないと誓ったその信念。
 そして、初恋であるが故に限りを知らないその恋慕。
 それら全てを織り交ぜた一撃。それが今、全てを穿ち貫く。
 それはスバルですら見た事が無い、この数ヶ月でギンガが編み出した新たな魔法。
 背負い投げでもしようというほどに前傾した構え。

「ステ――ク!!!!!!」

 叫びと共にギンガの左手に収束し、回転し、形作られるソレは正しく杭(ステーク)。
 その正体は積層型シールド。つまり、トライシールドを幾重にも張り出して形状変化させ、回転させたモノ。
 カートリッジをリロードすることによって魔導師は一時的にその魔力量を増加させることが出来る。
 だが、リロードした瞬間の魔力量は吹き上げるマグマのように、落ち着いた状態の魔力量よりも少しだけ大きい。
 ギンガはそれを利用して攻撃の瞬間にリロードを連続で行い、魔力量を極端に上げたのだ。
 瞬間的な量のみの話ではあるがはそれは凡そオーバーSランクの魔力に匹敵する。
 それによって形作られる杭(ステーク)。それは回転し螺旋の流れを生み出し、魔力の流れを強制的に拡散させていく。
 その前では如何なる威力の魔力砲撃であろうとも、螺旋の流れの前に穿ち拡散し、用を為さない。
 シンの放ったパルマフィオキーナもその前に拡散し、意味が無い。迫り来るその拳を押し留めることすら出来ない。

「くっそおおおおっっ!!」

 我武者羅に魔力を注ぎ込むシン。だが、右手から噴出した朱い間欠泉はその流れを粉砕され、無意味に他ならない。
 絶望感が押し寄せる。
 負ける。
 自分は此処で負ける。

(こんなところで俺は終るのか。)

 そして、拳が到達する。
 ――瞬間、脳裏で何かが弾け散る音がした。同時に胸の奥で、何かがドクンと鼓動した。


「……終わりだね。」

 フェイトは観客席で小さく呟いた。
 終わってみれば、結果は当初の予想通りにギンガの勝利。実際にギンガは最後こそ危うかったがそれでも力押しで彼を倒した。
 その差は本当に紙一重。あの一瞬の攻防の天秤が僅かにでも彼に傾いていればギンガの勝利は無かっただろう。
 それは膝を付き、息を切らしている彼女を見れば一目瞭然だった。

「……ギンガ?」

 戦いは終った――はずだ。あの後シンはギンガの一撃を喰らい、吹き飛ばされた。
 如何に非殺傷性設定とは言え、あの一撃は死にはしないにしても相当の痛みを伴うはず。だから、彼女は直ぐにでも救護班が駆けつけると思っていた。
 だが、当の本人であるギンガが未だに彼の方に視線を向けている。そして、バリアジャケットを解く気配が無い。
 そして、親友である八神はやても同じくそれを止めようとする気配が無い。

 ――あの瞬間、フェイトからは角度の関係で見えなかったのだが、シンはギンガの拳が当たる瞬間、自身の飛行制御を完全に解除していた。

 パルマフィオキーナほどの威力の攻撃を支え無しで放てば当然使用者の――シンの肉体は放出方向とは逆に吹き飛んでいく。
 限界まで膨らんだ風船に針を刺せばあらぬ方向に飛んでいくのと同じ理屈だ。
 あの瞬間、シンはそれを行った。
 拳が当たった瞬間、自身の飛行制御を完全に解除し、パルマフィオキーナの勢いそのままに後方に自ら吹き飛び、地面に激突した。
 その為、殆どの人間がギンガの一撃によって吹き飛んだと勘違いしたのだ。
 ギンガは吹き飛ばされた方向を見据える。
 まだ終わってなどいない。
 シンはリボルビングステークを避けられないと悟るとその威力を少しでも“殺す”為に、自ら後方に飛んだ。
 地面に叩き付けられる衝撃とギンガの拳。そのどちらが致命的かを一瞬で判断し、躊躇など一切無く実行した。
 その判断。その行動。諦めることが無い為に行うその無茶苦茶。
 八神はやては笑顔を隠しきれない。
 シグナムは驚きを隠しきれない。ヴィータもまた同じく。
 その無茶苦茶は、あの、化け物に相通じるものがあったから。
 シンが激突したことで上がっていた噴煙が晴れていく。
 そしてギンガはそこに見つける。
 自身の思い人を。

「……シン。」

 シン・アスカが幽鬼の如くそこに立っていた。



[18692] 9.決着
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/14 00:59
 世界は残酷だ。
 ――家族を奪われた。

 人々は残酷だ。
 ――守りたかった人を奪われた。

 何もかもが残酷だ。
 ――未来を託してくれた友を奪われた。
 振り返ってみれば、その全てが残酷だった。
 けど、一番残酷だったのは本当は誰なのだろう。


 そこは暗い場所だった。暗い、暗い、光など通さぬ闇の底。
 その中に自分がいる。落ちていく自分がいる。

 ――これは、夢か。
 シンはその光景が現実ではないことを悟る。現実の自分は今、ギンガ・ナカジマに吹き飛ばされたはずだから――半分は自分から吹き飛んだ訳だが。
 だからこれは夢だ。
 その夢の中にあって彼は自分自身に深い落胆と――切実な絶望を手に入れていた。
 運命は変えられなかった。
 3ヶ月間必死に頑張ったつもりだった。けれど、届かなかった。
 確かにたかが3ヶ月間の訓練で一流の魔導師に勝とうなど甘い話しだ。だからここで終わるのは別に拙いコトではない。それを誇るコトなど決して出来ないけれど、ある意味それは最も正確な対応なのだろう
 何故なら、この結果は至極当然。“当たり前”の出来事なのだから。
 だから、ここが終わり。この結果が、自分にとっての一つの終わりだった。

「……ちくしょう。」

 暗い闇の中。彼は瞳を閉じた。
 意識が、落ちていく。更に深奥。負け犬の人生へと。
 見えたのは幾つもの自分。
 無様に負け続け、失敗してきた自分だった。
 何度も何度も誰かを失ってきた自分。そしてそれと引き換えるように何度も何度も数え切れないほどの人間を殺してきた。
 決して等価交換とは言えない、交換だ。
 そして、その果てに辿り着いた結論は、自分には力しか無いと言うこと。力を振るって守ることしか出来ないと言うこと。

 ――そして自分は力を奪われた。
 元の世界を弾かれて此処――異世界ミッドチルダに来たコトで。
 そして、そこでも力を求めた。けれど、それももう終わり。負け犬はここで終わるのだ。いつだって、自分は誰も守れないのだから。
 自分を猟犬と呼ぶ者もいた。

 ――それは間違った見解だ。自分は猟犬などではない。“負け犬”なのだ。
 伸ばした手はいつも届かない。また、それが繰り返される。
“また”守れない人生が始まる――。

「あ、あ、あ……!!」

 声が漏れた。哭き叫ぶ声。
 狂ったように声を上げて哭くシン。
 自分は、救われない。
 もう、“決して”救われない。
 決して救われることなく諦観と絶望の人生に突き進む。
 安寧と平穏の人生など、彼にとっては煉獄と何ら変わらない……文字通り針のムシロそのものなのだから。

 そして、頭の奥。心の最奥。意識の深奥。そこで――何かが弾けた。そして、同時に自分の胸にあった“何かが眼を覚ます”。
 そして、いつも近くにいた――そう感じていた暗い人影が一つが“弾け飛んだ”。
 まるでシャボン玉が破裂するように。そして弾け飛んだ“ソイツ”は無数の光となって、飛んでいく。
 手を、伸ばした。
 行くな、と。おいて行くな、と。
 けれど――その手は届かない。光はシンの制止に構わず飛んでいく。
 同時に感じ取る暖かな温もり。それは粉雪のように儚く消えて、彼の中に染み込んでいく。
 涙が流れる。理由は分からない。けれどそれは“流すべき涙”。シン・アスカにとって大切な涙。

 ――行こう、お兄ちゃん。
 そんな声が、聞こえた気がした。 


 その日、シャリオ・フィニーノは機動6課の隊舎内で待機していた。
 本当は今日行われる模擬戦を見に行きたかったにも関わらず、だ。
 だから、正直暇でしょうがなかった彼女はいつも通りに機械弄りをしていた。
 ザクウォーリア。
 異世界の機動兵器。半壊し、スクラップ同然だったそれを引き取って解析を行っていた。
 異世界の技術は彼女にとっては未知なることばかりで、眼を輝かせて取り組むことが出来た。

 その日も彼女はいつも通りに、解析しようとして――おかしなことに気付いた。
 “勝手に動いている”のだ。
 動力は落としてある。更には本来、魔法が関係ない純粋な機械であるソレは動力なしで動くなどというコトが発生するはずもないのだ。
 燃料のないエンジンは動かない。魔法だとて出来ないであろうその所業。
 在り得るわけがない――だが、目前で起こる現実として、ソレが起こっていた。
 起こっている以上は現実なのだ。現実である限り覆しようはない。
 呆然とそれを見やるシャリオ。
 その時、ブツン、と画面が、消えた。唐突に始まった異常は同じく唐突に消えた。
 再び電源が落ちたのだ。

「……何が、起きてたの。」

 薄ら寒いモノを感じながらシャリオは呟く。まるで狸に化かされたような……幽霊にでも出会ったかのような悪寒を感じ取って。
 ――彼女は知らない。コックピットシートに残されていたピンク色の携帯電話。電池が切れ、放置され、半ば壊れていたソレ。ザクウォーリアが起動していた時、それが“何かを通信中だった”ことを。


 ――機動6課隊舎内で起きたザクウォーリアの自動機動と同時刻。
 陸士108部隊訓練所。
 吹き飛ばされ、叩きつけられ舞い上がった噴煙の中で、シン・アスカのデバイス「デスティニー」。
 デバイスが言葉を示す画面。それが、静かに動いていた。シン・アスカの意思とは無関係に。
 目まぐるしく動いていくその画面。そこに映る文字はあまりにも高速すぎて確認出来ない。
 そして、画面が消え――数瞬の間を空けて、再び輝いた。
 デスティニーの画面がそれまでとは違う形の文字を映し出す。
 それまでは通常の文字だったモノが――少しだけ丸みを帯びたどこか女性らしさを強調する文字へと。
 文字は一文ずつ現れ、そして消える。その回数は7回。
 即ち――

『Gunnery』
『United』
『Nuclear』
『Deuterion』
『Advanced』
『Maneuver』
『System』

 ――その言葉自体には意味は無い。
 意味があるのは言葉の意味ではなく、その言葉そのもの。
 それは、ZGMF-X42S……すなわちデスティニーのOSの名称である。
 シンの肉体に血管のような“赤色の輝き”が生まれる。それは回路のようにシンの全身を覆い尽くし――そして、消えた。
 デスティニーの液晶画面に、再び文字が現れた。その回数は5回。
 即ち――

『Renewal completion pro-movement(動作系書換完了)』
『Nervous system connection completion(神経系接続完了)』
『An optimization start pro-operation(操作系最適化開始)』
『The power fixation completion(魔力定着完了)』
『Wake up ,brother. And you stand ,and fight.(起きなさい、兄弟。そして立って、戦いなさい。)』

 人格の無いはずのデスティニーが“喋った”。
 聞いた事もない電子の声。怜悧冷徹で、人間らしさなど欠片も無い――けれど、それはどこか誰かを思い起こさせる。
 それが誰なのかは既に過去の彼方。よく分からないけれど。
 シン・アスカはその声に導かれるように立ち上がった。


 幽鬼の如く立ち尽くすシン。バリアジャケットは所々が破れ、真紅のソレは埃を被って、白く染め上げられている。
 満身創痍。接近して確認するまでもない。シン・アスカは既に限界だ。
 だが、

「……ギンガ?」

 フェイトが呟く。あろうことかギンガ・ナカジマはその姿を見て、カートリッジをロードし、再度構えを取った。
 戦いはまだ終わっていない。そう、言わんばかりに。

「ちょ、ちょっと待ってよ、ギンガ!!」

 フェイトが観客席から身を乗り出し、ギンガに向かって叫んだ。

「もう、勝負はついてる、これ以上は単なる虐待にしか――」
「……弱くないんです。」
「え?」

 ギンガが答えた。答える声はか細く、脆く。けれど、

「これで終わるほど、シン・アスカは弱くない――彼を侮らないでください。」

 言葉に秘めた想いは決してフェイト・T・ハラオウンには理解出来ない。何故なら、彼女はシン・アスカを“知らない”からだ。
 シン・アスカを本当の意味で知っているのは、この場において、ギンガ・ナカジマと八神はやての二人――支えようとする者と利用しようとする者。その両極端な二人だけだった。だから、彼を止める資格があるとすればその二人だけ。

「……ギンガ、どうして、そんなことを……」
『ええんやな、ギンガ?』

 呆然と呟くフェイトを尻目にはやてはギンガに向かって念話を送る。

「はい。」

 返される声は平然としたモノだった。

『……分かった。』
「はやて、どうして止めないの!?」
「試験官がやめへんて言うてるのに止める訳にもいかんやろ。それに……私もこの程度で終わるとは思ってないんや。」

 フェイトは口ごもる。はやての表情。それがこれまでにないほどに愉悦に歪んでいる。

「はやて……?」
「見てみい、フェイトちゃん。シン・アスカを。」
「シン君を……?」

 はやての言葉に従い、フェイトはシンを見る。そして、絶句した。
 その異形に声を失った。

「何が……起きてるの。」

 シンの肉体が輝いている――否、正確には光が走り回っている。
 右手に携えたデスティニーを大基として、シンの肉体にまるで電気回路のような形で光が走り回っているのだ。
 光はシンの肉体全てを走りぬける。
 服の上からでも分かるほどに明滅が分かるその輝き。
 それは凡そ確認されているどの魔法にも類似しないモノ。

「狂った炎は羽金を切り裂く刃となる、か。」

 シンの肉体を走る赤い光――回路上に輝くその光。それは鼓動を刻むようにシンの全身を明滅しながら走り抜ける。
 そして、魔力が膨れ上がる。感じ取る魔力量。その量がどんな“意味”を持つのか。
 歴戦の勇士たるシグナム、ヴィータ、シャマル、ザフィーラ、そして八神はやて、過去、蒐集行使を繰り返していた彼らだけがそれに気付いた。
 シン・アスカの増加した魔力量。それが凡そ一般的な人間一人分の魔力量。リンカーコア一つ分とほぼ同量だと言うことに。
 その意味にまでは気付かなかったが。

『Wake up ,brother. And you stand ,and fight.(起きなさい、兄弟。そして立って、戦いなさい。)』
「デスティニー」の画面にその文字が映し出され、そして消えた。

 同時にシンの身体中を走り回っていた光が消える。
 シン・アスカの閉じていた瞳が開く。
 焦点を失った瞳。幽鬼の如き立ち姿。そして、“あり得ざる意思”を持ったデバイス。

「……行く、ぞ。」

 声の調子は満身創痍。肉体も同じく。
 されど、煮えたぎる意思だけは決して冷めることなく。
 ――“シン・アスカとデスティニー”の戦いが始まる。


 戦いは、それまでとはまるで違う様相を見せていた。
 シンはそれまでと同じくアロンダイトによる突進を行う。その表情は悪鬼羅刹の如く歪み切っている。
 焦点を失った眼はそれを覆い隠す役割を何らしていない――それどころか彼の異常さを際立たせるのにさえ貢献している。
 鈍い金属音を響かせ、両者が激突する――そこでギンガは気付いた。シン・アスカの動き。
 それが吹き飛ばされる前と、吹き飛ばされ立ち上がった後でまるで“違う”と言うことに。

「アアアアア!!!!!」

 獣の如き咆哮と共に振るわれるアロンダイトの連撃。
 嵐の如きそれを左拳の一撃で弾き、右手に発生させた幾重にも折り重なり、翼のような外見をした小規模積層型トライシールド――リボルビングステークに使用されている技術である――によって捌きつつ、ギンガは心中で呟いた。

(これ、は……!?)

 戸惑うギンガ。
 弾いた左拳が衝撃で痺れる。
 捌こうとして、速度が間に合わなかった右手に痛みが残る。
 吹き飛ばされる前は決してそんなことはあり得なかった。
 確かに積層型トライシールドこそ彼の前で今始めて使ったものだ。
 今それを使用したのは純粋に速度が間に合わなかったからだ。回避よりも捌くべきだと言う判断によるものだった。
 これまではそんなモノを使う必要は無かったのだ。全て回避できていたから。何故なら彼の剣戟は稚拙だが気持ちの篭った剣戟。
 そう、“稚拙”だったのだ。
 それが今はどうだろうか。その動きはもはや怜悧冷徹。強靭且つ俊敏でありながら精緻極まりない機械の如き動き――かと思えば次の瞬間、元の獣の如き動きと成り変わり、そして機械に舞い戻る。
 稚拙且つ精緻。荒ぶる獣でありながら、冷徹な機械。
 矛盾した二つの動き。シンの動作はその狭間で揺れ動く。

(一体、何が……!?)

 心中の言葉通り、これで戸惑わない方がおかしい。同時に、それはギンガにとっての危機をも意味する。
 前述した通り、シューティングアーツとは洞察力と戦闘の組み立て、そして鍵となる魔法を使うことで距離の差を埋める“武術”である。

 シン・アスカの動きがこれまでとまるで違う――それは再び情報の取得を行わなければならないと言うことだった。
 彼女が守勢に回るのは何もシンの速度が上がったからという訳ではない。それまでとはまるで“違う”からだ。違うからこそ彼女は守勢に回り、情報の取得に全霊を込めるしかない。
 シンの身体に起こった異変――それが何なのか、と心を乱しながらも。
 あの回路上に走りぬけた光が影響を与えている。それは分かる。だが、“それ”が何なのかまでは彼女には分からなかった。
 だから、彼女は戦いながらも祈るしかなかった。
 それが単なる杞憂であることを――シン・アスカの肉体が“変質している”などありうるはずがないと祈りながら。
 そんな彼女を気にすることもなくシンは剣を振るい続ける。
 シン自身、自分の動きが――身体が変化したことには理解していた。そして、その動きが“何の動き”なのかも。
 現在シンが行っている動作、その動きの根幹にあるのは“ZGMF-X42Sデスティニー”の動作パターンである。
 つまり、シンは今、正に“ZGMF-X42Sデスティニー”に乗るようにして戦闘を行っているのだ。

 ――以前、語ったことではあるがザクウォーリアのOSとはつまり“ZGMF-X42Sデスティニー”のOSである。シン・アスカの反応速度を生かす為に元々のOSから書換えたモノである。
 デバイス「デスティニー」はあの瞬間、ソレをザクウォーリアから“受け取った”。
 如何なる意思が働いたのか、如何なる力によってか。それは“今は”誰にも分からない――だが、それは起きた。
 そして「デスティニー」はそれをシン・アスカの肉体に付着し、その結果としてあの回路の如き光が走った。

 MSと言う機動兵器の動作パターンである以上、実際の人間が使うような応用性がある訳では無い。
 動きを書き換えたところで、人間の動きと機動兵器の動きは決して相容れないモノだ。
 機械の動きは人間の動きに辿り付けない――その絶対原則は決して超えられない。
 “だから”、それを一瞬一瞬ごとに最適化していっているのだ。“ZGMF-X42Sデスティニー”のモーションパターンを“根幹”として。
 元より、斬撃武装として作られた“ZGMF-X42Sデスティニー”のモーションパターンは余人では辿り付けないほどに高度なモーションデータを使用している。斬撃を放つための理想的な動き――達人の動きを。

 そして、それはアロンダイトによる斬撃だけではない。フラッシュエッジの投擲や動きそのものへの干渉。
 それらの、“理想的な動き”の内、彼にとって必要なモノ、不要なモノをデバイスである「デスティニー」が取捨選択し、彼の身体の動きを“書き換え”、彼にとって最も最適なカタチへと最適化を施していく。
 その動き。それは“ZGMF-X42Sデスティニー”に記録される以前の“達人の動き”である。
 そして“書き換えられた”動きは現在のシン・アスカにとって正に理想そのものと言った最強の動きである。

 ――だが、理想であるが故にその動きは限界を超えることをシンに強いるのは自明の理。
 身体と骨格が軋みを上げる。
 剣を振るう度に身体のどこかがギシギシと唸りを上げ、全霊の一撃はそれだけで筋繊維を少しずつ断裂していく。
 それはあくまで凡庸であるシン・アスカの斬撃を理想の斬撃に塗り替えていくことへの反動である。
 そして、断裂していく筋肉を無理矢理繋ぎ止めていく跳ね上がった“自動治癒術式”。
 増加した魔力が余剰魔力となり、それを燃料としてデスティニーに納められていた“自動治癒術式”がシンの肉体を癒していっているのだ。

 身体の節々から立ち上る蒸気は断裂する度に繋ぎ止められていく筋繊維が生み出す蒸気。
 デスティニーとは機動6課において作成されたデバイスではあるが、その設計図や使用する魔法については管理局の上層部――カリム・グラシアから直接機動6課に渡されている。
 故にデスティニーにその術式を納めたのはデバイスを作った人間ではなく、デバイスを設計した人間となる。それが誰か、など考えるべくもない。
 カリム・グラシア直属の部下ギルバート・グラディスである。
 シンやはやてはそんな事実を知らない。知るはずも無い。
 シン・アスカは与えられた武器に意見を言う人間ではなく、八神はやては与える武器の持つ意味を知らぬまま、デスティニーを使用した。
 その流れは全てカリム・グラシアとギルバート・グラディスの計画の通りである――だが、彼らもこんな状況は予測していなかった。デバイスに突然意思が宿り、“使用者の肉体の動作系を書き換える”などと言う“世迷言”は。

 ――剣を振るえばブチブチと筋肉が千切れ、千切れた端から肉体は再生を繰り返す。
 血切れる痛みと繋ぎ止められる痛み。
 シンの表情が悪鬼の如く歪むのは、怒りでも悲しみでも無い。ただ単純な話し、脳髄にまで到達せん勢いのその痛みによってだった。
 けれど、シンは止まらない。止まることを知らないからではない。
 止まってしまえば、躊躇してしまえばその瞬間全てが終わる。それを知っているからこそ、シン・アスカは止まらない。暴走列車の如く、突き進む。
 だが、それでようやく互角。
 シンの連撃は未だ彼女に当たらない。完全に守勢に回ったギンガの防御をシンは未だ切り崩せないでいる。そして、それが長引けば長引くほどに彼女の防御は完全に近づいていく――ギンガ・ナカジマの情報の取得がシン・アスカの進歩を飲み込んでいくのだ。
 当初はズレていた捌きのタイミングも今はもはやコンマ数秒のズレさえない。

「くっそ……!!」

 一合ごとに壊れ、無理矢理に繋ぎとめられていく身体。それでも突き崩せない高き壁。
 その前でシンの心は剣を振るうごとに折れそうになる。
 膝を付きたくなる衝動が我慢しきれない。
 痛みに震える身体を休めたい。

 自分は勝てない。届かないモノに憧れたから。
 自分は負ける。分不相応な願いを抱いたから。
 あの時――あの赤い無限の正義に敗れた時――と同じく自分はまた、負けるのだ。
 焦燥は絶望となり、彼に停止を促す。
 止まれば、ここで止まってしまえば自分は“楽になれる”のだ。

(――違う)

 楽になどなれるものか。
 安寧とした人生。幸福な人生。昔、当たり前にそこに在ったモノ。
 けれど、守れなかった人達が、守りたかった人達が、そんなことを望む訳が無い。
 望みは一つ。守ること。全てを守り、彼らのような人々を二度と生み出さないこと。
 世界の平和などどうでもいい。目に映る人々を全て守って守って守り続けるただそれだけ。
 大剣と鉄拳が激突した。衝撃が全身を襲い、痛みが激増した。
 割れんばかりに奥歯を噛み締め、必死に耐える。
 刺すような激痛の生理的な反応として涙が零れそうになる――いや、零れた。
 涙を零しながら剣を振るうその姿は正に無様。正に敗者。
 けれど、それでも彼は止まらない。
 無様で構わない。敗者で構わない。負け犬で構わない。
 守れるなら、一生をソレに捧げることが出来るならばソレで良い、と。
 決然と瞳を燃え上がらせ、赤き瞳の異邦人は、諦めることを選択しない。
 止まることなど、初めから選択肢に存在しないのだ。

(――考えろ、シン・アスカ。)

 速度はこれ以上上がらない。技術もこれ以上、上がらない。
 だが、彼女の防御を突き崩すには“今のまま”では駄目だ。
 今よりももっと速く、もっと強くなければ駄目だ。
 ならば、どうする。今までのように“出し抜く”のではない、“追い抜く”為にはどうすればいい?
 脳裏を覆う全能感と共に澄み切った思考も未だに消えていない。
 そして彼の思考は、剣戟を繰り返す肉体と離別したかのように冷静に加速し、考えを繰り返し続け――その方法を閃く。

 それはあまりにも簡単な基礎の応用。けれど、恐らくこの世界の誰もが気付くことは無い方法。
 MS戦闘を行い続けた自分だけが辿りつく解答。
 必要となる“その魔法の規模”は極小規模。故に詠唱も不要。増加したが故に魔力量に不安などあるはずもない。
 だが、思った通りの結果が得られるのか。そして、限界に差し迫るこの身体が果たしてもつのか。
 正直、不安材料にはこと欠かない。だが、それでもやらねばならない。
 それは正に賭け。伸るか反るかの大博打。
 逡巡は一瞬。
 そして、シンは決断する。それを使うことを。

 ――発生地点を操作し、アロンダイトの峰の部分に設定した極小規模のパルマフィオキーナを。

「行けええええ!!!!」

 叫びと共に赤い間欠泉がアロンダイトの峰で“噴き出した”。その様はMSならば必ず存在するバーニアそのもの。
 そう、シン・アスカはパルマフィオキーナをあろうことか、“スラスター”として利用したのだ。
 そんな思考はこの世界の人間には出来はしない。何故なら、宇宙空間における機動戦闘などこの世界の人間にとっては真実無縁であるが故に。
 そして、“噴き出した”瞬間、振るわれたアロンダイトが“加速”した。

「速い……!?」

 左拳での迎撃が間に合わず、ギンガの左手はアロンダイトの一撃で彼女の身体ごと吹き飛ばされた。
 好機来たり――シンがアロンダイトを構え、跳躍。地面と並行に飛行し、空中を正に弾丸の如く疾駆する。

「そんな真っ正直な攻撃で……!!」

 右腕の小規模積層型トライシールドをアロンダイトの予想斬撃角度に対して、斜めに構え、アロンダイトの斬撃をトライシールドで“滑らせて”捌く。
 大剣を振り下ろしたその状態は大きく態勢を崩し、正に絶好の好機そのもの。
 間髪すら入れることなく、右手の捌きと完全に連動した滑らかな流水の如き動きで彼女の左拳が放たれる――そして、シンの姿が掻き消えた。
 ギンガの左拳が空を切る。ぞくりと肌が粟立つ。

「――!?」

 ヒュン、と風を切り裂く音がした。即座にその場から一も二も無く離脱するギンガ。
 彼女がそれまでいた場所をシン・アスカの斬撃が振りぬいていったのだ――それも背後から。
 見れば、彼の身体のそこかしこが黒く煤で汚れていた。バリアジャケットが、熱量に耐え切れずに焦げ付いたのだろう。
 熱量――それは、パルマフィオキーナの熱量である。
 今、シンは小規模のパルマフィオキーナを全身の至る所から“放ち”、無理矢理に自身の肉体を動かしたのだ。
 アロンダイトを振り下ろした姿勢。
 そこから足裏から“発射したパルマフィオキーナ”によって無理矢理、真上に跳躍し、そして連続した肩からの“発射”によって彼女の背後に移動。
 肩からの“発射”によって態勢を大きく崩し、脳天から地面に激突するような態勢から再びアロンダイトの峰からパルマフィオキーナを発射。
 そうやって、シンはギンガに向かって、無理矢理にアロンダイトを振り抜いた――むしろ激突させた。
 そして本来なら頭から地面に激突し、首の骨を折っていてもおかしくない状況であったにも関わらず、遺伝子に刻みこまれたSEEDと言う名の度を過ぎた集中力によって拡張した知覚は、態勢を崩しながらも何とか着地に成功させる。

「……ゲホッ、ゲホッ!」

 咳き込むシン。急激な加速がシンに与えた影響は甚大だ。
 足裏からの発射は発射点である足裏、そして膝や腰に大きな負荷をかけ、連続して行われた肩からの発射による移動は足裏の時と同じく発射点である肩に甚大な痛みを与え――足裏からの移動と伴って、彼の内臓を大きく揺らし、乗り物酔いのような状況を作り出す。
 吐き気と胸焼け。そして、先程よりもはるかに強く痛み、ギシギシと軋み出す肉体。満身創痍の肉体は限界へと確実に一歩近づいた。
 だが、それでもシンはそんな辛さなど欠片も見せずに、戦闘に没頭する。

 ガキン、と音がした。鈍く、そして馬鹿みたいに大きい、金属がぶつかり合う音。
 何度も何度もこの決戦場に響き渡った「拳」と「剣」のぶつかり合う音だ。
 戦闘は止まらない――否、シンが用いたパルマフィオキーナの高速移動。それを切っ掛けに二人の戦いは“加速”する――。
 シン・アスカは小規模パルマフィオキーナによる残像すら生み出さんばかりの高速近接戦闘。得物はアロンダイトとフラッシュエッジの二刀流による高速連撃。

 対するギンガ・ナカジマは左手のリボルバーナックルと右手の小規模積層型トライシールドによる全てが全力の一撃必殺近接戦闘。
 短剣と蹴りが交錯し、大剣と鉄拳が激突する。

 ギンガのリボルバーナックルが唸りを上げてシンの腹部に激突する――寸前、シンは小規模パルマフィオキーナで独楽でも回すような動きで身体の向きを無理矢理右に回転させ回避。そして、回転した勢いのままギンガに向けて右手でアロンダイトを振るう。
 ギンガが振るわれたアロンダイトを小規模積層型トライシールドにて捌き、その動きに合わせるように右足を跳ね上げる。
 狙いはシンのコメカミ。ブリッツキャリバーの加速によって放たれる蹴りは意識を断絶するには十分すぎる。
 左手に持っていたフラッシュエッジでシンは無理矢理弾く。捌くような余裕は存在しなかった。衝撃で態勢が崩れる。腰が落ち、後ろに寄りかかるようになったその態勢では攻撃手段は無い。防御手段も無い。一度立て直さなければ何も出来ない。
 リボルバーナックルが唸った。必殺の一撃。喰らえば意識は無い。

 シンの瞳が燃え上がる。まだだ、と言わんばかりに咆哮。そして同時にフラッシュエッジ、アロンダイト。両の手に持つ得物の峰から同時に小規模パルマフィオキーナを発射。その二つを全力で絶対に離さない様に握り締め、“振り抜いた”。シンを支点にしてフラッシュエッジとアロンダイトはハサミのようにギンガを左右同時に挟み込む。

 それを後方に反り返るようにして回避し、右足を跳ね上げるギンガ。狙いはシンの顎。
 シンは後方に倒れこむことでその一撃を避ける。紙一重。刹那の差で眼前をギンガの左足が通り抜けて行った。
 僅かに距離が開く。両者の身体が動く。そのタイミングは同時。

 そして――激突。交錯は止まらない。
 二人が戦っている場所は先ほどから殆ど変わっていない。だが、それにも関わらず二人は一瞬たりとて同じ場所には位置していない。
 上下左右前後。目まぐるしく動くシンとギンガ。その攻防が一瞬ごとに入れ替わる。
 極小空間にて行われる疾風怒涛。
 過熱し、赤熱し、白熱する男と女。
 その様は正に座して動かぬ竜巻の如く。

 大剣による一撃必殺と短剣による高速連撃。

「うおおおおおおおおお!!!」

 ――振るう刃が剣嵐(ケンラン)ならば。

 それを捌き、弾き、唸る一撃必殺の拳の雨。

「こんなものでええええ!!!」

 ――荒ぶ拳は驟雨(シュウウ)の如く。

 今、此処にシン・アスカとギンガ・ナカジマは肉薄していた。


 ――シン・アスカは強い。
 異常な成長速度。
 常識を超えた発想。
 その身が秘めているであろう何かしらの秘蹟。
 だが、それら全てを除外したとしても彼は強い。
 その心根は、折れぬ曲がらぬ無毀(ムキ)の剣。決して刃毀れなどしない――したとしても、その逆境すら飲み込んで彼はきっと“超えて行く”。
 ストライカー。立ち向かう者。それがスバル達に求められた資質である。
 では、シン・アスカはそれなのか?
 否。断じて否。
 シン・アスカは立ち向かう者に非ず。
 彼は足掻く者だ。
 ドブ泥に塗れようと、絶望に落とし込まれようと、何もかも失ったとしても。
 彼はそれでも足掻き続ける。
 ありとあらゆる全てを利用し、僅かな可能性に縋り付き、何度失敗しても、諦めないと駄々を繰り返して足掻き抜く。
 故に彼は“ストラッグラー(足掻く者)”。生き汚さだけに特化した生粋の戦士である。
 男と女のぶつかり合い。
 その横で、二人の女の胸中にも複雑なモノが蠢きだしていた。


「……なんて――凄いんだろう。」

 疼き始めていた。彼女の心の奥底で、これまで一度も動かなかった気持ちが。
 フェイト・T・ハラオウンはいつの間にか、手に汗を握りながら、観戦している自分と――そして、いつの間にか“彼”を応援していた 自分に気付いた。
 それは何故か。
 立場上は中立である。そして、試合が始まるまではどちらが勝つかなどあまり興味があることではなかった。

 ――彼女はシンを知らなかったから。
 なのに、今は心情的にはシンに勝って欲しいとも思う。
 それは先ほどのギンガの発言が気になったから?
 違う。フェイト・T・ハラオウンはそんな狭量な人間ではない。彼女は純粋無垢が故の強さを“生まれ持った”閃光。
 作られた人間であるが故に、誰よりも人間の善性を信じ抜く人間である。

 ――それはシン・アスカとはまるで真逆。彼は人間を信じてなどいない。
 信じていないからこそ、守ることに命を懸けたいのだ。信じるべきは人間の善性ではなく悪性だと考えているから。
 だから、彼女は彼を応援しているのかもしれない。
 自分には無いものを持った彼を――自分は今、好ましく思い始めている。
 話したことなど僅かに数時間。だから彼女は彼を知らなかった。彼の内なる苛烈さを。
 だが、今、彼女は“見た”そして“知った”。朧気ながらも――知ってしまった。
 胸が疼く。心臓の鼓動が大きくなる。

 ――20年と言う人生の中で一度も感じたことの無い鮮烈な気持ち。
 その胸に疼く思いは如何なるモノか。
 その頬を熱くする想いはどこから来たのか。
 そして、この胸の鼓動は何を意味するのか。
 彼女には分からない。経験したことなど一度も無いが故に決して理解など出来ない。
 金色の乙女の――その胸の奥で、今、一つの心が疼き始めていた。
 それはカタチなど持たない、曖昧なモノでしかないけれど。


 八神はやての胸は、痛んでいた。
 目前で繰り広げられているシン・アスカとギンガ・ナカジマ。両者の迷い無き剣と拳のぶつかり合い。
 それを見て、思ったのだ。

 ――自分は薄汚れてしまった、と。
 別にその汚れは決して誇れないものではない。むしろ誇って然るべきものだ。
 世界を救うと言う大望。その為に利用できるものは何であろうと利用する。それは間違いではない。
 だが、と思うのだ。
 自分が利用しようとしているあの男――シン・アスカ。
 その戦いぶりは苛烈である。奇襲を行うなど模擬戦という舞台には相応しくないほどに勝利――いや、彼の場合は“守る”ことか――に拘る姿勢。そして自分自身の身などまるで省みない戦い方。
 それは、戦闘力ならば6課でも下から数えた方が速いと自認する彼女にとっても“輝いて”見えたから。
 自分自身を省みない戦い方と奇襲は届かないモノに届く為の試行錯誤の表れ。
 そうまでして、彼は守ることに拘り続けている――今も、まだ。
 その姿は自分を苛んでいく。
 決して自分を省みないその生き様。
 誰かの為にと身体を張って戦うその苦しみ。
 それがあまりにも自分とは食い違っていたために。

「……・っ」

 胃が痛む。罪悪感が再びせり上がってきている。
 だが、それを鉄の精神力で押さえ込むと八神はやては決然と戦いを“見た”。

(……地獄の果てまで、付き合ってもらうで。シン・アスカ。)
 
 ――鋼鉄の乙女は、再び鎧を身に纏う。自身の意思を隠し、“強くなる為に”。


 剣と拳が離れる。
 竜巻の如き闘争は互角のままに終了し、二人は一度その場を離れた。
 両者の目に灯るは決意の輝き。
 それを見て、シグナムが呟く。

「……これが最後だろうな。」
「ああ。」

 ヴィータが返答を返す。
 二人の意見は同じもの。疲労困憊のギンガと満身創痍のシン・アスカ。
 両者の肉体は既に限界に近づいている――シン・アスカは既に限界を超えていると言っても良いのだが。
 先ほどまではギンガが圧倒していた。だが、何があったのか、シン・アスカの力は戦っている内に成長していった。
 その速度は凄まじく、数多の戦いを超えてきたヴォルケンリッターである二人ですら見たことが無いほどだった。
 ――だが、それでも未だギンガ・ナカジマが有利なのは動かない。
 ギンガには防御や攻撃をそれごと破壊し撃ち貫く一撃――リボルビングステークが存在するが故に。互角では適わない。届かない。
 それが、シグナムとヴィータ、二人の見解だった。
 だが、二人はある種の期待を覚えるのを抑えられなかった。
 先ほど増加した、一人分の魔力量。そしてその後の爆発的な成長。幾重にも絡んだ要因と、その要因を全て抜き去った部分で二人は思った。
 赤い瞳の異邦人“シン・アスカ”。そんな簡単にこの男は終わらない。終わらせない、と。


 ブリッツキャリバーに向かってギンガが呟く。

「ブリッツキャリバー、リボルビングステークはあと何回撃てる?」
『One bullet(あと一発です。)』
「――十分ね。」

 確認を終えるとギンガは構えを取った。
 対するシンも同じくデスティニーに呟く。

「……勝つぞ、デスティニー。」
『Exactly(当然です。)』

 味も素っ気も無い回答にシンは苦笑を浮かべる。
 シンはデスティニーに意思が宿ったことに対して不思議と違和感を感じていなかった。
 そして、そのデバイスによって身体機能を書き換えられたと言うことを理解していながらも、それに対して恐怖も無かった。
 不思議な話し、デスティニーは自分にとって害となることを“決してやらない”。そんな確信を持っていたから。
 それは――デスティニーに何か懐かしいモノを感じ取ってしまったからなのかもしれない。
 ギンガが構えたことを見て取ると、シンもフラッシュエッジを収めてデスティニーを振りかぶる。
 脳裏に浮かべるのはこの交錯で勝負を決める為の考え。
 どの道、これで終わる。
 自分に、もはや余力は無い。
 故にこの一撃が最後。間違いなくこれが最後の交錯。
 最後である以上、現時点で自分が出来る全身全霊を込めて、彼女を超える。
 そして、その意見はギンガも同様だった。
 言葉はもはや不要。

 ――ギンガが駆け出す。ブリッツキャリバーが唸りを上げる。
 ――シンが撃ち放つ。ケルベロスから朱い光が放たれた。

 ギンガは放たれた朱い光に対して突進した。速度を止めることなく、着弾の瞬間にそれを避け懐に入り込むつもりなのだろう。
 シンはギンガの動きを確認するとデスティニーに二本収納されているフラッシュエッジの内、一本に手を掛け、抜き放ち、弧を描くように投擲した――投擲の瞬間をケルベロスから放たれた光に紛れ込むようにタイミングを計って。
 放たれたフラッシュエッジは大きく弧を描くように飛んでいく。その軌道はシンが設定したモノだ。彼女の視界の端を“舐めるように”飛んでいけ、と。
 そして、ケルベロスを彼女が避け、そして加速する。ギンガは大きく腕を振りかぶり、リボルビングステークの準備をする。
 無論、ブリッツキャリバーは全く足を止めない。突進し、その勢いそのままにこちらに撃ちこむつもりなのだろう。

「リボルビング――!!!!」
「させるかぁああ!!」

 シンは全速力でギンガがリボルビンステークを完成させる“前に”彼女に向かって突進していった。
 リボルビングステークとは魔法の天敵である。
 完成してしまえば、その前では如何なる魔法であっても無意味となって拡散する――だが、それは完成した場合の話だ。
 魔力を収束し、回転することでリボルビングステークは天敵足りうる。
 その前段階であるならば、決して魔力を拡散させることは出来ない。
 故にリボルビングステークの弱点とは突進。
 こちらから距離を近づけ、鍔迫り合いに持ち込むことが出来ればリボルビングステークは、“破れない”までも“止める”ことは出来る。

「くっ……!!」
「うおおおお!!」

 ギシギシと軋みを挙げる二人のデバイス。

「はああああっ!!」

 押し合いに勝利したのはギンガだった。裂帛の気合と共にシンが後方に吹き飛ばされる。
 そして距離が開き、ギンガは再度、リボルビングステークを打ち放つ準備をする。

 ――ここだ。
 振りかぶったその隙を逃すことなく、シンは残されたもう一本のフラッシュエッジを抜き放ち、アロンダイトをギンガに向かって、“投擲”した。

「――“飛べ”……!!」

 投擲されたアロンダイト――つまりデスティニーは飛行の魔法を付与され、投擲ではありえないほどの速度に加速する。
 そして、同時に先ほど投げたフラッシュエッジがギンガに向けて飛来する。
 右斜め上空から飛来するフラッシュエッジと真正面から飛来するアロンダイトによる二点同時攻撃。
 だが、そんな程度の奇襲で破れるほどギンガ・ナカジマは甘くない。

「そんな、奇襲で……!!」

 リボルビングステークを解除し、ギンガは目前のアロンダイトに狙いを変更。生半可な捌きなどではこれは捌けない。故に、打撃を以って迎撃するのみ。

「ナックル……バンカー!!」

 左足の踏み込み。そしてその踏み込みの力に下半身を連動させ、左拳を突き上げ――鈍い金属音を放ち、アロンダイトが弾き返された。残った右拳に展開したトライシールドで上空から飛来するフラッシュエッジを弾き返した。

 ――そして一瞬で二点を同時に撃破したギンガはそこで今度こそ驚愕する。
 アロンダイトと同じ軌道でフラッシュエッジが既に迫ってきていたからだ。
 シンはアロンダイトを投擲した瞬間、あらかじめ抜いておいたもう一本のフラッシュエッジをその背後に連なり、アロンダイトの影に隠れるようにして“投擲”したのだ。ギンガの眼にはフラッシュエッジが突然現われたように見えたことだろう。完全なる奇襲。
 だが、

「まだ、終わりじゃ――ない……!!」

 両手は既に使用済み。手は無い。だが、両手は使えなくとも足がある。
 こんなもので終わらない。ギンガ・ナカジマは未だ終わりを認めない。

「はあぁっ!」

 右足を力任せに振り抜いた。その一撃はフラッシュエッジを弾き、今度こそギンガ・ナカジマの回避は成功する――。
 そして、その後方、ギンガがフラッシュエッジに意識を集中し、弾き返したその後ろからシン・アスカが突進していた。

「シ、ン。」

 腰溜めに構えたシンの右手が赤熱している。
 その姿は紛うことなくある魔法を意味する。その魔法の名はパルマフィオキーナ。

「――っ!」

 ギンガはそれを見て咄嗟に振り上げた右足を振り下ろし、シンに向かってカカトを落とした。
 ――そして、シン・アスカが加速する。
 迫る一撃を完全に無視して前に進む。あえて左肩で受け止めた。
 今、この一瞬を逃すことに比べれば左腕など安いものだ。そう、思って。

「ぐ、ぎぃ」

 カカトが当たった肩に痛みが走りぬけた。ヒビ、もしくは骨折くらいはしたのかもしれない。
 ――恐らく左腕は死んだ。もう、アロンダイトを持つことは出来ないだろう。
 だが、構わない。それでいい。それは全て承知の上。
 何故なら、今、この瞬間、必要となるのは右手の掌のみ。その為にここまで全てを“放り出した”のだから――!!!

「パルマ――」

 残った全魔力を炎熱変換し、右手に注ぎ込む。赤く光るも炎は出ない。収束した魔力は赤色の魔力光を放ちながらシンの右掌の中心で光輝く。
 シンの右手が無防備なギンガの右胸に触れる。ギンガは咄嗟にその右手を叩き落とそうとするが間に合わない。

「――フィオキーナ!!」

 瞬間、魔力光の間欠泉が吹き上げようとする――が、ギンガに右手を叩き落された結果、制御を狂わされ、収束した朱い魔力光は、吹き上げることなく、“爆発”した。

「――」
「――」

 ――閃光が爆ぜた。
 空気が振動し、爆煙が立ち昇り、決戦場を覆い隠す。
 誰も動けなかった。
 動こうとしなかった。
 誰もが見入っていたから。
 そして――煙が晴れていく。

「……シン、君」

 金色の乙女が呟いた。

「アスカ、さん」

 鋼鉄の乙女が呟いた。
 赤い瞳の異邦人――シン・アスカがそこに立っていた。膝を抱え、倒れそうになる寸前になりながら。
 ――観客席からは分からないが、シン自身立ち上がれたことに驚きを隠せなかった。
 歯を食いしばり、笑う膝を両手で押さえ込み、そして全身全霊の力で立ち上がった。
 そして、前を見る。ギンガ・ナカジマの吹き飛んだ方向の煙は未だ晴れていない。

「……」

 胸の鼓動が収まらない。
 今、彼の心には二つの怖さがあった。
 一つは最初から今まであった恐怖。
 即ち――負けてしまうことへの恐怖。敗北し、終わってしまうことが怖い。彼女が立ってきたならば余力など欠片も無い自分は終わってしまう。その確信があったからだ。
 もう一つ。それは今、初めて生まれた気持ち。今まで気付くことのなかった気持ち。
 もし――眼を覚まさなかったら?
 非殺傷設定は継続している。だが、非殺傷設定とは万能ではない。所詮は人間の作り出した技術。神ならぬ人間が作り出した技術である以上は万能でなどあるはずも無い。
 それが、怖い。ギンガ・ナカジマが眼を覚まさない――彼女が、いなくなることが怖いのだ。
 その気持ちが何なのか。シンは考えたくは無かった――否、考えられなかった。
 “その気持ち”を持った時、自分はその気持ちを抱いた相手をいつもいつもロクな目にあわせていないから――だから、その気持ちについて、何も考えたくはなかった。
 けれど、そんなシンの理性を無視して恐怖はシン・アスカの鼓動を早まらせ――そして、煙が晴れた。
 シンはその方向を凝視する。
 そこには――座り込んだままのギンガ・ナカジマがいた。
 その表情はシンが思い描いたどんな予想とも違う晴れやかな笑顔で。

「――貴方の勝ちです、シン。」

 その笑顔にシン・アスカはしばし、見惚れていた。
 そして、すとん、と腰を落とし、床に寝そべった。

「……やった。」

 シン・アスカは、ギンガ・ナカジマに勝利した。
 叫びを上げることも、勝ち名乗りを上げることも無い。
 全身全霊を尽くしたが故に、そんな力はどこにも無かった。
 ただ、一つ、彼の右拳。それだけがしっかりと握り締められていた。


 しばらくして、八神はやてがシン・アスカの場所に降り立った。
 座り込み、休んでいるシンに向かって右手を伸ばす。

「おめでとう……アスカさん……いや、これからはシン・アスカって呼ばせてもらうな。」
「八神、さん……・そうですね、そうしてください。」

 そうして、立ち上がると、身体がふらついた。
 そこを横から新たな手がシンの身体を優しく抱きとめるように差し伸ばされ――彼に肩を貸すようなカタチになる。
 新たな手の主。それは金色の髪をした女性――フェイト・T・ハラオウン。

「おめでとう、シン・アスカ君。そして……これからよろしくね。機動6課はキミを歓迎するよ。」

 何故か頬を染めながら、彼に向かって自己紹介をしつつ肩を貸すフェイト。
 その笑顔は柔和であり金色の月の如き輝き。男ならば真っ先に頬を染めるであろう、その笑顔。
 だが、シン・アスカはその顔を見て必死に考えていた。
 曰く、「正直、どこで会ったか分からない。」
 恐らく、ここまで親身にしてくれる以上はどこかで会っているのだろう。

「アンタは……」
「私はフェイト・T・ハラオウン。覚えてないかな?」

 その名前でシンの記憶が繋がる。

「ああ……病院で会った金髪の人か。」

 味も素っ気もない――それどころか、水っぽさすら無いその回答。
 フェイトは苦笑しながら肩を貸して、彼の歩く手助けをする。
 八神はやてはその後方で、親友のそれまでに無いような行動に呆気に取られながら――無茶苦茶、邪悪な微笑みを浮かべた。
 唇を吊り上げ、瞳をにやけさせ、擬音で伝えるならばまさに「ニヤリ」。

「何があったかは知らんが……これはまた面白いことになりそうやな。」

 呟くはやて。
 そして、フェイトに置いていかれたエリオとキャロは呆然としていた。

「……フェ、フェイトさん、いきなりソニックムーブ使っちゃったね。」
「ど、どうなってるんでしょうか、エリオ君。」

 純真無垢な子供は知らなくても良い事柄だ。
 特にこの二人は既に“出来ちゃってる”ようなものであるが故に、その内知るに違いない。
 そうして、シンはフェイトの手を借りて歩き、彼女の前まで歩いてきていた。
 彼女、ギンガ・ナカジマの前に。

「……」

 先ほどとは打って変わって申し訳なさそうにするギンガ。
 そして、シンは手を伸ばす。
 言葉を添えて。

「……なんて言っていいのか……分からないんだけど、俺は、アンタと戦えて、良かった、と思う。」

 たどたどしい言葉。恐らく本人も何を言っているのか分かっていないに違いない。

「シン?」
「アンタが――ギンガさんがいたから、俺はここまで来れた。だから――えーと、あの」

 何が恥ずかしいのか、シンは一瞬、口ごもり、

「これからも、よろしく……お願いします。」

 その声はか細く、小さな声で。
 先ほどまでとは打って変わったその姿にギンガは小さく苦笑し……彼の右手を取って、呟いた。

「……こちらこそ、これからもよろしくお願いしますね、シン。」

 そして、彼女はシンの手を“思いっきり”引っ張った。
 シンの肉体は満身創痍。誰かに支えてもらわなければ、歩けないほどに。
 そこを思いっきり体重をかけて引っ張ればどうなるか。

「ギンガさん、ちょ、どい……ん――!!?」
「え、ちょ、ん、ん――!!??」
 重なるようにして二人は倒れた――正に流れるように、狙ってこれが出来るかどうかというほどの流麗な動きで“シンの唇はギンガの唇に押し付けられた”状態で。
 そしてこれで終わりではなかった。
 あろうことかギンガのバリアジャケットの胸の部分にシンの右手が触れ、ギンガのバリアジャケットが舞い散っているではないか。
 ――そう、パルマフィオキーナが直撃した部分がボロボロに破れ散っていた。
 どうしてか。簡単だ。
 パルマフィオキーナは炎熱変換した魔力の収束発射。
 先ほどはギンガの妨害によって集束爆散になってしまったとは言え、その直撃を受けた代償としてバリアジャケットは焦げてボロボロになっていたのだ。
 シンの右手が偶然そこに押し付けられて、“破れる”くらいには。
 そのままシンの右手は桜色の突起が輝くギンガの胸に吸い込まれるようにして、接触。

「―――」

 水を打ったように辺りが静まり返った。
 現状を整理しよう。
 シンの右手はギンガの胸を押さえつけるように――しかも外気に晒された素肌の上を触っている。
 シンとギンガの顔は瞳と瞳が触れ合うほどに近づき、唇と唇が触れ合っている。
 ああ、そうだ。シン・アスカは何と、ギンガ・ナカジマの「おっぱい」を触っているのだ。
 見ようによっては揉んでいると言っても良い――否、既に揉んでいた。
 こう、むにゅっと。
 そしてその状態でシンとギンガは唇を触れ合わせ、キスしている。
 一瞬、固まる二人。そして硬直するその場にいた全員。
 シンは現状を理解できていないのか、呆然としたまま唇を触れ合わせている。
 フェイトはあまりの状況の変化に思考が追いついていないのだろう。呆然としっかりと見つめていた。
 はやては抑えきれないのか、口元を押さえて笑いを堪えている。
 そして、当のギンガは――何というかこう、“うっとり”していた。
 どれほどの時間だったのか、本人同士にしてみれば、数分にも数秒にも数時間にも感じられるほどに長い時間のようにも感じられていた。
 シンがギンガからばっと離れた。顔は赤く、冷や汗が流れ落ち、表情は狼狽しきっている。
 直ぐに自分の上着を脱ぐと呆然としているギンガの胸を隠すように被せ、頭を下げる。

「す、す、す、すいません!!!俺、ホントわざとじゃ、いや、ゴメンナサイ!!!すいません!!」

 平身低頭。地面に頭をこすり付けんばかりに土下座を繰り返すシン。
 何せ年頃の娘の唇を奪い取った挙句に、胸を触って揉んで――しかもその胸は素肌の上……いわゆる生乳だ。殆ど犯罪者である。
 捕まるとかどうとかではなく、シン・アスカはひたすらに罪悪感で頭を下げ続けた。
 ――その狼狽は彼女の心を理解していないが為の狼狽なのだが。
 彼女は床に座り込んだまま――シンにかけてもらった服と謝り続ける彼を見つめながら、呆然としていた。

 胸/揉まれた=シンに触られた/赤い瞳が綺麗/でも駄目私たちまだそんな/でも私シンなら……/あれ、これファーストキスだよね、ワタシ/初めてがシン/初体験/ピンク/やばい無茶苦茶嬉しい/皆に見られた

 情報が錯綜し、次元跳躍し、思考が天も次元も突破して――ギンガの思考はパンクする。

「……ぐすっ」

 泣き出した。じわっと涙が広がる。
 それは喜んでいるのか、悲しんでいるのか、まるで定かではない泣き笑い。
 彼女はあの時を思い出したのだ。
 彼と決別した二週間前の“あの日”。あの日の始まりもこうだった。
 ――やっと、戻ってこれた。
 そう、その涙は喜びの涙。ただただ、シン・アスカと――想い人とまた元に戻れた、その喜びの。

「ああ、ちょっ、泣かないでください!ギンガさん!!」
「うっ、うっ、うう、うわああああああああん!!!!」

 抑えきらなくなったのか、ギンガは今度こそ大声を上げて子供のように泣き始める。
 対するシンはオロオロとして、どうすればいいのか分からないと言った有様だ。

「ほ、本当にごめんなさ、へぶらっ!?」

 突然、横合いから入った一撃で吹き飛ばされるシン。

「ギン姉を、ギン姉を泣かせたなああああ!!!!」

 金色の瞳。白いバリアジャケット。右手にはリボルバーナックル。
 そこには鋼の鬼神――スバル・ナカジマがいた。

「痛って……い、いや、アンタ、誰ってうおおおおおお!!!?」

 訳も分からぬ一撃に驚き、食って掛かろうとして――先ほどまで嫌というほど味わったリボルバーナックルが目に入った。

「問答無用――!!」

 繰り返すが、シン・アスカの肉体は限界を超えている。だが、その限界を超えて本能が叫んでいる。
 危険だと。彼女の目は本気だ。本気の目だ。

(逃げろ)

 シン・アスカは一目散に逃げ出した。
 ――でも、多分無理だよな。
 そう、確信じみた思いを持ちながらも。


 姉に狼藉を働いた――あの瞬間のギンガの顔を見れば狼藉なのかどうかは微妙なラインではあるが――シン・アスカを追い掛け回すスバルを尻目に、ティアナ・ランスターはとりあえず、ギンガのフォローに回ることにした。
 ――そして、そのことを彼女は直ぐさま後悔することになるのだが。

「ギンガさん、大丈夫ですか?」
「や、やっぱり、子供は二人くらいよね?」

 赤面して、ぼうっとして、夢うつつのような表情で、“何の脈絡もなく”突然彼女の口から飛び出した言葉にティアナは、思わず鳩が豆鉄砲食らったような顔をしてしまう。

「……は?」

 訳が分からない。何がどうなって、子供という単語が出てきたのか。
 だが、猪突猛進究極無比の乙女はそんなティアナの困惑など知ったことかとばかりに話を続ける。

「……は、初めてはやっぱり結婚式の初夜で……いや、でもいきり立つリビドーを抑えられない二人は……」

 頬に手を当て、いやんいやんと言わんばかりに身体をゆらすギンガ。
 正直、ぶっ壊れてました。

(怖っ! ギンガさん、怖っ!!)

 メーデーメーデー。ワーニンワーニン。
 ギンガさん、乙女回路発動中です。当社比150%増しで乙女中。もはや止められません。

「う、うふふふふふ」

 うふふふ、と恐らく傍から見てる分には綺麗な笑顔をしながら――思わず身体を引いて、硬直するティアナ。
 正直、怖すぎた。

「ギ、ギンガさん!?ギンガさん!?しょ、正気に戻ってください!!」
「……はっ!?」

 身体を揺らされながら必死に叫んだその一言でギンガはようやく正気に舞い戻る。

「わ、私、今、何を……」
「だ、大丈夫ですから。と、とにかく気を落ち着かせて……あの人も今頃スバルが……ってスバルゥゥゥゥ!!??」

 二人がそちらに眼をやると、壁際にシンを追い詰め、右手を腰溜めに構え、左手を突き出したスバル・ナカジマの姿があった。
 その構え。それはスバルの代名詞にしてパルマフィオキーナと似て非なる“近接砲撃魔法”。

「だから!アンタは誰なんだ!」
「一撃!!!必倒――!」

 切なるシンの叫び。だが、そんなことはもはやどうでもいいと言わんばかりに、青く輝く光が大きく膨れ上がる。

「ディバイィィィン!バスタアアアアアアァァァ!」
「人の話を聞けええええ!」

 そして――放たれた閃光はシン・アスカの意識を今度こそ刈り取った。
 最後に思ったことは一つだけ。

(ああ、もう、どうにでもしてくれ。)

 まな板の上の鯉――それはそんなヤケッパチな思いだった。


「これで、君は合格や――って聞いてないな、これ。」

 八神はやてがその光景を見ながら、予め用意してあった合格通知書を再び鞄に仕舞いこむ。

「……はやて、シン君はいつから機動6課に来るの?」
「まあ、ボロボロになった身体を治してからやから……一月後くらいかな?」
「一ヵ月後、か。」
「……ま、そんなに気に病まんでもええよ。悪いようにするつもりはないし。」
「はやて?」
「……ちゃんと見ててな、フェイトちゃん。あいつはフェイトちゃんの下につけるつもりやから。」
「シン君を……?」

 八神はやてはフェイトの言葉に答えることなく、シンをただ見つめ続ける。
 その視線は厳しい――少なくとも、彼女達に向ける視線とは一線を画す厳しさを秘めている。

「はや……」

 フェイトが口を開いた。はやての視線があまりにも厳しくて――どこか寂しさを漂わせていたから。
 けれど、言葉は届く事無く後方から上がった声にかき消された。

「フェ、フェイトさん、エリオ君が!?」
「へ?」
「エリオがどうしたの、キャロ?」

 予想もしなかった人間の名前。
 キャロの声には切迫した調子が込められており――フェイトとはやては直ぐに現場に直行――そして、呆れてしまった。
 そこには鼻血を垂らしながら、地面に寝そべるエリオがいた。

「エリオ君!エリオ君!?」

 そんなエリオを必死に揺さぶるキャロ。
 だが、悲しいかな。その揺さぶりは彼にとって余計に鼻血の噴出を促すだけの結果に終わり――それでもキャロに鼻血が飛ばないように両手で必死に抑えるあたり、エリオ・モンディアルは紳士なのだろう。
 一言、呟き地に伏した。

「……ピ、ピンク……きゅう」
「エリオ君――!!」

 二人が繰り広げるその惨劇。
 フェイトとはやては溜息をついて呟いた。

「……刺激が強すぎたんか?」
「エリオにはまだ早いって言うか早すぎたんだよ。」

 それは正に道理であった。



[18692] 10.女難と接触と
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/14 01:00
 ギンガ・ナカジマとシン・アスカの戦いから二ヶ月が経ち、季節は既に初夏の香り漂う5月。
 彼ら二人は今、機動6課に配属されていた。
 ギンガ・ナカジマは元々長期離脱中の高町なのは1等空尉が抜けたことによる戦力の穴埋めの為に出向された為に、当初の予定通りスターズ分隊に配属された。
 シン・アスカは、というとフェイト・T・ハラオウン率いるライトニング分隊に配属されることとなった――ただし有事の際には独自の行動を行うことが前提ではあったが。これは、八神はやて2等陸佐の要望によって決まった。
 この際にフェイト・T・ハラオウンは、頬を赤く染めつつ何処か嬉しそうな顔で。

「これから、よろしくね、シン君。」

 そう、微笑んでいた。
 シン・アスカはその顔に対して、朗らかな微笑みを浮かべながら答えを返していた。
 彼自身も本当に嬉しかったのだろう。ようやく“守れる場所”にたどり着けたことが。

「ええ、これからよろしくお願いします。ハラオウン隊長。」

 だが、シンの口調は味気ないものだ。当然だろう。彼女は上司である。それも直属の。
 そんな人間にいきなり馴れ馴れしくするほどシンは馬鹿な男ではない。

「フェイトでいいよ?皆、そう呼んでるから。」
「いや、俺はまだ新米だから……」
「別にええやろ、シン。隊長が自分からそうしてくれって言うとるんや。そういう場合は素直に聞いとくもんやで?」
「……ええ、分かりました。」

 はやての言うとおり、確かにそれも一理あった。
 上司の方から呼び方を限定してきている――それに従わない方が確かにどうかと思う。

「なら、これからよろしくお願いします……フェイトさん。」

 そう言って頭を下げるシン。その姿を見て、フェイトは何故かどもりながら、頭を下げるシンの手を取ってブンブンと振り回し、物凄くニコニコしながら、挨拶する。

「うん、よろしくね、シン君!」

 ――その時シンの頭にあったのは一つだけ。

(……この人、テンション高いんだな。)
「……」

 その光景をギンガ・ナカジマが、静かに――見つめていた。

「……ギン姉?」
「ギンガさん?」

 スバルとティアナがギンガの様子に気付く。
 瞳が鋭く尖り、そして唇が釣り上がっていった。
 フェイト・T・ハラオウン。金色の閃光の異名を持つ管理局でも名うての魔導師。ギンガ・ナカジマにとっての憧れ。
 彼女が今、彼に投げかけている微笑み。それを見て、ギンガ・ナカジマは気付く。
 本人が気付いているかどうかは知らないが――あれは、恋する瞳だと。

 ――上等じゃない。

 フェイト・T・ハラオウンは知らぬ内に、そしてギンガ・ナカジマは自ら進んで――ここに乙女と乙女の恋愛大戦が静かに開始されようとしていた。
 
 賞品はシン・アスカ。稀代の朴念仁である。
 彼はその鈍感さ故に何も知らない。流石に好意をもたれているとは思っているだろうが、彼が思う“好意”とは仲間や友達へ向ける“親愛”である。
 彼にしてみれば、まさかギンガ・ナカジマ、そしてフェイト・T・ハラオウンという二人から“恋愛”感情をもたれているなどと思う訳も無い。
 以前のギンガの態度から、少しくらいは分かっても良さそうなモノではあるが――そこで気付かないことこそシン・アスカ。何故なら彼は、誰かを守ること“だけ”が願いの人間。
 それだけに眼を向けているからこそ、苦しみ嘆く人間を見つけることを容易にしている――だが、いつも誰かに視線を向けているからこそ、彼は“自分に向けられた”視線になど決して気付かない。
 だから、彼は気付かない。ギンガの想いと、フェイトの彼女自身も気付かぬ想いに。
 そして、この日から――シン・アスカの機動6課での日々が始まる。
 長くは無い。けれど短くも無いその女難な日々が。


「どうした、アスカ、そんなものか!!!」
「くっ……!!」

 シン・アスカは歯噛みする。自身とシグナムの“相性の悪さ”にだ。
 機動6課ライトニング分隊に配属されて以来、彼の個人訓練の相手はいつのまにかシグナムで定着していた。
 シン自身そのことには納得している。
 彼女と自分の戦闘スタイルは共通点が多いからだ。
 共に剣型のデバイスを使用し、近距離を得意としている――無論、近距離戦は自分よりも彼女の方が一枚も二枚も上手なのだが。
 技術が、では無い。現在のシン・アスカの近距離戦の技術はシグナムよりも劣ってはいるものの、天と地というほどの差は存在していない。
 デスティニーによって書き換えられた動きは今、シン・アスカに定着し、彼の動きを大きく向上させ達人としての動きに近づけている。
だが、技術はともかく駆け引きという点でシン・アスカはシグナムよりもはるかに劣っている。
 何せ、彼女は悠久の時を主と共に駆け抜けてきた騎士。駆け引き、経験という意味で彼女に勝る者などそうはいない。
 如何にシン・アスカが2年間という期間で濃密な戦闘経験を蓄積したとしても、それはあくまで“MS戦闘”のモノだ。魔法を用いた対人戦ではない。
 ――故に、これがシンとシグナムの相性が悪いと言うことに繋がっていく。
 自身の得意な系統で相手のレベルが自分よりも高い。戦闘においてそれほど相性の悪い相手はいない。
 これがスバル・ナカジマやティアナ・ランスター、そして同じ部隊であるエリオ・モンディアル、キャロ・ル・ルシエ――彼女は除外しても構わないが――であればやりようはある。
 彼らならばシンが勝る部分を利用出来るのだ。
 スバルであれば、射程距離。
 ティアナであれば、近距離戦。
 エリオであれば、攻撃力。
 確実な勝利などは不可能だが、これほどに相性が悪いと言うことはありえない。シンのデバイス「デスティニー」の本領とは全ての距離への対応能力であるがゆえに。
 どんな相手であろうと“相性が悪くなることなど本来はありえない”のだから。
 だが、シグナムにはそれが出来なかった。
 それはシン・アスカ自身の切り札となるべき“距離”が完全に重なっているからである――無論、シン自身よりもはるかに年季が入った彼女に勝とうなどBランク魔導師が思うべきことではないのだが。
 気が付けば、彼女が眼前に迫っていた。

「紫電一閃っ!!!」
「くっ!!」

 右肩から発射した小規模パルマフィオキーナ――現在は区別の意味でも単純にフィオキーナと呼んでいる――によってその一撃を回避。
 間髪いれず“左肩の後ろ”からも発射、シンの身体がシグナムに向けて回転し、続けてアロンダイトの峰からも発射する。

「うおおおお!!」

 そうして、身体を捻り込むようにして彼女の背後に“滑り込んだ”シンは、その勢いそのままに彼女に向かってアロンダイトを激突させる――だが、彼女の動きはシンの予想を上回っていた――否、シンの動きは彼女を相手にするには真っ正直すぎた。
 ガキンと、鈍い金属音を立てて、刃金と刃金がぶつかり合う。

「なっ!?」
「――良い戦法だが、何度も使うと動きを読まれる。このようにな!!」

 滑りこんだと思っていた彼女の背後は実は既に彼女の真正面だった。
 あの瞬間、シグナムは確実にシンが背後から来ると予想し、彼が滑り込む前に態勢を整えていた。
 そして、態勢を崩しながら背後に回りこんだシンと態勢を整えて待ち構えていたシグナムでは、込める力に差があるのは自明の理。
 故に、

「はああ!!」

 裂帛の気合と共に渾身の力を込め、シグナムはアロンダイトを弾き返す。
 態勢を崩した状態で更に斬撃を弾かれたシン――それは受けることも攻めることも充分に行えない袋小路そのもの。
 シグナムがレヴァンティンの姿を“切り替える”。それは三つある形態の内の一つ。 
 鞭状連結刃――シュランゲフォルム 
 狙いを定め、言葉を紡ぐ。

「シュランゲバイセン――アングリフ……!!」

 ソレを振るった。その様は正に蛇。うねり、くねり、迫るその攻撃。
 迫る連結刃は炎熱を纏い、シンに向かって“曲進”する。
 焦燥。フィオキーナの高速移動では“避けきれない”。
 彼女は攻撃に集中している為に本来なら絶好の好機であるが彼の態勢も大きく崩れている為にケルベロスによる砲撃は不可能。アロンダイトで迎撃――刀身を絡め取られて終わりだ。
 ならば、

「だったら――」

 右腕をアロンダイトから離し、シンの右掌が赤熱する。魔力を収束圧縮。掌の中心に生まれる赤い光球。
 それはシン・アスカの切り札の一つ。近接射撃魔法。
 狙いは、鞭状連結刃そのもの。迫り来る刃に対して、シンは構え、叫ぶ。

「パルマ――フィオキーナ!!!」

 ――炎熱の蛇咬と炎熱の射撃が激突する。

「うおおおおおお!!!」

 咆哮が轟く。
 吹き荒れる紫電と赤炎。同じ炎熱の魔力はぶつかり合い、そして――爆発した。

「……なかなか。」

 後方に大きく吹き飛ばされたシン・アスカを見て、シグナムは呟く。
 シグナムにとって、シン・アスカとは好敵手に近い。 
 戦力で言うと、彼女と彼の間にそれほどの差は無い。ギンガ・ナカジマとの模擬戦で彼が獲得した戦闘技術と増加した魔力量。そして、フィオキーナによる高速移動。デバイス「デスティニー」の持ちうる多彩な武装。
 シン・アスカの単純なスペックは既にAAAランクと言っても過言ではない。それほどの戦力を彼は既にその身に秘めている。
 実戦経験の数に比類ない差があるからこそ、今、彼女は彼を圧倒できているのだ。
 ならば――これから、先、彼が経験を積んだならばどうなるのか。
 魔法を全く知らない素人から僅か半年足らずの間にこれほどの成長をしたシン・アスカ。
 この先、この男はどれほどの高みにまでたどり着くのか。
 そう、考えて背筋がゾクゾクする自分に気付く。知らず、彼女の表情は微笑みを浮かべていた――獰猛な女豹の笑みを。
 彼女はいわゆる戦闘狂(バトルジャンキー)ではない。ただ、強い相手と戦うことが好きなだけの騎士である。
 いわば、コレは趣味の一環に過ぎない。
 だが、趣味だからこそ彼女は真剣になる。戦うことが好きだから――面白いから。特に強者と刃を合わせることは何よりも面白いのだから。
 強者でありながら、未だ未熟だと言う目前の戦士など――彼女にとっては馬の前に垂れ下がらせた人参――つまりは我慢しきれないほどの大好物のようなものだった。

「……」

 高揚するシグナムの気持ちとは裏腹にシン・アスカの心は焦燥に満ち溢れていた。

 ――危なかった。

 心中でそう呟き、右の掌を見る。

 あの鞭状連結刃――シュランゲフォルムを迎撃した右手が強く痺れている。
 もし、あと一瞬でもパルマフィオキーナの発動が遅れていれば今頃、自分の意識は無いことだろう。
 あれから二ヶ月。シン・アスカは成長を続けていた――それはあの模擬戦の時の成長の帳尻あわせのようなモノではあったが。
 パルマフィオキーナの発動に慣れてきた為か、魔力の収束・開放がスムーズになり、そのおかげで今の一撃を迎撃出来たのだ。以前の自分ではこうはいかなかった。
 小規模パルマフィオキーナ――「フィオキーナ」による高速移動も以前よりも滑らかになってきている――身体にかかる負担そのものはどうしようも無かったが。慣れるしかない、と彼は思っていた。
 実際、現実として出来る対策はその程度だった。
 アレは使う度に身体のどこかを傷つけてしまう諸刃の剣。
 発射地点は言わずもがな、胸やけや吐き気などは確実に起こり、場合によっては脳震盪を起こしかねない魔法である。
 その上使い勝手は良いが多用すると今のように簡単に読まれてしまう。魔法の特性上その軌道はどうしても直線的にならざるを得ないからだ。
 また、デスティニーによって書き換えられた肉体は、彼女ほどの手練れと渡り合えるだけの力を彼に与えている。ただし、こちらは最近になってようやく“安定してきた”ところだった。
 ギンガ・ナカジマとの模擬戦の後、彼の身体は厳密な検査を受けることを余儀なくされた。
 何せ、デバイスが使用者の肉体の動作系を“書き換えた”のだ。前例が無いがゆえにその事態は重く取られた――そして、検査の結果、分かったことは以下の通りである。
 ――肉体は既に“作り換わっている”。筋肉が断裂するような事態は最早起こらない。
 つまり、あの時シン・アスカの肉体は最適化を施され書き換えられながら、崩壊と再生を“繰り返すこと”で、考えられないほどの短期間に“超回復”を繰り返し、強化されていたと言うことだった。
 筋肉とは、負荷を与えることで崩壊し、再生の際には崩壊する以前よりも強くなる。これが“超回復”である。これは誰の肉体にも起こることだ。だが、それは本来ゆっくりと進行するものである。
 だが、彼は――少なくとも“あの瞬間の彼”の肉体はそうではなかった。
 常人の超回復を野球でピッチャーが投げる球だとするなら、あの瞬間の彼は長距離狙撃用ライフルの弾丸--―つまりは音速の弾丸である。
 その結果として彼の肉体は全力で戦ったとしても、崩壊することは無い。そういう肉体に“なった”のだ。
 だが、その反動は凄まじかった。
 ギンガとの模擬戦の後に彼は何日間も眠れない夜を繰り返した。
 身体中を襲うそれまでの人生では決して感じたことが無いほどの激痛――筋肉痛によって。
 本来ならソレを感じ取りながら、肉体は変質するのだが、彼の身体はそれを感じ取る間も無いほどの速さで変質し、その為に置き去りにされた痛みがその後、彼に襲い掛かった。
 それは音速で発射された弾丸が対象に命中した後になって初めて発射音が響くように。
 そして、今に至る。無論、身体が治って直ぐに彼は訓練を再開した。大体にして休んでいたのは二週間ほどだ。その二週間の遅れを取り戻すかのように彼は幾度も幾度も訓練を繰り返した。
 恐らく、元々適性があったのだろう。
 “過剰な訓練に耐える肉体”という適性――つまりは単純な肉体の頑強さ。壊れ難い肉体。そういった資質が。
 ギンガとの模擬戦の際に、フェイト・T・ハラオウンはシン・アスカを天才と評した。
 だが、それは否だ。
 シン・アスカは天才ではない。少なくともキラ・ヤマトやアスラン・ザラのような天才とは違う。そして、彼自身も否定するだろう。
 発想、閃き、判断。そういったモノに関して言えば彼は天才かもしれない。
 だが、天才とはそういったモノとは違う。純粋に成長速度が速い――1を知って10を為す。そういった人間である。
 シン・アスカの成長速度が速いのは、自身の身体が壊れないのをいいことに通常ならば壊れるほどの訓練を行えるから、である。
 彼は1を知り、1を為す。それを誰よりも多く繰り返す。
 壊れないが故に彼は誰よりも訓練を続けられる。類まれな肉体強度、そして狂わんばかりの力への渇望。それこそが、シン・アスカの資質なのだ。

 ――話を戻そう。その結果としてシン・アスカは今、シグナムと渡り合えるほどの実力を持つことになった。
 けれど、彼は満足など出来ない。――それでもまだ足りないのだ。
 機動6課に配属された時に見た映像――ライトニング分隊が為す術も無く完敗したあの男。ドラグーンのような魔法を使う化け物はこの程度では倒せない――自分の願いを叶えることなど出来はしない。
 “全てを守る”。その願いを叶えるには、未だ力が足りていないのだ。
 ――レヴァンティンをシュランゲフォルムからシュベルトフォルム――長剣状態である――に切り替え、シグナムがこちらに向かって構えている。

「……デスティニー、ケルベロスⅡだ。」
『All,right,brother.Mode KerberosⅡ』

 デスティニーから響く電子音の返答。
 それに伴いアロンダイトが折り畳み、ケルベロスⅡ――連射性に特化した魔力銃である――に変形、それを構え、柄の部分からフラッシュエッジを引き抜く。
 ケルベロスⅡの魔力弾の連射で牽制し、フラッシュエッジで切り込む。そういう考えなのだろう。

「行くぞ、アスカ!!」
「はい……!!」

 両者が突進する。シンはケルベロスⅡを構え、シグナムはレヴァンティンを振りかぶり、交錯が始まる――瞬間、声がかかった。

「……どうやら、今日はここまでらしい。」

 そう言ってシグナムは構えを解く。

「え、ここまで?」

 シンは不思議そうにシグナムを見て、彼女が目線を下に向ける。

「ああ、下を見てみろ。」
「……フェイトさんですね。」

 そこにはライトニング分隊隊長フェイト・T・ハラオウンが手を振っていた。その横でエリオとキャロが申し訳なさそうにこちらを見つめている。
 そして、

「あっちもだ。」
「……ギンガさん。」

 膝を付き、肩で息をしているスバル、ティアナ。そしてそれとは対照的に笑顔でこちらに手を振るギンガ・ナカジマがいた。
 ヴィータはその横で半眼で笑っている。苦笑しようとして出来なかったのだろう。

「朝食を食べるので戻ってこいとのお達しだ。……全く、果報者だな、貴様は。」
「いや、その……すいません。」

 半眼で睨まれて、シンは思わず謝っていた。

(……何がどうなってるんだ?)

 シンには未だ状況が掴めていなかった。果報者――その言葉の意味が。
 今は、まだ。



「シン、おかわりはいりますか?」
「あ、じゃあ、お願いします。」
「……」

 そう言ってギンガにご飯をついでもらうシン。その横に座るフェイトはもしゃもしゃとサラダを食べながら、その様を見つめ続ける。

「ギンガさん、醤油いります?」
「あ、ありがとうございます。」
「…………」

 まるで往年の夫婦であるように、息のあったコンビネーション――ただ朝食を食べているだけなのだが――を繰り広げる二人を見て、フェイトは傍らにあったサラダとシンを一瞬見比べ――意を決して口を開く。

「シ、シン君、サラダどう?」
「あ、じゃあ、もらいます。」
「…………」

 今度はギンガが、ずずっと味噌汁を啜りながらその様子を見つめ続ける。

「フェイトさん、ドレッシングかけないんですか?」
「はっ!?ああ、わ、私、生野菜は生で食べるのが好きなの!!」
「はあ……そうですか?」
「う、うん!!」
「…………」

 まるで初々しいカップルのような会話を続ける二人を見て、ギンガは何も言わず沢庵を口に含み、ポリッポリッといつも通りに咀嚼する。
 ――目じりが微妙に釣り上がっているのはさておいて、だ。

「……ドリル怖いドリル怖いドリル怖い。」
「……うう、一発も当たらなかったよ。」

 その傍ら――同じテーブルの直ぐ横に突っ伏し、顔面蒼白のティアナと泣きそうになっているスバル。
 彼女たちは先ほどの模擬戦で、ギンガ・ナカジマとヴィータの前に完膚なきまでに倒されたのだ。
 無論、彼女達が劣っていると言うわけでは無い。
 幾多の戦いを乗り越えてきた彼女たちの実力は、ヴィータやシグナムと比べても遜色は無いほどに成長している。
 ならば――何故、彼女たちは完膚なきまでに敗北したのか。
 いわば相性の問題だった。
 ギンガ・ナカジマの弱点。それは射程の短さである。だが、チーム戦とは個人の力量のみで行うものではない。彼女と組んでいたヴィータは得意距離こそ接近戦ではあるが、その内実は万能型。如何なる距離にも無難に対応出来る柔軟性を持っている。

 そして、もう一つ理由がある。
 “シューティングアーツ”。彼女が使う“シューティングアーツ”とは距離の壁を“洞察力”によって、打ち崩す“魔導師の天敵(カウンターマギウス)”。
 洞察力。それは個人戦においても遺憾なく威力を発揮するが、チーム戦においても同じく強力無比なものである。
 何故なら、連携とは味方の動きを読んで合わせることで成立する。
 故に洞察力が優れた相手がパートナーであれば、そのやり易さは加速度的に向上する。
 スバル・ナカジマはそれを学ぶことなく、ティアナはスバルのシューティングアーツと同じだと思っていたが故に――彼女たち二人は完敗することとなった。
 ティアナの瞳に残るのは、ヴィータの援護を受けて自分に向かって突貫し、こちらが放つ魔力弾を突き破り、近づき、魔力を食い荒らす螺旋――リボルビングステークの威容が。
 スバルの瞳に残るのは、ありとあらゆる攻撃を読まれ、ヴィータとギンガの二人に執拗に追い回された挙句に、壁際に追い詰められ、カウンターを合わせられた瞬間が残っていた。恐怖も残ろうと言うものだ。
 ティアナ・ランスター。スバル・ナカジマ。彼女たちが敗北したのは、ギンガの洞察力によって、だった。
 これが単騎による個人戦ならば、結果は違う。恐らく、ギンガは敗北か、もしくは引き分け。決して勝利ではない――ことになっていただろう。
 1と1を足せば通常は2である。それを3にも4にも引き上げる。それがギンガ・ナカジマの洞察力なのだから。
 そして、同じテーブル――彼女たち二人の横で、純真無垢であるはずの子供にも影響は出ていた。

「ピンク……」

 エリオ・モンディアルの口から紡がれる言葉。それはまがり間違ってもキャロ・ル・ルシエの髪の色ではなく、模擬戦の時見えた、桜色の乳首―--。

「――エリオ君?」
「ひぃ!?」

 底冷えするようなキャロの声。その声を聞いて、エリオの意識は現実と言う名の地べたに連れ戻される。
 怖気を振るう恐怖とはこのことか。視線だけで人を殺せるとしたら、これである。エリオはそう思った。
 言動には気を付けよう――エリオは一つ大人になった。

「……ヴィータ、これは何とかならんのか?」

 嵐が吹き荒れるテーブルから少し離れたテーブル。そこに八神はやての守護騎士ヴォルケンリッターがいた。

「……あたしに聞くな。どうにかして欲しいのはこっちだぜ、まったく。」

 うんざりといった感じでヴィータはサンドイッチを口に頬張った。その視線が向かう先はギンガ・シン・フェイトと居並ぶその姿。

(……変わりすぎだろ。)

 以前見たギンガ。そしてついこないだまで知っていたフェイトとのあまりの落差に呆れを通り越して困惑しているのだ。
 何せ展開が速すぎる。設定された年齢上彼女――ヴィータはそういった恋愛沙汰の機微に疎い。だが、その彼女をしてフェイトの変貌は早かったと思わせるほどに劇的だった。

(……恋する乙女は変わるって言うがなあ)

 それでも早すぎるだろう、これは。
 だが、と、ヴィータは思う。フェイト・T・ハラオウン。彼女はこれまでの人生の殆どを、他の誰かの為に費やしてきた。恐らくは自己満足に過ぎないであろうこと――エリオやキャロを引き取り育てるなどと言う保護。それは単なる自己満足でしかあり得ない。
 だが、その彼女が今自分の為に行動している――無論、無自覚ゆえの行動であろうが。
 それは、むしろ歓迎することなのではないだろうか?
 ヴィータはそう思い、もう一度彼らの方に眼をやる。
 シンをはさみ込むようにして、ギンガとフェイトがおかずをよそいまくっている。
 ギンガはご飯をこれでもかと言うほどにこんもりと盛りシンに渡し、フェイトはフェイトでサラダをこれでもかと言うほどにもっさりとよそいシンに渡す。
 その中心にいるシンは黙々と食べている――と言うかその表情は先ほどに比べてかなり険しく成っている。
 まるで何かに耐えるように。心なしか顔面蒼白にすら見える。胃の許容量以上の量を食いすぎたせいだろう。
 フェイトはシンのその表情に気付いていないのか、ニコニコと笑いながらサラダをもっさりとよそい続け、対するギンガはシンの苦しげな表情に気付いているのか、顔を曇らせ――だが、意を決するようにご飯をよそう。
 その様を見て、ヴィータはため息一つ、頭を振って心中で呟いた。

(……やっぱり、やりすぎだ、あれは。)

 頭を振り、ため息を吐くヴィータを尻目にシグナムは次に傍らでヴィータと同じくサンドイッチを口にするシャマルに向かって口を開く。

「シャマル、お前は?」
「いいんじゃないですか?」

 そう言ってシャマルは微笑みすら浮かべながら、三人を見つめている。
 彼女にとって男と女の色恋沙汰などあって然るべきだとものであった。
 何故なら、年頃の男と女の間に起こりうるものと言えば相場は色恋沙汰だ。
 二人には――特にフェイトにはそういったモノは皆無だった。
 それはヴィータが思っていたように彼女自身が自分自身に無頓着であり、自分の為には生きていなかったからであろうと考えていた。
 たとえその恋がどんな結果に終わろうとも、その想いはきっと彼女を変える。
 恋をして変わらない女などいない。
 その絶対原則は覆らないのだから――そんなことを思っている彼女も別に恋愛経験が多い訳では無いのだが。むしろ、皆無である。
 そんな風に微笑ましいものを見る母親のような視線で以って三人を見やるシャマルに業を煮やしたのか、シグナムは次の相手に声をかけようとする。
 彼女がこれほどに焦燥している理由――それは別に6課の雰囲気が悪くなることを恐れて、ではない。
 元よりシグナムにそういった機微を調整するなど出来ない。
 伊達に自分を騎士だ、騎士だと言っている訳では無いのだ。
 自身は不器用であり、無骨。器用さなど無用であり不要。そう、思っている。
 だが、それでも彼女は焦燥を抑えられない。
 これまであのような状態にならなかったフェイト・T・ハラオウン。
 そこに変化が起きたコト。それが焦燥を生ませているのだ。
 焦燥の根源は一つ。もしや、我が主にまでそれは届いているのか、と。それは全くの誤解であるのだが。

 八神はやてにとってシン・アスカとは策謀の為の“手駒”である。
 彼女自身にとっての切り札――最悪、彼女“個人”が使用出来る捨て駒としての意味を含めたモノ――である。
 そんな八神はやてが、シン・アスカに恋愛感情を抱くなどはあり得ない――無論、その“表向き”の裏側ではどうなっているかは彼女以外は知らないことではあるが。
 シグナムはそれを知らない。と言うよりもヴォルケンリッターはそれを知らない。知れば、彼らは、八神はやてに言うだろう。
 それは自分たちの役割では無いかと。捨て駒として使用するべきは自分たちではないかと。
 八神はやてがそれをしなかったのは、ひとえに彼女たちヴォルケンリッターが大切な存在だからだ。
 そして、八神はやてがシン・アスカに対して抱く感情――それはコールタールのように黒く粘りつき、身も心も縛り付ける“罪悪感”である。
 表には出していない。だが、彼女の内心は、シン・アスカとそれ以外という枠組みを作っている――つまりはシン・アスカは如何様に使おうとも構わない、と。
 
 殺すつもりは無い。捨て駒として使うつもりも無い。だが、別に五体満足で生きている“必要も無い”のだから。
 シグナムはそれを知らない――知らないからこそ、そんなピントの外れた回答を導き出す。無論、そんな考えに気付いている人間など誰一人としていない。ただ、一人、八神はやて本人から伝えられたギンガ・ナカジマを除いては。
 そんな的外れの焦燥から逃れる為に、彼女はこの場を静めてくれる誰かを欲していた。
 そして、次なる相手に声をかけ――

「ザフィー……いや、いい。」

 ようとして止めた。

「いや、ちょっと待て!!」

 犬の姿のままザフィーラは叫んだ。
 周りの職員は何事かと驚いている。犬が喋ったからだ。

「ん?なんだ、餌か?ほれ。」

 そう言ってシグナムは、ザフィーラに向かってサンドイッチが入った皿から幾つか取り出して別の皿に入れると、そのまま床に置いた。

「ワン!!」

 威勢よく声を上げて、それにかぶりつくザフィーラ。
 そして、一拍置いてその動きが止まる。

「……」
「……」

 たらり、とザフィーラの背を冷や汗が流れていった。

「犬だな。」
「ああ、犬だ。」
「犬ね。」
「何故だ――!!」

 仲間達の冷静且つ冷徹な視線を受けて、ザフィーラは吼えた。吼え続けた。煩かった。


「……えらい、変化がおきとるなあ。」
「なんで、そんなに他人事なんですか……。」

 それはシャリオ・フィニーニと八神はやてだった。無論、この場に来た理由は当然ながら朝食を食べに、である。
 フェイト、シン、ギンガが黙々と朝食を食べ続ける――フェイトは何故か赤面している――その横ではティアナとスバルが机に突っ伏して、朝食を食べ続け、その片側ではエリオがギンガ(主に胸)を見てぼうっとしている横でキャロがにこやかな笑顔でフォークを天に向けて構えている。心なしか額に青筋が立っている。
 別のテーブルではヴォルケンリッターとヴァイスがメシを食いながら全員顔を歪めている。
 シグナムなんぞは、けしからん、けしからんと繰り返しつつ蕎麦を食っている。
 ザフィーラは……なんか吼えてる。

(いつから、この食堂には和食が入ったんだろう?というか朝から蕎麦?)

