RADIOHEAD(レディオヘッド)

MUSEUM

レディオヘッド初ベスト・アルバムのリリースを記念して、レディオヘッドに深く関ってこられた3人の関係者の方に、レディオヘッドについてのエピソードや、レディオヘッドの魅力について貴重なお話を伺うスペシャル・インタビュー・コーナー。

第一回は、ファースト・アルバム『パブロ・ハニー』の頃から現在まで、アルバムごとにメンバーに取材を重ねてこられ、メンバーの中でも特にトム・ヨークの信頼を得ているSNOOZER誌編集長、田中 宗一郎さんに、レディオヘッドについてのエピソード、レディオヘッドの魅力などを語っていただきました。

−レディオヘッドの存在を知ったのはいつ、どんなきっかけだったのでしょう?

それね、思い出そうとしたんだけど、はっきりしてなくて、まあ、「クリープ」が最初にシングル・リリースされたときだと思うんですけど、どうだったのかなあ。メロディ・メイカーか、NMEでレビューを見たのか記事を見たのか、だと思います。で、実際に音源を聞いたのは、今でも覚えてます、当時、ロッキング・オン編集部にいたんですが、ロッキング・オン編集部の社長室に、今も社長でいらっしゃる渋谷さんの部屋に、ラジオでお使いになった「クリープ」の盤があったのを、お借りしたかなんかだと思いますね。たぶん、当時、ロッキング・オンのコレスポンデントをロンドンでされていた児島由紀子さんがラジオ用にと、渋谷さんに送ってこられたものかなにか、それで、そのCDに渋谷さんの一行くらいの“オックスフォード”とかそういうのが書いてあったメモが貼ってあったような。

−そのとき初めて音を聴かれたわけですが、そのときの音の印象は?

曲がすごいクラシカルなコード進行っていうか、ルートに戻ってくるコードが普通メジャーなところがマイナーという、60年代のポップスによくあるコード進行なんですけど、僕のすごい好きなコード進行なんですね。僕は、50年代60年代のポップスが一番好きなんで。それをすごいアグレッシヴな音でやっていて。曲のすごいレトロスペクティヴでポップス的な曲調と、それをむちゃくちゃにするような破壊的なギター・サウンドが一緒になってて、単純に変わってるなあ、っていうのと、新鮮だなあっていうのとありましたね。で、リリックのこととか、当時そんな”I'm a creep”っていうのは気づかなかったから、なんかすごい変で、センチメンタルな曲という印象でしたね。

−そのときはちょうど田中さんがロッキング・オンの副編集長でいらしたとき・・・

そうなったかならないかぐらいの時だと思いますね。

−1993年当時のロッキング・オンは他にどんなアーティストをとりあげていたんでしょうか?

表紙にはわりとレッド・ツェッペリンとビートルズとエアロスミスとかそういう大御所が年間12冊のうちの半分くらいくるんですが、それとは別にストーン・ローゼズとかいくつかUKインディーの大御所が表紙になるような時期ですね。

−レディオヘッドの初記事って覚えてらっしゃいますか?

ファースト・アルバム『パブロ・ハニー』がリリースされてから、確か2,3ヵ月後なんですよ。

−最初の記事っていうのは実際・・・どういうものでしたか?

僕の記憶だと、当時ロッキング・オンに新人を扱う「WATCH OUT」とか「CHECK IT OUT」だかっていう2ページのコーナーがあったんです。そこにジャミロクワイとレディオヘッドが並んでのったんです。

−それは田中さんが手がけられた記事だったんですね。

そう。で、ジャミロクワイがどかーんときたファーストのときで、本国で、シングルチャートでばーんときてるときだったのに、僕はレディオヘッドをジャミロクワイより前のページにおいたんです。

−田中さんの独断で?

そう。それで編集部からも苦笑され、読者からもそれはないんじゃないかっていう投書がきて。

−やっぱり読者の方はページの位置で編集部の「おし具合」をみてたという・・・

そうそうそう。

−実際、その最初のインタビューというのはロンドンのコレスポンデントの方がおやりになったんですか?

僕が質問を作って、当時ロッキング・オンのコレスポンデントとしてロンドンにおられた山下えりかさんに頼んだんですが、山下えりかさんが当時唯一僕のレディオヘッド熱を引き受けてくれるという第二のシンパだったんです。

−それは山下えりかさんもレディオヘッドがお好きだったという・・・?