 そんなシャリオの疑問を無視して、食堂に蔓延る雰囲気にはやては唇をひくひくと震わせて、苦笑する。

「……げに恐るべきは乙女パワーっちゅうことか。やっぱり、ライトニングは早まってしもたかなあ。」
「……まあ、戦力的には間違ってるとも思いませんけど。」

 シャリオがはやてのぼやきに返答を返した。
 戦力という面から考えると、シン・アスカをライトニング分隊に入れたのは間違いではなかった。
 シン・アスカ。彼は強い。それは“あの”模擬戦を映像でしか見たことのないシャリオにも理解できる。
 だが、実戦経験の数はまるで皆無――のはずだ。異世界において幾多の戦争を乗り越えてきたと言っても、それは全てMS戦闘であり、白兵戦などは無かったのだから。
 だからこそ、戦力が充実しているライトニングに配属させた。スターズとは違い、ライトニングに欠員は出ていないからである。
 恐らくそこで彼に経験を積ませるつもりなのだろう。選択としては悪くない。だが、

(けど、有事の際には……ってどういうことなんだろう。)

 隣を歩く彼女――八神はやてに眼を向ける。シャリオにはその部分だけが腑に落ちなかった。
 “有事の際”、その言葉の意味が。

 カーテンで覆われた一室にて男と女が話をしている。
 ギルバート・グラディス。そしてカリム・グラシア。
 彼らが今見ているのはあの模擬戦の映像であり、そしてシン・アスカの肉体を奔り抜けた朱い光。

「ここを見てもらえるかしら?」

 カリムのつぶやき。そして画面が一部拡大された。それはデスティニーに現れたあの文字列。

「……これは」
「解析班からの報告によるとアームドデバイス・デスティニーのOSは当初搭載されていたモノとはまるで別物のOSに上書きされていたそうよ。」
「……Gunnery United Nuclear Deuterion Advanced Maneuver System」
 流麗な発音でギルバート・グラディスが呟いた。

「ギルバート?」
「気にしないでくれていい……・・が、なるほど、これは予想出来なかった。」

 仮面の下で薄く笑うギルバート・グラディス。その表情は心底楽しそうな微笑みだ。自分の予想を超えた教え子を見て喜ぶ。そんな微笑みだった。
 仮面をカリムに向け、質問を飛ばす。

「シン・アスカの肉体にはどんな変化が?」

 グラディスの質問にカリムは目の前にA4用紙ほどの画面――シン・アスカの検査報告書である――を映し出し、答えを返す。

「全身の打撲や打ち身、そして異常なほどの筋肉疲労、乳酸の溜まり具合……ありていに言って極度の疲労。ただ、これには続きがあるわ。」
「それは?」
「身体中――特にあの大剣を振るう際に使用する筋肉の部分が著しく太くなっていたそうよ。」

 画面に映る

「……ふむ。」

 その言葉を聴いて、再びギルバート・グラディスは楽しそうに微笑んだ。
 カリム・グラシアはそんなグラディスを見て、一つ息を吐き――現れていた画面をすべて閉じて、話を続ける。

「ただ、これで貴方の計画は頓挫したことになる。」

 その言葉を聞いて、グラディスもため息を吐き肩を竦めた。

「……まさか、勝つとはね。」

 カリム・グラシア。ギルバート・グラディス。シン・アスカの模擬戦や訓練等の一連の事件の“黒幕”である二人にとってシン・アスカの勝利というのは殊の外に予想外な事柄であった。
 勝利するなどは思わなかった――否、勝利などする筈がない勝負なのだ。
 元よりこの戦いはシン・アスカに“シン・アスカに絶望を与えること”ことこそが目的。シン・アスカに最高の絶望を与え、“力への渇望”を最大限にまで活性化させる。その上で彼に手を差し出し、力を与える。
 膨れ上がった“渇望”はシン・アスカに著しい成長を促すだろう。それこそ、最強と言う文字に違わないモノにまで。
 ギルバート・グラディス――ギルバート・デュランダルはそうやってシン・アスカに力を与えるつもりだった。要は以前シン・アスカがインパルスの正規パイロットになるまでの過程をもう一度再現しようとしただけだ。

 シン・アスカは絶望によって強くなる人間だ。
 過去、家族を亡くした絶望を糧に怒りと言う炎を燃やし、彼は自身を鍛えた。
 寝る間を惜しんで教本を読み漁り、いっそ身体が壊れた方が楽になれると思えるほどに鍛え続けた。
 何故なら彼の周り――アカデミーにいたのはザフトで生まれ育ったコーディネイター。
 良家の出の者の中にはシンに施されたコーディネイトなど歯牙にも欠けぬ人間だとて多く存在した。
 コーディネイトと言う才能の差――彼にとって一つ目の壁である。それを超えるには努力しかなかった。
 才能と言う厳然たる性能差を埋める為に異常な努力で以って彼は突き進んだ。
 結果、彼はインパルスと言うモビルスーツの専属パイロットとなった。努力で埋めたのだ。才能の差を。
 そして彼の実力は際限無く伸び続け、デスティニーと言う専用機を得るにまで至った。
 奪われた絶望が、比類なき力を彼に与えたのだ。

 ――だが、今回の模擬戦でシン・アスカはそれを覆した。
 誰もが負ける、勝てる筈がないと断じた戦いを己が力一つで覆した。
 そして、デュランダルの誤算はもう一つ。
 デバイス・デスティニーに宿った“意思”である。
 これが何を意味するのか、はデュランダルにも分からなかった。
 ただ、これでデュランダルの描いていた「シン・アスカ」には到達しないことだけは確実だった。
デ ュランダルの描いていた「シン・アスカ」。それは、以前シグナムが八神はやてとカリム・グラシアに語った通り。
つまり、「一瞬で懐に潜り込む“速度”と一撃で勝負を決する“攻撃力”を兼ね備えた“近接特化型”」である。
 機動6課に作成を依頼した現在のデスティニーは完全な間に合わせの産物であり、あくまで訓練用。
 シン・アスカに魔導師としての戦闘を叩き込むただそれだけの産物である。
 それ故シン・アスカが受領し現在使用しているデスティニーは完全な試作品であり、不完全な代物である。
 今のデスティニーがツギハギのように見えるのは当然だ。“在るべきパーツ”が存在していないのだから。
 だが、彼の身体は模擬戦の際にデバイス・デスティニーに生まれた“意思”によって「万能型」として最適化された。
 如何なる距離であろうとも対応出来、そして近距離が“得意”と言う姿に。
 これは、由々しき事態だった。

「確かに、これでは“本当のデスティニー”の作成は断念せざるを得ない訳だ。」

 困ったことだと言わんばかりにデュランダルは肩を竦めた――その表情はまるで困っているようではなかったが。

「で、どうするのかしら?まさか、これで終わりな訳ではないでしょう?」

 カリム・グラシアが瞳を細く射抜くようにデュランダルを見つめる。
 視線は弾丸の速さと刃の鋭さで彼を射抜く――その視線を受けて、デュランダルは微笑みを浮かべた。
 口を開いた。

「無論、問題は無いさ。“あのデスティニー”を使いこなし、万能の単騎になると言うならそれもいいさ。……むしろ、彼の性分としてはそれが最も“幸福”だろうからね。」
「幸福?」

 聞き慣れない――現在の会話にはまるでそぐわないその単語に首を傾げるカリム。

「近接戦闘に特化し、敵陣深く切り込む。だが、その間後方の味方はどうなる?もしかしたら、自分が敵陣に切り込んでいる間に“殺されて”いるかもしれない。」

 一つ、言葉を切って、デュランダルは続ける。それはどこか生徒に講義する教師の如く。

「そして、後方からの支援は一切出来ない。殺されそうになっている誰かを“守る”為の援護などが一切出来ない。“今”の彼にとってそんなことは耐えられないだろうさ。」

 シン・アスカの“異常”を間近で確認したデュランダルはそう言葉を終えた。
 然り。
 現在のシン・アスカにとって最も優先すべきコトは“守るコト”である。
 瞳に映る全てを守り抜くこと。彼はその為だけに力を求めた。
 如何なる敵であろうと打ち倒し、誰も守れないと嘆くことの無い様に。
 “もう一度”ヒーローになる為に。彼はその為に魔導師になろうと自身を磨き抜くのだ。
 シン・アスカが求めるのは“倒す為の力”ではなく、“守る為の力”である。
 デュランダルの言う力はあくまで“倒す為の力”シン・アスカの求める“守る為の力”ではないのだ。
 だからこそ、“幸福”だとデュランダルは評した。“あの”デスティニーはシン・アスカの望む力そのものだと。

「……単騎の万能ね。そうなるまでの時間があるのかしら?」

 カリム・グラシアが言葉を返した。
 ――時間。そう、単騎の万能とはそうなるまでに必要となる時間がまるで違う。
 デュランダルが“近接特化”を望んだ理由の一つにそれがあった。
 特化型とは一つの分野を徹底的に鍛え上げることである。
 無論、鍛える分野が少ないことから引き出しは少なくなる。
 だが、究めるまでにかかる時間は、万能型よりもはるかに短くて済む。
 近接特化を1とするなら、万能型は少なくとも5は必要となるだろう。
 だが、そんなカリム・グラシアの懸念にデュランダルは薄く笑いながら返答する。

「問題無い。君が思っているよりも機動6課と言う場所は彼にとって理想の鍛錬所に近い。」

 デュランダルの右の手袋――ナイチンゲールが薄く輝いた。
 彼の目前に現れるA3ほどの長方形の画面――そこには機動6課の面々が映し出されている。
 名前、写真、ランク等がそこには書かれていた。
 そして、その内の一人――エリオ・モンディアルとキャロ・ル・ルシエを指で指し示す。
 その次にはティアナ・ランスター、スバル・ナカジマを同じように指でなぞっていき、次にシグナム、ヴィータ、シャマル、ザフィーラ、八神はやて、フェイト・T・ハラオウン……最後はギンガ・ナカジマの前で止まった。

「ここには彼の“庇護欲”を煽り立てる“餌”がいる。それこそ両手では抱えきれないほど、ね。
守らなくてはならないモノが眼に見えて増えれば――増えた分だけ彼は強くなる。」

 そこで一つ言葉を切って、ナイチンゲールに再び光が灯る。

「何よりも彼は実戦でこそ磨かれる人間だ。
機動6課が相対する実戦――今のシン・アスカ程度ではどうにもならない現実を見せれば否が応にも強くならざるを得ないだろうさ。」
「なるほど、ね。」

 確かにそうだ、と彼女は思った。
 あの映像を思い出す。あの襲撃と模擬戦の映像を。
 土壇場に置いて、彼は“怯える”よりも“戦う”ことを選択した。
 本来、それはありえない選択だ。
 誰であろうと自分の命は大事である。他人の命よりも自分の命を守ろうとするのは本能に刻まれた“命令”なのだから。
 だが、彼はそれを駆逐した。恐らくは“守る”と言う理性によって。
 確かにそういった人間は存在する。家族や恋人、友人を守らねばならないような事態になった時、人はそういった行為をすることが多々在るだろう。
 だが、彼がしたのは見ず知らずの子供に対してだった。
 それも自分よりも遥かに、一目見た瞬間に理解できるほどの化物を相手にして、だ。
 大多数の人間がそれを正気の沙汰ではないと考えていた。
 だが、カリム・グラシアとギルバート・デュランダルだけは見定めていた。あれが狂気の産物ではなく、正気の産物なのだと。
 死にたくないと言う本能を、殺意と言う名の狂気で駆逐する者はいる。多数とは言わない。だが、珍しくも無い。
 だが、死にたくないと言う本能を、守ると言う名の正気で駆逐する者などそうはいない。
 そして、模擬戦において彼は何があっても諦めることなく足掻き抜き――勝利した。
 あの模擬戦は映像でしか見ていないカリムにとっても鮮烈であり、苛烈であった。劣勢を挽回する為に、ありとあらゆる手段を講じた――考えたのだろうことが見て取れた。

 皆無に等しい勝利の可能性を手繰り寄せるために、如何なる方法であろうと試行する。
 適任である。
 強大な――それも恐らくは初見から殺し合うような敵と相対するにするにはこれほどの適任もあるまい。
 カリム・グラシアが右手を上げて、傍らに佇む侍女におかわりを促す。侍女は無言で彼女に近づき、空になったカップに紅茶を注ぎ込む。

「で、彼はこの後6課で過ごすのかしら?」
「それが妥当だろうね。」

 カリム・グラシアは想いを馳せる。
 機動6課……その長である彼女にとって妹のような存在である“はず”の女性――八神はやてのことを。

(……はやてに、扱いきれるのかしら。)

 冷徹にカリム・グラシアの脳髄は思考する。
 八神はやて。彼女は恐らくは甘さを捨てようと必死に努力しようとしていることだろう。
 彼女にとって誰かを捨て駒にするなど在りえないことだ。シン・アスカを受け入れることを承諾したのも恐らくはその表れ。
 だが、とカリムは思った。

(あの子は“シン”を捨て駒にする気など恐らくはない。せいぜい、手駒にする程度でしょうね。)

 冷徹な彼女の思考は八神はやての思考を簡単に読みきる。甘さを捨てられない彼女が辿る道など、それしかない。
 恐らく彼女には理解出来ていないだろう。いつか、あの男――シン・アスカは“壊れなければいけない”と言うことを。

 守り続けることが願いなのだと、彼は言ったそうだ。では――守るとは何だ?
 命を守ることか?それともモノを守ることか?
 違う、守るとはもっと単純なことだ。

 守るとは戦いである。生命活動を継続させる為だけに行われる単純な命の鬩ぎ合いでしかない。救うこととは違うのだ。

 人を救わない守るだけの行為。ならば、それが行きつく果てにある事象は何か――これも単純なことだ。
 守ることしか出来ない彼は、いつか“救えない現実”を直視する羽目になる。

 彼に出来るのは“守る”だけだ。守ると言う行為が守るのは生命活動と言う事象のみ。
 彼には誰かを救うなど出来はしない。
 出来はしないから彼はいずれその現実の前に膝をつき、狂気に身を染める。自身を壊すしかなくなる。
 カリム・グラシアが思い悩むのは、その時の八神はやてについて、だ。
 恐らく、その現実に八神はやては気づいていない。
 シン・アスカと言う人間にとっては“捨て駒”と言う扱いがもっとも幸せな扱いであることに。
 その時、八神はやては耐えられるのだろうか。
 人一人を完膚なきまでに壊し尽くしたと言う罪悪感を背負えると言うのだろうか――

「例のモノ――“ティーダ”に関してはどうなっているのかな?」

 デュランダルの呟き。思考の奥底に沈みこんでいたカリム・グラシアの意識は一瞬で現実に舞い戻る。

「……すでに用意させているわ。いつもの場所で受け取ってもらえるかしら?」

 それを聞いてデュランダルは仮面の下で微笑みを返し、手に持っていた紅茶をテーブルに置いた。

「了解した。では、そろそろ行かせてもらうことにするよ。」

 デュランダルは立ち上がり、扉の前まで歩きドアノブに手を掛ける。
 彼は無言でその扉を潜り抜け――その先で彼を待っていた一人の男に眼をやった。
 男の髪はオレンジ色。直立不動。その服装は豪奢な髪の色とは対照的なダークブルーのスーツ。
 優男と言った方が良い風体である。だが、男が身に纏う雰囲気はどこか野趣を感じさせる雰囲気だった。
 男の名前は――ハイネ・ヴェステンフェルス。
 ギルバート・グラディス――ギルバート・デュランダルやシン・アスカと同じ世界からの異邦人である。

「待たせてしまったね。」
「いえ、問題ありません、議長。」

 議長、と呼ばれ、デュランダルはわずかに苦笑し、ハイネに背中を向けると歩き出す。

「では、行こうか、ハイネ。」
「はい。」

 彼はそうしてデュランダルに従った。



 デュランダルが退室してから、数分。紅茶に口をつけながら物思いに耽っていたカリム・グラシアは思い出したかのように呟いた。

「……そろそろ解いてもいいんじゃなくて?」

 微笑み。優美で華麗で可憐そのものと言ったその笑み。
 誰もが見とれるであろう毒花の微笑みを浮かべながらカリム・グラシアは傍らに佇む侍女に向かって呟いた。

「――ねえ、ドゥーエ。」

“ドゥーエ”と呼ばれた侍女は、その時、微笑みを浮かべた。
 唇を吊り上げて、頬を歪ませた亀裂の入ったような微笑みを。
 それはどこか“あの”ジェイル・スカリエッティを髣髴とさせる笑みだった。



[18692] 11.接触と運命と
Name: spam◆93e659da ID:cc4806a2
Date: 2010/05/14 01:00
 あの後、ギンガとフェイトにとんでもない量の朝食を食わされ、シンは殆ど顔面蒼白になり、倒れるまで食い続けていた。
 殆ど執念である。
 そして、倒れた。
 いきなり、倒れたシン。
 そんな彼を見てフェイトは慌て、ギンガはああ、やっちゃったと言った感じで――彼女はシンが倒れるという事態に陸士108部隊にいた時に既に慣れ切っている――医務室に運んだ。
 そうして、慌てるフェイトをギンガは宥め、部屋から連れ出していった。

「……あんなあ、そんなアホな無理して、どうすんの?」

 医務室でベッドに寝かされたシンを見て、八神はやては呟いた。

「あ、あはは、いや、なんとなく止めづらかったんで……」
「アホか。……まあ、そんなことやろうとは思うてたけど……」

 呆れるはやて。力無く笑うシン。
 それは親に叱られる子供のような構図だった。

「とりあえず、今日はそんな様子じゃ仕事にならん。キミは今日一日休みや。たまには有給使わなな。」
「え?」
「休め、言うてるんや。大体、いつまで同じ服着てるつもりなんや?」

 言われて、自分の着ている訓練服を見やる。
 それは以前、ギンガと共に買い物した際に買ってきたモノだった。
 所々がほつれ、ボロボロになっている。使い込まれている証――というよりも、買換え時である。
 シンはそんなはやての言葉に取り合わずに笑いながら返事を返す。

「ああ、大丈夫です。毎日洗濯してますから。」

 そのシンの返答にはやては、額を押さえながら呆れたように――実際呆れているのだが――呟く。

「……そういう問題やないんやけどな。とにかく、キミは今日休みや。服とか買ってくるんやな……この6ヶ月間まともに休んで無いんやから。」

 6ヶ月。シンがこの世界に来てからの年月だ。

「いや、でも」

 はやてはそんなシンの様子を見て、もう一度言葉として押し出す。今度は少し声色が変わった。それは八神はやてではなく、シン・アスカの良く知る八神はやて。
 自分を使う主の声。

「休め。そう言うてるんや。」
「……」

 顔が上がる。シン・アスカと八神はやての視線が交錯する。
 シンの瞳が変質する。
 朱く虚ろな、感情の削げ落ちた無機の瞳が八神はやてを覗き込む。
 ギンガやフェイト、機動6課の面々の前では決して見せない虚ろな視線。
 それを受け止める八神はやての瞳もまた、無機の瞳。例えるならば、その眼は兵器を扱う人間の瞳。
 そうして暫しの交錯――その場所だけが深く昏い海の底にでもなったような錯覚――先に折れたのはシンだった。

「……そうですね。」

 俯いた朱い瞳に虚ろな輝きはもう“無かった”。

「分かりました。今日一日休みます。」
「うん、ええ子や。」

 八神はやてが微笑んだ。殺伐とし始めた空気を塗り直すような暖かい微笑みだった。
 これは彼らのいつも通りのやり取りだ。
 シン・アスカは八神はやてに対して決して逆らわない。
 以前、CEにいた頃のように反論すらしない。
 彼女の“命令”に対しては絶対服従。
 二人の関係は信頼で結ばれているような関係ではない。
 二人を結ぶのは、信用。即ち、互いに互いを利用しあうだけの関係であるが故に。
 シン・アスカは居場所を求め力を振るう。
 八神はやては力を振るわせ居場所を与える。
 徹底したギブアンドテイク。そこに絆など一切無い。
 そうして、二人はすべからくいつも通りの日常へと舞い戻る。溢れ出した虚無は日常に押し戻っていく。
 残されたのは平穏な光景。上司が部下を注意する微笑ましい光景だった。
 だが、それを後ろから見つめる人影があった。

「……」

 ギンガ・ナカジマ。そして、

「何、これ……?」

 ――フェイト・T・ハラオウン。
 さすがに自分たちのせいで倒れた彼を放っておけずにここまでやってきたのだ。
 そして、そこで今しがたのやり取りを目撃した。シン・アスカと八神はやてのおかしげなやり取りを。

「今の、はやてとシン君……?」
「……あれは八神部隊長とシンです。」

 ギンガは平然と呟く。忌々しげに唇をわずかに歪めながら。
 今しがた、シンが発した虚無。
 それにフェイトは呆然としていた。
 知ってはいた。シン・アスカという人間には幾つもの顔が存在するなど。
 誰でも――自分だって接する人によって態度が変わるように、人間には幾つもの顔が存在する。
 けれど、今のシンの顔をフェイトはいまだ見たことがなかった。
 当然だ。“この”シン・アスカを知っているのは、彼女――ギンガとゲンヤ、そして目前の八神はやてだけなのだから。
 誰かを守る、その為だけに生き抜くことを望み、その為にならば何であろうと捨て去る。
 それが“現在”のシン・アスカ。一途で純粋すぎる想いを、ただひたすらに研ぎ上げ、振るう“だけ”の存在。
 ごくり、と唾を飲み込む。
 一瞬、一瞬だけではあったが圧倒された。
 死線を幾つも越えて来たフェイトですら感じ取れなかったその虚無。
 そして、平然とそれを身の内に押し込み、まるで何事もなかったかのように日常へと回帰するその姿。
 スイッチを切り替えるように、ただ切り替えた――まるで、それこそが日常そのものだとも言いたげな姿。
 そして、何よりも、八神はやての有様――それが予想とはまるで違っていたから。

「……フェイトさん、帰りましょう。」

 ギンガは視線を逸らし、二人から顔を背け、フェイトに対して呟いた。
 それはこの場を見られたことを困る――そんな仕草。

「何か、知ってるの?」

 その仕草に気付かないようでは執務官など出来はしない。真っ直ぐな視線でフェイトはギンガに問いかける。
 一拍の間。睨みあう二人。けれどギンガは口を開くことはない。

「……」

 視線を逸らし、ギンガはその場から去ろうとする――だが、フェイトの右手がギンガの右手を掴み、それを阻んだ。

「……教えて、どういうことなの、これは?」

 強い言葉。金色の閃光は有無を言わせぬ口調で語りかける。
 その瞳は決して譲らない強固な意思を湛え、彼女を射抜く。そして、それに威圧された訳でも無いが――彼女は一つ溜息を吐き、呟いた。

「……場所を、移しませんか?」

 黙っていることは恐らく無理だろう。ならば、言ってしまった方が良い。そう、考えて。

「……シン・アスカってどういう人間か知ってますか?」

 彼女達二人が今いる場所は機動6課隊舎の屋上。出入り口は施錠してあり、誰も入ってくることは出来ない。

「シン君について?」
「ええ。この世界に来る前のシン・アスカについて、です。」
「……次元漂流者ってことだけは。」

 その言葉を聞いて、ギンガは僅かな寂寥感と共に言葉を押し出す。
 寂寥感は多分、皆に誤解されている彼を想って。自分の願いの内実とはまるで違う感想を持たれてしまう彼を、偲んで、だった。
 こちらを静かに見つめる紅い瞳――フェイト・T・ハラオウンの瞳。
 それを彼女も静かに受け止め、口を開いた。
 この人が敵に回るのか、それとも味方なのか。それとも――
 考え出せばきりが無いほどに膨れ上がる疑念。
 だが、その疑念のどれに行き着いたとて自分には関係ない。
 その疑念のどれに辿り着こうが自分の貫くべき道など一つ――故にギンガ・ナカジマは迷うことなく言い放つ。

「――虐殺者。裏切り者。猟犬。」
「……え?」

 その言葉はフェイトにしてみるとまるで予期しない言葉だった。

「モビルスーツという人型の巨大質量兵器の戦争で少なくとも何千人。もしかしたら何万人の――数え上げるのも馬鹿馬鹿しいほどの人間を殺した挙句、戦争に敗北した“落ちぶれた英雄”。」

 すらすらと、教科書を読み上げる講師のようにギンガは言葉を紡いでいく。

「……なに、それ。」

 呆然と呟くフェイト。言葉の意味をまるで理解出来ていないのかもしれない。だが、ギンガはそんな彼女に構うことなく答えた。

「シンのことです。あの人はそうやって非殺傷設定の無い泥沼の戦争に従事して、その果てに此処へ来た。」
「……殺した?何万人も?」

 フェイトの顔は呆けて、言葉を紡ぐことすら出来ずにいる。
 時空管理局。そして、管理世界における非殺傷設定とは絶対的なモノである。
 この世界――ミッドチルダにおいて、殺人とは重罪である。およそ考え得る全ての中でもっとも重い。そう言っても過言ではない。
 殺人。それはこの世界における禁忌中の禁忌である。
 それをシン・アスカがしてきた。何千、もしかしたら何万人も、殺した。
 何万人――想像がつかない。一体、どうしたらあの年齢でそれだけの人間を殺せると言うのだろうか。

「……」

 重ならない。重ならない。まったく持って重ならない。
 彼女の脳裏のシン・アスカと、ギンガが呟き――先ほど見せられたシン・アスカが重ならない。
 一月半。シン・アスカが機動6課ライトニング分隊に配属されてから、今までの期間。
 ライトニング分隊におけるシン・アスカは、温厚な性格だった。
 彼女にとっての大切なモノ――エリオやキャロには実の兄弟のように明るく、優しく、そして時に厳しく。
 義理の母親であるフェイトが時に羨むほどに、仲良くしていた。
 副隊長であるシグナムともだ。非常に良好な関係だった。
 無論、そこにシグナムが彼に興味を――無論、男女の興味ではなく強さにおけるモノだが――持っていると言うことを抜きにしても、だ。

 そして、自分――フェイト・T・ハラオウンとも。彼は自分に対していつも笑顔だった。
 それは誰に対しても同じく、笑顔。優しく、華やかで、そして――どこか儚げな。
 例えるならば月光。いつか消える夜空のように儚げな笑顔。
 そんな笑顔をしていた彼が、それほどの殺人を行っていた。
 それが繋がらない。
 確かに、あの模擬戦は苛烈だった。けれど、それは勝利への渇望が生み出す必死さの現われ。
 そう彼女は解釈していたし、その感覚に間違いがあるとも思えなかった。
 だからこそ、自分の胸は跳ねた。
 感じたことなど無い胸の高鳴りはきっと、その死に物狂いの必死さと苛烈さ。
 それがあまりにも眩しく思えたから――だからだと思った。
 そして、それからの模擬戦においても、だ。

 彼は、自分の身を省みずエリオやキャロ、ティアナやスバル、そしてギンガや自分、ヴィータ、シグナム――およそチームを組んだ全ての人間に対して、身を盾にして守ることが多々あった。
 誰もがそれを叱責した。
 当然だ。チーム戦とは協力することが主となる。
 互いに信頼することで――時に相手を危険に陥れることでこそ、チームワークは活きる。
 確かに誰かを危険に陥れることは怖い。けれど、それを貫かせるのは信頼があるからだ。
 信頼しているから、相手が“出来る”と信じているからだ。
 余談だが、この技能が格別に高いのが彼女――ギンガ・ナカジマだ。
 個人としての身体能力はスバルに劣りつつも、“合わせる”ことが抜群に上手い。
 故に今日の模擬戦のような結果になる。能力――スペックと言う点では変わらないチームを組んでいながら、彼女が組んだチームは勝ちやすい。

 ――話を戻そう。
 彼はそれが出来ない。仲間を危険に陥れること――簡単に言えば囮だ――が出来ない。
 致命的なほどに。そして、彼は笑う。ごめんと言いながら。

 ――だから、私を含めた全員がこう思っている。シン・アスカは優しい。優しすぎる人間だ、と。

 優しさの中に苛烈があり、苛烈の中に優しさがある。矛盾した強さ。
 彼女の中のシン・アスカはいわば聖人なのだ。苛烈でありながら温和。温厚でありながら凄絶。
 だから、重ならない。重なるはずも無い。
 そんな彼が何万人もの人間を殺している、などと信じられるはずもない。

 ――それは彼女が戦争を知らないからだ。戦争において人を殺すことは当然のこと。
 自身の命を守る最も楽な方法は殺すことに他ならない。
 何よりも“命令”は人の命の重さを軽くするから。
 彼女は信じられないのではない、“信じたくない”だけなのだから。

 シン・アスカの本性とは誰が何と言おうと聖人では無い。
 彼はどこにでもいる人間だ――ただ、その欲望が大きすぎると言うだけで。
 誰にもそれを見せる必要が無いからこそ見せていないだけで――悪魔のような本性はその身の内に今も潜んでいる。

 ――信じられない、と言った視線のフェイト。ギンガはそんなフェイトに向かって続ける。

「……信じられないかもしれませんけど、事実です。これは彼の証言と彼の機体に残されていた記録から、もたらされたものですから。」
「……。」

 沈黙。フェイトの顔は呆然と、ギンガはそんなフェイトを少しだけ“忌々しげ”に見つめ――呟いた。

「……シンが戦う理由、わかりますか?」
「戦う、理由?」
「シンが何であんなに必死なのか。その理由です。」

 理由――戦う理由。
 分からない。フェイトにはシンが分からない。だから、フェイトは答えた。自分にとっての戦う理由を。恐らく、それほど離れていないと“願い”ながら。

「……大切なものがあるから、だと思う。」

 ギンガはその答えに、彼女らしくもない“嘲笑じみた溜め息”を吐きながら間断なく返答する。

「守りたいから、です。」
「守りたい?」

 聞きなれない単語。
 守りたいと言う言葉はよく耳にする。戦いに赴く人間は誰であってもそうだ。何か、大切なモノを守りたいから。
 けれど、ギンガの言葉はおかしい。
 守る、とはそれ単体の言葉ではない。その前に、守りたいモノが付属していなければおかしい。
 家族を、両親を、友を、仲間を、愛する人を。
 その言葉が無ければ、その言葉は成り立たないはずだ。

「それだけ……?」
「それだけです。守りたいから。……全部、守りたいから、ですよ。」

 そう言って笑うギンガ。それは何かを諦めたような笑顔。
 それは何かを手に入れる為に決意をして、その為に何かを諦める決意をした人間だけが出来る“覚悟”の笑顔。

「その為には自分がどうなっても構わない。あの人は誰かを守れること、それだけが嬉しいんです。それだけが生き甲斐なんです。」
「おかしいよ、それ。守って、それだけでいいってこと?」
「……“おかしい”んですよ。」

 さも、当然のことのように――少しだけ苛立ちを込めて、ギンガは告げる。シンの異常を。
 そして、話は八神はやてに及び始める。淡々と。

「八神さんとシンが仲良くしてる理由は一つだけ。彼女はシンを利用すると言いました。あの化け物達と戦う為に。」

 捨て駒と言う戦術を容認するならば、最も確実な戦術だ。

「八神さんがシンを此処に呼んだのはその為。シンと私を戦わせたのもその為。彼を決して殺させないように――強くする為。」

 強く、誰よりも、何よりも、目に映る全てを超えて強く、強く。最強の二文字の裏側に孤独の二文字が貼り付けてあるジョーカーとする為に。

「シンが八神さんに逆らわないのは、それをシンも望んでいるから。そして――」

 言葉を切る。

「私は彼を守る為に此処にいる。絶対に彼を死なせない、その為に。」

 決然と。青い髪の戦乙女は言い切った。

「ギンガは、どうして、そんなにシン君を」
「……好きだから。大好きだから……だから、壊れそうなあの人を守りたい。それだけ、です。」

 赤面も、恥じらいも、何も無い。言いよどむことなど何も無く、彼女は言い切った。
 恐らく――伝えるべきではないその気持ちを。
 けれど、それでも言いたかった。その衝動を“止めたくなかった”。
 シン・アスカが好きなのだ、とフェイト・T・ハラオウンに対して言いたかったのだ。
 別にシン・アスカは彼女のモノではない。そして、それはこれから先も恐らく変わらない。

 きっと彼は誰のモノにもならない。彼の瞳は誰をも同一に見る。
 全てを助けると言うことは特別を持たないと言うことだ。
 特別な誰かがいればその時点で「シン・アスカ」は崩れ落ちる。
 誰よりも平等であるが故に彼は全てを守れる。
 選ぶことなく、守ること“だけ”に集中出来る。その壊れた願望を維持できる。
 それを遮るつもりは彼女には無い。
 ギンガ・ナカジマはそれを守り、支えると決めて、彼を好きになった。
 全て織り込み済みでそんな不毛な恋をしたのだ。
 彼女の恋はどんなに燃え上がろうとも無償の愛(アガペイズ)にしか繋がらない。そう、知っていて。

 けれど、例え、それが不毛であろうと恋は恋。
 乙女とは、恋に活きて、恋に息して、恋に生きるものなのだ。
 故に――

「止めない、の……?」

 その問いを許さない。

「止めません。……どの道、誰かがやらなきゃならないことなのは分かりきってることですから。あの人がそれを望むなら私は止めない。だから、守るって決めたんです。」

 彼女の決意。そしてそれが生み出す覚悟。それが彼女を押し通す。

「もし、フェイトさんがあの人を無理矢理にでも止めるなら……私はあの人の側になります。たとえ、フェイトさんであっても……誰であっても私は」
「……駄目だよ、ギンガ。そんなの、誰かを捨て駒にするなんて、絶対に……止めなきゃ。」
「……そうやって、あの人から生き甲斐を奪うんですか?」

 駄目だから、と。それだけの理由で。

「……違うよ。生き甲斐ってそんなのとは違う。きっと、違う。生き甲斐って言うのはもっと……」

 溜息を吐きながらフェイトは続ける。生き甲斐とはそういうものではない。違うのだ、と。
 薄っぺらな言葉。彼女自身が本当にそう思っているのか、定かではない言葉。そんな言葉で誰かを否定するなんて出来るはずがない。

「生き甲斐って言うのは……きっと、違うよ。もっと、自分を信じてくれる誰かの為にやらなきゃいけないことで……」

 その言葉に彼女はきつく奥歯を噛み締める。
 生き甲斐。彼にとってそれは守ること、である。
 別段、それを彼に確認した訳ではない。ただ、そうとしか思えないだけで――無論、間違っているとも想わないのだが。
 自分を信じてくれる誰か、とフェイトは言った。

(ここにいるわよ。誰よりも強くあの人を信じてる人間は……!)

 ギンガ・ナカジマ。彼女自身が誰よりも強く彼を信じている。
 何故なら、好きなのだ。大好きなのだ。
 今でも頭の中はいつでも彼のことで一杯だし、毎朝起こしに行くのだって楽しみだ。
 一緒に食事をするだけで胸の鼓動は激しくなるし、彼の朱い瞳を見つめていると顔が赤面する。
 寝顔を見つけた時など何度見惚れたかなど分かりはしない。
 一緒にいるだけで、心は温かくなって、自然と顔は綻んで笑顔になる。顔や身体は火照って、時折ぼうっとしがちになる。
 彼に恋してから既に数ヶ月。初めての恋だからかは分からないが、あの日から自分の生活はシン・アスカを中心に動いている――否、動きたいと願っている。
 けれど、そんな想いはいつだって空回りしている。シン・アスカはまるでそんなことに気付かないから。
 空回りでも良い。恋は恋。彼女はそう想っていつも自分を叱咤していたのだ。だが、

 ――生き甲斐って言うのは……きっと、違うよ。もっと、自分を信じてくれる誰かの為にやらなきゃいけないことで

 どうしても、その言葉だけは看過出来なかった。
 何も知らない癖に。
 ギンガ・ナカジマがどれだけ彼のことを好きなのか知らない癖に。
 シン・アスカを何も知らない癖に。
 私の想いがどうして空回りしているのかも知らない癖に。
 そんな何も知らないフェイト・T・ハラオウンの言葉を――

「――ふざけないで。」

 ――ギンガ・ナカジマは否定する。

「え?」

 口調が変わった。
 子供に駄々をこねられて困ったようなフェイト・T・ハラオウンのその瞳。その瞳を見て、消えていた――消そうと思っていた苛立ちが募り出す。

「――あの人を、勝手に、勝手に貴女の理屈で塗り潰さないで!!!」

 止まらない。言葉が。苛立ちが。嫉妬が。――怒りが。
 言葉に檄が籠って行く。
 憧れていたが故の反動として、フェイトの瞳が許せない。

「あの人は人形じゃない。絶対に、貴女の、私の――他の誰の、人形でもない!!」
「ギ、ギンガ、違う、私は……」
「そうやって、勝手に決めて!まるで人形扱いじゃない!!シンを人形扱いしないで!!あの二人みたいに、勝手に保護とかしない……」

 パチン、と何か軽い音がした――それは、フェイトがギンガの頬を叩いた音。

「……あ」
「……」

 奥歯を噛み締める。零れ落ちそうな激情を必死に抑え付けた。これ以上、感情に任せて口を開いてはならない、そう思って。

(……私の馬鹿)

 明らかに言う必要の無いことを言った。まるで今の状況とは関係の無い言いがかりのようなものだ。
 罪悪感が灯る。心の中に暗い渦が廻り出す。

「ご、ごめん……ギンガ。」

 彼女の右手が震えていた。それを、呆然と見つめているフェイトは――20歳などという年齢よりもはるかに幼い、弱々しく儚く、脆い、そんな少女にしか見えなかった。
 ぎりっと、更に強く奥歯を噛み締めた。自分の馬鹿さ加減を半ば呪いながら。

「……すいません。私、今、まるで関係の無いこと言いました。」

 深々と頭を下げる。どんな反応をしたらいいのか分からなかったから――違う、彼女の顔を見ていられなかったから。見ていれば、その罪悪感で押しつぶされそうになるから。
 そして、そのまま逃げるようにそこから歩き出し、扉に手をかけた。

「最後に、一つだけ。」

 ――彼女に背を向けたまま、ギンガは呟いた。

「……あの人のことは放っておいてあげてください。あの人には、もう――“それしか”ないから……だから、お願いします。」

 ギンガの方へ振り返るフェイト。彼女からはギンガの顔が見えない。

「ギン、ガ……」

 呆然と呟く。手に残る感触が消えない。

 ――こんなつもりじゃなかった。こんなつもりじゃない。
 フェイトの心中でそんな言葉が何回も繰り返されていく。
 けれど、口に出さないそんな心がギンガに届くはずも無い。

「……ごめんなさい、フェイトさん。」

 彼女はそう言って出ていった。

「……わた、し」

 彼女は――フェイト・T・ハラオウンはそのまま屋上のコンクリート張りの床に力無く座り込んだ。瞳は潤み、呆然と。ジャケットは少しだけ着崩れて。
 ――世界はこんなはずじゃないことばかりだ。
 いつか聞いたそんな言葉が胸に響いていた。


 どうして、私は彼が気になるのだろうか。
 出会いはあの病院。
 誰も守れなかった自分を慰めてくれた。
 あの時はただのいい人だと思っていた。
 次にあの模擬戦。おかしな話、あの模擬戦の時から私は彼から眼が離せないでいる。
 あの戦い。アレは結果はシンの勝利ではあったが、内容はギンガの完勝だ。
 シンは奇襲と発想、そして捨て身によって勝ちを拾ったに過ぎない。
 けれど、自分をまるで省みない戦い方。常に限界を超えようとする姿勢。
 何度倒れても倒れても、立ち上がるその背中。
 届かないモノに届こうと、何度でも繰り返す。
 薄汚れ、埃塗れで、血塗れで、苦しそうに顔を歪ませて、それでも諦めない。
 たった一人、一人だけであっても決して折れず曲がらず挫けない。
 それを、綺麗だと思った。凄いと思った。自分には決して“出来ない”と。
 そして、此処に来てからの1ヶ月。
 キャロやエリオは彼を慕っている。元々年下――というか子供に好かれやすいのだろう。
 あの二人とシン・アスカは直ぐに打ち解けた。
 シグナムとは同じ武器を使っていることから、そして、私とは――私から彼に近づいた、のだと思う。
 別に他意はない。ただ、彼が気になっただけだ。凄いと思ったから話しただけだ。
 そのはずだ。

 ――こんなはずじゃなかった。
 
 繰り返した言葉。心の中で呟き続けた言葉。 

 ――なら、どんな“はず”なら自分は良いのだろう。どんな“はず”を自分は求めているのだろう。

 分からない。分からない。
 答えは出ない。出口の無い思考は迷宮の如く、彷徨い歩くことを彼女に強いる。
 落ちていく思考。それを止める術など、脳裏のどこを探しても見つからなかった。


 声が聞こえる。誰の声だろう。
 周りを見れば、そこは真っ白な世界。
 声が聞こえる――今度はしっかりと。
 
 ――あの二人と同じように。

 聞こえてきたのはギンガの声。耳に響くように届いてくる。
 その声は、その言葉は私の胸を締め付ける。
 分かってるからだ。そんなこと、誰よりも分かっている。
 私があの二人を引き取ったのは単なる自己満足に過ぎない。代償行為に過ぎない。だから、思わず叩いた。
 私は、彼女の言葉が図星だったから堪えられなかったのだ。

 自分は――フェイト・T・ハラオウンは弱い。一人では何も出来ない人間だ。
 家族に憧れた。
 母に優しくして欲しかった。
 だから、私は自分が埋められなかった空白をエリオやキャロに感じて欲しくなかった。
 ――どこかから、また別の声が聞こえる。聞きなれた……いや、ずっと聞きたかったはずの声。

「なら、貴方の隙間は誰が埋めるの?」

 家族がいる。機動6課がいる。
 はやてやなのは、お母さんやお兄ちゃん、そしてキャロとエリオ。
 私には掛け替えの無い仲間がいる。

「本当に埋められる?」

 埋められる。仲間の絆は何よりも強いから。

「嘘。空っぽの貴方の空白なんてきっと誰にも埋められはしない。」

 違う。空白は既に埋まっている。

「こんなに寂しいのに?」

 寂しくなんてない。

「エリオやキャロはもう二人で生きていける。それくらいに強くなった。それが――寂しいんでしょ?」

 寂しくなんてない。

「また、貴方は受け入れるモノを“失った”。」

 失ってない。私は大丈夫。

「嘘。」
 本当。

「嘘。」
 本当。

「嘘ばっかり。だって、見つけたじゃない。」

 何も見つけてない。私は大丈夫だ。

「彼を。受入先の存在しない永遠の迷い子を。」

 違う。彼はもう一人で立っている。

「欲しくないの?」

 欲しくない。私には必要ない。

「“保護”したいのでしょう?」

 したくない。

「受け入れたいのでしょう?」

 したくない。だって彼は――

「テスタロッサの名前を捨てられない。それが貴方が今も誰かを“求め”続けている証よ。」

 違う、と言おうとして顔を上げ――そして、見えたその顔はあまりにも自分に似ていて、けれど髪の色だけが決定的に自分とは違う。
 それは、紛うことなき自分の母親、一番この世界で自分が優しくしてほしかった人――。

「――っ!!」

 眼を見開く。そこに見える物。それは見知った天井。
 母の顔などどこにも無かった。

「……気持ち、悪い。」

 寝汗が酷く気持ち悪かった。


「……」

 次の日、フェイト・T・ハラオウンは物憂げに窓辺を眺めながらコーヒーに口をつけようとしてつけられずにいた。
 目を向ければ、そこには物憂げに自分を見つめる自分の顔。
 それがどうしても、夢で見た母の顔に見えて――

「……違う。」

 小さく、呟き思わずコーヒーをかき混ぜる。
 白と黒のコントラスト。螺旋模様が巡り回る。ミルクと混ざり合ったコーヒーにはもう何も写らない。
 それに少しだけほっとして、彼女は窓辺に視線を向けた。
 視線の先には曇天の空模様。ひたひたと降りしきる雨。まるで、自分の感情を塗りたくったように黒で染め上げられた空。

「……なんや、アンニュイやな、フェイトちゃん。」

 その声に身を強張らせた。
 八神はやて。彼女の親友にして――事の元凶の一人。

「……おはよう、はやて。」
「おはよう、フェイトちゃん。……降ってるなあ、雨。私、今から行くとこ一杯あるんやけど。」

 朝食を乗せた盆をテーブルに乗せ、面倒そうに呟くはやて。

「ふふ、大変だね、管理職って言うのも。」
「ほんまになあ。」

 そうして、いただきます、と呟いてはやては箸を割ると朝食に口をつける。

「……」
「……」

 止まる会話。はやては、そんなことをお構い無しに朝食を食べている。
 メニューは純和風。温泉卵にアジの干物に味噌汁と香の物。そしてほうれん草のおひたし。
 フェイトは、コーヒーに口を付ける。
 昨日、見た夢が今も瞼の裏から張り付いて離れない。

「……元気ないなあ、どないしたん?」
「え、ああ、だ、大丈夫だよ、はやて。」

 慌てて、取り繕うフェイト。
 その様子に、何かを感じつつも、深くは聞かない。
 フェイト・T・ハラオウンと八神はやての付き合いは長い。
 10年――今年で11年目である。
 聞かれたくないことであれば、聞かない。
 言いたいなら、自分から言ってくる。
 そう、信頼を持つほどに彼女たちの付き合いは長かった。

「まあ、ええけど……そういや、昨日“シン・アスカ”が珍しく酔っ払って帰ってきたで。」
「へ?あのシン君が?……珍しいね。」
「うん。どうにも、街で友達が出来たとか言うてたわ。」

 しみじみとはやてはそう言う。

「あ、あははは。」
「まあ、あれで苦労人やからねえ……たまには羽目外しても罰は当たらんと思うんよ。」
「……そ、そうなんだ。」
「まあ、あれにも色々あるからなあ。」

 ――ちくり、とフェイトの胸で痛みがした。

 “キミ”
 “あれ”
 “シン・アスカ”

 八神はやては、シン・アスカを名前で“呼ばない”。
 初めは違っていたはずだ。けれど、今では確固たる規範としてそれを貫いている。
 自分はそれを単なる呼び方の違いとだけ思っていた。だが、違うのだ。
 以前は不思議にも思わなかった。だが、真相を知った今では何となくその理由が分かる。
 彼女はシン・アスカを道具として見ている――だから、名前で呼ばない。

「……」

 朝食を食べる彼女見つめるフェイト。
 脳裏を巡る思考は一つ。何が、どうして、彼女をそこまで駆り立てるのか、だった。
 恐らく、これはヴォルケンリッターにも言っていないことだろう。
 シグナムはきっとそんなことを許さない。
 リインフォースⅡも同じく怒りに燃える。
 ヴィータならば激昂する。
 シャマルは悲嘆に暮れる。
 ザフィーラは静かに泣くだろう。

 家族である彼らを騙してまで、彼女にはしなければならない理由があったと言うのだろうか。
 あの化け物達と戦う為に、とギンガは言った。
 確かに自分は――自分たちは負けた。完膚なきまでに。
 そして、生かされた――決して、生き残った訳ではない。
 今、この命があるのは単純な話、ただ、敵の気まぐれで生きているだけに過ぎない。
 だから、戦力の増強を考えるのは至極当然。
 現在、機動6課はその為に――散発的に行われるガジェットドローンの襲撃に対抗する為に存続しているのだから。

 ――だが、ならば、何故シン・アスカなのか。
 そこが疑念の発端だ。
 確かに彼は強い。これから更に強くなるだろう。最終的にはどれほどのモノとなるかは想像出来ないほどに。
 けれど、その話が表面化した時、彼はまだ魔法をまともに使うことすら出来なかったはずだ。
 そんな人間を、果たして捨て駒に使うのか――否、どうして使おうと思ったのか。
 違和感があった。何かを“見落としている”と言う違和感が。
 そして、恐らくそこにこそ鍵があるのだ。
 はやてが、そして管理局の上層部が、シン・アスカを手駒として――捨て駒として使おうと決めた理由の発端が。

「フェイトちゃん?」
「え?」

 いつの間にか、朝食を食べ終えていたはやてが、フェイトを覗き込んでいた。

「何や、ぼうっとして。ほんまに大丈夫なん?」

 覗き込まれた瞳は純粋に自分を心配する色を浮かべている。本当に、心の底から。
 自分は、まだ、彼女に“受け入れられて”いる。安堵の溜息が知らず漏れた。
 自分には仲間がいる。自分を気遣って、手助けして、そして共に進んでいける仲間が。

 ――嘘。空っぽの貴方の空白なんてきっと誰にも埋められはしない。

 背筋が凍る。冷や汗が流れた。
 違う。自分はきっと大丈夫だ。
 きっと、幸せに生きていける。
 きっと、空白は埋められる。
 仲間と言う絆はきっと、空白を埋めていくのだから。

 ――ああ、病院で会った金髪の人か。
 
 声と共にフラッシュバックのように思い起こす、あの日見た彼の背中。
 傷だらけで、埃塗れで、それでも決死に前を向いて、戦い抜いたあの背中。

 ――彼にはいるのだろうか。そんな、仲間が。

 前を向けば、心配そうにこちらを見るはやてがいた。

「……ううん、大丈夫。」

 答えは儚く。疑念は消えず。
 そして、最大の疑問は未だ晴れない。晴れ間が差し込む様子すら無い。
 自分は――フェイト・T・ハラオウンはどうして、これほどにシン・アスカのことを思い悩んでいるのだろうか、と。


 その日の夜、フェイトは仕事を終えて隊舎に戻ると、おかしな光景に出会う。
 時刻は10時をすでに過ぎている。連日、朝から訓練を行う機動6課のフォワード陣ならば既に眠りにつくかしている時間である。
 だと言うのに、訓練場の一角に光が灯っている――否、光が明滅している。光の色は燃える炎の朱。

「……もしかして」

 身体に無理のある訓練は機動6課においては――と言うかどの場所においても禁止されている。
 連日の勤務と訓練。そして場合によっては出動を行うこともある。
 機動6課は24時間勤務体制であり、基本的に隊舎まで30分~1時間以内に戻ることのできる地点に滞在することを条件とした休息と自由行動しか取れないことになっている。
 仕事に束縛される時間は通常の職業と比べて比較にならないほどに大きい。
 故に就寝時間を過ぎれば皆早々と眠りにつく。訓練など以ての外である。
 以前、それを行ったティアナ・ランスターはその後そういったことは行っていない――否、隊員誰もが行っていない。
 身体に無理のある訓練とはそれだけで“効率が悪い”のだ。
 適度な休息と過酷な運動が相まってこそ、肉体は鍛えられていく。
 そして、連日の訓練や通常業務にさえ支障を来たす――仕舞いには本分である出動時にまともな動きさえ出来なくなる。
 だから、基本的に禁止されているのだ。そういった無理な訓練は。
 故に、今の機動6課でそんなことをする者と言えば一人しかいなかった。
 シン・アスカ。フェイトの心を悩ませる、ギンガの想い人であり、はやての武器。
 考えるまでも無い――彼しかいないのだ。


「まだ、起きてるんだ?」

 訓練場の一角――グラウンドの隅である――に座り込み、一心不乱に右手に意識を集中させているシン・アスカの後方からフェイトは声をかけた。
 赤い光で照らされる彼の顔は無表情そのもの。一心不乱にその作業に没頭していた。

「……ああ、フェイトさんですか。」

 声をかけられて、初めて気づいたのか、シンは彼女に振り向く。
 色濃く疲労が見える顔。けれど、その表情はいつも通りの柔和な笑顔。
  その顔は、彼女の心を曇らせる。
 ――その顔の裏側を聞いてしまったから。

「こんな時間にまだ訓練なんて……」

 少しだけ咎めるように呟く。シンはそんな彼女を見て、申し訳なさそうに苦笑しながら呟いた。

「ああ、日課くらいはやっておかなきゃって思って。」

 そう言って、右手に溜め込んだ魔力を霧散させる。

「日課ってそれのこと?」
「はい。」

 そう言って、一瞬右手に意識を集中させる。
 流れ込む魔力を留め、束ね、練り上げていく。
 イメージするのは吹き上がる寸前の間欠泉。
 自身の右手から生まれる朱い魔力の間欠泉が吹き上がる寸前をイメージする。
 赤い光が輝きだす。外観はまさに膨れ上がった弾ける寸前の朱い風船球。
 輝きは収まらない。
 けれど、触れあがる外見とは裏腹に、ソレは熱くも無く、煩くも無くただ静かに光を発し続け――そして、消えた。
 それは全ての魔法の基本中の基本。そして、シンの使う魔法「パルマ・フィオキーナ」を構成する技術。

「収束と開放と変換……」
「毎日、やってるんです。俺は、まだ魔法使い出したばかりの素人ですから。」

 そう言ってシンは再びその作業に没頭し始める。
 その瞳はキラキラと輝く子供のような無邪気な瞳。
 例えるなら――プラモデルを作ることに没頭する子供のようだった。

「……楽しそうだね。」
「楽しい……そうですね、楽しいです。此処は、守らせてくれるし――」

 フェイトの問いかけにシンは振り向かずに答える。今度は両手に魔力を収束させている。
 そして、それを終えると収束箇所をどんどんと変えていく。
 足裏、右肩、左肩、背中、腰、しまいには頭や腹部にまで。身体中の至る箇所が朱く輝いていく。

「――戦って、誰かを守っても、文句言われないんですから。」

 そう、“嬉しそう”に微笑みを浮かべた。
 その微笑みは彼女の顔を曇らせる。理解、出来ないからだ。

 ――どうして、そんな嬉しそうなのか。それがどうしても彼女には分からなかった。
 次元漂流者とは基本的に孤独である。
 何故なら、彼らは全て“元いた世界”から弾かれて来た者ばかり。
 異世界に流れ着く理由――その理由の殆どは単なる事故だ。
 つまり、彼らは事故によって別の世界――自分のことを誰も知らない孤独な世界へと流れ着く。
 誰も彼もが悲嘆に暮れる。
 帰りたい。帰りたい、と。
 孤独だから。自分のことを誰も知らない世界。
 世界のことを何も知らない自分。

 ――それは、どれほどの孤独なのだろう。
 彼女――フェイト自身、クロノ・ハラオウンやリンディ・ハラオウンと言った家族、高町なのはや八神はやて等の親友が“出来た”からこそ、この世界にやってこれた。
 それは彼女だけではない。誰だってそうだ。
 八神はやても、今は療養中の高町なのはも、家族がいたから、友達がいたから、此処に来ることが出来た。
 だけど、彼にはソレが無い。
 そういった、この世界での絆が皆無なのだ――彼女、ギンガ・ナカジマを除いて。
 ならば、ギンガとの間には絆があるのかと言うとそれも首を傾げざるを得ない。
 何故ならシンがギンガに抱く気持ちとは、ただの大事な仲間へ向ける気持ちに他ならない。友情ではあっても、愛情ではない。

 ――以前、一度だけ、彼に聞いたことがある。彼女のことをどう思っているのかを。無論、それは興味本位で、だ。

 その時の彼は、まるで狐に化かされたような表情をしていた。そう、質問の“意味自体が分からない”と言ったような。
 そして、彼はこう言った。

「……大事な仲間ってとこじゃないですか?」

 散々考えた挙句の答えがこれだった。
 彼は、シン・アスカはギンガ・ナカジマを大事に思っているだろう。
 だが、それは恋愛感情の“大事”とは違う。守るべきモノ。それだけだった。
 つまり――彼には何も無い。
 彼女、フェイトにはそれがどうしても分からない。
 どうして、そこまでして、ソレだけに固執“出来る”のか。
 それがどうしても理解出来なかったからだ。
 訓練を続ける彼の背中はそんな彼女の想いと裏腹に非常に“楽しそう”だったから。
 だから、

「……シン君はどうして、ここで戦うの?」

 思わず、呟き、フェイトはすぐに口をつぐむ。
 だが、一度口から出た言葉を変更するなど出来はしない。シンが、その言葉に反応し、振り向いた。

「……どうして?」

 そんなことを聞かれたコト自体が意外過ぎたのか、シンは不思議そうに呟く。
 シンの朱い瞳がフェイトの赤い瞳と交錯する。
 無邪気な――何万人もの人間を殺した虐殺者とはとても思えないその瞳。
 沈黙は数瞬。そして、口を開く。

「キミの過去を聞いたんだけど……キミはずっと戦い続けて……此処に、来た、ってことを。」
「……それが、何か?」

 自身の過去を聞いた――つまりは人殺しの過去を知ってしまった。
 シンの瞳が少しだけ鋭くなる。
 彼女が自身を危険人物だと判断している。
 胸中に恐れが渦巻く。この願いを奪われるかもしれない――そんな恐れが。
 フェイトは俯いている為、シンのそんな視線には気付かない。
 呟く。

「……だから、どうして戦うの、かって。」
「……」
 
 その言葉に込められた感情は――どこにでもよくある感情だ。
 よく聞く感情とも言える。

「……同情、ですか。」

 微か、落胆するような呟き。
 安っぽい同情――それが少しだけ癇に障り、そして“安堵”する。目の前の女性が、“邪魔者”にならないことに。
 フェイトがその声を聞いて、顔を上げた――表情は、少しだけ茫然と。
 彼女はシンが同情を受けたことに激昂しているとでも感じたのかもしれない。
 そんな勘違いをしている顔。

「ち、違う、私は……!!」

 だが、フェイトはそんなシンを見ると慌てて彼に向かって、手を振って否定する。
 心中では自己嫌悪の嵐だ。
 そんなことを言うつもりじゃなかったのに。
 そんな気持ちはまるで無いのに。
 フェイト・T・ハラオウンにとってシン・アスカとは取りも直さず劇物なのだ。
 思考を淀ませ、感情を歪ませ、心を掻き乱す。
 だから、このようになってしまう。言わなくていいことを言ってしまい、言うべきことを言えない。

(どうして、私は……)

 そんな風に落ち込むフェイトを見て――シンは軽く息を吐いて、訓練を一旦止めた。
 そして、一度背伸びして、床に寝そべり、空を見上げる。

 見上げた空は晴れ晴れとして星の輝きがとても綺麗な――彼にとって、何よりも身近だったはずの星々を思い出させる。
 思い出したくも無い世界のことを。
 もう、切り離されて、思い出すことすら無くなっている世界のことを。
 シンが口を開いた。
 至極穏やかな表情で――月夜の湖面のように穏やかで静かな表情だった。

「――力が欲しいんです。」

 けれど、吐き出された言葉はそんな表情にまるで似合わない殺伐としたモノ。

「……」

 静かな彼の言葉。はそれを静かに聞いている――聞くしかなかった。
 瞳が朱く濁り出す。
 穏やかな表情とは裏腹に、瞳を濁らせる欲望の渦。
 穏やかな微笑みを、凄絶な薄笑いへと変貌させていく。

「力があれば何でも守れるから。今思えば――多分やりたかったのはそんなことだった。」

 彼の瞳に現れ出した虚無。それは朝、はやてに向けた虚無そのもの。
 知らず、彼はそれを表に現していた――童話の中の怪物が、誰かの皮を脱ぐようにして。

「ただ守りたいだけだったんです。俺は……誰も守れなかったから。」

 語るごとに朱い瞳の濁りが強くなる。

「けど、元の世界じゃそんなこともさせてもらえなかった。」

 呟きは止まらない。楽しそうに、謡うように、そして嘆くように。

「皆、世界の平和だの、世界の未来だの小難しいことばっかり言って、目の前で苦しんでる誰かを守ろうともしなかった――最後は多分俺もそうなってた。」

 虚無に、悔恨が混じる。
 見上げた空に手を伸ばす。その行動に意味は無い。ただ、何となくだろう。
 雲に隠れていた月が現れた。
 ふと、彼は振り向いた。黙り込んでいた彼女――フェイト・T・ハラオウンが気になって。

「……」

 フェイト・T・ハラオウンはいつの間にか床の上に座り込んでいた。
 月の光で照らされた彼女はまさに女神もかくやと言うほどに美しく――けれど、その表情は暗い。
 恐らく彼女はシンのことを傷つけたとでも思っているのかもしれない。
 どうでもいいことだ、と苦笑する。
 
 ――そう、本当にそれはどうでもいいことだ。
 
 そう、心中で呟き、彼は彼女からは見えないように少しだけ苦笑する。
 この人が気にする必要なんて無い。
 使い潰してくれるだけで良いのに――そんな言葉を内に秘めて、彼は続けた。
 
「けど、ここはさせてくれる。力を振るっても誰にも迷惑はかからない。休息だって出来る。訓練だって出来る。しかも……殺すか殺さないかで迷わなくていい。だから此処は最高なんです。俺にとっては。」

 彼の瞳の朱は紛うことなく、虚無を示す。それは、彼女が昔見た忘れられないモノ。
 彼女の母――プレシア・テスタロッサと同じ虚無。取り戻せないモノを取り戻す為に自身を切り売りする破滅主義。
 浮かべる笑みは破滅を享受する死神そのもの。
 いずれ、落ちるであろう破滅すら厭わない死者の微笑みそのもの。

「……その為なら、死んでもいいの?そんなこと繰り返してれば……こんな無茶ずっと繰り返してたら死ぬんだよ?」

 座り込み、俯いたままフェイトはシンに尋ねる。
 けれど、シンの声はそんなフェイトとは対照的にあまりにも日常的過ぎた。まるで、散歩にでも行くような気軽さで。

「死ぬ気は無いです。死んだら守れないし。けど、まあ……死んだら死んだで仕方ないかなとは思ってますけど。戦ってる以上は、仕方ないことですから。」
「仕方ないって……そんな、簡単に。」
「まあ、仕方ないのは本当ですからね。……あ、もうこんな時間だ。」

 シンはそう言って立ち上がると一度大きく背伸びをして、振り返ると座り込んでいたフェイトに向かって手を伸ばした。

「行きましょう、フェイトさん。もう、遅い。」

 差し出されたその手を掴む――寸前、フェイトは呟いた。俯いたその表情は髪で隠れた彼からは見えなかった。

「……最後に聞かせて。」

 小さく、しかしはっきりと彼女は彼に向かって質問した。

「はい?」
「元の世界には、もう、戻りたくないの?」

 その質問を受けて――シン・アスカの瞳が変質した。
 暖かく柔和な瞳から、冷たい無機の瞳へと。
 元の世界――平和な世界。
 乱れない平和。その中で生きる自分――考えただけで吐き気がする。
 シンが呟く。
 声は低く、空気を掻き分けるような重さが籠められていた。

「……“守れない”世界に用はありません。あそこは俺のいる場所じゃない。」

 瞳に嘘は無い。彼には元の世界への未練など露ほども無かった。

「……そう。」

 シンの手を掴んだ。瞳の冷たさとは違って、暖かかった。
 その暖かさが余計に彼の孤独を強調しているようで――フェイト・T・ハラオウンは何故か悲しさを感じていた。
 どうして、目前の男はこんなにも、嬉しそうに“思い出(キズ)”を語るのだろうか、と。


 一人の男がいた。
 男の性は炎。近づく者を――自分自身ですら焼き切る、燃え盛る朱い炎。近づけば全てを焼き尽くす紅蓮の火。
 
 二人の女がいた。
 一人の女は人間。そしてもう一人は人間ではなく。

 人間の女は男を抱きしめる。
 自分自身ですら焼き尽くさんとする男を抱き締め、共に歩いていこうと支えていこうと、“勝手に”決意をした。
 例え、その先に自分自身すら焼き尽くされることになろうとも。
 それが女の願いだから。彼女は人間であるが故に傷つき易く、そして強く、だからこそ“勝手”であり――ソレゆえに美しかった。

 一人の女は人間ではなかった。内実が、では無い。その在り方が。
 人間ではないその女は何なのか――それは言わば女神。人間の善性を信じ抜く無垢なる善。それを女神と言わず何と言おう?
 女神は男の前で立ち竦む。彼女は女神であるが故にその炎に焼かれるようなことは無い。けれど、女神は立ち竦む。
 優しく微笑むだけだった女神は、優しく抱き締めることを知らないから。伸ばそうとした手は動かない。

 ――女神は今も迷い続ける。

 その手はいつ動くのか。それは、誰にも分からない。そして、彼に焦がれる理由も分からない。
 鎖は強く、今も彼女を縛り付ける。
 強く、強く。
 けれど、これは運命の恋。
 女神が恋焦がれるのは、化け物だと、むかしむかし、から決まっているのだから。




[18692] 12.接触と運命と Other side
Name: spam◆93e659da ID:cc4806a2
Date: 2010/05/14 01:00
 これはシンが八神はやてに休めと言われ、街中を歩いていた時の話である。
 昼飯に入った牛丼屋でのことだった。
 
「豚丼特盛。つゆだくで、ギョクと味噌汁も。」
 
 堂に入った注文っぷり。まるでこの店のことは誰よりも知っているといわんばかりである。
 
 牛丼を持てはやすのが現在の世界だ。
 豚丼はそれの代替品でしかない。豚は牛に敵わない。そういうことなのかもしれない。
 
 だが、シンはこの豚丼というものがコトの外好きだった。
 別段料理を作れない訳でもなければ、味覚が変な訳でもない。元々、食事にそれほどこだわりがないシン・アスカである。
 
 とにかく量があればそれでいい。安ければ言うことは無い。その上速ければ最高だ。
 安くて、速くて、多量。
 
 シンにとってこの豚丼や牛丼というファーストフードは非常に性にあったモノだった。
 その上であえて豚丼を選んだ理由は味だった。
 
 ショウガの聞いた豚肉と白米の生み出すハーモニー。
 そこに卵をかき混ぜて投入し、仕上げに紅ショウガと七味をこれでもかというほどにかけて食す。
 聞かれない限りは誰にも言わないが、この一時が何よりも彼にとって至福の一時であった。
 故に特盛。特盛以外は食べることは無い。
 
 6課の食堂で食べることの出来るメニューは確かに美味しい。
 美味しいのだが、シンには洒落た感じがしてとっつき難いのだ。
 ラザニアと呼べばいいのにラザーニャと呼ぶような、パスタと言えば良いのにスパゲッティーニと言うような、そういった洒落すぎた感じがあった。
 勿論嫌いな訳でも食べない訳でもない。
 栄養バランスという点で言えばあちらが確実に上なのも分かる。
 けれど、シンはこちらの方が好きだった。飾りようの無いファーストフードの方が好きだった。

「はい、豚丼特盛つゆだくです。」

 注文してから数分と経たず彼の前に現われた豚丼。味噌汁も直ぐに用意され、卵は横の小鉢に添えられている。
 この速さは魅力である。待ち時間が無い。つまり、空腹を味わうことも無い。タイムイズマネー。素晴らしい。

「さて、七味と紅ショウガは……なんだ、アイツ。」

 卵を投入し、これから七味と紅ショウガで仕上げようと思ったシン。その視線の先にいるのは何ともまあ怪しげな男であった。
 サングラスをかけた白衣の男。髪の色は紫。瞳はサングラスで隠れて見えない。白衣の下のスーツは高級そうだ。
 曲がり間違ってもこんなところで昼食をとるようなそんな人間の風体ではなかった。
 怪しいといえばこれ以上無いほどに怪しい。今すぐ警察に突き出しても誰も文句は言わない。そんな気さえしてくる。
 
「……まあ、いいか。」

 だが、今のシンは休暇である。
 八神はやてに休めと言われたのだ。故に仕方ない。

(放っておこう。)

 実に懸命な判断である。
 だが、運命は彼にその賢明な判断を許しはしなかった。

「いつもので。」
「はい、牛丼特盛トリプルのセットですね?」
「今日はそれに卵をつけてもらおうか。」
「分かりました。」

 トリプル。シンは聞いたことの無い、その単語に内心首を傾げた。
 冷静に考えればトリプルと言えば、漬物、味噌汁、サラダ、のことだろう。

(結構食べるんだな。)

 見た目は優男だと言うのに、その胃袋は屈強なのかもしれない。痩せの大食い、という奴だろうか。
 そんな益体も無いことを考えながらシンは目前の豚丼に箸を伸ばす。
 汁を吸った白米の上に豚肉を乗せるようにして掴む。口に運ぶ――瞬間、ドンと言う音がして、テーブルが震えた。

 思わず、そちらを振り向く。
 そこには信じられない光景が広がっていた。
 メガ盛と言うものがある。特盛の更に上位。メニューにあるメニューの中では最上位の量と値段を誇る王である。
 だが、その優男の前に現われたメニューはそんなものではなかった。
 牛丼特盛トリプルのセット。
 トリプルセットではない――そこにあったのはその名に恥じない巨大な牛丼であった。そう、特盛トリプル(3倍)の名前通りに。

「……馬鹿な。」

 そんな巨大な牛丼を前に「ふんふんふーん♪」と鼻歌さえ歌いながら、卵を投入し、紅ショウガをこれでもかと言うほどにかけ――その一瞬で紅ショウガの入っていた箱は空になっていた――七味を親の敵の如くかける。
 呟き、絶句するシン。
 あの威容に対して自分の食するこの豚丼は何と小さいことか、と。みすぼらしささえ感じてしまうほどに。
 悔しげに歯を噛み締めるシン――優男と目が合った。
 優男は、シンを見る。その下のメニューを見る。
 豚丼特盛。

「はっ」

 鼻で笑われた――嘲笑。いつもなら無視するのにその時は無視できなかった。

(あいつ……!!)
「……すいません。俺にもあれと同じサイズの豚丼ください。ギョクつきで。」
「お、お客様追加でございますか?」
「追加です。」

 数分後。威容が現われた。

「……ぬふう」

 おかしな台詞が口から洩れた。
 シンは今、トリプルが来るまで数分で当初の特盛を平らげた。
 その速さは非凡である。だが、その非凡もこの威容の前では霞むのみ。
 真向かいを見る――あの優男は優雅な箸使いで牛丼を食している。何せ箸の先しか汚していないのだ。
 何と言うテーブルマナー。何と言う礼儀使い。

 ――それがやけにシンを苛立たせ癇に障らせた。

「上等だ。」

 一人、呟くとシンは目前の豚丼特盛トリプル(日本円にして1800円相当)に箸を伸ばした。
 ――豚丼を舐めるな。
 当初の目的とは既にズレていることに気付かないまま。


「……中々やるじゃないか。」
「……アンタこそな。」

 そこは公園。
 二人の男はそこに設置されてあるベンチにもたれるようにして座り、天を仰いでいた。
 両者共に息が荒い――単純に食いすぎだった。
 シンとサングラスの男の期せずして始まった大食い対決――それは傍から見た者にとっては正に鬼気迫るものであった。
 食う。
 食う。
 食う。
 相手を見る――ニヤリと笑うサングラスの男。
 おかわり――驚愕するサングラス/ニヤリと笑い返す――おかわりの声。再び驚愕。
 終わらない円舞曲の如く続くお代わり合戦――正直、食いすぎで休暇言い渡された自分がどうして、わざわざ大食いをしているのか良く分からない――思考を遮断。考えるな。考えればその瞬間、全てが終わる。
 バーストアウト――嘔吐(リバース)を意思の力を総動員して押さえつける。
 抑圧する食道。食に対する暴虐に等しい――味が分からなくなってくる。
 旨いのか旨くないのか。食っていることすら曖昧になる意識。
 胃の許容量を超える内容物――それでも豚丼は旨い。その一心を頼りに口に運ぶ。食べる。流し込む。
 霞む意識――狭窄する視野。
 それでも食べ続け、二人は2杯目のトリプルを食べ終えた時点で代金を払いその場を離れた。
 睨み合おうとし、そんな気力などどこにも残っていないことに気づき、それでも歩き続け、此処に座ることになった。
 ちなみに冒頭の台詞までは一切喋っていない。
 どちらも先に口を開いた方が負けだ、などと言う訳の分からない衝動に支配されていたからだ――結局のところサングラスの男が先に折れた訳だが。
 男がシンに向かって呟いた。

「キミ、名前はなんと言う?」
「……シン・アスカだ。そっちは?」
「……J。ドクターJとでも呼んでくれたまえ。」
「アンタ、それ絶対本名じゃないだろう。」

 サングラスの男――ドクターJなどとふざけた名前を名乗った男はシンの咎めるような台詞に苦笑する。

「色々と事情があってね。そう、深く聞くのは野暮じゃないかね?」
「……まあ、いいさ。」

 そう言って、黙り込むシン。別に深く聞こうとも思わなかい。
 言いたくないならそれで構わないし、自分も身分を偽って話をするつもりなのだからお互い様だろう。
 名前を名乗らないくらいは別にどうでもいいこと――確かに野暮かもしれない。

「シン・アスカ、と言ったかね?」
「……ああ、何だよドクターJ……なあ、言いにくいからJでいいか?」
「別に構わないが、多分そっちの方が恥ずかしいと思うが?」

 一瞬、沈黙するシン――Jと呼ぶ自分を思い浮かべる。
 何だろう、呼び合うだけで生まれるこの何とも言えない恥ずかしさは。

「……やっぱりドクターでいいか?」
「むしろ、普通はそう呼ぶと思うんだが……思わずキミは羞恥プレイが好きなのかと勘ぐってしまったよ。」
「なんで羞恥プレイに俺が走らなきゃならないんだよ!どんなマゾなんだ、俺は!?」
「違うのか。まあ、それはいいとして。」

 しれっと流すドクターJ。シンは唇を引くつかせながら視線をそちらに向ける。

「……あー、もう、それでなんだよ?」
「キミ、この後暇かね?」

 ドクターJは顔だけシンに向けてそう呟いた。正直、腹が痛くて動きたくないのだろう。

「……暇、ではあるな。」

 時刻は2時。この後の予定は白紙。元々今日は休暇ではないのだから当然である。
 仮に休日だとしても本来なら黙々と訓練を繰り返しているであろうシンにとって休日の予定など白紙以外在り得ない。
 と言うかそういう暇つぶし――遊びそのものをよく知らない。
 ミッドチルダと言う異世界に来て以来やっていることと言えば訓練と仕事くらいである。
 遊びどころか遊ぶ場所すら知らないと言う有り様である。
 ドクターJはシンのその返答に気を良くしたのか、ニヤリと彼に笑いかけた。

「……なら付き合わないか?」
「付き合う?」
「そうだ。どうせ暇なんだろう?だったら私の散策に付き合わないか、と、そういうことだ。」
「俺も殆どこの街知らないから案内とか出来ないぞ。」
「構わない。私が案内しよう――私には行きたいところが幾つかあるのでね。」
「……俺と、か?」

 散策――クラナガンを見て回ると言うことだろうか。
 それはいい。だが、どうして自分を、とシンは思った。
 今日会ったばかりの見ず知らずの人間。それもさっきまで大食い勝負を演じていたような相手だ。
 確かに親近感は沸くだろう――けど、それだけだ。接点の無い人間と街を歩いたところで面白いはずもない。

「キミとだね。ただ私に付いて来ればいいだけだ。暇潰しにもなるだろうし、街を知る事も出来ると思うが……どうかな?」
「……まあ、どうせ暇だし、いいさ。付いてくよ。」

 上を見上げた体勢のままシンはそう呟いた。ドクターが嬉しそうに立ち上がる――どうやら胃の調子は元に戻ったらしい。

「では、さっさと行かないか?ここでこうしていても時間を無駄にするだけだ。」
「……だな。」

 そう言ってシンも立ち上がる。

「……で、どこ行くんだよ?」
「楽しみにしておくことだとだけ言っておくよ、シン・アスカ君。」
「どんだけ胡散臭いんだよ、それ。」

 さもありなん。見た目も口調もやる事も、その全てが胡散臭い。
 全てに嘘を感じる、という訳ではない。
 それはシンがこれまで感じたことの無い感覚――享楽という類の感情だ。
 目に映るものを楽しむ。
 純粋な欲望の発露の感情。シン・アスカが決して得ることのなかった感情。理由の無い愉悦そのもの。
 そんなシンにとって理解不能で不可思議な感情を前に胡散臭さを感じ取り――その胡散臭さがそれほど不快ではないことに気付く。
 目前にいるのは礼儀正しく、慇懃無礼で、高圧的で、上から目線で――はっきり言ってシンにとって最も嫌悪に類する人種だ。
 けれど、シンは目前の男にどこか懐かしさにも似たモノを感じていた。
 極端なほどに胡散臭いと言うのに、どこかその胡散臭さを好んでしまう自分がいる。不思議な、感覚だった。

「……何を呆けている?アスカ君、さっさと行くぞ。それとも……ホントに羞恥プレイが好きなのか?」

 しつこい。しかもその羞恥プレイという言葉が気に入ったのか、一人でブツブツと呟いている。

「羞恥プレイを周知する……くっ、くくくくく!!」

 終いにはそんなヤバイレベルの駄洒落を呟きながら笑い出して始めている。
 周りにいた人間は物凄い勢いで引いている。ドン引きである。
 しかもドクターの視線は自分に向いているから、自分も同じに思われているのかもしれない。
 マユと同じ年くらいの子供がこちらを見つめている――母親に呟いていた。

「お母さん、羞恥プレイって何?」
「……み、見ちゃ駄目よ、ハルカ。ああいうのはいないものと思って無視するのが世の常なのよ?」

 泣きたくなった。いつの間にか羞恥プレイの相方だと思われているらしい。

「……あー、凄い帰りたくなってきた。」
「何をしているんだ、アスカ君!!そんなに羞恥プレイを周知……く、くくくく、これはやばいぞ!」
「……お前の頭がやばいと思うぞ。」

 そう言ってシンはまだ少し張っている腹を無視して走り出す。
 これ以上、ドクターが馬鹿なことを言い出す前にこの場を離れよう。そう思って。

 ――それと羞恥プレイの相方だと思われるのは本当に嫌だった。

 何かうんざりして疲れたような気分を味わいながら、シンは笑い続けるドクターに向かって走っていった。
 太陽の光を浴びる緑がやけに綺麗だった。


 ドクターJ。サングラスをかけた優男。
 その男がシンを連れまわした場所は、どうと言うこともない場所――彼の持つ胡散臭い雰囲気にそぐわない美しい場所だった。

 一つ目はクラナガンの中でも有数の公園。
 新緑と太陽が織り成す風景。
 子供たちが楽しく遊ぶ光景――自分にはまるでそぐわない場所。
 清々しい空気。綺麗な世界――居心地の悪い世界。それは多分自分の錯覚なのだろうけど。

 二つ目は単なる海辺。
 沈み始めた太陽と海の織り成す光景。
 美しいと言う言葉以外思いつかないほどにの美しさ。
 陳腐な言葉――けれど、それ以外に当てはまるものがないほどの美しさ。
 どこにでもある海辺が豹変する瞬間。

 そして三つ目は立ち並ぶビルの屋上――そこから見える光景だった。
 日は既に落ち、時刻は7時を過ぎている。
 感じていた胃もたれはもう無い。
 高層ビルの屋上だからか、風が強い――気持ちよかった。

 その場所から下を見る。ネオンが映し出す世界――裏も表も、清濁呑んだからこそ生まれる光景。
 その灯りの下では幾つもの挫折と栄光が立ち並ぶ。
 都市部の中心――それもミッドチルダの首都という現実のど真ん中とも呼べる場所。なのに、その光景はひどく幻想的で美しかった。
 眼下を見れば人々が思い思いの日々を謳歌している。道行く車。喧騒とざわめきが支配する眠らない都市。

「……綺麗なもんだな。」

 ぼそり、と呟く。
 見慣れていたと思っていた光景――けれど、思えば初めて見たような気さえする光景。
 それを見て、少しだけ寂しさを感じた――そこに入り込もうとも思わない自分自身が少しだけ寂しくて。

 この光景はどこにでもあるものだ。
 月光にこそ映える桜。潮の香り漂う海。夜空に浮かぶ朧月。深々と降り積もる雪。
 何処にでもある光景――世界を渡り歩いたシン・アスカならばいつだって見れたはずの光景。けれど、思い浮かぶものはいつだって“赤”だった。
 朱い世界。炎で燃える世界。誰かが泣き叫ぶ世界――自分が憎んだ世界。

「綺麗なものさ……愚かな人々はこうして日々の疲れを癒し、そしてまた日々に埋没していく。これはそうやって癒し、癒される人々の生み出す輝きなんだ。」

 穏やかにドクターは言う。その言い様は男の風体や雰囲気には到底そぐわないモノだった。
 シンはその横顔を見て思わず口を開いた。

「……今日は色々連れてってくれたけど、あれ、全部アンタの好きなところなのか?」
「ふむ……そうだな、その通りだ。私も最近知ったのでね。思っていたよりも世界というのは美しいものだと。」

 美しい。確かに美しいものだろう。
 綺麗な風景が人の心を和ませるのは当然のことだ。そう、告げるとドクターは、にやりと笑い、告げた。

「落第だな。まったくもって違うさ。」
「……風景が綺麗って言いたいんじゃないのか?」
「世界とは、そこに生きる人々をも含めたモノを言う――くだらない人生、くだらない生活、くだらない生活に追われて生きるくだらない人々。」

 ドクターはそこでシンを見た。サングラスの位置を直す。呟いた。

「だが、そのくだらなさが何よりも美しい。持たざる者こそが世界を動かしている。その事実が何よりも美しい――そう思わないか?」
「かもな。」

 静かに呟いた。
 彼はこう言いたいのだろう。世の中はくだらない。けれど、そのくだらなさこそが何よりも美しい。得がたい宝物なのだと。

 それは、自分には理解出来ない事柄だった。決して理解できない――多分、他の人間は理解できるのだろうが。
 目前の男の言い方に従って言えばシンにとって世界とは守るべき対象でしかない。

 シン・アスカの望みは守ること。全てを――昔出来なかったヒーローごっこをいつまでもやり続けることでしかない。

 守ることで得られる充足感も、守れないことで得る焦燥も全て、ソレが発端。
 ヒーロー。そんな映画や漫画、御伽噺の中にしか存在しない荒唐無稽の存在になりたいだけ。

 誰がどう生きているかなどどうだっていいのだ。生きていれば――生命活動を行っていればそれで自分は満足できる。
 本当のヒーローのようになど出来はしない。
 目に映る人々を全て“救う”ことなど、自分には不可能だ。
 だから、“守る”。全てを。
 それが本当の願いから零れ落ちた薄汚い妥協の願いでしかないと知っていて尚突き通す。

 ヒーローならそんなことはしない。
 きっと妥協せずに自身の願いにまい進する――妥協して突き進むしかない自分のやっていることは、だからヒーローごっこに過ぎないのだ。
 その望みは決して外側には向かない。いつまでもいつまでも内面に沈んで行くだけの空想に過ぎない――そしていつか潰える、それだけの望みだ。

 目前の男――ドクターJの言っていることはソレとは違う。彼の目は外へと向いている。
 ドクターが話を続ける。楽しそうに。

「私は昔から思索の末に思いついたことを実践してきた。色んなモノを生み出した。」
 
 ドクターの口調に哀愁が混じる――悔恨ではない。

「それがつい最近は実践できなくなってしまってね。それはさぞや面白くないことが始まると思っていたのだが……これはこれで面白いことに気付いたんだよ。」

 うなずきを繰り返す。そして空を見上げる――サングラスの横から映る瞳の色は金色。口調にはそぐわない、ギラギラとした欲望を備えた瞳。

「ただ、静かに思索に耽る日々。実践も実証も必要ない。考えをはき捨てるだけの自己満足だ……だが、その自己満足は殊の外に心地よいものだった。それに気付いた時、私は思った。これまでの私の人生とはなんと狭窄で狭い道を行っていたのかと。その道を後悔するつもりも無ければやり直そうとも思わない。だが、寄り道をしなさ過ぎていたな、とね。」
「寄り道?」
「その通りだ、アスカ君。私のように欲深い人間はもっと寄り道を楽しむべきだった。でなくば、このくだらなくも美しい世界を単なる箱庭程度にしか思えなくなる。それはあまりにも勿体無いと思わないか?」

 勿体無い――何ともそれは男にぴったりの表現で、思わず笑い出してしまう。

「勿体無い、か……確かにそうかもな。」
「だから、私は選んだ――この世界を守ろうとね。」

 男の声色が変わる。その声音に誰にも穢されない無垢なる愉悦を忍ばせて。

「この美しい世界を滅ぼさせるのは何とも度し難いことだ。この美しい世界は私にとって最高の遊び場だ。そして最高の“居場所”なのだ。それが訳も分からず蹂躙されるなど我慢出来るはずがない――例え神であろうと私から私のモノを“奪う”など許しはしない。私から奪っていいのは私だけだ。私以外の誰にもそんな権利は認めない。」
「世界を、守る?」
「そうだ。まあ、あくまで仮定の話だが……キミはこの世界がある日、突然滅びたらどう思う?」
「……想像が付かないな。」
「私はそんな滅びは我慢ならない。自分のやった結果として滅びるならともかく、知らぬ間に滅びて、最後は祈りを捧げて終わりを待つなど冗談ではないさ。」

 男がこちらを振り向いた。

「この世界は私のモノだ。私が生まれた、私にとっての遊び場だ。私が滅ぼすならともかく何者にも滅ぼさせる気は無い。」
「……もし、その為に誰かを犠牲にする必要があったら、どうするんだ?」

 シンが呟いた。鋭くドクターJを見つめた。こちらが真剣なコトを知らす為に。

 ――世界を守るなどという大それたことをするならば、それなりの代償も必要だ。

 今、目前の男は“そこに生きる人々を含めた世界”を守ると言った。
 それは自分よりも余程馬鹿げた願いだ。
 奇跡でも起こさない限り絶対に出来ない世迷言なのだ、それは。
 だから興味があった。
 この男にはそれに対する考えがあるのか、と。
 自分では思いつかなかった、自分では誰かに縋るしかなかったその願いを叶えるための対策――そんなモノが存在するのなら、聞いてみたい。そう思ったのだ。
 だが、ドクターJの返答は至って簡潔だった。

「犠牲にするさ。当然だろう?」

 まるで、当然のことのようにドクターは言った。
 呆気に取られるシン。だが、幾ばくかの後、シンは苦笑して頷いた。

「なるほど。確かにアンタらしいな、それは。」

 今日、初めて会ったばかりの人間に言う言葉ではない――そう、思いつつシンはそう言った。
 男のことはよく知らない。なのに、何故か旧知の友のように思ってしまって。
 言葉の裏にある思い。それは、羨ましいという気持ちだった。
 この男はそこに生きる人々が死んだとしても別に構わないのだろう――世界という共同体を維持するそれだけの人間がいるなら、それでいい、と。

 選択の恐怖――選ぶことで生まれる何かを捨てると言う結果。 
 シンはそれが怖い。もう何も選びたくない。何も考えたくは無い。その結果として今の彼の行動指針――守ると言うことが生まれた。
 だが、目前の男は違う。男の前にそういった恐怖など全く無い――否、それどころか片方を選ぶ事が片方を捨てるという事実さえ無いだろう。
 彼にとって選択の果てあるのは恐怖ではなく、あくまで未来でしかないのだ。
 男の中にあるのはシンのように小難しい事情ではない。
 単純に自分の邪魔をする者は許さない。ただ、それだけ。
 そんなシンプルな答えのみ。
 それが、どうしても羨ましく思えて――選べない自分とはあまりにも対照的過ぎて。

 シン・アスカは過程を求めた。故に選べない。過程を求めるが故に結果には届かないから。
 ドクターJは結果だけを求めている。故に、求めた瞬間、既に選んでいるのだ。

 選べない自分と選ぶしかないドクターJ。
 同じカードの表と裏のように決して出会うことは無い紙一重。
 黙り込むシンを見てドクターがシンに向かって口を開く。神妙な顔つきで。

「ふん……私は、私としてしか生きられない。そういうことだ。……キミもそうだろう?」

 自分は――確かに自分もそうなのかもしれない。
 生き方は変えられない。例え、誰に何を言われようとも、自分は自分として生きて、そして死んでいくしかないのだから。

「……まあな。」

 そう、呟き、頷いた。
 その肯定に満足したのか、男――ドクターJが懐電話が鳴り出した。

「おっと、失礼。……なんだ、ウーノかね? ああ、今から行こうと思っているところだ。準備は……そうか、分かった。……ああ、頼むよ。」
「ドクター?」
「アスカ君、キミ、この後暇だね?」
「はい?」

 訳も分からず質問に質問を返すシン。ドクターは、くい、とコップで何かを飲む動作をして、ニヤリと笑って呟いた。

「いい店を知っているんだが……呑みに行かないか?」


 歓楽街の中にある古びた住宅街――ネオンの光ではなく古びた電灯が辺りを照らし出す。
 周囲を歩く人々は皆、見ただけでそれと分かるような高級そうなスーツを着ている。
 その中を歩く明らかに場違いな男二人。
 サングラスの優男。高級そうな紫のスーツとその上に羽織った白衣。ドクターJ。
 ジーパンとTシャツ。そのまま草野球でも出来そうなほどの軽装。シン・アスカ。
 二人はある店の前で立ち止まり、シンは一人呆然としていた。

「……やっぱり俺帰る。」
「待てい。」

 振り返って脱兎の如く逃げようとするシン。
 そのシンの腕をを神速の貫手で捕らえるドクターJ。

「い、いや、だ、俺は帰る……だ、大体呑みに行くって言ったら、普通は、居酒屋だろう!?なんで、こんなところに来てるんだよ!!」

 さもありなん。あまりにも自分に場違いな雰囲気をびしばし感じるのだ。行きたくないに決まってる。
 周りを見れば香水くさい女性が男性と腕を組んで歩いている――所謂“同伴”だ。

(だ、大体、ここどこだよ!!何でミッドチルダにこんなところがあるんだよ!?)

 こういう空気は正直苦手だった。昔、無理矢理連れていかれたキャバクラを思い出す。
 煙草の匂い、酒の匂い、香水の匂い。いつまで居ても慣れない空気。そこにいた女性すら困ってしまうほどに喋れない自分。
 シンはそういった場の雰囲気に溶け込めないのだ。
 女性に慣れていない彼にとって、そういう「お姉ちゃんと酒を飲む場」そのものが駄目だった。辛いというよりも苦手だった。

「まあ、いいじゃないか、アスカ君。興味がない訳じゃないんだろう?」

 シンの腕を掴み、中に連れて行こうとするドクターJ。

「い、嫌だ、帰る……俺はかえ……」

 じりじりとドクターJに引っ張られ、シンはそれを本気で振り解こうとして解けないでいた。
 意外なほどにドクターJの力が強いのだ。見た目は単なる優男にしか見えないというのに。
 「ふんぬぎぃ」と言葉で形容するには難しいうめき声を上げて、シンは渾身の力を込めて、その腕を振り払うことに集中する。
 大体、金も無いのだ。とてもじゃないが、こんな高級そうな店で酒を飲んだらオケラだ。無一文だ。帰りのタクシー代だって無くなるに決まっている。
 下手したら騙される。財布ごと取られて、裸一貫で機動6課に帰る羽目になるかもしれない。

(じょ、冗談じゃない、ボラれてたまるか……!!)

 別にこういう店は、決してボラれるような店ばかりではないのだが、慣れていないシンにとってはどれも同じだ。
 スナック怖い。キャバクラ怖い。女は怖い。女は魔物だ。
 そう言って遊びはほどほどにしろと言っていた上官を思い出す。
 あれからだ。彼がPCゲームにハマっていったのは。そんな馬鹿なコトを思い出す――走馬灯のように。

(ノオオオオオオオ!!!出てくんな、ふくちょおおおおおお!!!!)