そう。『パブロ・ハニー』のリリースから2,3ヶ月経つ間に、山下さんが何度もロンドンから連絡してくれて、「EMI UKのインターナショナルの担当からいつでもレディオヘッドの取材できるわよ、って言われてますよ」ってきいててね。で、宗さんどうするのって連絡もらってて。で、じゃあもう、とにかく取材やっちゃおうってなって。

−実際、この初インタビューは対面ではなく、人を介してのものなので、言いづらいかもしれませんが、この初インタビューでのバンドの印象っていうのはどういうものでしたでしょうか?

山下さんがおこしてくれた原稿を通した印象ですが、そのときのインタビュー相手はトムとコリンだったんですが、すごく2人のキャラクターにコントラストが出てましたね。実際に、トムとコリンがお互いについてそれぞれ言ってたんですけど、トムに言わせるとコリンは「ファイロファックスを持ち歩いてようなやつ」。実際自分たちのシングルがどの程度出荷されてて、どういうプロモーションされてるかとかちゃんと客観的に冷静にみてるようなキャラクターだと。で、一方、コリンに言わせると、トムは「混乱してることが職業っていうようなやつ」だと。混乱してて、ナルシスティックになるのがこいつの仕事なんだっていう。

−田中さんはトムを長年ご存知ですが、やっぱり93年当時のトムはちょっとナルシスティックだったんでしょうかね?

ナルシスティックですね・・・。ちょっと自意識が強かった分、ていう。かんしゃくもちじゃないですかね、基本。今より本当、「よくほえる子犬」みたいな・・・。

−そのあと、93年夏にLAに取材にいかれましたよね?

会場名覚えてないんですが、LAの当時のキャピトル・レコードのビルが見える会場で、確か一緒に言ったテレビのクルーが会場から法外なギャラを要求されてもめてたっていう記憶があるなあ・・・。

−生でそのときライヴを初めてご覧になっていかがでした?

そのときのライヴ、すっごくよかったんですよ。本人たちのツアーじゃなくてベリーのサポートで回っていたときなんだけど。キャパは2000前後の会場で、ロスの中でもやんちゃというよりはカレッジっぽいような子たちが集まってた。

−そのベリー目当ての観客の人たちはレディオヘッドを知ってたんですかねえ。

まあ、やんちゃな客じゃないから、反応は悪くなかったけど、そこそこって感じでしたね。

−でも田中さんは見て、これはすごいと・・・。

僕、サウンドチェックから見ていたんですが、新曲とかやってたんです。セカンド・アルバム『ザ・ベンズ』にのちに収録された「ザ・ベンズ」とか、そのあとのシングルのB面に入る「バナナ・カンパニー」とか。ファーストの『パブロ・ハニー』に入ってる曲よりいい曲をがんがんやってて。で、今と演奏のスタイルがぜんぜん違ってましたね。

−どう違うんですか?

今よりもエドとかのパートが前面に出たシンプルなロック・バンドで、なによりもバンド全体がエモーショナル。シンプルでエモーショナル。で、トム・ヨークの歌い方が今とはぜんぜん違う。今は感情をちょっと抑制してますけど、あのときは歌詞に忠実に、とにかく激エモーショナル、激エモね。たぶんそれが嫌で、後で変わるんだけど。

−どこで変わったんでしょうね?

やっぱり『OKコンピューター』の前くらいかな。だから本人はきっと今はあの頃の歌い方とか嫌なんでしょうけど、あのときのあのエモーショナルな歌い方っていうのはまた特別なものがあります。

−それはそれでよかった・・・?

すごくよかった。『OKコンピューター』あるいは『キッド A』以降のレディオヘッドとは違うチャームがあった。特に実験的であるとか先鋭的であるとか、バンド・アンサンブルがどう、とかいうんじゃぜんぜんなかった。すごくこう、曲に表れているリリックとかエモーションの部分とかをどれだけ包み隠さずに、どれだけ忠実に生身の形で鳴らすことができるかっていうところがあった・・・。 野心と情熱がある若いバンドっていう感じですね。

−ちなみにそのLAのときがバンドと初対面ですか?

そうですね。あのとき、会場のそばにあるパティオみたいなところがあって、サポートとしての演奏が終わったら、ベリーの演奏中だったんだけど、もうそこに関係者を呼び込む形になっていて、ロサンゼルス中のメディア、例えば現地のFM局の連中だとかリテイラー(レコード店)の人間だとかが集まってきてて。で、当時はメンバーとマネージャーがきてて、そこでなんとなく挨拶を交わしたっていう。

−実際にバンドにお会いになった第一印象はいかがだったでしょう?