 発狂寸前のシン―――そこに声がかかった。超至近距離から。

「――おいでやす」

 息を吹きかけられるような距離。いや、実際耳に息が吹きかけられた。背筋が粟立った。

「ひゃうっ!?」
「……なんだね、その生娘が股を開く時のような声は。」

 ドクターJがシンを胡散臭そうな目で見つめる。

「お前、例えがいちいち卑猥なんだよ!!」

 いきり立つシン。流石に生娘扱いされては黙って居られない――だが、後方から彼らにかかった声が二人の諍いを止めた。

「ドクター、何馬鹿なこと言うてはるのん?お連れさん困ってるやないの。」

 その声の方向に振り向く二人――シンは一瞬、息を呑んだ。
 それは着物と言うものを着た女性だった。
 シンも言葉だけは知っている。東洋の神秘“キモノ”。
 自分たちとはまるで違うその出で立ち――白く塗られた顔。紅を引かれた唇。起伏の激しい肉体――出るところは出て、引っ込むべきところは出る。
 本来、着物を着た場合覆い隠すようになる為に、胸のサイズなどは分からなくなるものだ。
 だが、その覆いを突き破るかの如く彼女の胸は着物を押し上げていた――それは正に弾頭のような錯覚すら覚えかねない姿である。
 着物と言う名の艶姿。その覆いで尚隠しきれない肢体の妙。
 隠すはずの服装が、より内面を艶やかに魅せているのだ。ごくり、と唾を飲み込む――着物の中から感じられる色気に中てられて。

「ドクター、こちらはお連れはんでよろしいん?」
「ああ、ドゥーエ。その通りだ。そこで生娘みたいにビビってる子供を連れてきたのだよ。全く……困ったものだ。」

 肩を竦めて、やれやれと言った感じのドクターJの視線が突き刺さる。辛辣な物言い――その視線は酷く冷たい。

「だ、誰が生娘みたいな子供だ!!」
「キミだよ、アスカ君。」

 びしっとシンを指差すドクターJ。

「ぬ、うぐぐぐっぐぐぐぐぐ……!!」
「ふん、怖いのなら帰りたまえ。“たかが”舞妓遊び如きに恐れを成すとはキミはそれでも男か?ちゃんとついているのか?」

 そう言ってシンの股間をうすら笑いを浮かべながら睨み付けるドクターJ。
 シンの脳裏で音がした――カチン、と言う音。細くなる視線。噛み締めた奥歯。
 “ついているのか”――男にとって最も看過出来ない暴言。しかも股間に向かって楽しげに喋るとはどういう了見だ。

「……上等だ。」

 底冷えする声。シンはドクターの手を放るようにして振り解く――その手には既に力が入っていなかった。
 苛立たしげにシンが呟く。

「……マイコ遊びだかなんだか知らないけど、要は酒飲んでればいいんだろう?」
「そうだとも。旨い肴に舌鼓を打ちつつ、旨い酒を飲んで、野球拳をする。それが正しい舞妓遊びだ。」

 ちなみに一つだけ大間違いが入っている。
 別に野球拳は舞妓遊びの基本事項ではない。
 と言うか基本的に舞妓遊びはそういった類ではない――いや、確かにそういうのになる事もあるのかもしれないけど基本的には健全です。

「ああ、ヤキュウケンだろうと何だろうと、上等だ……やってやるさ……!!」

 そう血走った目をしたまま叫び、店の中に入っていくシン。
 その後ろでドクターJは笑っていた。唇を吊り上げた強欲の笑み――無限の欲望に相応しい微笑みを。


 店の中に入り、お座敷へ通されたシンが思ったこと。まず、やばい。次にどうしよう。最後は場違いすぎる。この三つだった。

「アスカはん、一献どうどすか?」

 独特のイントネーションで自分に話しかけるドゥーエと言う名のマイコ――舞妓と書くらしい。
 シンは中に入って酒を飲み出して初めてそれを知った。
 舞妓――第97管理外世界に舞い降りた奇跡。
 着物と化粧で身を包み、男を癒す天使たち。キャバ嬢とどこが違うのかと聞くとドクターJにはたかれた。思いっきり。
 ドクターが言うにはこうだ。「キミは馬鹿か!?お座敷遊びをキャバクラと一緒だと思ってどうする?ここは神聖なるお座敷――ニホンのキョウトやその他僅かな場所にだけ存在する天国だ。あんなどこにでもあるようなキャバクラと一緒にするなど恥を知るがいい……それが羞恥プレイの一環ならたいしたものだがね。」

 シンにはよく分からないがキャバクラとは雲泥の差があるほどに違うらしい。
 その後、羞恥プレイ羞恥プレイと薄ら笑いを浮かべながらブツブツ繰り返すドクターに本気でむかついたので取っ組み合いの喧嘩になりかけたが、ドゥーエに「喧嘩はあきまへんよ?」と注意されて、そこは抑えることになった。

 なんと言うか、シン自身知らぬ間にその場の雰囲気に飲まれていた。
 舞妓の醸し出す雰囲気――こう、癒しの雰囲気に。
 そうして、夜は更ける。二人が飲み出してから既に数時間。
 ドクターJとシン・アスカ。
 二人はまだまだ酔い潰れていなかった。


「……それで、私は思ったのだよ!世界は美しいとね!!……お、ドゥーエ、酒がきれてるじゃないか!?」

 都合、これで同じ話を15回目である。
 ドクターJはどうやら酒を飲むと同じ話を何回も繰り返して話し続ける癖があるらしい。
 正直、かなりうんざり気味だったりする。もう、ホントいいよ、コイツ。
 シンは殆ど無視して酒を飲み続ける。既に飲み明かした量は1升を楽に越える――それでケロリとしてる辺りかなりの酒豪である。

「あ、ほんまに?クアットロ、お酒のお代わり、もってきてくれへん?」
「わ、分かりましたわあ。」

 障子の向こうでどたどたと足音がする――恐らくクアットロと言う女性が酒を運んでこようと厨房に戻っていったのだろう。

「……時にドゥーエ、ウーノはどうしているのかね?」
「ウーノ姉さまとトーレは厨房で料理作ってはるから……・呼んできましょか?」
「うん?いや、構わんよ……しかし、アスカ君は見た目に似合わず強いねえ。」

 “コップ”になみなみと注がれている日本酒を一息に飲み干すシンを見ながら、ドクターが呟きながらお猪口を傾け一息で飲み干す。

「うーん、そうなのか?」

 喋りながらツマミの蒲鉾を口に運ぶ――旨い。ここまで呑んでみて思ったが、ここの酒も料理も相当に旨い。それこそ6課の食堂よりもはるかに。

「……そんな風に酒を浴びるように呑んで大丈夫な人間を強いと言わずに何と言うんだね?」
「失礼いたしますぅ……ドゥーエ姉さま、お酒ですわぁ。」

 語尾が伸びる口調と共に開く障子――そこから現れる白粉で白く染まった頬と紅い唇。
 手に持った盆にはお銚子が5本ほど立てられている。
 先ほど、酒を持ってくるように頼まれていたクアットロと言う女性なのだろう。

「おお、ようやく来たか。待ちわびていたよ、クアットロ。」

 ドクターがそろそろと手を伸ばす――だが、その手はお盆に乗せられたお銚子ではなくクアットロの太股へ向かっていく。
 そのドクターの手を、やんわりとした仕草で回避し、クアットロはテーブルの上に酒を並べならが苦笑を浮かべ、呟く。

「ドクター、酔いすぎじゃありませんことぉ?」
「おや、これは手厳しいな。」

 はははは、と笑いを上げるドクター。そのドクターに酒を注ぐクアットロ。
 あまりにも自然な二人の動作――それはまるで親子のような。年齢はそれほど離れてはいないように見える。だが、何故かシンはそう思った。
 ――もしかしたら、“そういう意味”での親子なのかもしれないが。
 そんなシンの思考を遮る声――同時に鼻腔をくすぐる香り。
 振り向けばドゥーエがお銚子を持ってそこにいた。

「アスカはん、どないです?」
「あ、すいません。」

 コップの中に残っている微量な酒を飲み干し、ドゥーエに向かってコップを突き出す。
 とくとくと注がれて行く酒を眺めながらドゥーエが呟く。

「アスカはんは……不思議な人やねえ。」
「へ?」
「ドクターとこんなに長く呑んでられる人なんてそういまへんえ?」
「……そう、なんですか?」
「皆、途中で帰ってしまわれるんどす。まあ、ああいう人やから反感買いやすい言うのもあるんやろけど。」

 何となくその風景が思い浮かぶ。
 自分はあまり気にならないが、確かにドクターJとの会話は疲れるのかもしれない。
 辛辣な口調かと思えば、気のいいオッサンのようでもあり、スケベなオッサンのようでもあり。
 千変万化し、一時足りとも同じなドクターはいない。
 面白い物があればそちらに赴き貪って楽しみ、飽きたら別の所に行く――簡単に言えば子供なのだ。
 だから、大人はついていけない。子供の遊びに大人が付き合えば疲れるのは道理である。
 もし、それについていける人間がいるとしたら、それは――同じく子供であると言うことになる。

(俺も子供だってことか。)

 思わず苦笑する。その結論が正しいものだったから。

「……アスカはんは……ドクターに似てはるようなとこ、あるんやろかもね。」
「かもしれませんね。俺は別に……そんな嫌じゃなかったし。」

 言葉にして、不思議に思った。
 嫌じゃない――こうやってドクターJと遊ぶことが。
 自分は、そういうコト全てを放り投げて守るだけで生きて行くつもりだった。それはこれからも変わらない。
 なら、どうして、こんな風に遊んでいるのに“焦らない”のだろうか?
 人生は有限だ。故に鍛えられる時間も有限だ。
 強く、誰よりも強くなって全てを守ると言う己の願いを叶える為にはこんな風に遊んでいる時間など無いのだ――なのに、何故。

「多分、俺もドクターも子供なんですよ。きっと。」

 理由は多分それだけ。
 自分とドクターJはズレることなく、同じなのだ。
 精神年齢が低いのか、それとも考え方が幼いのか。
 何かしら子供っぽい、のだろう。自分ではよく分からなかったけれど、ドクターJを見ているとそう思う。
 子供だから、大人と一緒にいられない。
 子供だから子供同士で遊ぼうとする。
 永遠の子供。ピーターパンシンドロームだったか、そんな言葉が書いてあった本を思い出した。

「子供……ふふ、子供はこんなところに遊びにはきまへんよ?ほんま、いやらしい子供やわあ。」

 言葉が耳元で流れる――ドキリとする。
 眼前、吐息が重なるような距離に彼女の顔があった。
 肩が当たる。意図して当てているのか、それともただ当たっただけなのか。
 どちらかは分からないが、その体温がシンの鼓動を早まらせる。
 体温が熱い――酒の火照りとは別の理由で。

「アスカはんの眼って、ほんまに綺麗やわあ。朱くて……ほんに綺麗。」

 穏やかな口調――心臓が早鐘を打つ。
 コップに注がれていた酒を一気に喉に流し込む。胃がかあっと熱くなる。
 早鐘は止まらない――当然だ。そんなものを流し込めば加速するだけだ。

「……ど、ドゥーエさん、ち、近いですから。」

 ドキドキする胸を無視して、言葉でドゥーエを遠ざけようとするシン。
 だが、ドゥーエはそんなシンの心情を知ってか知らずか――いや、知っているからこそ、より近づいてきた。

「こんなに赤うなって、ほんに可愛いお人。」

 吐息が前髪にかかる。いつの間にかドゥーエは更に近づいていた。
 ドクターに助けを呼ぼうと思って、周りを見る――既に居ない。クアットロと一緒に消えている。

(やっぱり、そういう関係か、お前らは!?)

 ――ドゥーエの左手がシンの胸元に伸びる。視線が絡み合う。
 奥底に何を秘めているかなどまるで見えない金色の瞳。それに紅い色が映り出す。

「……アスカはん。」

 まさかまさかの超展開。シンの心臓がオーバーヒート寸前まで回転数を上げていく。
 やばいやばい。何がやばいってこの展開はやばい。

(待て待て待て。)

 流される関係。溺れる関係。
 一体全体何が起こったのか、さっぱり分からないが、何故か“そういう”雰囲気が醸し出されている。

「え、い、いやいや、こ、この手は、な、何ですか・・どぅ、ドゥーエさ……ひやぁっ!!?」

 それこそ生娘のような声を出してシンが飛び上がる。
 飛び上がった理由は音だった。自分の胸元に忍ばせていたデバイス――そこからピピピと甲高い音がしている。
 着信音。シンはその音が何かを理解すると直ぐにデバイスを耳元に当てて、通話を開始する。

「は、はい、こちらシン・アス……」
『このドアホオオオオ!!!!!どこ、ほっつきあるいとるんや!!?消灯時間はとっくにすぎとるんやで!!?』

 耳を突き破るかと思うほどの轟音。八神はやての声だ。

「え……?」

 デバイスに表示されている時間を見る。時刻は既に1時半。消灯時間などとっくに過ぎている。

「ああああ!!!!」
『ああああやないわ、このアホンダラ!!!さっさと帰ってこんかい!!』

 そのまま怒号と共にガチン、と通話が終わる。

「……あ、あははは。」
「ふふふ……お帰りやねんね?」
「お、お帰りです。」
 ちょっとほっとしつつ、実はちょっとだけ残念なシンだった。

「さて、そろそろ“引き上げる”とするか。」

 からんころん、と足音を鳴らし――足元には下駄を履いている――振り返るドクターJ。
 シンを乗せたタクシーが曲がり角を曲がって消えていくのを見計らったように、ドゥーエが呟いた。

「……ドクター、今日は楽しそうだったわね。」

 ドゥーエの口調が変化している。先ほどの舞妓の喋り方ではない――どこか冷たさを感じさせる喋り方に。

「……さて、ね。羽鯨に餌として選ばれるような人間――それに興味が無いと言えば嘘になるがね。」

 呟いて、ドクターJがサングラスを外す。
 ――そこには異形の眼があった。およそ、人間には似つかわしくない色彩。金色と虹色のオッドアイ。

「……羽鯨(エヴィデンス)に魅入られた者、か。」

 言葉と共にドクターJ――ジェイル・スカリエッティの金色の左目と虹色の左眼が妖しく輝いた。
 二つの色彩の異なる瞳が空を見上げる――夜空には月が浮かんでいる。満月ではない――半月が。
 同じようにしてドゥーエも空を見上げた。その金色の瞳で。
 二人の瞳に映るのは同じく半月。
 だが、その心の水面に映るものは違う。

 ――片方は世界を救うと言う我侭の為に。もう片方は己の宿命に即した一つの願いの為に。

 静かな月夜。風が吹く。流れていく雲。
 そうして、どれだけの時が流れたのだろう。
 時間にして数分――もしかしたら何十分かもしれない。
 スカリエッティが呟く。

「……そういえば一ついいかね?」
「何かしら?」
「キミがいきなり迫るとはね。さては気に入ったのかい?あの朱い瞳の“異邦人”を。」
「……それこそ、さてね、だわ。」

 くすり、とドゥーエが笑い、着物をなびかせて、暖簾をくぐって店内に戻っていく。
 その艶やかな後姿を見ながらスカリエッティが強欲な微笑みを浮かべ、サングラスを再びかけ直す。

 ――からん、と足音を立てて、スカリエッティも店内に戻っていく。扉が閉まる。

 その瞬間、辺りから“音”が消えた。辺りに漂っていた喧騒が掻き消えた――まるで初めからそこに何も無かったかの如く。
 異常はそれだけに留まらない。
 光が、消えた。辺り一帯を照らし出していたネオンの光が。
 人が、いつの間にかいなくなっていた。喧騒が消えたのは当然だ。その元となる人間がいなくなったのだから。
 そして、最後に――建物が“崩れ始めた”。付近にあった建物全てが――「街」が崩れて行く。
 風化した砂山が風に運ばれて、崩れていくようにして、初めからそんな「街」など存在して居なかったかのように、さらさら、さらさらと、崩れていく
 「街」はその姿を紅く光る粒子へと姿を変え、闇に融け、そして消えていった。
 異変が始まって数分後。そこには歓楽街などどこにもない――あるのは月が照らし出す廃墟の群れだけだった。

 ――これは、ある一人の男の物語。



[18692] 13.運命と襲撃と(a)
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/14 01:00
 母は弱い人だった。
 失ったモノの大きさに耐え切れずに禁忌に手を染めた。

 友は強い人だった。
 見ず知らずの誰かの為に身を賭して戦った。

 友は強い人だった。
 苦しみ続けたはずなのにそれでも誰かの為に笑っていた。

 私は弱い人間だ。
 誰かを救うことで、自分の空白を埋めていた。それが私。迷うこと。悩むこと。それを繰り返し続ける。
 それも全部、含めてフェイト・T・ハラオウンなのだ、と。
 
 ――“守れない”世界に用はありません。あそこは俺のいる場所じゃない。

 不意に、切って捨てるように、そう断じた彼を思い出した。
 彼は、強くは無い人だ。決して、強くはない人。
 何かを守ると言う為だけに生きると言うのは即ち思考放棄に過ぎないのだから。

 けれど――その生き方は誰から見ても綺麗だった。
 綺麗で、綺麗で、触れることすら躊躇するほどに綺麗で――何より歪。

 それは太陽のような美しさではない。
 例えるならば、月の美しさ。いつか消える定めを享受するが故の輝き。
 死ぬ事は結果の一つであり、大事なのはその“過程”だと言い切るが故の輝き。
 大切なのは、どう“生きたか”。それ以外の全てのモノを雑多だと断じるその生き方。

 それは私には、決して出来ない生き方。
 今も、自分の生き方は間違っているんじゃないのか。ただの欺瞞でしかないかと疑い続ける自分には出来
 ない生き方だった。
 
 だから、私は彼を凄いと思った。
 彼の生き方には欺瞞など欠片も無いから。
 正しいとか間違いだとかはまるで関係なく、その生き方に自分の全てを躊躇いなく懸けることが出来る彼に欺瞞などあるはずがないのだ。

 届かないモノに手を伸ばし、届かないと知りながら近づく為に走り抜けるその生き方。
 分不相応だと知りながら、そんなものは関係ないと自分自身を張り続けるその生き方。
 その生き方を美しいと思った。間違いを恐れる自分には決して出来ないと思ったから。

 ――だから憧れた。魅せられた。彼のようになりたい。迷いを捨てて生きていたい、と痛切に思ったから。

 自分は、フェイト・T・ハラオウンは彼の朱い瞳からもう目が離せないのだ――。

「――イトさん!!フェイトさん!!」
「……シン、君?」

 そこは暗闇の中。恐らくは彼が灯したであろう魔力光の光が朱く世界を照らしていた。

「こ、こは……」
「……閉じ込められたみたいです。」

 そこは密室の中。そこは廃棄区画内に張り巡らされていた下水道跡。
 明かりなど無い暗闇。肌を刺すような冷気。

「私……生きてる、の。」

 フェイト・T・ハラオウン。
 シン・アスカ。
 二人は、今――いつ崩れるとも知れぬ密室の中に閉じ込められていた。


 その日、機動6課に出動命令が下された。場所はミッドチルダ東部エルセア地方の一角。
 ――あの空港火災が起きた場所である。

「……シンさん、緊張してませんか?」

 シンの傍らに佇むエリオが尋ねた。

「ああ、大丈夫だ。」

 呟きと共に小さく頷くシン。
 その顔に浮かぶのは“あの儚げな笑顔”。それを見て、エリオは安心する。
 実際、心配をしていたのだ。声を掛けるまでのシンは瞳を閉じて俯き頭を垂れ――それは
どこか祈りを捧げるように見えていたからだ。
 エリオの声を切っ掛けに皆が口を開く。

「大丈夫だよ、シン君強いし、もしもの時は皆がいるんだから!」

 スバル・ナカジマが。

「そうそう。あ、でもスバルみたいに調子に乗らないでよね?フォローが大変なんだから。」

 ティアナ・ランスターが。

「そうです!シンさんがミスしたって私達でフォローします!」

 キャロ・ル・ルシエが。

「私達もいるぞ。」
「あたしもだ!」
「ま、足引っ張んじゃねーぞ、シン?」

 シグナムとアギト、そしてヴィータが。
 その言葉を受けてシンは笑う。

「そうですね……皆の為にも頑張って“守らない”と。」
「…………」
「…………」

 フェイトとギンガは口を開くことなく、シンの言葉を反芻していた。

 ――“皆のためにも”。

 誰も気づかない。けれど、“既に”気づいている二人は感じ取った。
 初めての実戦である。あの模擬戦、そして連日の訓練のせいで忘れそうになっていたが、彼は魔法を使い出して未だ数ヶ月と言う素人である。
 以前の世界で軍人をしていたと言う話は6課のフォワード陣は誰もが知っている。だが、彼が以前いた世界での戦いがどのようなモノであれ、魔法を用いた戦いとは意味が違う。
 初陣である。緊張もするだろう。
 誰もがそう思っていた。だから、こんな軽口を言ってまで彼の緊張をほぐそうとしたのだ。同じくヘリに乗り込んでいたフェイトとギンガ以外の6課のメンバーは。
 二人は――二人だけは違った。

 声を掛けることなど無い。その必要が無いことを知っているから。
 シン・アスカが瞳を閉じて俯いていたのは単純な話、自身の衝動を抑えていたからだ。
 何故なら彼にとって、コレは“待ち望んでいた戦い”。ようやく、ようやく、願いを叶える旅路の一歩目に辿り着いたのだ。
 すぐにでも飛び出しそうになる身体を必死に押さえつけ、深く呼吸をすることで冷静になろうとしていただけ。
 だから、声を掛ける必要など無い。彼はただ静かに必死に集中していただけだ。
 静かに、守るために。
 それを知る二人も同じく静かに集中していた。
 一人は――ギンガ・ナカジマは、そんなシンが巻き起こすであろう――もしくは巻き込まれるであろう――惨状の中で何が何でも彼を守る為に。その意思を貫かせる為に。
 一人は――フェイト・T・ハラオウンは、そんなシンが巻き起こすであろう――もしくは巻き込まれるであろう――惨状の中で、どうするべきかを考えていた。その意思を貫かせるべきなのか。それとも止めるべきなのか。迷いは静かに沈み込む。
 そして、ヘリが揺れた。

「到着しました!」

 ヴァイスが叫んだ。
 眼下にはガジェットドローンの襲撃に瀕されている町が見えた。
 フェイトが振り向く。その顔にもはや陰りは無い。

「じゃあ、行くよ。予定通り、ライトニングはドローンの排除。スターズは避難し遅れた人たちの救助。既に展開している陸士部隊と連携して作業について。」

 全員が頷き、自身のデバイスに手を掛け、叫んだ。
 セットアップ、と。
 瞬間、輝きが生まれ、全員の姿が変化する。
 ――バリアジャケット。つまりは戦闘の為の服装へと。

「ライトニングは私に続いて降下。スターズはその後。いいね?」
「はい!!」

 言葉の通りにフェイトが降下し、次々と降下して行く。
 そして、シンも降下しようとした時――ギンガが呟いた。

「無理はしないで、くださいね、シン。」
「……善処します。」

 困ったようにシンは笑い――ヘリの扉から飛んだ。
 ギンガはその背中を見て、諦めたようにため息を吐き、そして思考を切り替えた。
「行きましょう、私達も。」

 頷くスターズ分隊の面々。
 ――シン・アスカの戦いが、今始まる。


「……来たか。」

 腕を組み、筋肉質の女が呟いた。服装は肉体を引き締めるラバースーツ。瞳の色は金色。

「……」

 彼女の傍ら。右後方に立ち尽くす男たち――いや、少年か――がいる。
 少年の数は三人。
 黒ずんだ金髪の少年。赤い髪の少年。緑のウェーブがかった髪の少年。
 着ている服は彼女と同じラバースーツ。違いは、肘や膝、首、胸の辺りから跳び出ている突起である。
 少年達の表情は変わらない。直立不動。3人が3人とも同じ姿勢で同じようにして佇んでいる。
 その様はどこか機械じみていて、およそ人間らしさというものをまるで感じさせなかった。
 年齢はおおよそで全員が16、7と言ったところだろうか。
 能面のように何の感情も写さない無機質の瞳がそこに在った。

 だから、だろうか。違和感があったのは。
 3人とも見た目の印象はもっと活発なイメージがある。
 だが、身に纏う雰囲気はそれに反して、冷徹そのものと言った無機質なイメージ。
 外見から受け取る雰囲気と内面から滲み出る雰囲気は通常乖離しない。外面と内面とは密接に影響しあって人間を形作るのだ。だから、その二つの受けるイメージというのは普通はそれほど乖離しない。
 ――意図的にどちらかを隠すか、無理矢理捻じ曲げるかしない限りは。筋肉質の女は少年たちに目をやり、呟いた。

「出番だ。よろしく、頼む。」
「――“了解しました”。」

 女の言葉に従い少年たちは“同時に”動き出した。
 一糸乱れぬ完全同期。人形が、人間を真似ているようなその動作は本来彼らの味方であり、主である女から見ても顔を歪める程度には気持ち悪かった。
 そして、三人が同時に口を開いた。淡々と。抑揚も無く。

「カラミティ」
「レイダー」
「フォビドゥン」

 三人が言葉を開き、呟いた。

「セットアップ。」

 言葉と共に肉体が変容する。
 ――セットアップ。つまりはデバイスによる変化の言葉。そして、その変容はラウ・ル・クルーゼの変化と酷似した変化であった。
 身体中から噴出し、彼の身体を覆い尽くそうとする決して赤色ではない粘液――それは彼ら血液である。
 噴出した“色とりどり”の血液が彼らの身体を覆っていく。
 緑の血液。黒の血液。青の血液。
 そのどの色を以ってしても決して人間にはあり得ない色彩。
 そして、三人のその全身を光が奔り抜けた。奔る光の軌跡に沿って、アメーバがその身体を広げていくように噴出した血液が蠢き、彼らの肉体――装甲を形作られていく。
 ――これがウェポンデバイス。彼らの“正式名称”である。

「標的は機動6課ライトニング分隊及びスターズ分隊。フェイト・T・ハラオウンには私が当たらせて貰う。お前らは、それ以外を当たってくれ。決して殺さずに、だ。」
「了解しました。」

 感情を表すことなく三人は動き出した。
 変容した三人の威容。
 ラウ・ル・クルーゼとの最も大きな違いは背中から突き出た突起と色彩。

 黒い装甲を纏った騎士――レイダーは背中から生えて横に張り出した翼のような突起を持ち、
 青い装甲を纏った騎士――カラミティは背中から上空に向けて突き出た突起を持ち、
 緑の装甲を纏った騎士――フォビドゥンは背中から自身を覆う盾のようにして張り出した突起を持つ。

 三者三様。
 レイダーは背中の突起を翼のように広げ、飛び立つ。
 カラミティは歩きつつ、全身の鎧を変化させ、戦闘準備に取り掛かる。
 フォビドゥンは身体を覆う盾のような突起から長い杖のような突起を“引っ張り出す”と武器として再構成し――その姿は一瞬で大鎌となって顕現させ、飛び立つ。
 そして、三人の鎧騎士がその場から去ってから、数秒の後。爆発と轟音がそこかしこで生まれた。
 筋肉質の女は薄く笑いを浮かべると、その光景から逃げるどころか近づいてくる一機のヘリに目をやる。

「――ライドインパルス。」

 小さな呟き。それは言霊。彼女が磨き上げた彼女自身にとっての唯一の武器を呼び覚ます言霊。
 光の翼――それはそう形容するしかないモノであった。例えて言うなら昆虫の羽根がもっとも近い。薄く光り輝きながら、羽根が背中、太股、足首、手首から生まれていく。
 その大きさは大きなもので1.5mを超えて2mにも届かんばかり。小さなものでも50cmは下るまい。
 女は右手を伸ばし、右手首付近から生まれていた光の翼が巨大化していく。その姿は翼というよりはむしろ刃と言ったほうが正しい。

「――行くぞ。」

 女の狙いはただ一人。フェイト・T・ハラオウン。
 女はただ彼女と“再戦”する為だけに此処にいるのだ。
 強者を越える為に、女は……ナンバーズ・トーレはここに来たのだ。

「……教えてやるさ。敗者の矜持と言うものを。」


 今回の作戦は空戦を行える者が多くいるライトニングによってガジェットドローンを撃破。
 そしてスターズによって陸士部隊の援護と支援を行うと言うモノだった。
 その目論見自体はそれほど悪くはない。スターズよりも足の速いライトニングの方がより速く撃破が行えるのは確かだからだ。
 尚且つライトニングには現在シン・アスカが入隊したことにより人数が一人増加している。
 人数が一人増加したならばその分だけ部隊としての攻撃力も増加している。一度に撃破出来る絶対数も増加している。問題は無い。

 それはベストとは言えないまでもベターな選択であった。
 誤算があるとすれば、展開されていたガジェットドローンの数が予想よりもはるかに多かったことと、地上に展開していた敵の予想外の強さだろう。
 間断なく放たれる砲撃。一撃一撃が必殺の威力で持ってスターズに迫り来るソレ。
 当たれば意識を失うどころか命を失うだろう。破壊されていく街。逃げ惑う人々。
 唯一の救いは一般市民などには眼もくれずに自分たち――機動6課にのみ的を絞っていることくらいだ。
 戦いは膠着状態に陥っている。
 スターズを相手取る敵――緑と青の鎧騎士。フォビドゥンとカラミティである。

「スバルとギンガさんはそのまま攻撃を回避し続けて!ヴィータさんは中衛で私の防御お願いします!!」

 ティアナ・ランスターが叫び、その言葉に呼応するようにして、ヴィータがティアナの前面――ギンガとスバルの後ろに位置する。

「ティアナ、へまるなよ!」
「わかってますよ!」
「ギン姉、行こう!」
「ええ、スバル!」

 射撃主体でありこの部隊の実質的な指揮官でも在る彼女はその特性上、高速機動と言う技は存在しない。
 彼女の本分は、広い視野と冷静な判断で部隊を導くことだからだ。
 故に敵の砲撃の射程が前衛を超えていきなり後衛を狙えると言う場合はヴィータが援護に回り、彼女への攻撃を受け止めるか、弾くかしなければならない。
 ティアナ・ランスターは両手に持つ二挺の拳銃型デバイス・クロスミラージュを構えながら叫ぶ。

「クロスファイアー!!!」

 彼女の周囲に多数の魔力弾が浮かび上がる。その数およそ10。以前のように魔力弾の制御は損なわない。
 その全てに彼女の意識が通っている。

「シュ――ト!!!」

 発射。撃ち放たれた魔力弾はティアナ・ランスターの脳裏に浮かび上がった弾道補正によって各々の軌道をなぞって、突き進む。

「ゲシュマイディッヒパンツァー。」

 小さな呟きと共に緑色の鎧騎士の前面の空間が“歪み”、ティアナの放った魔力弾はあらぬ方向へと流れていく。
 先ほどから何度も何度も繰り返されるその光景――自身の放った魔力弾が成す術も無く流れていく様をティアナは冷静に見つめていた。
 ティアナの魔法の威力はそれほど低くはない。だが、彼女が使える魔法はあくまで“射撃”魔法。砲撃魔法ではない。威力と言う点だけで見れば、その差は大きい。

 そして緑色の鎧騎士が使う魔法――空間を歪曲させているのか、彼女が放つありとあらゆる射撃魔法を歪曲させている。
 現状のティアナ・ランスターにはあの防御を貫くような魔法は存在しない――いや、あることはあるのだ。
 彼女にも砲撃魔法と呼べる魔法は。伊達にJ・S事件から年月が経っている訳ではない。ギンガ・ナカジマがリボルビングステークを開発したように、彼女――ティアナ・ランスターにも新たな魔法は備わっている。
 ならば、何故それを使わないのか。簡単な理由だ。意味が無いからである。確かにあの魔力弾を捻じ曲げる防御を貫くには砲撃魔法くらいしかあるまい。
 だが、間断なくその後方から放たれる砲撃の雨の中、立ち止まり魔力をチャージする時間があるのかと問われれば答えは否である。また、その砲撃魔法を使ったからと言って、あの歪曲を貫けるのかと言われればそれも不明瞭。
 苦労して撃ち放った結果が簡単に防御されましたではあまりにも最悪すぎる。

 敵を見る。
 青と緑の鎧騎士。彼らは大砲と盾と言う二つの特性を極端に特化させたモノ――と言うのがティアナ・ランスターの考えだった。
 青の鎧騎士は砲台と言う性能に特化し、緑の鎧騎士は盾と言う性能に特化したモノ。彼らはその特性を上手く組み合わせることで相互補完を行っているのだ。
 意味が無いと先ほど言ったがそれは、盾によって防御し大砲によって攻撃すると言う敵の行動と同じことをしてどうするのか、と言うことである。
 砲撃には砲撃を。防御には防御を。そんなことをする必要はない。それでは決して勝てない。間違いなく負ける。
 強大な盾があるならばそれを貫く攻撃力で穿てばいいなど愚の骨頂。
 砲撃で負けるなら他の部分で勝てばいい。防御で負けるなら防御できない部分に攻撃を打ち込むことがベストである。

「……移動しながらの砲撃も出来る訳ね。」

 ヴィータの後方に位置しながら周辺から間断なく、尚且つ一度も同じ場所から撃ち放つことなく、砲撃が届き続ける。
 頭の中にその情報を追加し、敵の動きを冷静に見つめながらティアナ・ランスターは考えを張り巡らせる。
 決め手となるのは前線で攻撃を回避しながら気を伺うあの二人――スバルとギンガのナカジマ姉妹だ。
 クロスミラージュからアンカーを射出し、場所を移動する。現在地であるこのビルから隣接するビルへと移動する。自身とスバル達を繋ぐライン上に位置しているヴィータと目配せし、彼女も移動する。
 魔力のロープに引っ張られながらティアナは隣のビルの屋上へ移動。そこから見えるのは肩から突き出た砲身から緑色の光熱波が放ち続ける青色の鎧騎士。足を滑らせながら移動するその様は正に移動砲台が相応しい。
 自身とはまるで違う、その姿にティアナはわずかに嫉妬し――その感情を奥底に仕舞い込んで思考に没頭する。

「凡人、馬鹿にしないでよね。」

 小さな呟き。これまでの情報を整理し、作戦――と言うほどに洗練されたものではないが――を練り上げる。
 両手に握るクロスミラージュに魔力を込める。
 まずは冷静に在ること。能力で敵わないならそれ以外の部分で敵うようにすればいい。
 自分はこの部隊の主役ではない。速さ、威力、防御。その全てで劣る自分には思考を張り巡らせて、サポートをするのみ。
 凡人には凡人なりのやり方があるのだ。

「スバル、ギンガさん、今から突破口を話すけど、聞く暇ある?」

 通信が帰ってくる。間髪いれずに。

『当たり前!』
『当然です。』

 その返答にティアナはくすりと笑う。姉妹でありながらまるで違うその返答に。

「まずはあの緑の敵を狙います。砲撃主体の青い奴はとりあえず放っておいて。」
「……なるほど、盾からぶっ壊すって訳か。」
「はい。それで二人には動きが止まった瞬間に攻撃を加えて欲しいの。タイミングはこちらで指示するわ。……いける?」
『十分!』

 スバルの返答。傍らのギンガも同じく頷く。

「そして、ヴィータさんにはその間、私が受けるであろう攻撃を全て防御して欲しいんです。出来ますか?」

 その言葉に鉄槌の騎士は不敵に微笑み、その手に握る相棒に問いかける。

「出来ますか――だとさ、アイゼン。どうだ?」
『Kein Problem.(問題ありません)』

 その小さな手に握り締められたグラーフアイゼンが答える。

「だとよ。」

 そう言って、ティアナに背を向けると、グラーフアイゼンからカートリッジが3連続でリロードされる。
 戦闘の準備を整えているのだ。
 その小さくも頼もしい背中に微笑むとティアナは再び通信を開く。

「……二人とも、準備はいい?」
『いつでも!』
『いけるわ。』

 返答は心地よく力強い。
 微笑みながらティアナ・ランスターは瞳を見開いて敵の動きを視認する。その間、およそ数秒。

 ――緑の鎧騎士が動いた。青の鎧騎士が再び砲撃を始める。動きを止めた自分を狙った砲撃だ。
 ヴィータがグラーフアイゼンを握り締め、不敵に微笑んだ。
 ティアナの瞳がかっと見開く。カートリッジを3連続リロード。
 同時に周囲に出現する魔力弾。その数およそ30。

「クロスファイア――!!!シュート!!!」

 発射。30の魔力弾の全てに軌道補正を行い、直線的な軌道で魔力弾が迫り行く。
 緑の鎧騎士の前面の空間が再び歪む。彼にとっては定められたルーチンワークと同じその作業を繰り返す。
 ――ゲシュマイディッヒパンツァー。これはティアナ・ランスターが考えているような空間を歪曲させるモノではない。
 装甲の表面に発生させた磁場でビームの粒子を反発させ、放たれたビームの軌道を修正し自機への命中を避けるモノである。
 本来ならビーム兵器に対してのみ有効で実体弾に対しては効果が無いモノなのだが、AMFの近縁技術の流用により“魔力を反発させる”と言う効果を得ることで魔法に対しての屈曲防御を可能としている。

 故に、“この”ゲシュマイディッヒパンツァーの前ではありとあらゆる砲撃・射撃魔法はその方向を逸らされる――無論、スターダストフォールのように物質を加速させる類には無意味ではあるのだが。
 今、ティアナ・ランスターの放った30の魔力弾も例外に漏れずその軌道を歪められ、彼には決して届かない――はずだった。
 放たれた30の魔力弾。その内、わずかに10発ほどの魔力弾がその壁をすり抜けて来たのだ。
 まるでそんな歪曲など初めから存在していないかのように。

「っ――!?」

 感情など無いはずのその表情に初めて、“狼狽”と言う名の感情が浮かんだ。
 咄嗟に彼は量の腕を閉じて、防御を行う――だが、数秒が経過し、当に攻撃されていなければおかしい時間が過ぎても、衝撃はいつまで経っても来なかった。
 閉じた両腕を開き、防御を解く。そこには魔力弾など一つも存在していなかった。代わりに存在しているのは、青い髪をした二人の女だった。

「ディバイン――!!」

 短い髪の女の右手が青白く光り輝く。
 放たれるは近接砲撃魔法「ディバインバスター」。砲撃魔法で在りながら近接と言う一種矛盾した特性を持つその魔法を屈曲させることはゲシュマイディッヒパンツァーであっても不可能。如何に屈曲させようと彼我の距離が近すぎるが故に。

「リボルビング――!!」

 長い髪の女の左手に魔力の螺旋が生まれる。撃ち放たれるは近接突貫魔法「リボルビングステーク」。
 その威容は正しく「杭(ステーク)」。魔力を食い荒らし、突き進むその杭を屈曲させるなど不可能。
 それは純粋に格闘の延長線上の魔法であるが故に。
 ゲシュマイディッヒパンツァーが屈曲させられるのはあくまで砲撃・射撃魔法のみ。格闘など初めから想定していないのだ。

「バスタ――!!!」
「ステ――ク!!!」

 ――二人の一撃必倒が到達する。
 緑の鎧騎士――フォビドゥンは僅かに身体を捻り直撃だけは避けたモノの、成す術無く吹き飛ばされていく。
 然り。攻撃力と言う点でこの二人の同時攻撃以上のモノは現状では存在していない。直撃したならば誰であろうと一撃必倒。

 ティアナ・ランスターの考えた策とは簡単なコトだ。
 敵にとって彼女の魔力弾など確実に防御できて然るべきモノでしかない。
 故にそこを突く。侮っているのならばその侮りを武器とする。
 魔力弾に幻影を混ぜ込んで撃ち放つ。
 敵にとっては防御出来ない“訳が無い”以上は、これまで通りにあの屈曲防御を行う。
 だが、幻影の魔力弾は屈曲の影響など受けることは無い。実体が無い幻影である。屈曲などするはずが無い。

 だが、敵にしてみれば、まさかと言う部分があるだろう。
 ティアナにしてみても、そこで敵が防御までしてくれたのは恩の字だった。
 一瞬、怯むかどうかと言う程度の策でしかなかったにも関わらず、動きを止めた上に絶好の好機まで生み出せたのだから。
 ――無論、そこで一瞬怯んだだけならば、屈曲された魔力弾を連鎖爆発させて、煙幕として攻撃の隙を作るつもりではあったので、それほど結果に差異は無いのだが。

「……これで、どうよ。」

 息を吐き、膝を付くティアナ。幻術と射撃の同時併用に加えて、軌道補正まで行ったのだ。瞬間的な魔力消費はソレに伴って大きい。
 前を見れば、青い鎧騎士が放った砲撃を全て受け止めたヴィータが噴煙の中に浮かんでいた。
 こちらを見る彼女に微笑みを返して、ティアナは再びクロスミラージュを握る手に力を込めると立ち上がる。
 手応えはあった。ギンガとスバル。二人のシューティングアーツ使いの最大の一撃を同時に受けたのだ。あれで無事な筈が無い。これで残るは一人。
 ティアナ・ランスターはそう思って、残る青い鎧騎士に視線を動かす。
 ――瞬間、緑の鎧騎士が吹き飛んだ方向。その直下から馬鹿げた大きさ――少なくとも5mを超える刃金が天に向かって振りぬかれた。

「は……?」

 冗談のようなその光景。ティアナが呆けたような声を出すのも無理は無い。
 予想し得るはずが無いのだ。5mを超えるような巨大な刃物が突然そこに現出するなど、誰が想像するだろうか。

「なに、あれ。」

 呆然とティアナ・ランスターが呟いた。
 ギンガとスバルはその場から退避し既に距離を置いていた。離れろ、と言う生存本能に従って。
 ヴィータだけは油断無く、そして緊張することなくグラーフアイゼンを握り締める。
 目前の敵。それが恐らく自分の予想よりも遥かに悪辣な敵であることを確信しながら。
 それは、冗談のような光景だった。
 緑の鎧騎士――2mに届こうかと言う“人間”が立っていた。
 その右手に馬鹿でかいほど――少なくとも人間が振るうような大きさではない武器をその手に持って。
 それは鎌だ。大鎌と呼ぶに相応しい――否、そう呼ばざるを得ないほどに巨大な鎌である。
 柄の部分だけで少なくとも10mを下ることは無いだろうと言う長さ。
 握り締めている部分の太さはどんなに太くとも10cmにもならないと言うのに、刃の部分に近づけば近づくほどに、その柄は太くなり、最終的には直径で2mほどにまで太くなっている。
 何よりも巨大なのはその刃。刃渡り10mほどの巨大な巨大すぎる大鎌だった。
 それを人間――正直、もはや人間なのかどうかすら疑わしいが――が構えているのだ。
 夢と言われた方がまだ信じられる現実感を喪失した光景である。

 緑の鎧騎士がそれを振りかぶり、振り下ろした。
 ビルが一刃で切り裂かれた。真っ二つに、まるで豆腐でも切り裂くようにして。
 鉄筋コンクリート製のビルがずずず、と音を立てて“ズレ”落ちていく。
 誰も、言葉が無かった。圧倒的な、その光景に呑まれていたのだ。
 巨大なビルを一撃で崩壊させた。
 今、どれほどの被害が生まれたかなど想像もつかない。まして、アレが直撃したならば人間など一瞬で肉片へと変化する。

 非殺傷・殺傷設定など関係ない。単純明快な殺戮武装である。
 自分達が今相対している敵、とはそれほどに悪辣で凶悪な力を持っている。
 ギンガ、スバル、ティアナの背筋を怖気が通り抜ける。迫り来る死の気配。それを恐れて――だが、次の瞬間、彼女達は再び戦闘態勢に望んだ。
 恐怖を踏みしめて、戦う為に。
 その様子にヴィータは満足げに微笑み、通信を開いた。

「どうやら敵は、あたしらが思っているよりもとんでもない敵なようだ。」

 その通りだ、と三人は心中で呟く。

「だが、ここで退く訳にもいかない。……そうだよな?」
『当たり前です。』

 ティアナ・ランスターが強気な微笑みを浮かべ、クロスミラージュを構える。

『当然です!!』

 スバル・ナカジマが朗らかな微笑みを浮かべ、右手のリボルバーナックルを構える。
 そして――

『ギンガは、どうだ?』

 僅かに返答が遅れたギンガにヴィータが再度問いかける。恐れずに戦えるのか、と。
 青い髪の戦乙女は瞳を閉じて祈るように瞑目する。

『……敵は全て撃ち貫くのみ、です。』

 物騒な言葉と共にギンガ・ナカジマの覚悟が完了する。
 何があろうと、自分は生き残らなければならない。シン・アスカは自分が死ぬことを――他の誰も死ぬことを望まない。死は彼に断罪の鉄槌を与え、彼を奈落の底に突き落とす。
 看過出来ない事実だ。彼女にとっては、何よりも。
 故に撃ち貫く。彼を奈落の底になど突き落とさせる訳にはいかないのだから。
 ギンガの言葉を聞いて、ヴィータは一瞬怪訝な顔をするも、気を取り直したのか、再び、敵に向かい合い、声を上げた。

「じゃあ、さっきと同じ布陣で、行く……何?」
「……鎌が、消えていく。」

 スバルの呟きの通り、その威容を誇っていた鎌がまるで霞で構成されていたかのようにして消えていく。
 同時に鎌が消え去る頃にはあの鎧騎士二人も消えていた。影も形も無く、初めからそこにいなかったように。

「……何がどうなってるんだ。」

 ヴィータの小さな呟き。唐突に現われた化け物は唐突に消え去った。
 後に残されたのは廃墟となった町並み。
 勝利ではない。敗北でもない。それは引き分け――痛み分けと言った類の結果だった。


 彼ら二人が攻撃を止めたのは一つだけの理由だった。

「下がって休んでいろ。」

 そうして、二人の鎧騎士――カラミティとフォビドゥンは撤退した。
 戦えと言うなら未だその身体は問題なく稼動したし、道連れにしろと言うなら標的の全てを道連れにするなど花を手折るように簡単なことだった。
 彼らが撤退した理由は単純なこと。命令があったからだ。下がっていろと。
 命令には絶対服従。彼らに命令に従わないなどと言う回路は存在しない。

「もう、役割は十分に果たした。」

 トーレの言葉。それを聞いてカラミティとフォビドゥンは消え去った。
 唐突な始まりは唐突に終わる。
 そして、唐突過ぎる展開は観客に展開を読ませることを許さない。
 彼らの――この襲撃が持つ一つの意味。
 疑念は気づくことで初めて生まれる。
 彼らの派手な立ち回りはそれを誰にも気づかせることを許さない。
 疑念は静かに沈殿する。黒幕は静かに佇むのみ。



[18692] 14.運命と襲撃と(b)
Name: spam◆93e659da ID:cc4806a2
Date: 2010/05/14 01:01
「くそっ……!!」

 毒づくシン・アスカの周囲に浮かびこちらを伺うようにして展開するガジェットドローン。
 その数目算でおよそ200。目算でその程度と言うことは恐らくはそれ以上はいると言うことだ。
 先ほどから何度も何度も攻撃を繰り返していると言うのに一向にその数を減らさないことからも、どこかから増援が逐一入ってきていると言うことだろう。
 規格外の数である。ありえないほどに。
 AMFを纏うドローンに対してはケルベロス等の砲撃は効果が薄い。
 その結果、シンは手持ちの武装の内、もっとも効果があると思われるアロンダイトを使い、戦っている。
 だが、それが拙かった。
 アロンダイトとは一撃必殺の斬撃武装。
  一撃必殺であり、一撃一殺である。一撃他殺ではない。
  シグナムは先ほどからユニゾンデバイス――彼にはその原理はよくわからないが要するに彼女はアギトと合体することで能力を底上げすることが出来る――によって彼女の周囲を覆い尽くそうとするガジェットドローンⅡ型を次から次へと文字通り薙ぎ払っていく。
 シュランゲフォルム――中距離一斉攻撃によって。
 それでもドローンの数は一向に減る様子が無い。単純な話、数の暴力である。ライトニング分隊は、部隊の特性上の弱点を突かれているのだ。

「アスカ、前に出すぎだ!狙い撃ちされるぞ!」

 再び炎の蛇蛟を一閃し、シグナムはシンに向かって叫ぶ。
 シンの位置は今部隊から離れていた。
 本来、ガードウイングであるシンの位置は少なくとも彼女の後方。考えるまでも無く突出しすぎである

「けど、このままじゃフェイトさんが孤立します、誰かが援護に行かないと!!」

 シグナムの方向に振り返ることなく、叫び、シンは再び敵陣に突っ込んでいく。
 止められない。彼の飛行の速度は既にシグナムと同等の速度。追いつけるとすれば、フェイト・T・ハラオウンしかいないのだ。
 だが、そのフェイト・T・ハラオウンは今彼を止めるどころの状況ではない。
 現状、彼女達――フェイトを除いたライトニング分隊がいる場所からおよそ数百mの距離で、激突する光と光。
 フェイト・T・ハラオウンと、ナンバーズ・トーレ――ジェイル・スカリエッティの子飼いの戦闘機人である――が戦っているのだ。

 フェイトのソニックムーブに勝るとも劣らぬほどの速度で、トーレはフェイトに襲い掛かるとそのまま彼女を部隊から引き離すようにして押し込んでいった。
 シグナムたちとて馬鹿ではない。すぐにそこに追いすがろうとしたのだ。
 だが、フェイト・T・ハラオウンと部隊の距離が開いた時、街を襲っていたドローンが全て転進し、ライトニングに攻撃を始めたのだ。
 その数、およそ数十を超え、数百。しかもドローンは破壊されそうになると撤退し、未だ無傷の個体と隊列を入れ替える。
 一気に攻め込んで倒そうと言う単純明快なコトではない。これはその逆だ。
 つまり、出来る限り長くこう着状態を作り出そうと言う魂胆なのだろう。
 こちらの疲弊を誘っているのか、それとも単純にトーレとフェイトの戦いを邪魔させないことが狙いなのか――恐らくは後者だろう。
 どちらにしても状況はジリジリと危険領域へと押しやられていることは事実である。
 その状況で一人だけ突出するなど自殺行為である。どれほど仲間が大事であろうと、だ。
 
 ギンガやフェイとの危惧していた通り、シン・アスカの短所が完全に表面化しているのだ。
 対してエリオとキャロは年頃に似合わず冷静なものだった。
 キャロ・ル・ルシエのフリードに乗りつつ、一体一体を確実に倒していく。
 彼らの顔には不安は無い。恐らく頭に上ることも無いのだろう。フェイト・T・ハラオウンが負けるなど。彼らは彼女に全幅の信頼を寄せているのだから。
 彼ら二人が異常なのではない。むしろこれが通常の反応だ。シグナムだってその一人である。
 
 何せ、“あの”フェイト・T・ハラオウンである。
 数々の死線を巡り超えてきた最強の魔導師の一角。それがたかが戦闘機人程度に負けるなど在りうるはずが無いのだ。
 だが、シグナムは一抹の不安を感じていた。
 最近のフェイト・T・ハラオウンは少し違うのだ。
 
 シン・アスカ。今、敵陣に猪突猛進に突っ込んでは全身全霊で敵を壊し続けるあの大馬鹿者。
 あの男と出会ってからのフェイトはアレが20の女かと言いたくなるような所作を振舞うようになっていった。
 自分しか気が付いていないようだが、フェイト・T・ハラオウンの瞳は常にシン・アスカに向けられている。
 それが一抹の不安を彼女に抱かせる。もし、そこを突かれたらどうなるのか、と。

「私は馬鹿か……!!」

 自分の頭に浮かんだ馬鹿な呟きと共にシグナムが高速でその場を移動する。
 ドローンは自動機械である。つまりは突然の状況変化に弱い。
 臨機応変と言う機能を持ち合わせていないが。故に彼らは数と言う暴力でその弱点を補っているのだから。
 故に、

「アギト、行くぞ!!」
「おう!!」

 ――二人の叫びが呼応する。

『剣閃烈火――』

 シグナムとユニゾンしたアギトの左の腕に炎が灯る。シグナムの左手に炎が灯る。
 極大の猛り狂い、全てを燃やし尽くさんばかりの炎が――炎は一瞬でその姿を剣へと姿を変える。
 狙うは敵集団その中腹。全滅まではいかないまでも半数程度は“持っていける”。その自信が彼女にはある。
 その様子を見たエリオ、キャロ、シンがその場を離れる。巻き添えを食らわない為だ。

『火龍一閃――!!!』

 シグナムがその左手に握り締めた炎の剣を振るった――否、“薙ぎ払った”。瞬間、炎の剣はその姿を変える。
 長剣サイズ程度でしかなかった長さが、一気にその“長さ”を数kmほどの長さへと変化する。
 収束した炎熱の魔力を加速し極大化させ、長剣として振るう一撃。
 振るう刃は剣ではなく槍(スピア)と言う表現が最も近い。もはや砲撃と言ってもいい殲滅魔法である。

「……すげえ。」

 シンが呆然と呟く。一撃で100機ほどのガジェットドローンが破壊されたのだ。初見であるなら感嘆の溜め息を吐かない方がおかしい。
 それほどの強大極まりない一撃である。

「アスカ、こちらは任せてテスタロッサの援護に行け。」
「え?」
「……私はここを動く訳にはいかない。そうなれば援護に向かえるのはお前くらいだ。」

 シグナムはこの場にいる最大戦力である。彼女がこの場を離れれば一気に均衡は崩れてしまう。
 キャロとエリオは空戦適性を持っていない。空戦のエキスパートであるフェイトとトーレの援護に回るには飛行の魔法は必須である。
 故に、シン・アスカ。空戦適性があり、飛行の魔法を問題なく使用できる彼しかいないのだ。

「……わかりました。」

 だが、シンの顔は浮かない。先ほどまでは何が何でもフェイトの援護に回れと言っていたのにも関わらず、だ。
 その理由は明白。半数以上は破壊されたはずのドローンが再びその数を増やし始めていたからだ。蠢くようにして、その数を増やしていく。
 シンのそんな顔を鼻で笑うかのようにシグナムは不敵に微笑む。

「ふん、そんな心配そうな顔をするな。それとも――私達では役不足だとでも言いたいのか?」

 刺し抜くようなシグナムの視線とシンの瞳が交錯する。

「……絶対に死んだりしないでください。」

 そう呟いて、シンがフェイトが戦っている方向――空港の上空に向かって、速度を上げて飛んで行く。

「……まったく、心配が過ぎるな、あいつは。」
「シンさんは優しい人ですから。」
「まあ、ちょっと過保護な感じもしますけど……」

 シグナム、キャロ、エリオが同じ場所に集う。シグナムが火龍一閃にて薙ぎ払った為に彼女の周辺には敵がいないのだ。

「……さて、此処からお前たち二人には私の援護を頼――」

 言い切る前に彼女達の横合いを赤い光熱波が轟音と共に通り過ぎていく。瞬時に散開し、その場を離れる3人。
 三人が三人とも光熱波が飛んできた方向に眼をやる。
 そこには黒い異形――彼女達にとっては記憶に新しいあの“化物”によく似た異形の鎧騎士がいた。
 彼女達の顔に緊張が生まれる。以前の戦いを思い出して。

「……どうやら、ここからはガジェットのように楽にはいかないようだな。エリオは私に続け。キャロは魔法で私達の援護を頼む。……気を抜くな。」
「はい!!」
「はい!!」

 二人の力強い返事に気を良くしたのはシグナムは薄く笑いを浮かべ、レヴァンティンを構える。

「アギト、出し惜しみは無しで行く。」
「了解だ!」


「――どうやら、そろそろ終わりに近いようですね。」

 トーレがシグナムの火龍一閃によって大きく数を減らしたガジェットドローンの集団を見ながら呟いた。
 そして、次にあそこに現れるであろう鎧騎士――レイダーを思い浮かべる。
 あれほどの一撃を放てる魔導師がいると言うのであれば、問題は無いだろう。少なくとも戦局は“釣り合う”だろう、と。

「……ナンバーズ・トーレ、貴女を今此処で逮捕します。」

 対峙するフェイトはその赤い瞳を輝かせ、金色の大剣――バルディッシュアサルト・ザンバーフォームを構え直す。
 終わりに近い――無論、彼女は自分の部隊の面々が負けるなどとは思っていない。
 だが、それでも不安はあった。今回の襲撃における
 最大の誤算――予想外の敵機の数の多さ。
 そして、あの赤い瞳の異邦人。
 彼がどんな戦いをしているのか。
 訓練の時のように身体を張って誰かを庇っているのではないか。そんな想いが彼女に一抹の不安を抱かせている。

 内心、フェイト・T・ハラオウンは僅かばかり焦っていた。
 トーレとは以前、ゆりかご内部で戦っている。
 限定解除を行っているのは以前と同じ――現状、彼女達6課の面々は基本的に限定解除がされている。
 これは名実共に機動6課が特別な部隊として機能していることを意味している。
 能力限定――部隊毎に定められた保有できる魔力ランクの総計規模を超えてはいけないという規定を潜り抜ける為の“裏技”である。
 だが、現状ではそんなものは彼女達には使用されていない。
 以前、ライトニング分隊が戦ったあの化物――灰色の鎧騎士。あの戦いの後に彼らの能力限定は解除されたのだ。
 あの戦いは“限定解除状態”での戦闘であった。つまりは全力全開。
 オーバーSランクと言う高位魔導師が全力で戦い、なお倒せなかった。それどころか敗北した強敵と言うのもおこがましいほどの化け物。
 簡単な話、それほどに強い敵にぶつけると言う条件を引き換えにして機動6課は“保有ランクの総計規模”と言う規定から公然と逃れているのだ。

 ――話を戻そう。つまり、彼女――フェイト・T・ハラオウンには現在能力限定はされていない。オーバーSランクの力をそのまま最大限に引き出して戦っている。
 以前、トーレと戦った時に苦戦したのはAMF下だったこともあり、限定解除をしていながらに苦戦した。
 だが、その後、真ソニックフォームとライオットザンバーと言った“本気”の攻撃により撃退に成功している。

 ――つまり、トーレとフェイトの間には揺るがし難い実力差が存在していた。少なくとも本気の二人の間には。
 だから、フェイトは油断などはまるでしていないながらも、勝てると言う確信があった。
 訓練を怠けたことは一度も無い。彼女の実力はむしろ以前よりも上がっていると言ってもいい。
 だが、ならばどうしてこれほどに戦いが長引いているのか。
 未だ真ソニックフォームとなっていない彼女の速度は確かにトーレを圧倒するほどの速度ではない。
 それでも先ほどからの攻防で何度も何度も攻撃を加えている。
 通常ならば一撃で戦闘不能に陥りかねない大剣による一撃。
 だが、トーレはそれを以前よりも巨大化したライドインパルス――手首から生えるエネルギー翼の長さはおよそ1.5m。身体から生えるエネルギー翼の長さは長い物で2mほど。依然とは違い、そのエネルギー翼を斬撃武装として扱っている――によって巧みに必倒の一撃だけを避けている。

「やれるものなら。」

 微笑った顔を崩すことなく、トーレは呟く。

「……バルディッシュ。」
『Get set.』

 彼女の唇が動く。

「――行くよ。」
『Sonic Drive.』

 フェイトの全身が輝き、服装――バリアジャケットが変化する。
 羽織っていた外套は消失し、露になる白い肌。
 現れ出でるは彼女の全身を締め付けるようにして覆う水着と見紛うような軽装の服――もはや、バリアジャケットとしての体裁はそこには無い。
 真ソニックフォーム。フェイト・T・ハラオウンの切り札にして諸刃の剣。魔力のほぼ全てを攻撃と速度に費やし、装甲を極限まで削った一つの究極。
 彼女の手がバルディッシュアサルトに優しく触れる。

『Riot Zamber.』

 大剣――バルディッシュアサルトがその威容を“二つ”に分けていく。
 それは金色の双剣。剣の柄と柄を結ぶ魔力によって編みこまれた紐によって、二つの剣の間で魔力の移動を可能とし、状況に応じれ魔力強度調節する攻防一体の双剣――ライオットザンバー・スティンガー。
 それを見て、トーレの笑みが変化する――薄く不敵に微笑んだ微笑みから、獰猛に唇を吊り上げた肉食獣の笑みへと

「……そう、その姿だ。その姿の貴女を駆逐してこそ意味がある。その姿を待っていた……!!」

 喜びを隠すことなく、トーレもまた胸に手を当てる。
 次瞬、ラバースーツの生地を超えて――赤い光が輝き出す。
 定期的に。輝き、消えて、輝き、消えて、そしてまた輝く――まるで心臓の鼓動のように。

「では、こちらも本気で行かせてもらいましょうか……!!!」

 言葉と共に金色の瞳が紅く染まる。それは血色の赤。フェイトやシンよりもなお赤い深紅の赤。
 そして、身体中から生えたライドインパルスの色も同じく変化する。紫の昆虫の羽根のようだった外見は、血に染まるようにして、血色の赤の羽根へと。
 その変化にフェイト・T・ハラウオンの顔色が変化する。
 見たことも聞いたことも無い変化。魔法には違いないだろうが、それがどんな体系のどんな類の魔法なのか、まるで想像が付かない。
 ソレは、“あの時”、彼女を――ライトニング分隊を完膚なきまでに倒したあの化け物から受けた感覚と同じモノ。

「トーレ、貴女は……。」
「私が今日ここに来たのは、フェイト・テスタロッサ。貴方と手合わせ願いたかったからだ。」

 フェイトの問いかけを遮るようにして、トーレが口を開いた。開いた口から蒸気――彼女の体内を駆け巡る魔力が溢れて、体外へと放出されている。
 その威容を前に、フェイトは双剣――ライオットザンバー・スティンガーを構える。いや、取らされたと言うべきか。
 フェイト・T・ハラオウンの研ぎ澄まされた戦士としての感性がトーレから溢れ出る殺意や憎悪などと言う負の感情とはまるで違う気合――克己心と言う真っ直ぐな信念に、充てられたのだ。

 ――目前の敵は全身全霊を懸けても勝てるかどうか分からないほどの強敵だと。
 そこに油断や慢心など欠片も無い。いや、そんなことを思う余裕すらない。
 フェイトの心臓が鼓動する。自身の全力を以って敵を倒すと言う高揚と、死んでしまうかもしれないと言う“恐怖”で。
 構えるフェイトを見て、トーレは満足げに頷くと彼女もまた構える。
 両手を地面に向けて、真っ直ぐ突き出す。

「あの時、私は貴方に倒された。成す術も無く。そして――私はあの脱獄の後、“力”を手に入れた。更なる力――人としての限界を超える為の“力”を。」

 淡々とした呟き。それは感情が無いから淡々と呟くのでは無い。
 感情を押さえ込む為に淡々と呟かざるを得ないのだ。
 逸りに逸り、いきり立つトーレの戦士としての悦び。それを無理矢理に押さえ込み、在るべき時に爆発させる為に。

「手に入れた力を支配する為に濃密な時間を繰り返した。何度も何度も血反吐を吐いた。意識を失うことなど何度あったか分からない。そして、今――待ち望んだ、夢にまで見た戦いをもう一度出来る。鍛えた力を試し、その上で駆逐することが出来る。――最高じゃないはずがないでしょう?」

 その問いかけと共に瞬間、両手が巨大化した――違う、五指の先から紅く光り輝くインパルスブレードが生えた。
 それは正に獣の爪を巨大化したモノだった。
 およそ地上数百mの高さから真下に向かって反り返って伸びる血で染め上げられた様に“紅い五本の爪”。その一本一本の長さは少なくとも2mを下るまい。

「私達ナンバーズの使うI・Sとは生まれついての能力。獣の爪、牙のようにそれはただそこにあるものでしかなかった。だが、私達は獣とは違う――1人の人間だ。人間は生まれついての能力を磨き抜くことで過酷な環境を踏破してきた。」

 言葉と共に右手に生えた巨大な“紅い爪”は、目まぐるしく姿を変えていく。
 五指を広げ、その流れに沿ってそのまま伸ばしたかのような巨大な“爪”。
 五指を閉じ、真っ直ぐ伸ばすことで生まれるライオットザンバーの如き“剣”。
 掌を広げ、それを中心に広がる巨大な“盾”。
 彼女の両手に存在するのは紅く輝く巨大な武装。彼女の両手に握るライオットザンバーの大剣状態に比肩すると言っても過言ではない“武器”がそこに存在していた。
 トーレが構えを取る。両手の五指を閉じ、真っ直ぐに伸ばし、剣とし――後方に向けて下ろす。
 そして、全身から生えるライドインパルスの紅い輝きが一層激しくなっていく。禍々しく、見る者全てに災厄を与えんとする悪魔のごとく。

「――ナンバーズ・トーレ。推して参る。」


 ――そこから先の動きはもはや人知を超えた戦いであった。
 傍目には紅く輝く線と金色に輝く線が何度も何度も数え切れないほどに交差し続けているようにしか見えなかっただろう。
 高速戦闘――否、それはもはや光速戦闘。眼にも留まらぬ動きではなく、眼にも映らぬ動き。
 その場所に辿り着いたシン・アスカはただその光景を呆然と見つめるしかなかった。

「……なんて、戦いだ。」

 デスティニーを握り締め、小さく呟く。
 援護など出来はしない。下手に援護などすればフェイト・T・ハラオウンが被弾しかけない。
 “眼で追う”ことは出来るのだ。その動きを眼で追うだけならば。
 元よりコーディネイターでありモビルスーツによる高速機動戦闘を真骨頂としてきたシン・アスカの動体視力は一般の人間など軽く凌駕する域にある。そして反射速度は“あの模擬戦”の際にデスティニーによって書き換えられている――戦士として力を発揮できる程度には。
 その二つがあって、シン・アスカの眼には彼女達二人の動きは、眼にも映らぬ動きではなく眼にも留まらぬ動きとして映り込んでいる。
 だが、眼で追えるからと言って肉体がソレに付いていけるかと言う話になると全く別の話である。
 高速で走る自動車の動きを眼で追うことは誰でも出来よう。ならば、それに追いつくことは出来るのか。不可能である。
 眼で追うことは、付いていけるとはイコールで繋がれないのだ。
 同じくシン・アスカも二人の戦闘に入り込むことは出来ない。あれほどの高速を生み出すことは彼には出来ないからだ。

「……デスティニー、ケルベロスだ。」
『All right brother.Kerberos standby ready.』

 アロンダイト――大剣形態だったデスティニーが変形し、砲撃形態――ケルベロスへと変化する。
 ケルベロスの射程距離内に入り、尚且つフェイトの邪魔にならない場所に移動し――シンは狙いを定める。
 シンの見た感じ、両者の戦いはほぼ互角。速度ではフェイトが僅かに勝り、威力では敵――その姿はしっかりとは見えないが恐らく女――が僅かに勝っている。
 拮抗している戦いであるなら、どこかで必ず“停滞”が起こる。
 それは一瞬かもしれないし、数瞬かもしれないし、数秒かもしれない。
 だが、それは隙だ。ならば、自分に出来ることはその瞬間に狙いを定めて砲撃する他に無い。
 無言でケルベロスの側面から飛び出した取っ手を握り締め、シンは目まぐるしく動く紅と金に狙いを定める続ける。

 ――もっと力があれば俺も加勢出来たかもしれない。

 取っ手を握り締める手に力が篭る。
 そんな“情けない”、“不甲斐ない”と言う思いがが彼の心を占めていた。


「はあああ!!!」

 双剣――ライオットザンバー・スティンガー。

「おおおおお!!」

 紅い爪――インパルスブレード。
 トーレの右手に現出した巨大な爪を双剣の一方が受け止め弾き、その隙間を縫うようにしてもう一方が突き抜いていく。
 だが、それを左手の爪――今は剣の形へと変化している――が受け止め、巻き込むようにして弾く――フェイトの右手からライオットザンバー・スティンガーの一方が滑り落ちるようにしてトーレの方向に持っていかれる。
 フェイトは左手に握る双剣の片割れに意識を集中し、魔力配分を変更。
 持っていかれた方の双剣の刃は一瞬でその刀身をナイフ程度にまで縮小し、逆に左手に握る双剣の刃が巨大化する。
 巨大化した双剣を両手で握り締め、力任せに振り抜き――トーレはそれを避ける為に自分の近くにまで引き寄せたライオットザンバー・スティンガーの片割れから手を離し、即時後方に退避する。

 後方に退避したトーレを見て、フェイトは自分の元に引き寄せたライオットザンバー・スティンガー――トーレに奪われそうになっていた方の剣である――を握り、両の手に双剣を構えると間髪入れず突進。
 トーレの右手が巨大化し――あの紅い爪だ――フェイトに向かって振り下ろされる。
 爪は斬撃範囲が最も広い代わりに大きな隙間がある。その分射程も短い。
 剣は長さを調節できるようで取り回しが良く、また斬撃射程も広いと使い勝手の良い武器のようだ。
 盾はほとんど使うことはないのだろう。恐らくは砲撃に対して対抗する手段――その程度の保険なのかもしれない。
 フェイトはその爪の一撃を、トーレの下方に潜り込むようにして回避すると、両手の双剣を一つに纏め、大剣――ライオットザンバー・カラミティ。災厄の名を纏いし雷光の大剣に変形させてトーレの下方より叩きつける。

「はあぁ!!!」

 咆哮と共にカラミティの巨大刃がトーレに迫る。

「くっ……!!」

 間一髪。トーレは両手の五指を閉じてインパルスブレードを大剣にし、ライオットザンバー・カラミティの一撃を防ぐ――拮抗する両者。バチバチと火花が散る。
 鍔迫り合い――その最中、トーレの口元が微笑みに歪む。

「……やはり、貴女は強いな。迷いを抱え込んだまま、これほどの力とは。」
「迷い……?」
「そうですよっっ!!」

 トーレが力任せにインパルスブレードを振るった。
 単純な力とフェイトの上空と言う位置関係から、トーレは容易く吹き飛ばす。
 距離が開く。トーレは間髪いれずに下方に吹き飛んだフェイトに向かって両の手のインパルスブレードを剣のままフェイトを挟み込むようにして振り抜く。

「くっ……!!」

 一旦、更に下方に退くことでフェイトはその一撃を回避し、すぐさまトーレよりも上空へ移動する。
 トーレも動きを止めることなく、フェイトに追い縋るようにして両の手を握り締めるようにして一本の大剣として展開。
 力任せに再び叩き付け――状態は再び鍔迫り合いへと移行する。

「戦えば分かるものでしょう――貴女の一振りには隠し切れない迷いがある。」

 夢のこと。答えなんて見つからない。それ以上に増えた疑問。
 ――“守れない”世界に用はありません。あそこは俺のいる場所じゃない。
 不意に、その言葉を思い出した。
 彼をどうするべきなのか、迷っていないなどと言えるのか。

「――っ!!私は、迷ってなんて、いない!!」
「……ふん、まあ、いい。」

 その時、口調が変わる。それまでのような礼儀正しく――慇懃無礼ではないが――態度ではない。
 その口調、その雰囲気。それは正に戦士。
 戦場で生き、戦場を寝床とし、戦場にてのみ散ることを望み、女だとか男だとかまるで関係の無い、力のみを拠り所とする誇り高き戦士のモノ。
 そう、彼女にとってフェイト・T・ハラオウンに迷いがあろうと無かろうと同じことだ。
 目前の敵を鍛えた力で打ち倒し、超える。ただ、それだけ。それだけがトーレと言う存在の全てであるが故に。
 元より、この会話に意味は無い。
 迷いを感じたと言うのは真実ではあるが、そんな迷いはトーレには一つも関係の無いことだからだ。
 その迷いの根源が何なのか分かるのならまだしも、だ。
 だからトーレにとってこの会話の内容に意味は無い――大事なのはフェイト・T・ハラオウンが会話に“答える”と言う事実。
 会話に答えるとはすなわち会話に集中すると言うこと。
 それは即ち――他の部分への意識の警戒が僅かばかりでも緩むと言うこと。

「っ――!?」

 それはフェイト・T・ハラオウンにとってはまるで無意識の行動だったに違いない。
 視界の端に何かが見えた。背筋を悪寒が走り抜けた。
 彼女の生存本能が警戒を鳴らした。
 彼女は現状の戦闘行動全てをかなぐり捨てて、後方に倒れこむようにしてその場を急速離脱した。
 瞬間、彼女の目前を通り抜けた一筋の紅い線。
 フェイトのバリアジャケットの胸元に僅かに切れ目が入った。

 ――トーレの思惑は簡単なことだった。鍔迫り合いの最中、言葉を掛ける。
 彼女の剣に迷いがあったのは打ち合い出した時から分かっていたことだった。
 だからこそ、それを会話に乗せた。
 狙い通りフェイトは会話に集中し、トーレの両手だけに意識を集中することになった。
 そこへ足元からの奇襲。人の眼と言うのは左右への反応に比べてどうしても上下への反応が遅くなる。
 そこを突いた奇襲。

 トーレの狙い通りならば今、フェイト・T・ハラオウンは臓物を巻き散らかして真っ二つになっているはずだった。
 だが、彼女は直感なのか本能なのかは知らないが、紙一重でソレを回避した。それは特筆に価することだ。稀有な技術である――だが、それだけだ。
 別段、彼女はそれを読みきって回避した訳でもなければ、カウンターを狙っている訳でもない。
 ただ、避けただけ。後方に倒れこむように避ける――無論、ライオットザンバーからは手を離さずに。
 鍔迫り合いの最中そんな風に動けばどのような隙が生まれるか――考えずとも分かる。

「ふっ――!!」

 鋭く息吹を吐き、トーレの左足が後ろ回し蹴りの要領でフェイト・T・ハラオウンの腹部に激突する。

 ――身体を捻る。無理矢理にライオットの柄でそれを防御する。
 だが、そんな不安定な体勢からの無理矢理な動作で防御が叶うほどトーレの後ろ回し蹴りは弱くは無い。
 鳩尾に叩きこまれ、横隔膜を突き破ってもおかしくなかった蹴り――それはむしろ突きと言うべきか――はライオットザンバーの柄に接触し、狙いを僅かに外れ、ちょうど彼女の右脇腹と右脇の中間――ちょうど肋骨のあたりである――を掠めるようにして突き抜けていった。

「――あ」

 めきり、と音が、フェイトの耳に届いた。
 同時に加速する風景。その様はどこか万華鏡の中を覗くようにグルグルと回転し、押し込まれていくような錯覚の中で、フェイトの意識は消失した。



[18692] 15.運命と襲撃(c)
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/14 01:01
「……これで、終わりか。呆気ないものだな。」

 瓦礫の中、フェイト・T・ハラオウンが瞳を閉じて、気を失っていた。
 その身体中に傷を負い――だが、致命傷となるような傷は一つも無いことから気を失ったのは傷ではなく叩きつけられた衝撃によってだろう。

「せめて、苦しまぬように一撃で殺してやろう。」

 トーレの右手が大きく朱く輝き出す。現出する“爪”。これまでで最も巨大な――人間一人程度ならば一瞬で消し飛ばすほどに巨大な爪。その爪を高々と掲げ、トーレは呟いた。

「――さよならだ、フェイト・テスタロッサ。」

 そして、トーレがその右手を振り下ろした。ここで、間違いなく、フェイト・T・ハラオウンはその命を散らす。
 ――だが、振り下ろし出した瞬間、彼女の肉体に衝撃が与えられた。
 感じ取るは衝撃だけではない。熱量もだ。直撃した左肩にダメージが生まれる。それはこの戦いが始まってから初めての“直撃”だった。

「あ、がっ……!?」

 全くの完全な不意打ち。トーレは完全に無防備な状態で、防御も耐えることもせずにその一撃を食らうことになった。彼女の左肩から煙が上がる。
 その一撃。その名は“ケルベロス”。地獄の番犬の名を冠された砲撃魔法――シン・アスカの魔法。

「うおおおおおおおおお!!!」

 デスティニーを大剣形態――アロンダイトへと変形させ、振りかぶり、全速でトーレに向かって突進するシン・アスカ。
 その背後からは何十発もの朱い間欠泉――パルマフィオキーナが放たれている。
 パルマフィオキーナによる連続加速によって通常の何倍もの速度でこちらに突進してきている。

「……加勢、か。」
「はああっ!!」

 シンが手に握り締める大剣が朱く輝く。一撃必倒。それは斬撃武装としては破格の威力を有する無毀(ムキ)の大剣――アロンダイト。

「くうっっ!!」

 トーレ、咄嗟に展開した両手のインパルスブレードでそれを受け止める。
 だが、先ほどのケルベロスによるダメージが未だ残っているのか、受け止めきれずにジリジリと押し込まれていく。

「パルマ!!」

 叫び。
 シンの右手がアロンダイトの柄から離れ、トーレに向けて突き出される。
 収束し、変換し、吹き上がり出し半円状に膨らむ魔力――それは破裂する寸前のマグマを連想させる、朱い魔力の間欠泉。
 トーレの両目が見開かれる。全身のライドインパルスが紅く輝く。これまでよりも更に強く、禍々しく。

「フィオキーナ!!!」

 詠唱の咆哮と共にシンの右手から朱い魔力の間欠泉――パルマフィオキーナが吹き上がった。
 近接射撃魔法パルマフィオキーナ。
 近接限定と言うことから分かる通り、その威力は並みの砲撃魔法よりも遥かに大きい。
 これが射撃魔法と言うのは単純に見た目の問題である。吹き上がる間欠泉――そのイメージで放つ以上は、吹き出す魔力は砲撃のように太く大きいものではなく、細く小さいものとなる。無論、砲撃と違い、溜める必要がない為に出が速い、射程が短いなどの理由もあるのだが。

「……どうだ。」

 油断無く、シン・アスカは先ほどの筋肉質の女――トーレが吹き飛んだ方向に見つめる。
 先ほどから彼はずっと二人の戦いを観察し、ケルベロスを狙っていた。
 だが、何をどうしようとも二人の距離は離れず、撃つことは叶わなかった。下手に放てば敵に当たるどころかフェイトに直撃しかねないからだ。
 フェイトのバリアジャケットはいつもと違い、水着と見紛うような軽装である。
 その格好が戦闘における能力にどれだけの変化を持つのかシンは知らない。
 もしかしたら見た目に反して防御力は高いのかもしれない。
 だが冷静に考えて、水着のような軽装にケルベロスが間違えて当たっても無事なフェイトというイメージが浮かび上がらなかったのでシンは撃たなかった。
 それは正解である。現在のフェイトのバリアジャケットは速度重視の防御力は皆無に近い。ケルベロスが命中した場合怪我では済まない重傷を負いかねなかった。
 だが、フェイトが吹き飛ばされ、地面に叩きつけられ、身動きを取らない状態となり、更には敵がトドメを刺そうと近づいた時、そんなことは頭の中から抜け落ちた。
 トドメを刺す為に動きがゆっくりとしたものに変化したからだ。それは紛れもなく狙うべき隙だった。
 狙いを定め、逡巡無くケルベロスを発射。同時に飛行によって一気に近づき――と言うよりも突進し、そして至近距離からの一撃を見舞うことに成功した。
 これがここまでにシンが描いてきた軌跡である。

「……」

 至近距離からのパルマフィオキーナ。
 特に今の一撃はあの一瞬で注ぎ込める全ての魔力を投入した一撃。直撃したならば、どんなに頑丈であろうと意識を根こそぎ奪い取る自信はあった。
 だが、そんな自信を打ち破るかのように彼の心には確信があった。そんな程度で倒せるような敵ではない。そんな確信が。
 そして、その確信の通りに、声がした。

「……なかなか、やるじゃないか。不意打ちとは言え、私に一撃を見舞うとは、な。」

 吹き飛んだ方向。その瓦礫の中から筋肉質の女が、何事も無かったかのように現れた。
 ――いや、何事も無かったなどと言うことはない。良く見ればケルベロスの直撃を受けたその左肩は焦げ付き、全身を覆うラバースーツもところどころに傷が付いている。

「シン・アスカ、だな?」

 女は衝撃で崩れ、顔を覆っていた髪をかき上げ、確認するようにシンに声を掛けた。

「……」

 その瞳を見た瞬間、シンは 無言でアロンダイトを構えた。
 そして、考えた。今、自身の背後にいるフェイト・T・ハラオウン。どう自分を犠牲にすれば彼女を助けられるのか、と。

 シン・アスカ。彼は歴戦の勇士である。
 その殆どがモビルスーツによる戦闘のみとは言え、戦ってきた年月とその密度、死線を潜り抜け死線に叩き込んできた数などはフェイト・T・ハラオウンやギンガ・ナカジマなどの機動6課の面々とは比べ物にならないほどの経験である。
 その濃密な戦闘経験が彼に言っている。
 目前に佇む女。コレは強者だ。油断もしなければ、遊びもしない、紛うことなき戦士。
 自分では――少なくとも現在の自分では何をどう足掻いたとしても勝つことは出来ない。確実に殺されるのだと。

 だから、犠牲になる。フェイトを助ける為には――守る為にはそれしか方法が無いからだ。
 思考は滑らかに。自分を犠牲にする幾多の方法を思考する。
 どう犠牲になればいいか。
 逃げるべきか?背中を見せた瞬間に肉体は真っ二つにされている。
 戦うべきか?敵わない。何をどうしたところで必ず殺される。突進しようものなら数瞬後に肉片と化しているに違いない。 
 そんな死は犠牲でも何でもない単なる無駄死だ。
 ならば、どうする?
 どうすれば、フェイトを助ける“犠牲”が出来る?

「沈黙か……まあ、いい。どの道、やることに変わりは無い。」

 トーレの全身の朱い羽根が輝きを開始する。両の手に再び爪が生まれる。

「死んでもらおうか。」

 言葉と共に爆発する鬼気。瞬間、トーレの姿が掻き消える。高速移動――ライドインパルス。その動きは通常の知覚で追えるようなモノではない。
 脳裏に閃き。肉体はその閃きに刹那の間隙も入れずに追随する。

(ここだ……!!)

 掻き消えたトーレ。だが、シンの目はそれを追っていた。シンの書き換えられた反射速度は捉えていた。
 トーレが今、どの方向に移動して何をしようとしているのか、シン・アスカはそれらを読み切ることが出来る。少なくとも眼で追える。
 無論、その動きに対応することなどは出来ない。
 如何に眼が良かろうと肉体はその動きに反応するようには出来ていない。
 シン・アスカの肉体にそれだけの性能は無い――だが、一度だけならその動きに追随することは出来る。
 何故なら彼にはフィオキーナと言う“裏技”がある。身体中から収束した魔力を放出しバーニアやスラスターのように操る。シン・アスカ独自の高速移動。

 ――朱い瞳が血の如く紅い軌跡を捉える。

 トーレが攻撃しようとする方向は自分の右後方。
 そこからシンの首をその手の刃で切り落とすつもりなのだろう。
 こちらが何が起きたかを考える暇も与えずに頚動脈を切り裂けば――否、そんなことをせずとも首ごと刈り取ればそれで戦闘は終了する。
 フィオキーナが発動する。
 シンの右肩前面、そして左肩後方から“同時に”最大威力のフィオキーナが発射された。
 違う方向に同時にパルマフィオキーナを発射した場合、どうなるか。
 簡単なことだ。肉体は独楽のように回転する――以前、シグナムとの模擬戦で使用した時と基本的には同じ方法。
 違うのは発射するパルマフィオキーナの威力とそれに合わせて横薙ぎを行うと言うことくらい。
 シンの肉体が独楽のように回転する。
 最大威力のパルマフィオキーナによって回転した肉体はトーレが攻撃する前にシンをその方向に“振り向かせる”ことに成功させる。
 トーレの表情に驚愕が浮かぶ。
 それはありえないことが起こったとでも言わんばかりの表情。
 そして、シンの全身全霊による回転による威力増加も伴ったアロンダイトによる横薙ぎがトーレの刃と激突する。そのまま鍔迫り合いの状況へ移行する。

「いっけえええええ!!!」
「貴様――!!?」

 叫び、シンの肉体の後方――右腰、左腰、右膝、左膝、右肩、左肩、背中の計7箇所から朱い間欠泉が吹き上がり、シンの身体がトーレに向かって“弾け飛んだ”。
 それはフェイトとは逆の方向――引き離す為に。敵を、彼女から、可能な限り引き離す為に。
 彼があの一瞬で考えたことはそれだった。
 敵をフェイトから可能な限りに引き離し、救助を要請する。
 ただ、それだけだった。バルディッシュ――デスティニーに通信させた――には先ほどからずっと救難信号を発信させている。
 少なくともそうしていれば後から追いついてくるメンバーが場所が分からないと言うことも無い。
 自分が目の前の敵を押さえ込むことが出来れば、6課の仲間が彼女を救助に来る、と。

「うおおおああああああ!!!!」

 アロンダイトでインパルスブレードを押し込み、パルマフィオキーナの勢いそのままに吹き飛んでいくシン。
 一瞬で組み合った二人の距離はフェイトから離れていく。だが、

「私の邪魔を……するなぁ!!」

 トーレが全身のライドインパルスを最大規模で発動。
 紅く禍々しく羽根が輝き震える。
 動きが止まる。シンの突進が止められる。態勢は鍔迫り合い。押し込んでいたアロンダイトがトーレのインパルスブレードによって、逆に押し返されていく。

「はああ!!!!」

 裂帛の気合と共に渾身の力でアロンダイトを弾き返すトーレ。
 アロンダイトが跳ね上げられた。シンは態勢を崩し、両の手を広げている――無防備な状態。隙だらけ。 
 トーレが両手を振りかぶる。
 紅く巨大な爪がその両手から生まれた。禍々しく美しく輝く爪。
 無防備な現在の状態で喰らうその一撃はシンの臓腑を抉り、見るも無残な姿へと変えるに違いない。
 その爪が抉った自分を思い浮かべる。
 四肢を失い、臓腑を撒き散らし、身体中を切り刻まれ、肉片と化した自分。人間ではない。畜生の餌以下の自分。

(死ぬ。)

 確信が浮かぶ。間違いなく殺される。場所はフェイトからさほど離れていない。
 その距離は凡そ数百m。囮にすらなれていない。自分が死ねばフェイトは確実に殺される。
 それは駄目だ。それだけは駄目だ。何故なら、それでは、単なる無駄死にだ。

(ふざけるな。)

 心中での叫び。無駄死にをする為に此処まで来たのではないと叫ぶ心。
 自分がここにいるのは何の為だ――考えるまでも無い、守る為だ。誰かを、眼に映る全てを。
 死ぬのは怖くない。むしろ問題ないとさえ言える。犠牲となり、誰かを守って死ねるなど最高の一言に尽きる。悔いなど無い。十分過ぎる。

「――ふざけるなよ。」

 だが無駄死だけは駄目だ。
 無駄に生きて、無駄に死んで、誰も守れずに、ただ消えて行く。
 それだけは決して許せない。そんな“今まで通り”の無駄死を許せるような潔さをシン・アスカは持ち合わせてはいない。
 彼は自身の願いを叶える為に此処にいる。

 その為に力を得た。
 その為に鍛えてきた。
 決して、こんなところで無駄死にする為にいる訳ではないのだ。
 目前の敵の力は万武不倒。どんな裏技を使ったとしても、決して届かない位置にいるのは明白。
 届かせるなら――少なくとも渡り合うには力が必要だ。それこそ、何もかもを守れるような絶対足る力が。

「そっちこそ――」

 求めは内に。叫びは外に。
 記憶を掠める幻影。
 家族が見えた。
 妹が見えた。
 守れなかった少女が見えた。
 守れなかった少年が見えた。
 殺してきた誰かが見えた。 

 ――何かが見えた。泣いている誰か。笑っている誰か。見たことも無い誰か。様々な誰かの思い出がカケラとなって入り込んでくるような錯覚。
 
 シン・アスカのココロが稼動する。螺旋模様にくるくると。ゼンマイ仕掛けの人形のように。
 がちり、と音がした。無音の響きが。

「俺の“願い”の……!!」

 空気がざわめく。吹き飛ばされた態勢そのままに、シン・アスカの周辺が陽炎のように揺らぎ始める。

「邪魔をするなぁっ!!」

 叫びに呼応するようにしてデスティニーの液晶画面に文字が映る。

『Mode Extreme Blast.Gear 4th ready.』

 デスティニーから放たれた言葉。その瞬間、シンの脳裏で何かが“弾けた”。
 朱い瞳が焦点を失った。広がる知覚。
 世界を自分のモノとして捉えたような感覚。戦時中、シンを幾度も救い、そして模擬戦の際にシンを“変質”させたあの感覚だ。
 だが、変化はそれだけに留まらない。
 言葉が流れる。デスティニーの液晶画面に。

『Nervous system intervention start――End(神経系介入開始――終了)』
『Life activities optimization――End(身体内部活動最適化――終了)』
『The power release operation preparations start――End(魔力放出操作準備開始――終了)』
『Acceleration start(高速活動開始)』

 畳み掛けるようにして流れていく文字列。
 それが消えると陽炎のように揺らいでいた彼の周りの空間が朱色で染め上げられていく。それはパルマフィオキーナと同じ朱い光――というよりも朱い炎。
 そして再び身体中を走り抜ける朱い光。
 ドクン、ドクン、と心臓の鼓動のように明滅し流れていく回路上の朱色。
 明滅は加速する。ドクンドクンという鼓動から、ドドドドドという轟音へと。

「ぐ、ぎぃ。」

 うめき声を上げてシンの肉体が悲鳴を上げた。 
 心臓の鼓動が加速した。
 身体中の血流が増加する。
 拡張する血管。血圧が一時的に極端に上昇し、血管が膨れ上がった。
 同時に肉体が膨張する。血管の膨張に伴って。破裂寸前の肉体。
 そしてそれを押さえ込む朱い炎。魔力の圧力によって膨れ上がった肉体が元々の大きさにまで縮められる。
 身体中を激痛が走り抜ける。それをシンは奥歯を割れんばかりに噛み締めることで耐え抜く。

 ――脳内に流れ込む“情報”。デスティニーがシンに送信する現在の状況説明であり、今施された“処置”の内容であり、これより自分がどうすればいいかの指針。

 襲い来るトーレの姿を捉えた。その速度は人外の領域。人の反射速度を凌駕した速度。
 だが、シンはその高速の一撃を――アロンダイトで“受け止めた”。それまでとはまるで違う。ギリギリではなく、流麗なシン・アスカの肉体に定着した“達人”の動きで。

「なにっ!?」

 これまでに無いほどに驚愕するトーレ。驚きは当然だ。
 突然、シン・アスカの反応速度が変化したのだ。
 それまでよりもはるかに速く――それこそ、これが人間かと疑いたくなるほどの速度へと。

「……貴様、今、何をした。」

 受け止められた爪を前に、トーレが呟いた。
 エクストリームブラスト。現在、デスティニーがシンに施した魔法の名だ。
 この能力もシンの肉体を癒した術式と同じくデスティニーの中に格納されていた魔法の一つ。
 ただし、この能力は今シンに発動している能力とは少し違う。
 元々格納されていたのはシン・アスカのSEEDを強制的に発動させ、神経系に介入し、人の感じ取る“一秒”と言う単位を1/2秒、1/3秒、1/4秒と言った具合に圧縮することで、体感時間を加速させる。
 1/2秒であれば2倍。1/3秒であれば3倍。1/4秒であれば4倍と言った具合に。
 それ自体は肉体を加速させる効果などは無い。本来、この魔法は現在のデスティニーには“組み込まれていない”パーツが生み出す魔法を制御する為のモノである。
 故に本来であれば、この魔法は宝の持ち腐れに他ならない。
 どれほど体感時間を加速しようとも肉体の行動速度は変化しない。
 加速した体感時間に引き摺られて、多少は速くなるかもしれないが、“高速活動”と言うほどには決してならない。
 逆に肉体と脳の時間が乖離し、感覚だけが暴走すると言う行為になりかねない――本来なら。
 だが、デスティニーには――シン・アスカにはフィオキーナと言う高速移動があった。
 彼の全身を覆う朱い光――それはパルマフィオキーナそのもの。
 パルマフィオキーナを間欠泉と例えたが、あちらが間欠泉ならば、こちらは太陽から吹き出る紅炎(プロミネンス)。
 肉体そのものを発射寸前――つまり待機状態のパルマフィオキーナで覆い、肉体のありとあらゆる“活動”をパルマフィオキーナによって加速させるのだ。
 シン・アスカの加速した体感時間に肉体を追随させる為に。
 膨れ上がり破裂しそうな肉体を押さえ込んだのは魔力を圧縮する為である。常に魔力を圧縮することで最大威力のパルマフィオキーナを常に発動できるように、と。
 SEEDによる感覚の鋭敏化と知覚の拡大が、デスティニーによる体感時間の加速を“許容”し、全身を覆うパルマフィオキーナの朱い光がシン・アスカを高速の世界へと誘う。
 その様は正に炎。
 作り変えられた肉体はこの為に。
 書き換えられた神経系はこの為に。
 それが定着し、使用可能と判断され、デスティニーは術式施工を開始した。
 シンの叫びに呼応し、彼の敵全てを打ち倒し、彼の願いを軒並み叶える為に。
 今、この瞬間、人間シン・アスカは姿を消す。そこにいるのは人機一体を具現した戦士の雛形。

「……なるほど」

 ――シン・アスカは炎となってキミたちを燃やし尽くすだろう。
 
 シン・アスカを覆う朱い炎の如き魔力。自分のライドインパルスの紅とは違う朱い炎。
 インパルスブレードを受け止められ、その炎を間近で見たトーレの脳裏にあのギルバート・デュランダルの言葉が蘇った。
 あの交錯――彼女はあの時スカリエッティの隣に佇み、その一部始終を見届けていたのだ。

(あながち冗談では無かった訳だ。)

 呟きと共に全身の神経を張り詰める。
 突然、強く速く鋭くなった彼の動き。
 インパルスブレードを難なく受け止めていることからも、その実力が伺える――何故突然動きが良くなったか、その理由は分からないが。だが、トーレにしてみればそんなことはどうでもいい。彼女にとってシンが強くなったことは喜びこそすれ、憂うようなことではないからだ。
 戦士という人種にとって強者とはつまりご馳走である。
 戦いに溺れるようなことは無いにしても、戦い無くして生きていけないのが戦士だからだ。
 先ほどの動きを見れば、シン・アスカは十分にトーレと戦える程度の実力を持っていると思っていい。
 しかも、そんな強者が今、自分の前に立ち塞がっている。

(ならば、断ち切るしかないじゃないか……!!)

 トーレの唇が釣り上がる。獰猛であり、凶暴であり、そして何よりも――美しい微笑みが浮かぶ。
 それは肉食獣の笑み。命の鬩ぎ合いを何よりも望む微笑みであった。
 シンが無言で動いた。一歩前へ足を踏み出す。トーレも動いた。もう一方の手には爪ではなく大剣が生まれていた。

 ――瞬間、巻き起こる旋風。疾風が吹いた。土埃が舞い上がった。
 
 線と線の応酬。シンの身体が残像を残して分裂する。トーレの身体が残像を残して分裂する。
 アロンダイトとインパルスブレード。二種の得物が織り成す高速斬撃の応酬。
 それは余人には線と線が絡み合うようにしか見えないほどの高速斬撃。
 彼ら二人の間で交錯するそれは優に秒間に十発ほど。
 切り下ろし、切り上げ、刺突、袈裟、逆袈裟、右薙ぎ、左薙ぎ。
 考えうるありとあらゆる斬撃方向で絡み合う刃と刃。
 それと平行してじりじりと二人の足が動いていく。徐々に近づく距離。
 止まらない歩みと同様に斬撃の応酬も止まらない。
 耳に届くは、高速で鳴り響く甲高い金属音。チチチチチチチ――と何十匹もの鳥が一斉に鳴き出したようなそんな音。
 アロンダイトという刃金とインパルスブレードと言う光刃を打ち合わせる音である。
 二人の手元と言わず、その全身は人間の視認速度を大きく超えた速度で活動している。故に間断の無いそんな鳴き声のような音を生み出すのだ。

 両者、搦め手などは使用しない。
 目前の敵を斃す方法は一つ。出し抜くのではなく、追い抜く――それのみだと理解しているからだ。
 上下左右前後。ありとあらゆる角度・距離・態勢から放たれる斬撃はもはや斬撃ではなく弾丸の如く。
 弾け飛ぶ空気。捻じ曲がる大気。そして、耳に響く金属音。その音が僅かに一瞬足りとも隙間を開けずに辺り一体を覆い尽くしていく。

 ――そして、血色の紅と炎の朱が弾け飛んだ。
 
 両者が同時に放った大振りの一撃――とは言え視認もかくやと言う高速の一撃である――でお互いの一撃の魔力が相殺されずに爆発した。
 爆発。噴煙が上る。そして、縦横無尽にその噴煙を断ち切るようにして駆け抜ける二つの赤。
 
 炎の朱――シン・アスカと、血色の紅――トーレ。
 シンの大剣による一撃を爪状のインパルスブレードで打ち払い、残る左手のインパルスブレードを叩き付ける。
 その一撃を後退するのではなく、更に前に踏み込むことで回避するシン。
 そして――突進の勢いそのままにトーレの鳩尾に向かって肘打ちを放つ。
 不敵な笑みを浮かべ、トーレはその一撃を後方にシンが突進してきた距離の分だけ移動することで回避する。

 紙一重で当たらないシンの左肘。
 だが、それで終わる訳でもない。
 そこから左腕を伸ばし、トーレの胸に手を当てる。
 パルマフィオキーナ。近接射撃魔法の直接発射。
 だが、トーレとてその動きを読み切っている。
 戦士の経験は伊達ではない。
 トーレはシンが左手を伸ばし押し当てようとする寸前に、その身体を更に近づけた。
 否、近づけると言うよりも突進である。
 突然の突進によってシンの左手はその勢いで上に弾かれ――懐に隙が生まれる。

 トーレの左手がシンの腹部に押し当てられた。
 一瞬の混乱。
 トーレの左手にはインパルスブレードは生まれていない。
 ならば、単純な殴打かと思えば、そうではない。
 ただ押し付けただけだ。瞬間、トーレの全身に力が満ちた――シンの背筋を怖気が走る。咄嗟に右手をトーレの左手に向ける。
 無言でシンは全身の魔力を右手に集中。既に待機状態のパルマフィオキーナが全身を覆っている以上は魔力の流れは何よりも滑らかであり、尚且つ早い。
 放たれる朱い魔力の間欠泉。同時にトーレの身体が“ブレ”た。
 残像を生み出すかのように高速でブレた身体はその前よりもおよそ10cmほど前進していた。
 そして、遅れて――数瞬の後、トーレの拳が向かう方向の先で瓦礫が“破裂した”。まるで何かが激突したかのように。
 口を開き犬歯を見せ付けるようにして、微笑むトーレ。よくぞ避けた。そう言いたげな笑みだった。
 今の拳の一撃はトーレの新たな技――切り札である。その名をインパルス。

 全身の関節を筋肉で締め上げ固定した状態からライドインパルスによる局所的な超高速移動を行う。ただ、それだけの技。
 だが、ただ“それだけ”の一撃が生み出すその衝撃は強烈という言葉すら生温い一撃である。
 トーレという物体の持つ重量が音速の速さまで一気に加速し、10cm移動するのだ。
 運動エネルギーとは質量と速度の二乗の積に1/2を掛けたモノ。
 10cmという超々短距離の中で音速に到達するライドインパルスの“加速”だけが可能とする強大無比の一撃。
 その一撃が生み出す運動エネルギーは高速で迫る砲弾など簡単に凌駕する。
 今、シンがそれを避けたのは単なる偶然であり直感である。
 だが、もし避けていなければ――シンの腹部には今頃巨大な穴が開いていたことだろう。

 僅かに開いた距離。それを埋めるように、二人の身体が再び激突する。
 振りかぶったアロンダイトと振り上げた爪の激突。
 交錯は一瞬。そして、

「くっ……!」

 トーレが苦しげに呻く。
 シン・アスカのアロンダイトがトーレのインパルスブレードを突き抜け一撃を加え、彼女の右肩に直撃し――

「がぐ……!」

 言葉にもならない吐くシン。
 トーレの右足が彼の左脇腹に接触し、掠めて、突き抜けている。
 瞬間、両者はお互いの得物によってお互いに与えられた衝撃を逃すことも耐えることも出来ぬまま――吹き飛んでいった
 加速する景色。その中でシンは見た。自分が今、吹き飛ばされている方向、その先に意識を失い瞳を閉じて眠るフェイト・T・ハラオウンを。
 ――意識が肉体に介入する。

「……とま、れ」

 呟き。身体が言うことを聞かない。確実にフェイトに直撃する。
 この速度で自分が彼女にぶつかれば大怪我では済まないのは明白。フェイト・T・ハラオウンを殺すことになる。
 
「――とまれええええええ!!!」
 
 絶叫。即座に自身を覆うパルマフィオキーナを利用して、地面に向かって自分自身を叩き付けた。垂直落下。地面にダウンバーストのごとく。
 迫る地面。左右への方向転換を思案――不可能。方向転換は出来ない。この速度粋では軌道が変わる前にフェイトに激突する。彼女は死ぬ。
 惨劇を防ぐ方法――そんなものは一つしかない。止める。彼女を守るには停止させるしかない。

「ああああああああ!!!!!」

 叫びながら、全身の魔力を振り絞り、全身全霊の力でアロンダイトを地面に突き立て――それでも身体は止まらない。

(止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれええええええ!!)

 叫んでいる暇も無いほどの渦中。故に内心で絶叫。狂ったようにソノ言葉を何十回も繰り返す。
 それでも止まらない。フィオキーナを背部に集中させる。
 背中や腰、関節部分に激痛――歯を食いしばってそれを無視し、ひたすら集中する。
 流れる汗。呼吸が出来ないほどの激痛。目の奥がチカチカする。噛み締めた奥歯が痛い。

「ああああああああ!!!」」

 絶叫。そして、彼の身体が減速していく――彼女の目前、数mでようやく停止。
 彼の身体を覆っていた朱い炎もその姿を消している。そして、彼の瞳にも焦点が戻っている。

「……よかっ……」

 その言葉を言い切る前に、シンの膝が地面に付いた。足に力が入らない。

「あ、れ……?」

 そして、次は身体。糸をなくした操り人形のように、力無く蹲るような態勢になり、

「……ぐっ、げほ……げほっ!?」

 口元から夥しい量の血液がこぼれた。
 急激な加速と減速。更には人間の限界を超えるような速度。
 それを制御する術や身体を防御する術など持たないシンがそんなことをしたのだ。
 内蔵のどれかを傷つけていても何ら不思議ではない。そして、更には――

「あ、は、あ、ぐ……!!」

 ――全身を針で同時に刺されるような激痛が襲った。神経を直接抉るような激痛。声すら出せないほどに。
 そして、彼の身体の節々から立ち昇り始める“蒸気”。

「……時間、なのか、デスティニー」
『Yes, Regeneration start.』

 リジェネレーション。肉体の自動回復の魔法である。
 あの模擬戦の際にシン・アスカの肉体を治癒した魔法。それが今再び機能し出したと言うことだ。
 先ほど感じた痛み。それはつまり肉体を治癒する為に生まれる反動。
 強制的に肉体の回復を促進するが故の反動である。蒸気は彼の肉体を癒す際に生まれた熱によるもの。
 そして回復に使用した魔力が次から次へと霧散していくことによるものだ。
 かつり、と音がした。シンは振り向き、身体を起こした。息は絶え絶え。身体は満足に動かない。正に虫の息の状態で。

「……殺さ、ないの……か。」

 身体を起こし、地面に座り込むような姿勢でシンは既にかなりの距離にまで近づいていたトーレに呟いた。

「よく言う。近づけば不意を付いて攻撃する気だろう?」

 トーレはその言葉を受けると、肩を竦め、笑いながら返事を返した。

「……さあ、ね。」

 シンはその返答に内心、舌打ちをしていた。
 彼女の問いは概ね合っている。
 今、彼女が不用意にこちらに近づけば刺し違える覚悟でもう一度エクストリームブラストを発動するつもりだったのだが――どうやら敵はまだまだ冷静らしい。
 状況は絶望的。
 自分は身動きどころか死んでいないのが不思議なほどに満身創痍。
 あちらにも手傷は与えたモノのそれでもこれだけ軽口を叩けると言うことは致命傷ではないと言うことだ。こうなっては刺し違える程度で覆せるモノではなかった。

 ――だが、だからどうしたと言うのか。

 シン・アスカは心中で呟き、力の入らない足を片手で押さえ込み、もう一方の手でアロンダイトを杖代わりに立ち上がる。
 戦う為に。

「……」

 彼女を見つめる視線は一途な朱。何があろうと、たとえこの身体がどうなろうとも、自身の背後にいる“人間を守る”。
 願いを、叶える為に。彼はここで眠っている訳にはいかないのだ。

「……凄まじいな、貴様は。本当なら捕えておきたいところだが――」

 そんなシンの姿に感嘆の溜息を吐いてトーレは地面に膝を付き、右拳を地面に押し当てた。

「お前は捕えておくには問題が多すぎる。ドクターの“世界を救う”計画の邪魔になるのは確実だ。」

 トーレが拳を押し当てた――その意味にシンが気付くのは僅かに一瞬、遅かった。

「死んでもらう。もっと安全な方法で。」

 呟きと共にトーレの身体がぶれる。ライドインパルスによる超近接打撃「インパルス」
 あれほどの威力の攻撃を瓦礫だらけのこんな場所で――しかも地面に向けて使えばどうなるのか。そんなもの想像するまでもない。
 ――全てが壊れるに決まっている。

「く、そ……!!!」

 地面に亀裂が入った。
 フェイトは未だ眠りから眼を覚まさない。
 ズルズルと落ちていくフェイト。シンは咄嗟にフェイトに抱きつき、その肢体をきつく決して離さないようにと力強く抱きしめた。

 ――眼下に見えるのは真っ暗闇。下水道。もしくはそれに類する施設に繋がっているのかもしれない。
 
 そして、シンがフェイトを抱き締めたまま上空に向かって、何とか昇ろうとした時――

「トドメ、だ」

 そこにはそれを待ち構えていたトーレがいた。右手の爪がこれまでで一番巨大化している。そして、その言葉を言い終える間に爪が振り下ろされた。
 思考は一瞬。逡巡も一瞬。行動に移る際には間髪入れず。
 シンの脳裏に浮かぶ言葉はたった一つ。

(守る)

 その“願い”に従い、彼は言葉を発することもなく、“自ら”その暗闇に落ちていった。
 フェイトを抱き締めたまま、瓦礫を避けるようにして。
 上空に昇れば確実な死が待っている。
 だが、下方――暗闇に落ちればまだ可能性はある。
 少しでも守れる可能性があるならば――そんな考えで彼は自ら暗闇に落ちていった。

「……ふふ、やはり、逃げられたか。」
 
 少しだけ嬉しそうにトーレは呟いた。
 その表情にはもう一度戦う機会が欲しいと言う愉悦があった。彼女はあの二人が死ぬなどと露ほどにも思っていない。
 特にあの男――シン・アスカ。
 あの男は死なない。
 その前歴や“こちら”に来てから経歴を多少聞いてはいたが――実際に出会ってみて彼女は思った。あの男はこんなところでは死なない。
 運命は、あの男にこんな所で死なせてやるような幸運を許していない、と。
 だからこそ、楽しい。だからこそ嬉しい。

「……また会おう、シン・アスカ。今度は二人で、な。」

 それはどこか愛の告白にも似た“熱”が籠っていた。



[18692] 16.運命と襲撃と(d)
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/14 01:02
「くっそっ……!!!」

 エリオ・モンディアルがその手に持つ槍――ストラーダを再び、構える。
 足場の無い空中での戦闘は分が悪い。そう判断したシグナム、エリオ、キャロの三人は戦闘の舞台を地上に移していた。
 そこならばエリオ・モンディアルの高速機動戦闘を遺憾なく発揮出来る、という目算でだ。
 事実、先ほどからエリオ・モンディアルの攻撃は何度と無く敵の身体中に届き直撃している。
 そして、その援護を受けてアギトとユニゾンし遺憾なく力を発揮するシグナム。
 速度と力による連携。そしてそれを支える後衛。それは傍目には安心を生み出す光景である。此方が優勢である、と。
 だが、何度目かの攻撃を終えた後にエリオは思った。

 ――通じていない、と。

 彼らは勘違いをしていた。
 本来ならばライトニング分隊において最大戦力に位置するフェイト・T・ハラオウンにこそ最大戦力を当てる、と。
 最優、もしくは最強のスペックには同じく最強を当てる。それが定石である。
 故に、ナンバーズ・トーレこそが敵の中で最も強いのだ、と。
 だが、それは否だ。断じて、否。
 彼女達は知らないが、ウェポンデバイスとは小規模次元世界の作成を用いて、モビルスーツを人型サイズにまで圧縮したモノである。
 ウェポンデバイスを相手にすると言うのは即ちモビルスーツ――全高およそ十数mの鋼の塊を相手にするのと同義である。
 見た目が人間サイズだからと安堵することは出来ないのだ。
 彼らウェポンデバイスが放つ光熱波は即ちCE世界にて猛威を振るったビーム兵器そのもの。その手に持つ格闘武器は即ち鋼を砕き破壊する殺戮鈍器そのもの。
 その重量も。その装甲の厚さも。その装甲の質も。
 全て、モビルスーツと同じなのだ――いや、違う。
 プロヴィデンスがドラグーンを地上で使えたように、魔法というCE世界には存在しなかった技術を取り入れたことでその性能はCE世界で稼動していた時よりも向上していると言ってもいい。
 また、機械である以上は避けて通れない電気や水への耐性。魔法という技術を利用すれば、そんな弱点など簡単に防護できる。
 つまり、ウェポンデバイスとは人間ではない。モビルスーツという機動兵器そのもの。
 スターズ分隊の連携攻撃――ディバインバスターとリボルビングステークという二つの一撃必倒で倒せなかったのも当然である。
 全高十数mの鉄の塊――しかもその装甲はフェイズシフト装甲という打撃や斬撃などの物理衝撃に強い特殊な物質である――が倒せるだろうか。
 冷静に考えて無理である。装甲の厚さ。装甲の質。そして重量。
 速度や技術などを帳消しにする圧倒的な攻撃力と防御力。それがウェポンデバイス。
 
 ナンバーズ・トーレ。彼女は比類なき強者だ。
 だが、彼女であっても真正面からの戦いでウェポンデバイスには勝てない――無論、彼女は真正面以外からの戦いを挑むであろうが。
 
 真正面からのぶつかり合いでウェポンデバイスを倒せるのは同じウェポンデバイスかモビルスーツのみである。
 現状で効果がある攻撃があるとすれば、それはシグナムとアギトの火龍一閃それのみである。それ以外の攻撃は全て“通用しない”。
 
 自然、エリオ・モンディアルはキャロ・ル・ルシエのブーストを受けた上での持ち前の高速機動による撹乱と回避しか出来ることは無くなる。
 シグナムはその撹乱によって生まれる隙間を縫うようにして攻撃を行い、尚且つガジェットドローンの掃討を行わざるを得ない。
 そしてキャロ・ル・ルシエは後方での援護に専念する以外にない。
 攻撃が通用しない以上、彼らのこの判断は当然であり、敵の攻撃一度でも喰らえば肉体は肉片に成り下がり、その光熱波が一度でも直撃すれば肉体は蒸発する、と言う以上は当然である。
 以前、エリオやフェイトが咄嗟に張った防御魔法によって攻撃を凌いだのは彼らの魔法が秀逸だからということもあるが、それと同時に巧妙な出力操作をクルーゼが行っていたからだ。
 殺さないように且つ苦しむように。
 目前の黒いウェポンデバイスにはそんな“感情”は無い。
 今も“殺すな”という命令を受けているからこそ、死なない程度の攻撃を繰り返しているだけだ。
 だから、彼女達は、勘違いをしている。
 彼らの目前に立つ、黒色の鎧騎士――レイダー。意思や感情を持たない彼らウェポンデバイスこそが敵にとっての最強。
 生きる屍として存在する彼らこそがこの場における最強の個体なのだ。

「くそっ……!!このままじゃ……」

 毒づくエリオの脳裏を嫌な想像が掠めていく。それはあの化け物との戦いを思い起こして。
 あの時、エリオ・モンディアルは何も出来なかった。無力にただ倒され、囮として使われる弱者だった。
 目前の敵。それはあの時と同じモノだとエリオは感じていた。
 火力。防御力。そして、得体の知れない強さ。
 目前の敵が打ち出す鉄球。
 撃ちだされる度に巨大化し、周辺の建物を薙ぎ倒し、地面に突き刺さり、そしてそれを軽々と――まるで手足のように自分の元に“縮小”しながら戻す。
 巨大化。そして縮小。これはあの化け物と同じだった。
 エリオ・モンディアルの中には成す術無く倒されたその記憶が色濃く残っている。苦手意識と言っても良い。
 それが彼の動きを鈍らせている――わずかばかりに。
 エリオ・モンディアル。彼はこの年齢にして、多くのモノを置き去りにする代わりに多くの経験を獲得してきた。死線を潜り抜けた。
 魔導師としての実力は同年代の中では規格外とさえ言って良い。
 だが――

「はああああ!!!」

 ストラーダによる高速機動からの突貫。本来ならこれで終わりだ。
 ソニックムーブと言う高速移動とブリッツアクションと言う高速行動によって加速し、更には電撃を伴った一撃は機械であろうと魔導師であろうと一撃で行動不能に落とし込む。
 その一撃に対して何を思うことも無く、黒い鎧騎士は右の手から鉄球を再び放り投げてくる。瞬間、巨大化。エリオはすぐにソニックムーブでその場を離脱する。

 焦燥が彼を支配する。
 本来ならコレでいい。彼がキャロのサポートを受けて撹乱し、シグナムが必殺の一撃を加える。それがベストである。
 だが、シグナムはそれだけに集中する訳にはいかない。ガジェットドローンの“掃討”と言う役目が在る以上、そちらをおろそかにする訳にはいかない。
 
 焦燥が加速していく。
 エリオ・モンディアルの攻撃では敵の装甲は貫けない。
 けれど、敵に損傷を与えることの出来る攻撃を放てるシグナムはこちらに集中できない。
 集中したが最後、今度は数の暴力で押しつぶされる。
 キャロ・ル・ルシエは元よりそういった戦いに向いていない。
 無論、召還魔法は強力ではあるが、現状でさしたる効果を生み出せる訳でもない。

 膠着状態。そして長引けば長引いた分だけこちらが不利になる。
 黒い鎧騎士が体力を消耗するのかは分からないが、少なくともガジェットドローンは機械である以上は疲れを知らない。
 考えを巡らせるエリオ。
 敵は鉄球による一撃と口元から発射される光熱波を主とした攻撃手段として扱っている。
 そしてここまでの攻防にて気づいたのだが、電撃を伴った攻撃は多少なりとも効果があると言うこと。
 無論、著しい効果ではない。
 せいぜい、動きを僅かに鈍らせる程度。だが、鈍らせるだけでも僥倖である。
 単なる刺突や斬撃では動き一つ止めることも出来ないのだから。
 付け入る隙があるならば、それは弱点であり――それがあるならば、やりようなど幾らでも在る。
 エリオ・モンディアルが彼なりに考えて出した結論である。

『キャロ、いい?』

 エリオがキャロに向かって念話を送る。

「エリオ君?」
『僕のストラーダにブーストをかけて欲しいんだ。』
 
 エリオの言葉。その言葉の調子にキャロは

「……懐に入り込んで一撃を加えるの?」
『……うん、多分、それしか方法が無いと思う。』
「でも危険すぎるよ。」
『……でもやらなきゃ。シグナム副隊長はガジェットに集中しなきゃならない。僕らがやるしかないんだ。』

 静かに、断言するエリオ。その言葉を聞いて彼女――キャロ・ル・ルシエも覚悟を決める。
 そうだ。その通りなのだ。危険を恐れて何が機動6課なのだ、と。

「……うん、信じたからね、エリオくん。」

 二人の瞳に覚悟が写る。それは子供だからこその純粋な決意。決して自分達を止める者などいないと信じている。
 それは幼いが故の一途さ。

『キャロ、行くよ。』

 エリオの呟き。始めると言う合図。
 キャロ・ル・ルシエが言霊を紡ぐ。

「我が乞うは、疾風の翼。若き槍騎士に、駆け抜ける力を。」

 一つ目のブースト。ブーストアップ・アクセラレイション。
 その名の通り、機動力を上昇させる魔法である。

「猛きその身に、力を与える祈りの光を。」

 二つ目のブースト。ブーストアップ・ストライクパワー。
 対象の打撃力を上昇させる魔法である。

「――ストラーダアアアア!!!!」

 叫びと共にストラーダが変形する。
 デューゼンフォルム。基本形態――スピーアフォルムの側面部に4機現出し新たなノズルが現出し、それに合わせて各部が変形する。
 その外観が示す通り、この形態はスピーアフォルムよりも、より高速近接戦闘に特化した形態。
 推進加速を使用し斬撃・刺突の強化だけにとどまらず、推進方向を制御することで、限定的な――本来の用途ではない――空戦すら可能とする形態である。
 キャロ・ル・ルシエの機動力・打撃力のブーストに加えて、エリオ・モンディアルの高速機動特化形態のストラーダ。
 彼らの思考は至極単純である。
 強大な敵に小細工など不要。全力全開、己が最強の一撃で以って貫き穿つ。ただそれだけ。

「うおおおお!!!」

 叫びと共にストラーダが紫電を纏う。エリオ・モンディアルの姿が掻き消える。高速移動――ソニックムーブである。
 加速。瓦礫――戦闘で既に破壊されたビル郡である――を蹴って、方向修正。上空に向かって走る。
 加速。敵がエリオに向かって鉄球を振りかぶる。キャロ・ル・ルシエの従える竜――フリードリヒが炎――ブラストレイを放った。
 加速。敵がそちらに一瞬、気を取られる。エリオ、その一瞬で方向修正。狙うは装甲の隙間。間接部分。

 最大威力で魔力変換。
 電撃の威力はこれまでの比ではない。
 打撃力強化によってその一撃の威力はシグナムにも劣らない。
 加速した速度による一撃の威力はフェイトの大剣にも匹敵する。

「紫電――」

 その一撃は単純にして明快。基本にして究極。
 魔力を自身の適性上の変換を行い、それを高密度に圧縮し、武器に付与し、打撃――もしくは斬撃として撃ち込むと言うただそれだけの一撃。
 それは魔力変換資質を持つベルカ式術者の基本にして奥義とも言える“技法”。
 それは進路上の全てを突き穿つ雷鳴の槍。

「一閃――!!!」

 狙い違わず、エリオ・モンディアルの繰り出した紫電一閃は黒い鎧騎士のその装甲の隙間――間接部分に接触する。
 感触は鋼を切り裂くが如く。電撃を伴った斬撃は敵の肩と腕の付け根の部分を貫いた。

「これで……!!!」

 間髪入れず、エリオはそこからもう一度紫電一閃を繰り出そうストラーダを握る手に力を込めた。
 接触状態からの最大威力による電撃。
 如何に敵が人間離れしていようとも、それほどの電撃を流せば機械だろうと人体だろうと、損傷を与えられることは明白である。

「終わ……」

 ――そう、言い終える前に、敵の右手がエリオに向けられていた。そして掌に穿たれている“穴”がエリオを直視する。
 
 エリオ・モンディアルの全神経が警鐘を鳴らした。緑色の光がそこに灯った。

「エリオくん!!」

 キャロが叫ぶ。悲鳴を上げた。

「――!!!」

 エリオは無言で――声を出す暇などまるで無かった――再びソニックムーブを発動。
 敵の身体を台にして全身全霊でその場を離脱する。
 瞬間、掌から発射された光熱波がそれまでエリオがいた場所を突き抜けていき、そして――先ほどエリオが台として使用した瓦礫に命中した。瞬間、爆発が起きた。
 それはアフラマズダと言うビーム砲である。
 モビルスーツ・レイダーの掌に設置された近距離でのビーム砲撃装備。無論、レイダーはこの一撃をエリオが回避出来る速度と威力で発射している。

 本来の威力で放てば、回避しようとしたエリオの身体を消し炭にしていてもおかしくはない。
 間髪いれずに敵が鉄球をエリオに向けて放つ――エリオ・モンディアルは未だ着地していない。

「ストラーダ!!!」
『Sonic move』

 ストラーダの返答と共にエリオが加速。同時にストラーダの側面に現われたノズルからバーニアの如く魔力が放出される。
 最大威力。余裕などは欠片も無い。

「……」

 加速した世界の中で、紙一重の差で目前を通り過ぎていく鉄球。
 巨大な鉄球が通ることで起きる乱気流――エリオ・モンディアルには飛行の魔法は無い。
 彼は“飛べる”だけで留まることは出来ない。
 そして、乱気流に巻き込まれ、エリオがストラーダからの魔力放出で必死にその場から撤退しようとした瞬間――エリオは息を呑んだ。
 黒い鎧騎士。その口元の辺りが赤く輝き、エリオとは違う方向――キャロ・ル・ルシエの方向へと向いているのだ。

「キャロ!!」
「え?」

 キャロ・ル・ルシエは恐らく状況を理解できていない。その射線上に自分がいることに。
 
 ――今、彼女は死ぬ間際の危機に晒されていることに。

 赤い光が、放たれようとする。

「くっ――!!!」

 シグナムが現状に気付き、ガジェットドローンとの戦闘を全て破棄し、キャロ・ル・ルシエの元に馳せ参じようと急ぐ。
 だが、その行く手を遮るドローンの数は未だに40を切っていない。
 火竜一閃ならば一撃で倒せよう。だが、その一撃を放ち終わった時には既にキャロ・ル・ルシエは消し炭だ。

「うわあああああ!!!!」

 エリオが絶叫と共にソニックムーブを発動。
 高速移動下に身を移す。
 迅雷の速度で敵の身体に一撃を加えようとストラーダを振り被り――その眼前に現れるは黒い鎧騎士の左手。掌に穿たれた穴がエリオを見つめていた。

「――え」

 緑色の光が、灯った。
 一瞬、肉体が硬直する。
 死の恐怖なら何度か味わっている。
 だが、これは違う。これは“死の実感”。
 確実に、間違いなく、紛うことなく、死ぬ。
 
 それは、高層ビルから下を覗くことに似ている。
 それは、高速道路を走る車の傍に立つことに似ている。
 それは、自動車が高速でスピンした時に似ている。
 それは――死を待つだけの瞬間。
 
 為す術無く、抗う術無く、払う術無く、何もかもを“喪う”瞬間。
 動けない。動けない。動けない。

(嫌だ。)

 死にたくない。死にたくない。死にたくない。

(嫌だ。)

 死にたくない。
 何よりも、誰よりも、たとえ“全てを見捨てて”でも。

(死にたくない――!!!!)

 声を枯らすほどの絶叫。発動していたソニックムーブを継続。
 ストラーダの狙いを“キャロ・ル・ルシエを狙っていた口元”から、“自分を狙う左手”に変更。

「紫電――」
 
 それはそれまでのどの一撃よりも強く、鋭く、そして何よりも、誰よりも、ただひたすらに速く――

「一閃――!!!」

 爆発が起きた。これまで一度足りとも届かなかった一撃。それが此度の一撃だけは穿ち貫いた。
 黒い鎧騎士がたたらを踏んで後退する。キャロ・ル・ルシエには光熱波は発射されていなかった。
 その一撃を放つよりも速く撃たれたエリオ・モンディアルの一撃が影響したのだろう。

「……」

 沈黙。そして、闇に戻るようにして、黒い鎧騎士がその姿を消していく。
 エリオ・モンディアルは地面に落下しながら、それを呆然と見つめていた。
 攻撃を放った態勢そのまま、彼は何かが抜け落ちたような顔で消えていくその様子を見つめていた。
 その姿が完全に消える――同時にエリオは地面に着地していた。
 膝を付き、彼は地面に座り込んだ。
 両手で自分の身体を抱くように押さえ込む。ガクガクと身体が震え出した。

『エリオくん、大丈夫!?』
『エリオ!!大丈夫か!!』

 キャロとシグナムの声がエリオの耳に届く。その全ては彼を心配する声。けれど、

「……僕、は。」

 エリオ・モンディアルの耳には誰の声も届かなかった。
 呆然と両の掌を見つめる。
 彼だけは知っていたから。自分が今、何を選んで、何を選ばなかったのか――誰を見殺しにしようとしたのかを。
 自分は、今、自らの命欲しさに大切な仲間の命を意識の外から捨てたのだ。見殺しにしようとしたのだ。

「僕は……キャロを……・」

 ――見殺しにしようとした。
 
 最後の一言は言葉にもならなかった。
 情けないとか悔しいとかではなく、エリオ・モンディアルは生まれて初めて殺意を抱くほどに自分を信じられなかった。


 戦いがあった場所から遠く、遠く。
 空間に展開した画面を見つめる影があった。

「素体候補は誰がいいか、などと聞くから当てが無いのかと思えば……いるじゃないか、最高の素材が。」

 白い仮面。その下に亀裂の入った破滅の笑顔を浮かべた一人の男。
 男の名はラウ・ル・クルーゼ。仮面の外道。
 男の視線が見つめる先。そこには赤毛の少年――地面に呆然と座り込むエリオ・モンディアルの姿があった。
 力無く呆然と座り込むその姿。先ほど最後の一撃を発した時とはまるで違うその姿を見て男は思った。

「……エリオ・モンディアル――君は、最高だ。」


「……こ、こ……は。」

 暗い闇。その中で朧気な光が灯っている。
 一つは金色の光。もう一つは朱い光。
 
 金色の光はバルディッシュアサルト。朱い光はデスティニー。
 デバイス内に格納されていた魔力を利用して明かりを作り、暖を取っていたのだ。
 その二つが照らし出すことで漆黒とも闇が弱まり、カタチを映し出している。
 恐らくは既に廃棄された下水道。
 カサカサと周囲を走る小さな動物の足音。流れる水の音。
 廃棄されていると言う時点で流れているのは下水ではなく、どこかから染み出した雨水や湧き出した地下水。
 恐らくそんなところだろう、とシンはあたりをつけた。
 そして、自分が強く抱き締めていた柔らかいモノに今更ながらに気がつく。
 金色の髪の女性。自身が所属するライトニング分隊の隊長――フェイト・T・ハラオウン。
 口元からは苦しげではあるものの呼吸が繰り返されている。それを見て、シンはほっと息を吐き――自分の身体の変調に気がついた。
 確かに身体は鉛のように重く、瞳を開けることすら億劫なほどに肉体は疲れ切り、同時に凄まじい倦怠感が残っている。
 身体の中に重りを仕込まれたかのように。
 だが、本来ならそれ以上に自分は苦しんでいなければおかしい。
 先ほど吐血した光景を思い出す。あの量の吐血であれば、内臓破損の可能性が最も高い。
 で、あれば自分は今頃起き上がるのが億劫どころか、死んでいるはずだ。
 よしんば生きていたとしても腹部の痛み――もしかしたら痛みを感じることすら出来ないかもしれないが――で苦しんでいるはずなのだ。
 だから、この状況はおかしい。起き上がるのが億劫とは言え、“生きている”この状況は。
 そこでシンはふと思いついたように口を開いた。今も明かりをつけて暖を取ろうとしている自身のデバイスに向けて。

「……あの、回復、魔法の……効果、か、デスティニー?」
『Exactory(その通りです。)』

 即答するデスティニー。どことなくその口調は、胸を張って自分の行いを誇る子供のような即答だった――ようにシンには思えた。
 実際はどうか分からないが。
 リジェネレーション。
 デスティニーが行える回復魔法の一つである。
 それによって自分の肉体は疲労や倦怠感と引き換えに、“生きている”状態にまで回復したと言うことだろう。
 その原理はシンには分からないが、とりあえず助かったことが分かれば十分だった。

「そっか……悪い、な。」

 途切れ途切れの言葉。

『You are welcome(気にしないでください。).』

 何も問題は無いとデスティニーは言いたげに返答。その返答を聞いてシンの身体から力が抜けていく。
 胸に抱き締めたフェイト・T・ハラオウンの身体の暖かさのせいかもしれない。瞳を開いていられない。眠気が襲い掛かる。

「……ちょっとだけ、眠らせ、てくれ。さすが……に、身体が……動か、な……。」

 言葉は途中で切れ、シン・アスカはそこで意識を失った。
 後から聞こえてきたのは穏やかな寝息と少しだけ苦しげな寝息の二つだった。


「……それで二人の安否は分からん訳やな。」
「はい。地下に落ちていく二人を確認することは出来ましたが、その後の詳細はまるで……それと主はやて、これを。」

 シグナムの正面の空間に画面が出現する。
 そこには遠目でよく分からないものの血を吐き蹲るシン・アスカがいた。
 八神はやての瞳の色が少しだけ変化する。

「……これは?」
「……戦闘を捉えていた映像です。これを見る限り危険なのはテスタロッサよりもアスカの方かと。」

 吐き出した血の量。
 夥しいと言う表現の通りにその量は――彼女は医者では無いので正確なところは言えないものの――致命的な量に見えた。
 吐血する、とは言うまでもなく危険なものだ。吐血が示すところはただ一つ。内臓に損傷がある、ということを示す。
 八神はやてはその光景を睨み付けていた。
 その光景――血を吐いた部分だけではない。シン・アスカとトーレの戦闘全てである。

「主はやて……シン・アスカとは何なのですか?」
「――何とはどういうことや?」

 八神はやての瞳が鋭く変化した。それはシン・アスカに対してのみ見せ付ける瞳。
 人間を捨て駒――もしくは手駒扱いすることを受け入れた人間の瞳である。
 シグナムの瞳に驚愕が走りぬけた。当然だろう。はやては彼女達の前でそんな瞳を見せたことは一度も無かったのだから。

「……アスカの強さは異常です。いや、強いだけならいいのです。けれど、“この強さ”はおかしい。魔法の反動で吐血するなど聞いたことがありません。」
「……そやな。わたしも聞いたこと無いな。」
「主はやて!!私は……!!」
「……シグナム、シン・アスカのこの戦闘どう思う?」
「……強い、ですね。この朱い光を身に纏ったアスカに勝つのは私でも至難の技です。」

 画面には朱い光を身に纏い、トーレと死闘を繰り返すシンが映っていた。恐らく、この“力”の代償なのだろう。
 どこからこんな力を得たのか、はやてには分からなかったが、その結果としてあの吐血があるのだろう、と。
 シグナムが激昂――この場合は驚愕か――するのも無理は無い。
 命を削る魔法とデバイス。
 それによって比類なく強くなるシン・アスカ。
 まるで、予め定められた運命のように、自分よりも強い相手との戦いで相手の強さに喰らい付くようにして強くなる。

 例えばギンガ・ナカジマの時のように肉体の動作系を書き換え、その実力の底上げを行い、達人の域にまで肉体を強化する。
 そして、その強さには代償が常に付き纏う。
 ギンガとの戦いの時は全身を襲う筋肉痛ともう元には戻らないシン・アスカの肉体の動作系。
 今回は――断言は出来ないが命を削っていることは明白。下手をすれば今頃野垂れ死んでいるかもしれない。
 その思考に辿り着いた時、はやては薄く嗤い――嗤おうとして、失敗した。
 罪悪感が胸に湧き上がり、表情を侵食しようとし――寸でのところでそれを阻止した。

 ――自分に彼を慮る資格は無い。
 
 その鋼鉄の意志で彼女は表情だけは崩さないことに成功する。そして、シグナムに向かって振り向く。
 その顔には覚悟と決意があった。人の命を使い捨てる覚悟と決意が。

「シグナム、このことは他言無用や。誰にも言ったらあかんで。」
「主はやて……それでは……!!」

 激昂するシグナム。だが、はやてはそんな彼女に冷たい視線を突きつけて言葉を止める。
 視線は刃の如き鋭さと冷たさでシグナムの心を刺し抜いた。

「主……はやて……」
「いらん心配はさせん方がいい。ええな?」

 そう言って、呟く八神はやての顔は苦渋など見て取れなかった。
 怜悧冷徹冷酷無比。結果だけを求め、それ以外の全てを雑多だと断じるその顔に苦汁は無い――だが、シグナムはそれを痛ましげに見つめる。
 彼女の視線の先にあったもの、それは……八神はやての拳。
 プルプルと震え――恐らくは爪が食い込み、血を流しているだろうと思われる拳があった。
 シグナムの目前で紅い血が垂れていく。アスファルトの上に咲いた紅い花はその数を次々と増やしていく。
 激情を押さえ込み、八神はやては何を言うでもなく、戦うシン・アスカの映像を見ていた。
 その激情は誰の為の激情なのか。何を意味する激情なのか。
 怒り、悲しみ、憎悪。
 シグナムには分からない。
 はやてが何を隠し、何から自分達を遠ざけているのか、何にシン・アスカを近づけているのか。彼女には何も分からなかった。

「……」
 
 シグナムが主である八神はやてから眼を逸らし、周囲に眼をやった。
 見ていられなかったからだ。その姿を。それはどこか自分の望みを全て捨てて主の幸せを願って消えていったあの大馬鹿者――リインフォースを思い出させて。
 シグナムが逸らした視線。その先には瓦礫に腰を下ろし、俯いたギンガ・ナカジマと沈痛な面持ちで彼女を見つめるスバル・ナカジマとティアナ・ランスターがいた。
 彼女達――特にギンガにとっては大きな衝撃だろう。
 色恋に疎い――というかそんなもの知るはずも無い自分には完全に理解できるものではないが、彼女は今、想い人と恋敵が同時に事故にあったのだ。
 それも生死不明――片方はもしかしたら既に死んでいるかもしれないが――の事故である。
 通常でいられるはずも無い。
 もし、シンが死んだとなれば、彼女は一体どうなるのだろうか。
 ――胸が痛い。疼きは大きく、彼女を縛り付けていく。

(……テスタロッサ、アスカ……頼むから死んでくれるなよ)

 心中の呟きは殆ど祈りに近かった。


「……ギン姉、大丈夫?」

 スバルの問いかけにギンガは俯いたまま頷く。

「……うん、大丈夫。心配しないでもいいわよ、スバル。」

 嘘だ、とスバルは思った。この場にいる6課のフォワード陣――少なくとも自分は、彼女が大丈夫な筈がないと知っていた。
 確かに本人同士は気づいていないかもしれない。だが、傍から見ればギンガがシンを眼に掛けていることは一目瞭然である。
 そんな彼が、今、フェイト・T・ハラオウンと共に地下の下水道に落ちていったと言う。
 
 ――現時点でギンガ達が知るのはそれだけである。
 それ以前の状況。
 つまりシンが吐血したことやフェイトがトーレに敗北したことなどは八神はやてによって未だ伏せられている。
 
 仮に言ったところで信じられるかどうかは定かではなかった。
 フェイト・T・ハラオウンが敗北し、彼女を敗北させた敵とシンが渡り合ったと言う事実は信じられるものではない。
 これを最初に確認したシグナムも我が眼を疑っていたのだから。

「きっと……大丈夫よ。シンはそんなに簡単に死なない。」

 絞り出すような声。
 ギンガはそう言って顔を上げるとスバルに向かって微笑んだ。

「……ギン姉。」

 スバルの沈痛な面持ちは変わらない。その微笑みが何を意味しているのか、彼女は良く分かっていたから。
 彼女――ギンガのその微笑み、その言葉は誰に向かって言っているものでもない。
 彼女は自分に向かって言い聞かせているのだ。大丈夫だと。決して問題は無いと。
 盲信出来ればどれだけ良かっただろう。けれど、ギンガにそれが出来るはずが無い。彼女はシンが、こうなるだろうことをよく理解していたから。
 ぐっと奥歯をかみ締めた。彼を守ると決めたのにこの体たらく。そんな自分に憎悪すら感じて、彼女は自身の不備を恥じる。

「……死ぬはずがないじゃない。あの人が。」

 祈るように、彼女は呟いた。
 スバルは何も言えない。姉ではなく、女としての顔を覗かせる彼女に言えることなど何も無かった。



[18692] 17.運命と襲撃と(e)
Name: spam◆93e659da ID:cc4806a2
Date: 2010/05/14 19:57

「――イトさん!!フェイトさん!!」
「……シン、君?」

 そこは暗闇の中。恐らくは彼が灯したであろう魔力光の光が朱く世界を照らしていた。

「こ、こは……」
「……閉じ込められたみたいです。」

 そこは密室の中。そこは廃棄区画内に張り巡らされていた下水道跡。
 明かりなど無い暗闇。肌を刺すような冷気。

「私……生きてる、の。」

 頭が、痛い。記憶が纏まらない。
 自分がどうして此処にいるのか。どうして彼と一緒なのか。まるで記憶が纏まらない。
 最後に見たのはトーレに蹴り飛ばされた瞬間。その時点から自分の記憶は目前に広がる暗闇のように真っ暗で、何も思い出せない。

「わたし、……トーレに」
「……大丈夫ですよ。あいつはもういない。……その代わり、余計に酷いことになってるかもしれませんが。」

 言葉は重く、顔色は芳しくない。それは不安と怒りが綯い交ぜになったような表情だった。
 その声と顔色の意味を考えようとして再び頭痛。そして身体を襲う疲労感。
 頭が重い。瞼が重い。身体が重い。
 纏まらない思考。纏まらない感情。
「どういう……」

 紡ぐ言葉は途中までしか出てこない。彼の顔がぼやけていく。世界が歪む。輪郭を失っていく。

「……フェイトさん?」

 そうしてフェイト・T・ハラオウンの意識は再び闇に落ちていった。
 これまで違って寝息は少しだけ穏やかだ――以前、苦しげではあるものの。
 赤い瞳は閉じている。身体からも既に力は抜け、規則正しく胸が上下する。

「……寝たのか。」

 呟き、シンは周囲を見渡した。
 そこは既に廃棄されたであろう下水道の一画だ。
 廃棄されたと言うのは予想ではあるが、確信でもある。
 下水道というのは汚水を流す場所である。
 故にその中の匂いというのは非常に酷いものとなる。汚泥や汚物交じりの汚水が流れていくのだから当然といえば当然のことではあるが。
 だが、此処にはソレが無い。
 廃棄された結果、汚水は流されつくしたのか。そ
 れともどこかに亀裂が入って溜まり込んでいた汚水や汚物が全て飲み込まれていったか。真実は分からないが恐らくそのどちらかだろう。
 こんこんと眠り続けるフェイトの額に手を当てる。

「……熱がある。」

 彼女の額は熱かった。
 昔――それも思い出せないくらいに昔の経験から考えると熱さの程度からして38℃前後というところだろう、とシンは辺りをつける。
 明かりを灯し、暖を取り続けるバルディッシュに声を掛ける。

「フェイトさんの容態は実際どうなんだ?」
『Perhaps a rib is broken.(恐らく肋骨が折れています。)』
「……デスティニー、外部への通信は?」
『Not found.(繋がりません)』
「……まだ繋がらないのか?」
『Yes(はい。)』

 状況は思っていた以上に拙い、とシンは思った。
 正直なところ、此処に逃げ込んだのも敵――あの筋肉質の女から逃げ延びれば、救助が来ると考えていたからだ。
 だから、とにかくあの場から逃げることだけを考えてここに飛び込んだ。
 瓦礫にさえ当たらなければ自分はともかうフェイトは助かるだろうと。
 だが、現状は予想とはまるで違う。
 重傷だと思っていた自分の怪我は既に治り――疲労や倦怠感こそ消えはしないが――逆にフェイトの方が熱を出して寝込んでいる。
 更には当てにしていた救助と言う芽も消えている。
 ならば、ここで救助が来るまで待てば良いと言う考えも浮かぶ――だが、その考えを否定する。このままここで救助を待つと言うのは危険すぎる。
 既に廃棄され――というよりも既に瓦礫同然と言った下水道。
 その上、先ほどの一撃――トーレとフェイトは呼んでいた――がこの付近の瓦礫に甚大な影響を与えたと思って良い。
 現時点ではまだその様子すら見えないが、崩れ落ちるコトが無いとは限らない――むしろ、その可能性の方が高いと思ってもいい。
 そんないつ崩れるとも知れぬ瓦礫の中で息を潜めて救助を待つと言うのは幾らなんでも馬鹿げた考えだ。

「……どうする。」

 思案に沈むシン。いっそ、フェイトを置いて出口だけでも探しに行くべきか――そんな考えが浮かんだ時、シンの耳に小さな、小さな声が届いた。

「……さん」

 振り向く。その方向には熱に浮かされ、赤面し、苦しそうな表情で――フェイト・T・ハラオウンが眠っていた。
 呟きは小さく、か細い、つたない言葉遣い。目じりに見えるのは涙。見れば、身体がガクガクと震えていた。

「……さむい……さむいよ……おかあさん……!!」

 そこに彼の知るフェイト・T・ハラオウンはいなかった。そこにいたのは熱に浮かされ、意識を失い、“誰か”を求める小さな子供がいただけだった。

「くっそ……!」

 ガタガタと震えるフェイト。
 瞳は虚ろでまるで目前を捉えていない。
 肋骨の痛みとそこから生まれる熱。その上、身体を苛むこの冷気。
 けれど、その様子は明らかにそれだけではないほどに――衰弱している。寒い寒いと震えている。
 胸に渦巻く不安を余所にシンはフェイトの手を握り締めた。
 確かに手を握るだけでは身体など温まらないし、殆ど意味など無い。気休め程度だ
 だが、それ以外に今の彼に出来ることなど存在しない――魔法を使えば精妙な魔力操作はシンには不可能。それだけの技量は彼にはいまだ存在しない。
 この灯りや暖を取ることとて、バルディッシュやデスティニーのサポート無くては出来なかった。
 そしてその二つのデバイスは今彼らに熱と灯りを与える為に起動し続けている。

「……これしか、無い、か。」

 言葉を切って彼女を見る。
 服は既に汗に塗れ用を為していない。
 その内にこの汗が余計に彼女の身体から熱を奪い去り、身体を冷やす。
 そして彼女の熱はソレに乗じて上がる。螺旋の如く彼女を追い詰めていく。
 それから救う方法は――守る方法は。

「……」

 無言のまま逡巡する。
 簡単なことだ。簡単で、そして、今この場にいるシンにしか出来ないことだ、“ソレ”は。
 逡巡は一瞬。そして覚悟は直ぐに決まった。

 ――後から彼女にどう思われるかなど分からないがそんなことはどうでもいい。
 まずは彼女を守ること。助けることこそが先決であろうと。
 シンはおもむろに彼女の服に手を掛けた。

「……フェイトさん、すいません。」

 呟いてシンは彼女の服のボタンに手を掛け、一つ一つ外していく。
 鼓動が荒い。緊張しているからだろう。
 これから自分が行おうとしていること。
 考えてみれば大それたことをしていると思うが、それでもこの場ではこの方法しかない、と思う。
 多分にシンが思うのはそれが自分の都合の良い欲望が弾き出した結果で無いことを祈るだけだった。
 そして、混沌とする思考を他所にフェイトの服のボタンが全て外れ、シンは彼女の背に手を掛けた。
 寝込むフェイトの背に手を入れ、持ち上げ、彼女の上半身だけを起き上がらせる。

「……フェイトさん、手を上げてください。」

 言ってシンはフェイトの服に手を掛けた。フェイトは言われるままに両手を挙げた。
 瞳を閉じて瞑目するシン。
 上半身だけ起き上がったその体勢だと既にそのボタンを外した部分が垂れ下がり、中身――フェイトの肌が見えそうになる。
 ドクンと鼓動が跳ね上がる。

「……いいか、シン・アスカ。何かしようとか、そんな気持ちは無いんだからな。これは役割だ。いいか役割分担の一因だ。」

 一人、ブツブツと呟きながらシンはフェイトの服に手を掛ける。
 ゴクリと、喉が鳴る。鼓動が収まらない。煩悩退散煩悩退散と何度も何度も心中で叫んでいるのに鼓動はまるで収まる様子は無い。さながら胸中で削岩機が唸りを上げているようだ。

 女の裸――別段見るのは初めてではない。
 一時期、赤い髪の彼女と一緒に自堕落に溺れ合っていた自分には“そういった”経験があるのだから。
 だから別に動揺などしない。しない、はずだ。
 しかし――

「……う……ん」

 フェイトが苦しそうに息を吐く。苦しげなその様子は何故だか余計に艶っぽい声となる。
 シンの喉が鳴る。
 息を飲む。瞳が知らず、露になっていく肌に釘付けになる。黒い下着と対象的な白い肌。白と黒のコントラストが彼女の白磁の肌の白さをより鮮明に浮かび上がらせ――

「ば、馬鹿か、俺は!?何見てるんだ!?」

 シンは即座に瞳を逸らした。いつの間にか露になっていくフェイトの裸身――無論、下着姿である――に釘付けになっていたのだ。

『You are naughty(不潔ですね)』

 どこか冷たいデスティニーの声。
 シンはその返答に瞳を逸らしながら――無論、フェイトの肢体からもだ――呟いた。

「……だから、これは役割なんだ。いいか、俺は別に……」
『You had better let you change her clothes early?(早く着替えさせた方がいいのでは?)』

 デスティニーの鋭い言葉がシンの心中を抉る。
 実際問題、女性の服を脱がせて言い訳している今の自分は変態と言わざるを得ない。

「……うん、そうですね。」

 素直にその言葉を聞くシン。基本的に素直なのだ。
 デスティニーの言う通りにシンは直ぐに彼女の服を脱がせ終え――つまりフェイトが上半身裸になっている状態で――シンは呟いた。

「……デスティニー、俺の服、今出してくれ。」
『……』
「デスティニー?」
『……All right.』

 僅かに返答に間があったが気にすることは無く、シンは光の中から現われた自分の服を彼女に着せていく。

 ――今、フェイトはバリアジャケット姿ではない。

 バリアジャケットとは魔力で編まれた服型の魔力壁。つまりは魔力そのもの。着ているだけで――展開しているだけで魔力を消耗する。
 シンはこうなる前に自分の身体にデスティニーが施した魔法をフェイトに出来ないかと聞いてみた。返答は「No.」。
 その返答はシンの予想通りだった。その理由も。
 あれはデバイスの使用者のみの肉体を強制的に回復する魔法。その際に使用される魔力は全て使用者の自己負担。
 通常の回復魔法と違い、誰かに行ってもらう訳ではないので当然である。
 現在のフェイトにそれを行う――つまり彼女の魔力を無理矢理に食い荒らさせデスティニーに回復させる。危険すぎる。瀕死ではないものの既に熱を出して寝込むフェイトにそれを行うのは余りにも危険すぎた。

 例えて言うなら風邪を引いた人間に手術を行うようなモノだ。よほど切羽詰った状況でもない限りそんなことをする必要は無いし、何より危険である。
 故に現状のフェイトにバリアジャケットを展開させるなど愚の骨頂。まるで意味が無い。シンはそう思い――バルディッシュもそれに同意し――彼女の服を通常の制服姿に戻していた。
 シンは今もバリアジャケットのままである。バリアジャケットが展開されるメカニズムをシンはよく知らないが――知る気も無いが――要するにそれは“置換”である。
 魔力で編まれたバリアジャケットと通常服を“置換”する。置換された通常服はデバイスの中に圧縮・格納されている。今、シンはそれを利用してフェイトに自分の服を着せようと考えたのだった。
 シンのYシャツとジャケットを羽織るフェイト。無論、裸身ではなく下着姿の上に。目を閉じた状態でそこまで外すような余裕はシンには無かった――というかそんな発想も思い浮かばなかった。
 
「……さむい、よ……」

 それでもフェイトの身体の震えは止まらない。
 身体を覆っていた汗は服を着替えたことで相当に改善されているモノの、純粋に熱が足りていないのだ。
 冷やされた身体はもっと暖かくなることを望んで震えている。
 違和感。消耗の度合いが大き過ぎる。骨折の痛みと言うだけでは説明がつかない。

「……これじゃ、まるで。」

 自分が助けられなかった少女を思い出す。

 ――瞬間、脳裏に過去が写り込む。それは彼女と同じく金髪の少女。
 戦争に翻弄され、自分が何も出来ずに死んでいった少女。
 自分が無力だったから死んだ少女。
 彼女との出会いもこんな風に二人だけの世界で抱き合って、始まった。

 重なる。目前の女性と、写り込む少女が。

 その金髪が似ているから?
 内に隠れた幼さが似ているから?
 分からない。分からない。けれど移り込んだ過去がシンに何事かを感じさせる。
 漠然と感じていた感覚。自分自身気付くことすらなかった感覚。
 ギンガ・ナカジマと共に自分の周りにいようとするフェイト・T・ハラオウンを邪険に扱えなかった理由。

 ギンガは分かる。彼女は恩人だ。そして、この世界に来てからずっと自分と共にいる隣人だ。
 だからシン・アスカはギンガ・ナカジマを邪険に扱うことは出来ない。それが事実だ。
 シン・アスカにとってギンガ・ナカジマはある種、特別なのだから。

 ならば、フェイト・T・ハラオウンは?
 ギンガのような理由は彼女には無い。
 彼が所属する部隊の隊長だからなのか――違う。
 そんな程度のことでシン・アスカは彼女が近づくことを許容しない。
 だから、理由など無い。けれど、シンは彼女を邪険に扱っていない。
 もっと詳しく言うなら、踏み込んでくる彼女に対してシン・アスカは距離を取れなかった。
 理由など一つも無いと言うのに――だが、もし、理由が“あった”ならば?

 写り込む過去が教えるのはソレだ。
 フェイト・T・ハラオウン。
 ステラ・ルーシェ。

 何が似ている訳でもない。
 何が近い訳でもない。顔のつくりはまるで違うし、年齢も何もかもが違うのに――フェイト・T・ハラオウンはステラ・ルーシェに近似している。
 相似ではない。酷似でもない。近似しているのだと。

 胸の奥に潜む“ナニカ”がシンの脳裏にそう伝えている。
 そのナニカが何なのか、シンにさっぱり分からない。けれど、それは確かな事実としてシンの脳裏を侵食し――

「……どうでもいいだろ、そんなことは……!!」

 一瞬、シンの脳裏を流れた考えを即座に破棄し、どうでもいいことだ、と一蹴する。
 目前には寒さに苦しみ、震えるフェイトがいる。
 シンの瞳の困惑が消え、覚悟の光が到来する。
 目の前で、苦しむ“少女”一人救えなくて何が守り抜く、だ。自分はいつだってこういう時の為に存在しているんじゃなかったのか。

(ああ、そうだ。だから俺は……)
「……ごめん……!!」

 謝りながらシンはフェイトの腕を掴んだ。
 そして、強く自分の元に引き寄せる。
 治療というには程遠いかもしれない、けれど彼の頭にはそれしか浮かばなかったから。

 ぎゅっと力強く抱き締めた。この身体の熱を全て彼女に与えるように。
 そうして、数十秒。彼女の身体の震えが少しずつ少しずつ収まっていく。彼女の手がシンの背中に伸びる。
 もっと暖かくなるように……抱き締めるように。二人の体温が溶け合っていく。

「……あったかい……」

 フェイトの声が――穏やかに変わる。
 今、フェイトはシンの胸に引き寄せられるようにして顔をというか身体全体を彼の身体にくっ付けている。いわゆる“人間抱き枕”状態である。
 シンの顔は赤面し、目を閉じている。
 幼子が眠るように無邪気に瞳を閉じて眠りに着こうとするフェイト。
 それを邪魔しないように一心不乱にその身体を暖める為に抱き締めるシン。

「……あ…たた……かい……おかあ……さん」

 言葉は徐々に途切れ途切れに。
 気がつけば聞こえてくる寝息は先ほどまでとは明らかに違う安らかな寝息。
 彼女の胸が上下するのを感じる。少しずつ彼女の身体が暖かくなっていくのを感じる。

「……落ち着いたのか。」

 すうすうと穏やかな寝息を立てるフェイト。無邪気な寝顔。子供のように幸福を享受することが当然なのだと信じている穏やかな寝顔だった。

「……ステラっていうか、こうしてるとマユみたいだな。」

 ぼそり、と呟いた。
 マユ・アスカ。故人である。シン・アスカの妹にして彼に刻まれた消えない名前。
 恐らく未来永劫忘れることは出来ない名前。彼にとって初めての喪失の相手である。
 自分を抱き締める――自分が抱き締めているとも言えるフェイトを見て、ふと思い出した。
 脳裏に蘇るのはいつの記憶だろう。
 もう5年以上前――まだ、ザフトに入る前のことだ。マユ・アスカはシンによく懐いていた。両親が仕事柄家を明けることが多かったせいだろう。
 こうやって彼女が熱を出した時はいつもシンが付きっ切りで看病していた。――無論、人間抱き枕などということはしたことがあるはずも無いが。
 昔の経験というのもその頃のこと。マユを看病していた時の記憶から引っ張り出してきただけのことだ。その時の経験でフェイトの熱がどれくらいか、分かったのだ。
 ――彼にしてみれば、まだそんな記憶が残っていたことが驚きではあったが。

「……おかあ、さん」

 呟きは、か細いまま、途切れることなく続く。
 涙も止まることなく流れ続ける。何度も何度も。
 その様子を怪訝に思いながらもシンは無言で彼女の頭を撫で続ける。
 優しく、優しく。撫でられた本人が安心出来るように、優しく。

「……大丈夫、大丈夫だから。」

 声の調子は穏やかだ。先ほどまで悪鬼の如き表情で血を吐いて戦っていたようには思えないほどに。

「……あった、かい。」

 声に安心が混じる。それを見て、シンは小さく――されど決然と呟いた。

「……守るから。今度こそ守ってみせるから。」

 “今度こそ”。そうシンは呟いた。それは知らず口から出た言葉である。
 それが意味するところ――本人が気付いているかどうかは別として、シンにとって、これは多分、単なる代償行為なのだろう。
 あの時、助けられなかった、守れなかった彼女――ステラ・ルーシェやマユ・アスカへの。
 特に彼女――ステラ・ルーシェには何もしてあげることが出来なかったから。
 守ると約束した少女。けれど、実際は、力が足りないことで死なせる羽目になった。

 別に力があれば、彼女を助けられたとは今でも思わない。
 力は絶対ではない。そんなことはよく分かっている――けれど、力は確実なのだ。
 力があれば、確実にあの末路は無かった。それだけは確信を持って言える。

 だからこそ、今度こそ、と彼は呟いた。
 それは目前の女性――フェイトに対して侮辱とも言える言葉だろう。
 それを理解して、けれど、それでも構わないと思った。
 代償行為――それでも守ることには意味があるのだと。
 今も彼の心はあの紅い空から動いてはいなかった。それは、至極当然のことではあるのだが。


 二時間が経った。
 シンはフェイトの横に沿うようにして、目を閉じていた。眠ってはいない。身体を休めていただけである。
 本当ならフェイトが寝静まったら直ぐにでも出口を探しに行くつもりだったのだが――自分を抱き締めた手の意外な強さに諦めた。
 離れようとすると力一杯抱き締めてくるのだ。
 まるで、置いて行かないでくれと泣いている様で、シンはその場を離れることなく、フェイトの傍に寄り添っていた。
 時折、うなされるフェイトの汗を拭き、頭を撫で、看病を繰り返す。
 けれど、熱は引くことは無い。無論、シンとて理解している。たかだか二時間眠った程度で身体が治ることなどあり得ない。

「……どうするかな。」

 事実上の八方塞がりである。今のこの状況は単なるこう着状態に過ぎない。天秤が何かしら傾けば一気に崩れ落ちる砂上の楼閣である。
 その時だった。

『I start the reception of data. 3,2,1, reception completion(データの受信を開始します。3,2,1、受信完了。)』
「……どうした、デスティニー……ってバルディッシュ?」
『Yes.(はい)』

 シンの眼前に展開されるA3用紙ほどの大きさの画面。それはマップだった。この状況、この展開からして恐らくはこの廃棄された下水道のマップだろう。

「……そういや、フェイトさんとかは何年か前にここで救助活動したんだったな。」

 恐らくその時から保存されているデータなのだろう。

「バルディッシュ、お前フェイトさんを置いて助けを呼べに行けって言うのか?」
『No.』
「じゃ、どうしろって言うんだ?」
『Please leave here with a master together.(一緒に此処を出てください。)』

 その言葉――デバイスの返答を言葉と言って良いものかは分からないが――シンは溜め息を付く。マップには確かに精妙な地図が記されている。
 だが、シンが先ほどから逡巡していたようにこのマップも恐らくは信用ならない。何故なら――
「……このマップっていつのだ?」
『5Years ago(5年前です)』

 5年前。それは恐らくこの下水道が廃棄される前の地図だ。瓦礫となった施設の内部を歩くのに瓦礫となる前の地図を使用する。方法論としては確かにソレしかない。
 だが、それでも危険に思える。何故なら、この地図の通りに歩いたからと言って、この地図の通りに辿り着くとは限らないからだ。
 無論、バルディッシュもその程度のことは理解しているだろう。だから、これは順当の策に思えて実際は一か八の意味合い――つまりは賭けに近い。

「……それでも、か?」

 だから、シンはバルディッシュに向けて確認する。だが――

『Yes』

 その返答は問答無用のイエス。即断である――と言うよりも既に答えは出ているのだろう。
 このデバイスは賢い。そして何よりも主の安易を第一に考えている。
 そんなデバイスが主の安否を自分に預けると言っている。
 もう一度溜め息をするシン。そして、傍らのデスティニーに向けて、口を開く。

「……デスティニー、バリアジャケット残して、待機。通信はこの後5分毎に繰り返し続けてくれ。返答が無くても構わない。とにかくやり続けろ。」
『All right.』
「バルディッシュ、お前もデスティニーと同じように待機しててくれ。通信も頼む。」
『Sir.yes sir.』

 フェイトの身体から手を――と言うか身体を引き離す。
 どうやら寝入っていたらしい。先ほどまでとは違い、抱き締める力が弱くなっていた。
 そしてその身体を再び抱き上げる。

「……フェイトさん、行きますよ。背中に乗ってください。」
「……う……ん」

 瞳が開く。けれど、その顔は言葉の意味を理解しているのではなく、ただ言われたことに従っているだけのようだった。
 フェイトが力無く彼の背中に抱きつく。
 シンの手が彼女の身体を自分の背に乗せるようにして持ち上げる――何か柔らかい部分に当たったが気にしない。不可抗力だと自分に言い聞かせる。

「……思ってたより、全然軽いんだな。」

 背中に感じる重み。それはまるで羽根のような軽さだった。本当にそこにいるのか、疑いたくなるほどに。

「デスティニー、マップ表示してくれ。」
『All right.』
「……じゃ、行くか。」

 背中に感じる重みと熱。それを感じながら歩き出す。
 それはどこか子供をおぶって家に帰る親子のようだった。


 思うことは一つだけ。
 暖かい背中だった。眠りにつくことを享受したくなる暖かさ。
 自分が守られていることを実感できる温かい背中。この暖かさがあれば何にもいらない。そう思えるほどに、それは魅力的な背中。
 暖かく、守られたいと思える背中だった。

 守ることしか知らなかった。
 自分は生まれた時からずっと誰かを守りたいと言う想いを持っていた。

 アルフ。お母さん。母さん。お兄ちゃん。なのは。はやて。すずか。アリサ。キャロ。エリオ。

 自分には力があったから。
 鍛えれば鍛えた分だけ力は応えてくれた。
 だから、ずっと知らなかった。本当に全身全霊で“守られる”と言うことを。
 その暖かさを――自分は一度も知らなかった。

 彼は私とはまるで正反対。何度鍛えても力は応えてくれなかった。
 私に流れ込んでくる記憶は誰のモノなのだろうか。彼を背後から見つめるようなこの視線は。
 詳細はまるでわからないけれど、彼がずっと誰かを“守りたかった”ことだけは理解出来た。そして、その末路も。

 金色の髪の少女を。
 赤色の髪の少女を。
 その全てに裏切られて――守ることは一度も出来ずに、彼の戦争は幕を閉じる。

 そして、それから2年と言う歳月を彼は戦争での帳尻あわせをするかのようにして戦い続ける。
 守れなかったと言う後悔を埋めるように、ただただ戦う日々。
 その果てに彼は縋り付いていた平和にすら裏切られて――彼は此処ミッドチルダへとやってきた。

 ミッドチルダにやってきてからの彼。初めはまるで無気力でやる気が無かった。
 奪われたからだ、力――違う、願いを。
 そんな無気力な時間の中である少女が浮かび上がる。
 ギンガ・ナカジマ。青い髪の少女。

(……だから、ギンガは特別なんだ。)

 彼女の放った一言。それが現在の彼を作り出した一因。守ることを喜べ。別にそれが直接の原因では無いだろう。
 ただ、それを切っ掛けとして彼は“気づいた”。
 自分のやりたいこと――やるべきことに。
 だから、彼にとって彼女は特別。
 彼の瞳が捉えた守るべき存在の一人。自身を破滅から救ってくれた一人の少女。
 彼自身気づいていない――けれど、彼女は彼にとって間違いなく特別な一人。

 ズキン、ズキン、と胸が痛む。まるで悪性の心臓病にでもかかったように痛みが治まらない。
 呼吸が出来ないほど、暖かさに安心していたのに、その痛みだけで私はまた涙を流しそうなほどに悲しくなり――そして次に彼の瞳が捉えたのは……私、フェイト・T・ハラオウン。

 胸がドクンと鼓動した。
 そして、頬が赤面する。身体が熱くなる。
 幻影でしかない自分の身体を抱きしめる。この熱が逃げて欲しくないから――もっと自分の中に沈みこんで欲しいから。
 ギンガは守るべき人。特別な守るべき人。
 そして私も彼にとっては守るべき人だった。無論、ギンガほどに特別では無いが。

 ギンガは言った。彼を守る、と。
 理性はそう言っている。
 彼女と同じ道を辿るべきだと。いつか終わるだけの彼を守る――それはきっと良い事だ。
 あの時、ギンガが怒った理由が理解出来る。彼は……シン・アスカは本当は守られるべき存在だ。
 いつだって前だけ向いて突き進むしか“無い”彼こそが本当に庇護されるべき存在。
 何も知らない私がそれを否定できるはずが無い。
 けれど、だって言うのに、自分は。自分の本音はそれとはまるで違う道を求めている。
 理性では抑えられないほどに。身体を熱く疼かせるこの想いは、私に一つの道を教えている。

 ――フェイト・テスタロッサ・ハラオウンは彼に守られたい。

 それを自覚した瞬間、胸が熱くなって、大きく鼓動した。
 罪だ。これは彼に甘えることに他ならない。

 ああ、けれど、それでも――自分は彼に甘えたい。守られたい。
 これは彼を理解した上で利用することに他ならないと分かっていて尚――この背中の温かさは離れがたい。

 涙が毀れる。
 自分がどれだけ罪深いのかを自覚して。けれど動き出したこの幼い恋慕はソレを止めることを決して許さない。
 あの手で抱きしめられたい。彼ともっと触れ合いたい。彼の赤い瞳で見つめられたい。もっと彼に自分を見てもらいたい。
 自分は、もう、彼から離れられない――否、離れたくない。もっと、もっと彼に甘えていたいのだ。
 そして願わくば――彼を変えたいとも願う。
 誰をも守るのではなく、自分だけを守ってくれる、そんなことを願って。
 それは――否定だ。
 彼が間違っていると否定するのではなく、彼に自分だけを守ってもらいたいからの否定。
 ギンガは肯定し、フェイトは否定する。
 酷似しているのに結末だけが懸け離れた想いの行き先。

「……イトさん」

 声が聞こえる。声が聞こえる。
 その声は私を駄目にする。溶かしていく。けれど、もう駄目だ。
 私はその声を聞いた瞬間、踊る胸を知覚してしまったから。
 条件反射のようにフェイト・テスタロッサ・ハラオウンは彼に守られたいと思ってしまった。
 夢が覚める。意識が現実へと落ちていく。覚醒する意識。その最中――声が聞こえたような気がした。
 幼い、けれど快活な少女の声を。
 それが誰の声なのかは良く分からないけれど――どこかその声はシンに似てる。そんな気がした。



[18692] 18.運命と襲撃と(f)
Name: smap◆93e659da ID:17f428f0
Date: 2010/05/14 23:29
 あの後、シンはフェイトを運び、6課フォワード陣に合流した。
 彼女を担架まで運び、一息を吐いた瞬間、彼は突拍子も無く、倒れた。
 エクストリームブラスト。
 そしてその後に続くリジェネレーションの急速な回復によってシンは一命を得た。
 だが、急速な回復とはそれだけで肉体に負担を掛ける。

 東洋医学と西洋医学のようなモノだ。
 東洋医学は肉体の内面から長い時間を掛けて改良していくのに対し、西洋医学は患部を切り取ることで治す。
 一長一短の両者ではあるが、肉体に掛かる負担は術式の内容からして、後者が大きい。
 それと同じく、致命傷を高速で修復したリジェネレーションが肉体に掛ける負荷は甚大なモノだ。

 彼がここまでフェイトを背負ってこれたのは一重に精神的なモノが大きい。
 彼女を背負って歩き出してから数十分で彼の身体は異変を教えた。
 疲労と倦怠感が、フェイトを背負って歩くと言う負荷を切っ掛けに一気に目覚めて襲い掛かってきたのだ。
 実際、歩いていたのは数時間も無い。
 けれどシンにとってその数時間は何十時間かと思えるほどに過酷な道のりだった。
 少なくとも、安心した瞬間に意識を喪失する程度には。

 いきなり、倒れたシンを見てスバル達は慌てふためいたものの――ギンガだけはその様を見て、別に何の驚きも無いのか、彼を背負うと、フェイトと同じ担架まで運んでいった。
 彼女にとって、シンがこうして倒れることなどいつも通りのことに過ぎないからだ。
 そして、それを連れて行くのは自分である。その関係は変わらないし、変える気など毛頭に無い。
 それはまるで酔っ払って潰れた亭主を連れて行く妻のようだった。

 その様子を唖然と見つめる視線。
 皆、微妙に赤面している。スバルが小さな声でギン姉って大胆だねとか呟いていたが気にしない。
 別にこれは大胆でもなんでもない。いつも通りのことだからだ。
 そこで彼女達とは違う視線を感じる。気がついたのだろうか、フェイトもギンガを見つめていた。

 ――いや、違う。彼女が見つめていたのはギンガだけではなく、その背中で眠るシンも含めて、だ。

 ギンガはその視線を受けて、睨むでもなく逸らす訳でもなく受け止めた。彼女の潤んだ瞳。それが何を意味するのか。その意味に薄々と感づいてはいたから。

(……やっぱり、フェイトさんも。)

 不安に陥りそうな自分を心の中で自身を鼓舞し、彼女の視線を受け止める。けれど、その内面は複雑である。
 何せ、フェイト・T・ハラオウンである。自身にとって憧れとも言える女性だ。
 そんな女性が自分と同じ男――確証は無いが恐らくは間違いなく――を好きになったのだろう。
 彼女は鼓舞しようと思って鼓舞した訳ではない。鼓舞しなければ折れてしまいそうなほどに不安だったからだ。

 シン・アスカが欲しい訳じゃない。けれどシン・アスカが誰かのモノになるのは嫌だ。

 そんな至極我が侭としか思えない気持ち。
 それを嫌らしいと蔑みつつ――彼女はそんな自分を抑えることが出来ずに“鼓舞”し続ける。
 背中に感じる重みと熱。それを拠り所にして。
 
 ――フェイト・T・ハラオウンの胸中は複雑だ。
 守られたいと言う自身の内から湧き上がる衝動。
 それに甘え、此処まで背負われてきた。
 それはとても甘く、暖かく、もっと包まれていたいと思う一時だった。

 けれど、ギンガが彼を背負ったその様子を見て、胸がドクンと鼓動した。
 更にはズキン、ズキンと酷く胸が痛む。悪性の心臓病にでもかかったように――否、これはそんな病よりも尚酷い病。恋の病に他ならない。

 ギンガがシンを背負って運ぶその様子。手馴れた感じと慈しむような動作。
 それはどこか、翠屋――彼女の親友である高町なのはの両親のように見えていた。或いは義兄であるクロノとエイミイ夫婦のようにも。

 悔しい訳ではない。“まだ”自分はそんなところには辿り着いていない。
 けれど、ギンガがそこに辿り着いていること――別に彼女はそんなことに気付いてもいないだろうが――どうしようもなく羨ましかった。
 
 そこで、はて、と思う。羨ましい。そんな思いを誰かに抱いたのは恐らく初めてではないのだろうか、と。

(……私、変わっちゃった)

 その思考を思うと、自然と頬が綻んでいく。変わってしまった自分。恐らく、もう元には戻れないことを察して、それが嬉しくて。
 恐らくこれから自分の視線は彼を追いかける。これまでは無意識に――これからは意識して。
 彼を――シン・アスカに恋しているフェイト・T・ハラオウンはきっと彼から目を離せない。
 きっと彼に近づくのを我慢出来ない。
 胸に生まれた幼い恋慕は幼い故に一直線。猪突猛進。ふつふつと湧き上がる想いが身を焦がす。

 ――負けないからね、ギンガ。

 ギンガ・ナカジマの想い。
 彼を守りたい。彼に甘えて欲しいと言う想いとはまるで真逆のベクトル。それが彼女が選んだ在り方。
 彼に守られたい。彼に甘えたい。
 その想いを胸に金色の女神は恋と言う名の荒波に身を浸す。
 
 ――それは砂糖菓子の如く甘い、桃色の想いであった。

(まるでネクターみたい)

 幼い頃に飲んだジュースの名前。そんな馬鹿な言葉が彼女の心を通り抜けた。


 医務室。時刻は夕暮れ。
 シン・アスカが昏々と眠り続ける横で、フェイト・T・ハラオウンも身体中に包帯を巻かれ、ベッドで横になっていた。
 シャマルの見立てでは肋骨に皹が入った程度でそれほど酷い訳でも無いらしい。

 彼女は隣のベッドに眠るシンを見つめる――ちなみに部屋の中には今、彼女達二人しかいない。
 シャマルは用事があるらしく席を外し、ギンガは二人の着替えを取りに行って来ると出て行った。
 
 黒い髪。穏やかな寝顔と寝息。それとは対照的に包帯で身体中を巻かれた痛々しい姿。
 シン・アスカ。
 彼の肉体は重傷ではなかった――だが、それが本当に良いことなのかどうかは判断に苦しむが。

 エクストリームブラストとは諸刃の剣である。
 感覚を加速し肉体をそれに追従させる、ただ、それだけ。
 だが、その為に必要となる魔力の量は膨大であり、その代償もまた甚大。
 急激な加速と停止は身体中の筋肉を断裂させん勢いで負荷を与え、内蔵――特に心肺系に強大な負荷を与える。
 
 シンが吐血し、倒れたあの瞬間。
 時間なのかというシンの言葉が示す通り、あの時点がシン・アスカという器がエクストリームブラストという魔技から生きて帰れる臨界点。
 あの時点で彼の全身の筋肉は全て断裂寸前であり、心肺は破裂寸前であった。
 吐血したのはほんの少しそれが遅かったから。
 それだけで内蔵の一部が損傷したのだ。
 もし、破裂していたならばあの程度では済まない。まず間違いなしに死んでいただろう。
 
 八神はやてはこの事実をシャマルから聞いた時、深く嘆息した。
 それは彼が助かったことを安心してではない。彼がこれを使うことをどう止めるか――それを考えると気が重いからだ。
 シン・アスカはこの力を平然と、それこそ次に戦闘があれば直ぐにでも使うだろう。
 たとえどんな代償があろうとも、彼に躊躇いは無い――その躊躇いを無くすだけの力がエクストリームブラストには存在するからだ。
 だが、これは諸刃の剣。
 如何にはやてがシンのことを武器として扱っていると言っても、戦う度に吐血する人間など見ていて気分のいいものではない――何よりも彼女の胃が持たないだろう。

 話を戻そう。
 シン・アスカは現在、そういった事情で医務室に保護されている。
 全身の打撲と疲労、そして筋肉痛。全て絶命に至るほどではないものの、放っておける怪我でもなかった。
 眠り続けるシン・アスカ。
 それを何が楽しいのか、微笑みながら見つめるフェイト・T・ハラオウン。
 その瞳は恋する乙女でもあり、無邪気な子供のようだった。
 いわゆるデレ期だ――無論、彼女にツンがあったかと言えば断固として否定するが。

 シンが寝返りを打った。彼の顔が彼女から離れていく。無邪気な笑顔が曇り、こちらに振り向くことを願う。
 だが、そんな都合よく寝返りを打つなどあり得ない。故に、

「……ちょ、ちょっと近づいてもいいよね。」

 そんな悪戯するような子供めいた呟きを誰に言うでもなく放った。恐らくは自分自身に言い聞かせているのだろう。
 そそっと静かに、誰を起こすことも無くフェイト・T・ハラオウンはベッドから起き上がり、彼の眠る
ベッドへと近づく。誰にも気付かれてはいない。彼女の鍛えられた戦闘技術はそんな下手を打つことを許さない。
 そして、彼の顔の側に移動し、彼の顔の目前に近づく。吐息が触れ合う距離。心臓の鼓動すら聞こえそう。

 ――ゾクゾクする。何かいけないことをしているようで。
 
 フェイト・T・ハラオウンの恋慕とはギンガ・ナカジマの恋慕とはまた違う。違う意味で滅裂である。
 
 ギンガは「こう在るべき」と言う何処かで聞いたような恋愛観を元に、シン・アスカを守り彼を支える――端的に言って甘えさせる――ことを骨子として、彼女自身の恋愛観を構築している。
 そこにあるのは杓子定規な雁字搦めの考え。それが故に彼女は踏み出すことが出来ない。無償の愛(アガペ)になど身を染めようとするのだ。
 それとは逆に彼女――フェイト・T・ハラオウンとは、無邪気である。なまじ近しい場所――自身の義兄や親友の両親、兄弟である――にテストケースが揃っていたからだろう。
 ギンガの「こう在るべき」よりも余程「生っぽい」恋愛観を得るに至っている。それは随分と歪んではいる――というかおかしな方向に特化している。

 いわゆるラブラブ特化型である。
 高町夫妻。ハラオウン夫妻。そして高町(息子)夫妻。
 その共通点は基本的に“ラブラブ”である。
 ちょっと見てるこっちが恥ずかしくなるような、というか子供の情操教育的に悪影響なのか良影響なのは分からないほどに、仲睦まじい――というかラブラブな夫婦である。
 だから、彼女の恋愛観は極端だ。
 
 普通なら、「いいか、落ち着け。クールだ。クールになれ。」と胸中で自身に問いかける部分で「うん、行こう」とクラウチングスタートでも決めるようにぶっちぎる。
 要するに我慢が効かない――違う、我慢を知らないのだ。
 だから、こんなことをする。それが周りに与える影響よりも、まずはやってから考えよう。
 素直すぎるというかエロいのだ。
 だから彼女は“我慢”出来ずに、ついキスをしようとする。

「……は、恥ずかしいな。」

 恥ずかしいもクソも無い。傍から見ればキスしてるようにしか見えない至近距離。 
 けれど、彼女は恥ずかしい。キスという行為の重大さが彼女に恥を感じさせる。

(い、いきなりは拙いから、やっぱり此処は段階を踏んで――)

 鼻の頭を舐めた。こう、ペロっと。

「……シンの味がする。」

 少しだけしょっぱいのは汗をかいているからだろうか。そして、再び舌を伸ばそうとして――扉を開く音。
 そして、閉める音が、した。
 一瞬の沈黙。そして、甲高い声が室内に響いた。

「フェ、フェイトさん、な、なんばしょっとですか!?」

 ギンガ・ナカジマ登場。

 ――固まるフェイト。その姿はキスを敢行しようとする姿そのもの。
 ――固まるギンガ。その手にはシンがいつもパジャマ代わりに来ているジャージとフェイトの寝巻き――何故かそこには黒い下着も一緒に入っている。彼女は黒以外持っていないのだろうか――を持っていた。

「……え、あ、い、いや、わ、私は、そ、その」
「な、何ドサクサ紛れにキ、き、キ……接吻しようとしてるんですか!?」

 キスと言おうとして恥ずかしかったのか、ギンガは接吻と言い直した。

「し、してないしてない!!ちょっと舐めただけ!!」

 フェイトさんの返答。それは余計にやばいです。

「な、舐めた!?な、ナニを、ど、どこを舐めたって言うんですか!?」

 ギンガの瞳が鷹の如く鋭くなり、威圧が放たれる。
 拳を握り締める。ここがどこかなど関係ない。叩き潰す。その意思がそこに見えた。

(ま、まずいよね、これ)

 確認するまでも無い。拙いなんてレベルじゃなく、ヤバイ。猪突猛進の乙女は返答次第では明らかに吹き飛ばす気満々である。

「あ、い、いや、その……は、鼻を」
「は、鼻……?」

 ワナワナと身体を震わせるギンガ。

(鼻、ですって……!?)

 鼻。それは顔だ。
 それを舐めた――つまり、鼻=顔を舐めた。
 顔を舐めたといっているのだ、この女豹は。
 何と言うことだろう。何と言うかいきなりそこまでするか、とギンガは思った。
 自分ですら未だ口と口を触れ合わせるのが精一杯である。しかも不可抗力によってでしか出来ない。
 自分から率先してそれを行う――考えただけでギンガの顔は真っ赤になった。

(で、出来る訳ないでしょ!?そ、そんな、は、ハレンチなこと!!!)

 そんな風に思い悩むギンガと、目前のギンガを不思議そうに見つめるフェイト。
 対照的といえば対照的過ぎる二人。その間で眠るシン・アスカ。
 その寝顔は先程よりもどこか寝苦しそうだ。気合に当てられたのかもしれない。
 再びがらっと扉を開ける音が響く。
 思わずそちらの方向に振り向く――そこには白衣を着た金髪の女性――ヴォルケンリッター・シャマルが疲れたようにして、立っていた。

「……あのね、二人とも喧嘩するなら外でやりなさい。」
「でも、看病とかは……」

 フェイトが呟く。再び溜息。シャマルが口を開く。

「……フェイトちゃんも怪我人なのよ?分かってる?」

 有無を言わせぬ迫力――というか看病されるのはむしろフェイトの方である。
 どうして彼女に看病などさせられようか。
 言われて、ようやくそのことを思い出したのか、フェイトはしゅん、と俯くと小さく呟いた。

「……はい。」
「それとギンガ?」
「は、はい。」
「……ここ、一応病室だから静かにしてね?」
「……はい。」
「ふう、それじゃ、ギンガ、フェイトちゃんと一緒に食事に行ってきなさい。」
「あの、でも、シンは?」
「起こして食事させる訳にもいかないでしょう。彼は点滴。」

 そう言われては立つ瀬も無い。二人は揃って病室のドアに手を掛け、退室する。

「それじゃまた後で。」

 ええ、と言う声が室内から聞こえてきた。そうする内にガチャガチャと音がする――点滴の準備を始めたのだろう。

「……じゃ、フェイトさん、行きましょうか。」

 そう言ってギンガは歩みを始め――振り返った。
 フェイトは動いていなかった。部屋の前で立ち続けていた。顔は俯き、髪で隠れて表情は伺えない。
「フェイトさん?」

 声を掛ける。フェイトはその声に反応するように顔を上げた。
 
 ――そこには決然とした表情があった。覚悟を決めた表情。それはどこかで見たことのある表情。

(……ああ、そっか。)

 その表情を見て、ギンガは全てを看破する。これは“自分”だ。自分と同じ、決意をした表情なのだと。
 だから、次に出てくる言葉も予想できた。

「私、シン君が――シンが好きかもしれないから。」

 予想通りの言葉。そして、胸の奥で渦巻いていた不安がカタチを為して、“霧散”した。
 宣戦布告である。好きだから――だから、どうしようというものでもない。彼女自身その先に続く言葉を見つけられていないのかもしれない。
 それでも、彼女は布告した。自分は彼を好きなのだと。その気持ちは本当だと。
 正々堂々、恋をしようと言っているのだ。
 彼女の不安が霧散したのはそのせいだ。不安とは未知の恐怖。不確定であるが故の恐怖である。
 けれど、正々堂々と言う勝負の前でそんな未知や不確定は存在しない。
 故に――

「――上等です。」

 その言葉、その瞬間を以って、ギンガ・ナカジマはフェイト・T・ハラオウンを恋敵――強敵(トモ)として認識した。
 不敵に笑う二人。しばしの睨み合い。空気が帯電するような緊張感がそこに張り詰め――数分後、二人は食堂へと向かっていった。
 
 ――此処に二人の乙女は女豹へと続く階段に足を掛ける。至る未来は桃色螺旋回廊。
 
 中心で眠るシン・アスカは何も知らない――否、知ろうとさえしていなかった。
 今は、まだ。


「……エリオ君、大丈夫?」
「あ、うん……大丈夫、だよ。」
 ぎこちなく笑いながら、エリオはキャロに返答する。
 その微笑みが翳る理由は簡単だ。
 負い目。彼女を――キャロ・ル・ルシエを見殺しにしようとしたことへの。
 彼が今いる場所は食堂――ちょうどフェイトやギンガが着いた時点である。

 見殺しにしようとしたこと。
 エリオの冷静な部分はそれを仕方ないことだと断じている。
 誰だって自分の命が、他人の命よりも大事なのは明白である。
 むしろ、そうでなければならない。
 戦いの場に置いて、自分の命を軽く扱う人間ほど性質の悪い存在も無いからだ。
 そのことをエリオ・モンディアルは知っている。
 何よりも大事なのは自分が生き抜く事。生きようとする執念は何よりも強いのだから。

 だが、エリオ・モンディアルの思考はその考えを許せない。
 
 自分は事実として、彼女――キャロ・ル・ルシエを殺そうとした。自分の命と彼女の命を秤に賭けて自分を選んだ。
 それは、人として、戦士としては正しいだろう。
 だが、騎士としてはどうなのだろうか。
 騎士。
 それは、守る者である。
 主を、領地を、誇りを、愛する者を。己の力で守り抜く者のことである。

 故に騎士とは守る。眼に写る誰かを、何かを守り抜く。それが単なる言葉に過ぎない――単なる称号に落ちぶれたモノだとしても、だ。
 ずっと守られるだけだった自分。
 力は彼に守ると言う行為を与えてくれた。彼はその時境界を超えたのだ。守られるだけだった自分から、守ることの出来る自分へと。
 だからこそ、許せない。騎士であるならば、あの瞬間、命を捨ててでも彼女を選ばなければならなかった。

 ――その考えは間違いだ。だが、幼い彼のココロはその間違いを正解だと信じている。

 彼とて、それが間違いだと理解している。不可能だとも。
 けれど、“運の悪い”ことに彼の周囲にはその不可能を可能にしようと足掻く男がいた。
 シン・アスカ。眼に写る全てを守る為にそれ以外の全てを雑多だと断じる生き方。
 彼がいたからこそエリオは落ち込む。自分の戦いは決して正しくは無い――そう、言われているようで。
 話を聞けば、彼は最後の瞬間まで背中に守るフェイトのことを忘れてはいなかったらしい。
 そう、訓練でもそうだったように。彼はいつだって、誰かを守る為に戦っている。

 本当は比較する必要など無い。
 シン・アスカとエリオ・モンディアルは本来比較することなど出来ない。
 違う世界で生まれ育った人間。
 ましてやシン・アスカの思考回路は普通とは違い大きく歪んでいるのだから。
 だが、シンの思考が歪んでいることなどエリオは知らない。知らないから、彼は特別なのだと思えない。認めたくない。
 それは憧れた女性の変貌と言う影響もあった。
 目前でギンガと睨み合いながら食事を続けるフェイト。
 いつもよりも早く、より早く食事を終えてどこかへ戻ろうとしている――恐らく医務室へだろう。
 エリオ・モンディアルは、悔しかった。
 自分はあんなフェイトを見たことが無かったから。恋するフェイトなど見ることなど出来なかったから。
 少年の心は沈んでいく。澄んだ水の底に溜まる澱のように少年の昏い感情は沈殿し、溜まっていく。

(力が、欲しい。もう、見殺しになんてしないで済むように。)

 内なる叫びは切なる声で、少年に成長を促せる。願わくば、この願いが果たされますように、と。


「……フェイトさんも眠ったのね。」

 時刻は既に10時を過ぎている。眠るにはいささか早い時間だ。ギンガは今、医務室で二人の看病をしていた。
 二人の寝息が木霊する。完全に熟睡しているのだろう。そう、思って一人呟いた。

「…鼻は無いわよ、鼻は。」

 それは先ほどの光景――眠るシンの鼻をフェイトがペロっと舐めていたことを意味する。

 ――シンの味がする。
 
 フェイト・T・ハラオウンはあろうことか、シンの鼻を“舐めた”。犬が飼い主の顔を舐めるように、その桃色の舌でペロリと。
 所作自体は無邪気なものだった。だが、無邪気が故にそれはどこまで淫靡さを伴わせていた。

「……鼻は無いわよねえ。」

 そう言いながら両脇のベッドを確認する。こんこんと眠り続けるシン。彼は未だに一度も眼を覚まさない。
 もう片方のベッドを見る。すやすやと寝息を立てるフェイト。
 疲労困憊な上に肋骨の負傷などを受けた彼女は食事を取って薬――痛み止めである――を飲むと睡魔に襲われたのか、そのまま眠りについた。

「……シンの味、か。」

 言葉を発して彼女は立ち上がり、眠り続けるシンに向かって歩いていく。
 
 ――思い出した先ほどからギンガの胸の鼓動が高鳴っている。実は全く収まらないほどに。
 思い出した光景が、一抹の悔しさと共に彼女の脳裏を刺激しているからかもしれない。

「……シンの味。」

 熱病に浮かされたような声。声には少しだけ甘さが混じっていて、彼女は引き寄せられるようにしてシン・アスカの顔に自身の唇を近づけていく。
 対抗心。嫉妬。好奇心。彼女の胸に渦巻いていたのはそれらが密接に絡み合った複雑な気持ちだった。
 彼女の唇が彼の鼻に近づく。
 鳴り響く心臓の鼓動はもはや拍動ではなく轟音そのもの。
 その時には横に誰がいるのか、何を自分はしているのか、などの常識的な考えは既に思考の埒外にあった。
 端的に言って酔っていた。自身の心臓が生み出す鼓動。その雰囲気に。
 近づく。その距離およそ数cm。そして、脳裏に思い描いたフェイト・T・ハラオウンのように彼の鼻を舐めようと舌を出した瞬間――パチリ、とシン・アスカの朱い瞳が見開いた。

「……」

 身体が硬直する。身動きが取れない。

「……これは別に、シンとキスしたいとか鼻を舐めたいとかじゃなくて、そう、ただの好奇心で、私はただシンの健康状態を確かめようと思って、鼻の上に浮かんだ汗を舐めようと思った訳で、昔から言うじゃないですか、汗を舐めれば嘘か本当か分かるって、だから私もソレに倣って――」

 言い訳なのか、誤魔化しなのか分からない、愚鈍な言葉が次から次へと渦巻いては彼女の口を通って出て行く。
 だが、シンはそんなことを聞こえていないのか、左手で近づいていた彼女の身体ごと自分の方に引き寄せる。
 力強い動作は彼がどうしようもないほどに“男性”なのだと彼女に意識させ、彼女の脳裏と精神と鼓動を台風の如く掻き乱し、混乱させていく。

(ええええええええ!!!!!??)