コリンがすごいフレンドリーにいろいろ話をしてくれて、当時のコリンって会うたびに、そのときどきの自分のフェイバリット・バンドとアルバムを教えてくれるっていう。

−その初対面のときはちなみにコリンは何のアルバム、バンドが好きだったんでしょう?

確かスパークルホースかな。翌日タワーレコードにそれを買いにいった覚えがありますね。

−へえ・・・。

僕確か(その初対面のとき)酔っ払ってて、レディオヘッドのマネージャーにロッキング・オンの発行部数を110万部って答えてて(笑)、数のカウントできなくなってたなあ。確かそのパティオでコリンとジョニーと話をしたと思うんですけど、僕が座ってたからか、ジョニーが話すたびにわざわざ僕の前の床に膝まづくんですよ。膝まづいて、前に手を組んで、目をキラキラさせてしゃべるっていう。

−かわいいなあ、みたいな。

いや、すごい不思議な生き物・・・この兄弟ってすごい不思議な生き物だ、っていう・・・。

−他のメンバーは話されたんですか?

そのときはフィルとエドとは話してないかな。トムとはほんと挨拶だけ。

−わりとよそよそしい感じですか。

落ち着きのない子犬がこっちに寄ってきて、ワン・バイト(ちょっとひとかみ)して、くしゃくしゃくしゃってテレながら去っていったという。

−初の対面インタビューというのはその場ではなく、別にやったんですね。

ライヴの翌日。場所のセッティング間違ったんだよね。そのときの取材はロッキング・オン用だったんだけど、グリーンウッド兄弟で4,50分インタビューやって、トム1人ともやっぱり4,50分インタビューやりました。で、取材のロケーションはカメラマンのスタジオでやったんだけど、そのときのカメラマンっていうのが、ニール・ズロゾアーっていう人で、70年代とかだとその人が撮影したエリック・クラプトンの有名な写真があるんですけど、もうその93、94年になると、彼はLAベースで仕事していてメタル・バンドしか撮影していないという・・・。僕はニール・ズロゾアーの撮ったクラプトンの写真は知ってて、これならOK!って思ってスタジオに行ってみたら、スタジオにはWASPとか(笑)LAメタルとか、KISSの後期とかの写真がばかばかばかーって貼ってあって、しまった!!!って思ったね。

−メンバー、どういうリアクションだったんでしょう?

そのスタジオにハード・ロックのFM局ががーんってかかってたんですよ。そこにメンバー到着して入ってくるなり、トムがすたすたすたーっっって部屋の向こうからやってきて、そのラジオをパチン!!!って止めて、「ジョニー、なんかカセットだして」って言って、ジョニーがかさかさかさっ!てかばんの中からカセット出して、で、かけたら弦楽四重奏かなんかが流れ出すという(笑)

−WASPとかが飾ってる中で弦楽四重奏っていうのはすごいですね・・・・。

で、確か、最初にバンド5人の写真撮影で。それはなんとかなってたんだけど、当時トムは金髪の長髪。片目が隠れてるような・・・。(笑)で、ピチピチの黒の7分袖のTシャツ。

−!?

だってあの頃すっごい服装のセンス悪いもん。金のブレスレットとかだよ?

−でも、音楽に関しては許せなかったという。

うんうん。だって、すごいいい音で止めたもん、ラジオ。ピチッッッ!!って。(笑)

−ニール・ズロゾアーさんは大丈夫でした?「俺がかけてたのに」とか・・・。

いや、そのときいなかったもん(笑)。で、戻ってきて、音楽変わってるから「あれっ?」って。で、あ、君たちがバンドかい、ボーイズ、初めまして、みたいな。

−ニールはレディオヘッド知ってたんですかね?

いや〜ほとんど知らないと思う。

−じゃあ、かなり不思議な場になっていたわけですね。

ニール・ズロゾアーからすると、若いUKのバンドがツアーで来てるらしい、がんばれば、ぐらいの。

−で、実際の初対面取材の印象についてお聞きしたいんですが、その前にちょっとベーシックな質問をさせてください。取材の中には、わりと最初から「こういう答えをひきだしたい」というビジョンがあって、それに向けてひたひたと質問を繰り出していく、というやり方も結構あると思うのですが、確か田中さんはそういうスタイルじゃないですよね?