 パクパクと陸の上に上がった魚のようにギンガは口を開けたり締めたりしている。
 混乱しているのだ――違う、そんな程度ではない。
 これは最早、混沌だ。
 恋に目覚めたばかりの乙女にはまだまだ荷が重いと言うか重すぎる恋慕のその先にあるもの――触れ合いである。
 そんなものにいきなり近づけば、彼女でなくとも停止する。
 彼女は望んで停止しているのではない。
 どうすればいいのか分からないから、まるで何も知らないから停止せざるを得ないのだ。

「よ、横にフェイトさんいますから……!こういうのは、ふ、二人だけの時に……!?」

 彼の顔が――苦々しく、歪む。苦しんでいるようにして。
 唇が動いた。
 至近距離で動く唇は唾液を絡ませて、どこか艶めかしいという印象を与える。

「……る、な」

 瞬間、シンの身体が抱きしめる力を弱めた。
 瞼は既に閉じている――彼の身体がゆっくりと崩れ落ちて、自分の胸の谷間に埋まるようにして寝そべっていく。
 聞こえるのは、すーすーと言う寝息だけ。

「……」

 荒れ狂う暴風のような、彼の力に身を任せていたギンガは、その言葉を聞いて――少しだけ彼から身体を離した。
 ストンと彼が眠るベッド脇の椅子に腰を落とし、呆然とする。
 抱きしめられた手が気持ちよかった。
 身体中をまさぐる手が心地よかった。 
 けれど、その言葉は――
 
「……ルナ……?」
 
 ルナマリア・ホーク。シンにとって忘れられない――忘れたい名前。

「誰の、こと、なの……?」
 
 その言葉が彼女の心に影を作る。
 猪突猛進究極無比。乙女とはそういったものだ。盲目と言ってもいい。
 だからこそ迷わない。突き進む。振り返らない。
 けれど、それは傷が無いからだ。傷は乙女の足に絡み付き、その動きを鈍らせる。
 今、彼は自分をギンガ・ナカジマと認識しないで抱きしめたのだろう。
 恐らく、そのルナという女性と間違えて――違う。単なる偶然だ。そんなことはない。
 胸中から溢れ出る言葉はどこまで薄っぺらい。

 ――もしかしたら、そんなことがあるかもしれないとは考えていた。

「……違う、よね。」

 呟きは弱々しく、誰にも聞かれることなく沈澱する。
 脳髄は既に真っ白だ。何も考えられないと言って良い。

「……違う。」

 その言葉は、どこまでも嘘臭く――誰にも知られることなく、空気に融けて消えていく。



[18692] 19.襲撃と休日と(a)
Name: spam◆93e659da ID:cc4806a2
Date: 2010/05/15 17:09
 ――真っ白な世界。そこには何も無い。ただ虚無のみがそこにあった。
 
 世界はまっ平ら。太陽も無い。月も無い。地平線の先には何も無い。その先を見てはいないが、それでも何となく理解できた。
 “ここ”はそういう場所なのだと。
 そこは箱庭だ。閉じられた世界。メビウスの円環。入り口も無い。出口も無い。始まりが無いから終わりも無い。
 ただそこにあるだけの永遠と言う名の虚無。
 その中で、彼は平然としていた。その光景には見覚えがあったからだ。いつ、どこで見たのはかはまるで分からない。
 けれど、見覚えがあった。見たことがある。感じたことがある。その光景を、その空気を、彼は、知っていたから。
 
 彼は歩いた。虚無と言う世界にあってやることなど身体を動かすことくらいだ。手には何も無い。
 だから、歩いた。魔法を使って飛ぼうとは思わなかった。
 何故か、まるでそんな発想が生まれなかった。恐らく使えば飛べる。
 後にして思えばそれが不思議だった。どうして自分は魔法を使わなかったのか、と。
 それについて、今はまだどうでもいい。とにかく彼は歩いた。歩き続けた。
 どこに向かっているのか、それは彼にも分からない。ただ他にやることも無かったから歩いただけだ。
 そうしてどれほど歩いたのだろう。気が付けば、風景が変わっていた。
 草原だった。
 風が吹いていた。気持ちの良い風だった。
 空には太陽。雲が流れていく。

「うわっ」

 彼が思わず体勢を崩す。
 風だ。ひときわ強く彼の背中を押すようにして風が吹いた。日光で火照った身体を覚ます気持ちの良い追い風だった。
 声が、した。暖かい声。

「……ふふっ」

 いつ、現れたのだろう。前を向けば、そこには一人の女性が立っていた。
 白銀の髪と紅玉のような赤い瞳。年のころは10代後半ほどだろう。

「……なんだよ。」

 彼は少しだけむっとした声で返答を返した。笑われたのが自分が転びそうになったからだろうと思ったからだ。
 女性はそんな彼の様子を見て、彼に向かって返答する。その顔は少しだけ申し訳なさそうだった。

「ああ、すまない。随分と気持ちよさそうにしていたから、ついな。」
「気持ちよさそうにしていたから?……よく意味が分からないんだが。」
「気にしなくていいさ。お前がこの世界を心地良いと感じたことがうれしかった。それだけだ。」

 女性はそう言って、笑う。その笑いは暖かな笑顔。どこか母性を感じさせる微笑みだった。

「……まあ、いいけど。」

 そんな風に笑われるとムッとしていた自分が恥ずかしく思えてくる。彼は少しだけ居心地悪そうに瞳を逸らした。
 そんな彼の様子を彼女は見つめながら微笑む。
 それからしばらく時間は過ぎていく。
 彼はその場に座り込み、彼女はその場に立ち尽くし、共に空を見つめていた。青い空。雲が流れ、太陽が照らす空を。
 綺麗だった。手を伸ばせば届くような蒼穹。吹く風が心地よく彼らの身体を撫でていく。
 二人の間に言葉は無い。
 
 彼にとって彼女は恐らくは初対面だ。
 だから、話をするのが難しかったから、ではない。
 確かに彼は人付き合いが苦手だ。不器用な性格が邪魔をして、口下手と言ってもいい。
 最近では随分と改善されてきてはいるが、それも表面上に過ぎない。
 本当の彼はいつだって不器用で真っ直ぐで前を見るしか能が無いのだから。
 だから不思議だった。
 その沈黙が心地良い一時だったから。
 言葉を口にすることなど必要は無い。
 長年共にいた仲間といるような、気心の知れた者といるような、そんな沈黙。
 風が気持ちよかった。
 そうして数時間が経った――実際はそんなに長くはなかったのかもしれない。
 もしかしたら数分だったのか、それとも数十分だったのか。
 或いは――そんな感覚はまるで意味の無いことかもしれないが。
 彼女が口を開いた。心地良い沈黙が破られた。彼は彼女を見つめた。彼女の赤い瞳がこちらを見つめた。

「伝えなければいけないことがある。」

 彼女は、少しだけ申し訳なさげに呟く

「“彼女”の覚醒によって時計の針は早まった。お前が今此処にいるのはその結果だ。」

 彼女の口がスラスラと言葉を並べて行く。託宣を告げる預言者のようにして。

「世界が重なる時、アルハザード――羽鯨の覚醒は近い。」

 聞き慣れない単語。聞いたことの無い言葉。けれど、その言葉は何故か彼の心に刻まれていく。深い場所。決して忘れられない深遠に。

「だから、■■・■■■。この世界で最も強欲な男よ。魂を食らう人間よ。今はまだ何も分からないかもしれないが――」
 
 彼女は息を吸い込む。言葉を切って、そして呟く。
 祈るように。
 謡うように。
 哀れむように。

「願いを叶えてくれ。お前の持つその淀んだ願いを。その全身全霊を懸けてその願いを叶えてくれ。」

 そして、その言葉を契機として、世界が崩れ出した。
 ガラスにヒビが入るようにして、世界が崩れていく。空が割れた。草原にヒビが入った。それでも風は温かなまま。
 彼の座っていた地面が割れた。見えたのは宇宙の果てのような漆黒。全てを吸い込む虚ろの穴。
 落ちていく。彼が落ちていく。
 恐怖は無い。驚愕も無い。それを当然のこととして、受け入れて、彼は落ちていく。
 遠く、遠く、遠く。
 漆黒の世界へと。
 それは一時の逢瀬。決して出会うはずの無い男と女の“再会”の逢瀬。

 ――これはある一人の男の物語。


「エクストリームブラスト……か。諸刃の剣とは良く言ったもんやな。」

 報告書に書かれている内容に眼を通し、はやては嘆息する。
 トーレとフェイトの戦いに割って入ったシン・アスカが得た新たな力。
 元々ブラックボックスとして格納されていた魔法を、デスティニーが応用し、生み出した魔法らしい。
 魔法の内容は簡単なモノで、体感時間の加速とそれに肉体を追随させる為に全身のありとあらゆる行動をパルマフィオキーナで加速させる。
 その際に肉体を朱い炎のような光――待機状態のパルマフィオキーナである――が覆う。
 単純ゆえにその威力は絶大である。
 フェイト・T・ハラオウンの真ソニックフォームと互角の速度を誇ったトーレと渡り合い、一撃を与えるほどに。
 
 そして絶大な能力に比肩するようにその代償も凄まじい。
 内臓への致命的な損傷。心肺機能への致命的な損傷。全身の筋肉や関節へと掛かる甚大な負荷。
 それらが呼び込むモノは単純に死以外にあり得ない。その死を回避する為にデスティニーにはもう一つ魔法が格納されていたことも判明している。
 リジェネレーション。要するに回復魔法である。それも非常に特殊な。
 規模を使用者個人に特定し、膨大な魔力消費によって死ぬ寸前――つまりトーレとの戦闘を終えた時のシン・アスカのような状態からでも生還させてしまう。
 究極とも言える回復魔法だ。無論、腕や足の欠損や頭部を吹き飛ばされた状態からの復元は不可能だろうが、それ以外の致命傷など死ぬ前に全て回復させてしまう。
 腕や足、胴体が千切れそうになれば千切れる前に繋ぎ、内臓が破裂しようとすれば破裂しそうになっている箇所から再生する。

 その際に不足した魔力はデスティニー自身がシンのリンカーコアに干渉し、無理矢理稼動させ強制的に魔力を変換し出力を上昇、そして、回復させる。
 結果、使用者の肉体に残るのは通常ならば考えられないような疲労と倦怠感。
 一時的に魔力すら消失している様子すらある。
 
 この魔法は本来エクストリームブラストと同時に使われるモノらしい。
 つまりエクストリームブラストによって崩壊する肉体をリジェネレーションで治癒し続ける。
 魔力が続く限り、彼は最大戦力で戦い続けられると言うことだ。現在はその機能を担当するパーツが無い為に同時に使えないらしいが。
 シャリオ・フィニーノの言葉では、初めから組み込まれていないパーツであるとのこと。
 それがどんなパーツなのかは彼女にも、デスティニーにも分からないらしいが。
 製作者――この場合はこのデバイスの設計者を指す――でなければ分からないのだと言う。

「……滅茶苦茶やな。」

 デスティニー。このデバイスは異常だ。何よりも異常なのはその出自。非人格型アームドデバイスとして作成されたこのデバイスには意思は元々存在していない。
 けれど、それが意思を持った。それも使用者の承諾も無く肉体に干渉するほどの強い意志を。
 実際、このデバイスは既に二度、その意思でシン・アスカの肉体に干渉し、彼に武器を与えている。
 
 一度目はギンガとの模擬戦。その時は肉体の動作系を書き換え、達人の動きを与えた。
 二度目は今回のトーレとの戦い。神経系に干渉しエクストリームブラストと言う諸刃の剣そのものの魔法を作り出した。
 デバイスが主の承諾も無く肉体に干渉するなどあり得ない話だ。だが、現実として起こっている以上認める以外に無かった。
 以前、はやてはこのデバイスはシン・アスカを鍛える為のモノだと解釈し、受領した。
 だが、もはやデスティニーはシン・アスカを鍛えるようなデバイスではなくなり、シン・アスカを作り変えていくデバイスとして、稼動している。
 その結果、彼の肉体がどうなろうともリジェネレーションで治るから問題ないとでも言いたげに。
 
 ある意味では主人の意思を何よりも汲み取ろうとするデバイスなのだろう。
 その結果、主人がどうなるかなどまるで考えず――もしくは考えた上での結果なのかもしれないが。
 
 どちらにせよ、それはシン・アスカが熱望する生き方――つまり、守る為に戦い続けると言うそれだけを最大限にサポートしているようにしか彼女には思えなかった。
 大体にしておかしな話だ。
 重傷を負ったはずのフェイト・T・ハラオウンが三日で退院したと言うのにシン・アスカは眠りから醒めるだけで三日かかった。
 デスティニー。それは聖王教会で設計され、機動6課にて作り出したモノだ。
 設計段階から携ってないとは言え、製作段階に携っていたことからその性能の大よそを把握している気になっていたが――もしかしたら、自分はあのデバイスのことを何も理解していないのかもしれない。
 何よりも彼女の――八神はやての直感が今のアレには何か得体の知れないモノを感じるのだ。
 融合騎――ユニゾンデバイスなどよりも余程危険なデバイス。
 それがどう危険なのかは良く分からない。けれど、“とにかく”危険なことは間違いない。

 エクストリームブラスト。リジェネレーション。管理局でも例の無い特殊で強大な魔法。
 使用すること引き換えに数日間身動きが出来なくなるが――何せ命すら簡単に救ってしまうと言う強大な効果に対して、反動は非常に小さい。小さすぎると言ってもいい。

 魔法とは不可思議に見えてはいてもその裏には確固とした技術体系が存在する。つまりは法則によって縛られている。
 物理法則であれば常に等価交換の法則に縛られる。何かが在れば何かが消費される。
 
 魔法も同じだ。魔法を使えば必ず魔力を消費する。無から有を生み出しているように見えて、有から有を生み出しているだけに過ぎない。
 
 だがデスティニーのリジェネレーションはその法則に縛られていない。
 シン・アスカの生産魔力量と通常時の魔力量。リジェネレーション時に必要とされる魔力量は少なく見積もってもその倍は必要となる。
 ならば、その魔力は何処から供給されているのか。
 
 魔法とは無から有を生み出すモノではない。有から有を生み出すものに過ぎない。
 仮に、リンカーコアを無理矢理に稼動させて、周辺から魔力を供給したとしよう。
 けれど、それでも必要となる量はにまるで足りていない。

 ならば――はやての脳裏にふと、一つの考えが浮かぶ。
 それは酷く馬鹿げた考えで――けれど、その考えを笑い飛ばすことは出来なかった。
 何故なら、その考えは彼女が経験したある事実を元に積み立てられた考えだったから。

 リジェネレーション。
 瀕死の人間――死ぬ間際の人間を完全に回復させる魔法。
 それを使用するにはシン・アスカの魔力量では足りない。周辺の魔力を供給したとしても、まるで足りない。

 満足のいく効果を得る為にはそれよりももっと多くの魔力が必要となる。
 例えば――周辺の魔力だけではなく、周辺に存在する魔力の塊――平たく言えば魔導師から魔力を奪い取ったとしたら?
 突飛な考えだ。あり得ない考えだ。
 思えばフェイト・T・ハラオウンの状態――バルディッシュアサルトの記録していた映像で確認した――は尋常ではなかった。
 直ぐに回復はしたものの、熱と疲労によって、意識は朦朧とし、酩酊状態に近かった。
 まるでAMF下で魔力を急激に消費したような消耗だった。
 “魔力を急激に消費した”――確認は出来ない。
 もしかしたら、という程度の疑念に過ぎない。
 だが――
 
「……馬鹿やろ、私。」

 言葉は静かに震えている。背筋を走る震えを止められなかった。
 
 彼女のこの考えは自分自身に備わった在る能力とそれによって引き起こされたある事件が根幹にある。
 他人の魔力を蒐集する。
 そういったレアスキルは確かな事実として、“彼女の中”に存在している。蒐集行使という名前を持って。
 
 死を超越することは彼のアルハザードの魔法ですら出来なかった。
 誰にも出来はしない。それは人間の領域ではなく神の領域である。
 神ならぬ人間が神の領域に手を掛ける――ならば、その代償はそれに比して巨大とならなければならない。
 はやては頭を振ってその馬鹿げた考えを隅に追いやった。在り得る筈が無いのだ。そんなことが、在る筈が無い。
 
 デスティニーが、シン・アスカが――蒐集行使に近い力を使い、その結果としてフェイトは命の危険に晒されていたなどと言う世迷言が。


 いつもの通りの訓練。シンは何故かフェイトとペアを組んでストレッチをすることになった。
 あの戦闘の後、何故かフェイトは自分に対して態度が変わっていた。
 どういった心境の変化か分からないが、よく笑うようになっていた。
 時折、こちらを見ていることもある。眼が合うと笑って手を振ってくる。
 食事時には必ず自分の隣に座り――これは以前から変わらないが――色々よそってくれたりもする。
 流石に隊長にそんなことをやらせるのは悪い、とシンが一度止めようとしたら、泣きそうな――今思えば、あれは振りなのだろう――顔で「……嫌?」とか言われた。
 割とドキッとしたが、次の瞬間、彼は我に返り、小さく分かりました、とだけ呟いた。
 
 それからは止めることもなく――と言うか、止めても同じことの繰り返しだったので、それからは黙っている。
 どこか、そんな彼女を見ていたいと言うのもあったかもしれない。
 フェイトのその仕草。その表情。それはどこかマユを連想させたからだ。
 彼が初めて守れなかった対象。
 第一の喪失の証。マユ・アスカ。彼女との思い出――無論、彼女が死ぬまでの間だが――は彼にとって幸せだった頃の象徴として今も胸に刻まれている。
 どこかそれを想起させるフェイトを止めようと思わないのも道理だろう。
 幸せそうな彼女を見ているとこちらも幸せになる――そんな馬鹿な思いを頭に抱く。
 それとは対照的に、あの戦闘以降よそよそしいと言うか、元気の無い者もいた。
 彼らがいる場所から少し離れたところ。そこではギンガがストレッチをしているシンとフェイトを見つめていた。
 ギンガ・ナカジマ。恐らくシン・アスカにとってこの世界で最も信ずるに値する人間。彼女の元気がどうにも無いのだ。

(……何かあったのかな。)

 心中で呟くもシンには何も覚えが無い。
 けれど変化はあった。毎朝ギンガは自分を叩き起こしに来ていた。それが、今は無い。
 一度その理由を聞いてみたところ笑いながら誤魔化された。
 
 それだけではない。気がつけばいつも一緒に食事していたと言うのに最近はスバルやティアナ達と一緒に食べたり、かと思えば自分と一緒に食べたりする。
 シンはどうにも不安だった。人間は常ならぬ行動が起こると違和感を感じる。
 シンにとってミッドチルダに来てからずっと一緒だった彼女は、いなくなったことで違和感を感じさせるほどに日常に食い込んでいたのだ。
 無論、彼はその原因が自分にあるなど知るはずも無い。
 夢の中でルナとのことを思い出した挙句、いつもルナにしていたように抱き締めて――そんなことをギンガにしたなど全くもって覚えていないのだから。
 だから、シンは最近ギンガを眼で追いかけることが多くなっていた。以前は追いかける必要も無く傍にいたのだから当然と言えば当然だが。

(……まあ、いいか。傍には“いる”んだし)

 そう、思考を切り替えてシンは再びストレッチに没頭する。

 シン・アスカの思考とは単純明快だ。
 守れるか、守れないか。ただ、それだけ。

 何かしらの理由があってギンガが自分の傍にいることが嫌になったとしよう。
 それは辛いことだ。
 恋愛感情の有る無しに関わらず誰かに嫌われることとは辛いことだから。
 けれど、彼にとってソレは問題ではない――問題ですら無い。
 自分から離れていく誰かには、とうの昔に慣れていると言うのが一つ。裏切られることは別に問題ではない。
 何せ、自分は元いた世界で縋り付いた平和にすら裏切られているのだから。今更、それにどう思うことも無い。

 もう一つは、離れていても守れるから。
 機動6課。そこは激戦区である。
 故にそこで戦う魔導師たちは全てトップクラスの実力を持っている。ギンガもその一人だ。
 けれど、トップクラスとは言え激戦区である以上は危険であり、彼女だっていつ死ぬか分からない。戦う以上は当然の話だ。

 だが、それでも同じ部隊にいれば、“守れる”。
 違う部隊では無理かもしれないが同じ部隊ならば可能だろう。命を懸けて守ることを許される。
 だから、彼は安心していた。彼女はまだ、守れる。だから不安になる必要は無い、と。

 ――もし、これでギンガが違う部隊に行くとなれば状況は変わっていたかもしれない。彼は不安を覚えただろう。どうしようもない不安を。
 焦燥感が胸に生まれ、それに蓋をすることも出来なかっただろう。

 彼の歪みは今も継続している。
 より螺旋(ネジ)れ、より曲がり、より大きく。
 己が無知を自覚することもなく、彼は歪みを継続する。守れると言う幸福に浸りながら。



[18692] 20.襲撃と休日と(b)
Name: spam◆93e659da ID:cc4806a2
Date: 2010/05/15 17:09
 ギンガ・ナカジマは今、シン・アスカに近づくことが出来なかった。
 向こうではシンとフェイトがストレッチをしている。
 シンはいつも通り。フェイトは頬を染めて無邪気に微笑みながら。
 胸に渦巻く感情は何だろう。嫉妬、もしくは諦観。もしくはそのどちらもか――彼女には判別など出来なかった。
 シンにおかしく思われているのは知っている。

 今までずっとやってきたことを突然止めたのだ。おかしく思われるのも当然だろう。

 朝、彼を起こしに行くこと。
 朝食を一緒に取ること。
 夕食を一緒に取ること。

 そして彼が願いを叶えるサポートをすること――つまり出来る限り彼の訓練に付き合うこと。

 これはシンとギンガが機動6課に入ってきてからずっと自主的に行ってきたことだ。
 シンはコレに関して一度は別にしなくてもいいとは言っていた。
 だが、一人よりも二人の方が効率が良いと言ってその返答を一蹴し、彼女は彼と訓練を続けていた。
 けれど、今ではそれもない。
 それも出来ない。

「……シン」

 呟く。言葉に乗せる想いは昏く、重い。
 ルナ。その言葉が彼女に与えた影響は殊の外、甚大だった。
 少なくとも彼と面と向かって顔を合わせることが出来ないくらいには。

 ルナ、と彼は呟いた。
 それはシンにとって大事な女性――もしかしたら、“身体を重ねる”ような関係なのかもしれない。単なる友達なのかもしれない。

 ――そんなことは彼に確認しなくては決して分からないことだ。

 彼女は今初めて彼を支えると言う願いそのものに迷いを抱いている。
 今までは単なる恋慕だと思っていた。
 だから、シンに対して強く在れた。
 けれど、横恋慕であるなら話は変わってくる。

 もし、シンが元いた世界に「ルナ」という女性を残してきているなら、自分やフェイトの想いは単なる邪魔物だ。
 彼を苦しめるだけの想いでしかない。
 そんな想いがどうして彼を支えることが出来るだろうか?
 支えることなど出来はしない。苦しめるだけだ。
 そんな想いが彼女を苦しめる。
 自分はシンを支えようとして、支えたつもりになっただけで実は苦しめているのではないのか、と。
 疑念程度の想いではある――けれど、確固とした気持ちで無い分、疑念と言うのは喉に刺さった魚の骨のように、まるで抜けないのだ。

(……私、何してるのかな)

 呆然と彼女は心中で呟く。

 ――彼女は知らないが、シンにとってルナマリア・ホークとは既に終わった関係である。

 確かに一時期、お互いを慰めるようにして溺れた時期はあった。
 自堕落で退廃的な睦み合い。決して何も生み出さない関係。
 結果として、彼らは別れた。
 元々、慰め合うだけの関係でしかなかった二人は、お互いを傷つけあうしか出来なくなり、最後は互いに逃げるようにして別れた。
 寂しさはあったが、だからと言ってそれが尾を引くほどに大きなものでなかったのも事実。
 唐突に始まった関係は、同じように唐突に――そんなもの初めから存在すらしていなかったようにして消滅した。
 それが今から二年半前の話。

 シンがその時のことを思い出したのは、単純にギンガにおぶられて眠っている内にその時のことを思い出したからだろう。

 柔らかな身体と髪の感触、顔にかかる吐息。
 そして直前にフェイトの服を着替えさせたことなどが忘れていた彼女の記憶――溺れあったことも含めて――思い出させ、彼女を想起させたからに過ぎない。

 シン・アスカにルナマリア・ホークへの恋慕など何一つとしてない。それは間違いの無いことである。
 だが、そんなことを知らない彼女にとって、シンに大事な人がいる“かもしれない”と言う事実はどうしようも無いほどに辛いことだった。

 ――哀れなことに彼女には大切なモノが一つだけ欠落していたから。
 
 シン・アスカが欲しいと言う当たり前の感情。恋をしたならば誰であっても胸に在るはずのその感情。
 彼女にはソレが無い。
 彼女が選んだ恋慕とは無償の愛。
 何も求めず、何も望まず、ただ彼の為への想い。だから、彼女は自分の想いがシン・アスカを苦しめるのだと言う風にしか思えない。
 好きだから、踏み込めない。彼を傷つけるのが嫌だから。この想い。その勘違い。それこそが彼女を縛り付けているのだ。

「私は……」

 どうするべきなのか。シンと話をしたい。
 けれど、それはもしや彼に余計な心労を与えているのではないだろうか。
 それは彼を支えると言う自分の願いから逸脱している。それではいけない。それでは駄目だ。
 けれど……それなら、自分はどうしたらいいのだろうか。

 思考の堂々巡り。そんな思考に落ちるギンガの後ろからティアナが声をかける。
 ちなみに当たり前だが訓練場である。これから朝の訓練を始めるところである。

「おーい、ギンガさーん。」

 ブツブツと呟きながらギンガは一心不乱にシンとフェイトの方向を見つめている。恐らくティアナの言葉など耳に入っていないだろう。

「……はあ。」

 表情は陰鬱そのもの。チラチラとシンを見つめ、フェイトを見つめ、また俯く。
 ティアナが溜息を衝きたくなるのも道理である。

 ティアナ・ランスター。
 彼女はシン・アスカのことを正直危険視している。
 以前の自分と同じ――恐らくそれよりもかなり重大であろうが――モノを感じるのだ。
 つまりは、周りが見えていない。ハードワークではなくオーバーワークを繰り返し、いつかは潰れる――そんな感じを受けている。
 これまでは違う隊である上にギンガというお目付け役がいるので何も言う気は無かったのだが、どうにも最近の流れはおかしい。
 ギンガの代わりにフェイト・T・ハラオウンがいるのだ。
 しかも当のフェイトはこれまで彼女達の前では見せたことが無かった子供のような表情で彼に甘えている――少なくともティアナにはそう見えた。

 つまり、シンがフェイトを選び結果としてギンガは振られたのだろうか。
 だが、その割にはシンの態度はまるで変化していない。
 傍から見ている彼女にはよく分かるが、彼は恐らくフェイトに想われていることすら気づいていない――好意を持たれていることくらいは気付いているだろうが。
 故に、ギンガが彼から離れていく道理は無い。

 間違いなく彼女――ギンガ・ナカジマもシン・アスカに惚れている。見れば分かる。
 と言うか、そのことに気づいていないのは当の本人であるシン・アスカくらいだ。

 そのギンガがシンから離れている。これがおかしい。そしてその結果、目前で俯き溜め息を吐いているように落ち込んでいる。
 何かがあったのだろう。
 
 色恋沙汰、それも一人の男を二人の女が争うと言う三角関係であれば、何があってもおかしくは無い。
 彼女自身が読んでいるファッション雑誌の恋愛相談欄も大体そんな感じである。
 女性は恋をするとあからさまに変化した上に一喜一憂するのだから。
 ――と偉そうなことを考えるティアナ・ランスターにもそれだけの恋愛経験があると言えば皆無である。絶無である。
 
 夢に向かって走り続けてきた。
 その夢の為に多くのものを振り切ってきた。17歳と言う少女が一流の魔導師として戦う。
 その在り方そのものが本当は歪だなどと気付かぬままに。
 その過程で恋などするはずが無い。出来るはずが無い。
 
 だから、ティアナ・ランスターはこれほど冷静に観察できる。
 恋をしたことが無いから共感することなく俯瞰できるのだ。
 
 彼女にしてみれば、シン・アスカとギンガ・ナカジマの色恋沙汰は正直どちらでも構わないと言うのが本音だった。
 無論、二人が上手くいけばそれでいいと思っていたが、フェイト・T・ハラオウンまで絡んできた時点で火種になるのは明白である。
 古今東西、三角関係とは火種以外の何者でもないからだ。
 だが、それをこうまであからさまに訓練――と言うか仕事に持ち込まれるとティアナでなくとも溜息を吐きたくなる。
 
 その上、彼女というお目付け役がいなくなれば、シン・アスカのオーバーワークはきっと加速する。
 そうなれば、あの時の自分の二の舞となるだろう。いや、下手をするとそれ以上のことになりかねない。
 だが、彼の側で笑うフェイトを見て、思う。
 
(……フェイト隊長は……止めないだろうなあ)

 恐らく――間違いなくフェイトは止めないだろう。ティアナはそう思っていた。
 最近のフェイトのデレデレっぷりは以前の彼女を知っている者であれば思わず、あなた誰ですかと聞きたくなるほどに劇的な変化である。
 今の彼女ならシンがオーバーワークで倒れたあたりで気づくような気さえする。
 平たく言えば、あからさまに眼が曇っているからだ。恋の盲目に。
 故に――

(止めるとしたら……私よねえ、きっと。)

 ティアナ・ランスターは憂鬱だ。別にシン・アスカが嫌いな訳ではない。
 と言うよりも嫌いとか苦手と言う以前の問題である。彼女はそれほどシンのことを知らない。
 隊が違えばそれだけ訓練や仕事で一緒になることは多くない――それでもシンとの繋がりを維持していたギンガはある意味凄いのだが。
 彼の能力の高さは折り紙つきだ。恐らくは自分よりも高い。下手をすればシグナムほどの強さを持っているかもしれない。
 
 それはあの模擬戦の時から知っている。そして、その戦いぶりの苛烈さも。
 
 ティアナが彼の戦いで最も凄いと思ったのは、その発想だった。
 まずフィオキーナと言う魔法による加減速と転進。
 そして魔導師にとって最も大事と言ってさえ良いデバイスを“投げる”と言う発想。
 そしてそれすら囮として最後の一撃を加えるという発想の裏切り。
 戦闘者としては一級品と言っていい――少なくとも彼女にはそんな戦い方は出来ない。
 
 だから、彼女はシン・アスカに羨望を向ける。そして羨望を向ける彼女だからこそ気付く。シン・アスカが焦っていることに。
 だから、彼女には不思議だった。どうして焦らなければいけないのか、と。
 
 シン・アスカ。
 魔法を覚えて、実に数ヶ月。驚くべき速度で彼は強くなっている。
 その速度ははっきり言って異常だ。
 
 天才と言う言葉さえおこがましい。少なくとも彼女の同期にそういった人材はいなかった。
 現時点で既に自身と同等かそれ以上。
 このまま、順調に成長して行けば、高町なのは、フェイト・T・ハラオウンすら凌ぐ魔導師に成りかねない。
 
 それは彼女にしてみれば純粋に羨ましいと思えるほどの“才能”だ。
 自身を凡人と認定し、その克己によって凡人の限界を超えてきたと考える彼女にとっては特に。
 
 だが、シン・アスカはそれに満足した様子を見せていない。
 満足するどころか、焦っている――むしろ、生き急いでいるようにすら見える。
 彼女が以前同じような状況に陥った時の理由は、“置いていかれる”かもしれない不安である。
 
 仲間が強くなっていくのに自分は取り残されていく。自分は本当に強くなったのか。そういった不安だ。
 ならば、彼は何なのか。彼は一体何を不安に感じているのか。それが彼女には分からなかった。
 
 ――分からないのは至極当然の話である。シン・アスカが生き急ぐ理由が彼女に分かるはずも無い。
 
 シン・アスカが急いで強くなろうとする理由。
 シン・アスカの胸にある不安。それは“守れないかもしれない”と言う絶対的な不安である。
 力があれば必ず守れるとは限らない。力は決して絶対のモノではないからだ。
 けれど、もし、絶対的な誰であろうと敵うことの無い力があれば――もしかしたら、彼は全てを守れるかもしれない。

 守れないと言う不安は早く早くと彼を急かし続ける。
 絶対的な力。強大な力。
 それがあれば確かに全てを守れるかもしれない。
 けれど、それを手に入れるまでに、もし守れなかったらどうするのか。
 
 だから、彼は生き急ぐ。もっと強くもっと強く。誰よりも何よりも強く。そして、出来る限り早く強くならなければいけない。
 
 ――強大な力を得たからと言って安心するな。強大な力はより強大な力によって淘汰される。
 
 だからこそ磨け。鍛えろ。一つ階段を登れば直ぐに次の階段に眼を向けろ。
 その昇りに終わりは無い。
 鍛えて、鍛えて、鍛え続けろ。
 でなくば誰も守れない。お前は、また誰も守れないに違いない。
 内から滲み出るその声が彼を不安に陥れる。不安を生み出すその声。
 その声によって生み出される、守れないかもしれないと言う不安。それを押し潰す為に彼は自らを鍛え続ける。
 
 だから、ティアナには分からない。
 ティアナ・ランスターには夢がある。夢と言う果てがあり、その果てに辿り着く為に無茶をする。
 シン・アスカにも夢はある。けれどその夢は果ての無い夢。その過程こそが夢そのものと言っても良い。だからこそ夢を叶え続けるために無茶をする。

 夢を叶える為に無茶をするティアナと夢を叶え続ける為に無茶をするシン。
 それは僅かな違いだ。本当に小さな違い――けれど、それは決定的な違いである。
 話を戻そう。
 とにかく、ティアナは困り果てていた。これでは訓練のしようが無いからだ。指揮をする彼女にとってこれほど厄介なことはない。

「……ギンガさーん」

 殆ど諦めながらも彼女はもう一度呼びかけた。
 ギンガは応えない。というよりも聞こえていない。オドオドしながらずっとシンの方を見つめ続けている。

「……シン」

 その仕草に落胆よりも先に苛立ちが来た。

「ギンガさん、いい加減に……」
「あー、もうギン姉ウジウジしてるならいっちゃいなよ!!」

 言葉を言い終えることなく、隣で同じく呼びかけていたはずのスバルがギンガの首根っこを掴んでいた。

「……スバル?」

 思わずティアナは呆気に取られてしまう。何故なら、スバルが手にしたのはギンガの着ているTシャツのネック部分。
 そこをぐわしと掴み、そして――

「マッハキャリバー!!!」
「All right,Budy!!」

 車輪が回る。あまりの加速にホイールスピンが始まり、白煙が立ち昇る。

「ちょ、ちょっとスバル、貴方何を……」

 あまりに唐突な展開に慌ててスバルに声をかけるギンガ。
 だが、彼女が皆まで言い終える前に、スバルが叫んだ。

「いっくよ―――!!!」

 元気一杯の叫びと共に急加速。

「へぐヴぃぃ!?」

 ギンガの顔がカエルが潰れたような様相を見せた。
 当然だ。スバルは彼女のTシャツのネック部分に手を掛けて、“思いっきり加速した”のだ。
 要するに締まっている。もうこれ以上無いほどに締まりまくっています。

「……ぎゃ、ぼ」

 ギンガの顔色が一気にやばくなる。
 さっきまで乙女の顔で「ふう」とアンニュイな溜息を吐いていたのが嘘であるかのように、青白い。
 というか潰れたカエルみたいな顔である。乙女の顔は既に無い。

「ちょ、スバル!!?アンタ、何してんのおおおおお!!!!?」

 ツッコミ担当ティアナ・ランスターの叫びが木霊する。
 だが、そんな声などもう遅い。
 何故なら彼女のデバイスの名前はマッハキャリバー。マッハ!!である。
 そんな声など置き去りだ――いや、音速で走ると言う訳ではないが。

「行くよ、ギン姉!!」
「……」

 先ほどからギンガが見つめていた彼らの方へと視線を送る。
 どうやら、今ストレッチが終わったようだ――ああ、私達まだ何もやってない。
 どうしよう。ていうかギンガさんが返事して無いのってまずくない?――ティアナはそんなことをふと思った。
 殆ど現実逃避に近かった。だって、この後スバルが何をするのか、彼女には分かりきっていたからだ。
 
 ティアナだってそうするべきだと思う。
 言いたいことがあるならはっきりと言えばいい。それが駄目なら諦めろ。
 それが世の常だ。少なくとも自分は恋をしたらそうするつもりだ――それが出来るかどうかは別として。
 けれど、それはどうだろう。
 それはあまりにも苛烈すぎないか。というか家族だからって好きにしすぎではないだろうか。
 ティアナは思った。

(……この子にだけは恋愛相談しないでおこう。)

 ティアナ・ランスターは堅く心に誓った。きっとそれは正解だ。何故なら、スバルがやろうとしていること。それはつまりは至極単純。

「飛んじゃえ――!!!!」

 文字通り。
 彼女は今、姉であるギンガ・ナカジマをマッハキャリバーの加速と彼女自身の膂力、そして絶妙のタイミングで――背負って投げた。
 
 ――中島流一本背負い。
 
 ギンガの身体が宙を舞う。
 慣性によって一気に彼女の身体に加えられた速度がそのまま彼女の身体に雪崩れ込み、まるで飛び立つ鳥の如く彼女の身体が空を飛んだ。
 中島流。それはナカジマ家に伝わる対魔導師用武術であり、シューティングアーツの骨子としてゲンヤ・ナカジマからクイント・ナカジマに受け継がれし“武術”。
 
 ――つまりは柔道で言う一本背負いである。
 
 大きく放物線を描き、彼女の身体は“目標”に向かって飛んで行く。
 目標――シン・アスカに向かって。

「……ギン姉、聞きたいことは聞けばいいんだよ。」

 額の汗を拭いながらスバルは呟いた。ちょっとかっこよかった。
 そして、次の瞬間、喧騒が始まった。
 スバルが投げたギンガがシンに激突。
 シンは咄嗟に彼女を受け止めるような体勢を取り、結果、彼女を抱きかかえ、衝撃を受け止め―――彼女が彼に馬乗りするような格好でシンは気絶していた。
 傍らのフェイトがシンに駆け寄る。
 それを見て、落ち込んでいたのが嘘のような神速でギンガがシンを抱きかかえる。
 睨み合う竜虎。緊張する空気。
 そして睨み合ったまま二人はシンを連れてどこかに歩いていく。
 恐らくは医務室だろう。訓練も何も合ったものではない。
 半眼で唇を引きつらせているシグナム。困ったように苦笑するキャロと力無く苦笑するエリオ。

「……これは問題ね。」

 ティアナ・ランスターは呟き、二人に連れられていくシンを見つめていた。

(少し、釘を刺しておくべき、かな?)

 機動6課現場指揮官としての彼女がそう告げていた。このままでは拙い、と。


「エクストリームブラストは金輪際禁止や。」

 彼女――八神はやての第一声はそれだった。
 彼が意識を取り戻して一分ほどしてから、医務室に現れた彼女は即座にギンガとフェイトを追い出し――と言うか

「二人共仕事せえ、仕事!!」、と言いながら追い出す彼女は額に手を当てやけに疲れているようだった――二人がいないことを見計らうとそう言った。
「……何でですか?」
「分かってるはずよ、シン君。」

 彼女の後方からもう一人女性が現れた。
 シャマル。八神はやての守護騎士ヴォルケンリッターの一人。そして、この医務室の主である。
 いつも朗らかな彼女が神妙な顔で呟く――それだけで次にくる言葉が予想できてシンは耳をふさぎたくなる衝動に駆られた。
 それは雑音だ。彼にとって不要すぎる雑音。

「あの魔法は危険すぎます。貴方にはまだ荷が重い魔法よ。」

 シンはかけられたその言葉に少し苛立ちながら、返答した。

「――でも、あれがあったから、この間の戦闘を切り抜けることが出来ました。無ければ、死んでいたんです。」

 淡々と呟く彼の声。19と言う年齢には似合わないような表情。それを見て、はやてが瞳を細めて質問する。当然の質問を。

「……次、使えば死ぬかも分からんような魔法に許可が出ると思うてるのか?」

 道理だ。出るはずが無い。そんな人間を使い捨ての機械になり下げるような魔法においそれと許可が下りるはずはない。

「……それでも。」

 それでも食い下がるシン。だが、はやての声は断罪するようにしっかりとシンに宣告する。

「異論は一切認めん。これはキミの上司としての“命令”や。」

 その言葉。それを使うと言うことは彼女が本気と言うことだ。本気でそうするつもりなのだ。“彼女からの命令”とは絶対であり、遵守の対象である。

「……分かりました。ただ、」
「ただ?」
「場合によっては俺は使います。それだけは覚悟してください。」

 朱い瞳に写るのは強く鮮明な朱。はやてはその視線を受け止める。

「あいつらに勝つには、絶対に必要です。」

 静かな宣言。その視線を受け止めたはやては、少し視線に怒りを込めて、返答を返した

「……それで、ええよ。ええけど……極力使うな。キミは……捨て駒やないんや。」
「そうですか。」

 捨て駒では無い、と、はやてが答えた瞬間、シンの表情に失望が籠った。
 それを見てはやての胸が痛む。薄ら寒い心配をする自分に嫌気が刺して。
 胸に生まれたある不安。
 シャマルからははやてがシンの身体を心配して言っているように思えるだろう。だが、彼女は思う。本当にそうなのだろうかと。

 ――シン・アスカとデスティニーはリジェネレーションを使う際に周囲の人間から魔力を奪い取り、自身の肉体の修復に使用している。
 
 それが導くモノはシンだけの破滅ではないそれは彼の周囲で生きる人間全て。
 フェイト、スバル、ギンガ、エリオ、ティアナ、キャロ、そしてヴォルケンリッター。それは彼女にとって掛け替えの無い仲間だ。
 そんな大切な仲間を全て死地に導くことになりかねない。
 視線に込められた怒り。それはもしかしたら親友を、家族を殺していたかもしれない人間に対する怒りだ。
 
 その怒りがどれだけ身勝手なモノであるのかを彼女はよく理解していたし、その怒りが無意味なものだと言うことも理解していた。
 罪悪感とはそんなふざけたことを思った自分に対してだ。確証もない上に疑念のみで怒りを持ち、一瞬でも激昂しようとした自分へのモノだ。
 ふざけた考えだ。はやては自分自身を嘲笑する。
 ベッドから起き上がり、部屋からシンが出て行く。その背中を睨み付けるはやて。
 
 変わっていくはやて。彼女を変えた男シン・アスカ。
 そんな二人をシャマルは静かに見つめていた。見つめることしか出来なかった。
 二人のこんなやりとりを彼女は初めて“見てしまった”から。


「シン、アンタ、今日暇?」

 医務室からシンが戻り朝の訓練が終了した頃合だった。
 ギンガとフェイトは向こうでこってりとシグナムとヴィータに説教されている。
 どうやらさっき無断で訓練から抜け出てきたようだ。
 シンはその様子眺めながら訓練場の出口に向かって歩いて行く。
 ある意味、被害者である彼に説教するのは筋違いとも言えるからか、シグナムとヴィータは彼に何も言うことはなかった。
 彼女の、ティアナ・ランスターの声が聞こえたのはそんな時だった。

「今日?」

 言われて頭の中のスケジュールを確認する。
 暇かと言われても仕事があるのは確かだ。
 この後制服に着替えれば自分は直ぐにでも事務仕事に―――とそこまで考えて思い出す。
 自分が今日は非番だと言うことに。

「一応、空いてるな。」

 何の気無しに返答を返す。そのまま彼の思考は今日の一日何をするかと言う予定を立てはじめる。
 一日中訓練に励むか――恐らくシグナムさんは今日も多分暇っぽい。
 別段、彼女が働いていないと言う疑いを持っている訳ではないが、訓練以外の時間はいつも医務室にいるか、八神はやての部屋で護衛しているか、食堂にいるかの彼女だ。

 恐らく、訓練に付き合って欲しいと言えばきっと付き合ってくれるに違いない。
 
 そんなことを考えていた時にティアナがシンに再び声をかけた。

「買い物に行くから付き合わない?」
「……は? 俺と?」

 シンの疑問は最もだ。
 彼はこれまでティアナとそれほど仲悪くしてきたつもりもないが、仲がいいと言うような関係でもなかったはずだ。
 有り体に言えば仲間。その程度の関係でしかなかった。
 それがいきなり買い物に付き合えと言うのだ。疑問に思うのも無理はない。

「別にいいじゃない。あ、勿論、二人っきりじゃないわよ?スバルも一緒。」
「スバルも?」

 その言葉に再びシンの脳裏に疑問が渦巻く。
 無論、ティアナとの二人っきりが良かったなどと言うことではない。
 ティアナ・ランスター。スバル・ナカジマ。
 彼女達二人の仲がいいのはシンとて知っている。だからこそ疑問なのだ。
 仲のいい二人が休日に揃って買い物に行く。いいことだ。問題は無い。問題なのはどうして自分を連れて行くなどと言っているのか、だ。

「そういうこと。どうする?行くの行かないの?」

 だが、ティアナはそんなシンに疑問について考えさせる気も無いのか、矢継ぎ早に質問を繰り返す。
 休日に買い物に行く。行くこと自体は問題ではない。いろいろと物入りなのは確かだ。
 だが―――

「あ、えーと、俺、ちょっと……」
「何よ、まさか、訓練したいからとか言い出すんじゃないでしょうね?」

 図星だった。出来れば朝から晩まで訓練、と言うかシグナムあたりと模擬戦をするつもりでいたシンにとって、ティアナたちとの買い物は正直少し面倒ではあったからだ。

「あ、いや、その」
「駄目よ。アンタは今日私とスバルの二人の買い物に付き合うこと。これは決定事項よ。」

 有無を言わせぬ口調でティアナが断言する。

「いや、横暴すぎだろ!?」
「駄目よ。これは決定事項なんだから。」
「いや、だから……」
「だから決定事項よ、これ。絶対に覆らないわよ?」

 暫しの睨み合い。
 先に折れたのはシンだった。はあ、と溜め息を吐いて呟く。

「……いつ頃には帰ってくる?」
「はあ……いきなり帰る時間とか聞く?サイテー。」

 吐き捨てるようにティアナが言う。実際、確かに最低ではあった。

「あ、いや、そういう訳じゃ……」

 そう言われ、途端にうろたえるシン。そんなシンの様子を見て、ティアナはクスリと悪戯をする猫のように笑い、言った。

「冗談よ、冗談。別にそんなうろたえなくてもいいわよ。時間は……そうね、多分6時前には帰ってくるけど……どう?」
「……それなら、問題ないけど。」

 シンがそう、告げるとティアナはじゃあ決まりとでも言うようにして、6課隊舎に向けて、うろたえていたシンを置き去りにして歩いていく。
 そして、扉の前で振り返ると確認するように呟いた。

「じゃあ、着替えたら行くわよ?出発は8時。いいわね?」
「あ、ああ。」
「じゃ、また後でね、シン。」
「……いきなり何なんだ、あいつ?」

 最もな疑問だった。



[18692] 21.襲撃と休日と(c)
Name: spam◆93e659da ID:cc4806a2
Date: 2010/05/15 17:10
 ティアナ・ランスターがシン・アスカを買い物に連れ出そうと考えた理由。
 一つは過度の訓練に対して一言、言っておこうと思ってだった。
 6課内では驚くほど彼が一人になる時間は少ない。
 基本的にフェイトかギンガが傍にいるから――と言うか仕事以外の時間を訓練場で過ごしている以上は一人になる時間など殆ど無いといっていい。
 ちなみに彼女達二人がいつも傍にいるシンは男性職員にとっては垂涎の的である。いつだったかヴァイスがそうぼやいていた。非常に羨ましそうに。

「羨ましいかって?あのな、羨ましくない理由がどこにある?あんな美人二人をはべらせて、あんなことやこんなことやそんなことまでしてると想像してみろ……・身悶えするに決まってるだろ!!!」

 無論、そんな彼をゴキブリでも見るような視線で睨み付けたのは言うまでもない。
 何はともあれ、今日はそんなシン・アスカが間違いなく一人になる瞬間――非番である。
 しかもギンガやフェイトは揃って仕事。
 あの二人がいないなら、シンと二人だけで話をすることはあまり難しくはない。
 ティアナの見立てでは基本的にシン・アスカの交友関係とは浅く広くが基本である。
 と言うか恐らく親しい人間などギンガとフェイト――それから遠く離れてキャロとエリオやシグナムなどのライトニング分隊の面々くらいではないだろうか。
 それくらいにシンは他人と交友を持っていないのだ。

 食事時はギンガやフェイトに連れられて、自分たちと一緒に食べることが多い。
 だが、彼女らがいない時は適当に空いている席に座り、すぐさま食事を追えてどこか――恐らく訓練場だろう――に向かっている。
 話しかければ話をするし、すれ違えば挨拶も忘れない。
 けれど、それだけだ。それ以上の会話には決して発展しない。
 
 理由は分からないが、自分から線を引いているようにティアナは感じていた。これ以上は踏み込まないという線を。
 普通、そんな線があれば近づくことを遠慮する。
 そしてその遠慮によってお互いに踏み込めない距離を形成する。結果、その距離は持続する。
 よほどのことがない限り――その線を越えてでも彼に近づこうとする二人のように近づきはしない。
 だが、それではまずい。
 過度の訓練や色恋沙汰に対して、色々と思うところはあるし、注意くらいはしておきたい。
 その上で――仲間である以上は、ある程度友人のような関係だって作りたくなるものだ。
 
 そんな思いで、ティアナは彼を今日連れ出した。
 
 時刻は既に8時。ティアナとスバルは準備を終えて6課隊舎のロビーでシンを待っていた。
 ちなみに季節は八月。ティアナの服装はオレンジ色のキャミソールにジーンズ。それにトートバッグと言うもの。
 
 スバルの服装は如何にも今時の女の子と言うティアナとは対照的に大きくロゴの入ったTシャツにハーフパンツと言うモノ。
 ボーイッシュと言う自分のことを良く分かっている服装だった。

「……遅いわね。」
「ティア、そんなに急いでる訳じゃないんだから。」

 スバルが不機嫌そうに呟くティアナを諌める。時刻は既に8時を5分ほど過ぎている。

「すまん、待たせた。」
「……遅いわね、何してたの?」
「い、いや、ティア、そんなに不機嫌にならなくても」
「いや、ギンガさんと話してたんだ。すまん。」

 そういって、申し訳なさそうにするシン。
 
「ギン姉と?」

 スバルが呟く。先ほどまではシンと話すことすら出来ていなかったと言うのに何故だろうか?
 やはり自分の投げが効いたのかもしれない、とスバルは思った。大分と間違った認識である。

「あとフェイトさんもいたな。」
「フェイトさんも?何言ってたの?」

 何でもないことのように呟くシンに尋ねるティアナ。

「いや、誰と行くのかとかどこ行くのかとか、その程度。そのせいで遅れたんだ。ゴメン。」

 頭を下げるシン。基本的に真面目と言うか融通が効かないのだろう。ティアナはそんなシンを見て、肩を竦めると一つ息を吐いて言った。

「……まあ、いいけど。」
「だから気にしてないって!」

 そんなティアナとは対照的な様子でスバルも口を開く。別にそんなことは気にもならないのだろう。
 シンはそんな二人の様子に安堵したようにほっと息を吐いて、再び口を開く。

「ところで、聞きたいことがあるんだけど、いいか?」
「うん?どしたの?」
「何よ?」
「今日って何処に行くんだ?」

 最もな質問だった。実際、今日買い物に行くとだけ聞いているだけでどこに行くかとかはまるで聞いていないのだ。

「特に決めて無いけど……シン君ってクラナガンあんまり見回ったことないでしょ?たまにはそういうところ見て回るのもいいかなって思うんだけど。」

 スバルの言葉にシンは心外だとでも言いたげな表情で言葉を返した。

「いや、一応、何回か行ったことはある。」
「へえ、意外。アンタってそういうの興味ないと思ってたし。」

 意外そうなティアナとスバル。彼女ら二人から見たシンは完全な仕事馬鹿、もしくは訓練馬鹿だからだ。そんな彼がクラナガンを見て回っていると言う。彼女らで無くとも興味は尽きない。

「どんなこと知ってるの?」

 シンは少しだけ誇らしげに言う。

「クラナガンへの突入経路、下水道の位置、各地区の避難経路は完全に把握してある。いつ襲撃があっても大丈夫だ。」
 続けて、上空からの襲撃の際の心得や、どこにいれば敵に一番見つかり辛いか、潜伏していそうな場所などなど……・etc。
 その内容にティアナは呆れ顔になり、スバルは苦笑いを浮かべる。

「あ、アンタねえ……」
「ほ、他には?」
「他に?クラナガンのことで知ってることか……ATMの置いてあるコンビニがどこかとか、一回飲みに連れていかれたから、あの辺も一応知ってるし……」

 そして、これだと言わんばかりに目を輝かせて、シンが呟いた。

「あとは、そうだな、牛丼屋のチェーン店なら幾つか知ってるぞ。」
「あ、それなら私も分かるよ。おいしいよね。」
「旨いよな、アレ?速いし安いし旨いし。」
「……なるほど。アンタにそういう部分を求めるのはとんでもなく間違ってるってことが良く分かったわ。」
(……こういう性格だからオーバーワークを当然だと思うんでしょうね。)

 然り。
 彼の頭の中にはどこまで行っても仕事のことしかないのだろう。四六時中そういったことを考えているに違いない。
 そうなれば必然的に日常の行動もそうなっていくのは当たり前だ。
 要するに仕事に集中するあまりそれ以外のこと――人間関係
 ティアナは今もスバルと一緒に牛丼について熱く語り合う――今は豚丼の素晴らしさについて議論を交わしている――彼を見て、思った。
 彼に必要なのはまずは仕事以外の楽しみだ。
 そういったことがあれば少なくともオーバーワークと言う問題は回避出来る。
 その後に控えるギンガとフェイトのデレデレ行動をどうするかと言う問題については頭が痛いものの、これは部隊長にでも意見を仰ぐべきだろう。
 だが、彼女はまだ知らない。本来ならこの時点で知っていなければならないこと。本来ならばこの時点で気づいていなければいけないある事実に。

“いや、ギンガさんと話してたんだ。”
“あとフェイトさんもいたな。”

 その言葉。その事実。
 ティアナ・ランスターは恋愛経験がない。
 夢に向かってまい進して来た彼女にそんな余裕があったのかどうかと言えばあるはずもない。

 だが、その結果として彼女はそういった恋愛沙汰を俯瞰――つまりは一歩退いた場所から見ることが出来ていた。
 故に彼女は冷静である。少なくともシン・アスカと言う人間で眼が曇りまくった二人の女性よりは遥かに。
 だが、だからこそ気づくべきだった。
 
 ティアナは今誰に言うでもなくシンに誘いをかけて街に連れ出そうとしている。
 ティアナ自身に思うところはない。それはシンもスバルも同じだろう。
 別にティアナにシン・アスカへの恋愛感情など塵芥の欠片ほどもないのだ。
 彼女が彼を連れ出したのは単純な仲間への感情と同じと思ってもいい――そうすることをする時点で彼女も十分にお人よしではあるが。
 
 だが、例え無いとしても、だ。
 
 “女性が男性を連れ出して街に赴く”と言うその行為。それは一般に“デート”と呼ばれる行為である。
 だから、彼女は気づくべきであったのだ。その事実に。その行為が意味するところに気づくべきだった。
 それは荒ぶる飢えた猛獣の前から餌を取り上げていくと言う暴挙に等しいと言うことを。
 ――ティアナ・ランスターがそれを後悔するのはもう少し先の話。


「……疲れた。」
「まったく、あの程度で疲れるってどうなのよ?」
「私、凄い面白かったんだけどなあ、シン君、面白くなかった?」

 三人は今、テラス付きの喫茶店で談笑していた。
 テーブルの並べられているのは今しがた見てきた映画のパンフレット。スバルがどうしても買いたいと言って買ってきた。
 映画の内容は特にこれと言って特筆する内容ではない。クラナガンで最近流行っている映画であり、至って普通の恋愛映画である。
 男が女に恋をした。その過程にはさまざまな障害があり、彼らはその障害を乗り越えて幸せになろうとする。
 
 要約するとそんな話だ。
 それを見たスバルはえらく感動していた。流石に泣きはしなかったが、パンフレットやサウンドトラックまで買っていたあたり、相当に感動したのだろう。
 対してティアナは至って普通と言う感想である。特に可も無く不可も無い。
 さしあたって文句を言うならもう少し話にメリハリがあっても良かったと言う程度である。
 シンに至っては正直なところ、退屈だった。元々恋愛映画などが苦手なのだ。
 恐らく最も盛り上がる部分であろう告白シーンも、こう、むず痒い感覚に襲われて、素直に見ることが出来なかった――本人はそんな感じの告白を何回もしているのだがそれはこの際置いておこう。客観と主観では認識にズレが出るのは当然だ。無論、そんなことを知った瞬間身悶えするのは想像に難くないが。

「すまん、やっぱり俺にはアクションとか以外無理そうだ……」

 そう言って、椅子の背もたれに体重をかけるシン。テーブルの上のコーヒーを口元に運ぶ。

「ティアはどうだったの?」
「私は、普通かな……あ、でもあの橋の上で告白した時はちょっとぐっときたかも。」
「そうでしょ、やっぱりそう思うでしょ!?」
「うーん、でもなあ。名作と言うにはもう少し……」
「……」

 コーヒーに口をつけながらシンはそんな二人を見つめる。
 思えば、こんな風にこの二人と話すことは初めてなことに気づいたからだ
 違う部隊と言うこともあるだろうが、それでも同じ課である。
 同じ課である以上はもう少し付き合いがあってもいいものだ。
 
 そこまで考えて――と言うか考える間でも無くシンにはその理由が分かっていた。
 フェイト・T・ハラオウン、エリオ・モンディアル、キャロ・ル・ルシエ。
 彼らとは作戦上、そして訓練上でも顔を合わせることが多い。
 だから彼らとの付き合いは問題無い。少なくともあまり話したことが無いなどと言うことは無いだろう。
 
 八神はやて、シャマル。
 八神はやてについては言わずもがな。シン・アスカにとって最も大事な人間である以上付き合いが無いなどはありえない――その付き合いはいささか歪な関係ではあるが。
 よく医務室の世話になる――と言うか6課フォワード陣で最も多いシンにとってシャマルも同じく付き合いが無い等ありえない。
 
 ギンガ・ナカジマとの付き合いも既に長い。
 それに彼女は割りとシンのことを目にかけてくれて――と言うか事実はそういった目にかけているなどとは少し違うのだが――付き合いは恐らく、こちらの世界の中で最も長い。

 問題はここからだった。
 ヴィータ、スバル・ナカジマ、ティアナ・ランスター。
 前述したように部隊が違うと言う理由が一つ。
 そして、彼が自分から話しかけたりはしないと言う事実がある。
 これはフォワード陣以外とも同じだ。
 デバイスの整備などで世話にはなっているものの基本的に訓練ばかりしているシンが彼らに話しかけること――と言うか自分から人付き合いしようとしていないのに付き合いが生まれる訳も無い。

 ヴァイス・グランセニックとも同じくである。
 ただ、彼の場合は年齢も近い同性と言うことで彼の方から話しかけてくることが多いので、付き合いが無いと言うには該当しないが。
 
 シン・アスカにとって他人とは、すべからく守るべき対象である。
 そこに敵や味方、仲間や恋人、家族――これはもう存在もしていないが――などの垣根は存在しない。
 全てが同じ存在であり、そこに歪みは無い。完全なる平面(フラット)だ。
 他人との触れ合いはそこに優先順位という歪みを生み出す。
 だからと言う訳でもない。無論、そんなことを意識したこともない。だが、現実としてシンは他人との深い触れ合いを避ける傾向があった。
 腹を割って話すような人間は彼にはいない。少なくとも、ここには。 
 それに、彼にとっては“必要”も無かった。

 別段、誰が何を思おうと関係無い。
 仮に自分以外の全ての人間の中身が感情の無いロボットで、自分に見せる嬉しさや喜びが偽物だとしても関係は無い。
 今の彼の思いは全て、自己満足の産物。彼が欲しいモノはただ守れたと言う達成感でしかないからだ。
 そんな彼にとって、他人がどんな人間であろうとも関係は無いし、ましてや他人の内面などへの興味はとうの昔に失くしている。
 
 彼には特別な誰かなどいないからだ。無論、一部、例外は存在するが。
 兎にも角にもシンにとってこうやって、ギンガやはやて、フェイト以外とまともに話をするのは久しぶりなものだった。
 
 だから、懐かしいと思った。
 こうやって誰かと友達のように話すことが久しく無かったからだ。
 ギンガやフェイトは友達ではない。
 彼女達はどちらかと言うと位置的にはステラに近い。
 最も明確な守護対象という位置である。
 はやては、契約者――もしくは発注者である。自身に仕事――守ることを与えてくれると言う位置である。

 恐らくは、2年ぶりのことだろう。
 ミネルバを最後にしてシンにとっての友人とはついぞ現われなかったからだ。
 友人。
 その言葉を皮切りに思い出すのはあの金髪の少年。
 自身の未来と言う当たり前のモノを持つことすら許されずに、誰かの夢を叶えることで生きる証を残そうとした少年。
 自分――シン・アスカに未来を託した少年のことを。

「シン君、話聞いてるの?」

 そうやって物思いに耽っていたからだろうか。スバルが恨めしげに自分を覗き込んでいることに気付けなかった。

「……あ、ごめん、聞いてなかった。」
「もう、じゃもう一回聞くね?アイス、何食べるの?」
「アイス?」
「そうだよ!」
「あれよ、あれ。」

 そう言ってティアナが指で指し示す方向を見る。
 そこには「アイス一番!!世界で一番美味い奴!!」とデカデカと書かれた垂れ幕が下がっていた。
 その下では店員と思われる女性がいそいそとアイスをすくってはコーンに入れ、アイスを買いに来たお客さんに渡している姿が見えた。
 それを涎を垂らさんばかりの勢いで、見つめるスバル。
 ティアナはその様子を見ながら、苦笑している。

「凄いよね!?世界で一番美味しいんだよ!?」

 頬を紅潮させ、物凄く興奮しているスバル。よほど世界一と言う垂れ幕が気に入ったのだろう。
 ぶつぶつと「世界一のバニラにしようかな、それともストロベリー?いや、ここは絡めてでラムレーズンとか……」と呟きながら、時々「ひひひ」と笑っては、ごくりと喉を鳴らしていた。

「……えーと、スバルってそんなにアイスが好きなのか?」
「――愛してる。」

 一瞬の停滞も無く光の速さで運命の相手にプロポーズをするかのごとく、スバルは言い放った。

「……そ、そうですか。」
「うん。」

 呆気にとられるどころか、その視線の強さに気圧されて、思わず敬語になるシン。
 ティアナはそんな二人を見て、くすくすと笑っていた。
 それは微笑ましい日常のヒトコマだった



[18692] 22.襲撃と休日と(d)
Name: spam◆93e659da ID:cc4806a2
Date: 2010/05/15 17:12

「本当にアイスが好きなんだな、スバルって。」
「愛してるらしいわよ?まあ、あの姿を見ればあながち冗談にも思えないけど。」

 ティアナの視線の先にはカウンターの前で、これにしようかあれにしようかと悩み続けるスバルがいた。

「たまにはこうやって、外出して遊ぶのもいいでしょ?」
「……まあな。」

 少し、俯くシン。彼のそんな様子にティアナが怪訝な顔で声をかけた。

「なによ、楽しくなかった?」

 ティアナの質問にシンはそんなことは無いと首を振る。

「いや、楽しかった。だけどさ、何か……申し訳ないと言うか。」
「は?」
「いや、二人の邪魔してるみたいで……俺、ああいう映画駄目だったし。あんなに楽しそうなスバル見てると悪い気がして。」

 苦笑しながら、シンは今もアイスの前で悩むスバルを見つめる。そのシンの横顔を見ながらティアナもスバルに視線を向ける。そして、告げる。少しだけ照れくさそうに。

「別に邪魔なんかじゃないわよ。」

 言葉を切ってティアナは続ける。

「正直言うと私だってああいう映画駄目だもの。私はどっちかって言うとサイコスリラーというか、探偵物とかが好きだし。」
「へ?だって、さっきは」

 意外だった。先ほどの感想を聞いて、ティアナもああいう映画が好きなのだと、シンは思っていたからだ。
 けれど、意外そうなシンの顔を見て、苦笑し、ティアナは続ける。

「さっきの感想は正直な感想よ?だって感想だもの。面白くないとか、肌に合わないとかも十分な感想でしょ?面白いだけが感想な訳無いじゃない。それに私は映画の後にこうやって、感想言い合ったり馬鹿なこと話すことが面白いの。あんただってそうでしょ?」
「言われてみれば……そうかも。」
「だから、そんな風に邪魔とか言うのやめなさいよね?大体、誘ったのは私達なんだし。」

 半眼でシンを睨むティアナ。どうやら先ほどシンが言った「邪魔」という言葉が気に障っているらしい。
 確かにそうだろう。誘った本人の前で誘われた本人が、邪魔して悪い気がするなどと言っているのだ。不機嫌にもなると言うものだ。
 それに気付くと、シンは苦笑する。

「……はは、そりゃそうだ。」
「当たり前じゃない。そうやって、何でもかんでも自分が悪いみたいに思うのは良くないわよ?」

 責めるのではなく諭すようなティアナ。シンはその言葉に納得したように頷く。

「……かもな。」

 そう言って、スバルを眺めながら呟くシン。
 二人はそのまま、今も悩み続けるスバルを見ながら、沈黙する。会話が出てこないのではなく、会話をしない類の沈黙。

 ――それは思いの外心地よい沈黙だった。まるで、あの夢のような。

(……夢?)
 
 脳裏で渦巻いた言葉にシンは首を傾げる。夢とは何だ、と。
 それを皮切りに断片的に浮き上がる幾つかのイメージ。それは夢の内容であるが故に朧気だ。
 見えるのは瞳。自分と同じ赤い瞳。そしてあの小さな魔法使い――彼の主である八神はやてのデバイスであり部下でも在るリインフォースⅡと同じ雪のような銀髪。
 脳裏に浮かぶのはそんな女性だった。

(……そういや、どこかで見たような。)

 記憶を更に手繰り寄せる。向かいに座っているティアナの意識を頭の隅に追いやる。
 手繰り寄せる。それはあの宇宙。あの世界で最後に見た宇宙(ソラ)の――
 ずきん。頭痛がする。
 
 ――けれど、その記憶に繋がらない。まるで記憶が霧で覆われたようにその記憶に繋がらない。
 
 例えるならば、金庫に鍵をかけてその暗証番号を間違えたような感覚。
 繋がるはずなのに、繋がらない。記憶に至る道が“見えない”。
 道は無くなるはずなど無いと言うのに。
 
 ずきん。頭が痛む。微かな、本当に微かな痛みだ。意識しなければ、それが頭痛だなどと決して分かるはずがないほどに。
 息を吸う音。沈黙が破れた。

「本当はね、それを言いたかったの。」

 ティアナの、よく通る声が彼の耳に届いた。

「私とアンタって今までそんなに話したことなかったでしょ?だから、かな。遠くから見てたから分かるって言うか。」
「何が、だ?」

 返答を返す。会話によって、気が緩んだのか、痛みが消えて行く。同時に先ほど感じた記憶が繋がらない違和感も消失する。

「アンタはちょっと背負いすぎ。訓練でも何でもね。確かにアンタは強いし、事務処理だって無茶苦茶早い。けど、一人で何でもかんでもやろうとしてない?」

 苦笑する。その通りに違いない。強いかどうかは分からないが、誰かの手を借りたいとは思わないから。

「……どうだろうな?」

 だから、そんな返答を返した。けれど、ティアナはそんな彼の言葉を見透かすように、今度は断定してきた。

「嘘。自分でも分かってるはずよ。アンタは自分一人で何でもしようと思ってる。じゃなきゃあんなに訓練なんてしない。」
「……」
「もう少し周りを頼ったらどう?アンタは一人で戦ってる訳じゃないのよ……・って、ごめん、説教臭くなったかも。」
「……いや、確かにティアナの言う通りかもな。」

 言葉は真実だ。シンの思考はティアナの言っていることが間違いなく正しいと認めている。
 誰かを頼る。それはきっと正しい。成功率を上げると言うならそれが一番正しいに違いない。けれど、とシンは思う。

(俺には無理だ。)

 そう。彼には無理だ。
 誰かを頼ることは決して出来ない。誰かを頼れば、彼はきっと後悔する。
 成功したならばいい。問題は無い。
 だが、もし失敗したならば、何で頼もうなんて考えたんだと自分を責める羽目になる。
 故に自分はそんなことをするべき人間ではない、と心のどこかで何かが語り出す。

 ――頼る。
 それは忌避すべき事柄だ。

 ――誰かを信頼する。
 それは恐るべき事柄だ。

 頼れば死なせる。信じれば失う。
 これは彼にとっての常識である。
 そう、自動販売機からジュースを買う為には金が必要となる、と同じくらいの常識である。

 多くの誰かを失い、守れなかった誰かばかりを生み出し続けた彼にとって、誰かに頼ることなどやってはいけないことである。
 彼自身、それが間違っていると思いつつも、直す気などさらさら無い。
 だって、怖いのだ。信じて失うことなどもう嫌なのだ。
 
 だから、彼は頼らない。信頼しない。誰にも背中を預けるつもりは毛頭無い。
 失う怖さに比べたら、自分が死ぬ怖さなど、塵芥に過ぎないからだ。

「そういえばさ」

 その思考を遮るようにして、ティアナの声が僅かな――数秒ほどの沈黙を引き裂いた。

「アンタって次元漂流者だったよね?」
「……ん?ああ、そうだけど。」
「どうして、わざわざ魔導師になろうと思ったの?それ以外の選択肢もあったでしょ?」

 ティアナがした質問はごくごく一般的な質問だ。
 以前も述べた事ではあるが、時限漂流者の全てが魔導師やそれに関係した職に着く訳ではない。
 戸籍と生活保護は、別に時空管理局に協力せずとも受けられる。
 受けられる以上は魔導師とはまるで関係の無い一般人として生きると言う選択肢は存在していなければおかしい。
 例えば、ゲンヤ・ナカジマの先祖は、こことは別の世界――第97管理外世界と言う場所から漂流してきた人間である。
 ゲンヤに魔導師としての資質が無いように彼の先祖にも魔導師としての資質は無かった。そして、そのまま帰化し、一般人として生きた。
 
 むしろ、そういった人間の方が多いはずである。魔導師としての資質を持つ者などそれほど多いはずが無いのだから。特に魔法が発達していない世界においては。
 これは言葉通りの意味の問いである。ただし、その内実は言葉通りではないが。
 ティアナが知りたいのはどうして魔導師になろうと思ったかではない。どうして、魔導師以外の選択を選ばなかったかである。
 それを知れば、少しは彼の内面――度を過ぎた訓練をする理由を知ることが出来るのではないか、と。

「それ以外の選択肢?」
「そうよ。アンタ、別の次元世界からこの世界に来たんだったら、別に無理して魔導師にならなくちゃいけなかった訳じゃないでしょ?」
「……ああ、うん、言われてみれば、そうかもな。」
「何よ、歯切れ悪いわね。あ、もしかして……言いたくないとか?」
「あ、いや、違う。言いたくないとかじゃない。ただ、そういえばそう言うのあったなあって、思っただけだ。」
「は?」
 
 呆けたような声を出すティアナ。シンの返答は正にティアナが聞きたいことの核心である。だが、その返答の内容は彼女の思っていた返答とは少しずれていたから。

「いや、俺って戦災孤児だからさ。生きてくには軍に入るのが一番都合よかったんだ。それで、そのまま軍に入って教育受けて……だから、一般の義務教育も受けて無いし、受けたと言えばその軍隊での教育くらい。他のこと考えたことなかったなあって思ったんだ。そんなの考えたことも無かったから。」

 そう、呟くとコーヒーを啜りながら、スバルがアイスの前で悩む姿を楽しそうに見つめる。
 ティアナはそんなシンにどう返答していいのか分からずに口ごもる。返された返答の中身が自分の思っていた答えよりも重かったからだ。

「……そっか、ごめんね、言いたくないこと聞いたかな?」
「いや、気にしなくてもいいぜ、別に。隠すことでも無いだろ、こんなこと。」
 
 何でも無いことのように彼は呟き、俯くティアナを見て、シンが再び口を開く。

「ティアナはどうなんだ?この道以外の選択肢とか考えなかったのか?」

 ――夢がある。その夢に邁進するために自分はこの道を選んだ。

「……無いわ。叶えたい夢があるから、私はこの道以外行くつもりも無かったし。」

 そう、ティアナ・ランスターには確固とした夢がある。その夢を貫くと決めた時から彼女の前からは他の道など消失した。

「スバルもそうよ。あいつは昔なのはさん――ってアンタは知らないか、とにかくその人に助けられて、この道を志した。」

 同じくスバル・ナカジマも、この場にはいないキャロ・ル・ルシエも。全員が何かしらの切っ掛けを糧としてこの道を選んだ。
 ある意味では彼ら――シンを含んだ全員である――は似たもの同士なのだろう。他に行く道を選ばなかったと言う一点において、だが。
 彼らは皆、何かを置き去りにしてきた者達だ。

 戦災孤児であったシンにはその意味が良く分かる。
 そして、ティアナもシンの内面が手に取るように分かる。
 彼女は戦災孤児ではないが、魔導師になろうと思った理由――戦おうと思った理由にそれほど差は無いからだ。

 シンは家族を失ったことを切っ掛けに軍に入り、ティアナは兄の汚名を晴らす為に魔導師となろうとし、彼らは色々な何かを置き去りにしてきた。
 だから、ティアナはこういった現実――つまりは休日に誰かと遊ぶと言うことを大事にするべきだと考える。
 過去を起点に明日へ向かおうとする彼女にとって、置き去りにしてきたモノとは大事にするべきものだからだ。
 シンも同じだ。ただ彼の場合はまだそんなことを考える余裕が無いから、過去を振り返ることが出来ないだけで。

「だから、あいつは――」

 その言葉を神妙に聞くシン。ティアナはその視線を受け止めると再び続け――ようとして、言葉が止まる。

「……スバル、アンタ一体何個アイス買って来てるのよ!?」

 彼女たちが座るテーブルにはいつの間にかアイスを買い終えたスバルが立っていた。

「……えーと、一つ二つ三つ……たくさんかな?」

 途中で数えるのに飽きたのか、スバルはそこで数えるのを止めるとテーブルの上に所狭しとアイスを置いていく。
 スバルの表情は晴れやかで、直ぐにでもアイスを食べたいと言う欲求が丸分かりだ。
 つまり、数えることなどよりも早くアイスを食べたい。そういうことなのだろう。
 シンはそのテーブルに置かれたアイスの群れを怪訝な視線で見つめる。それほどアイスは嫌いでもないが、それでもこの量は流石にあり得ない。

「……誰がそんなに食べるんだ?」
「私が8つで、シン君とティアが2つずつ。」

 アイスを売っていた屋台に眼を向ける。遠めでよく分からないが、恐らくはアイスの種類は8つ。
 要するに全種類+αを買ってきた。そして、スバルは迷った挙句に、「じゃあ、全部買えばいいんじゃん!」という結論に達したそんなところだろう。

「……どんなバランスなんだ、それ。」
「……言わないで。」

 力無く呟くシンとティアナ。だが、スバルはそんな二人の方が理解できないといわんばかりに不思議な表情で、既にアイスを頬張っていた。

「おいしいよ?」

 確かに彼女の食べるバニラアイスは美味しそうだった。


 その後方、十数mの地点。そこに二人の人間がいた。二人の格好はサングラスとコートを羽織って、口元にはマスクをしている。
 そんな人間が電柱の影や建物の影に隠れ、前方を伺いながら人ゴミや車の陰に隠れながら、三人を尾行している。
 その怪しさはもはや職務質問してくださいと言わんばかりである。
 呟く。その内の一人の人間――女性だ。

「……フェイトさん、仕事しなくていいんですか?」

 口調。声色。ギンガ・ナカジマ。

「そういうギンガこそ。」

 口調。声音。フェイト・T・ハラオウン。

「私はヴァイスさんに色々と頼んできたからいいんです。」

 ギンガ・ナカジマの言葉でフェイトの眉が釣り上がる。
 ギンガはシンを伴って買い物に行ったティアナ達を追いかけるためにヴァイスと取引きを行い、この場にいる。
 取り引きの内容は詮無いこと――今日中に片付けなければいけない書類を肩代わりしてもらう代わりに、彼女は彼女の同僚――6課職員やこれまでの同期の間で合コンをセッティングすると言うものだった。条件付で彼女は取り引きした。条件とは彼女――ギンガは参加しないと言うものだった。
 無論、ヴァイスは了承した。無問題。既にお手つきに近いギンガが来るよりも他の女性が来た方がいいと言う戦略的判断である。

「私はシグナムにたまには仕事してもらおうと思って頼んできたんだ。」

 そう、得意げにギンガに呟くフェイト。綺麗な外見に比べて、言っていることは、かなりえげつない。
 ――その頃、シグナムはフェイトの使っている端末の前で必死に仕事をしていた。

「……私はローマ字打ちは出来ないんだ。いつもかな文字打ちでしかやったことないんだ……!!!」

 そう言って必死に、ポチ、ポチと人差し指でキーを打ち込み続けるシグナム。
 既に涙目で、充血している。アーメン。彼女の行く末に幸があらんことを。
 余談だがこうなることを予期して、八神はやてはシグナムに護衛などの肉体労働ばかりやらせている。
 基本的に彼女に事務仕事は無理なのだ。出来る出来ないの適性ではなく無理。
 なのに、意地を張ってずっとやり続ける。
 仕舞いには涙目で、その後誰か適当な相手を見つけては訓練と言う名のうさ晴らしをしかねない。
 以前、犠牲になったのはザフィーラだった。彼は身体中を埃や泥まみれにして涙目で呟いた。

「……わん。」

 号泣物である。その言葉に込められた数多のフレーズ。それはどれほどの言葉だったのだろう。
 犬語が分かれば彼の思いは少しでも理解できるかもしれない。だが、誰も犬ではないので分からなかった。だって、犬じゃないし。

「……まあ、いいです。そんなことよりも問題は……」

 ギンガは話をそこで切る。どうでもいいと言わんばかりに。

「うん、あれだね。」

 フェイトもそれに同意する。
 残してきたシグナムが本当に仕事できるのかどうか甚だ不安ではあったが、それよりも目前の問題の方がよほど重大である。
 彼女主観の当社比およそ10倍くらいには。

「盲点でした。……まさか、こんな盲点が存在するなんて。」
「うん、猫に手を噛まれるってこれだね。」

 二人は静かに暗躍する。談笑するティアナとシン。そしてアイスを美味しそうに頬張るスバル。
 その時、スバルが何の気なしにシンの頬についていたアイスを手で取り、口に含んだ。
 風が吹いた。嫉妬と言う名の風が。帯電する空気。そして、渦巻く嫉妬の気合。

「……」

 無言のギンガ。目が血走っている。愛すべき妹である。だが、だからと言って譲れるかと言われると、そこは古来からある格言通りの意味である。
 曰く――それはそれ。これはこれ。

「……」

 無言のフェイト。ギリギリと奥歯が噛み締められている。怒りではない。悲しみでもない。ただただ嫉妬である。
 一触即発。今にも破裂しそうな風船の如く、彼女達は鎮座する。道行く人が全て眼を逸らしていることにはまるで気づかなかった。


 ぶるっとスバルは悪寒を感じた。
 刺すような殺気――否、殺気よりもどこか優しい感じのする視線。だが、こちらを圧迫するような視線には変わり無い。

「……?」

 スバルは再びアイスに意識を戻す。何はともあれ、アイスだ。ようやく最後の一個に取りかかれる。ここまでに食べたアイスの数は6つ。
 バニラ。ストロベリー。チョコレート。ラズベリー。ラムレーズン。チョコチップ。
 我ながら結構な量を食べたと思うが仕方が無い。アイスは食べるものだ。溶かすものではない。

「じゃあ、それ食べ終わったらどこか行くか?」
「そうね……お昼にはまだ速いし、少しそこらへん歩く?」

 再び視線の圧迫が強まる。今の言葉が届いた直ぐ後くらいだ。
 スバルはアイスを食べながら、辺りを見回す。見えるものは雑踏。
 そこには別にこの優雅なアイスの一時を邪魔するような存在はいない――ように感じる。
 やはり、自分の気のせいだ。そう思って彼女もアイスを食べ終えて、立ち上がる。
 そして、懐からアイス――チョコミントを取り出す。

「……アンタ、まだ食うのか。」
「これで最後。……歩きながら食べてもいい?」
「ああ、別にかまわな……」
「……スバル、あんたねえ。」

 シンの言葉を遮ってティアナがいつもよりも少し低い声で呟く。

「邪魔になるし、誰かに迷惑かかるかもしれないから駄目よ。待っててあげるから、ここで食べていきなさい。」
「うう……ティア、駄目?」

 縋るようなスバルの瞳。だが、ティアナの視線は冷たい。

「駄目。」
「……分かったよ、ここですぐに食べるから。」

 観念したのか、スバルはアイスのカップの蓋を開く――見えるのは緑と黒のコントラスト。
 うわあ、とスバルの感嘆の声が聞こえた。
 最後まで残しておくあたり本当にチョコミントが好きなのだろう。その後ろに人影。そのままだとぶつかる。そう思ったシンはそれを見て咄嗟に声をかけた。

「あ、スバル、後ろ。」
「へ?」

 間抜けな声。思わず振り向くスバル。当然、その手に持っていたアイスごと旋回することになる。

「きゃあ!?」
「うわ!?」

 驚く声。身体がぶつかったのだ。
 声の数は二つ。一つはスバル。もう一つは自分たち以外の誰か。
 当然、スバルの持っていたアイスもぶつかった。振り向いた表紙に後ろにいた誰かに。

「あ、アイス……」
 
 女性の服の裾にアイスが付着する。スバルのチョコミントは無論地面に落ちている。女性の服の裾がチョコミントに僅かに染まる。

「す、すいません、すいません!!!」

 思わず、平謝りしながら自分のポケットからハンカチを取り出そうと躍起に成るスバル。だが、焦っている為か、上手く出せないでいる。

「あ、別に気にしなくてもいいわよ?こんなの洗えば直ぐに落ちるんだし。」

 そう、笑いながら手を振る女性。本当に気にしていないのだろう。
 シンはその少女を見た。
 別段、注視した訳ではない。ただ、どんな人なのかと気になったくらいのもの――反射行動と言ってもいい。
 けれど、その反射行動はシンの心根を予想外に揺さぶった――否、“脅かした”。
 
 ――背筋に冷や汗が流れた。胸の鼓動が激しくなる。思わず、目前の少女に掴みかかろうとする衝動を必死に抑える。

(……うそ、だろ?)

 言葉は心中でのみ。
 いきなり初対面の女性にそんなことをすれば、単なる暴漢に過ぎない。
 その程度の理性が残る程度には余裕があったのか――それとも動くことすら出来ないほどに動揺していたのか。

 内心の動揺を悟られないようじっと彼女をもう一度見る。
 年齢は凡そ10代後半――恐らくシンよりも年下、に見える。

 女性の髪の色はなびくようにウェーブがかった金髪。
 朗らかで笑顔の似合う顔。全体のスタイルはほっそりとして、けれど女性らしさを強調するように丸みを帯びた身体。
 
 やはり似ている。彼が守ると約束して無様に守れなかった一人の少女――ステラ・ルーシェに。
 瓜二つ、と言う訳ではない。
 まったく同じではない。恐らく――多分。
 確認は出来ない。既にその事柄は2年以上前。
 記憶と言う意味では写真などが存在したマユ・アスカなどより余程曖昧である。
 だが、それでもシンは目前の彼女から目を離せなかった。その声から意識を離すことが出来なかった。

「……どうかした?」
「あ、ああ、気にしないでくれ……ちょっと昔の友達に似てたから」
 
 言いよどむシンをティアナは怪しそうに見つめる――が、直ぐに視線を戻した。
 気にしても仕方ないことだし、シンにだって女友達くらいはいてもおかしくはない。そう思って。

「あ、ほ、本当にすいません、これ、どうぞ!」

 そう言ってようやく懐からハンカチを出すことに成功したスバルが女性に手渡す。

「ありがとう。でも別に気にしなくてもいいわよ?」
「いえ、そんな……」

 言い淀むスバル。律儀で生真面目な彼女はそれでも気にしているのだろう。
 そんなスバルを見て、少女は困ったように首を傾げる。そして、名案でも思いついたように人差し指を立てて、答えた。

「うーん、だったら、コーヒーでもおごってもらえる?それで貸し借り無しってことで。ほら、もう汚れなんて消えちゃったしさ。」

 自分の服の裾部分をスバルに見せ付ける。確かにそこには、アイスの汚れは見えない。

「ね?」

 そう、言葉でもう一度確認。表情は朗らかな笑み。見た目の年齢にそぐわない笑顔。もしかした見た目よりも年上なのかもしれないとシンは思った。

「はい!!」

 その返答に気を良くしたのスバルも同じく笑顔で答えを返す。
 貸し借り無しと言う表現が彼女にとっては嬉しかったのかもしれない。未だ付き合いの浅いシンには本当の所は分からないが。
 走り去るスバル。今度は喫茶店の中に走りこんでいく。その様を子供のおつかいを見るような微笑ましい視線で見つめる少女。
 少女の視線がこちらに移る。

 ――眼と眼が合った。シンの心臓が高鳴る。思わず眼を逸らす。

「……ごめんね、邪魔しちゃった?」

 少しだけ申し訳なさそうに少女は言う。

「あ、いや、そんなことは無いけど。」
「ええ、別に問題は無いですから。」

 そんなことは無いと言わんばかりに手を振って否定するシンとティアナ。
 ティアナにしてみれば、こちらが迷惑をかけたのだから当然と言う思いがあったし、シンにとってはそんなことを気にするどころではなかったから。
 彼女は幼い見た目にそぐわない、大人っぽい柔和な表情で笑い、手を差し出す。

「そっか。じゃあ、ご相伴に預かるね。短い付き合いかもしれないけどよろしくお願い。」

 一拍遅れて、ティアナが差し出された右手に自分の手を重ねる。
 お互いの手が重なったことを見て、少女が言い放つ。

「私の名前はフェスラ。フェスラ・リコルディ。そっちは?」

 ステラと言う名前が出てこなかった。
 それだけで少しほっとするシン。
 
「あ、ティアナ。ティアナ・ランスターって言います。よろしく。」
「そっちの彼は?」

 フェスラがシンに振り向き、右手を差し出す。

「し、シンだ。シン・アスカ。」

 震える右手。それを素直に差し出す。自分でもおかしいと思うくらいに緊張するシン。右手が触れ合う。

「シン・アスカ、ね。よろしくね、シン。」

 その口調は間違いなくステラとは違う。
 ステラはもっと幼いたどたどしい話し方だった。
 その口調はシンの記憶の中にある思い出の中ではステラと言うよりも、ルナマリアに近かった。
 記憶が走る。昔に聞いた言葉。寝物語で語られた言葉。
 
 ――シンって、いつか壊れちゃうんじゃないかって、心配になってさ。
 
 思い出の逆流。それを押し流す。思い出す必要も無ければ思い出す意味も無い記憶。
 スバルの声。快活な声がシンに届く。思い出が霧散する。思わずそちらを振り向く。そこにはスバルが笑顔でコーヒーを手に持っていた。

「コーヒー買ってきました!!」
「あ、ありがとう。えーと、」
「スバル・ナカジマです!!」

 そう言ってスバルは右手に持ったコーヒーをフェスラに差し出す。フェスラはそれを左手で受け取り、彼女の空いた右手に自分の右手を重ねる。
 柔和な笑顔は絶え間なく。スバルもつられて笑っている。

「よろしくね、スバル。私の名前はフェスラ。」
「うん、よろしくお願いしま……」

 そう、返答しようとするスバルの口元にコーヒーを持っていた手を差し出して、言葉を遮った。

「敬語はやめにしましょ? 別にそんなに歳離れてる訳でもなさそうだし。」

 ね?と片目を一瞬閉じてまた開く――ウィンクをするフェスラ。スバルはそんな彼女の芝居がかった仕草を見て、ははっと笑い、言い直した。

「……うん!よろしくね、フェスラ!!」

 言い直した彼女を見て、フェスラは答え返す。もう一度、3人に。

「よろしくね、スバル。ティアナも。それからシンも。」
「うん、よろしく。」
「あ、ああ。」

 いつの間にか、その場には気安い雰囲気――もしくは穏やかな雰囲気と言うべきか――が漂っていた。
 

 いつものシンと違う。
 それが彼女の持った印象だった。
 彼女の知るシン・アスカと言う人間は基本的に他人に興味が無い人間だ。
 どうして、そんな男を好きになったのかと言われると理由は様々だし、今も現在進行形で彼のことは悩みの種だ。
 近づいていいのか、悪いのか。その悩みは恒久的に彼女の中にある。
 
 けれど、彼が妹達と共に出かけると言うことを聞いた瞬間、居ても立ってもいられなくなり、気が付けばヴァイスと取り引きを行い、仕事を抜け出してこの場に来た。
 とりあえず、自分が誰かは分からないように、着たこともないトレンチコートとサングラスをかけてみた。
 何か探偵にでも成った気分だった。
 ともあれ、その結果として彼女はこの場でシン達を追跡することに成功している。
 予想外だったのは彼を好きなもう一人の女性も同じように考えて行動していたことだった。
 
 その女性――フェイト・T・ハラオウンは彼女と同じように双眼鏡で彼の方を覗いている。
 二人ともやっていることは犯罪みたいなものだ。殆どスレスレである。
 いつものシンと違う。それはスバルがある女性にアイスをかけたことから始まった。その在る女性との対応。それが、シンだとは思えないような反応だったからだ。
 
 初々しく、可愛い歳相応の少年のような反応。
 傍から見ているギンガは何度可愛いと生唾を飲み込んだことか分からない。フェイトなどは時折うふふと何事か呟いていた。
 
 だが、ギンガはそこで冷静になる。
 考えてみればこれは非常に拙い。危機感を感じる。何が拙いかなどは単純明白。
 シンはあの女性に対して、いつもとは違う反応をしている。それはつまり、意識していると言うことだ。
 意識している。気になっている。女性として、であるに決まっている。
 
「……どうしよう。どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう……」
 その考えに思い至り、ギンガは双眼鏡を覗きながらブツブツと小さく呟き始める。
 瞬間、フェスラがシンにいきなり近づいた。肩をくっつける。赤面するシン。

「――ぶっ飛ばすわよ」

 本音が出た。周りが自分をぎょっとした視線で見ていることに気づく。
 咄嗟に笑顔を作り、「す、すいません。市民の安全意識を調査しているので」と誤魔化す。
 周囲の人間は「ははは」と苦笑しながら彼女を避けるようにして、歩いていった。
 誤魔化せたようだとギンガは結論付けると再び索敵に没頭する――実際は誤魔化したのではなく関わりあいに成りたくないというのが市民の本音である。
 横を見れば、フェイトも同じような状況だったらしい。
 大破した双眼鏡が彼女の足元に転がっていたからだ。
 我慢できずに壊してしまったのだろう。
 ちなみにギンガが使っているのは2台目の双眼鏡だった。1台目は既に握りつぶしてしまった。
 
 気を取り直して、双眼鏡を覗く。
 周りのスバルやティアナはニヤニヤと笑いながら事の推移を見守って居るようだ。楽しんでいるのかもしれない。

「……止めなさいよ、スバル。」

 毒づく。だが、その言葉が届くはずも無い。止めるならば何とかしてあの輪の中に入り込む以外に無い。だが、どうやって?
 