俺はインタビューはあまり決め込まずにいくんです。ただ、話のモチーフかテーマをいくつか決めていく。こういうテーマをきこうっていうものを3つか4つか。答えは右になるか左になるかわからないけど、っていう感じですね。

−そのとき(レディオヘッドの初対面取材のとき)はどんなテーマを持っていったんですか?

まずは「ルーザー(負け犬)」っていうテーマ。歌詞からですね。それが一番最初のテーマ設定でした。要するになぜレディオヘッドのリリックには「ルーザー」、敗北者だって冠してるキャラクターが出てくるんだろうっていう。

−つまり「ルーザー」はトム本人の一人称である、と決め付けないでいたわけですね。何か別のキャラクターとしてのルーザーなのか、若干は本人の投影なのか、というのは決めないでいたという。

うんうん。

−よく海外のプレスだと、トムは楽しいこともなくいつもしかめっ面してるみたいなイメージの露出もありますが、そういうのって歌詞と本人を一緒にして考えてるのかなと。でも田中さんはそうは見ていなかったのですね。

で、たぶん、そのときの答えも「両方ある」(自分の投影と、客観的な意識の両方ある)ってわかるような答えだったんですよね。

−それはどういう・・・

要するに、「ルーザー」っていうものは、自分たちの世代感覚的意識として持たざるを得ないという。当時から、トムの中には政治的なアングル(見方)っていうものがはっきりあって、例えば「プルーヴ・ユアセルフ」っていう曲があって、自分自身の証、というか、自分が何を持っているのか明かせ、っていう曲について話しているとき、オックスフォードとか、もしくは英国全体のネオ・リベ的空気、勝たなきゃいけないっていう意識・・・

−ネオ・リベラリズム?

そう。裕福にならなきゃいけないとか、社会の成功者にならなきゃいけないっていう社会の抑圧がテーマになってるなんて話していましたね

−じゃ、すでに今のトムの姿勢や興味にいたる萌芽があったんですね。

うんうん。トムは、そのとき、「最近チョムスキー読んでる」って。アメリカをツアーすることになったから、アメリカの外交政策とかすごく興味が出て、チョムスキーとかあさってると93年に話してるんで。

−あの以前、山下さんを通してなさった初インタビューでもそのあたりはひきだされてたんでしょうか?

いや、この初対面の取材で、最初の質問で「アメリカ・ツアーは2度目だけど、アメリカの印象は変わったか?」って訊いたあたりからかな。その時点で、その質問の流れで「チョムスキー」とか出てきたね。

−じゃ、山下さんの初インタビューではごくごくベーシックな、曲作りは、みたいなことが伝わって、いわゆるバンドの本質というのが見え始めてきたのは、やっぱりこの初対面の場くらいからだったんですね。

うん。少しずつね。そのときまではとにかく、当時のUKインディーの嫌われ者、みんなにバカにされてる、っていうアングルのほうが強くて、それをどうプレス的に払拭していこうかっていう、伝えていこうかっていうところに力点をおいていたので。あの頃NMEとか観ると、紙面にトム・ヨークのライヴ写真が10面くらい貼ってあって、その下に「醜い、醜い、醜い」って書いてあるみたいな。

−確かにあの頃のNMEは強烈なキャラクターづけみたいなのが好きでしたね・・・じゃあ、LAの取材では、「おや?」何か発見した、みたいなうれしさがあったのではないですか?

そういうのもありつつ、またそれとは別に、ファースト・アルバムに入っている「ラーギー」っていう曲が自分が子供の頃にまぶたの手術をして、その結果、学校でいじめられたこともある、なんていうパーソナルな話をこそっとしてくれて。

−なんなのでしょうね・・・田中さんに心を開いたというか、単に人として気が合った、という話なのかもしれませんが・・・

単純に、僕以外の欧米のプレスがそういったリリックに注目したりとか、テーマ設定、とか要するに音楽について訊かなかったからじゃないですかね。

−なるほど・・・。本人にしたらやっと音楽の話ができるという新鮮なうれしさもあったんですね。で、ちょっと話はそこから飛ぶのですが、田中さんは今まで通算何回くらいレディオヘッドの取材をされてきたんでしょう?