 方法その1。いきなり登場。「はーい、あなたのギンガでーす!!ちょっと気になったから付いて来ました!!もう、私を置いていくなんて酷いぞ、シン♪」

(死んじゃえ、私♪)
 
 思いついた瞬間破棄決定。頭を抱え込んで振り回す。
 やばい。何がやばいかって、どこからがやばいのか分からないのがやばい。
 多分何もかもがやばい。ありえない。ありえない。大体、貴方のギンガと言うフレーズは流石に言いすぎだ。
 もしかしたら彼には本当にこんなことを言うような女性――ルナと言う名の女性だ――がいたのかもしれないんだから。
 
 そのことを思い出して気分が沈む。

(……今はとりあえず、それは考えないでおこう。)

 思考を振り切る。考えを続ける。
 方法その2。しれっとした顔で混ざる。「あ、シン。貴方も今日非番だったんですか?」

(……うわあ、寒い。むちゃくちゃ寒い。)

 心中の言葉通り、無理がある。
 例えるなら、三十路の人妻が制服を着て、女子高生ですと言うくらいに無理が在る――いや、もしかしたら世の中にはそんな奇天烈な女性の一人や二人はいるかもしれないが。
 どちらにせよ、無理がある。ギンガは思案する。どうするか、と。
 ふと、隣に居るはずのフェイトを見る。恐らく彼女も悩んでいることだろう。

「……あれ?」

 いない。いつの間にか、彼女の姿がそこに無かった。

(諦めて帰ったのかしら……)

 そして、何の気無しに前を見た。
 そこに、見つけた。ここよりもはるかに前方。
 シン達の座るテーブルからおよそ数mの場所――つまり喫茶店のテラス部分のテーブルにいつの間にか座っているフェイトを。
 新聞紙を顔の前に出しながら彼らとの間に壁を作り顔を見えないようにする――ご丁寧に新聞紙には僅かな穴が空いている。そこから覗いているのだろう。

(ちょっと待てえええええ!!!!!!)

 怒鳴るギンガ。無論、口には出さない。
 口はパクパクと地上に水揚げされた魚のように動くだけ。
 一瞬でフェイトの辿った思考を予測・構築・確定するギンガ。シューティングアーツの恩恵である。
 導き出した答えは一つ。彼女はギンガが鼻で笑ったと言うか「寒い」と形容した方法その2を採用したのだ。

(……ば、馬鹿じゃないの、あの人!?)

 思わず、敬語も何もかも忘れるギンガ。
 無論、馬鹿である。怪しいを通り越したその姿は、今か今かと通報されるのを待っているようにすら思える。殆どマゾヒストだ。捕まりたいのだろうか。

『あのフェイト・T・ハラオウンの大追跡!!彼女が補導された経緯――そこにはとらいあんぐるハートが潜んでいた!!』
「……うわあ。」

 思わず、溜め息。ギンガは明日の見出しのトップがこんなことになったら嫌だなと本気で思った。
 そのまましばし様子見。だが、一向に通報や補導されるような気配は無い。あれほど怪しいにも関わらずだ。

(……そうか。)

 ギンガは気づく。
 つまり、あれほど怪しければ皆、目を逸らす。
 関わり合いになりたくないからだ。当然だ。
 仮に自分があの場に居てもきっと眼を逸らすに違いない。その確信があった。
 
 故に、だからこそ彼女は恐らくあの場で監視を続けられる。関わり合いに成りたくないから誰も通報しないのだ。
 木を隠すには森の中。灯台下暗し。
 つまり、監視するなら至近距離。
 まさか、そんな距離で追跡しているなど夢にも思わないだろう。
 あの怪しさはいわばカモフラージュとなっているのだ。
 
 だが、あそこにいるフェイトはそんなことは何も考えて居ないだろう。
 ただ、我慢なら無かったのだろう。あの場でおいそれと見ているだけと言う状況に。
 遠目では完全には分からないが、フェイトの瞳の色は紛れも無く本気だ。
 本気でこんな馬鹿丸出しで破れかぶれなことをしているのだ。
 何せ乙女は猪突猛進。なりふり構ってなんていられないのだ。
 なりふり構っている余裕――そんなものは自分にだって存在していない。

「……そうですよね。なりふり構ってなんていられないんですよね。」

 呟き。ごくり。唾を飲み込むギンガ。
 双眼鏡をトレンチコートに仕舞い込む。
 サングラスをしっかりと目が隠れるような位置にまで上げる。トレンチコートをしっかりと着る。
 瞳に写る色。決意。覚悟。
 足を踏み出す。踏み越える。胸にはルナと言う見も知らぬ誰かへの恐れが渦巻く。踏み出していいのかと言う恐れが渦巻く。
 それが正しいのかどうか。そんなものは分からない。
 だが、今は衝動に身を任せようと思った。そうでなければ、ここでただ諦めていくだけだ。
 悔しげにここで眺めて、地面を涙で濡らすだけに過ぎない。だから、とりあえず踏み出すことにしよう。ギンガはそう思って足を踏み出した。
 
 ――数分後、喫茶店には怪しい人間が一人増えていた。



[18692] 23.襲撃と休日と(e)
Name: spam◆93e659da ID:cc4806a2
Date: 2010/05/15 17:13
「シンっていつも何してるの?」

 肩が近づく。赤面するシン。同じく赤面しているフェスラ。恋愛にそれなりに慣れているという印象を受ける。その癖それが嫌味に写らないのは彼女の態度がそうさせるのだろうか。

「え?あ、いや、勉強とか事務とか……」

 いつもとまるで違う雰囲気。シンの言葉がたどたどしい。いつものようなふてぶてしさが無い。いつもならば、淡々と言うと言うのに。
 スバルとティアナはそれを見ながら笑いをかみ堪えていた。。
 どうやら目前の少女――フェスラはシンのことを気に言ったらしい。それも異性として。
 再三繰り返されるアプローチをシンは必死に避けている。時折、ティアナとスバルに目で合図を送るも、二人はニヤニヤしながらそれを放っておいた。
 6課内においてあれほど露骨なアプローチ――ギンガとフェイトからのアプローチを受けていながら、それに気づくこともない最高の朴念仁がこれほどまでに慌てている。
 それどころか意識しまくっているその姿があまりにも新鮮で面白いからだ。

 別にギンガとフェイトの恋路を邪魔する気などはさらさら無い。
 だが、逆にそれを手伝おうと言う気も無い。不干渉。二人のスタンスはそれだ。

「だから、仕事じゃなくて普段のことよ!遊びにとか行かないの?」
「いや、俺は……」
「アンタ、仕事馬鹿だもんねえ。」

 にやりと笑いながら追加で注文したアイスコーヒーを啜るティアナ。

「あはは、シン君って放っておくといつまでも仕事してるしね。」

 こちらは追加注文したクリームソーダのアイスを崩しながら頬張るスバル。愛していると言う言葉通りに確かにアイス以外には目もくれない。ソーダは調味料とのこと。
 機動6課。管理局内部でも異端とも言える部隊。そこには当然守秘義務と言うモノが存在する。
 現在、彼らは会社の同僚で、今日は3人ともが非番なので遊びに来たというものだった。無論その会社名もダミー会社の物である。
 その過程で聞いた事。フェスラはこの近辺で働いているフリーター。親元を離れて上京してきたこと。魔法は使えない。

 無論、あちらの世界――シンの生まれた世界とは何の関係も無い人間だ。ステラに似ているのは偶然と思うしかなかった。
 そして、現在シンの胸にはもう一つの驚愕があった――その驚愕があるが故に彼はしどろもどろにならざるを得なかった。
 
 似ているのだ。その雰囲気。話し方。口調。その他様々な動作や所作に至るまで、その全てがシンの記憶の中のある女性に。
 ルナマリア・ホーク。一時シンと互いに溺れあった女性。忘れたい傷跡。忘れられない傷跡。
 
 偶然だ。それこそ、よくある話だ。だが、そう思っても彼女の動作の一つ一つがシンの傷に触れる。
 その言葉や動作の全てが、彼女を思い出させるのだ。
 未練は無い。あれば2年間の間、一度くらいは連絡を取ろうとしたはずだ。少なくとも思い出を振り返ったりはするはずだ。
 だが、自分は一度もそんなことをしなかった。思い出を振り返ることなど忘れていた。
 
 それゆえにフェスラ・リコルディ――彼女は厄介な人物だった。ルナマリアのような仕草。ステラのような見た目。
 それはシンにとっては苦い記憶を詰めた火薬箱。
 何も考えることが無く、ソレゆえに波打つ事の無い平面だった彼の心象を乱す暴風そのもの。

「ん?どうしたの、シン?」
「あ、いや、何でもない。」

 思わずどきっとする。
 その仕草に。彼女がいつもしていたように髪をかきあげる仕草。それが彼女をどうしても想起させる。今更の話だ。
 思い出したところでどうにもならない。どうにもしようと思わない。
 だが、波打つ心は収まる様子を見せない。
 
 守れなかった少女と守るべきだった少女に近似した女性。
 そこに恋愛感情は無い。会ってまだ数時間も経っていない。そんな感情を持つほどシン・アスカの心は潤っていない。
 
 今、彼の心に渦巻く感情は罪悪感と後悔の二つ。即ち守れなかった後悔と守らなかった罪悪感。
 周囲の皆は勘違いしているが、シンの心に在るのは周りが思っているような明るい気持ちではない。
 ただただ申し訳無さだけがそこにある。上手く話せないのは当たり前だ。彼にとっての罪の象徴と罰の象徴の二人がそこにいる。
 正視できる訳が無い。出来るなら、今すぐにでも土下座して、謝りたい気分だ。
 そして、そんな憂いの表情を見つめる二つの視線があった。超至近距離。気づかれないのが不思議なほどの超至近距離である。

 ――ギンガ・ナカジマ。往年の刑事のようにコーヒーを啜りながらシンのその様子を見つめる。
 ――フェイト・T・ハラオウン。優雅に上品にケーキを食べながらシンのその様子を見つめる。
 
 服装はトレンチコート。サングラス。そして、大仰に広げられた新聞紙――穴の空いた。
 怪しさ抜群。捕まえてください。そういった風体である。
 けれど、シン達は今もソレに気づいていない。
 気づかないのは道理だ。
 彼女達はシン達がそちらを見た瞬間は必ず新聞紙で顔を隠すことを徹底しているからだ。
 どんなに怪しいとしてもそこまで徹底するなら誰も気に止めない。
 無論、これは彼女達の卓越した戦闘技術があるからこそ、である。
 
 シンの動きの一挙手一投足から目を離さず、その動きに合わせて行動するギンガ。
 つまり、シンが彼女達に近づく一瞬前には彼女はそこにいない。既にトイレや売店に移動しているのだ。それもごく自然に。
 
 同じくシンの動きに合わせて行動するフェイト。こちらはシンが動いてからの行動になる。
 だが、シンが彼女の方を見れば既にそこにはいない。何故なら高速行動――ブリッツアクションによって視界外へ移動しているからだ。

 ――そんな技術を使ってまで、追跡しようとするならもう少し見た目を気にするべきではないのか、という気もするが、さもありなん。猪突猛進する人間がそんなことを気にするはずが無い。
「赤くなっちゃって。もしかして、照れてるの?」


 フェスラが再びシンに近づく。シンの頬が赤面する。膨れ上がる嫉妬の炎。帯電する空気。吹き荒れる疾風。

「へ?あ、ち、違う。そういうのじゃ……」

 思わず後ずさるシン。それを追いかけるようにしてフェスラがシンに近づいていく。
 押しとどめようと彼女の肩を両手でシンは押しながら呟く。

「い、いや、フェスラさん、アンタ、何する気なんだ!?」
「シンをからかってるの♪」

 満面の笑みでそう朗らかに話すフェスラ。
 完全な開き直り。フェスラは嫌がるシンなど意に介さずにそのまま近づく。
 ティアナ達はニヤニヤしながらそれを眺めている。物珍しそうに。シンがこんな風にうろたえるのは本当に珍しいからだ。

「そ、そんなことを開き直るな!!ティアナ、スバル!!見てないで何とかしてくれ!!」

 殆ど泣きそうな声でシンは二人に助けを求める。元々こういった女性に迫られると言う状況が大の苦手なのだ。

「諦めなさい。今日はそういう日なのよ。」

 しれっと新しい玩具を見つけたような子供のような顔でティアナは応えた。

「あ、あははは……」 

 苦笑するスバル。だが、その顔はティアナと同じような顔。つまりスバルも現状のシンのうろたえ具合を楽しんでいるのだ。

「いや、だから止めろよ、二人とも!!鬼かお前らは!!」

 そんなシンの叫びを意に介さず、スバルとティアナの二人は「ねえ?」「うん!」とアイコンタクト。
 まだまだ、遊び倒すまではシンをフェスラから助ける気はさらさら無いらしい。

(こいつら、最悪だ!!)

 シンが心中で叫ぶ。それを表に出せば余計酷いことになると言う確信があったので口には出さない。
 そんなやり取りの中、フェスラが不満げに呟く。

「シンって酷いわね、こんなに可愛い子がなけなしの勇気出して迫ってるって言うのに。」
「自分で言うな!!ていうか、何で迫る必要があるんだよ!?そんななけなしの勇気はいらないから!有効利用の方法違うから!!」
「いいじゃない、面白そうだし。さ、それじゃ観念しなさいね、シン?」
(アホかああああ!!!)

 心の内でのみ絶叫。素面でこれと言うなら酔っ払いよりも余程性質が悪い。
 シンとてフェスラのこの態度が冗談だとは分かっている。出会ってまだ間もないのにこんなことをするようなことは無い。
 単純にノリのいい女性なのだろう。だから、本当なら無視すればよかったのだ。
 そうすれば飽きた彼女はいつしかこの場を去っていったに違いない。
 
 だが、思いの外シンは反応してしまった。いつもなら決して反応せずに無視するか、既にこの場を去っているであろうに。
 何故か?簡単なことだ。前述したフェスラ・リコルディへ抱く罪悪感と後悔がシンをこの場に留めているのだ。
 精神的にフェスラに対してシンは下手に出てしまう。
 彼女にとっては全く関係の無いシン自身が彼女に勝手に抱いてしまう負い目。
 よってフェスラがどう思っていようと彼女の言うことに対してはよほどおかしなこと――命がかかっているという状況ででも無い限り、イエスとシンは答えるだろう。
 故にこんな滅茶苦茶にからかわれてもシンは助けを求める以外に何もしないのだ。負い目が拒絶に手を掛けさせないのだ。

「じゃ、次は……って、誰?」

 訝しげなフェスラの言葉。その視線の先を追いかけて、シンもそちらに振り向く。同じくティアナとスバルも。

「……古来より女性は奥ゆかしさや慎みというものを念頭に男性を踏破してきました。」

 声が聞こえる。よく慣れ親しんだ声。
 服装はまるで似合っていないトレンチコートと右手に持った新聞紙。
 小さな顔に不釣合いなほどに大きいサングラスが顔を隠す。特徴と言えばその長い髪。青く長い髪。
 怪しいなどと言うものではない。今時、こんな格好など探偵でもする事はないだろう。

「ヤマトナデシコという言葉が現れるほどそれは顕著なものです。つまり、奥ゆかしさや慎みというものは色気と同一だと言うことです。それが何ですか、その姿は?」

 びしっとフェスラに向かって人差し指を向ける。その先に在るフェスラの姿。上半身はキャミソール。下半身は丈の短いひらひらしたスカート。肌は露に――露出度高めである。

「人前でそんなハレンチなことをするとか少しは考えなさい!!女性ならもう少しは慎みというか恥じらいと言うかそう言うものを持って、男性に接する。これが基本でしょう!!」

 そして、いつの間にかその隣に腕を組みながら「うんうん」と頷きながら立つもう一人の人物。
 先ほどの人物と同じような格好。違うと言えばトレンチコートを押し上げるミサイルのように突き出した胸と輝く長い金髪。

 ティアナの唇が釣りあがる。苦笑しようとして出来なかった。
 予想外と言うか、まさかやりはしないだろうと思ったことをやりやがった二人を見て。
 スバルも同じく、苦笑。ただ、こちらはティアナほどのショックを受けてはいない。
 もしかしたらと思っていたのだ――まさか、本当にするとは思わなかったが。
 フェスラは何が何だか分かっていない。然りだ。
 直ぐに顔を赤くする純朴な青年をからかっていたら、突然現れた変質者みたいな二人組みに説教されているのだ。理解するほうが難しい。
 そして、シン。彼は呆然としていた。二人の口から紡がれた言葉。その声がどう考えても彼の知る声にしか聞こえなかったからだ。

「……ギンガさんとフェイトさん?」

 その一言に彼の目前に佇む二人が一斉に後ずさる。

「ち、違います!私はそんなギンガなんていう女性では……」
「わ、私もそんなフェイトなんていう人じゃないんだけど……」
「ていっ」

 シンの両手が伸びる。不意打ち。二人のサングラスが取り外される。
 露になる素顔。ギンガ・ナカジマ。フェイト・T・ハラオウン。

「……どっからどう見てもギンガさんとフェイトさんじゃないですか。」

 シンの瞳が細まる。口が開き、頬が引きつる。怒っている、と言うよりも呆れている顔。

「……あんたら、一体何してるんだ」

 その瞳の前で俯く二人。流石に仕事中に来ていることがばれたので後ろめたいのだろう。

「……二人とも仕事は?」

 ティアナの声。少し震えている。恐らく二人のやっていることの馬鹿さ加減に堪忍袋の緒が切れそうになっているのかもしれない。

「ギン姉……もしかして」

 スバルの呟き。その言葉に被せるようにして、二人が同時に言葉を話す。

「え、あーいや、私は別に……ヴァ、ヴァイスさんが仕事代わってくれるって言ったので。」
「わ、私はシグナムがたまには仕事させてくれって懇願されて仕方なくここに……」

 胡散臭い。あまりにも胡散臭い言葉だった。


「……それで何でここに来たんですか?」

 ジト目で二人を見つめるシン。その視線は睨み付けると言うほどに険しくもないが。

「そ、それは……」

 言いよどむギンガ。
 正直に話せば、恐らくシンの視線は今よりもはるかに険しくなる事は間違いない。
 それに大切なイベント、と言うか想いの告白無しには正直に言うことも出来ない。
 周囲にはシンとティアナとスバルとフェイト。
 そして見たことも無い女性――しかも、美人でその上、シンは彼女を非常に意識している。

 何しに此処に来たか。その理由。そんなもの言えるはずも無い。意識するシンを見てたら、どうしようもなくなってこの場に現れました、などと。

 シンの朱い瞳がこちらを貫く。
 その視線を受けて、ギンガが萎縮する。隣を見ればフェイトも同じように萎縮している。
 言えない。シンに気持ちを知られたくない――今はまだ。その気持ちが二人の共通事項。

「え、えっと……」

 それでも何か言わなければならない。ギンガが口を開く――瞬間、それを遮るようにして、フェイトが口を開いた。

「ふ、不純異性交遊してないか確かめに来たの!」

 びしっとシンとフェスラに人差し指を突きつける。ギンガの目が輝く。「それがあったか!」とでも言いたげな輝き。

「そう、それ!」

 その言葉に便乗するギンガ。

「そ、それで来てみたらこんなことになってたんです!」
「だから、思わず止めに入ったんだよ!?」

 流れるような二人の弁明。身振り手振りを使って大仰に弁明するその姿。
 もう、どこから突っ込んでいいのか分からない。
 恐らくはその見た目に始まり殆ど全てに対してツッコミを入れるべきなのだろうが。
 だが、シンはツッコむことなく、一つ溜め息。

「……まあ、いいですけど。」

 正直なところ、内心、シンは安堵していた。
 あのままフェスラに迫られたり、からかわれ続けていれば、正直なところ自分を保てたかどうかは分からないからだ。
 保てた、と言うのは別に性欲を持て余したと言う意味ではない。
 単純な話、あのままいたら、自分の中の罪悪感に耐え切れずに土下座して、謝っていただろうからだ。
 そのことに内心でほっと息を吐く。
 
 その時、不意に、左腕に暖かな膨らみ――柔らかかった――を感じる。思わずそちらを振り向く。
 そこにはステラに似た少女――フェスラ・リコルディがシンの腕を抱き締めるようにして佇んでいた。

「フェ、フェスラ!?」

 驚くシンを無視して、フェスラはそのままギンガとフェイトに顔を向けると言い放つ。挑発的に。

「ねえ、ギンガさんとフェイトさん、だっけ?」
「……はい?」
「……なに?」

 剣呑な眼光を隠そうともしない二人。標的からの言葉。剣呑となるには十分だ。

「貴女たち二人って……シンの恋人?」

 放たれた言葉は矢の如く。二人に突き刺さる。ついでにシンにも突き刺さる。
 彼にとっては寝耳に水の事柄だ――少なくともそう思っている事柄だ。

「は!?あ、アンタ、何馬鹿なこと言ってるんだ!?」
「シンは黙ってて。」
「く……」

 睨み付けられ、押し黙るシン。基本的に女の言うことには弱い。特に彼女のようにシンの傷口をつつきまわすような女性には。

「どうなの?」
「……ち、違いますけど。」
「……うん、違うね。」

 フェスラの視線から眼を逸らす二人。本心では、肯定したいがシンやティアナ、スバルの手前それを言い出せないでいる。

「じゃあ、シンってフリーなんだよね?」

 その言葉を聞いてフェスラがニッコリと笑い、シンに向かって口を開いた。

「あのな、フリーとかフリーじゃないとかじゃなくてだな!!俺は別にそういうのには興味が……」
「ゲイじゃないんでしょ?」

 ありえない質問。

「当然だ!!」

 一拍も置くことなく否定するシン。そのやり取りでフェスラはニヤリと唇を吊り上げ、微笑みを邪悪なものへと変化させる。

「じゃ、チャンスありって思ってもいいのかな?」
「チャ、チャンス!?」

 うろたえるシン。赤面する頬。
 それを確認して、フェスラはチラリと視線を横にやる。視線の先にはギンガとフェイト。二人の乙女。
 挑発的なフェスラの視線。
 ギンガとフェイトの瞳が、フェスラを射抜く様に鋭くなる。瞳に炎が燃え上がる。嫉妬と言う名の炎が。

「……へえ。」
「ふうん……。」
「別にからかうだけのつもりだったけど、シンって思ったより可愛いしね♪」

 ギシリ。帯電し、硬直し、固まり、停滞していく空気。比喩でも誇張でもなく、空気が痛い。
 皮膚に静電気が走ったような錯覚――恐らく錯覚ではないだろうが。肌が粟立つ。背筋を走る怖気すら伴う恐怖。

(や、やばい)

 心中での呟き。自分が落とし穴に落ちたのだと言う感覚を覚える。
 ティアナ・ランスターはこの場に至ってようやく理解した。
 自分が踏み出した場所。そこは文字通り虎穴。つまり、危険区域そのものだと言う事を。
 彼女とて機動6課の一員である。
 潜り抜けた修羅場の数と質は他の魔導師に比べてはるかに多い。潜り抜けた修羅場は戦闘経験として彼女の中に蓄積されている。
 その戦闘経験が呟く。これは危険だ、と。

 ギンガとフェイトの織り成す危険な空気。
 触れれば消し飛ぶと言われても信じてしまいそうなその嫉妬。
 触れずともその嫉妬だけで眼前の敵――この場合はフェスラ――を吹き飛ばせるのではないのかと勘違いしてしまいそうなほどに。

 空気が帯電する。空気が疾風する。ギンガの青い瞳。フェイトの赤い瞳。そしてフェスラの赤紫の瞳。三つの瞳が交錯する。
 その中心でシンだけがフェスラの態度にうろたえながらも、気を取り直すようにコーヒーを飲んでいる。
 ギンガとフェイトのことは気にしていないようだった。
 凄まじい朴念仁――殆ど異常だ。
 いわんや、その朴念仁があればこそ彼はこの場の空気に耐えれているのかもしれない。
 ヴァイスが言った言葉。「羨ましいに決まってんだろ!」。馬鹿な話だ。羨ましい。
 その言葉は知らないからこそ言えるのだ。知っていれば、この空気を一度でも味わったことがあるなら羨ましいなどと言えるはずがない。
 少なくとも自分はあんな状況になりたくはない。
 猛獣。それが彼女達二人を形容する最も適当な言葉だった。
 そして、その隣でスバルも同じように現状を捉えていた。
 つまりは虎穴にいることを。しかも別に彼女達は虎子――この場合はシンである――が欲しいと言う訳でも無い。
 要するにハイリスクノーリターンである。
 
 危機感を感じる。このまま、ここにいれば、とんでもないことになってしまうのではないのか、と。
 いや、連れ出した時点で既にそれは確定かもしれない。猛獣を檻から解き放ったのは他でもない自分たちだからだ。
 そしてどうするべきか、と二人が思い悩んでいた時――ちなみに二人が考えていたのはこの場からの脱出方法である。
 互いのデバイスを用いて、とりあえず連絡付きそうな人に片っ端から連絡。
 そして、さも連絡が入ったように通話して、この場から退却する。
 高速で方々に通信を繰り返し続けるマッハキャリバーとクロスミラージュ。
 多くの金と時間をかけて作られた最新型AIである彼らもまさかこんな使い方をされるとは思わなかっただろう――声がした。

「言ったはずですよね?不純異性交遊は駄目だと。」

 先手。ギンガ・ナカジマの一言。傍らでフェイトも同じくうんうんと頷いている。
 シンは相変わらず「ま、まあまあ」と愛想笑いを浮かべながらコーヒーを飲んでいた。その表情を見るに、どうして彼女達が険悪になっているのか理解出来ていない。

「……そんなのシンと私の勝手でしょ?ねえ、シン?」

 後手。フェスラの言い分。彼女の瞳が妖しく揺れる。その瞳に見つめられるとシンは何も言えない。罪悪感が彼女の肯定に手を貸す。

「あ、いや……まあ、確かに勝手……」
「へえ。」
「ふうん。」

 言葉と共にギロリ、と血走った青と赤の瞳が射抜く。
 瞬間、肌が粟立った。本能が警告する。それは死亡フラグだと。決して選んではならない選択肢だと。

「……じゃないですよね?あ、あはははは」

 肯定を言い放つ寸前で否定に変更。愛想笑いで誤魔化しに入る。幸運好色(ラッキースケベ)の称号は伊達ではない。
 シン自身どうしてそこで変更したのかは分からないが、変更しなければきっとロクな目に合わない。
 そう、理性ではなく本能が察知していた。

(……な、何で今日に限ってこんなに二人ともブチ切れてるんだ?)

 シンにはその理由が本当に分からない。何故なら彼にとって彼女達が自分に好意――それも異性への好意を持っていると言う事柄が理解の外側にあるからだ。
 
 シン・アスカ。彼は朴念仁である。そして大抵の朴念仁がそうであるように彼も自分が異性の興味を引くような人間ではないと思っている。
 
 ――そして、彼の場合は、もう少し状況が“おかしい”。
 
 いつもやっていることと言えば訓練ばかり。
 13の時に家族を失ってからやってきたことと言えば軍での訓練や教習や座学、そして数え切れないほどの実戦。
 それはこの世界にやってきてからも殆ど変わりはしない。
 故に同年代の同性が行うようなコトなど知識として知ってはいても殆ど知らないに等しい。
 客観的に見てこれほど偏った人間もそうはいない。
 面白みの無さにかけては折り紙つきだ。少なくとも自分ではそう確信している。
 だから、自ずから自分に関わってくる機動6課のメンバーは物好きでお人好しで気のいい奴らだと、考えていた。
 その中でも特に自分のことを気にかけてくれて関わろうとしてくれるギンガやフェイトに対しては感謝の念すら抱いていた。

 そして、もう一つ。彼の頭には恋愛などと言う概念は存在しない。
 寝ても覚めても戦うことばかり考えているような、世間一般の概念に照らし合わせれば、最悪最低の駄目人間である。
 恋だの愛だのは全て過ぎ去った幻でしかない。
 ――つまりは、彼も恋愛下手、或いは恋愛初心者なのだ。
 初心者は初心者であるが故に何も知らない。そして気付くこともない。
 仮に想われていると感付いたとしても――初心者はそれを“あり得ない”と一蹴する。
 そんなことあり得るはずが無い、と。
 誰もが陥る、朴念仁の袋小路に彼もまた陥っているのだ。世の大多数の男性と同じく。
 
 “だから”その理由が分からない。どうしてギンガとフェイトがブチ切れているのか。
 彼女達がどうしてここに来たのか。
 自分に向けられた好意に対して鈍感どころか無感なのだ。分かる訳が無い。分かるはずが無い。

「ほら、シンも嫌がってるじゃないですか。ねえ?」
「うん……嫌がってるよね。」

 誰もそんなことは言ってない。凄まじい自己解釈である。

「へえ……そうなんだ?そうなの、シン?」

 フェスラの問い。シンに向かって顔を向ける。

「あ、い、いや……」

 言い淀み、うろたえるシン。いつものような無関心はそこにはどこにもなかった。そこにいたのは女性に迫られうろたえる年相応の年齢の反応。
 ティアナは3人の様子に怯えながら彼のそんな様子をつぶさに観察していた。
 いつも自分が見ていたイメージとは違うシン・アスカを。

(……こいつ、本当はこんな奴なんだ。)

 心中で呟く。言葉の通りだ。ティアナにとってシンとはどこか危うい劇物だった。その上6課内に嵐を巻き込んだ張本人。
 無愛想で無関心。他人にはあまり関わりたくない――と言うよりも線を引く人間だと。
 だが、その内面は何の事はない。
 年相応、もしかしたら実際の年齢よりも幼く見えるような人間だった。
 実際、今眼前にいるシンはティアナと同年齢くらいに見える。とても彼女やギンガよりも年上とは思えない。単純な話、不器用な人間なのだ。
 そして、不器用だからこそ無茶をする。
 視野狭窄に陥って。ギンガやフェイトの思いに気づかないのも無理はない。彼には周りなど見えていないのだから。
 ティアナが今回、彼を連れ出したのは孤立しがちな彼を孤立させない為だった。
 何よりもギンガやフェイトと言う二人とだけ親密な関係を作ってしまっている彼の歪な人間関係を正したかったからだ。
 だが、そんな必要は無い。彼は別にギンガやフェイトと親密な関係など作ってはいない。
 今の彼の態度を見れば分かる。
 恐らく、そんな二股をするような甲斐性など彼には一切存在しない。
 恐らく、誰かを振ることですら彼には無理だろう。女性にからかわれたくらいであそこまでうろたえるのだ。
 ギンガとフェイトの二人の思いに気づけばあんな態度を取れるはずが無い。
 単なる朴念仁なのだ。そういった人間の人間関係を是正する方法――そんなもの一つしかない。
 こちらから関わるコト。気にかけるコト。それだけだ。
 今はギンガとフェイトが関わっている。別に彼女達と同じように関わらずとも、友達として接すればそれでいい。
 彼はそういった人間の言葉を無碍には扱わないだろうし、そういった立場からなら彼のオーバーワークを止める――ことは出来ないにしても軽減することは確実に可能だ。
 
 そうして、ティアナはこれからの自分の立ち位置を考えると、溜め息を吐きながら苦笑し――そして、現状を思い出し、顔を青くした。
 視線を上げる。互いに交差し、睨み付ける視線。帯電したままの空気。爆ぜる嫉妬の炎。
 その最中でうろたえたままのシン。スバルは現実逃避に入ったのか、アイスをモリモリと食っている。

(……どうしよう。)

 どうするもこうするも無い。
 先ほどから行っている通信は全て失敗。
 当然と言えば当然だ。今は誰もが勤務時間。
 別の課からの同期からの通信に暢気に応対出切るほど楽な仕事ではないのだ、皆。逃避の方法はこれで終わりだ。
 思考を切り替える。
 ならば、どうする。妥協案。逃げる方法が見つからないなら、せめて場所を変えて空気くらいは変えたい。
 そして、再度逃げたい。いや、ホントに。マジで怖いんです。

(シンは当てにならない、スバルはアイス食べてる、ギンガさんとフェイトさんは触れてはいけない、フェスラは……何をしてくるかがまるで読めない。……ああ、本当にどうしよう?)
 
 折角の休日にどうしてこんな目に遭うのだろうか。
 そうして、ティアナが諦観の境地に至りそうになった時――ぐぅっと音がした。
 皆が言葉を終えて周囲を見る。
 赤面するギンガ。ギンガのお腹が鳴ったのだ――つまり、それは空腹。
 考えてみればシンとティアナとスバルは朝食を終えて直ぐに来た。
 ギンガとフェイトは何事か言い争っていたはず――その間に連れ出してきたのだから。
 その間、二人がシンを探していたのだとしたら、彼女たちは朝から何も食べていないと言うことになる。

 罰が悪そうに赤面するギンガ。それを見て、ティアナの背筋に電流が走る。
 閃きという名のその電流は彼女の口を淀みなく動かし始める。この状況からの脱出の方策――は無理ではあるが、変革の方策を。

「……ねえ、皆お腹空かない?」

 一つ目の言葉。その言葉に皆がギンガに向けていた視線をティアナに向ける。

「へ?」
「は?」

 唐突なティアナの言葉に驚くフェイトとフェスラ。

「あ、い、いや、私は別に……」

 ギンガはティアナの言葉に反抗するように問題ないと言う。その時お腹が再度鳴る。赤面が加速する。

「……ギン姉、説得力無いよ。」

 溜息一つ。呆れたように呟くスバル。

「……言われてみれば、もうそんな時間か。」

 今自分達がいる喫茶店の近くの電光掲示板に示されている時刻を確認するシン。
 時刻は既に11時半を過ぎている。昼には少し早いかも知れないが早すぎると言うほどでもない。
 その時、ティアナがシンに目配せ――と言うよりもシンにしてみると睨みつけているようにしか見えなかったが。
 その視線に怪訝な顔をするシン。ティアナのアイコンタクトの意味を理解していない。
 というか睨みつけられているようにしか見えないので叱責されているようにすら感じている。
 ティアナはアイコンタクトを理解していないのが丸分かりのシンに見切りをつけて、行動を推し進める。

「じ、実は今日ってシンが昼を奢ってくれるって話だったんだけど皆どう?」

 二つ目の言葉。その言葉に今度は皆の視線がシンに向く。

「はあ!?」

 シンの素っ頓狂な声が上がる。だが、皆はそんなシンの声が聞こえていないのか、矢継ぎ早に質問が飛び交っていく。

「え、そうだったの、シン君?」

 状況が理解できていないスバルは驚いた表情で。

「シ、シンに奢ってもらえるんですか!?」

 物凄く嬉しそうにギンガは胸の前で腕を組んで、目を輝かせている。こう、ぽわわーんと。恋する乙女のように。

 ギンガ・ナカジマ/脳内会議実況中継。
 円卓を中心に数人の女性が並んでいる。女性の顔は全て同じ顔。それもそのはずだ。
 ここはギンガ・ナカジマの脳内会議。彼女のペルソナ達が語り合う無意識の円卓。
 そこにいる全てはギンガ・ナカジマという存在を共有しつつもその一部でしかないのだ。

「シンが私にご馳走してくれる……・その後はあれなのね。君の瞳に乾杯して今度は君をご馳走になるよとか何とかで夜の隙間をハイドアンドシークして二人の心はノッキングオンザヘブンズドアー!!」

 脳内会議出席者その1。「乙女ギンガ」。ギンガ・ナカジマの乙女ちっくな部分を司るペルソナである。
 最近は壊れ気味である。

「ち、ちょっと貴方ねもうちょっと慎みを持ちなさいよ!?仮にも私でしょ!?」

 眼鏡をかけた知的なギンガ――脳内会議出席者その2。「委員長ギンガ」。ギンガ・ナカジマの潔癖な部分を司るペルソナである。

「何言ってるのよ!シンよ!?あの朴念仁で無頓着でこっちの気持ちにまるで気が付かない鈍感がご馳走してくれるって言うのよ!?『私の為に!!』熱が上がらない訳無いじゃない!?」
 
 脳内会議出席者その3。「熱血ギンガ」。ギンガ・ナカジマのテンションを司るペルソナである。

「落ち着きなさい二人共!!別にシンは私だけを誘った訳じゃなくて、他にも誘って…」

 委員長ギンガは叫ぶ。いつ暴走するとも知れぬ二人を見るに見かねてだ。だが、そんな委員長の思惑を知ってか知らずか、ぼそっと呟く声があった。

「…シンはきっとシャイだから周りの人達は単なる生き証人でしかないのよつまりこれはきっとシンからの遠回しなプロポーズもう所帯を持つしかないのよお父さんスバル私は今日本当の意味で女になりますああもう乙女じゃなくなっちゃう物理的な意味で!!!」

 物凄い早口言葉でそう話しながら、自分の身体を抱き締めて「うふふふふ」と薄笑いし続けるギンガ。
 脳内会議出席者その4。「ヤンデレギンガ」。時に暴走しがちなギンガの恋愛部分を司るペルソナである。主に暴走させる方向に。

「ば、馬鹿なこと言ってんじゃないわよ!?な、何で私がろ、ろ、ろ」

 ロストバージンというのが恥ずかしいらしい。赤面しながらズレそうになる眼鏡を何度も合わせ直している。

「ロストバージン……落ちる牡丹。雪原に咲いた赤い薔薇。」

 乙女ギンガは胸の前で手を組むと、陶然とだらしなくにやけた顔で中空を見つめながら詩を歌っている。

「うふふふふふふふ」

 ヤンデレギンガは自分で言った「乙女じゃなくなっちゃう」発言をさぞ気に入ったのか、先ほどからずっとうふふふふと笑い続けている。

「物理的な意味で……」

 熱血ギンガは物理的な意味を思い起こして、ボンっと顔を赤面させて、俯いた。どうやら彼女にはまだ早いらしい。

「だ、だから、もう少し慎み持ちなさいよ!!たかが食事を奢ってもらえるだけよ!?」

 そう言って皆を諌めようとする委員長ギンガ。紅潮した顔で叫んでも説得力は皆無です。

「たかが奢り。されど奢り。千里の道も一歩から……これは幸せに至る道の一歩目。」

 しみじみと諭すようにヤンデレギンガは独白する。誰に聞かせるまでもなく。

「し、幸せって……」

 委員長ギンガの返答。
 ヤンデレギンガがその返答に対して真っ向から答える、先ほどのように世界を縮めるほどの早口言葉で。

「そうよ……奢りから始まり商店街のくじ引きで温泉旅行を当てて二人は旅行に行くのよ温泉と言う非日常の中では男女二人が一緒に泊まればきっと旅館側もサービスしてくれるに違いないわきっとフトンをくっつけたりフトンの近くにティッシュがあったり、枕の裏には「Yes or No」とか書いてあるのよ!!」

 もはやヤンデレというよりも妄想ギンガさんである。しかも発想が古い。オッサンとかオバサンの領域である。
 そして、その言葉を聞いた瞬間、その場にいた三人のペルソナが同時に上を向いた。思い描く。その光景を。

『……』

 その光景を思い浮かべる。瞬間、三人が三人とも鼻を押さえる。その手の隙間から漏れ出る赤い雫――鼻血。

「……どう?見えた?」

 三人はその瞬間、ヤンデレギンガに親指を立ててプルプルと震える拳を突きつけた。
 それはいわゆる英語で言うと「GJ」の証である。
 迸る情動。震え上がる情熱。結論は一つのみ。その震える親指が示す意味のみである。


 同じ瞬間、ギンガと似て非なる思考をしていた女性がいた。言わずと知れたフェイト・T・ハラオウンである。

「ほ、ほんとに!?」

 フェイトも同じくテーブルに手を突いて目を輝かせている。こう、きらきらっと。無邪気な子供のように。


 フェイト・T・ハラオウン/脳内会議実況中継。
 広大な金色の草原。そこにいる無数の金髪の女性達。

「シンが奢ってくれるって――!!!!」
「いやったあああああ!!!」
「やったああああああ!!!」
「うわあああああああい!!!!」

 それはフェイト・T・ハラオウンだった。
 無限――無限と言う数が数え切れないほどに多いと言うものを言うのであればこれは無限であろう。
 子供のフェイトがいた。
 大人のフェイトがいた。
 オバサンのフェイトがいた。
 女子高生のフェイトがいた。
 キャバ嬢のフェイトがいた。
 小人のようなフェイトがいた。
 貧乳のフェイトがいた。
 巨乳のフェイトがいた。
 数限りないフェイトがいた。
 草原を埋め尽くす金色の髪。
 見えていたのは金色の草原ではなく、金色の髪の群れだ。
 その全てがシンに奢ってもらうと言う一事に歓喜している。
 数限りない無限のペルソナが狂喜乱舞しているのだ。

「わーい!!!」
「わーい!!!」
「わーい!!!」
「わーい!!!」
「わーい!!!」

 もはや会議っていうかサバトである。魔女もビックリである。
 無限のフェイトが手を繋いで踊っている。
 マイムマイムを踊るように皆で「シーン!!」「シーン!!」と繰り返しながらスタンディングオベーションを繰り返している。
 その光景は綺麗とか可愛いとか通り越して、ぶっちゃけホラーです。
 見ている人間などいない――だが、もし見た人間がいたらこう思うだろう。ゾンビに追われる気持ちってこんな感じなのかなと。


「……それならさ、私いいとこ知ってるんだけど、どう?」
 その時フェスラの口が開いた。ティアナに目配せする。
 どうやら彼女にはティアナがやろうとしていることが見透かされているようだ。
 その視線に目で合図するティアナ。その提案に乗る確認だ。

「いや、待て!!俺は別に一言も奢るなんて……」

 否定するシン。予想外の状況――いつの間にか自分が奢ることになっていることに驚きと共にうろたえている。
 ティアナがクロスミラージュを操作し、シンにだけ秘匿通信で念話を開始する。

『いいから、アンタは言うこと聞きなさい!!』
「っ!!?」

 怒鳴り声。シンの脳裏にティアナの叫びが木霊する。思わず黙り込むシン。その間隙を縫って、ティアナがフェスラに質問する。

「いいところってどんなところ?」
「うん、安くて美味しい定食屋。結構人数多いからそういうところの方がいいと思うんだけど……どう?」

 フェスラが皆――無論、シンを除いた女性陣のみへ――に視線を向ける。

「わ、私はシンに奢ってもらえるならどこでもいいです!」
「わ、私も!!私も!!」
「私も奢ってもらえるならどこでもいいよー!!」

 否定は無い。意見は肯定のみ。

「ちょ、ちょっと待ってくれ!!そんな話は一言も……」

 否定するシンの声。その声に反応して皆の視線が彼に集中する。
 思わずその視線に後ずさりするシン。

「く……。」

 元来、他人の頼みを断らないシンにとってその視線は強烈を通り越して凶悪だった。
 1秒。沈黙。視線は動かない。
 2秒。沈黙。視線は動かない。
 3秒。沈黙。視線に奢ってくれないのかという不安が混じり出す――主にギンガとフェイトの瞳に。
 4秒。沈黙。その瞳を見てシンが自分の財布を開き、溜息一つ。財布を閉じる。そして、その口が開いた。観念したように肩を落とす。

「……そこ、教えてくれ。」

 財布の中身は結構危険だった。思えばATMで金を降ろし忘れていたからだ。
 朱い瞳の異邦人シン・アスカ。彼は案外庶民派だった。少なくとも財布の中身を気にして奢ることを渋るくらいには。



[18692] 24.襲撃と休日と(f)
Name: spam◆93e659da ID:cc4806a2
Date: 2010/05/15 17:13

 フェスラに連れられて歩く事十数分。
 街中だったはずがいつの間にか路地裏に入っていき、辿り着いた先――そこには「定食屋赤福」と大きく朱い文字で書かれた看板があった。

「……定食屋赤福?」
「ここね、知る人ぞ知る名店なのよ。」

 怪訝な顔で呟くシンを見てフェスラが得意げに呟く。

「へえ、こんなところにこんな店あったんだ。」
「なんか美味しそうな感じがしますね。」
「美味しそうな匂いがする……」

 店構えを気に入ったのか、フェイトは店内を覗きこむ。
 どこかワクワクしているその様子は未知なるものへの好奇心……それと同時に「シンに奢ってもらえる」と言う状況そのものが嬉しいのも関係しているのだろう。
 それに追随するようにして同じく店の中を覗きこんでいるティアナとスバル。
 匂いを嗅ぎ取れば、非常にいい匂いがする。二人の胸で期待が高まっていく。ついでにティアナは非常にほっとしていた。

(……とりあえず風向きは変わった。あとは食べ終わって、退避する。これでいい。)

 虎穴からの脱出はならずとも出口に向かって身体の向きを変える程度は出来た。
 とりあえず一触即発と言った空気は変わり、今は和気藹々とした雰囲気である。
 その事実にひたすらほっとするティアナ。実際、本気で怖かったのだ。
 後ろをとぼとぼと歩くシンを見る。財布の中身を見ながら溜め息を吐いている。

(ごめんね、シン。今度ジュース奢るから。)

 全くもって釣り合いが取れていないのはお約束である。
 ティアナが勝手にシンに謝っている中、シンはトボトボと歩いていた。横にはギンガが連れ添っている。

「何で俺が……」

 とぼとぼと歩きながらそんな皆を見ながら盛大に溜め息を吐くシン。

「ま、まあまあ。」

 彼の傍らに佇むギンガがそんなシンを慰める。
 彼女自身、シンに奢ってもらえると言う状況に舞い上がって、彼の財布事情をまるで考えていなかったコトに多少の罪悪感を感じていた。
 というよりもシンが奢ると言う状況が想像出来ずどんな反応をするか全く分からなかったと言うこともある。

「……とりあえずこうなったら好きなだけ食べますよ。……俺の奢りなんだし。」

 呟き、再び財布を見る。ティアナの提案でここに来る事が決定した時、シンは途中のコンビニのATMでわざわざ卸してきた。
 札束――とまではいかないが、それなりの量である。持てば重量はともかくその膨れ上がったボリュームに誰もが目を惹かれるだろう。
 奢ると言った以上は奢るべきであり、それが当然だ。そもそもこれほど盛り上がった皆を見れば止めるのも気が引ける。
 だが、それでも彼は正直不安だった。
 
 ――足りるのか?
 
 彼自身はあまり金にうるさくないが、それでもこれだけの人数に奢ると言うのは流石に気が引けるというか、どれだけかかるのか不安になる。
 何故ならスバルとギンガがいるからだ。
 シン自身もよく食べる方だが――それ以上にスバルとギンガの食べる量は多かった。
 はっきり言って、常人からするとありえない量である。
 フードファイターに再就職も十二分に可能だろう。
 そんな人間が奢る相手にいるのだ。正直、後が怖かった。

「スバルが……食い過ぎなきゃいいけど。」
「あ、あはははは。」
「……いや、ギンガさんもその中に入ってますからね。」
「……あ、あはははは。」

 何も言えない。と言うか笑うしかない。
 流石にシンの前でいつものようなドカ食いをする気は無いが――妹はそんなことお構いなしだろう。

「まあ、もう、気にしても仕方ないですけどね……」
「シーン、何してるの――!」

 フェスラの呼び声。入り口を見れば既に前方を歩いていた集団の姿はない。
 いつの間にか全員既に入店し、座っている。

「ギンガさん、俺たちも行きましょうか。」
「そうですね。」

 顔を突き合わせて、頷く二人。
 古びた入り口の前に立ち、暖簾を手でよけて中に入る。
 店内を見る。古びた外観に準じて内装も古びている。
 木造仕立ての内装――いわゆる最近ミッドチルダに増え出している和風の店と言う奴だ。
 店内にはテーブルが6つ。それとカウンター席が同じく6つ。その先に厨房が見える。
 厨房ではオレンジの髪をした男性が料理を作っていた――年齢はシンよりも少し上くらいだろうか。帽子に隠れて顔は見えなかったが。

「――いらっしゃい。」
「っ――」

 突然、横から声がした。全く気配を感じなかった。
 切り替わる思考。日常から戦闘へ。
 シンは咄嗟に懐に仕舞い込んである待機状態のデスティニーに手を掛け――起動しようとしたところで思い直す。見えた顔に見覚えがあったからだ。

「……グ、グラディス!?」
「君は……シン?それにギンガ君かね?」

 そこにはギルバート・グラディス――シンが“あの”街で出会った仮面の男がいた。
 以前と同じに艶めいた長髪を後ろで束ねている。服装は以前のようなスーツ姿にエプロンと言う出で立ち。
 驚きのあまり、パクパクと口の開け閉めを繰り返すシンとギンガ。

「あ、アンタが何で……」

 その返答を聞き、グラディスがふふんと笑いながら、眼鏡の位置を直すように仮面の位置を正す。

「何で、とは失礼だね、君も。」

 芝居がかった仕草で店内を手で指し示す。

「この赤福は私の店だからね。私がここにいることは当然だ。むしろ、君達がここにいることの方が驚きだ。旅行かね?」
「あ、いや部署変わって……」

 呟くギンガ。シンも頷く。その二人の様子を見てグラディスはいやらしそうな笑みを浮かべる。

「ほう。転勤かね?二人揃って?」
「あ……ああ。俺とギンガさんの二人共な。」
「仲の良い事だ……まあ、社内恋愛も程ほどにね。」

 一瞬、ピシリ、と空気が緊張する。
 赤面する二人を睨み付けるフェイト。フェスラはその様子を面白そうに見つめる。
 スバルは現実逃避しているのか、必死にメニューを眺める。
 ティアナはもはやどうにでもしてくれと言わんばかりに雑誌を読み耽っている。

「な、」
「な、何馬鹿なこと言ってるんだよ、アンタは!!」

 嬉しそうに赤面するギンガの言葉を遮ってシンの叫びが店内に響く。

「……ふむ、何だ、そういう仲じゃないのかね?」
「違うって前も言っただろ!?」

 その横でショボンとするギンガ。「そんなに否定されると悲しくなっちゃいます。女の子だもん。」と顔に書いてあるような表情である。
 そんなギンガを哀れむような表情で一瞬見て、グラディスは溜め息を吐き、呟く。

「ふむ。まあ、どちらでも構わないんだが……」
「いや、だから……」
「入り口にずっと立たれているのもおかしな話だ。とりあえず席についてもらえないかね?」

 そう、言われて自分たちが入り口で立ち往生していたことに気づく。

「そ、それもそうだな……座りましょうか、ギンガさん。」
「あ、はい。」

 シンに促されてギンガも中に入り、皆が座っている円形のテーブルに座る。
 シンの隣にはギンガ。その隣にはフェスラ。その隣にはスバル、ティアナと続き、フェイトが座っている。悔しそうな顔のフェイト。
 ティアナは決してそちらを見ないようにしながらメニューを眺める。スバルも同じく。
 ギンガは何だかんだでシンの隣に座れたのが嬉しいのか、微笑みながらシンと一緒にメニューを眺めている。
 フェイトの方には目もくれない。
 フェイトは仕方無しに自分の前に立てられているメニューを手に取り、眺め始める。
 誰も店長とシンやギンガが知り合いだったことを話題には出さなかった――ティアナやスバルは怖くてそれどころではなかったし、フェイトはシンの隣の席に座れなかったことを悔しがっていてそれどころではなかったし、フェスラは何故か先ほどから厨房の中をじっと見つめていた。
 そこでここまでメニューを眺めることすらせずに厨房を眺めていたフェスラがグラディスに視線を向けた。

「店長、ニシカワさんいるの?」
「ああ、今日はフルタイムだ。」

 フルタイム。そう聞いた瞬間フェスラの唇が釣り上がり、好戦的な微笑みが現れる。

「……そっか、じゃ、私アレお願いできる?」

 “アレ”。その言葉を聞いた瞬間、グラディスの瞳が細まり、緊張が走った――そして、間断なく言葉を発する。

「了解した――ニシカワ君、オーダーはスペシャル一式だ。」
「――了解しました。」

 返答は速やかに。厨房からガチャガチャと音がし始める。にわかに騒がしくなり、心なしかグラディスの顔にも険しさが通り抜けた。
 そんな厨房に漂い始めるピリピリとした緊張感に首を傾げながら、シンは彼らのテーブルの前で注文を待っているグラディスに声をかけた。

「なんでフェスラのだけ初めに頼んだんだ?」

 その言葉を聞いて、目を丸くするグラディス。そして、フェスラとシンの顔を交互に見合わせる。
 グラディスのその様子を見てフェスラが「ふふん」と笑う。
 その笑みで納得したのか、グラディスがニヤリとした笑みでシンを見た。

「そうか、君は彼女がどんな女性か知らないのか。」
「実は今日知り合ったばっかりなの。それで親睦を深めようと、ここに来た。そんな感じ。」
「親睦を深めに……君も人が悪い。驚かせようと思ったの間違いじゃないのかい?」

 呆れた顔でフェスラに向けて呟くグラディス。それは悪戯好きの子供に呆れたような顔だった。
 再び首を傾げるシン。話の内容がよく分からない。

「驚かせる?」
「ふふ、気にしない、気にしない。それよりもシンと店長が知り合いって言う方が私は気になるな。」

 ずい、と顔をシンの傍に寄せるフェスラ。思わず仰け反ってそれから離れようとするシン。
 ニヤニヤとシンのその反応を楽しむようにフェスラはその体勢を崩さない。

「ん……ああ、俺らはここに来る前に一度会ってるんだ。」
「ここに来る前?」

 その問いにギンガがシンに代わって答える。
 表情は笑顔。しかし微妙に血管が浮き上がった額が印象的である。
 その隣で興味深そうにその話を聞くフェイト。どうやら自分の知らない部分の話なので興味深いようだ。

「少し前に転勤してきたんです、私とシンは。」
「へえ……その時に店長に会ったんだ?」
「ああ、そうだ……って、まさかこんなところで会うとは思いも寄らなかったけどな。あ、注文いい?」
「ああ、というよりも私はそれをずっと待っていたのでね。……では何かな?」

 皮肉げに笑いながら懐からメモ帳とボールペンを取り出すグラディス。
 それを見て、シンがメニューを覗きながら注文を始める。

「えーと、俺はカツカレー大盛のラーメンセットで。ギンガさんは何するんですか?」
「わ、私はオムライスの大盛りをお願いします……って、何笑ってるんですか、シン!?」
「あ、いや、結構子供っぽいなあと思って。あと何か少ないような気がして……」
「い、いいじゃないですか、好きなんですし!! ……それにあんまり食欲は無いんです。」
 
 はいはい、ワロスワロスとでも言いたげなティアナとスバル。
 それなりに大食いの彼女がそんなことを言うとは大方シンの前ではあんまり食べたくないとでも思っているのだろう。
 さっき、腹の虫が鳴ったのは彼女だと言うのに片腹痛いとでも言いたげだ――とりあえず、シンは安堵する。
 シンとギンガがメニューについて言い合っているその横。スバルとティアナも注文を頼んでいた。

「私もカレーライス。で、アンタは何するのスバル?」
「うーんとね……私はここらへんかな。」

 そう言ってメニューの半ばあたりを指で丸を描くように指し示す。シンの表情、硬直。ギンガの顔が引き攣る。
 場が沈黙。というよりシンが沈黙する――すぐさま再起動し、立ち上がってスバルに向かって怒鳴りつける。

「ちょっと待て!!何だそのここら辺って言うのは!?」
「……オムライス大盛に……トマトとチーズのサラダに…ピッツァマルゲリータ、あとは…何コレ、あんかけスパゲティに味噌カツ?美味しいの?」
「聞いたこと無いから試してみたいと思って。ほら、シン君の奢りだし」

 聞いてない。まったくもって人の話を聞いてない。シンの財布事情など知ったことかとばかりに駆け抜ける。

「いや、聞けよ、人の話!!」
「じゃ、私もあんかけスパゲティ追加で。」

 それに便乗するティアナ。こっちも最悪です。

「アンタら、ちょっとは遠慮しろ!!」
「ま、まあまあ、シンも抑えて抑えて……そういえばフェイトさんは何するんですか?」
「……こ、これ頼んでもいいかな?」

 そう言ってフェイトが指し示すメニュー。
 そこには「特別メニュースペシャル。値段は応相談」と書いてある。

「……スペシャル?値段……応相談?なんだこれ?」
「す、凄い気になって……」

 怪訝な顔で呟くシンにフェイトが俯きながら呟く。少し図々しいとでも思ったのかもしれない。
 そんなフェイトの様子を見て、シンは被りをふってグラディスに顔を向ける。

「グラディス……これ、値段応相談って……どういうことだ?」
「ああ、これは少し特殊でね。要するにランチセット“みたいな”ものだ。試してみるかね?君ならば……ふむ、そうだな、Sくらいだろう。ちなみに値段は……そうだな、カツカレーと同じくらいだ。」

 具体的な数字を言われ、もう一度メニューに目を通すシン。
 思考する。値段の計算。正確な計算ではなく、おおよその概算である。
 少し真剣な顔で暗算を繰り返すシン。その表情に押されたのか、フェイトが申し訳なさそうにし、シンに声をかけようとしてかけられないでいる。

「あ、え、えーと……」

 おどおどとするフェイト。そんな彼女を見て、シンは自身の財布の中身と相談する。黙考。そして溜め息一つ。
 息を吐きながら、フェイトに向かって力無く呟いた。

「……いいですよ。フェイトさんも好きに頼んじゃってください。」

 シンの言葉を聞いて、フェイトの目が再び輝き出す。

「じゃ、じゃあ、それで!!」

 シンはその言葉を聞いてグラディスの瞳の奥がにわかに光った――ような気がした。
 すうっと息を吐き、グラディスが見た目に似合わない大声で叫んだ。

「ニシカワ君、オーダーだ!!カツカレー大盛のラーメンセット、オムライス一つ、カレーライス一つ、オムライスの大盛一つ、トマトとチーズのサラダ一つ、ピッツァマルゲリータ一つ、あんかけスパゲティ二つに味噌カツ、そしてスペシャルSだ!!」
「了解しました、店長!!」

 そんなグラディスと厨房にいるであろう料理人の応対に何か懐かしいものを感じるシン。

(……どこかで聞いたことあるような。)

 そうやって一瞬浮かんだ疑念は傍らのギンガやフェスラ、フェイト、そしてティアナやスバルとの対話の中で泡沫の如く浮かんでは消えていく。
 懐かしい。その言葉の意味を反芻することなく。


「ふう、食べた。食べた。」
 
 フェスラの声が響く。時刻は既に3時を過ぎている。都合、4時間近くも昼食に費やした計算になる。

「……在り得ない。」

 ぼそり、とギンガが呟く。テーブルの上にうず高く積み上げられた巨大な皿。その数は20。
 つい数時間前まではその全ての皿に料理が乗っていた光景を憶えている一行はその変化に恐れすら抱いて、呆けていた。


 まず、初めに誰もが言葉を失った。
 フェイトとフェスラを抜いた全員の前にメニューが行き渡り、届くのを待っていた時、フェイトの横にグラディスが料理を持って現れた。
 正確には持って来た料理の威容に言葉を失ったのだ。
 先ほどフェイトとフェスラが頼んだ“スペシャル”。それは名前の通りに特別なメニューである。
 その料理の内容が、ではない。料理の量が、である。

 要するに大食い用のメニューである。俗に言うデカ盛と言う類の料理だ。
 フェスラがこの店を隠れた名店と言ったのは、大食い好きの人間たちにとってと言う意味である。
 そんなものがクラナガンの観光ガイドに乗るはずが無い。
 
 フェイトが頼んだ“S”とはショートと言う意味である。つまりは“短い”。
 運ばれてきた料理は、故に3つ。
 カツカレー特盛、チャーシュー麺特盛、ハンバーグ特大。そして健康に気を使ってハンバーグに付け加えられる特盛のキャベツである。

 一杯一杯のドンブリの大きさはミッドチルダに最近増え出した牛丼チェーン店の特盛の凡そ3倍ほど。
 肉汁溢れるトンカツ。
 格調高い香りが食欲をそそるカレー。
 澄み切った琥珀色のスープの熱で温められとろけそうなチャーシューとシナチクと葱、そして縮れた麺。実に基本的な構成でありながらその見た目が醸し出す旨さは食べる前から既に上物を予感させるチャーシュー麺。
 そして、内から肉汁を溢れさせながらもしっかりと引き締まったハンバーグ。その上にかかる褐色のデミグラスソースの複雑で芳醇な香りが恍惚を引き出す。目算でその大きさは、長径で約50cm、短径で約30cmの楕円形。付け合せに添えられたキャベツ――うず高い山のような――が圧巻であった。

 見た瞬間、皆の顔が引き攣った。そして視線が一斉にフェイトに集中した。
 
 フェイトは呆然と目の前に運ばれてきた料理――恐らくは彼女の人生で初めて目にしたであろうデカ盛された料理の群れを。
 その瞳に浮かぶ輝きは恐怖――さもありなん。それは食と言う世界に舞い降りた怪獣である。

「ああ、言い忘れていたが時間制限は無し。とにかく食べ切れば問題は無いよ。皆で分け合って食べなさい。」

 その言葉に涙さえ浮かべ、うんうんと頷くフェイト。その光景を見て唇を引くつかせる一同。
 これを食するのに協力する――全員で食べたとしても、とんでもない量になるだろう。考えるだけで目眩がしてきそうだと、一同は想った。
 無論これを一人で食べるなど――考えるまでも無くフェイトには無理だ。
 と言うかこの場にいる全員が無理だ。スバルですら顔を引きつかせているのだ。
 誰もが思った。ここは魔窟だと。
 だが、次に運ばれてきた料理。それが今度こそ一同の度肝を抜いた。

「では、こちらがフェスラ君が頼んだスペシャル一式の“開始料理”だ。」
 
 ずどんと置かれたカレー。巨大な皿に小高い丘のようにして盛られたカレーライス。

「全20品の特盛の嵐、その名を“スペシャル一式”――はたして君に食べきれるかな?」

 不敵に、グラディスが宣言し、フェスラに指を付きつける。その宣言に挑むようにフェスラが不敵に微笑んだ。呟く。

「……愚問ね。既にフルコースは制覇しているのよ?あの時は用事があって食べ切れなかっただけ。――あまり、私を甘く見ないことね?」

 そんな二人の様子を見て、一同は声を上げることすら出来なかった。
 スペシャル一式。定食屋赤福の名物料理にして未だ誰も完食出来ていないデカ盛の満漢全席とも言うべきフルコースである。
 特盛カレー。特盛シチュー。特盛カツ丼。特盛チャーシュー麺。特盛ビーフシチュー。特盛ミートスパゲッティ。
 特盛シーザーサラダ。特盛カキフライ。特盛天丼。特盛鍋焼きうどん。特盛ざるそば。特盛ハンバーグ。特盛パエリア。
 特盛温野菜盛り合わせ。特盛オムライス。特盛サンマの塩焼き。特盛豚肉の生姜焼き。特盛ミックスサンドイッチ。
 特盛ミックスピッツァ。バケツプリン。

「食べるわよ、店長。料理の準備は出来てるの?」
「無論、完遂だ。」
 
 フェスラの料理が先に注文されたのはこの為だ。
 大食い料理を出す以上、そこに停滞があってはならない。それが大食い料理を出す店の誇りであるが故に。
 フェスラがスプーンを手に取り、カレーライスにつけ、口に運ぶ。その動きは淀み無く、ペースを崩すことなく進み往く。
 皆が彼女に合わせるようにして、料理に口をつけ始める。そして漏れる感嘆の溜め息。
 実に旨い。正直、これなら毎日通ってもいいくらいだ――その場にいる誰もがそう思うほどに。
 フェイトは恐る恐ると言った感じでまずはカレーに口をつけた。美味しい。加速するスプーン。減らないカレー。

「……」

 溜め息が漏れる。とりあえず美味しく食べようと思った。皆が助けてくれるはずだ、と。と言うかそうでなければ無理である。
 フェスラの方を見る。

「今日のカレーは……んぐ、前と味が違うわね……スパイス変えたの?」
「分かるかね?ガラムマサラの配合を少し変えてみたんだがね。悪く無いだろう?」

 カツカツとスプーンを皿に運び、淀みなく食べ続けていた。顔色一つ変わっていない。
 既にその半分は消えていた。

(はやっ!!!?)

 目が飛び出すような衝撃を受けた。自分は未だに3分の1も終わっていないと言うのに、フェスラは既に半分を食べ終えているのだ。
 あの細身の身体のどこにそれが収納されていくのか。人体とはかくも不思議なものである。
 そうこうする内にフェスラが食べ終える。次々に運ばれる皿。その全てが巨大である。
 フェイトの前に運ばれた料理に手をつけ出すスバルとシン。自分たちの料理を食べ終えたようだ。
 フェスラの元に運ばれていく数々の料理。それを見ながらフェイトは思った。

(……超人っているんだなあ。)


 そうして、今に至る。
 死屍累々。
 その場にいる誰もが、もはや動けずにいた。
 皆で取り掛かれば食べ終えれると思っていた、フェイトのスペシャルS。だが、その巨大さは予想外に凄まじかった。
 食べ終えたことは食べ終えている。
 だが、皆がテーブルに突っ伏し、もしくは椅子に寄りかかり天を仰ぐ姿からは食べ終えた歓喜は無い。
 あるのは凄まじいまでの疲労と苦しみ。満腹の苦しさである。
 シンは椅子に寄りかかって虚ろな瞳で天井を見ていた。
 フェイトはテーブルに突っ伏して瞑目している。
 スバルはちらちらとフェスラを眺めながら、頭を抱えて椅子に寄りかかっている。
 ティアナはテーブルに突っ伏したまま身動き一つしない。
 その中でフェスラは最後のバケツプリンを食べ終えていた。
 実に4時間以上を食べ続けた。正にその姿はフードファイターである。

「……まさか、食べ切るとはね。」

 呆れた表情でグラディスはフェスラを眺める。そんなグラディスを見ながらフェスラは再びメニューに手をつけ、中を眺め、口を開いた。

「あ、口直しに五目ラーメンもらえる?」
(まだ、食べるのか!!)

 シン・アスカの内なる叫び。多分、誰もが思ったことだった。

「……ああ。構わないが。」

 流石のグラディスもその言葉は予想していなかったのか、少しだけ声が震えていた。

「……い、いつも……そんなに……食べてるの?」

 途切れ途切れにギンガがフェスラに問いかける。
 彼女の顔にも倦怠感がありありと浮かんでいる。
 律儀な彼女は出された料理を残すことが嫌だったので、フェイトのスペシャルSの完食に協力したのだ。
 おかげで彼女も身動き出来ない状態だが。

「うん?まあ、大体こんなくらいはね。」

 ふう、と息を吐いて、水を飲む。口直しの五目ラーメンを待っているのか、視線は厨房に固定されている。

「……何でそんなにスタイルいいのよ。」

 ティアナの呟き。誰もがそう思った。


 そして、彼らはそこで午後を過ごすことになった――と言うよりも身動き出来なかった彼らを見て、グラディスが提案した。ここで休んでいってはどうかと。
 よくあること、とグラディスは言った。当然だろう、とシンは思った。
 あれだけの料理を食べて、その後、普通に行動できたらそれはもはや化け物の領域だ――目前にその化け物がいるのだが。
 結局食べすぎて動けなくなったシン達以外その日客は来なかった。
 元々、それほど客の来る店では無いらしい。
 
 一人、また一人、と眠りに落ちていく。
 別に一服盛られたとかではない。単純に身体の求める欲求だ。皆、食事と言う名の戦いに疲れていたのだ。
 ただ一人、疲れなど何処吹く風だったフェスラもいつの間にか寝入っていた。
 その光景を見ながら、カウンターに座り、自分で入れたコーヒーに口をつけるグラディス。
 厨房の奥にいたオレンジの髪をし、眼鏡をかけた料理人がカウンターに近づいてくる。
 その手にはグラディスと同じくコーヒーがあった。自分で入れたのだろう。

「……まさか、この世界でまたコイツに会う事になるとは思いませんでしたよ。」

 苦笑しながら話すオレンジ色の髪の男。

「……私もさ。」

 呟き、コーヒーを口に含む。

「コイツを見てると、実感が沸いてきますよ。あれから2年経ったんだなって。」

 目を細め、懐かしむようにオレンジ色の髪の男は話す。

「……そうだな。もう2年経ってしまった。残り時間は……少ないということだ。」
「議長……」

 オレンジの髪の男がグラディスに向けて呟いた。
 グラディスはその言葉に返答を返さずにコーヒーに口をつけ、カウンターに置く。視線をオレンジ色の髪の男に向ける。

「ハイネ、例のモノはどうなっている?」

 ハイネと呼ばれたオレンジ色の髪の男の顔が引き締まる。柔和な一般人ではなく、決然とした騎士の表情へと。
 懐からシンのデスティニーに似たバッジを取り出し、A4型の映像を空間に映し出す。
 ちなみにこの映像は特殊な魔法処理がしてあり、使用者の認証を受けたものしか視覚認識できないように加工されている。
 つまり、この場ではグラディス以外には何も見えないと言うことだ。同じく此処での声もシン達の側に届く事は無い。
 彼とハイネがいるカウンターに張られた結界によって音声のみがそちらには届かないようにされているからだ。
 そこに現れるのは3種の武器の映像。鞭。剣。銃。
 強度。重量。使用方法。用途。その他様々な各種データが詳細に記されている。

「聖王協会技術開発部によると後は細かい調整を残すのみと言うことです。」
「……予定には間に合うと言うことだね?」
「問題なく。」

 その返答にグラディスは満足したように再びコーヒーに口をつける。そして、一拍の間を置いて呟いた。

「……“彼ら”の計画はどうなっている?」

 画面が切り替わる。現れたのはミッドチルダ全域の地図。ところどころに赤い線で×印がつけられている。

「この地図をご覧ください。」
「……既にかなりの数になったな。」

 地図を見ながら、ミッドチルダ全域に点在する赤い×印を指でなぞっていく。

「以前予想した数量を全てと考えれば、現状70%を超えたと言うところです。」
「ふむ……ならば、そろそろ動き出すな。」
「その可能性は高いかと。」

 その言葉を聞いて、カウンターを中指でトントンと叩きながらグラディスが思案する。

「……ハイネ、君は引き続き情報を収集してくれ。」
「議長はどうされるおつもりで?」
「種まきをやろうかと思ってね……と、どうやら、ここまでのようだ。」

 そう言ってグラディスがシン達を見る。静寂を引き裂く音。音は徐々に大きくなり、皆の目を覚まそうとする。
 それは通信音。誰かがデバイスに通信しているのだ。
 フェイトが自分の服のポケットに入っていたバルディッシュを取り出し、操作する。通信開始。
 空間に映し出される映像――そこには6課部隊長八神はやての顔があった。
 心なしかその顔は赤くなり、額には青筋が立っている。
 フェイトの背筋に悪寒が走る。ギンガの背筋にも。その悪寒が何を意味するのか、起きたばかりの彼女達には分からないだろうが。

「二人とも、どこほっつき歩いとるんや!!!!」
「あ。」
「え。」

 彼女達はその一言でようやく思い出す。自分たちが仕事をさぼって――と言うか別の人間に押し付けてここに来たと言うことを。

「……何から何までスイマセン。」
「……本当に申し訳在りません。」

 申し訳なさそうに謝るギンガ。同じくフェイトも頭を下げる。
 あの後、はやてに事の次第がバレたギンガとフェイトはみっちりと数十分間怒り狂う彼女の説教を受けながら、うな垂れていた。
 どうやら仕事しているシグナムを見て不審に思ったシャマルが聞き出したらしい。
 当のシグナムは涙目になりながらも、「……ローマ字打ちじゃなければ私だって……!!」と言いつつ仕事を止めなかったとか。
 今、彼女達がいる場所の前には車があった。
 見ただけで高級車と分かる黒塗りのロングボディ。後部座席と前部を区切る部分が存在する、いわゆるハイヤーである。
 はやての説教でうな垂れ、急いで戻らなければならないことになった彼女達を見て、グラディスが車を出してくれたのだ。
 流石にそこまで世話になる訳にはいかないと言う一同にグラディスは「なに、また来てくれるなら構わないさ。サービス料だと思ってくれればいい。」、そう言って強引に彼らを説き伏せていった。
 無論、渡りに船なのは間違いない。一同――特にフェイトとギンガが――は申し訳なさそうにしていたものの、じきに承諾していた。

「ニシカワ君、この住所は分かるかね?」

 グラディスはそう言ってニシカワと呼ばれたオレンジ色の髪の男――先ほどまで厨房にいたハイネと呼ばれていた料理人である――に地図を手渡す。

「ああ、ここなら大丈夫です。分かります。」

 乗るのは機動6課のメンバーであるシン、ギンガ、フェイト、スバル、ティアナ。フェスラはここで別れると言う。方向が違うらしい。
 続々と乗り込んでいく一同。シン以外全員が乗り込み、彼も乗ろうとした瞬間、グラディスが彼に声をかけた。

「シン、いいかね?」
「え?」

 振り向くシン。グラディスはそのシンに顔を近づけ、小さな声で呟いた。

「エクストリームブラストを使いこなせるようになりたいなら、まずは肉体改造から始めたまえ。内功を鍛え、強靭な肉体があってこそ、アレは生きる。君の身体は手に入れた力に比べて未だ脆弱だ。」
 
 シンの表情が一拍を置いて切り替わる。一瞬、グラディスが何を言っているのか、理解出来なかったからだ。
 エクストリームブラスト。完全に秘匿された情報。六課内においても未だ誰も知らないはずの魔法。

「……何で、それを知ってるんだ。」

 険しい視線を向ける。警戒するシン。今にも掴みかかりそうな雰囲気がそんなシンをグラディスは口元を歪ませ笑うだけで答えない。

「アンタ、一体……」

 その言葉にグラディスは答えることなく、足を踏み出す。懐に一歩。右手がシンの腹部に触れる。軽く力を込めた。流れるような動作。

「っ――!?」

 その動きにまるでついていけず、シンの身体が吸い込まれるようにして後部座席に入り込む。
 意識の間隙を突く様な動き。シンの背筋を怖気が通り抜けた。それは自分がまるで反応出来なかったことに対して、だ。

「君はまだ気にしなくて良い。大切なのは折角手に入れた力を生かすことだ。違うかね?」

 シンは答えない。警戒を解かない。解けずにいる。そんなシンを見てグラディスは微笑みを絶やすことなく呟いた。

「……では、また会おうシン。君には期待しているよ。」

 走り出す車。シンの瞳に写る警戒と疑念。それが確信として彼の心に突き刺さる。
 何かが動いているのだと言う、ただそれだけの確信が。


「……」

 車内。ティアナは手の中に隠し持った折り畳まれた一枚の紙を眺めていた。
 それは先ほどシンを車の中に押し込んだグラディスの服から落ちてきたものである。
 直ぐに拾って返そうとしたが、平って中を見た瞬間、思わず隠してしまった。
 そこに書かれていた言葉。「聖王教会治安維持部第19次中間報告書」と。その言葉の上には「極秘」という判子が押されていた。
 折り畳まれたそれを思わず開く。
 期待していたように複数の紙を折り畳んでいたのではなく、その一枚の紙――表紙を折り畳んでいただけだった。落胆と同時に不安が湧いてくる。
 聞いた事のない名前。聞いた事もない部署。
 冗談で済ませれば良い。けれど、冗談では済ませられない。そんな嫌な予感がする。
 表紙に書かれている目次。そこに記されたある名前。それが自分の記憶を刺激したから。

 “ティーダ・ランスター”。
 
 忘れない。忘れられない名前。彼女にとっての開始地点(スタートライン)。
 何か、何かが動いていると言う予感――否、確信があった。それがどんな確信なのか。それはまるで分からないけれど。
 彼女は必ずもう一度赤福に行くことを決める。
 何が始まっているのか。何が進行しているのか。それを確かめる為に。


 夜の闇。帳が降りる。ここは魔が集う夜の闇。世界を牛耳る女傑の集いし闇の底。

『それで、どうなったのかしら?』

 聞こえてくるのは声。気品のある女性の声。
 それに答えるもう一人の女性。夜の闇の中で顔は見えない。
 分かるものと言えば、風に揺れる金色の髪の輝きと闇の中で爛々と輝く血のように紅い瞳。月光の金。血色の紅。

「別に……予定通りの結果よ。」

 さして面白くもなさそうにその女性は呟いた。口調は普通。どこにでもいる年頃の女性のソレである。

『つまり、シン・アスカは貴方に興味を抱いた?』

 女性の内心を探る気品のある女性の言葉。その言葉に少し顔をしかめながら女性は返答を返す。

「当然よ。アレはあの子の贖罪そのもののような存在なのでしょう?」
『ええ、デュランダルの提示した情報によるとそれは間違いないわ。』

 気品のある女性の言葉に確信が混ざりこむ。

「そんな人間が自分の前に現れる――本当に最高の悪夢ね。」

 気の毒そうに女性は誰に言うでも無く呟く。
 それは誰かに向けた言葉ではなく、ただ口に出したと言うだけのものだろう。
 彼女には似つかわしくも無い哀れみが滲み出ただけに過ぎない。

『あら、躊躇うの?あなたらしくもない。』

 驚く気品ある女性。彼女が知るその女性にはそんな躊躇いなどまるで無いと思っていたからだ。
 だが、女性はその問いを聞くと、一笑に付して、返答した。

「私は私の為になるようにやっているだけ。躊躇う訳なんて無いでしょう?」
『なら、いいのだけど……あなたはすぐに“影響”を受けてしまう性質だから。』

 “影響”。その言葉を聞いて再び顔をしかめる女性。その血色の紅が細まり険悪な輝きを抱き始める。

「貴女、私を誰だと思っているの?あなたの要望通りにシン・アスカを叩き落してあげるからもう少しそこで待っていなさい。」

 剣呑な感情を隠すことも無くその女性は呟いた。

『では、期待しているわ、貴女のその手腕に……あまり“引っ張られ”過ぎ無いことね。』
「聞いておくわ、ご主人様。」

 皮肉を込めてそう呟き、女性は念話を切った。後に残るのは闇。静謐で奥深い闇だけだった。



[18692] 25.乙女の資質は親譲り
Name: spam◆93e659da ID:17f428f0
Date: 2010/05/17 00:08
 それはある日の話。
 シンがエクストリームブラストを発動させ、ギンガとフェイトが仕事さぼるという暴挙に出た数日後の話である。

□ 
 曰く――急所に一撃を当てることが出来るなら、力も技も耐久力も関係ない。つまりは一撃必倒。相手の意識を一瞬で奪い取る一撃は、強力な力に勝ると言う。

 その様子を真剣な面持ちで聞き続けるシン。
 何かと言うとギンガがシンに説明しているのだ。彼女の使うシューティングアーツについて。
 場所はいつもの訓練場……ではなく、そこから少し離れた会議室である。
 時刻は既に8時を回っている。この時間帯であれば、いつもならどうしてそんな話になったかと言えば、いつもの如くの訓練をしている最中にシンがふとたずねたのだ。
 シューティングアーツの話を聞かせてくれないかと。
 
 ギンガにしてみればその質問は意味の分からないものだった。
 シンの訓練相手として最も数多く相手をしたのは他でもないシューティングアーツの使い手であるギンガである。
 誰あろうシンこそがシューティングアーツについて最も身体で理解していると言っていい。その彼がどうして教えてくれと思うのか。
 そう尋ねるとシンはこう答えた。

「もっと強くなれると思って。」

 見も蓋も無いド直球。もうちょっと何か無いのかと思いつつギンガは苦笑しつつ話し出した。冒頭の一文はそれを極端に要約したモノである。
 つまり、シューティングアーツとはそういった武術。一撃で相手を沈める魔法なのだと。

「……ということです。分かりましたか、シン?」
「えーと、ですね。いくつか疑問が。」
「はい。」
「それだと遠距離からの攻撃に無防備になりませんか? あとバリアジャケットがある以上は一撃必殺って言うのは難しいと思うんですが。」
「……必殺じゃなくて必倒です……まあ、その通りです。現在の魔導師の基本防御であるバリアジャケット。 これがある限り、“一撃”で敵を倒すと言うことは無理でしょうね。 バリアジャケットを破壊する一撃と決め手となる一撃。 最低でもこの二撃が必要となります。 また、砲撃・射撃魔法というものが存在する以上、接近して一撃を与えると言うスタイルはその時点で必要となるアクションが増えます。 仮に相手が射撃・砲撃型であれば、近接型は接近すると言う行動が必要ですから。」

 その通りだとシンは頷く。首肯するシンを見て、ギンガは更に続ける。

「この問題を埋めるべく作られた技。それが、」
「シューティングアーツ、ですか?」

 ギンガの言葉を遮ってシンが口を開いた。ギンガが頷く。

「そうです。先に言った一撃で倒すと言う理論ですが、これは別に特別なことじゃありません。シンなら分かるでしょう?」
「まあ、隙、見つけて一撃当てれば大抵はそれで終わりますね。」

 シンが最も慣れ親しんだ戦闘――白兵戦やMS戦闘、そのどちらも一撃を当てればそれで終わりというものだった。
 銃で撃てば基本的に人は死ぬ。
 同じようにビームライフルを当てれば大抵の装甲は役に立たない。
 一撃必殺と言う言葉がこれほど似合う戦いは他に――少なくともシンが知る限り存在しない。
 
「バリアジャケットが無ければ、その傾向はより顕著になります。 人間の肉体と言うのは機械のそれに比べて非常に脆弱ですから。私達はバリアジャケットがあるから耐えられているだけで、もし、バリアジャケットが無ければどんな低級魔法の一撃だろうと私達の意識は簡単に奪われます。」

 理想論ですがね、とギンガは付け加えた。

「例えばスバルのディバインバスターに、私のリボルビングステーク。これはどちらもバリアジャケットを破壊もしくは無効化して一撃を与えると言う技です。私の場合はバリアジャケットごと、スバルの場合は一度バリアジャケットを破壊して、その上で最大の一撃を叩き込む。」

 ディバインバスター。リボルビングステーク。
 シンは奇しくもどちらの技もその身で経験している。
 スバルからはあの模擬戦の後に。
 ギンガからは模擬戦の際に。
 喰らった上で言えること。アレらはバリアジャケットの有無など問題にはしない一撃と言うことだった。
 あれはそういった類の技だ。当たることがそのまま必倒に繋がる文字通り一撃必倒。
 どちらかと言う必殺の方が似合っている気さえするが。

(……ああいう技があれば、白兵戦とかと基本的には同じなんだよな。)

 心中で呟き、納得し……首を傾げた。
 シューティングアーツ。つまり、「急所に一撃を当てることが出来るなら、力も技も耐久力も関係ない。相手の意識を一瞬で奪い取る一撃は、強力な力に勝る」と大言壮語するその定義に反していのるではないか、と。
 眉根を寄せて怪訝な表情を浮かべるシンにギンガが慌てるなとばかりに再び口を開いた。

「本題はここからです。今、シンが思っている通り、これではシューティングアーツの定義に反している。 そう言いたいのでしょう? 結局威力が全てを決めるのだと。」

 頷くシンを見てギンガは続ける。

「そういった技を使用しないでも、同じことは出来る、というのが母の持論でした。」
 
 ――シューティングアーツとはただ“当てる”為の術。攻撃を確実に当てる。ただそれだけに特化した武術。
 先読み、ローラーブーツ、ウイングロードなどの他の魔法と一線を画す技術の全ては最終的にそれに繋がっていく。
 巨大な武装も、膨大な魔力も、視認出来ない高速も必要無い。ただ、当てる。防御も攻撃も全てを貫いて。
 そこまで言って、シンはギンガに尋ねた。

「……そんなこと出来るんですか?」

 シンの疑問も最もだ。
 要するに先手必勝。攻撃を当てて意識を刈り取ればそれでいい。そこに強大な威力も射程も速度も必要は無い。そう言っているのだ。
 けれどバリアジャケットの問題を解決するには一度バリアジャケットを破壊するか、もしくはバリアジャケットごと相手に攻撃を加えるほどの強大な威力の一撃が必要となる。
 また、それほどの威力の攻撃を当てようと言うならば速度や射程はあればあるほど、命中率は高くなる。
 逆に言えば近接攻撃しか出来ない彼女達の戦法では砲撃型に対しては為す術が無いと言う現実がある。
 彼女の言っていることは理想ですらない。夢物語だ。

「どうでしょうね。私もまだそれを実感したことはありませんけど……母さんが言うには、“当てる”んじゃなく“当たる”、らしいです。」

 答えるギンガも要領を得ない返答。自分でも理解出来ていないのかもしれない。自分で言っている言葉の意味が。

「当たる?」
「子供の時ですから、正確には覚えていませんが、そういうことらしいです。」

 そう言って、彼女は机の上のメモ用紙に絵を描き始めた。
 人のシンボルを覆う○。お世辞にも上手いとはいえない。

「……えーと、これ人間ですか?」
「え、ええ。」

 赤面するギンガ。少し恥ずかしいらしい。
 苦笑するシン。ギンガはそんなシンに向かって、コホンと息を吐くと気を取り直して続ける。

「この絵のようにバリアジャケットって言うのは全方位に対して等しい防御力を保っているモノではなく、どちらかと言う傘に近いんです。傘を広げた方向が最も防御力が強くなる――つまり自分の認識方向に対して強くなる。」
「……確かにそうですね。」

 考えてみれば当然のことだ。デバイスが制御しているとは言えバリアジャケットというのは魔法であり、魔法である以上は術者の意識が起点にある。
 ならば術者が一番集中している方向に対して強くなるのは当然のことである。 呟き黙り込んだシンを見てギンガが話を続ける。

「逆に言えば、認識外の方向に対してバリアジャケットは確実に弱くなります。集中している方向から離れれば離れるほど。そして、ここ。」

 相手が攻撃してる場所――絵の中に矢印で示している――の正反対の場所を指で指し示す。

「……防御に集中している場所の反対側……要するに死角からの攻撃ってことですか。」
「その通りです。仮にこういった状況でこの死角に攻撃を当てることが“出来れば”、バリアジャケットは全く用を為しません。殆ど素肌に近い防御力しかありませんから。」

 こういった状況――つまり一方に集中している状態のことである。
 その状態で、全くの逆方向から予想外の一撃を当てることが出来れば、バリアジャケットは単なる服に成り下がる、と言っている。
 だが、それは理想の技ですらない。妄想のようなものだ。シンがその心中を言葉に出して返す。

「いや、それ無理でしょう。2対1とかならまだしも1対1で出来る訳が無い。」

 そのシンの言葉を受けて、ギンガは苦笑しながら、話を続ける。

「そうです。無理ですね、普通は。」
「普通は?」

 ギンガが今話したこと。それは自分が戦っている最中に自分の分身を作り出して後方から奇襲でもさせない限りは決して出来はしない。
 無理とか無駄とかではなく物理的に不可能なのだ。先ほどシンが思った通り、妄想や空想の類に近い。

「けど、これ出来た人いるんですよ。」
「……は?」
「私の母がこれをやっていたんですよ。一度だけ、私とスバルの前で。スバルは覚えていないかもしれませんが……」
「ど、どうやってたんですか?」
「……不思議な光景でしたよ。相手のバリアジャケットの隙間に母さんの拳が吸い込まれるようにして入り込んでいく。……殴るって言う感じじゃないんです。こう、あるべき場所に収まっていくような……」

 その光景を思い返すギンガ。

 ――その光景を一言で表すならばよく出来た殺陣と言うものだった。
 相手にしてみれば何が起きたのかなど理解出来はしないだろう。
 理解する間など与えず――と言うよりも、視認することも出来なかっただろう。
 その一撃は全て死角からの一撃だったのだから。
 
 それは訓練だった。
 相手は生粋の魔導師が十五人。無論デバイスを装備した中距離型ばかり。
 対して母は一人。得物と言えば足元のローラーブーツのみ。
 一対十五と言う戦力差で言えば絶望的と言うにも生温いほどの差である。
 正直、ギンガはこんなものが訓練になるのかと子供心に呆れていた。勝負になどなるはずがない、と。
 
 だが、現実は違った。
 母の撃ち出す拳は全て相手の背後や側面などの死角に吸い込まれ、息を切らすこともなく、一人また一人と相手を昏倒させていく。
 狙いは全て急所。頚椎・鳩尾・脇腹・心臓・延髄・米神。
 
 拳は狙いを違えることなく吸い込まれていく。
 まるで御伽噺に出てくる魔法だと思った。
 相手が撃つ魔法は全て当たらない。
 それこそ磁石の同じ極が反発し合うようにして、ごくごく自然に離れていく。
 逆に母の拳は違う極が引き合うように当たっていく。
 
 相手の攻撃は全て“外れる”。
 母の攻撃は全て“当たる”。
 
 拳が唸る。足元のローラーブーツが喚いた。回転する身体。滑り込む拳。
 舞うように踊るように敵陣を切り裂くように駆け抜ける。
 
 十数分の後、その場に立っていたのは母のみだった。
 息が切れていた。息が切れていないように見えたのは戦っていたから我慢していただけで実際、母にとってもその訓練はかなりの難度だったらしい。

「……これが、シューティングアーツ、よ、ギンガ、スバル。」

 疲れ、汗に塗れ、それでも笑う母。腰を落とした。

「……やっぱりこの人数は辛いわね。」

 晴れ晴れした笑顔で母はこちらに笑いかける。
 その時の笑顔は今も彼女の記憶に焼き付いている。
 母はリボルバーナックルを使わずに、魔導師十五人を倒した。デバイスを用いることなくバリアジャケットを使用した魔導師を倒したのだ。
 鮮烈な光景だった。それこそ記憶に残るほどに。

「……映像だけは残ってるんですが、見れば見るほど訳が分からなくなります。……正直どうやってあんなことが出来るのか、理解出来ないような技術ですよ。」

 参ったと言わんばかりにギンガが苦笑する。

「理解出来ない?」
「……たとえば、デスティニー無しで私に勝てますか?」

 ギンガの言葉を聞いて少し考える。
 デスティニー無しでギンガに勝つ。
 シンが現状デバイス無しで使える魔法。飛行。パルマフィオキーナ。この二つのみ。
 後は徒手空拳の格闘……平たく言えば殴り合いだ。

「無理ですね。」

 見得も外聞も無くシンは言った。
 不可能だからだ。
 殴り合いで言えばギンガの方が強いだろう。
 飛行出来ると言う点で地の利は自分のものかもしれない。
 だが、ウイングロードはそんな一切合切を台無しにする。
 仮に超近距離でパルマフィオキーナを最大威力で放つことが出来たとしても避けられるか、捌かれるかリボルビングステークで散らされて終わりだ。
 冷静に自身のスペックとギンガのスペック。双方を考えれば結果がそうなるのは自明の理である。

「生身の俺じゃギンガさんどころか、誰にも勝てません。」

 不貞腐れるでもなく淡々と事実を告げるシン。

「そうですね。今のシンの強さはデバイスに依存したモノですから。デバイス無しで私に勝つことは無理でしょうね。」

 ギンガもまた淡々と呟く。別に今更シンに気を使うようなこともない。

「けど、母はそれが出来たんだと思います。デバイス……というよりは魔法ですね。そういった攻撃手段無しで魔導師を制圧することが。」
「……。」
「ここからは私の勝手な推測なんですが……多分、母にはこれから誰がどう動いて何をしようとしているのか、全て見えていたんじゃないかと思ってます。戦闘の流れを支配するとでも言うんでしょうか……私が使うような先読みよりも遥かに高度な、本当にどうやってそんなことが出来るのか理解できない技術です。」

 言葉も無い。シンには想像も出来ない技術だった。
 そして、同時に彼は思った。自分には縁の無いモノだな、と。
 強く。ただ強く。敵よりも強く。味方よりも強く。誰よりも何よりも強く。そんな物騒な願いを持った人間が力の誘惑から逃れられる訳も無い。
 求めるモノは力。誰よりも強い力。
 力だけでは救えない。けれど力があれば守れる。
 そんな歪んだ欲望の結晶ともいえる魔法が先日、デスティニーから発動した高速活動魔法エクストリームブラストである。
 
 今日、シンはエクストリームブラストを問題なく使用するヒントが無いかと考えてギンガにシューティングアーツについて聞いたのだった。
 肉体に干渉し、反射速度を向上させ、フィオキーナによる高速移動により無理矢理、加速した体感時間と肉体の運動を摺り合わせ同一化させる魔法。
 フェイト・T・ハラオウン並みの速度を防御力の低下を起こさずに行うソレの効果は絶大なものがあり、以前のトーレ戦を見れば分かる通りエクストリームブラストを使用した状態のシン・アスカの戦闘力はフェイト・T・ハラオウンと同等もしくはそれ以上――つまり現役のSランク魔導師と同等以上ということになる。

 Sランク魔導師とは例えるならモビルスーツのようなものだ。
 装甲や重量、速度と言った部分ではない。純粋な火力などの攻撃能力のみを見た時、Sランク魔導師とはモビルスーツと同等と言っても良い。
 つまり一騎当千。一般人から見れば化け物と思われても差し支えの無いほどの規格外の存在である。
 
 シン・アスカの基本戦闘能力はB~AA程の強さである。
 それがエクストリームブラストという魔法を使っただけでSランク――それもS+もしくはSSほどの――強さを手に入れるのだ。絶大な効果と言わずに何と言おう。
 
 だが、その絶大な効果に比して、その代償もまた大きい。
 心臓や筋肉、血管、その他全ての内臓や骨格など自身の肉体に凄まじい負荷がかかるのだ。
 比喩ではなく心臓は破裂しそうなほどに高速で鼓動を繰り返し、全身に血液を送り込む。
 常の数倍から十数倍の速度で全身を駆け巡る血液は血管を引き裂かんばかりにせめぎ立てていく。
 膨れ上がった血管は腕や足などの肉体の末端部分を膨れ上がらせ、それを待機状態のフィオキーナが全身から押さえつける。
 押さえつけることによって破裂しそうな血管は無理矢理収縮し辛うじてその機能を維持できる。
 もちろん、重力制御・慣性制御等の魔法を同時に併用することでその負荷は減少するだろう。
 だが、未だ魔法を覚えて間もないシンがそんなモノを使えるはずもない――シンはそもそも制御という類の魔法が苦手である。

 故に八神はやてはこの魔法を原則使用禁止とした。
 使う度に吐血し昏倒する魔法など余程切羽詰った状態以外では使ってもらう訳にはいかないからだ。部隊の体裁的にも、彼女の精神的にも。
 結果、シン・アスカの新たな武器は禁じられた。はやてが許可を出さない限りは使わないと言う誓約を。
 シンも、はやての意見に逆らうつもりは無いし、正直彼女の意見には同意している。
 アレは確かに危険な魔法だと誰よりも身を持って知っているのだから。
 ――無論、有事には躊躇い無く使うつもりではあった。命の危険があろうと無かろうと必要であれば使う。
 戦闘とはそういうものだ。
 
 ナンバーズと自らを呼んでいたあの女。
 あの女の戦闘能力は現在の6課の魔導師の誰よりも上だと。
 シグナムやヴィータ、フェイトであれば渡り合える。
 彼女達が手を組めばもしかしたら勝てるかもしれない――つまり、単体では決して勝てはしない。
 速度領域が違い過ぎる。

 あの速度に追い縋るにはどうしてもフェイトと同等の速度が必要になる。
 そしてあの高速と両立させているあの武装。
 大剣や爪、盾に変化するあの紅い羽根。
 あの速度を維持しながらあの防御力と攻撃力を持つ。
 そんな敵に勝とうと思えば無理をする必要が出てくる。
 
 つまり、エクストリームブラスト無しでは確実に負ける。
 もし、あのレベルの敵が同時に二人現れたならその時点で終わりだ。全員が八つ裂きにされて終わるだけだろう。
 だからこそシンはエクストリームブラストに使えるような技術が無いかを探していたのだ。
 
 発端は、グラディスの言葉だった。
 身体を鍛えろ。彼はそう言った。今のシンの肉体では耐えられない、と。
 だが、かと言ってエクストリームブラストに耐えられる肉体を手に入れるなどいつになるか分からない。
 人間の身体はそんな急激に強化されたりはしないのだから。
 その為にシンはシューティングアーツから何かしら使えるような技が無いかとも考え聞いたのだが――結果は少なくともシンにとって役に立つようなモノではないということだった。

 当然といえば当然だ。
 身体を鍛え強靭な肉体を手に入れる為にはやはり地道な肉体の鍛錬しかないのだから。

「シン?」

 ギンガがこちらを覗きこんでいた。
 一瞬、吐息が触れ合うほどに近づく二人。
 蒼い瞳と蒼い髪。瞳は透き通るように澄んでいて、彼を一つも疑ってなどいない――もしかしたら彼の内奥をすら見通しているのかもしれない――ように見える。

 ギンガは意識せず。シンだけがその吐息が触れ合う距離を意識する。
 
 彼女はこうやって時々驚くほど無防備に近づいてくることがある――彼は、それが苦手でいつも顔を背ける。
 女の視線は苦手だった。
 女の視線は苦い思い出ばかりを浮かび上がらせる。
 泣いている女とか苦しんでいる女とか死んでいく女とか。
 幸せそうに笑う女などどこになかった。本当に碌な思い出が思い浮かばない。
 
 埒の無い思考を切り捨て、視線を定める。顔を背けて目を逸らした方向には白い壁があった。
 その上を見ると時計がある。彼はその時計を見ている振りをしながら、視線を明後日の方向に向けて、呟いた。

「いや、ギンガさんのお母さんは凄いんだなあと、思って。」

 嘘八百もいいところだ。だが、ギンガはそれに異を唱えることもなく会話を続ける。

「ええ。凄い人でした。当代切っての魔導師殺し(カウンターマギウス)クイント・ナカジマ。」

 俯いて、右の拳に眼をやるギンガ。
 開いて、閉じて、開いて、閉じてを繰り返す――瞳に浮かぶ感情は……郷愁だろうか。
 忘れていく――けれど忘れたくない思い出。
 ギンガは過去に思いを馳せた。
 彼女の父――ゲンヤから聞いた母の話を。


 ギンガの母が使ったと言うその技術。シンにとってその力はこの世で最も縁遠い力と言っていい。
 一生かかったとしても彼には得ることの出来ない力だろう。

 ギンガの母――つまりクイント・ナカジマが幼い頃の彼女の前で使った技術。
 それは彼女の予想通りに戦闘経験による戦闘の構築と支配である。
 
 シューティングアーツ。
 ギンガやスバルのように近接に特化――というか固定――した魔導師が使う魔法――むしろ、“武術”である。

 射程距離というものが殆ど存在しない前線にいることしか出来ない非常に特殊なタイプである。
 非常に特殊――つまりそれを使う人間は殆ど存在していないことを意味する。
 考えてみれば分かるが魔法というモノはすべからく距離を取って“撃つ”ものである。
 実際、ほぼ全ての魔導師はそういった魔法を使う。
 近距離で戦う者も当然いるだろうが、それだけしか出来ないなどという魔導師は殆ど存在しない――いるとすればそれは単なる落ちこぼれだ。
 このシューティングアーツという武術は、そんな落ちこぼれが他の魔導師に打ち克つ為に編み出した武術である。
 落ちこぼれ――クイント・ナカジマが。

 普通の魔導師ならばこんな武術など考え付かないし考える必要も無い。
 真っ当な魔法が使えれば、そんな特殊な技術を構築する必要などどこにも無いからだ。
 だが、クイント・ナカジマは真っ当な魔法など一切使えなかった。いや、使えることは使えるのだが、魔法を撃つことが極端に苦手だったのだ。
 撃ち出すと言う行為。その瞬間に何度も何度も魔法はあらぬ方向に飛んで行った。
 時には暴発もした。おかげで彼女は何度も何度も挫折を繰り返した。スバルやギンガのような順風満帆な昇進など彼女には一度も無かった。
 
 出来ること言えば、格闘術くらいしかなかった。だから彼女は格闘術に全てを賭けた。
 全霊を賭して研鑽を重ね――そして、やっとの思いで昇進し前線を志望し、これからは自分の力を活かせると思っていた彼女は後方待機に回された。
 
 理由は一つ。射程距離が存在しない彼女は魔導師同士の戦闘では邪魔にしかならないからだった。
 彼女は再び挫折した。その拳に懸けた数年は単なる徒労に終わってしまった。
 才能が無いと言う自分の不運を嘆き、悲嘆に暮れた。生活は荒んでいく。行き場の無い怒りが彼女をどんどんと鬱屈させていった。
 
 そんな時、彼女のいた部署に配属されたのがギンガの父――つまりゲンヤだった。
 彼女は一目見て、彼が気に入らなかった。凛とした佇まい。それでいてどこか柔和で落ち着いた雰囲気。
 クイントよりも後輩で魔法を使えない人間。彼の中の何かが気に食わなかった。
 だから鬱屈した彼女にとって彼は格好の八つ当たりの材料となる――はずだった。
 クイントがゲンヤに突っかかっていった時、ゲンヤは冷めた眼で彼女を眺めながらこう言った。

「そんなにいじけて、面白いもんですかね。」

 鬱屈した行き場の無い怒りが、行き場を見つけて、弾け飛んだ。
 情けも容赦も一切無く彼女はゲンヤに向けて攻撃した。
 魔法を使えない一般人を――だが、次の瞬間、床に倒れていたのはゲンヤではなくクイントだった。
 彼女には何がどうなったのかなど理解できなかった。
 魔法を使って殴ろうとした瞬間、世界が反転し、気がつけば見慣れた天井が視線上に存在していた。
 意識が無くなる直前に自分を見下ろすゲンヤと眼があった。
 
 その時の構えから彼が自分を投げたのだと理解した――その時、彼女は意識をなくした。
 それから、彼女はゲンヤについて調べ出した。
 幾ら落ちこぼれの魔導師とは言え魔法を使えない人間が魔導師に勝つなど聞いたことが無かったからだ。
 煮え滾る怒りを抑えながら彼女はゲンヤについて聞きまわった。
 
 そして、ゲンヤの友人という人間と接触することに成功する――ここまで来ると殆ど探偵並の執念だった。

「ゲンヤ?ああ、アイツは元々武装隊志望だったんだけどね、魔法使えないからって試験するまでもなく落とされてさ、それで後方勤務を選んだはずだよ。」

 その時、彼女は自身の耳を疑った。
 武装隊?彼のように魔法を使えない人間が?

「アイツ強いからねー。魔法を使えない人間に用は無いって言ったその時の試験官と喧嘩になって結局勝ったらしいけど……アイツの夢はそこでお蔵入り。なにぶん、魔法が幅を利かすこの世の中で魔法を使えないって言うのは結構致命的だからね。」

 夢?彼女はその時、反射的にゲンヤの友人に聞いた。夢とは何かと。

「魔法を使えない人間でもやれば出来るんだって、ね。アイツはいつもそうやって自分を鍛えてたから。後方勤務を選んだのは、諦めたくなかったからだろうね。やれば出来るって言うのをさ。」

 その時、どうして彼女は彼が気に入らなかったのかを理解し、同時にあの時の彼の言葉の意味を理解する。
 彼女達二人は似ているのだ。
 足りないモノがあって、夢を諦め無ければいけなかったこと――二人とも落ちこぼれであること。
 けれど、一方は諦め、一方はそれでも諦めなかった。
 
 それが大きな違いで、自分はそれが認められなかっただけなのだ。
 けれど、どうしてここまでゲンヤの友達はクイントに伝えてくれるのだろうか。
 不思議に思って、聞くとその男はこう言った。

「君は結構アイツの好みっぽいしね。いい加減、ゲンヤにも春が来ないかなって期待して言っただけ……ってちょっと、何で拳振りかぶってんの!?」

 赤面しながらクイントはぼそぼそと呟いた。何で自分があのゲンヤの春到来に手を貸さなければいけないのか、と。
 そういうと男は心底不思議そうに話す。

「いや、ほら、わざわざここまで調べに来るなんてよっぽど好きなんだなあと思ったんだけど……あれ、違うの……って、ちょっと!振りかぶるの無し……ってぎゃああああああ!!!」

 それから後、彼女はゲンヤと話をするようになっていく。

 ゲンヤと仲良くなっていくクイント。
 初めは敬語。それから敬語は止めて対等の口調で……いつしか二人は互いを相棒として認識するようになっていく。
 その中でクイントはゲンヤからある武術の話を聞く。
 中島流という武術を。
 ゲンヤ・ナカジマの家に伝わる徒手空拳の武術。
 打撃を主体に投げや組み技などを網羅した古流武術の類、であるらしい。
 何よりもクイントの眼を惹いたのはそのコンセプト――武器を持った相手、或いは人以外の何かに勝つ為に作られた武術という部分だった。

 ゲンヤが武装隊に入ろうとしたのは生身の人間が魔導師に勝つ為に彼なりにアレンジしたからだった。
 結果、中島流は対武器格闘術から、対魔法格闘術に生まれ変わった――はずだった。
 だが、それでも魔導師には敵わないのだとゲンヤは言った。

「どんなに身体を鍛えても、魔導師より早くは動けない。魔導師より強い一撃を放つことは出来ない。 だが、そんなことはどうでもいい。間合いに入ることが出来れば、速度も威力も関係無い。だが、その間合いに入ることが出来ないんだ。俺らみたいな魔法使えない人間だとな。」

 そう、寂しく呟くゲンヤを見て彼女はゲンヤにあることを伝えた――そのゲンヤの悩みは彼女の悩みと同じだったからかもしれない。
 彼女の伝えたことは簡単だった。

「私がゲンヤの夢を継ぐよ。」

 と。
 だから、中島流を教えてくれと。
 当然ゲンヤが簡単に教えるはずも無かった。
 だが、何度も何度もゲンヤに教えてくれと頼むクイントや、いつの間にかクイントとも仲良くなっていた彼の友達の後押し――曰く「えー、別にいいじゃん。どっちみちクイントちゃんもナカジマ性になるんだしさ。」その後赤面したゲンヤが三面六手の鬼神となって彼に襲い掛かったのは言うまでも無い――によって、ゲンヤはクイントに中島流を教えることになる。

 これがシューティングアーツの生まれた発端。
 一人の男と一人の女が互いの夢を重ね合わせた結果、中島流はゲンヤからクイントに伝えられ、対魔導師格闘術「シューティングアーツ」として生まれ変わって行ったのだった。

 その後、彼女は管理局の中でも名うての強力な魔導師として頭角を現していく。
 そして大方の予想通りに結婚。その後、二人の子供を引き取り、育てていく中――彼女は命を落とした。
 彼女は弱かった訳ではない。そしてシューティングアーツが通用しなかった訳でもない。

 ただ、不運が重なったのだ。
 大多数のガジェットドローンと移動を限定される室内。
 数の暴力と狭さの暴力。
 この二つが重なった挙句に、後方支援型の魔導師であるメガーヌ・アルピーノを守りながらという絶対的に不利な状況での戦闘。

 そんな最悪の状況で彼女が勝てるはずもなかった。
 そして、中島流――シューティングアーツは受け継がれることなく、そこで途絶えることになる。
 また幼いギンガやスバルが学んだシューティングアーツは全体の僅か数割程度でしかなかったからだ。
 彼女たちはそれを反復し研鑽を積み重ね――けれど、未だクイントのいた領域には辿り着けていない。
 
 ゲンヤは彼女達にそれを教えてはいない。彼ならば教えられる。クイントを鍛えたのは誰あろう、ゲンヤなのだから。
 だが、娘がクイントと同じようになることを彼は恐れ未だ娘達にシューティングアーツ――つまり中島流の扉を開けないでいる。
 その扉はいつ開かれるのか。
 それは誰にも分からない。


 シンと向かい合いギンガは自分の左手を眺めた。
 機械混じりの自分の中で、本当に機械仕掛けの偽物の腕を。

「いつか、私は、あの人に追いつけるのか。まだ、分かりませんけど。」
 
 拳を閉じて、握り締め、瞳を閉じた。

 ――その瞳に浮かぶ思い出はどんなものなのか。シンはそれが少しだけ気になった。



[18692] 番外編 その1 「夢」
Name: spam◆93e659da ID:17f428f0
Date: 2010/05/17 00:08
 これはある一人の男の物語。
 男が辿る可能性の一つ。
 未だ定まらぬ未来の物語。


 夢、を、見ていたかった。
 夢で、あってほしかった。
 どうしてだろう。
 どうして、こんなにも世界は残酷なのだろう。

 ――願わくば、起きた瞬間、これが夢であることを願って
 彼は――シン・アスカは瞳を閉じた

「ほら、シン!!起きてください!!」
「うーん、もうちょっと……」
「ああ、もうフェイトさんもまた潜り込んで!!週に一回はシンも休みたいって言ってたじゃないですか!!」

 ――隣に眠るYシャツ一枚の金髪の女性――フェイト・T・ハラオウン。
 そしてベッドの前でエプロンをつけて、こちらに向かって怒鳴る青色の髪の女性――ギンガ・ナカジマ。
 ふと、身体に感じる柔らかい感触――フェイトが顔を近づけていた。

「ねえ、シン……私、今日……休みなんだ……」

 熱っぽいフェイトの吐息。瞳を向ければ、彼女の瞳は少しだけ潤んでいた。
 そして、おもむろに自分のYシャツに手を掛けて、そのボタンを一つパチンと外した。
 その様子を見て、青色の髪の女性は慌てて、彼女を引き剥がす。

「だ、だから、朝っぱらから寝ぼけて何やってるんですか、貴女は!?ああ、脱ぐな!!脱ぐなああ!!」

 そうやって、押し問答を繰り返す二人。自分が知る彼女達よりも年月を経たような二人は、朝日の中で輝いていて、綺麗で、幸せそうで――

「……シン、駄目……?」

 そうして、ギンガを片手で押しのけて、もう一つ、ボタンを外す――少しだけ赤らめたその顔。
 無邪気な天使のようでいて、女としての喜びに満ち溢れたその素顔。
 潤んだ瞳と相まって、彼女の鮮烈な美しさを更に際立たせ――その後ろでジタバタしているギンガを抑える手は青筋すら浮かんでいるが――シン・アスカは見惚れてしまった。
 そして、その桜色の唇が言葉を紡ぐ――淫靡さすら伴わせて。

「ね?……しよ?」

 ドクンと心臓が大きく鳴り響く――彼の人生の中でこれほど響いたことは無かったほどに大きく。

(する?何をするんですか?ああ、あれか。朝食を一緒に食べようとか、模擬戦をしようとか、そういうコトなのか。あはは、なら、そんな風に変な格好しなくても、いいじゃないですか、フェイトさん。)

 言葉にならず、パクパクと口を動かすシン。緊張と混乱のあまり、喋っているはずなのに言葉が出ていない。

「……う、ん」

 悩ましげな声で彼女が擦り寄ってくる。無論、奥でジタバタするギンガを押さえつけたままだ。

「ねえ……シン?」
「あ、あはは」
(ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ)

 乾いた笑い。
 もはや笑うしかなかった。極度の混乱は彼から真っ当な思考を停止させる。
 その様は正に蛇に睨まれた蛙――それ、そのものだったから。金色の女豹はそうして、ニッコリと笑うと彼に飛び掛ろうとして――

「だから――しよ?じゃないって言ってるでしょおおおおおおお!!!!」

 一撃必殺――リボルビングステーク。ギンガ・ナカジマ、渾身の一手はフェイトの手を弾き返し、彼女に迫る。

「――ソニックムーブ。」

 詠唱――発動。
 フェイトの姿が掻き消える。そして、彼女はその裸身にYシャツ一枚を着ただけという姿で壁際に立っていた――無論、下着は黒である。

「……おはよう、ギンガ。」
「――おはようございます、フェイトさん。」

 視線と視線が交錯する。
 裸Yシャツの女豹はその瞳に邪魔されたと言う敵意を滲ませ、エプロンの女豹は抜け駆けしたことへの敵意を滲ませ。
 空気が帯電する。比喩ではなく、現実として。

「……夢だ、夢に違いない。」

 ガクガクと震えながらシンは呟く。
 自分が知る二人は決してこんな状況を起こさないし、起こる余地も無い。
 何がどうなって、こうなっているのか。意味が分からないし、さっぱり意味が分からない。

「……寝よう。」

 シン・アスカは――そこで瞳を閉じて意識を手放した。
 男の名前はシン・アスカ。
 機動6課ライトニング分隊所属の一人の魔導師。そして――生まれ育った世界から弾かれた負け犬だ。
 ……そのはずだ。多分。


「……夢だ。きっと夢だ。」
「シン、本当に大丈夫ですか?」
「……シン、大丈夫?」

 女性二人に挟まれるカタチでシンは歩く。
 もはや何だコリャである。

(落ち着け、落ち着けよ、シン・アスカ。クールだ、クールになるんだ。まず、昨日は何してた……?)

 いつも通りである。
 シン・アスカの日常など、毎日基本的に変わらない――つまりは訓練と模擬戦と事務。
 そして夜はあの化け物の映像を繰り返し見続けて、意識を失うようにして眠りについた。
 いつも通りだ。夕飯のメニューまで完璧である。

(じゃ、どうなってるんだ!!)

 心中で叫ぶ。出来ればあの青い空に向かって叫びたい。何がどうなってるんだと。
 だが、傍らの二人はそんなシンの様子を本気で心配している。

(い、いい人なんだ、いい人なのは間違いないんだ……!!)

 だが、こう身体を寄せてくるのは何故だ。何で、腕を絡めたがる。何でそんなに頬が赤い。何でそんなに近づいてくる。
 今、分かることは一つ。
 自分はどこか違う世界――恐らくは未来に飛んできた。そういうことだ。
 先ほど見たカレンダーには新暦82年――つまりは、シンがいた時代から6年後の世界である。
 とにかく、そんなファンタジーのような話は決してありえないことではあるが、現実として起こっている以上はどうしようもない。
 元より、自分と言う存在自体が得体の知れない力で、この世界に現れたのだ。
 また、別の世界――時代に行くくらいあるだろう。多分。むしろ、問題はそこではない。
 別の世界に移動したとか別の時代に移動したなど問題ではないのだ。
 問題なのは、目の前の二人。
 何がどうなって、“あの”フェイトがこれほどに変貌したのかは分からないが。と言うか知りたくも無い。
 大体、どうしたら自分とこの二人が同棲するなどというコトが起こりうるのか。
 一体未来の自分は何をしたんだ。そう、言いたくなる。

(“俺”はいつもこんなことをしてるのか!何やってるんだよ、俺は!!)

 自分に向けて恨みを吐いても仕方が無いが吐きたくもなる。
 傍から見れば、極楽に見えるかもしれない。だが、本人にしてみると最悪だ。彼はこんな状況に耐えられない。

「シン?」

 フェイトがいきなり身体を寄せてくる。そして腕を取ると、そのふくよかな胸を――押しつけてきた。
 シンの頬が赤く染まる。そして背筋に鳥肌が立ち出す。元来、こういうシチュエーションに慣れていないのだ。
 故に耐性などまるで無い彼は動揺する。
 いつもの面影など今の彼には皆無――単なるヘタレである。

「ちょ、ちょっとフェイトさん、当たってる、当たってる!!」

 叫ぶシンに対してフェイトは少しだけ得意げにニッコリと笑って、言い放つ。無論、頬を染めて、だ。

「当ててるんだよ?」
(ノーーーーーウ!!!!ちょっと待て!!アンタ、そんなキャラじゃないだろ!?)

 その言葉に対抗したようにフェイトの逆側――ギンガも残っていた腕を取ると身体を押し付けてきた。

「……」

 だが、こちらはシンと同じく赤面しながらだった。微妙に俯いている。

「……な、何してるんですか」
「……当ててます。」
(うおおおおい!!アンタ何、対抗意識燃やしてんだああああああ!!!!)

 心中で叫ぶシン。フェイトさんとギンガさんのオーバーヒートっぷりにシンは翻弄されまくり、もはや面影などまるでありません。

「ちょ、ちょっと待ってくださいね!?お、俺は、別に、」
「?」
「なんですか?」
「い、いや、俺は……俺は……そうだ!!!実はですね、実はですね……!!」

 ――考えろ、シン・アスカ。どうしたら、この場を切り抜けられる?どうしたらいい?逃げるか――無理だ。あのソニックムーブの前で逃げるなど不可能。ならば、正面突破――リボルビングステークで貫かれます。どうする?どうする?シン・アスカならどうする!?

「あ」

 その時、シンに電流走る――そう、天啓が閃いた。

(……そうだ、これなら――!!)

 にやり、と笑うシン。
 いきなり微笑んだシンに対してフェイトとギンガはきょとんとした顔をする――ひとつ断っておくと彼女達にとってもこれが日常と言う訳ではなかった。
 幾らなんでもそれでは変態である。
 では何故彼女達がこんなことをしているのか?
 それはたまたまシンがある日に居合わせたからだ。
 ある、大事な、“約束の日”に。だから、今日の彼女たちは“特別”なのだ。

 ――無論、そのことをシン・アスカが知るはずも無いのだが。

「どうしたの?」
「なんなんですか、シン?」

 二人の顔がこちらに向けられる。
 青色の瞳と赤色の瞳が彼を射抜く――そして、口を開こうとし、止まる。
 良く考えたら、このアイデア、やばいんじゃないか――というか引っかかる訳が無いと気付いたからだ。
 だが、口に出そうとした言葉は止まらない。

「き、きお、」
「キオ?」
「……誰ですか、それ?」

 二人とも誰かの名前と勘違いしているらしい。ギンガなどは眉を吊り上げている。
 ――言うしか無い。
 シンは意を決して口を開き――

「き、記憶喪失なんでぷぽっ」

 噛んだ。噛みまくった。

「……」
「……」

 その場に沈黙が流れた。一陣の風が流れていく――どこかでカラスが鳴いているような声がした。

「だ、だから、実は、皆さんのことがわからない……」

 一応、頭を抑えて、そんな感じを装ってみた。

(い、今更、無理があったか?)

 ありすぎである。これで誤魔化させるとしたら、それはどれだけ――

「本当に!?」

 誤魔化せた。金色の女豹は問題なく誤魔化せてしまった。

(マジかよ、この人!?)
「……ふーん、そうですか。」

 だが、流石にギンガは騙せない。というかこっちの反応が普通である。
 シンは記憶喪失と聞いて本気で心配し出すフェイトと半眼で睨み付けるギンガを見て、思った。

(胃が、痛い。)


「それで此処に?」
「ええ、シャマル先生なら何とかなら無いかなと。」
「……ど、どうも。」

 シンは申し訳なさそうにシャマルに向かって頭を下げる。
 彼女は今、教導隊の医務室に配属されていた。

「記憶喪失ねえ……また、ギンガが吹き飛ばしたんじゃないでしょうね?」

 じとり、とギンガを睨み付けるシャマル。そう言われてギンガは慌てて、否定する。

「ち、違いますよ、今回は別に、そういうのじゃ……」
(今回ってことはたまにあるのか……)

 “自分”は一体どういう状況で生きているんだろうか。
 というかどうしてフェイトとギンガの二人と同棲してるのに誰も何も言わないのだろうか。
 シンはそれが不思議で仕方がなかった。

「それじゃフェイトちゃん?」
「わ、私は今日はただシンとたまにはイチャイチャしたいなと」
(……耳に毒だ。)

 聞こえない振りをするシン。
 本当に耳に毒だった――それは甘い砂糖菓子のような毒ではあったが。

「うーん、これと言っておかしなところは無いけど――昨日は、皆何してたの?」
「確か、私は帰って、夕飯作ってたら、フェイトさんとシンが、キャバクラへの潜入捜査から帰ってきて、また触られたってフェイトさんが泣くっていうか、かなり怒ってて……」
「それで私がシンと一緒にお風呂に入ろうとしたら、ギンガに邪魔されてって言うか吹き飛ばされて……」
「……それでシンがとりあえず風邪っぽいから寝るよって言って……」
「全員、寝静まった後にシンのベッドに私が……潜り込んで、終わり、かな?」
「……もういいわ、フェイトちゃん、ギンガ、ありがとう。」

 頭に手を当て、瞳をつむるシャマル。
 それはそうだろう。彼女たちの話を聞いていたシンも頭を抱えたくなったくらいだ。
 大体、何で潜入捜査?
 そして、どうして自分がフェイトと一緒に潜入捜査などやっているのか――考えたくない。何か凄く嫌な予感がする。

 だが、そんな頭が痛くなる返答にもシャマルはしっかりと答えを返した。
 その様は正にキャリアウーマン。白衣を着こなす女性は一味違う。
 そんな馬鹿なことをシンは思った。

「となると今関わっていた案件にでも関係あるのかしらね?」
「……そうなると」

 ギンガが呟いた。

「はやてちゃんは今里帰りしてて、いないから……シグナムだったら、話聞いてるかもしれないわね。聞いてみたら、どう?」

 そう言ってシャマルはギンガにシグナムの居場所を伝える。

(シグナムさん……か。会いたいような会いたくないような。)

 嫌な予感がするのだ。どうにも厄介事はまだ終わっていない。
 そんな予感をひしひしと感じるシンだった。


「記憶喪失だと?」
「……はい。」

 そう言って黙り込んでいるシンを見やるシグナム。
 シグナム――烈火の将の異名を取る彼女は、ここ、時空管理局本局に勤めている。
 ちなみにヴィータ、ザフィーラ、リインフォースⅡの皆も同じく時空管理局勤めである。
 主である八神はやては――実を言うと時空管理局にはいない。
 これを語るべきは、この物語では無いので割愛する。
 
「……ギンガが吹き飛ばしたのか?」

 じとり、とギンガを睨むシグナム。
 ギンガはそれに慌てて手を振って否定する。

「違いますよ!」
「では、テスタロッサか?」

 視線を受けるとフェイトは唇を吊り上げ、ヒクヒクと震わせながら、半眼で睨みつける。

「シ、シグナム……私がそんなことすると思いますか?」
(……俺、よく生きてるよな。)

 切実にそう思った。シャマルだけなら、まだ彼女の茶目っ気なのだろうと思ったが、二人も続くとさすがに怖くなってくる。
 なんだろう。未来の自分はそんなに毎日彼女達二人に吹き飛ばされているのだろうか。

「……果報者だな、貴様は。」

 そう言って、シグナムはシンの方を見やるとニヤリと微笑む。

「ど、どういたしまして、です。」

 頭を下げるシンを見ながらシグナムは、デバイスを操作して通信を開始――そして、通話を始めた。

「――ああ、今、三人が来てる。こちらに来れるか?」
「……シグナム、誰ですか?」
「ん?いや、スバルとティアナがちょうどこっちに来ていたところだったからな。どうせ、しばらく会っていないんだろう?アスカのこともある。顔を会わせてみたらどうだ?」
(スバルとティアナ……か。さすがにあいつらもってことは無いよな。)

 一縷の望み。それは流石にあいつらまでおかしくなってないだろうと言うものだ。
 それはそうだ。ティアナ・ランスター、スバル・ナカジマ。彼女達は年下でありながら自分などよりもよほどしっかりしているのだから。
 ……無論、それも簡単に破られる訳ではあるが。


「記憶喪失……?」

 そう、スバルはそう呟くとギンガに向き直る。

「ギン姉……またやったの?」
「あ、あのね、スバル……」

 先ほどと同じ質問にギンガは、少々疲れたように返答する。

「フェイトさんですか?」
「だから、私は別に……!」

 その横ではフェイトに向かって、ティアナが半眼でスバルと同じ質問を繰り返す。

(俺って本当に何で生きてるんだ?)

 本当に、切実にそう思った。
 シン・アスカ。彼はコーディネイターだ。確かにその肉体強度は通常よりも頑強かもしれない。
 だが、毎日毎日、非殺傷設定の魔法を喰らい続けて無事でいられるのだろうか。
 あの金色の大剣とか、どでかいドリルとか。
 
(……いや、死ぬだろ。)

 一も二も無く、否定するシン。あれほどの一撃を喰らい続けるなどどんな人間であろうと不可能である。
 ひっそりとガクガクと心中で震えていたシンを放って、スバルとティアナは話を続ける。

「けど、シン君も幸せだよね、本当に。こんな可愛い人二人も捕まえちゃってさ。」
「……本当にね。普通は単なる浮気者で断罪されるところだっていうのに……・」

 そういうティアナの表情はどこか悔しげだった。
 何と言うか――“逃した魚は、案外、大きかった”、と言いたげな。

「あれ?ティア、どうしたの?」
「ああ、別に、何も……ない、わ……」
 
 そのほんの僅かなティアナの動作を見て――ギンガとフェイトは目つきを変える。
 ――女豹の視線へと。

「ティアナ……」
「まさか、ね。」

 低く、底冷えするような声音を出して、二人はティアナへと振り向く。
 ティアナはそれを見て、背筋に冷や汗が流れるのを止められなかった。

 ――ああ、やばい。

 脱兎の如く、ティアナ・ランスターは表情転換し、戦略的撤退を試みる。
 彼女は知っているからだ。こうなったこの二人がどれだけ危険かを。それゆえに、シン・アスカは管理局内で“猛獣使い”という二つ名を得るに至ったことを。

「な、何を誤解してるんですか、私はただ、アイツが浮気者の二股野郎って言いたかっただけ……」
「シンはどう思って……あれ、シン?」
「……逃げた?」

 シン・アスカは忽然と消えていた。厳密に言うと、脱兎の如く“逃げ出した”。


「……はあ、はあ、はあ……も、もう勘弁してくれ」

 逃げてきた場所は屋上。茜色に染まる世界。明らかに自分のいる場所とは違う、居心地の悪い世界。
 別にギンガやフェイトが嫌いな訳ではなかった。
 単純な話だ。
 ここは自分がいるべき場所じゃない。そう、思っただけだった。

「――俺は戻れる、のか?」

 不安を胸にシンは一人呟く。それが表情に出てしまっていたのだろうか。クスクスという笑い声が聞こえてきた。
 思わずそちらを振り向いた。
 そこには先客がいた。

「アンタは……」

 思わず、初めて会った時のような態度が表に出る。それはシン・アスカにとって何よりも“大事な”人間――八神はやて。

「何や、鳩が豆鉄砲食らったような顔しよって。」
「八神、部隊長。」
「へえ、ホントに入れ替わってるんやな。」

 そう言ってはやてはシンに向かって手を伸ばす。
 あれから6年と言う年月を経て、幼さを残していた彼女は、立派な女性になっていた。柔らかな微笑み――自分の前で決して見せない微笑み。

「ようこそ、シン・アスカ。ここは、未だ確定されて無い“未来”。キミが選んだ一つの結果――その可能性や。」

 茜色に染められた柔らかな微笑み。
 過去、鋼鉄の鎧を心に纏っていた女はそう、囁いた。


「俺が、選んだ、ひとつの結果って……」

 シンは呆然とその言葉に答えた。訳が、分からなかったからだ。流れていく状況が早すぎて何も理解出来ていない。
 八神はやてはそんなシンを見て、優しく諭すように話し出す。

「うん……まあ、要するに昔のシン――要するにキミのことやな、が、選んだ結果としてはじき出されたひとつの未来。要するに“あり得るかもしれない可能性”のひとつ、それだけや。キミの未来がこうなるって訳やない。別にずっと此処におるわけやない。どの道一晩寝たらそれで終わりや。だから、さっきみたいな泣きそうな顔はせんでも……」
「い、いや、俺は別にそんな風には……」
「ふふ、まあ、そういうことでええよ、シン。」

 泣きそう、と言う言葉に反応して、いきり立つシンに向かって笑いかけながら、はやては呟いた。
 不思議な感じだった。彼は八神はやてとこうやって笑い合いながらの会話などしたことが無かったから……どこか別人に見えたのだ。
 シンの知る彼女は策謀を巡らせ、鉄面皮を張り付かせた女性である。
 だが、今の彼女はサバサバとしたどこにでもいる――そう、当たり前の女性としてソコにいる。その二つがどうしても結びつかないのだ。
 だが、それはどうでもいい。そう、“どうでもいい”のだ。
 今、八神はやてはこう言った。
 “ここは未来”だと。それはつまり、現状のシンの状況を最も深く理解していることを意味する。
 自分が今此処にいる理由。それを彼女は最初に語ったのだから――その内容に付いてはよく理解は出来なかったが。

「八神、さん……ひとついいですか?」

 意を決してシンは口を開く。

「うん?」
「俺はどうしてここに?」
「まだ、時空が固定してないんや、“そっち”は。だから、特異点であるキミが揺らいでこっちにきた――まあ、そういうことやな。」
「……」

 さっぱり意味が分からなかった。

「ああ、意味は分からんでええよ?私だってよく分かってる訳やない。これ、単なる受け売りやしね。」
「受け売りって、誰の……?」

 シンの返答にはやては額に手を当て、思案するように呟く。

「んーと、キミは“まだ”知らない人や。そんでもって、キミ以外のフェイトちゃんとかは知ってる――そんでヴォルケンリッターや私にとって“大事になるはずだった”人、やな。……ま、キミはまだ知らんでもええことや。」

 そう言ってはやては屋上の手すりに手をかけて夕日を眺める。
 ぼかすような言い方は知らなくてもいいからなのだろうか。訳が、分からなかった。

「……」

 暫しの沈黙。そうしてふと、思いついたように呟いた。

「……俺は“守れて”いるんですか?」
「現在のコト――“キミにとっての未来”は教える訳のは駄目なんや。」
「駄目?」

 聞き返すシンにはやては苦笑しながら返事を返した。

「そう、教えられないってことや。色々とややこしいことになってんのよ。」
「だったら、それはいいから、もう一つ聞かせてください。」
「なんや?」
「どうして、俺は、ギンガさんとフェイトさんと……ああなったんですか?」

 脳裏に浮かぶ二人の姿。
 それがどうしても自分の知る二人に繋がらない。

「……それも本当は答えたら駄目なんやけど……ええか、それくらい。簡単にいくで?」
「は、はあ。」
「キミはあの二人に惚れた。あの二人はキミに惚れた。そしたら、ああなった。それだけや。」

 短かった。殆ど一言みたいなものだった。

「……み、短く無いですか?」
「仕方ない。あの頃のキミたちはそれだけやったんやから。」
「それだけ?」
「そうや。それだけでな……それだけでキミたちは……ここからは私が言うべきことやない。後はキミが現実で感じることや。」

 羨ましそうに、痛みに堪えるように、そして、愛しそうに、彼女は呟く。
 沈黙が場に行き渡る。そして、はやてがふたたび口を開いた。

「一つだけ、頼みがあるんや。」
「はい?」
「キミの時代の私――どんなんやった?」
「……怖くて、強くて、ずるい。そんな感じです。」
「……はは、そっか。怖くて、強くて、ずるい、か」

 力無く笑う彼女。それがどうしてか、泣いているように見えてしまって――

「……なあ、シン?」

 その時、聞いていれば良かった、と彼は後悔することになる。その声に込められた“想い”は一体何だったのだろうか、と。

「――お願いやから、“私”を見捨てんといてあげてな。」

 ――その言葉に返事を返すことすら出来ず、ただ間抜けな声を上げるしかなかった。

「……え?」
「……それだけや。ほんならな、シン。」

 そう言って八神はやては、屋上の扉を開けると消えていった。


 そうして、夜。
 シンは屋上に未だ佇んでいた。
 屋上から見える空は快晴――クラナガンにしては星が良く見えた。

「……シン。」
「……ギンガさん、ですか。」
「何をしてるかと思えば……屋上でぼうっとしてるなんて……まあ、シンらしいと言えばらしいですけど。」

 そう言ってギンガはシンの隣まで歩いてくる。

「ギンガさん?」
「……どうしてあんな嘘吐いたんですか?」
「嘘?」
「記憶喪失って、嘘です。」
「ああ、それは……」

 上手い言い訳は思いつかないが何か口走れ――そう思ったシンの言葉を遮るようにしてギンガが口を開いた。

「それと、貴方は、私の知ってるシンとは違う――そうですね?」

 声に厳しさはまるで込められていない。そこに込められた声はただ悪戯をした子供を叱るような響きだけがあった。

「……気付いてたんですか?」
「当たり前じゃ無いですか。何年一緒にいると思ってるんです?……それに、今日って私とシン、そしてフェイトさんがあの部屋に住み出した日なんですよ?何も言わない訳が無いんですよ。フェイトさんはそういうイベントを何よりも大事にしますから。」

 少しだけ寂しげな表情でギンガは続ける。

「子供の頃から、ああいうイベントに憧れてたらしいんです。だから、絶対にそういうイベントは忘れない。シンもそんなフェイトさんを知っているから、絶対に忘れたりはしません。」
「……“昔”のフェイトさんとは、まるで違うんですね。」
「昔……ああ、なるほど。貴方は、過去から来たんですか?」
「……驚かないんですか?」
「少し、心当たりがあるから……“私達”は分かるんです。」
 
 心当たり――それも、“これから”自分が知ることに関係しているのだろうか。
 自分がこれから辿るであろう未来。それは如何なるものなのか、シンには皆目検討がつかないでいた。
 だから、シン・アスカを心配しないのか、と思った。彼女はさっきから“まるで、そんなこと在るわけが無いと知っているように”、この時代のシン・アスカを心配していない。

「心配、しないんですか?」
「心配?ああ、そんなことある訳無いです。シンが私達を置いてどこかに行ってしまうなんて、ね。」

 そんな風に断言されてシンは相槌を返すしかない。訳が分からず、さりとて聞くことも出来ない――そんな状況であれば。

「……そうですか。」
「それで、朝起きた時、私たちが一緒にいたことに驚いたんですか?」
「そうです、ね。正直、何が何だか……」
「それで私たちから逃げようとした……そういうことですか?」
「……はい。」
「ま……思えば、私達にも色々あった訳だし……あの頃のシンならそんな反応するでしょうね。間違いなく。」

 クスクスと笑うギンガ。その様があまりにも幸せそうで、シンは思わず呟く。“落胆”を。

「……俺は、変わってしまったんですね。」

 自分はなりたかったモノには結局なれなかったということだろう――だって、ここはあまりにも暖かすぎる。
 もし自分がなりたかった自分になれたならば――自分がこんな世界で生きているなんて決してありえないのだから。
 辿り着きたかった場所はもっと冷たい場所。“彼女”を沈めたような凍てつくような場所。自分は出来るなら、そこで永遠に“守り”続けていきたかったはずだ。
 今、ここにいる――それは、辿りつきたかった場所には辿り着けなかった。そういうことだろう。
 自分は何も出来ていない。そんな暗い想いがシンを覆っていく――だが、ギンガはそれを否定するように口を開いた。

「……いいえ、貴方はあの時から何にも変わってない。貴方は、変わったんじゃない。ただ、私たちを“特別”に見てくれるようになっただけ。」

 しみじみと、“懐かしむ”ようにギンガはシンから目を離し、呟いた。
 視線の先は空――月光冴え渡る夜空。

「特別……?」

 思わず、彼女に眼を向けるシン。

「そりゃあ、私だってどうして私だけじゃないんだ、なんていつも思ってます。正直、フェイトさんと私のどっちとも一緒にいるなんて最低の人間だと思いますよ。……けど、」

 あまりにも耳が痛い。胸にグサグサ言葉が突き刺さる。

「貴方は“私たち”を選んだんです。どっちも選べないから、じゃない。どっちも選びたかったんです。私たちのどちらのことも好きなんだから。」

 ――それは意外な返答だった。
 自分は彼女達二人に対して、明らかに不誠実な態度を取りながら……・どちらも好きだと言い張って求めたと言うことだろうか。

(それは、本当に俺なのか。)

 結びつかなかった。今の自分とはまるで。
 器が大きい、とでも言えばいいのだろうか。それともただ単に馬鹿なだけなのか、それとも――ある意味では本当に誠実なのかもしれない。
 誰かが自分を好きで、その誰かを自分も好き。もし、その誰かが2人になった場合――誠実である為にはどちらかを切り捨てるしかない。
 そう、考えて、頭に一つ閃くことがあった。

(ああ、そうか。)

 確かにシン・アスカならばそんなことを考えてもおかしくはない。すんなりとどうして、“未来の”自分がこんなトンデモナイことをやらかしたのかが理解できた。
 シン・アスカは“選ばない”。選択を恐れるシン・アスカの精神は何かを選ぶと言うことを極端に恐れている。
 だからだろう。結局のところ、これも同じ、逃避の一つでしかないと言うことだろう――

「いいえ、違います。」

 考えを読まれていたのか、ギンガが真剣な顔でこちらを見つめていた。青い瞳。その瞳に映る自分。それは自分が知る自分よりも大人びていて――あまりにも優しそうだった。

「貴方は“選んだ”。私たち二人を。決して選択から逃げたとかじゃない。」

 ――その言葉はシンに再び混迷をもたらしていく。
 繋がらない。決して繋がらない。
 分からない。まるで分からない。
 そう、もっとも分からないこと。繋がらないこと。それは――変わり果てた自分。
 過去の存在である自分自身と未来の存在であるシン・アスカがまるで、繋がらない。重ならない。
 そうやって、俯き思い悩むシンを見て、ギンガは懐かしそうに微笑んで、呟いた。

「私は、貴方を愛しています。フェイトさんも同じく。そして――」

 一拍を置いて、彼女は少しだけ恥ずかしそうに呟いた。

「同じように貴方も私たちを愛してくれている。」
 
 シンはその言葉に俯いた顔を上げられない。けれど、ギンガはそんなことは気にしない。ただ、今の幸せをまるで“誇る”ようにして話を続ける。

「世間から見たら、おかしなことだらけかもしれません。けど、私たちはこれが幸せなんです。」

 そう言って微笑む彼女は本当に幸せそうで、シンは何も言えない。
 意味が分からない。理解出来ない事柄。
 彼女が続ける。

「この関係のこと言った時のリンディさんとか父さんは本当に見物でしたよ? リンディさんはクロウディア出してくるし、父さんは父さんで眼が本気だったし。……八神さんが出張ってきて、場を収めてくれなかったら多分とんでもないことになりかねませんでしたね。」
「……」

 何と言うかリアクションが取り辛過ぎる話題だった。
 二股――聞いたことだけはある単語。要するに最低な駄目人間と言うこと。
 リンディと言う人が誰かは知らないがクロウディアと言う単語には聞き覚えがあった――それは確か戦艦ではなかっただろうか。出してくるとは一体どういうことなのだろうか。
 そして――怒り狂ったゲンヤ。その顔を思い出すとシンはあまりにも居たたまれない気持ちで一杯になってくる。
 ……彼は本気で頭を抱えたくなった。

「でも、今は幸せです。あの日々が無かったら――貴方に出会わなかったらきっとこんなこと思いもよらなかったでしょうけど。」
「……どうも。」

 そう、シンは言葉を返すしかなかった。


「……本当に戻れるのか。」

 今、シンは自室――3LDKほどのアパートの一室である――で“一人”で寝ていた。
 ベッドに忍び込もうとしたフェイトはギンガに連れられていった。
 決まり手はソーラープレキサスブロー(鳩尾打ち)。
 一瞬で彼女の意識を刈り取っていた辺り、ギンガの実力もかなり上がっていた。正直、怖かった。

「……寝よう。」

 八神はやては一晩、寝れば、終わると言った。
 ならば、今はそれを信じるだけだ――それを信じるしか出来ないのだから。
 そう、思うと途端に眠気がやってきた。
 自分では気付かなかったが疲れていたのだ。
 訳の分からぬ世界に放り込まれて、その上理解できない状況に振り回されて。
 だから、直ぐにシンは寝入った。
 眠りは深く。落ちていくようにシン・アスカは意識を手放した。


「……なんか、変な夢を見たような気が……」

 そう言って起き上がるシン。
 その時、むにゅっと、以前ギンガの胸を揉んだ時と同じような感触を手に感じた。

「……な、に?」

 手が握り締めるその感触。
 そちらの方に目を向けて、フトンをどかすと――そこには、寝ぼけて部屋を間違えた挙句にフトンに潜り込んだ、フェイト・T・ハラオウンの姿があった。

「う……ん」

 服装はYシャツ一枚。下着は黒。デフォルトである。

「な、な、な」

 固まるシン。当然である。

『朝起きたらいきなり横に半裸の美女が寝ていたその胸を触っている。』

 そんな状況に陥るなどありえない。存在するはずが無い。幾らなんでもおかしい。
 だが――シンはどこかその光景に既視感を覚える。

(こんなこと、前にもどこかであったような……)

 だから、だろう。
 本来のシンなら、動きを止めることなく直ぐにでもフトンをかけ直して、フェイトを隠すはずなのに――別に何かしようとかそう言う訳ではないのだが――今回に限って、その動作が一瞬、遅れた。
 だが、その一瞬――刹那は何よりも大きく、そして罪深かった。
 ばん、と“いつも通り”にドアが開く。そこには“いつも通り”にシンを起こしに来たギンガ・ナカジマが現われた。
 正に、シンが、フトンをどかして、フェイトの肢体に釘付けになった一瞬――その一瞬を狙ったかのように。

「シン、朝です……よ……?」

 ギンガが固まる。シンも固まる。そして――フェイトのYシャツが少しだけ“ずれた”。

「ぶっ!!?」
「――あ」

 ぽろん、とずれた拍子に、それはこぼれ出でた。胸――そう、おっぱいが。
 シンは即座に顔を背け、ギンガは即座にフェイトにフトンをかけ、そして、

「ギンガさん……とりあえず話を聞いてください。」

 出来るだけ神妙に呟いた。自分は違うのだ。自分は何も知らないのだ、と。痴漢の冤罪で訴えられた被害者のように。

「朝っぱらから夜這いとはいい度胸じゃないですか、シン――!!!」
「だから、俺は何もやってないって、へぐぅっ!!?」

 叫び、シンを部屋の外へとリボルバーナックルで“吹き飛ばした”。
 ――何かこんなコトが前にもあったような。
 そんな既視感を再び覚えてシン・アスカは再び意識を失った。


 彼はこうして舞い戻った。
 自身のいるべき世界。短くも無く、そして長くも無い女難な日々へと。
 赤い瞳の異邦人に、夢の中での記憶は残ってはいない。ただ、残滓として残るのみ。
 彼らの行く末に如何なる未来が待ち受けているのか。
 それは未だ確定していないが故に、誰にも分からない――。



[18692] 26.始まりの鼓動(a)
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/17 23:26

「……一体、何があったんだろう。」
 エリオの様子がおかしい。
 キャロ・ル・ルシエは自室のベッドにて、そう感じていた。見上げれば天井。フリードが自分の横で「くー」と喉を
鳴らして鳴いている。そんなフリードを優しく撫でながら、最近のエリオの様子についてキャロは思い悩んでいた。
 あの襲撃の日、自分を“助けて”くれたあの日からエリオの様子はおかしかった。落ち込んでいる、とでもいうのだろうか。
 どこか、翳りが生まれていたのだ。
 話をすればいつものように受け答えを返す。笑いあいながら語り合う。
 けれど、その表情の裏にある思いはいつもとは決して違う。それがどんなココロなのかはわからないのだけれど。
 どうして彼女がエリオのことをここまで気にかけるのか。
 簡単なことだ。キャロ・ル・ルシエにとって、エリオ・モンディアルとは取りも直さず大切な存在である。気にかけるのは当然のことだ。

 だから、彼女はエリオのそれが気になる。
 悩んでいる。それはわかる。
 だが、悩みとは口に出して言わなければ絶対にわからない。
 互いの気持ちを理解し合うことなど絶対に出来はしないのだから。
 ゆえにキャロはエリオに何度も何度も聞いた。何があったのか、と。けれど、エリオの返答はいつも同じ一つの言葉。
 思い出すその返答。

「……何でもない。気にしないで、キャロ。」

 そう、自分に対して“申し訳なさそうに”呟いた。
 どうして、その横顔にそんな申し訳無さが浮かぶのか。
 それがどうしても彼女には分からなかった。

 ――さもありなん。キャロ・ル・ルシエは知らない。彼女には絶対にわからない。予想すら出来ない。彼が――エリオが悩んでいるのが他ならぬ自分のせいだと気づくはずもない。

 エリオ・モンディアルの悩み。キャロ・ル・ルシエを見殺しにしようとしたこと。
 その決定的な瞬間を認識し、自分の意思で選択したことが許せない。そんな選択を許容した自分という人間を信じられない。
 自分を許せないという感情。それは誰かへ、もしくは何かへ行った行為への感情である。
 キャロを殺そうとしたこと――厳密には見殺しにしようとしたことだが――への罪悪感が生み出す感情である。
 
 周りから見れば、それは仕方のないことだ。戦闘において最も大切なことは、敵を倒すことではない。何よりも自分自身が生き残ることである。
 故に生き残る術を選択した彼は何よりも正しい。
 見捨てる選択は正しい。その結果、キャロが死んだとしても、だ。
 極論を言えば、戦場での死とは死んだ当人の責任でしかない。理想ではなくそれが現実だ。戦いにおいて人は自分を守ることが大前提。
 無論、守らねばならない時もある。だが、万事が全てそうではない。
 だが、それを理解したところでエリオがそれに納得できるはずもない。
 幼いが故に純粋であり、その癖、年齢に似合わず真っ当に真っ直ぐに成長しすぎた彼の倫理はそれを許容出来ない。
 倫理の成長に許容の成長が間に合っていないのだ。

 子供であるには理解しすぎ、大人というには理想に傾き過ぎる。
 そんな袋小路に今エリオは陥っていた。
 自室の天井を眺め、キャロは思う。彼女には彼の懊悩は何一つとして分からない。

(エリオ君は何を悩んでいるのだろう?)
 
 分からない。分からないから悩んでいる。聞いても、完全に流されて決して打ち明けてはくれない。
 自分では絶対に打ち明けてはくれない――そう、“自分”では。
 思い浮かぶのは彼の憧れの人であり、自分にとっても憧れ。
 そして自分たちにとってのかけがえの無い恩人フェイト・T・ハラオウン
 もし、彼女に話を聞いてもらえばきっとエリオは必ず悩みを話すに違いない。そんな確信があった。
 どうしてか、そのことを思い至った時に胸がチクリと痛んだ。


 翌日の朝、訓練が終わった時、彼女はフェイトを一人呼び出し、その頼みを伝えた。

「フェイトさんから……エリオ君に話を聞いてもらえませんか?」

 決然とした瞳。真っ直ぐな強い眼光。
 キャロ・ル・ルシエという少女は賢い少女だとフェイトは思っている。
 自身の立ち位置を理解し、自身の行くべき方向を考え、その為に理性的な判断をし、行動する。
 人に頼るよりも自分で解決しようと――これはエリオにも言えることだが――する。
 その彼女がこうまでして、自分に頼む。義理とは言え、母親という関係である自分にとってこれほど嬉しいことも無かった。

「いいよ、私も最近エリオがおかしいなとは思ってたから。」

 そう、答えて自分――フェイト・T・ハラオウンは呟いた。
 頷くキャロ。少しだけ不安げな彼女に笑顔を返した。
 義理の子供と言う続柄。フェイトにとってエリオとキャロは掛け替えの無い家族であることは間違いない。
 疑う余地など無い。今のフェイト・T・ハラオウンがここにいるのは彼らがいたからだと自負できるほどには。
 その内の一人――エリオ・モンディアルの様子がおかしいことにはフェイトも気付いていた。
 翳りを写す横顔。キャロを見る瞳に映る視線はいつものような快活な視線ではなく、どこか怯えが込められた視線。
 それはフェイトが引き取った当初のエリオの目の輝きにも似たものだった。
 
 エリオ・モンディアルの出自は酷く特殊だ。
 プロジェクトF――要するにクローンを作るプロジェクトのことである――によって作られた偽物の人間。
 エリオ・モンディアルのオリジナルではなくコピー。
 本物のエリオ・モンディアルが死んだと言う悲しみを和らげる為だけに彼の両親が作り出した愛玩人形。

「最近のエリオ君……いつも落ち込んでて、笑っていても本当に笑っていない感じがするんです。」

 俯くキャロ。彼女の思いは良く分かる。
 自分も彼女に似たような想いを最近抱くようになってきたからこそ余計に理解できた。痛いほどに。
 キャロにとってのエリオ。それは大切な人間。共に苦しみ、共に悲しみ、共に喜び。
 悲しみを半分に、喜びを二倍にする。そういった関係なのだろう。
 その間にある想いが友情なのか、家族なのか、それともそのどちらとも違うのか。それは未だ彼女自身にも理解出来ていないだろうと思う。
 そんな大事なエリオが苦しんでいる。けれど、その苦しみを隠し、苦しんでいない振りをしている。
 
 キャロ・ル・ルシエは聡明な少女だ。少なくとも誰かの苦しみを察知して、触れるべきか迷うほどには。
 その苦しみ――もしかしたら、悲しみかもしれないが――に触れるべきなのかどうかを迷っているのだろう。
 触れれば、エリオは話すだろう。けれど、それが彼の心の傷を広げないなどと誰が言えよう。
 奇しくも自分がシンに抱く気持ちとそれは似通っていた。
 本当ならば深くその心に触れたい。
 傷だらけだと言うならその傷を癒す――ことは出来ないかもしれないが、分かり合うことくらいは出来る、そう思っていた。
 
 けれど――これはキャロも同じだろうが――それが怖い。嫌われることが。彼の傷を広げるかもしれないことが、何よりも怖い。
 
 踏み込めないのは恐怖の証。傷つけるかもしれないと言う恐怖。それが彼女に一歩を踏み出させない。
 キャロも同じだ。エリオを傷つけたくないから踏み出せない。
 
 彼女達二人は似たもの同士だった。
 大切なモノ。それが大切であればあるほどに大事にしようとする。
 大事にしようとすればするほどに踏み込めなくなる。触れられなくなる。
 
 だから、フェイトにはキャロの気持ちが痛いほどによく分かった。
 義理の娘であるキャロと同じ悩みを自分も抱えていると言う事実に心の内で苦笑しながら。
 
 そして、その日の夜。
 6課隊舎内の食堂。そこに三人の男女がいた。
 長く伸びた赤い髪を後ろで縛った制服姿の女性――ヴォルケンリッター・シグナム。
 長く伸びた金色の髪、赤い瞳が印象的な制服姿の女性――フェイト・T・ハラオウン。
 ぼさぼらに伸ばした黒い髪。どこか幼げな赤い瞳の男――シン・アスカ。
 今朝、キャロ・ル・ルシエに相談された内容。
 そこからフェイトはエリオに話しかけるもエリオの問いは恐らくキャロにしたのと同じような返答だった。
 
 何を聞いても「大丈夫です」「心配いりません。」の一点張り。そのまま埒が明かず、お互いに業務に戻らざるを得なかった。
 本来ならここで隊長権限を駆使して時間の許す限り会話を続けていたも良かったのかもしれないが、最近はそれが出来なかった。
 先日の仕事を他人に任せてシン達三人を追いかけていった一件から、用心の為か最近は部隊長である八神はやての厳密な見回り――主にフェイトとギンガに対してである――が定期的に毎日行われている。
 無論、その状況下でサボリなど出来る筈もない。というか元々サボろうと言う性格の人間もいないのだが。
 
 兎に角そのせいで業務を停止してまでエリオと会話をするなどということが出来なくなっていた。
 そして、彼女自身もそれをする気は無かった。
 生真面目な彼女やギンガにとって「仕事をさぼる」という行為そのものが承服し難い事実である。
 やっている時は気付かなかったが定食屋赤福から6課隊舎に帰宅し、こってりと八神はやてに絞られ、その上、前述した仕事をサボったことへの罪悪感と後悔。
 それらがない交ぜになって二人の勤務態度はその後著しく改善され図らずもティアナの狙っていたように6課内の雰囲気は良くなっていた。
 
 然りである。ギンガとフェイトとシン・アスカ。
 この三角関係が6課の風紀に悪影響を与えていたのならば、その原因が大人しくしていれば雰囲気が良くなるのも道理である。
 災い転じて福と為すとはこのことだ、と後にティアナ・ランスターは語っている――話を戻そう。
 
 その後、これ以上エリオに質問しても返答は変わらないと感じたフェイトは同じ部隊のメンバーである彼ら――つまりシグナムやシンである――とも相談することを考えた。無論、キャロには了承を取ってある。
 当のキャロは今、エリオと共に増加した事務仕事をエリオに手伝ってもらっている。

「最近、様子がおかしいなとは思っていたんですが。」
「……うん。理由は……多分、この間の戦いのことなんだと思う。」

 そう言って、テーブルの上のコーヒーを混ぜるフェイト。
 彼女の目前にいるシンは彼女のそんな様子を見ながら自分のコーヒーを口元に運ぶ。
 そんな二人の様子を見ながら、シグナムが口を開いた。
 此処に来る前はいつもみたいなドタバタ騒ぎにならないか心配していたが、そんな兆候など欠片も見せないので内心ほっとしていた。

「恐らく、お前がテスタロッサを助けに行った後のことが切っ掛けなのだろうな。」

 コーヒーに砂糖とミルクを入れて、混ぜながらシグナムが呟いた。

「あの後?」

 その言葉にシンが反応する。あの後、つまり、自分がトーレとか言うあのナンバーズと戦っていた時に起こったこと。

「ああ。あの後、正体不明の魔導師との戦いの際に、エリオ達は二人だけで戦わなくてはいけなくなった。私とアギトはドローンとの戦いに集中しなくてはならなかったからな。」
「その時に?」

 シンの言葉に頷くシグナム。

「そうだ。その時、エリオは殺されかけた。結果的には死ななかった。だが、殺されかけたのは確かだ。」

 生き残れたのは紛れも無く自分の力だがな、と付け加えコーヒーを口に含む。程よい甘さが苦味を打ち消してくれている。
 彼女は甘党だった。

「……それで、それに怯えてる?」

 その言葉を聞いて、神妙な顔をするフェイト。
 そんな彼女の方に顔を向けると、シグナムはコーヒーをテーブルに置き、首を振ってその言葉を否定する。

「私はそう思っていたんだが……今テスタロッサが言った話を聞いて自信が無くなった。」

 肩を竦め、シグナムがそう呟いた。その言葉を聞いて、フェイトが続きを促す。

「シグナム、それはどういうことですか?」
「何かに怯えているのは確かだろう。だが、お前の話を聞いているとエリオが怯えているのは敵や戦闘そのものではなく、むしろ私達のように思える。」
「ああ、それは俺も思いました。」

 シグナムのその言葉を聞いて、それまで黙っていたシンが口を開いた。
 フェイトとシグナムの視線がそちらに向く。朱い瞳は視線を逸らすことなく受け止める。
 フェイトが口を開いた。

「……エリオが私達に怯えているってこと?」
「端的に言えばな。アスカ、お前はどう思う?」

 シグナムに促され、渋々と言った感じでシンが話し始める。
 それほど乗り気ではないのだろう。
 誰かの内面を語るほどにその誰かを知っている訳ではない。そう、思っているから。

「その時の状況を知らないから何とも言えませんが……エリオが怯えているのはシグナムさんの言う通り、奴らじゃない……むしろ、キャロに怯えているんだと思います。」

 具体的なシンの言葉。フェイトは驚きを顔に張り付かせ、隠そうともしない。キャロ。その言葉はあまりにも意外すぎて。
 シグナムはシンの言葉に何かを感じ取ったのか、目を細め、シンを見つめると、ぼそりと呟いた。

「……お前は、何か分かったようだな。」

 そのシグナムの言葉にフェイトの視線がシンに集中する。
 じっとシンを見つめる彼と同じ紅い瞳。真摯な視線。
 その一途さに気圧されるようにして、シンは瞳を逸らした。
 そして、言葉を吐き出す。力無く、か細く。

「……分かりませんよ、俺は。」

 口から出た言葉を掻き消すようにコーヒーを一気に口に流し込む。
 既に冷め切っていたのか、コーヒーは予想していたよりも熱くなかった。

「シン……」

 フェイトの視線が逸らした瞳に突き刺さる。自分に向けられるその視線から目を逸らし、窓から見える外の風景に目をやった。

「……俺が話しますよ。多分、エリオは話してくれると思います。」

 呟くシンの胸にはある確信が満ちていた。
 エリオが悩んでいること。それはシンにとって何度も何度も感じたことだったからだ。
 それはシグナムなどのヴォルケンリッターであればまだ理解できるかもしれない。
 けれど、フェイトには理解出来ないだろう。そして、恐らく八神はやてにも。

 もしかしたら、この世界の誰にも理解できないかもしれない。
 “怯えた視線”。“殺されかけた”。“エリオとキャロの二人の戦い”。
 与えられたのは断片的なキーワードだけ。それだけで答えを得るなど当てずっぽうもいいところだ。
 だが、確信を持って言えた。恐らくは間違いないと
 
 ソレは人を殺しかけたと言う感触。命を摘み取ろうとしたと言う認識。
 エリオが誰を殺そうとしたのか、それは彼本人に聞いてみなければ分からない。
 だが、断片的な情報からもたらされる予想は、殺されそうになった恐怖ではなく、“殺し”そうになった恐怖を想起させる。
 殺人を肯定する為に誰もが一度は通る一つ目の関門である。
 
 いつの間にか懐のデバイス・デスティニーを握り締めていた自分に気付く。
 その感触が思い出させるのはこのデバイスと同じ名前のモビルスーツに乗った初戦――裏切り者に追いすがり、手を掛けた時の気持ち。
 思えば、その時の気持ちによく似ている。
 上官を、戦友を、殺しそうになった恐怖。あの時は躊躇いつつも殺そうとした。
 押し寄せたのは罪悪感だった。その後の戦乱と混乱の中でそんな罪悪感も押し流されてしまったが。
 そして、最後は殺そうとしたその上官――アスラン・ザラに叩き潰された。
 考えてみればいつも自分の前にはアイツが立ち塞がっていたような気がする。
 気に食わない、いけ好かない奴だった。多分、生理的に合わないのかもしれない。

(アイツ、今頃何してるのかな……やっぱり今も偉そうなままなのかな?)

 当然だ。偉そうじゃないアイツ――アスラン・ザラなどアスラン・ザラではないだろう。
 思わず苦笑する。偉そうにしているアスランのことなら直ぐにでも頭に思い浮かべることが出来たから。
 人間、やはり嫌いな人間のことはいつまでも覚えているものらしい。皮肉なことだ。シンは心中で一人ごちる。

「……いいの、シン?」

 フェイトの弱々しい呟き。振り返って、シンはなるべく愛想よくなる様にと思いながらフェイトに言葉を返した。
 なるべく、“自分を出さないように”、と

「……同じ部隊のメンバーですからね。問題ないですよ。」

 その言葉にシグナムとフェイト、両者共に一瞬表情を強張らせた。
 シンは一瞬首を傾げそうになるも、「まあ、いいか」と考えると財布から料金を取り出し、テーブルの上に紙幣を一枚置いて立ち上がる。

「じゃ、俺行きます。エリオとは今日中に話をしておきますから。」
「……もう行くの?」
「はい。そろそろ日課の時間ですから。」

 日課=訓練。
 その言葉を聞いてフェイトの唇が引くつく――シンはそんなフェイトを気にした様子も無く、会釈をして、出口に向けて歩いていく。
 残される二人。フェイトがシンに手を振っている――彼の姿が出口に消える。

「……はあ。」
「……上手くいかないのだな、テスタロッサ。」
「ほ、ほっといてください、シグナム。」

 この時は誰もが軽く考えていた。エリオの悩み。それが何を引き起こすかなど。
 
 運命とはいつも水面下で動き回り、取り返しがつかない時にならなければ気付かない。
 そんな当たり前のコトを誰もが忘れていた。この時は、まだ。


 夜、屋上。星空が見えた。天に広がる星達の群れ。
 それを見上げながらエリオ・モンディアルは悩んでいた。
 悩み――それは件のキャロを見殺しにしようとしたこともそうだが、それと同時にキャロやフェイトが自分の悩んでいることに気付き始めていることへの悩みだった。

 過保護と言ってもいい彼女――フェイト・T・ハラオウンのことだ。打ち明ければ、きっと優しく諭し、そして道を教えてくれるだろう。
 いつだって、今まではずっとそうだったから。
 キャロも同じ。きっと彼女は自分の悩みをきっと笑って許してくれるに違いない。
 
 だが。だが、それでも打ち明けることは出来なかった。実際、打ち明けようとしたことは何度もあった。
 けれど、打ち明けようとすれども、打ち明けられなかった。
 打ち明けようとすれば心臓の動悸が激しくなる。身体が震える。喉が渇いて上手く喋れなくなる。
 
 フェイト・T・ハラオウン。そして、キャロ・ル・ルシエ。
 彼女達二人はエリオにとって、紛うことなく家族だった。
 家族に捨てられ、愛玩人形でしかなかったことに気付き、絶望という檻の中で停滞していた自分にとっての希望の光そのもの。
 信頼している。命を懸けて信頼している。
 だから、打ち明けることなど怖くは無い。
 打ち明けたとしても彼女たちは自分を受け止めてくれる。
 理性はそう信じている――だが、それでも怖かった。
 理性すら駆逐する本能の部分で。エリオの心にあるトラウマがそうさせていた。
 即ち、“見捨てられることへの恐怖”が。
 
 エリオ・モンディアルにとって見捨てられることとは恐怖の対象である。
 最も大切だと思っていた人。
 自分を守ってくれると思っていた、無条件に信頼するべき両親が彼に与えたのは薄っぺらい人形に向けるような愛と深遠なる絶望である。
 本来、誰もが与えられる無条件の愛という階段を昇り、裏切りという絞首台に乗せられ、絶望という名の地獄へと突き落とされたのだ。
 幼い子供にとってそれがどれほどの傷になるかなど考える必要も無い。
 
 エリオにとってその地獄に手を差し伸べてくれたフェイト・T・ハラオウンとは殆ど神と言ってもいい尊敬の対象であり、畏敬の対象である。
 
 決して裏切ってはいけない。裏切ることなど許されない。そして、何よりも誰よりも裏切りたくない存在である。
 命を懸けて。もし、裏切るなら死んだ方が良いとさえ考えるほどに。その思いは狂信的とも言える一途で苛烈なモノである。
 
 そして、同じ立場であり、自分にとって最も近い存在であるキャロ・ル・ルシエ。
 彼女も同じく決して裏切ってはならない、裏切りたくない存在である。
 
 敬愛するフェイトの引き取ったもう一人の義理の子供であり、それ故に彼にとっては誰よりも何よりも絶対に確実に守らなくてはならない存在である。
 別段、フェイトのことが無くとも、エリオはキャロのことを守るだろう。
 彼女は、少なくともエリオよりも弱い。
 弱気を助け、強気を挫く――騎士足ろうとする彼にとって、少女はその信念を満たす為にも必要な存在なのだ。

 ――彼の、庇護欲を満たす為に
 
 庇護欲。それは、下卑た欲望では無い。むしろ、称賛されるべき欲望である。
 だから、そんな気持ちをエリオが持っていることに誰も気付きはしない。
 同じく、当人同士も気付きはしない。
 
 エリオにとって、キャロはそういった庇護欲を満たすと言う事実以上に――大切な仲間である。
 キャロにとって、エリオとはそういった事柄に関係無く――大切な仲間である。
 
 その関係は永続的に続く関係だ。
 少年は少女を守り、母を守り。
 少女は守られ、母は見守る。
 歯車のように噛み合うことで、稼働する自動的な、美しい親子の似姿。
 いつか、その関係が変化して――例えば、少女が少年に恋をして、或いは少年が少女に恋をして、或いは少年が母に恋をして――歯車はその時、変遷する。
 けれど、その時までは、関係は変わることなく継続する――はずだった。 
 
 自分にとっての母――崇拝の対象とも言えるフェイト・T・ハラオウン。
 自分にとっての家族――弱者の対象であり、守るべき象徴でもあるキャロ・ル・ルシエ。
 
 この二人を守る。これがエリオにとって、最も重いルールだ。 
 このルールは何よりも重い。それが騎士としてのエリオの根幹なのだから。
 
 裏切られたからこそ、決して裏切らない――裏切られることが怖いから。
 裏切られることに慣れ、裏切るも裏切らないもどうでも良いと思う――シンとは似て非なるモノだ。

 彼は、それを壊した――恐らく、そう思っているのは本人だけだろう。
 誰も、エリオがキャロを裏切ったなど思っているはずもない。
 けれど、エリオ本人はそう思っていた。
 裏切った――正確には、裏切ってしまった、か。
 
 殺されそうになったから――見殺しにしようとした。
 
 幼い彼の純情は一途過ぎるほどに、真っ直ぐだ。
 そんな彼にとって見殺し/裏切ると言う行為は禁忌の最たるものである。
 それが彼に与えたストレスが如何ほどか――考えるだけでになるかなど今更語るまでも無い。
 
 だからこそ、打ち明けるのが怖い。
 もし嫌われたら――拒絶されたら。
 それを考えるだけで、吐き気を催し、頭痛が脳裏を引き裂かんばかりに殺到する。
 全身が震え、鼓動が加速し、汗が噴出す。
 吹き出た汗を、風によって乾いていく――冷え込む身体。
 なのに、心は今もずっと恐怖で怯えて震えて熱を持って。
 
「……ボクは。」

 後方で音がする――振り返る。心臓が跳ね踊る。
 階段を上る音。ドアを開ける音。そして、名前を呼ぶ声。
 恐れが湧き上がる。けれど――

「……エリオ、いる……よな?」

 振り向いたエリオの視界に見えた姿。ぼさぼさの黒い髪と赤い瞳の男。
 ――それは、期待/恐怖、していた誰かではなく、

「シンさん……ですか。」
 
 シン・アスカだった。
 名前を口に出した瞬間、エリオの胸がざわついた。
 機動6課と言う日常を変えていく篝火。
 命を懸けてフェイトを救った、エリオがなるべき――ならなければいけない存在。
 シン・アスカがそこに立っていた。どこか、申し訳無さそうに。


「……」
「……」

 シンが屋上に入って既に十分ほどが経過した。
 二人の間に会話はない。揃って空を見上げて、星を見ていた。
 沈黙が痛い。話すべき言葉を持たないのではない。話すべき言葉は決まっている。
 けれど、それを口に出していいのかどうか。
 シンはそれを迷っていた。
 不意に、沈黙を破る声――エリオが口を開いた。

「……どうして、ここに?。」

 視線は空に向けたまま――呟くエリオ。
 
「何となくだよ。何となく、お前が此処にいるような気がしたからさ。」
「そう、ですか。」
 
 沈黙が幕を下ろし――エリオの声が響いた。
 意を決したような彼の声。
 聞きたくない――けれど、聞かなくてはならない。
 そんな決意の声。

「どうしたら……シンさん、みたいに、なれるん、ですか?」
 
 シンは一瞬、質問の意味が分からなかった。再度聞き返す。自分の聞き間違いだと信じて。

「……俺みたいに?」
「シンさんみたいに……強く。」

 迷うことなきエリオの返答。僅かな逡巡。もう一度聞き返す。

「……俺が、強い?」
「はい。」

 エリオの返答に淀みは無い。彼の顔を見る――本気の顔。
 彼は本気で、そんな世迷言を言っている。

「いや、エリオ、俺は別に……」

 その返答を否定しようとするシンの言葉を遮るようにエリオが呟いた。
 小さく――けれど、強く。

「……キャロを見殺しにしようとしてしまったんです。」

 淡々と呟いた。無表情。けれど、その横顔は痛々しい。

 ――キャロを見殺しにした。それがエリオは許せない。

 それはシンの考えていた予想そのものだった。
 当たって欲しく無いとは思っていたが――正直な話それ以外に無い。
 だから、その言葉を聞いたところで驚きはしない。
 むしろ、外れていてくれと願っていたくらいだ。

「……この間の戦闘か。」

 エリオが頷いた。
 彼自身、フェイトやシグナム達には言えなかったのに、どうしてシンには告白しようと思ったのかは分からない。
 多分、それは――衝動的なモノだろう。
 仮に理由があったとしても、それは全てその衝動に対する理由づけに過ぎないし――理由そのものもロクでも無い理由だろう。
 例えば、シン・アスカの戦い方が一番エリオが求めているモノに近いからと言う理由とか。
 命を賭して守る。その戦い方はエリオが一番辿り着きたい姿そのものなのだから。

「……僕はあの時、キャロの命よりも自分の命を優先しました。」

 見上げていた顔を下ろして俯くエリオ。シンは口を開かずにじっとその独白に耳を傾ける。

「僕は……殺されるのが、怖くて、死にたくなくて……キャロに向けられていた砲口を“無視”して、
僕に向けられていた砲口に集中した……見殺しにしようとした……。」

 俯くエリオに向かって言葉をかける。

「……あのな、エリオ。どうして、自分が間違ってるなんて思うんだ?俺にはお前の選択がそんなに間違ってるとは思えない。」
「……見殺しにしようとしたんですよ? それが間違いじゃなきゃ何が間違いだって言うんですか。」

 抑揚無く、無理矢理に感情を押さえつけたような声でエリオは血を吐くようにして続ける。

「僕は、キャロを見殺しにしようとして……助かったのは結果論だ。もしかしたら、キャロは今頃――」

 そう言って両手を見るエリオ。
 幼い、小さな掌。
 今、エリオにはその手が真っ赤に血塗られたモノにでも見えていると言うのだろうか――馬鹿な感傷だ。
 呟く。

「……あのな、自殺志願してどうするんだよ。いいか、エリオ。戦闘で大事なのはとにかく生き残ることだ。自分から死ににいくような戦い方が正しい訳が無い。シグナムさんやフェイトさんだって危険になれば撤退する。」

 それは正論だ。教科書通りの模範的な――シン・アスカに最も似合わない回答。
 彼自身、自分で呟いて、これほど薄っぺらい言葉も無いと自嘲したくなるほどだった。

「……あなたが、それを、言うんですか?」

 ぎりっと奥歯を噛み締めるとエリオは激昂しそうになる自分を自制し、爪が食い込むほどに強く拳を握り締める。

「シンさんは、違うじゃないですか……!!シンさんは命を懸けてフェイトさんを助けようとしたじゃないですか!!?」
「……俺はいいんだよ。別にいつ死んでもいいんだし。」
「何ですか、それは……何で、自分は良くて……僕は駄目だっていうんですか!?」

 ――シン・アスカ。彼はエリオにとって一つの目標であり、憧れであった。
 僅か数ヶ月で魔法を覚え、自分達フォワード陣と渡り合うまでの実力を持つ。
 やや、ぶっきらぼうでありながら物腰は基本的には丁寧でいつも自分やキャロを目にかけてくれる。
 エリオはシンにどこか兄のような感覚すら覚えていた。

 そして同時にエリオにとって、最も大事な女神のような存在――フェイト・T・ハラオウンの心をいとも容易く奪っていた男。
 それも本人――シンはまるで意識することもなく。
 
 エリオがシンに憧れる理由。その強さや才能、努力を惜しまない姿勢。それらも理由の内には含まれている。
 だが、最も大きな理由。
 それはシン・アスカの戦う姿勢――命を捨ててでも誰かを守ると言うその姿勢と、フェイトの心を奪った人間であると言うことだった。
 憧れであり、目標である人間。自分と同じカタチの人間。自分が行き着くべき果て。エリオにとってシン・アスカとはそんな人間である。
 だから、エリオは激昂する。
 自分よりも遥かに命を粗末にしかねないのに――自分の目標なのに、どうして“分かってくれないのか”、と。

「……それは」

 二の句を告げなくなるシン。
 ある程度予想していた回答。そして、予想通りに自分はそれに反論できない。
 何故なら――シンにとって、エリオの言葉はあまりにも正し過ぎるからだ。
 
 そう、本当は痛いほど、その気持ちを理解している。
 エリオが思うことはおかしくはない。
 他の人間はどうか知らないが――少なくともシン・アスカと言う人間はその気持ちを正当だと断じることが出来る。
 自分だって、犠牲になろうとした――フェイトを助ける為に、死のうとした。
 そのことに喜びさえ覚えた。
 誰かの為に死ねるのだから、喜ばない訳が無い。
 だから、

「僕は自分が……許せないんです。」

 握り締めた拳を見つめるエリオ。

 ――そんなエリオの後悔を痛いほどに理解してしまう。

 エリオが握り締めた掌を見つめ、何かを堪えるように奥歯を噛み締めた。
 こんな小さな手では何も守れない――そんな風に思っているのかもしれない。
 少なくとも自分なら、そう思う。心中でそんなことを考えて、エリオに呟いた。
 
「……でも、キャロを守れた。それは喜ぶべきじゃないのか?」

 鼻で笑いそうなほどに薄っぺらい言葉。
 言葉の重みとは、そこに籠る気持ちで決まるのだとすれば――その言葉自体が嘘と感じている自分が言えば薄っぺらくなるのも道理だろう。
 
 それは、いつか自分が彼女に言われた言葉だ。思えば彼女はどんな気持ちでこの言葉を発したのか。
 少なくとも今の自分のような気持ちで言ったのではないのは確かだろう。
 彼女の言葉はシンの胸に届いたのだ。
 その後の彼が、その生き方に縋りつくほどに――だから、それは本気の言葉なのだと思う。少なくともシンはそう信じていた。
 本気だから届いたのだ。
 本気の気持ちだったからこそ――だから、そんな、本気で無い言葉が届くはずも無い。

「結果だけです……もしかしたら、キャロは死んでたかもしれないんですよ!?良い訳無いじゃないですか!!」

 エリオは掴みかからんばかりの形相でシンを睨みつける。
 睨みつける視線を受け止め、シンは――何も言えずに黙り込む。
 隣り合い、屋上に座り込みながら、対峙する二人。
 
 シンがエリオに言えることと言うのは、実はもう何も無い。
 戦う以上は生き残るべき方法を選ぶのは当然だ。
 もし、その結果として誰かを失うことになろうとも、生き残る方法を選ぶ方が何よりも正しい。
 戦いに勝敗などは存在しない。
 死ぬか生きるか。
 与えられる結果はその二つに過ぎないからだ。
 

 だから、シンはエリオが目指そうとする答えにこそ憧れを抱く。
 
 守りたいモノを守ると言う生き方を。
 
 その答えは以前の自分よりもよほど正しく――また、今の自分よりもはるかに正しい答えだから。
 自分を犠牲にして、誰かを生き残らせる。
 しかも、その誰かは別に知り合いでしかない――仲間ではあるが、ただそれだけの関係でしかない。
 誰であろうと関係なく、シンはその方法を選ぶ。
 それは崇高な誓約とかではなく、単なる自己満足の欲求の捌け口に過ぎない。
 
 そんな自己満足に過ぎない、生き方に比べれば、エリオの生き方はあまりにも眩しい。
 守りたいモノを“選択し”、守りたいモノを守る為に命を懸ける。
 葛藤もあるだろう。懊悩もあるだろう。
 けれど、その果てに待っているのは――昔の自分では掴み取れなかったモノ。
 それは――本当に眩しすぎる生き方だった。
 
 エリオは今、それを蔑んでいる。
 どうして、自己犠牲を出来なかったのか、と。
 だが、その葛藤や懊悩こそが――思考する、と言うことこそが大切なのだから。
 それは、過去に自分が放り投げて逃げ出した、生き方だから。
 
 だからこそ、シンはエリオを、どうしていいのか分からない。
 分からないけれど――少なくとも、彼が、その道を選ぶことは勧めない。
 その道――即ち思考停止を行い、簡単に命を投げ捨てられる自己満足の道に。
 それは、エリオが選んではいけない道だ。
 彼の目の前には幾つもの道が開かれている――その中で、最も最低最悪の道をどうして勧めることだろう。
 
 シン・アスカとは違うのだ。
 13の時に家族を失くしてその復讐の為に生きてきた。家族を奪ったフリーダム。そして人々を苦しめる戦争と言う名の理不尽を敵として。
 その時点で、全てが間違っている――そんな選択肢しか選ばなかった、人間とはまるで違う。
 
 それ以外の選択肢はあったはずだった。
 彼が軍人にならずに生きる道はきっとあった。
 
 けれど、それを選ばなかった――何故なら彼は復讐がしたかったから。それ以外の道など思いつきもしなかった。

 復讐という炎に身を焦がすことを望んで、戦場の矢面に立った。
 思春期と言う青春の全てを戦争や鎮圧に明け暮れた。それ以外の生き方など頭から抜け落ちた。
 義務教育すら途中までしか受けていない。勉強など殆ど出来る訳でもない。
 その代わりに得たのは兵士としての技能と知識。
 結果、生まれたのは戦争しか出来ない一人の人間――単なる出来損ないで無学の馬鹿だ。
 
 そして、そこまで全てを懸けたその果てに――彼は何も叶えられなかった。何も叶えられずに死んだ。
 そんな失敗続きの人生が、彼に残したのは、せめて何かを守りたかったと言う欲望。
 その欲望が彼に現在の選択を選ばせた。
 
 別にこの選択を後悔している訳ではない。
 むしろ、喜びさえ感じている――欲望のままに生きることが出来る。それは最高に嬉しいことだ。

 だが、彼は――エリオは違う。
 彼は自分とは違い、最高に輝くける道があり、なおかつ未だ若い――幼いとさえ言って良い。
 この年齢で、高い実力を持ち、努力を怠らない。
 その上、人当たりも良く真っ直ぐな性格。
 輝かしい未来をその身に秘めた明日の担い手。
 
 ――自分のような、戦うことしか出来ない人間とは、まるで違う。
 
 だから、シンはエリオにそんな道を進んで欲しくない。進む必要も無い。
 その道を選ぶしかなかった自分と違って、エリオには輝かしい道(ミライ)が約束されているのだから。
 
 けれど、その価値などエリオにはまだ分からない。
 だからこそ二人の会話は平行線を辿るしか無い。
 エリオにとってはシンが進む道こそが輝かしい未来であり、シンにとってはエリオが選ぶ自身の道以外こそが輝かしい未来である。
 その擦れ違いは平行線。決して出会う事の無い、表裏の如く。

 沈黙。押し黙ったシンを見て、エリオは立ち上がると苛立たしげに呟いた。

「シンさんには分からないですよ……僕の気持ちなんて、何一つ。」

 振り向いて、その場から歩いていく。
 既視感を覚えた――あの時の、記憶が蘇る。あのいけ好かないアイツに殴られた時の記憶が。

『戦争はヒーローごっこじゃない。』

 アスランはそう言って自分を殴った。
 自分の言っていることも同じ――状況は違う。
 あの時の自分はヒーローごっこをしようとして、エリオは今ヒーローごっこをしたくて力を求めている。
 それは――何も手に出来ないまま、自分のような出来損ないに至りたいと願っている。

「エリオ!!!」

 思わず叫んだ。彼は振り返ることなく、歩いていく。
 聞こえていない――聞こえない振りをしている。
 無言の背中が示すモノは拒絶。
 足を踏み出す――けれど、踏み出した足が動かない。

(……俺にそれを言う資格があるのか?)

 自問する。答えは明瞭。資格など無い。あるはずが無い。
 自分が今やっていることはヒーローごっこそのものだ。
 ただの自己満足として戦い続けるだけに過ぎない――エリオの考えも理解できる。理解出来てしまう。
 だから、エリオを“本気”で止めることなど出来ない。
 理性は止めろと叫び、欲望は何も言わず無関心。
 嘘だらけの言葉。
 嘘でしかない言葉。
 そんな人間の言葉がエリオに届くはずが無い。
 先ほどと同じことの繰り返しになるだけだ。
 
 ――また、何も言えないまま、終わるだけだ。
 
 シンの唇が歪み、力のない嘲笑を浮かべる。
 前に出した手が落ちていく。
 自分にエリオを諭すことなど出来るはずが無い。
 あの時の自分が結局アスランには諭されなかったように。
 既にエリオの姿は見えない。もう、行ってしまっていた。
 どこか――恐らくは自室へと。
 追いかけ――

「……馬鹿か、俺は。」

 何を、言えるのか、と心中で再度反芻し、自分の言葉を思い出す。
 
 “……俺が話しますよ。多分、エリオは話してくれると思います。”

 笑わせるな。確かにエリオは理由を話してくれた。
 だが、それだけだ。話してくれただけで、何も解決などしていない。
 自嘲の笑みが再び浮かぶ。
 それこそ笑わせるな、でしかない。
 言葉で何を言い繕うとも何も変わらない――自分如きが何を言おうとも何も変わらない。
 だから、もし自分に出来ることがあるとするならば、それは――

「……変わらない。変わらないさ、いつもと同じで、何も変わらない。」

 守れば良い――そう、守れば良いだけの話だ。
 エリオがその道を選ぶと言うなら、自分がその道ごとエリオを守れば良い。
 変わらない。何一つ変わらない――出来ることなど、それしかない。
 それは何も解決しない、問題の先送りに過ぎない。
 ただ現状維持を繰り返すだけの臆病者の選択。
 それでも、彼の脳髄が思いつかせたのは、そんな逃避でしかなかった。
 それ以外に何も出来る訳がない。そう、自分自身を蔑んで――彼は天を仰ぐ。
 決して届かないと知りながら、夜空に向かって呟いた。

「……アスラン、アンタもあの時、こんな気持ちだったのか。」

 呟きは夜空に吸い込まれて消えていく。
 残るのは静寂。天の光を彩る静寂だけだった。



[18692] 27.始まりの鼓動(b)
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/18 23:21
 夜を彷徨う。
 見える色は漆黒ではなく、星の明かりが照らし出すアスファルト舗装。
 エリオは今、隊舎を飛び出し、夜道を歩いていた。

「……なんであんなこと言っちゃったのかな。」

 溜め息を付きながら、肩を落とし呟く。
 夜道は暗く、エリオにとって都合のいいことに周りには誰もいない。
 それは当然の事で、実際時間は既に10時を回っている。
 周辺地域に繁華街などのいわゆる大人が集まる場所は無い。
 つまり、一般の民家がそうであるように殆どの人間は寝るか、家でくつろぐ時間である。
 
 夜道の先には公園があった。
 最初からの目的地はそこ。公園のベンチ。その場所で少し頭を冷やしたい、そう思ったから此処に来た。
 うだるような暑さがあった。
 アスファルトから登る熱気と肌を流れる不快で暑い風に顔をしかめながら、エリオは街路灯の明かりを頼りに公園に設置されているベンチの場所を探す。
 見渡せば直ぐに見つかった。そちらに歩き、腰掛ける。

 ふう、と溜め息。
 そして胸に沈んでいく猛烈な後悔と罪悪感。
 シンの横顔を思い出す。
 何かを言おうとして――言えない、そんな顔。
 後悔と罪悪感が胸に上がる。
 
 確かにキャロを見殺しにしようとしたことは最悪なことだ。
 だが、それをいつまでも引きずった挙句に周りの人々に心配させ、あまつさえ自分を心配し相談に乗ってくれたシンに八つ当たりのように文句を飛ばした。
 ――明言はしていないが恐らくはそうだろう。
 単なる八つ当たりだ、これは。本当に、情けない。

「……でも、シンさんがそれを言う事無いじゃないですか。」

 ベンチの背もたれに寄りかかり、左手の甲で自分の額に押し付ける。
 額から沸き出る汗が左手を濡らしていく――不快感を感じる。
 
 エリオにとってシンは憧れだ。フェイトとはまた違った意味で。

 単純に言えばカッコイイ。複雑に言えば理想。
 
 無論、エリオはシンが誰かを守ることだけを生きがいにしているなどは知らない。
 エリオが知っているシンは、あくまで“目的を手に入れたシン”である。
 それ以前の無気力一辺倒のシン・アスカを彼は知らない。
 
 そのシンを皮きりにあの模擬戦、その後の6課での訓練、そしてついこの間の実戦、その程度にしかエリオはシンを知らない。
 ――だからこそ、エリオは勘違いしているのだが。
 どちらにせよ、その中でエリオはシン・アスカと言う人間に憧れた。

 ああ、この人も騎士なんだ、と。
 
 訓練では何よりも味方が被害を受けることを恐れ、いつ何時でも誰かを守ることを念頭に戦うと言う元軍人と言う経歴からはまるで思いもよらない姿。
 エリオが思い浮かべる軍人と言うのはそれなりに庇いもするが、それなりに見捨てもする。
 作戦行動に支障が起きることを最も留意する軍人はそうなるのが必然だ。
 そして、実際のところ、エリオの思い浮かべる軍人の姿は正しい。
 何もそれは軍人に限った事ではない。
 個人の判断が集団の利益に関係する仕事は殆どそう言った命題を抱えている。
 
 そういった観点から見てシンのやっていることは、愚にも付かない馬鹿な人間のすることだ。
 誰も見捨てられない。目に映る人々を全て守り抜く。
 取捨選択と言う行為をしない人間。

 未だ10歳の子供でしかないエリオにとってそんな人間がどう目に映るかは想像に難くない。
 エリオにとっては正に自分自身が思い描く最高にして最大の“誰をも救うカッコいいヒーロー”である。
 
 エリオ・モンディアル。
 彼はその出自からして“特別”な人間である。
 そして、特別であるが故の嘲りや罵倒、裏切りを受け続けた彼にとって誰かを守ると言う行為は、自分がその誰かに見捨てられない為の大事な行為だ。
 どちらかと言うと助けたいから助ける、ではなく、捨てられたくないから捨てないに近い。
 勿論、それを意識したことはない。これはエリオが彼の養母――フェイトから無意識の内に手に入れた処世術のようなものである。
 
 フェイトは幼い頃に受けた母とのやり取りの中で、エリオは幼い頃に受けた両親からの裏切りによってそういった精神構造を手に入れた。

 フェイトは手に入れた、その精神構造故にシン・アスカに強く惹きつけられた。
 シン・アスカ――つまりは他人の考えなどどうとも思わない強烈なエゴに。
 そのエゴが向かう先は全てを守ると言う馬鹿げた夢想――或いは自己満足。
 どこにも辿り着かない袋小路。それでもシン・アスカと言う男は考え無しに突き進む。
 脱水症状を起こして倒れても、筋肉が痙攣して動けなくなっても――何があっても突き進む。
 圧倒的なエゴ。目的以外はどうでもいいと言いたげな姿。
 その姿に強く強く惹きつけられた――物騒なだけの人間にどうしてそこまで惹きつけられるのか、と彼女自身不思議に思っている。

 だが――恋とはそんなモノだ。
 理由など無い。
 理由が無ければ恋で無いと言うのなら、世の中の恋の半分以上は単なる自意識過剰――恋に恋しているだけと言うことになる。
 だが、それもまた恋だ。
 理由があって始まる恋愛があれば、理由無く始まる恋愛もある。
 事実は小説よりも奇なり――然り、である。
 
 そして、その結果――彼女はそんな彼に守られたいと願う。
 手に入れたいと思った訳ではなく、独占したいと思った。
 これがフェイト・T・ハラオウンの恋の真相である。ギンガ・ナカジマの方も似たような真相である。
 
 同じく――酷似した精神構造をしているエリオもまたシンに強く惹きつけられている。
 勿論、フェイトとは少し違うカタチで。
 
 エリオが惹きつけられたのも同じくシンのエゴではある。
 違うのは、惹きつけられた箇所ではなく、惹きつけられ方。
 エリオはフェイトのように、シンに何かをして欲しいと思わなかった。
 彼はシンのようになりたい、と、そう思った。

 物騒な人間――だが、有事には簡単に自分の命を懸けることの出来る人間。
 苛烈であり、純粋であり、真っ直ぐな――自分以外の他の誰かの事しか考えない。そんな人間になりたいと。
 だからこそ、どうして理解してくれないのかと思った。

 極端なことを言えばシンがいなければエリオはここまで悩まなかった。
 キャロを見殺しにしようとした同時期にシンは自分の命を捨ててフェイトを助けようとした。
 もし、そんな事態が発生していないならば、恐らくはここまで悩む事は無かった。
 
 シンとトーレの戦闘の際の映像は僅かな映像しか見せてもらって居ない。
 だがその僅かな映像からもシンとトーレの間にどれほどの戦力差があったかなど簡単に理解できた。
 それでもシンは恐れずに戦った。目前に迫る死をものともせずに戦った。
 その姿がエリオの目に焼き付いてしまった。
 そして焼き付いた姿はエリオとシンの違いを如実に言い表し、エリオの罪悪感をこれでもかと刺激する。

 結果――少年は男に嫉妬する。
 
 嫉妬の対象は――そうやって命を懸けたと言う事実そのものへと。
 自身には出来ない。なのに、彼は出来た。
 ただ、それだけの理由だ。
 それが悔しい。
 そして、仮に、シンの言う通りにしたならば、シンのようにはなれない。
 シン自身はエリオに自分のようにはなるなと思っているのだから、そこは当然とも言える。
 
 背もたれに身体を預け、エリオは茫洋と空を眺め続ける。
 情けない自分はどうしたら変われるのか。そんな思いを刻みながら。
 ――そんなこと、本当は思う必要など無いのに、彼は何も気付けずにいた。
 この時は、まだ。
 気付くのは――彼が全てを失ってからの話。


 深夜、2,3度もぞもぞっと布団の中で身を動かし、その布団が力任せにどかされる。
 布団の中から現れたのはギンガ・ナカジマ。
 半分、閉じた瞳をぼうっとさせつつ、背筋に鳥肌を感じる。同時に下腹部に感じる違和感。

「……トイレ……」

 ぼそっと呟き、パジャマ姿でそのまま部屋の外に出る――着替えるようなことでもない。そう、思って。
 そしてトイレを追え、自分の部屋に戻る――覚めてしまった意識はしばらく眠らせない程度に眼を冴えさせる。

(眠れるかな。)

 一度目が冴えるとギンガは眠れない。そんな体質だった。
 溜め息を付きながら明日の通常業務に支障が出なければいいな、と思って歩みを進める。

「……?」

 ふと気づくものがあった。
 光だ。その光に気づくとギンガは、そちらに歩いていく。
 光は屋上から差し込む月光。
 多分、誰かがドアを締め忘れたのだろう。
 別に放っておいても良いのだが、見つけてしまった手前、開いたままにしておくのも嫌なので、締めておこうと思ったのだ。
 恐る恐ると言った感じで階段を上り、少しだけ開いていた屋上の扉に手を掛け、思案する。

(どうせ寝れないんだから――空でも眺めてから寝よっと。)

 メルヘンチックな思考を浮かべ、ドアを少し前に押し出す。
 昼間よりは少し下がった空気――それでも未だ熱気と言う感じは消えていない。
 完全に空調管理された隊舎内とは違う空気。夏の夜空の雰囲気を胸一杯に吸い込み、開き切っていないドアを完全に開いた。
 足を進める。空を見上げる。

「……うわあ。」

 感嘆の溜め息が漏れる。手を伸ばせば星が掴めそうな満天の夜空を見て。
 屋上という場所が故に外灯の光が届かないからだろう。
 普段見る夜空とは別格の綺麗さがそこにはあった。

「……綺麗。」

 呟き、屋上のドアを閉める。
 思わずガチャンという音を鳴らしてしまう。
 風で引っ張られ、力の加減を間違えた。

「……起きない、わよ、ね?」

 自問する。数秒間待つ。足音や声は聞こえない。起きていない。
 心中でほっと一息吐くと、回れ右して彼女は屋上の中に進み――声を聞いた。

「ギンガさん?」

 名前を呼ばれ、慌てて声のする方向に目を向ける。
 果たして、そこには彼女の予想外の人間がいた。
 屋上の床に大の字になって眠っていたかのように、瞳は半分閉じたままで眠そうな男。
 朱い瞳。黒いぼさぼさ髪。無地の黒いTシャツに黒いジャージ。味も素っ気もないパジャマ姿――もしくは訓練姿。

「……何やってるんですか、シン。」

 シン・アスカがきょとんとした瞳で彼女を見つめていた。


「こんな時間に何してるんですか?」

 屋上のコンクリート製の床に座り込んだままシンがギンガの方に顔を向けて呟いた。

「いや、トイレの帰りにちょっと寄ってみたんですけど……シンこそどうしてこんなところに?」

 風で流れる髪を左手で抑え付けながら、ギンガが呟く。
 その言葉にシンが少し眼を逸らしつつ、口を開いた。

「……ちょっと考え事してたら、そのまま寝てしまってました。」

 はは、と乾いた笑い。
 ギンガはその様子に何か引っかかりを感じつつも表に出すことなく、溜め息を吐き、瞳を細め、シンを見つめる。

「……風邪引きますよ?」
「大丈夫ですよ、そんなにヤワな身体じゃないですし。」

 シンはギンガの言葉に苦笑しながら返す。

「……そういうこと言う人が一番風邪引くんですけどね。」

 そう、呟きながらトコトコとシンの座り込む方に歩いていく。
 吹き荒ぶ風。空を見上げれば雲が流れていくのが見て取れる。
 風で荒らされそうになる髪を右手でしっかりと押さえつけながら、座り込んだままのシンに近づくと、ギンガが言葉をかけた。

「隣、いいですか?」
「どうぞ。」

 では、と呟き、その隣に腰を下ろすギンガ。布越しに感じるコンクリートの冷たさがに一瞬顔をしかめるも直ぐにそれは消える。
 横を見ればシンはずっと空を眺めている。
 その横顔を眺めながらふとギンガは思った。
 そう言えばこんな風に二人だけでいるなんてことは機動6課に来てからは無かったなと思い――少しだけ嬉しくて浮き足立ちそうな気持ちを抑えこむ。
 シンの横顔を見たからだ。
 その表情は浮かない。その横顔を見れば彼女でなくとも彼が何かに悩んでいることが理解できる。

「何かあったんですか?」
「……」

 沈黙。黙り込むシン。意を決したようにこちらに振り向くと、その口が動いた。

「……ちょっと、言えませんね。」

 申し訳なさそうにシンは苦笑する。頼りなげな笑顔。いつもとは違うシンの表情。

「そうですか。」

 ギンガはその返答に少しだけ落胆して、声を落とす。自分しか分からないほど少しだけ。
 シンは足を広げて両手で身体を支えるようにして空を眺める。
 ギンガは体育座りをしながら彼と同じ方向に目を向けている。

「……」
「……」

 言葉は無かった。
 沈黙だけがその場所に佇んでいた。
 言葉を失った訳ではなく、かける言葉が見つからない。だから、沈黙する二人。

 隣で体育座りをしながら空を眺めているギンガの横顔を見ながら、シンは僅かばかり罪悪感と言うか後ろめたさを感じていた。
 別に隠し事をした――というほどの重大なことではない。
 言ったところで彼女は別に誰にも言いはしないだろうし、別に知られて困るようなことでもない。

 誰かの話を他の誰かに言うということが単純に嫌だったから言わなかった。ただそれだけ。
 部隊の規則ではなく、自分の倫理に従っただけだ。
 
 決して彼女を蔑ろにしている訳ではない。
 そういう訳ではないのだが――何故だか、シンの心には罪悪感が付き纏う。
 彼女の横顔が少しだけ落ち込んでいたように見えたからだ。
 
 俯きそうな自分を無視して、シンは空を見る。
 その心の動きに気を取られる――それに何故か恐怖を感じたからだ。
 自分が“戻ってしまいそうな”そんな恐怖を。
 
 そんなシンとは対照的にギンガの内面は平然としたものだった。
 嵐を飲み込んだ静けさであるのだが。
 つい先日の事件――仕事をサボって追っかけたことである――の後のことだ。
 八神はやてに、こってりと叱責された後のこと。
 自室でベッドに座り、彼女は呆然と自分のしたことを振り返っていた。

 “仕事をサボって、男を追いかけた。”
 
 それを考えて彼女は思った。自分はこれほどに変わったのか、と。
 自分が変わってしまったことは知っていた。
 それも不可逆の変化が起きたことは。
 
 初恋である。人生発の、それも周りから見たら大分と遅い初恋である。
 おたふく風邪や、はしかは大人になってから発症すると洒落にならない事態になりかねないと言う。
 
 それと同じく、遅咲きの初恋も、これまた洒落にならなかったりする。
 なまじ、知識が増えている分、勘違いしやすい――行き着くところまで行かなきゃ駄目と考えるのだ。
 ちなみに行きつくところと言うと、一昔前の少女漫画にありそうな感じの恋愛である。
 つまりは、告白→付き合う→結婚、と言う安直この上無い恋愛である。
 今時の少女漫画だって、もう少し波乱万丈だ――と言うよりも少女漫画は基本的に波乱万丈過ぎるのだが。
 
 何にしろ、溜めに溜めた知識と言う薪は、容易く恋の炎で轟々と燃え上がる。

 故にギンガやフェイトは最近おかしかった。
 ぶっちゃけると加減が分からないので、やれるだけやれ!みたいなノリだった。八神はやてが叱責するのも当然だ。
 
 そして、その叱責を終えた後、脳内で渦巻く多くの事柄に対してギンガはある結論に至った。
 フェイトは少し抑えようと自覚して自制に走った。
 ギンガも基本的にはこれと同じだ。だが、内面はもう少し深い。

 即ち、自然であればいいと。
 
 ギンガ・ナカジマの願いは単純な話、シンが彼自身の願いを叶えられるように守ること――つまり彼を肯定すること。

 決して誰にも彼の邪魔はさせない。
 そうすることでしかシンは生きていられない。
 守ることを剥奪すると言うことはシン自身から生きる意味を剥奪することに他ならないのだから。

 シン・アスカにとってギンガ・ナカジマが唯一の存在になれるかどうかなどは“どうでもいい”のだ。
 無論どうでもいいことではないのだが、前述した彼女の願いに比べればそんな欲望など無視すべき事柄である。
 
 だから自然であろうと思った。
 彼に付き従い、彼に降り掛かる火の粉を払い除ける。
 彼が誰を好きになろうと、彼にどんな大事な人がいようと関係ない。彼女は別にシンに何も望まないのだから。
 
 徹底した黒子。欲望とは真逆の位置に存在する偽善中の偽善――即ち、献身。
 彼女はそれを思い出した。
 自分の初心。その位置取りを。
 
 故に、彼女はシンに何を言われようとも胸に秘めるだけに決めた。
 当然、己の恋慕はひた隠しにする。
 少なくともシンにだけは決して知られてはならない。
 
 今のようにシンが自分に隠し事をするとしても仕方ない。
 彼が何を言おうとも自分は“仕方ない”で済ますことに決めたからだ。
 だから、彼女はシンの言葉に平静だった。シンが自分に言わないのは“仕方ない”のだと。
 
 ――それを本当に平静と言っていいのかどうか。一言「どうして」と聞けばいいだけのことなのに。 
 聞けないのは多分拒絶されることが怖いから。
 「仕方ない」と言う言葉の裏側にあるは「嫌わないで」と言う切実な想い。
 そんなギンガの複雑な気持ちなど知る由も無いシンは自分の内に生まれた恐怖――戻りたくないと言う恐怖である――を押し流すように口を開いた。

「……前に進んでるんですかね、俺は。」

 ぽつり、と呟く。それは誰に言うでも無い独白だった。

「……シン?」
「……いや、すいません。訳分かんないこと言って。」

 その横顔にはいつもの覇気ややる気は無い。
 むしろ、その顔は6課ではギンガとはやてしか知らない、“こうなる”前のシンの表情に近い。
 それが良い兆候なのか悪い兆候なのか、ギンガにはよく分からないが――何故か嬉しかった。
 自分しか知らないシンを自分だけが見ている――独占している。そんな気がして。

 シンから視線を外し、ギンガは夜空を再び見上げ、答えた。

「……きっと進んでますよ。シンは、いつも前しか見ない人ですから」
「前しか見ない、ですか。」

 その言葉にシンが反応する。ギンガはシンの方に振り向くとクスリと笑って、続ける。

「そうですよ? いつもいつも自分より前にいる人しか気にしないじゃないですか。
……うん、あの時も貴方は目の前にいる誰かを助ける為に走って、それで怪我をして入院して……」

 あの時――それはシンが初めて誰かを助けられた日のこと。
 その事実に思い至り、シンは少し恥ずかしそうに苦笑する。

「あ、あはは、いや、あの時は頭に血が上ってて……」
「……上ってましたね、確かに。」

 にやりと人の悪い笑みを浮かべるギンガ。
 シンはその言葉に顔をしかめ赤面させ、顔を逸らした。悪戯をとがめられ、からかわれているような錯覚を覚えて。

「……あの時は本当にすいませんでした。」

 口調は不貞腐れた子供のよう。ギンガはそんなシンの様子にクスクスと苦笑しながら、再び話し始める。

「きっと前に進んでますよ、シンは。あの時よりもずっと強くなりましたし……私にだって勝ったんですし。」
「……そうなんですかね?」

 疑わしげなシンの口調。
 それはギンガを信用していないのではない。
 彼は多分、自分自身を信じられないのだろう。
 
 シン・アスカと言う人間は話してみれば分かるが、驚くほどに自分を否定し、過小評価する。
 自信が無い、とはまた違う――どちらかと言えば、自分自身を誰よりも疑っていると言う状態が近い。
 何を疑っているかと言えば、それはギンガには分からない。
 予想がつくことと言えば、強くなっているのかどうか――或いは迷惑をかけていないかどうか。
 その程度。

「そうですよ。」

 そう、シンに伝えてギンガはもう一度空を眺める。

「……そうなんですかね。」

 そのまま、再び訪れる沈黙。会話が途切れた。
 
 ――そうですよ。
 その言葉を聞いた時、シンの心に何故か波紋が生じた。
 
 眺めた空には天の川。世界は違っても空は同じ。

 この空は、あの宇宙(ソラ)に繋がっていない――そんなこと信じられないほどに同じだとシンは思った。
 
 空。憎悪の空。紅い空。燃える空。
 星。爆発していく命。消えていく誰かの命。自分が殺した数多くの命。
 
 思い出す情景は苦い記憶ばかりだった。
 
 一番古い記憶は守れなかった記憶。
 
 一番新しい記憶は逃げ出した記憶。

『いつも、シンって自分しか見てないよね』
『そうか。』
『……そうよ。』

 いつからか彼女との会話に煩わしさを覚える自分がいた。
 疲れていた。
 彼女とのぬるま湯のような安寧にも、何も選べずにいる自分自身の有り様にも、選ばなければいけない重圧にも。

 あの時――オーブの慰霊碑の前でキラの手を取った。
 その時、自分はあの男に従うことを選んだ―――はずだった。
 けれど、自分はそこから逃げ出した。何もかもが嫌になってそこから逃げ出した。
 
 それから自分は彼女――ルナに逃げた。溺れた。
 何もかも――ラクス・クラインの信じられないような治世。
 平和ではないがその道筋を辿る世界。そんな自分を嘲け笑う全てを忘れようとして。
 
 そんな日が続くこと数ヶ月――実際の月日は覚えていない。
 その頃の記憶は朧気で、生きているのか死んでいるのか分からないほどに不確かだったから。
 
 ある日、ルナはオーブに行くと言った。メイリンに誘われたと言うことらしい。
 彼女は言った。

『シン……休もう?シンはずっと頑張ってきたんだから、もう休もうよ。』

 彼女は自分にそう言った。
 思えば、それは天啓だったのかもしれない。
 
 心臓が高鳴った。鼓動が煩かった。
 頭痛が始まった。流れる血液が“痛かった”。
 
 休む。戦いから離れよう。彼女はそう言った。
 
 その時、胸に覚えたのは安らぎなどではなかった。
 胸にあったのは何よりも激しく厳しい“恐怖”。
 恐ろしいほどの強迫観念を感じた。
 
 戦え、とか、生きろ、とか、死ね、とかそう言った類ではない。

 ――それでいいのか?と。
 
 明確な思いは何一つ無かった。
 多分、あれは「休む」と言う事柄に対する反発なのだろう。
 それから自分はそのココロに従って、ルナに黙って軍に入ることを決めた。

『軍に、戻るの?』
『ああ。』
『……そう。』

 オーブには行かずに軍に入る。それを聞いた時のルナの顔。その顔は彼女を思い出すと明確に思い出せる唯一の顔。
 それは裏切られたことを悲しむ顔では無く、疲れきって諦めて、そして“安堵”した顔だった。
 その顔を見た時――自分も彼女と同じく酷く“安堵”したのを覚えている。
 それは何に対しての安堵だったのか――多分、それは煮え切らない関係に終止符を打てた安堵。

 それを思い出した。そんな自分を思い出した。
 最低の自分。最低の関係。腐り切った人間性。
 自分が、多分一番大切にしなくちゃいけないものから逃げ出したことを。
 
 それを誰かに言った事は今まで一度も無かった。誰にも。一度も。
 言う必要が無かったから。言いたいとも思わなかったから。
 
 今、それを言いたいと思った。隣にいる彼女に言いたいと。
 理由は――分からない。
 ただ、どうしても、この安堵を壊したかった。壊さなければいけないと思った。
 
 胸が、ざわめきだす。
 冷や汗が、流れ出す。
 心臓の鼓動が煩い。
 背筋を這う怖気は、何に対する怖気なのか――それは紛れも無く、この安寧に怯える自分自身の拒否反応。
 このまま、この関係が続けば――もしかしたら、自分は誰かに■をするかもしれない。
 そんな安寧を壊したい――無かったことにしたい。
 突発的な破壊衝動――人間関係と言う大切なモノへの。

「……く。」

 理性は何で言うのかと騒ぎ立てる――けれど、心はどうでもいいとソレを押さえ込む。
 口を、開く。
 言ってはいけないと分かっているのに――言いたいと言う欲求に抗えない。
 この安寧を壊して、安心したい。
 この関係を無かったことにして、誰にも気にして欲しくない。
 ヒエラルキーの下降欲求。
 誰よりも下であれば良い。
 幼稚で馬鹿げた、鬱への依存症。
 吐き出す――下卑た自嘲が微笑んだ。
 
「……昔、傷つけた子がいたんです。」

 ギンガが突然の言葉に驚いたのか、こちらを振り向いた。
 気にせずに続ける――止められない。
 吐き出された言葉は決壊したダムから流れる水のように、止まることなく吐き出ていく。

「俺はその子と一緒に住んでました。男と女で一緒に住んでたから、しっかりやることやってました――彼女に溺れてました。」

 口調は単なる独白。
 自分を卑下しているのでもなく、淡々淡々と、事実だけを紡いでいく。

「多分……彼女に甘えてたんです。優しくしてくれた彼女に甘えて溺れて、それでずっと一緒に生活して―――俺は彼女から逃げました。」

 言葉を切る。ギンガは呆然としている。
 気にせずに続ける――自分は何を言っているのだろうかと思いつつ。

「彼女が別の国に行くと言ったから、俺は軍に入りました。……多分、お互いに疲れてたんでしょうね。無駄を積み上げていくだけの関係に。」

 少しだけ得意げな口調になった――何を得意げに思うのか。心中で苦笑――これは嘲笑か――し、続ける。

「それから、俺は軍に入って、彼女は別の国に行って……それっきりになりました。」

 ギンガは一言も言葉を発さない。それに下卑た喜び――優越感を感じながら、口を開いた。
 紡いだ言葉を締める末尾の言葉を。

「……前になんて、進めてないんですよ、きっと。」

 貴方は俺のことを何も知らない、と、先程とは人格でも変わったように、嘲笑する――それは自嘲であり、他嘲の笑み。

「そんなの俺に出来るはずが無い。ずっと、何も考えたくなかった。」

 声は止まることなく吐き出ていく。

「何かを考えさせようとするルナが嫌だった。軍に入ったのは、彼女から逃げたかったからだった。何も考えたくなんて無い――考えたくなんて無いんです。戦っていたのも何も考えたくなかったから。 誰かを捕えたのも、全部全部……全部、何も考えたくないから。今、此処にいるのだっておんなじだ。俺は、多分――」

 ――多分、誰かを守れる喜びに浸りたいから。
 そう、言い放つ瞬間――いきなり、頬に激痛。次いで月が見えた――吹き飛ばされて転倒した。

「は、ぎゃ!?」
 
 立ち上がり、いきなり殴った彼女に向き直り、声を懸ける。

「な、何するんですか!?」
「何を言いたいのかは知りませんが……こんな夜半に女性に言う話では無いでしょう。それにそんな風にいじけたいだけなら、シャマル先生にでもカウンセリングでもしてもらうべきです。」
「……ギンガ、さん?」

 肩を震わせるギンガ。
 いつの間にか左手にリボルバーナックルが装着されている。
 恐らくあれで殴ったのだろう――全力で。防御したシンの右頬が痺れていた。

 ギンガは、この瞬間少しばかり――いや、かなり怒っていた。
 想い人が彼自身の女性遍歴を語ったことは良い。
 だがそれ以上にいじけている彼が許せなかった。
 そんな程度で、“私”が“彼”を嫌うとでも思っていることが許せなかった。
 
 干渉しない。
 そんな気持ちはこの時消えていた。あるのは怒り。ただただ、ギンガ・ナカジマにすら不信する彼への怒り。

「いじけて、慰められたいんですか? それとも自分はこんなに凄い駄目人間だって蔑まれたいですか?」
「……っ」

 言い返せない。それは的を射た言葉だった。
 拳を握り締める。吐露した情けなさを堪えるようにして。
 けれど、その後に続く言葉はシンの予想を裏切った言葉だった。

「だったら、精々ガッカリしてください――私は絶対に貴方を蔑みませんから。」
「……え?」

 蔑まない。そんな意外な言葉を聞いてシンは間抜けな相槌を打った。

「貴方がどんな人間だろうと、どんな最低人間だろうと……貴方にどんな過去があろうと。」

 紡がれる言葉を締める末尾の言葉。彼女はそれを決然と言い放つ。

「私は、貴方を蔑まない。絶対に。何があろうとも――だから、安心してください。貴方は絶対に前に進んでいる。――私は勝手にそう思ってますから。」

 にこり、と彼女は微笑んだ。綺麗で無邪気で誰もが安心する。そんな太陽のような微笑み。
 夜闇の中の一つきりの輝き。儚い月光の輝きとは違う――自ら輝ける光。
 見蕩れる自分がいた。その絶対の信頼を示す笑顔に見惚れる自分が。

「……どうして」

 その輝き(エガオ)の眩しさに堪え切れずに目を逸らし、呟いた。

「はい?」
「どうして、そんなこと言えるんですか?」
「どうしてって……」
「俺は、多分、ギンガさんが思ってるより、ずっと最低の人間で――だから、俺は……何も、言えなかったのに、どうして」

 繋がらない言葉。胸の奥から沸き出てくる言葉の羅列。
 
 ――シンさんには分からないですよ……僕の気持ちなんて、何一つ。

 その言葉に反論する術を持てなかった。

「俺には、何も、言う資格は無くて――俺は、前になんて進んじゃいない。ずっと後ろ向きで、」

 そうして俯くシンを見て優しげに苦笑するギンガ。
 
 ――駄目。干渉しないなんて無理。
 
 止められない。
 この想いは、きっと止まらない。
 たとえ、この人になんて思われようとも、私はこの人を全身全霊を懸けて“守りたい”。
 溜め息を吐いて――彼女はその想いにココロを委ねた。
 きっと、自分の心は、これからもずっとウシロムキで――心を囚われ続ける乙女はきっといつだってウシロムキなのだから。

「ウシロムキの何が悪いんですか?」
「……ギンガ、さん?」
「マエムキっていう言葉は魅力的ですよ。けど、ウシロムキだって、前には進める。ただ前に向いてないだけで。」

 そんな言葉遊びをギンガが呟いた。
 
「言葉遊びですよ、それ。」
「報われない可能性に負けない、強い気持ち――ウシロムキって、そんな気持ちでもあるんですよ?」

 ギンガが一歩近づいた。
 月光が彼女を照らす。

「私も、ずっとウシロムキだから。」

 優しく微笑む――シンはその笑顔に見とれる。
 眼が離せない。
 青い瞳。青い髪。白い肌。
 いつも自分の傍にいてくれる女性――どうして、彼女はこんなにも自分を肯定するのか、分からない。
 考えたくもない。考えて、気付けば――多分、自分は拒絶するしか無くなるから。
 だから――気付いているはずなのに、気付けない振りをしている。
 それは多分――もう一人の女性に対しても。
 そんな反吐がでるような鬱屈が胸に渦巻く。

「……そういえばシンにはまだ言ってませんでしたね。私の身体のこと。」
「……ギンガ、さん?」

 そう言っておもむろにシンに彼女が近づき――彼女がシンの手を取って、自分の胸の中心にその手を触れさせた。

「ギ、ギンガさん、アンタ、何して……」
「音、聞こえますか?」

 シンの手に伝わる体温と震動――心臓の鼓動。命の音。
 同時に――あり得ない音が聞こえた。

「……これ、って。」

 シンの胸の鼓動が激しく高鳴る――さっきまでとは違う拍動(リズム)で。
 開けてはいけない扉を開くような、或いは開けなくてはならない扉に手をかけたような。
 彼女の顔が少しだけ悲しそうに――

「シンは、この中に何があると思いますか?」
「何って、そんなの、人間なんだから……」

 質問の意味を計りかねるシン――胸がドクドクと鼓動する。
 何があるかなど明白だ。その中には心臓や骨、筋肉など人体を構成する様々な器官があるはずだ。
 
 ならば、聞こえてくる、この音は何だ?
 心臓の音では無い、機械の駆動の震動は何だ?
 
 薄々と気付きだす。
 何かが、違う。ギンガ・ナカジマは――

「……この中には機械が詰まっています。心臓や筋肉以外に、ね。」

 ――その時、自分の耳を疑った。聞き間違いであってくれと願った。

「え。」

 間抜けな返答。言葉など出てこなかった。
 
 ――機械。それは一体何を意味するのか。
 
 シンは愕然とする自分に気づく。足元が揺れている――足が震えている。
 次にギンガが放つ言葉。それを“半ば”予想して。

「私――人間じゃないんです。」
「……何を言ってるんですか」
「……戦闘機人タイプゼロファースト。それが私です。」

 真剣な眼差し。ギンガのその瞳からシンは目を離せない。
 逸らしたいのに――逸らせない。
 魅入られたように、見つめている。
 
「シンが以前戦った女性、覚えてますか?」
「……フェイトさんと戦った、あいつ、ですか?」
「はい。あの女性と私は基本的に同じ。機械仕掛けの人間です。……人間じゃありません。」

 シンは何も口に出せない。
 
 ――なんだ、何を言っている。
 
 混乱する思考。錯綜する情報。重なる誰かと彼女。

「スバル、も……?」
「……そうです。私達はある一人の人間の遺伝子から作られた戦闘機人と言う人間を超えた存在の雛形。」

 人間を超えた存在――それはどこかで聞いた言葉だ。
 
 待て、待て、待て。
 気付くな。気付くな。気付くな。

「……何だ、それ。」
 
 記憶が逆流する。
 あの寒さを、あの寝顔を、あの憤怒を、あの――悲しみを。
 何もかもを思い出し、何もかもがおかしくなる。
  
 エクステンデッド。
 守れなかった少女。ステラ・ルーシェ。
 
 ――またなのか。
 
 言葉が閃いた。
 
 ――同じなのか。
 
 閃きは収まらない。
 彼の脳裏の思考をかき乱していく。

「どうして、そんなことを……俺、に……?」
「……シンには知っていて欲しかったから、です。」
「知っていて、欲しかった、から……?」

 意味が分からなかった。
 どうして自分なのか。どうして、“よりによって”自分にそれを言うのか。
 
 ――嘘を吐け。お前は知っている。知っていて尚そんな風にボケたことを言っている。
 気付けば、向かい合わなければいけなくなるから。
 何も知らないままでいれば、何もしなくていいから。
 
 けれど、彼女の言葉は、放たれた矢のようにして――

「私、貴方が好きだから。」
 
 ――狙い違わず、シンの耳朶を叩いた。
 衝撃が奔る。
 眼球が、心臓が、背筋が、心が震えた。
 予想もしていなかった言葉。予想などしてはいけない言葉。
 ――気付いてはいけない、その事実。それが、走り抜けた。

「――そんな、の」

 間抜けな相槌が夜空に響く。

「知っていて、欲しいんです。私を――貴方を信じる私を。」

 想いは強く、誰にも止められない。きっと、それは自分自身にも止められない切なる想い。
 シンに返す言葉は何も無い。
 何も――何かを返せるはずもない。
 だから、呟いた。
 最悪の言葉だと知っていて――いや、何も分からずに、無知のまま呟いた。
 
「何で、俺を……どう、して……?」

 茫然と呟いた。
 ギンガはその返答を予想していたのだろう。
 一歩離れて、微笑んだ。
 こんな月明かりの下では無く、太陽の下で見れば、きっと映えるであろう微笑み――それを伴って、彼女が言葉を紡いだ。
 
「その理由(ワケ)は言えません。」

 あまりにも対照的な二人。
 蒼白な表情のシン・アスカと輝く笑顔のギンガ・ナカジマ。
 告白の返答すら求めずに、その告白が終わっていく。

「じゃあ、私、行きますね、シン。」

 笑顔で話を終えるギンガ。
 シンは――声を返すことすら出来ずに、佇んでいた。

 物語は走りだす。
 走り出したその物語は――きっと、誰にも止められない。



[18692] 番外編その2「SOWW~ぱられルンルン海水浴~ ビーチバレーにかけた情熱」
Name: spam◆93e659da ID:cc4806a2
Date: 2010/05/19 23:43
 この物語は俗に言う漫画祭りとかそこらへんのノリでお楽しみください。
 時期は大体二人が告白する前くらいの一種のパラレルワールドストーリーです。
 ギャグなのでキャラ壊れてる可能性アリです。ご愛嬌で許してください――いや、ホントすんません。

SOWW~ぱられルンルン海水浴~

「海だーーーー!!!!」
「スバル、恥ずかしいからやめて!!」

 どことなくスクール水着を連想させる色気も何も無い――ある意味ありまくる――水着を着て、両手を掲げ叫ぶスバルを諌めるティアナ――こちらはパレオをつけた水着で

ある。色は白。

「し、シンどうですか、この水着?」
 
 頬を赤らめ、シンに自分の水着姿を見せるギンガ・ナカジマ――胸のサイズはほどほどである。
 その水着は彼女にしては非常に際どいものであった。
 青いビキニ。露出面を極端に上げる事で男性の視聴率を上げると言う意図を含めた計算ずくのコーディネイト。
 隠す部位は効果的に。魅せる部位は効果的に。
 自身が自身を持って魅せられる部分のみを際立たせる立ち振る舞い。
 計算ずくの青いビキニの女。いつも結んでいる髪を今日は解き、代わりに添えられた麦藁帽子が彼女のビキニを際立たせている。
 綺麗――ではない。可愛い、と言った風体の姿。それが今日のギンガ・ナカジマだった。

「シン、この水着どうかな?」

 こちらはギンガとは対照的。何を考えているのか――恐らくは何も考えてはいまい。
 黒いビキニ。それも、かなりのきわどさを誇る。もはや水着ではない紐と布だ。
 そのはちきれんばかりの肢体を包み込むその布切れ。
 どこを見ても私は一向に構わないと言わんばかりの明けすけっぷり。これが、スイカかと言いたくなるほどの胸。
 そして動くたびに皺が出来るヒップ部分の水着――水着の張力限界に達しているのだ。
 いつ、弾け飛ぶか、分からないそんな崖っぷち。それを知っているのかどうなのか。
 少なくともフェイトにはそんな悲壮感は見当たらなかった――別に見られても恥ずかしいものではないからいいのだろうか。

「……フェイトさん、シンとは今私が話しているんです。邪魔しないでください。」
「ギンガこそ……シンは今私と話してるんだよ?」

 そして、当のシンといえば正直困っていた。
 シン・アスカ。19歳。来年には20歳である。
 別に女性が嫌いな訳ではない――むしろ好きだ。スケベだ。美乳好きだ。
 困っていると言うのはこの状況にだった。
 基本的に彼はモテた経験が無い――ルナマリアとの関係はなし崩しと言ってもいい自堕落な関係でしかない上に付き合っていた期間も短かった。
 実際、海に行った事は無い――と言うかプラントに海はないので当然だが。
 モテたことがないので当然だが、男性に水着を見てくれと言う女性は基本的にその男性に好意を持っているものだが、彼にはイマイチ理解出来ていない。
 要するにそんなに水着がどうこう言われてもどういうリアクションを取るべきかよく分かっていないのだ。故に戸惑っている。
 ギャグ漫画なら頭の上にクエスチョンマークがついていることだろう。

「……ま、まあまあ、二人とも泳いできたらどうですか?俺はこれから八神さんに頼まれたことやらなきゃいけないから、一緒に行けませんし。」
「へ?」
「頼み?」
「いや、オイル塗れって……ッ!?」

 ――殺気と言うものがある。
 
 殺す気、と書いて殺気。即ち殺意を凝縮し、体外にまで膨れ上がらせたモノ――疾風とすら化す殺意の物理である。
 今、シンはそれを感じた――目前の二人から。

(こ、これは……!!)

 二人の瞳から――ハイライトが消えていた。
 ゴゴゴゴと言う擬音すら聞こえてきそうなほどの迫力――怖い。
 瞳に宿る迫力は怒り狂ったアスランなど歯牙にもかけないほど。
 恐らくぶち切れたラクス・クラインにすら匹敵するのではないだろうか――余談だが巷では歌姫と呼ばれているラクス・クラインはキラ関連だけは非常に怖かったりする。
 キラ・ヤマトと一度だけ喧嘩した時がそうだった。ハイライトの消えた瞳。低くなる声音。言葉の節々に浮かび出す棘棘棘――そして迫力。
 その時のシンは抜け殻のような生き物だった。戦いに没頭することで何も考えないようにしていた――これは今も変わらないが。

 だが、その時は違った。正直、怖いと思った。
 そして、ラクス・クラインに向かって平謝りするキラ・ヤマトを見て思ったのだ。
 女は怖い。そう切実に。
 
 ――目前の二人から感じ取れる殺気はそれほどだった。
 歴戦の勇士であるシンを怯ませるほどにその迫力は凄まじかった。
 フェイトなどは見た目の凄さも相まってもう何か凄かった。エロ可愛いではなくエロ怖いだった。

「……なんや、二人とも不満そうやな。そんなにソイツにオイル塗られたいんか?」

 そういう問題じゃないだろう。そう心中で呟くシン――その後ろでシンがこちらを見て居ないことを確認して頷く二人。周到である。

「……ま、ならええわ。私はシグナムにでも塗ってもらうし……シン・アスカ。キミはそっちの二人にオイル塗ってあげるんや。」
「え、あ、はい。」

 素直に頷くシン。いまいち状況が飲み込めて居ないのだろう。

「ほい。」

 そう呟いて、シンに向かってサンオイルを投げ渡す八神はやて――受け取るシンは呆然とそのサンオイルを眺める。
 そんな彼を見つめる二つの視線。

「……な、なら塗りましょうか?」

 ぎこちない笑顔――作り笑い。引き攣った顔。
 それでも二人は嬉しいのか、声を合わせて返事した。

「はい!」
「うん!」

 そんな満面の笑みを前にシンは引き攣った笑顔を浮かべたまま心中でのみ呟いた。
 
 ――俺、塗ったことないんだけどな。


 サンオイルを水着の女性に塗る。

 ――世の男性はいつだってそんな嬉し恥ずかしポジションを求めてるんだ。
 
 そんなコトをMUGMUGとか言う雑誌を片手に力説していた上官を思い出す。
 
 あの時は正直よく理解できなかったが……確かにこれは魔的だ。
 前の部分は後から自分で塗るらしい――ちょっとがっかりしそうになる自分を感じてシンは自分を諌めた。
 流石にそれはまずい。18歳以上禁止である。

(ばっ、馬鹿だろ、俺!?こ、こんな公衆の面前でなんでそんなこと、がっかりしてるんだ、当たり前だろ当然だ当然に決まってる!!)

 テンパリすぎである。まあ、シンにとってはこういった経験そのものが初めてなので仕方ないといえば仕方ないのだが。
 大体、蓋を開ければシンだって19歳の健全な男性。そっち方面の興味が無いかといえば嘘になる。
 単にそういうことよりも興味があることがあるだけで、そりゃもうたんまりとあるに決まってる。
 胸がドキドキして、緊張するのも当然だ。

「……じゃ、じゃあ、塗りますね。」
「……は、はい。」
「うん、いいよ♪」
 
 ガチガチに緊張し、全身を強張らせているギンガ。
 そんなギンガとは対照的にノリノリのフェイト。まるで何かのアトラクションを前にした子供のようにノリノリである。

「……で、では。」

 オイルの詰まった瓶を手にとって、フェイトの背中にオイルを垂らす――広げるようにして塗っていく。
 フェイトもギンガも水着はビキニ。背中の部分で止めて、今は外している――立ち上がれば桜色の突起どころか、胸のふくらみも全て見えますザッツフルオープンという姿

である。
 いや、立ち上がられても困るのだが。何と言うか周りの視線がこれ以上痛くなるのは正直シンとしてもかなり辛いので。

「ふんふーん♪」

 フェイトさん、本気でノリノリである。このまま踊り出しそうなくらいにノリノリである。

「……」

 シンは言葉も出ない。出ないどころかフェイトの肌の感触さえ良く分からない。
 緊張のあまり、目が血走るほど塗ることにのみ集中している。というかそうでもしなければ周りの視線に耐えられなかった。

 ティアナとスバルはその横でその状況を見つめていた。
 ティアナはドン引き。もう凄いドン引きである。この変態が!と罵り出すほどに冷たい視線である。
 対するスバルは純粋に面白そうに見つめていた。単純にやったことないからの興味本位であろうが。

「……皆の前とか凄いわね。」
「なんか映画のワンシーンみたいだね。」

 多分その映画はアクション物で、大抵塗られた女性は死んじゃいます。

「……けしからん。」
「ま、まあ、まあ、いいんじゃないか?」
「しかし、シン君も大胆ねえ。」
「ワン」

 こちらはシグナムとヴィータとシャマルとザフィーラ。
 ヴォルケンリッターの面々である。
 着ている水着は、シグナムが赤いビキニ。そのスタイルの魅力を惜しみなく発揮させている。
 けしからんと言えばシグナムの服装も十分にけしからんモノだった。主に腰周りとか胸が。メロンだもの、仕方ない。
 右胸に書かれている「しぐなむ」という名札ははやてなりの親切なのか嫌がらせなのか、判断に苦しむところである。
 
 次にヴィータ。こちらは青いスクール水着。やはり平仮名で「ゔぃ―た」と書かれた名札が張ってある。
 はやてからの贈り物であるらしい。あざとい。あざとすぎるような出で立ちである。大体なんで平仮名なんだ。

 そしてシャマル。白いワンピースのような水着である。特筆すべきものは特に無い。
 大人っぽい外見に似合った水着――それ以外に言いようが無い。こちらにもやはり左胸に平仮名で「しゃまる」と書かれている。
 たどたどしい文字を装っているのはやはりそういう嗜好への対応もバッチリと言いたいのだろうか。
 
 最後にザフィーラ。こちらは犬の姿でどこぞの競技用の水着を着ている。
 柄は赤と白。スイマーという感じである。名札はもちろん平仮名で「ざっふぃー」。
 何と言うかもはやこれが通称なのだろうか。しかも微妙に似合っている。語感とか凄い良い感じ。ざっふぃー。
 
 兎にも角にもそんな幾つもの面白そうな視線に晒されながら、女性の柔肌にサンオイルを塗りながら「俺は渚のシンだぜ!?」などと踏ん反り返って塗ったくるなどシンに

は到底無理だった。
 普通は無理である。
 むしろ、これでノリノリになれるフェイトは凄い。シンとギンガは本気で感心した。
 そしてギンガはと言えば、

「……」

 無言だった。全身に力を入れてまな板の上の鯉というよりもまな板の上で死後硬直して動かない鯉である。
 例えて言うなら柔道の押さえ込みから逃れるようにして丸まっている姿を連想させるような力の入れ具合。内股でハの字に足を構える寝姿。
 リラックスして本当に寝てしまいそうなフェイトとは対照的にガッチガチだった。見る人が見ればこう思ったろう。
 「全身の筋肉を締め上げたあの構え。あれは三戦(サンチン)!!」。
 決してそんな構えではないが、それくらいに力入ってると思ってください。
 
 とにかくシンの手が自分の背中に触れる度にとんでもない勢いで硬直する身体。こう、ばきーんと。
 こんなに緊張するならやらなきゃいいのに――そう、自分で思ったが、仕方ない。
 傍らのフェイトがやる気満々であった以上、自分だってやらなきゃならない。そう思ったからだ。
 何と言うか要するに思いっきり流された訳だが。

 大体サンオイルを塗る時に背中のホックを外すと言うのも寝耳に水だった。
 思わず心の中で「マジで!?」とデッサンが崩れるくらいに動揺していたくらいだ。
 何せ、ギンガはサンオイルなど塗ったことが無い。
 せいぜいドラマのワンシーンで「子供が出来たらこういうのは見せたら駄目よねー」とか言いつつ煎餅かじっていたような思い出しかない。どこのおばさんだ。
 ティアナがドン引きしているのが見えた時など、羞恥で死にたくなった。
 ドン引きというなら彼女自身、自分にドン引きしている。もう、ここにいる人間の中で一番ドン引きしている。

(……何でこんな羞恥プレイをしてるのよ、私は。)
 
 後悔後先に立たず。ギンガは正直その言葉を噛み締めていた。
 よく知りもしないのに流されるべきではない――今度からは色々と勉強しておこう。
 心構えとかこういうのに対する覚悟とか渚でイケてる女とかについてとか。
 多分、色々と駄目な思考だった。


「……なあ、グリフィス。何で俺らはこんなことしてるんだ?」
「……何でなんですかね。あ、ヴァイスさん、出し汁とってください。」
「……ほらよ。あっちはあんな色とりどりでオイルまで塗っちゃってんのに何で俺らは焼きそば作ってるんだ?」
「仕方ないじゃないですか。八神部隊長が、海といえば焼きソバだって言ったんですから。」
「……何で俺がこんなことを……今日の為にわざわざ一眼レフのカメラとか買ってきたって言うのに。」
「僕だって今日の為にこの水着を用意したのに……」
「いや、お前のその水着は正直どうかと思うんだが。」

 ちなみにグリフィスの水着は黒一色のビキニパンツである。
 もっこり大魔神とでも言うべき出で立ちである。ヴァイスは決して言わないけど心の中でそう命名していた。

「ちょ、ちょっと何でですか!?普通、これですよ!?」
 
 お前の普通はどこの世界の普通なんだ。
 ヴァイスは正直頭を抱えて蹲りたくなった――このもっこり大魔神め。

「ほら、二人とも手がとまっとるよ。さっさと作って作って作りまくるんや。」

 ハリセンを持った水着姿の八神はやてがそこにいた。
 ちなみにハリセンは海でも使えるように防水加工を施してあるらしい。
 さすが6課の技術力。何でそんなに無駄に凄いんだ。
 ヴァイスは余計に疲れた――無論、手は止めずにだ。
 グリフィスもはあ、と溜め息を吐きながらも作り続けた。
 目前では皆が自分達の作った焼きソバを食べている。
 シンは今もオイルを塗っている。
 ギンガは物凄く赤面してる。
 フェイトはとんでもなくニコニコしてる。
 
 なのに自分の前にあるのは、そばとキャベツと豚肉とイカとエビ。いわゆる五味焼きソバの材料だ――少なくとも水着姿の女性ではない。
 
 再び溜め息。

「……はあ。」
「……まあ、こうやってても不毛だからさ、何か喋ろうぜ。」

 ヴァイスの提案。
 確かに一人で考えていても落ち込んでいくだけに違いない。

「……何について話すんですか?」
「そうだな……やっぱり、こういう時はあれだろう。胸のサイズについてとか。」

 物凄く唐突な流れである。何でいきなり胸のサイズについてなのか。
 というか胸のサイズについて語る時がどういう時なのか、グリフィスには良く分からなかったが、言いたいことは分かる。
 何しろ、胸については自分も拘りがある。
 目の前で繰り広げられている戦争とも言うべき胸の饗宴を目にしたら普通は胸について語るものだ。
 中には足とか腰周りの脂肪のつき方とか鎖骨とか背中のラインとか語り出す少数派達もいるが――幸いグリフィスは少数派ではなく多数派だった。

「……ちなみにヴァイスさんはメロン派?それとも目玉焼き派ですか?」
「普通はメロンだろ。あそこでオイル塗られてる二人とかは最高だろうなあ。まあ、一人はスイカだけど。」

 何のやり取りもなく始まる隠語の応酬。
 直訳するとメロン=巨乳。目玉焼き=貧乳。スイカ=超乳である。
 二人にとってこの隠語は万国共通。
 バベルの塔が出来たせいで過去言葉は別たれたとは言うが、漢にとってはこんなのものユニバース言語である。通じないはずが無い。
 ラーメンといえば胡椒。カレーといえばライス。仮面といえばライダーであるくらいに当然である。

「僕は……目玉焼きもいいと思うんですがね。アレにはメロンには無い味がある。」

 胸を張ってもっこりパンツを惜しげもなく晒し、ちょっと背を反らせてどこぞの料理評論家みたいな台詞をのたまうグリフィス。
 一瞬、眼鏡が光ったような気がする。何だか立ち姿も芸術的でカッコイイ。ちょっと反ってる。ミロのヴィーナスとかみたいに。

「……お前、水着もそうだけど、そっちの趣味も少数派だな。」

 ザッツマイノリティである。

「何言ってるんですか!?人類皆メロン派とか思ったら大間違いですよ!?」
 今の言葉が相当癇に障ったのか、顔のデッサン崩しながらヴァイスに向かって、焼きソバを作る時のヘラを突きつけるグリフィス。
 それを半眼で見つめ、ふう、と溜め息をしてヴァイスは呟く。

「いや、フツーはメロンだろ。」
「目玉焼きです!」
「いや、メロンだって……って、シン?」

 必死に大人としてはかなり情けない言い合いを演じていた二人。その前にいつの間にかシンが現われていた。

「あの、焼きソバもらえますか?三つほど。」

 そうシンは申し訳無さそうに注文する。

「おう、いいぜ……っと、そういやお前とはこういう会話したことないよな。」
「……こういう会話?」
「ちょ、シンも混ぜるんですか?」
「当たり前だ。俺は前から気になってたんだ。どっちなのかなって。」
「どっち?」
「……僕、知りませんからね。」
「シン、お前正直どっちが好きなんだ?今お前がオイル塗ってた二人の内、な。」
「……い、いや二人とはそういう関係ではなくて……」
「違う違う。胸オンリーの話でだ。」

 シンの眼がキラリと輝く。
 胸オンリー――ハートオンリー。
 それは即ち世界共通の男の話題である。

「……なるほど。どちらがより胸として適切かってことですか。なるほど……スイカとか目玉焼きって言うのはそういうことか。」
「理解が早くて、助かるぜ……時間も無いようだから単刀直入に聞くぞ。例えるならスイカとメロンだろ、あの二人は。」

 少し思案するシン。一瞬の思考の後に呟く。

「どっちかって言うとスイカとマスクメロンじゃないですか?」
「……なるほど。確かにそっちのが正確だな。で、お前はどっちなんだ?」
「俺は……正直、大きすぎるよりは、真ん中くらいのがいいですね。どっちかって言うと大きさよりもカタチとか軟質かどうかとか。」
「……なるほど、お前、美乳派か。」
「……ですね。少なくともメロン派ではないです。俺はそっち方面も内面重視ですから。」

 そうして、わしわしと何かを握る動作をするシン――ヴァイスはその時、思った。

(コイツ、経験者か……!!)

 隣で焼きそばを焼きながら「絶対目玉焼きだと思うんだけどなあ」とか呟いているモッコリ眼鏡大魔神の用いるリアルシャドーなどとは比較にならない本来の意味での経験

者。
 妄想ではなく現実として胸――オッパイに拘りを持つリアルグラップラーである。

「……中々やるようだな。」
「……ヴァイスさんこそ。」

 ヴァイスが右手を突き出した――シンがその手を掴んだ。

「よろしくな、シン。同士が出来て嬉しいぜ。」
「俺もですよ。おっぱい同盟はいつだって日陰者だ。」

 ここに男たちは分かり合ったのだった。
 いや、一人は未だに焼きそばを焼いているが。


 胸。おっぱい。乳。
 幾つもの言葉にて形容される、人体の妙の一種――女性の胸。
 鎖骨が好きという人もいる。
 首筋が好きと言う人もいる。
 お尻が好きと言う人もいる。
 脇腹が好きと言う人もいる。

 ――だが、それでも胸は女性のアピールポイントとしては最もメジャーであり、最も分かりやすい部分である。
 何故ならば、大きさと言う数量比較が出来るからだ。

 鎖骨を数量で語ることが出来るだろうか?
 首筋を数量で語ることが出来るだろうか?
 脇腹を数量で語ることが出来るだろうか?
 お尻を数量で語ることは出来る――けれど、余人にはその大きさの違いなど分かりはしない。
 スカート、ズボンで隠されているお尻の中身から大きさを測りだすなど通常の人間には不可能だからだ。

 故に胸とは女性にとって――そして男性にとっても重要な部分である。
 ましてや――

「……いや、大きさだけで語っては、パイオツニアとは言えないんじゃないですか?」
「そうですよ、パイオツニアって自称したいなら少なくとも5項目は測定しないと。」
「……お前ら、目測でそこまで分かる訳?」
「僕は楽勝ですけど。この眼鏡って、その為に作ったんですし。」

 しれっと呟くグリフィス。

「え!?その眼鏡って、そういう機能ついてるのか!?」
「ぐ、グリフィスさん、それ本当ですか!?」
「このボタンをこう押すと……何とサイズだけじゃなく、カップまで割り出せるんだよ。」

 ビビるヴァイスとシン。
 まさか、その眼鏡にそんな機能があったとは。

「ちょ、ちょっと俺にも使わしてくれ。」
「あ、いいですよ。」

 割と簡単に貸してくれたグリフィスの眼鏡をかける――とりあえず、シグナムを見てみる。
 ぴぴぴぴ……と何かを測定し出す眼鏡。
 どこぞのスカウターみたいに、シグナムを捉える――数秒で測定は終了する。
 戦闘力(カップ数及びサイズ)が現出する。
 
「……じ、Gの102……す、すげえぜ、シグナム姐さん。」
「つ、次は俺も貸してもらっていいですか?」
 
 シンがヴァイスから眼鏡を借り受け、おもむろにティアナを見る――ぴぴぴ、という音。
 ティアナを捉え、戦闘力が弾き出された。
 弾き出された数字は、Cの82。
 横にいるスバル――Dの85。
 
「……す、すげえ、本当に数字とカップまで出てる。」
「当然さ。一時期の給料全部これにつぎ込んだんだから。」
 
 まるでそれが世界の常識物理法則であるとでも言わんばかりの態度で、グリフィスは焼きそばを作るのを一端終えて、シンから眼鏡を取り戻す――寸前に呟いた。
 
「……F91。着痩せしてますね、あの人。」
「…へ?」
「……ほ、本当にF91だ。」
 
 眼鏡をかけたシンだけが理解した。
 F91――Fの91。
 海辺を歩く、眼鏡をかけた長身の女性の胸のサイズとカップだった。
 無論、見ず知らずである。

「す、すげえよ、グリフィス。お前、裸眼でそこまで分かるのか!?」
「毎日、見てますからね……もう、眼鏡のその機能が速いか僕が当てるの速いかで遊べるくらいですから。」

 人間胸計測器とでも言うべき能力だった。
 眼鏡かける意味あるのか。ていうか、真面目な風貌の下でいつもこいつはそんなことをやっていたのか――ヴァイスは少し目眩になりそうになりながら、心中で感嘆した。
 世の中広い。自分には知らない事柄がこうもあるとは、と。
 やはり、もっこり大魔神は一味違う――そう、思い、シンの方に目を向ける。

「……何やってんだ、お前。」
「……いや、皆見てて思ったんですけど」

 少しだけ、不思議そうにしている。
 視線の方向はハリセンを持った八神はやて。

「なんで八神さんって、見た目より小さい数字出てくるのかなって。」
「は? そんなことある訳ねえだろ……ちょっと貸してみろよ、多分何か操作違ってるとかじゃねえのか?」
 
 そう言ってヴァイスがシンから眼鏡を受け取り、はやての方向を見る。
 見れば――確かに数字が小さい。同じくらいの膨らみのティアナよりもかなり小さい。
 弾き出された数値は、Aの75。どうしてこんなに小さいのか。
 ふと――右上にアルファベットで“PAD:C―80”と書かれていることに気付く。
 彼女以外を計測した時にはこんな文字は出てこなかったはずだが――

「グリフィス、このPADって何の意味だ?」
「ああ、補正かかってるってことです。」
「補正?」

 補正――ヴァイスとシンが首をかしげた。補正とは何の補正だろう。
 彼らが思いつくものと言えば、水蒸気による補正、日光による補正、磁力等の補正だった。
 パッド補正なるものなど聞いたことが無い。
 まるで想像もつかないと言わんばかりの愚鈍な男二人。
 グリフィスはそんな二人に憐れみの視線を送り――はやてに、僅かな憐憫の表情を浮かべて呟く。
 
「……部隊長って、結構“詰めてるんです”。」
「……つめ」
「てる……?」

 一瞬の思考。そして――

「……あ。」
「ま、さか……」

 二人の視線がはやてへ向いた。
 憐れみ――寂寥の視線である。
 はやてが二人の視線に気付いた。

「……何や、二人共?」
「あ、いや、何でもないです。」
「す、すいません。」
 
 一気に眼を逸らした。
 気付きたくなかった事柄――確かにグリフィスが憐れむのも分かる。
 PAD。詰めている。
 その言葉から連想される事実は一つ。
 八神はやてのブラジャーは……恐らくかなりパッド、つまり詰め物がしてあるということ。
 彼女が水着の上にワイシャツを羽織っているのも、恐らくはその為――詰め物が見えようものなら、女性としての沽券に関わる。
 しかも、AからCへのクラスチェンジなど――見栄っ張りだった。見栄を張るにも程があるというものだった。

 そして、それ以上に、彼女の視線と表情が涙を誘う。
 注意して見てみればよく分かるが、やけに溜め息が多い。
 シグナムやシャマル、フェイト、ギンガ、スバル、ティアナなどの胸を見て、自分の胸と見比べ、溜め息を吐き、時々ジャンプして胸が揺れるかどうかを確かめたり、キャ

ロやヴィータを見て、実に実に安堵している――涙を流すしかない。何の感動ドキュメンタリーだ、これはと言わんばかりに泣けてくる。

「……泣けるな。」
「……あの人、苦労してるんですね。」
「小さいには小さいの良さがあるのに……。」 
 
 男たちは泣いた。約一名はむしろそれがいいと呟いていたが、ヴァイスとシンは全力でスルーした。二人共どっちかというと、無いよりある方が好きだったから。
 何にしろ、男たちは泣いた。涙は流さなかったけれども、心の中で泣いた。持たざる者の悲哀に慟哭した。

 無論、馬鹿二人の視線は揺れる他の女性に首ったけだった。
 さしづめ、そこはパラダイス――オッパイ星人にとってのパラダイスだった。


「はーい、それじゃ、そろそろビーチバレーやるで。」

 揺れるモノなき貧しき乙女――ではなく、八神はやてが唐突に焼きそばを食べながら告げる。
 
「ビーチバレー?」
「そうやで、フェイトちゃん。海と言ったらビーチバレーや。」
「主はやて、びーちばれーとはどういったことをするのでしょうか?」
「ん? ああ、ええとな、ビーチバレーいうのはな……」

 盛り上がりだす女性陣。
 対照的に男性陣は冷ややかだった。
 
「……混ざりたくねえな。」
「熱いし疲れるし……ビーチバレーするくらいなら、胸、見ていたいですね。」
「……焼きそば、熱い……。」

 かなり本音だった。
 結局、あの後、シンも焼きそば作りに協力していた。
 周りの視線が非常に辛かったと言うのもあるが、オッパイ星人と言う同士の苦労を見て見ぬ振りは出来ないと協力したのだ。
 ぶっちゃけ眼鏡で、色々見ていたかったという気持ちがあったことも否定は出来ない――というか、そればっかりだったりするが。
 そして、語り合いたいと言う想いもあった。
 シンにしてみれば、久しぶりの胸談義だ。数年ぶりと言っても良い。
 アカデミーにいた頃は毎日のようにヨウランやヴィーノと熱く語り明かすこともあったのに、ミネルバに移ってからは、戦時中と言うこともあって、まるで無くなった。戦

後などある筈もない。そして、ミッドチルダに来てからは語り明かすような男友達などいない。作っていないのだから当然だが、胸のどこかに胸について語りたい!と言う想

いはあったのだ。だって男の子だもの。リビドーなんて三日で溜まります。
 胸について語り明かす――おっぱい星人にとって、これほどのご褒美も無いのだ。

 兎にも角にも、そう言った理由でシンはあまりビーチバレーには興味が無かった。
 ヴァイスやグリフィスも同じだ。
 大体、熱い所で焼きそばなんてクソ熱いものを作らされて、その後ビーチバレーとかあり得ない。体感温度急上昇である。死ぬ死ぬ。マジで死ぬ。
 
 そんな訳で三人の男はやる気が無かった。

「商品は、37型のプラズマテレビや!」

 きゃー、とか、うそー、とか何か盛り上がっている女性陣。
 男性陣は、別にそれを聞いてもやる気は出ない。
 だって、熱いんだもの。鉄板の熱さは彼らの体力と元気を確実に奪っていっているのだ。
 何せ鉄板の温度は100℃を軽く超えている。その前に立っているだけでも汗が噴き出ると言うのに、上空からの日差しは夏なので当然の如く強い。
 体力も無くなるが、やる気も無くなっていくと言うものだ。

「何や、男連中は。そんな、ぐてーってなって。」
「……いや、熱いんですよ、部隊長。」
「熱いのは皆一緒やで? エリオとかキャロ見てみい、どんだけ元気やと思っとんねん。」

 エリオを見れば、キャロやスバルと今も楽しく海辺で遊んでいる――凄く楽しそうで羨ましい。ぶっちゃけ混ざりたい。男性陣の本音だった。

「……子供はいいなあ。」
「楽しそうですね……」

 呟くシンとヴァイス。
 やる気が無いこと、この上無い態度である。ビーチバレーなんてしたくないと言う想いが見え隠れする――その時、ふと、グリフィスが呟いた。

「……部隊長、ビーチバレー、三対三とかですか?」
「うん? ああ、別にそれでもええよ。三人っていうと……チームは君ら三人でええんか?」
「お願いします。そういうことなら、問題ありません。」
「え、お、おい、グリフィス、俺は出たくなんて無いぞ!?」
「え、俺もやるんですか!?」
「シン、ヴァイスさん――大丈夫。良い夢見れますよ。」
 
 かなり良い笑顔で、グリフィスが呟いた。
 何事か反論しようとする二人だが、グリフィスはそんな二人を完全スルーして、はやてと共にビーチバレーの準備を進めていく。
 シンやヴァイスが何を言おうとも、グリフィスは「後で教えます。いいから手伝ってください。」と二人に準備を押し付ける始末。
 そうして、このクソ熱い中二人して準備を終えて、グリフィスに言われた場所で待つこと十数分。
 辺りは人気のない海辺。

「――間近で揺れる胸が見れるんですよ? こう、前かがみになったおっぱいが。」

 思わず眼が点になるシンとヴァイス。
 言われてみれば――確かにそうなのだ。

 ビーチバレーとは何か。
 海辺でやるバレーである。
 ではバレーの基本姿勢とは何か?前かがみである。
 前かがみ――即ち、おっぱいを重力のままに従える態勢だ。

「……確かに、それは。」
「で、でも何で俺ら三人なんです? どうせなら男女混合って言った方が……」

 然り。何でこのクソ熱い中、暑苦しい男のみでビーチバレーのチームを組んでしなければならないのか。
 揺れるモノの無い貧しき民どころか、揺れる訳が無いっていうか揺れても見たくない類の人種である。

「……いいかい、シン。まず大事なことは対面にいるってことだ。」

 ゆっくりと、落ちついて――グリフィスが語りだす。

「対面……?」
「対面にいなければ、揺れる胸を眼に収めることは出来ない。人の視覚範囲はどんなに広くても180°程度。プロのバスケットボール選手でも精々が200°くらいだ。背後の胸は見れないんだ。それに、理由はそれだけじゃない。」

 グリフィスが言葉を切って続ける。

「大事なことは、“勝つことじゃない”。負けないことだ。僕らが目指すべき勝利とは、“見続ける”ことだ。その為には――」
「勝負を長引かせることが必要――そして、堪能した上で、勝負に勝つ。それが大事ってことか。なるほど、お前のプラン、大体分かってきたぜ。」

 ヴァイスが唇をにやりと歪ませ邪悪な――それでいて、不敵な漢の微笑みを浮かべた。
 シンは未だ察することが出来ずに困惑している。
 グリフィスはそんなシンに慌てることなく、焦ることなく、語り続ける。

「……このメンバーでなければいけないのさ、シン。戦力的にも、心情的にも、男三人組でビーチバレーなんて、そりゃ僕だってしたくない。だけど、このメンバーでなければ、必ず誰かが勝負を決めようとするだろう。」

 その言葉を聞いて、ハッとするシン。
 ようやく気付いたかと微笑むグリフィス。

「そう、つまり、男女混合でやると勝敗を決めて、“試合を終わらせてしまう”のさ。だから、僕らだけがベスト――この三人でなければいけないし、この三人以外だとまずいんだ。」
「……ってことは、俺達の勝負は勝つことじゃなくて、引き延ばすこと、ですか。」

 シンの顔に浮かぶ薄い微笑み――それは、目前の勝負に向けて燃えあがる漢の瞳だった。

「上等だ。何が何でも引き延ばしてやりますよ。」
「その意気だ……必ず、あの人たちに、一谷間揺らせてやろうぜ。」

 シンに向けて、右手を伸ばすヴァイス。
 腕を組み、微笑みながら、そんな二人を眺めるグリフィス。
 
 ――ここに三人のおっぱい星人が揃ったのだった。
 
「……君ら何してんの?」
 
 瞬間、ビクゥゥゥッっと電撃でも流されたかのように痙攣する三人。

「ぶ、部隊長?!」
「な、何でここに……?」
「つめ……や、八神さんこそ、ど、どうして、ここに?」
 
 詰め物――と言いかけたシンが慌てて言い直す。
 はやての顔が一瞬、その言葉に反応して、亀裂が入ったように歪み掛けたからだ――だが、彼女は未だ気付いていない。
 セーフティーセーフティー。
 大丈夫。まだ慌てるような時間じゃない。
 クールだ、クールになるんだ、シン・アスカ。
 シンは心中で呟いた――傍らの二人組は正直気が気じゃなかった。
 何がやばいって詰めものである。パッドである。
 おいそれと言って良い代物ではない――ていうか、あり得ない。
 この男はそれを何ぽろっと言おうとしてるんだ、と漢二人は真剣に胃が痛くなってきた。
 
「何しとるんや? そろそろ始めるで?」

 だが、はやては何も気付いていない――相も変わらず詰め物だらけの胸を白いワイシャツで覆いながらこちらに向けて話しかける。
 ――それはそれで可愛いモノではあった。
 
 世の貧乳好きとは大別すると二つのタイプに分けられる。
 即ち、貧乳そのものが好きなタイプと、貧乳であることへのコンプレックスが好きなタイプである。
 貧乳そのものが好きなタイプ――即ち、リアルまな板が好きなタイプと言うのは好みの範疇である。
 それは、ラーメンにおけるあっさり派とこってり派の違いのようなものだ。
 どちらにも長所と短所がある。物事は全て一長一短と言う物理法則の通りに、である。
 コンプレックスが好きなタイプとは、こういった好みとはまた別である。
 つまり、「べ、別に胸の大きさなんか気にしてないんだからね!」とツンデレっぽく解釈してみると分かりやすい。
 小さいのだ――胸は。
 けれど、それを恥じるのだ――小さいから。或いは周りがデカ過ぎるから。
 だからこそ、別に胸なんてどうでもいいんだからね!とツンデレってみたり――ツンしか無い気はしないでもないが――するのだ。
 このコンプレックスを好きなタイプは、その部分をこそ好きなタイプである。
 ツンデレが好きな訳ではない。あくまで好きなのは、“恥じる”部分である。
 その為に詰め物をしたり、ワイシャツで羽織ったりして、隠す。
 それこそを愛でるタイプである――まあ、変態ではあった。ぶっちゃけ、ロリコンとかとあんまり変わらない嗜好である。ロリコンは犯罪です。

 兎にも角にも八神はやてのその不遇さ(胸)と言えば、ヤバイものである。ぶっちゃけ、可愛いとさえいえよう。
 詰め物をしていると知ればこそ、だ。
 これは、この場にいる三人の共通認識である。
 おっぱい星人とは、巨乳だけを好きなのではない。乳が好きなのだ。胸が好きなのだ。
 故に――巨乳も超乳も並乳も貧乳も虚乳も全てが好きなのだ。おっぱいとは須らくおっぱいなのだから。
 それこそがパイオツニア――胸道を行く者である。
 無論、それでもシンとヴァイスは巨乳の方が好みである。グリフィスみたいに虚乳が好きとかマイノリティ過ぎる。
 
「あ、ああ、わかりました。今行きます。」

 グリフィスが素知らぬ顔で返事を返し、動揺しているヴァイスとシンに目配せする。
 始めるぞ、と。
 その眼は――獲物を狙う鷹の目であった。
 眼に籠る光を見て、シンとヴァイスも同じく鷹の眼へと変貌していく。
 
「……行くよ、二人共。」
「はい!」
「おお!」

 今、おっぱいを間近で眺める為に――戦いが始まる。


「……やけに気合入ってるな、あいつら。」
「こっちを見る視線が何か怖いんですけど……凄く気合入ってるわね。」

 一回戦はシグナムチーム――シグナム、シャマル、ヴィータ対ヴァイスチーム――ヴァイス、シン、グリフィスである。
 正直、シグナム達にしてみれば、休暇に来た上での遊び、である。
 リゾート地にやってきた家族が行う和気あいあいとしたテニスのようなものである。
 彼女たちもそういったノリで参加したし、他のメンバーもその程度の思い入れだったのだが――ヴァイスチームだけはまるで違っていた。
 それは、今彼らが円陣を組んでやっている叫び声を聞けば、直ぐに分かる。
 
「ぶっ――倒す!!!」

 ヴァイスが叫ぶ――続いて、全員が叫んだ

「YAHHHH!! HAAAAAA!!」
「気合を入れろよ、お前ら!!」
「おお!!!」

 三人が円陣を崩し、皆、一歩下がる。
 
 ヴァイス・グランセニック――狙撃手。
 彼の表情は真剣そのもの――海パン一丁というかトランクスにタオルと麦わら帽子と言う、どう見ても海の家にいるオジサンみたいな恰好でしかないのに心なしかカッコよ

く見えてくる。
 
 グリフィス・ロウラン――品行方正、実直、真面目と絵にかいたようなインテリ眼鏡の代表格でありながら、その立ち振る舞いは正に紳士王と言っても良いほどの胸の張り具

合である。ビキニパンツを好んで着ると言う、かなり変わった風貌の癖にやけにかっこいい。指揮官補佐の称号は伊達では無い。

 シン・アスカ――朱い瞳の異邦人。その瞳を燃え上がらせ、血走った表情――鬼気迫るモノさえ感じさせる。海パンにTシャツを言うどこにでもいる海のお兄さんでしかない

と言うのに、その姿はどこかカッコイイ。

「絶対、勝つぞおおおおおおおおお!!!!」
「「おおおおおおおおおお!!!」」

 ヴァイスの叫び声に呼応して、全員が叫ぶ。シンもグリフィスも、ヴァイスも全員の眼が血走っていた。
 正直、やり過ぎゴメンと言いたくなるくらいに、その気合の入りようは凄かった。

「……何か、怖いんだが。」
「……そんなにプラズマテレビ欲しいのかしら。」
「なあ、あいつら何で、私の方見ると眼を逸らすんだ?」

 ヴィータが不思議そうに呟く。
 シグナムとシャマルはヴィータの方に振り向き――そりゃ眼を逸らすだろうと思った。
 ヴィータの着ている水着はスクール水着。はやての嗜好により「ゔぃーた」と書かれた名札が貼られている。
 これでも一応彼らの上司である。こんな幼女幼女した上司の姿を見るのは、そりゃ居た堪れないだろうと思う。

「まあ、気にする程でも無いさ。」
「……そうか? あとやけにグリフィスの視線が熱い気がするんだが……。」
「それも気のせいよ、気のせい。」
「……そうなのか?」
「そうだ。」
「そうよ。」

 押し切る二人。
 我が家の可愛いロリっこ幼女には不要な知識は要らない――というか、熱い視線をぶつけるとか、グリフィスって実はロリコンなんだろうか。
 二人の胸にそんな疑惑が膨らみ――それでも、やはり、彼らの熱い視線の意味が分からない。
 自分達の姿に見とれているとでも言うのだろうか?
 だが、見とれていると言うには、その視線はあまりに苛烈。これから戦いでも始めようかと言うほどの気迫を見せつけている。

「……まあ、いい。邪魔をする者は全て蹴散らせとのお達しだ。遠慮する必要もなさそうだし、良いことだと思っておこう。」
「そうね。まあ、はやてちゃん、あのプラズマテレビ欲しがってたし。」
「……あれでWiiやったら面白そうだもんな。」
「はやてちゃんは映画観賞に使いたいって言ってたわよ? 5.1ch作りたいとか。」
「マリ○カートやらせてくれないかなあ、はやて。」
「やらせてくれるだろう。主はやてもマリ○カートは好きだからな。」

 デカイ画面でやるマリ○カート――それは本当に楽しそうだ、とヴィータが思い浮かべたところで、はやてが声をかけてきた。

「始めるでー」
「では、始めるぞ、二人共。」
「ええ。」
「ああ。」
「一つ、楽しませてもらおう。」

 一回戦が始まる――おっぱい星人達と揺れ動く双丘(一名は平原)の戦いが。
 


 ボールがシャマルによって浮き上がった。
 シグナムは持ち前の反射速度と運動能力の高さで、タイミングを測り――跳躍。振りかぶる。右手を後ろに引き絞り、ボールに向けて叩きつけた。

「ジェノサイドオオオオオオ!!!!」

 物騒な言葉。魔力はこめないまま、全身の力を一か所に集めるような感覚で打ち放つ。

「シュートおおおおおおおおおお!!!」

 シグナム渾身の一撃、ジェノサイドシュート。名前に意味は無いが、必殺技は叫ばなければいけないと言うはやての意見によって決定した必殺アタックである。

「ぬああああ!!!」

 転がりながらヴァイスがそのアタックを右手で弾く。
 天に上がるバレーボール。飛んでいく方向は、まるで明後日の方向――コートの方向では無い。

「シン!!」

 ヴァイスが叫んだ。
 自分は回転レシーブをした為に追いつけない。
 グリフィスの足では追いつけない。
 この場で最も足が速く、砂浜にも負けない強靭な足腰を持った漢――シン・アスカに望みを懸ける。

「分かって、ますよおおおお!!!!」

 シンが走り出す。
 雄叫びをあげながらの全力疾走。
 おっぱいに懸ける情熱は、チームの中でも一際だ――若さが彼の情熱を支えているのだ。 
 正直、間に合うかどうかは絶望的――諦めるな、諦めたら、そこで全てが終わる。

(間に合わないって言うなら――)

 走るだけでは追いつかない。
 それまでの速度を全て活かし、跳躍。手を伸ばしても届きそうにない、ほんの僅か届きそうにない。

「間に合わせりゃいいんだろうがああああああ!!!!」

 雄叫びと共に足を伸ばす。スライディング――砂が舞い散り、砂塵を巻き起こす。
 伸ばした足が届く。ボールが足の甲に届いた。思いっきり、自分から見て後方に足を叩きつける――いわゆるオーバーヘッドキック。

「グリフィスさん!!」

 ボールは奇跡的にグリフィスの方向へと向かっている。
 そして、ボールが落ちる地点でグリフィスはボールが来るまでの僅かな時間を思考に費やす。
 
 つまり――どこにどうすれば一番胸が揺れるのか、と。

 考えるべきはシグナムチームの位置取り。
 シグナムはネットのすぐ傍でシンとヴァイスの奇跡のようなファインプレーに茫然としている。
 シャマルはその後方、ネットから凡そ2mほどの場所で呆れている。
 ヴィータはネットの近くにいては何も出来ないので――小さすぎる――後方でリベロのような感じで拾いまくっている。
 
「……ここだな。」

 グリフィス・ロウランの桃色の脳細胞が、最揺れ地点を弾き出す。
 彼の視覚の中では砂浜のコートは既にグリッド線を引かれ、64のパーツに分割されている――両手を組んで、シンが蹴り上げたボールを受け止め、弾く。 
 ふわり、と彼の両手が絶妙の力具合でボールの勢いを吸収し、弾き返す――狙い通りの場所へと。

「くっ――!?」
「こ、今度はそこ――!?」
「間にあわねえ!!」

 シグナム、ヴィータ、シャマルの誰もが動いた。
 それはその三人にとって、非常に“微妙”な場所だった。
 飛びつけば、ギリギリ追いつけると言う距離。
 三人が動く/胸が揺れる。
 刹那の速さで戻ってきたシン。心臓がバクバクと早鐘を打ち、全身から流れる汗。体感温度は否が応にも上昇し、彼の体力を蝕んでいく。
 息を切らしながらも、既に次の行動の準備をしているヴァイス。既に体力は限界。目眩はするし、足はふらついて、いつ熱射病で倒れてもおかしくはない。
 グリフィスも同じく冷静さを保ちながらもボロボロだった。眼鏡や髪の毛は砂交じりで、口の中にも砂があり、ジャリジャリと嫌な感触を伝える。
 
 だが――それでも彼らの眼は死んでいない。彼女たちの“揺れ”を作る為に、何度も何度もこんな攻防を続けているのだ。
 三人の視線が一気に絡み合う。

 ――揺れる。ぶるんと。シグナムのおっぱい――戦闘力G-102。称号マイアミボルケーノ(グリフィス命名)が。

 ――揺れる。ぽよんと。シャマルのおっぱい――戦闘力D-84。称号春風の吹く頃に(グリフィス命名)が。

 ――揺れない。まっ平ら。ヴィータのおっぱいというか絶壁――戦闘力Aー68。称号永遠の孤独(グリフィス命名)が。
 
 凝視する三人。
 正直、バレーボールがどうとかはどうでもいいのだ。帰ってこようと帰ってきまいと。
 大事なのは揺れること。
 おっぱい星人にとって大切なのは何よりもその一点である。 
 現在、揺れている。
 感覚が加速する――多分、それは錯覚だが、何かそんな感じが三人の脳髄を刺激して行く。
 
「くそっ!!」
「駄目だった……。」
「あー、くそったれ!!」

 ボールは帰ってこなかった――あらぬ方向に飛んでいく。レシーブに失敗したのだ。
 砂に塗れたおっぱいが揺れながら、立ち上がる――男たちの歓声が上がった。

「「「いよっしゃああああ!!!」」」

 ハイタッチを行い、またも円陣を組み直し、咆哮。

「続けていくぞ――!!!」
「サー、イエッサー!!!」

 男たちの咆哮は止まらない。
 今度は彼らの攻撃だ。
 スコアは24-24。1セットマッチで、点を取っては取られの繰り返しをここまで続けてきたのだ。 
 共にマッチポイント。
 正直、直ぐに破れるだろうと思っていたシグナムには驚きのことだった。

「……何と言う気合だ。」
「……凄い気合ね。」
「……何か、怖いんだけど。」

 シグナム、シャマル、ヴィータがちょっと引き気味で呟いた。
 そして、その感想は観客も同じだった。

「……き、気合入りまくってるね、三人とも。」
「ど、どうなってるの、あの三人。」
 
 サンオイルを縫ってもらい、テカテカしてる二人の女性――フェイト・T・ハラオウンとギンガ・ナカジマ。
 どっちも引き気味である。
 正直、シンがどうしてあそこまで真剣になっているのかも良く分かっていない――というか男性陣全員の気合の入り具合が意味分からない。
 然りである。
 おっぱい星人の情熱が女性に分かる訳が無いのだ。

「……プラズマテレビに眼がくらんでるの?」
「皆、いつもと違うね。」

 ぶっちゃけかなりどん引き気味のティアナ・ランスター。
 アイスを食べながら、結構冷静なスバル・ナカジマ。

「……ど、どうなってるんだろう。」
「何か……凄いね。」

 無垢なる幼子――エリオ・モンディアルとキャロ・ル・ルシエ。
 引くと言うか意味不明だった。
 だが――エリオとて子供とは言え漢なのだ。いつかは分かる時が来るだろう。
 傍らの幼女はまだ絶壁ゆえに何も分からないであろうが。

「……なあ、何か、この子ら凄く怖いんやけど。」
「ま、まあ、何かあるんですよ、きっと。」

 正直、審判なんてせずに、もう帰りたい気味な八神はやてとシャリオ・フィニーノ。

 だが、そんな女性陣のどん引きなど気にはしない男性陣――いやさ、おっぱい星人。
 
 何故ならば、おっぱい道とは常に孤独なモノ。誰にも理解されない獣道。
 だからこそ、集中し狭窄し周りの声など聞こえない――どん引きなんて気にしません。男の子はその程度で諦められる訳が無いのだ。

 ヴァイスが、サーブを放とうとボールを上げ、自身も前方に向けて走り出す。
 
「狙い――」

 跳躍。空中で腕を振り被る。狙いは前かがみになったシグナム――コード・マイアミボルケーノの両手よりもさらに前。

「撃つぜ―――!!!」

 打ち放つ。
 ぎゅいいいいいいん、とサッカー漫画ならばそんな擬音を出していきそうなドライブサーブ――打点を僅かに変えることで、ボールの弾道を変化させる高等技術だ。

「速い……!!」

 呻きを上げながらもシグナムがそのサーブに反応した/揺れた。ヴァイスは真顔のまま心中でのみ歓喜する。満足する。
 ボールが跳ねあがった。

「シャマル!!」

 ヴィータがその球をシャマルに向けてトスする。
 
「いくわよ、シグナム!!」
「おおお!!!」

 砂を蹴って、ボールへと走り込むシグナム。
 シャマルがトスを上げた――シグナムが跳躍する。振りかぶる。両者ともに胸が揺れた。

(これで決める。)

「必殺――」

 右手を振り被り――
 小細工など無い一撃必殺の技。

「ファイヤアアアアアア!!!!」

 ――振り下ろす。
 一撃必殺がグリフィスに殺到する。

「シュートオオオオオオ!!!」

 必殺の名に恥じない、真実殺人でも出来そうなアタック。
 グリフィスは反応出来ない。正味、文官でしか無い彼にこれに反応するなど酷な話だ――だが、だからと言って、何もしない訳ではない。

(上にあげるとかは無理――だったら……!!)

 グリフィスの決断。そこに至るまでの時間は刹那よりもなお短い。
 ボールの軌道はグリフィスの胸のあたり――トスをするにも、レシーブをするにも微妙な場所だ。
 故に――

「が、顔面レシーブ!?」
「……うわー、私、初めて見たで。」

 シャリオが解説さながらに呟いた。
 はやてが呆れながらも感心して、呟いた。
 そう、間に合わないと知るやグリフィスは手で上げるのを諦め、自ら後方に倒れ込み、ボールのくる場所に、自身の顔を置いたのだ。上向きにして。

「ごぼぶっ」

 おかしな声を上げながらグリフィスが吹き飛ばされた――鼻血が噴き出る、その姿のまま、グリフィスが言い放つ。

「シン、ヴァイスさん……後は、まかせた。こ、これ以上は出来ないから、勝って……勝って終わらせる……ん、だ。」

 ばたり、とグリフィスが砂浜にその顔を埋めた。

「グリフィス――!!!」
「グリフィスさん――!!」

 シンとヴァイスが叫んだ。
 叫びつつも身体は動き、浮き上がったボールの処理に動いている。

「シン、あれをやるぞ!!」
「……あれって?」

 ヴァイスがにやりと呟いた。

「合体技だぁっ!!」

 にこりと呟いたヴァイス――そのヴァイスが浮き上がったボールに向けて走り込む。
 この言葉は事前に決めていたキーワード。
 必殺技。
 このキーワードであれば、使う技など一つしかない。

「了解!!」

 叫びと共に踏み出す。足がもつれる。心臓の鼓動がおかしい。汗が眼に入って前が見えなくなりそうだ――だが、その全てを振り切って、勝たなければいけないのだ。
 グリフィスはもう動けない。
 ヴァイスも同じく――シンだって変わらない。砂浜で走り続けた代償だろう。ふくらはぎは既に膨れ上がって、いつつってもおかしくない。
 決めるならば、ここ。
 ここしかないのだ。
 そうして、シンも走り込む――ヴァイスとは逆方向へと。

「……な、なに?」
「何をする気なの……」
「……いや、お前らも乗せられ過ぎだろ。」

 ヴィータの鋭いツッコミが入るも、シャマルとシグナムは雰囲気に乗せられて、スポ根漫画の主人公みたいなことを言っている。

「スーパー――!!」
 
 ヴァイスが飛び上がり、振りかぶった。
 方向は、シグナム達ではなく“シンに向けて”。

「イナズマ――!!」

 ボールを叩いた――シンに向けて。
 
「「アターーーーッッック!!!」」

 シンがヴァイスが放ったアタックをシグナム達に向けて“叩き返した”。
 
「囮攻撃か……!!」
「そんな高度なことを……!!」
「……だから、乗せられ過ぎだって。」

 囮攻撃――それはある意味では正解だ。
 確かにやっていることは囮攻撃である。だが――だが、違うのだ。この攻撃は囮攻撃に非ず。
 この攻撃は必殺技。スーパーイナズマアタックと言う必殺技なのだ。
 囮攻撃と言う技術では無い。そんな技術を全て駆逐する必殺である。
 
 ヴァイスは、ドライブ回転をかけてシンにアタックし――シンはこれにシュート回転をかけるようにして、叩き返した。

 変化球とは回転軸があるからこそ変化する。回転することによって空気の流れを変化させ、曲がるのだ。
 ならば――その回転軸が二つあればどうなるか。
 簡単な話だ。片方の回転の力が弱まった瞬間、もう一つの回転軸がその牙を剥き――それまでとはまるで別の方向へと曲がりだす。

 そう、稲妻の如く。

 シグナムがその回転を読み切って、レシーブ態勢に入る――受け止めた瞬間、それで全ては終わる。
 見れば、男どもは既に満身創痍。恐らく立っていることすら簡単ではないほどの疲労困憊だ。
 故に、ここを落ちついて処理すれば勝利は揺らがない――完全に雰囲気にのまれ、そんな負けフラグもっさりの思考を行い、シグナムは胸を揺らしながら、レシーブをする。

「終わり……なにぃっ?!」

 ボールの軌道が変化する。
 隼の如く上空から疾駆したバレーボールが、まるで“稲妻”のように突然軌道を変えたのだ。
 無論、シグナムは反応出来ない。
 その変化は人間の反射速度を優に超えている。

「さ、さあ――」

 砂浜に跪きながらヴァイスが呟き――

「あ、あんたのスコアを、数えろ……!!」

 同じく、砂浜に座りこんで立ち上がれないシンが呟いた。
 両者共に指をシグナムの胸に向けて差しながら――おっぱい星人はここに勝利したのだった。
 そこでシンの記憶は途絶する。
 同じくグリフィスも。
 

 気がつけば――既に夜だった。
 満天の星空が見えた。
 いつかオーブで見たような――と、そこで気付く。

(……夜?)

 おかしい。自分はビーチバレーをして、揺れるおっぱいを堪能していたのではなかったか。
 それがどうして、こんなところ――見れば砂浜で大の字になって寝ている――にいるのだろうか。

「……あれ?」

 おかしい。
 何かがおかしい。
 そこに一人の声がかかった。
 
「おー、起きたか。」

 声の方向に振り向く。

「ヴァイス、さん……?」
「ぼくも、いるよ……」
「グリフィスさんも……? いや、ていうか、俺なんでこんなところで寝て……あいたっ!?」

 いきなりの筋肉痛。
 どうやら無理をしすぎたようだ。

「無理すんなよ、シン。グリフィスもな。」

 ヴァイスが砂浜に腰を下ろしたまま、続ける。

「試合終わって、お前とグリフィスが気絶したから、ビーチバレーはあの時点で終了だ。」
「え」
「……」
「そんでもって、八神部隊長が、たまにはいいかってことで、この近くの温泉宿に泊まるって話らしくてな。皆はそこに行っちまった。」

 ふう、と息を吐く。
 ヴァイス自身も相当疲れているのだろう。
 かなりだるそうだった。

「お前ら起きないもんだから、俺がここでお前らの引率をするってことでここにいる――と、まあそういうことだ。」
「……そうですか。」
「……なるほど。」
 
 決勝は――出来なかったのか。
 少し、それが残念だった――嘘です、かなり残念でした。
 グリフィスやヴァイスはそれほどでもなかったが、シンは結構残念だった。
 何せ、決勝はギンガチーム――ギンガ、フェイト、キャロである。
 いつも一緒にいるからこそ結構楽しみにしていたのだ。
 おっぱい的にである。他意は無い。無いったら無い。
 
「……ま、そうショゲるなよ。とりあえず、起きたんなら宿に……その前にラーメンでも食いに行くか。」
「え、奢りですか?」
「ありがとうございます、ヴァイスさん。」

 グリフィスとシンがしれっと呟く。
 ヴァイスは苦笑しつつも――懐から紙幣――日本円にして一万円相当――を取りだす。

「部隊長がこれでどっかで飯でも食って来いって言ってたんだよ。」
「八神さんが?」
「僕らが起き上がれないって分かってたんでしょうね……」
「あの人もこういうところで気が回る人なんだよな……ま、全額使って良い訳じゃねえから飲みに行くとかは無理だが、ラーメン食って帰る分には問題無いだろうよ。」
「あの人、そういう人なんですか……」

 シンが不思議そうに呟く――これまでそういった面を見たことが無いからか、少しだけ驚いた。

「あの年であの階級にいるんだ。気が回らなきゃ無理なんだろうな……と、よし、さっさと行くぞ。いつまでも、こんなところにいても仕方ない。」
「そうですね……ああ、身体中ガタガタだ。明日筋肉痛酷いんだろうなあ……」
「まあ、良いモノ見れたし、満足出来ました。」

 立ち上がるシンとグリフィス。
 ヴァイスはそんな二人に向けて、にやりと微笑んだ――めっぽう邪悪な微笑みで。
 
「……何だ、お前ら、もしかして、これでお終いだとでも思ってるんじゃないだろうな?」
「へ?」
「何かありましたっけ?」
「くっくっく、青いな、青い。青すぎる。海でビーチバレー、温泉宿で宿泊。ここまで来れば決まってるだろ?」

 ――そう、それは。

「もしかして、温泉、覗く、とか?」
「当たり前田のクラッカーだ。」
「……確かにそれは風物詩ですね。」
「だろ!?だろ!?だったら、さっさとラーメン食って宿に行くぞ!!」

 急かすヴァイス。
 グリフィスもどこか忙しなく動き出す――そんな二人の後ろ姿を見て、シンは少しだけ昔を思い出していた。
 ミネルバにいた頃よりもずっと前――アカデミーにいた頃を。
 こうやって、馬鹿なことをやっていた頃を。

「シーーーン!!何やってんだ!!置いてくぞ――!!」
「あ、今行きます――!!」

 叫ぶヴァイス。グリフィスはもう声も出ないくらいに疲れているようだ。
 
 ――こんな日々は続かない。続いてはいけない。
 胸がかき回されるような複雑な気持ち。
 楽しい。けれど――こんな世界に自分はいてはいけないのに。

(……今だけ、今だけだ。)

 胸の中で誰に対してかも分からない言い訳を呟きながら、二人の後を追っていく。
 潮騒が聞こえる海辺。
 月は、綺麗に輝いていた。


「……あのな、お前、奢りだからって遠慮するなって意味じゃないんだぞ」
「ふぇ?」
 
 シンの前にはチャーシューメン特盛オールミックスにニンニク炒飯(特盛)が置いてあった。更にはサイドメニューの類も全て注文し――机の上は一種の魔境が出来あがっていた。
 
「……うえっぷ、僕、何か胸やけしてきた。」
「……食い過ぎだろ、お前。」
「そうですか?」

 そんなこんなで夜は更けていく。
 これは、おっぱいを制覇する為に、己の力を懸けて戦った、三人の馬鹿の物語。


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