わかんないなあ・・・(笑)。まあ、最初の対面取材がそのLAでしょ、その次2度目の対面取材が初来日より前、来日公演が決まったってタイミングだったなあ。当時音楽業界は今よりもうちょっと元気で、来日公演が決まったっていうと、来日公演をサポートする記事を作りましょうっていう話になったんですね。で、ちょうどそのとき、僕がロンドンに取材に行く機会があったんです。ちょうどプライマル・スクリームが「ギヴ・アウト」を出したときで、それでロンドンに行く機会ができて、だったら、ロンドンでプラス・アルファで、足を伸ばして、レディオヘッドの取材もしよう、っていうことになったんです。

−それは彼らの地元オックスフォードで?

いや、ロンドン。ちょうど『ザ・ベンズ』のレコーディングをロンドンのRAKスタジオでやってるとき。

−それはのちのち、解散しかねなかった大変なレコーディングだったといわれている・・・

そうそうそう。それと、そのときはすごいタイミングだった。ちょうどカート・コバーンが自殺する前後。2日前だか・・・っていうUK、USでいろいろあった時期だった。そのとき覚えてますよ、ちょうどRAKスタジオ行って、そのときはマネージャーがどっかまで僕を迎えにきてくれて、VIP待遇ですよ(笑)、日本のプレスがわざわざきたって。で、ナイジェル(・ゴッドリッチ)がお茶入れてくれたときです。

−クリープが全米であたったけど、まだイギリスのプレスからは一発屋的な扱いを受けている頃ですか・・・。だから、そんなときに真摯な注意を払ってくれるプレスというのはうれしかったんでしょうね。・・・そして今までの取材回数はおそらくそのあと、来日9回、アルバム7枚出てますから、それにプラスして海外取材もあるから、絶対いままで20回以上取材されてますね。

20回強くらいじゃないかなあ。

−大半がトム・ヨークとの取材?

彼らが取材の本数を絞るようになってから、むしろトム・ヨーク1人との取材が増えたかな。

−最近は?

最近『イン・レインボウズ』のタイミングでは、エド以外の4人とインタビューさせてもらいました。

−なぜエド以外?

3:2で分かれてたんです。トム、エドのチームと、グリーンウッド兄弟とフィル、というチーム。で、それ事前に知らなくて、トム、エドになります、って言われたときの取材時間がすごく短い取材時間だったから、そうなるとエドごめんっていう話になっちゃった。

−ああ、なるほど・・・。それでは次の質問ですが、レディオヘッド、あるいはトム・ヨークは、田中さんにとってインタビューしやすい相手でしょうか?それとも取材しづらい相手でしょうか?

両側面あるね。しやすいっていう意味では、こちらの質問の意味をすぐ理解してくれる。なおかつ言葉数が多い。で、しづらいっていう意味で言うと、あまりにもトムの答えがとっちらかるという。話してるうちに質問の意図とは離れて、本人が思っていることに暴走し始めるという。それが面白くもあるんですけど。

−それってアーティストに多くあることなんでしょうか?それともこのトム・ヨークという人に顕著に見られることでしょうか?

この人に顕著なポイントじゃないですかね。ナチュラルでアシッドヘッドなところがありますね。常に頭の中でくるくるくるくる考えてるっていう。常に何かを考えてる。

−何を考えてるんでしょうね?

いろんなオブセッション(強迫観念)があるってことじゃないでしょうかね。だから「変なこと言い出したから忘れて」とかいうのが3問か2問に1回あるね。あまりにくだらないからって。

−でもそういうのも記事に活かしてらっしゃいますよね。それがおかしいからっていう?

そうそう。

−そして田中さんはトムから信頼されているわけですが、その信頼関係というのはいつ頃生まれたと感じておられますか?

LAでなんとなくそういう信頼関係のきっかけが生まれて、それからRAKスタジオで話したことで深まったけど、やっぱり一番のきっかけは、初来日のときに取材を2回やったとき。確かチッタの楽屋でやったと思うんですが、インタビュー初日、のどがおかしいから、っていわれて、翌日と2回にわけて取材したんです。そのときトム本人がいってたんですが、家庭教師の授業みたいだって言われたんです。

−なんでだろう??

毎日同じ時間に現れて、じゃ、始めようかって。で、根掘り葉掘りいろいろ訊くっていう。で、そのときのインタビューが本人的にはホントに楽しかったらしい。それはジョニーに最終日の公演が終わったバックステージで「とにかくトムが君のインタビューをエンジョイしたって言ってたよ、トムがあんなこというのすごく珍しいんだよね」って言ってくれて。でトムに「ベスト・インタビュー・イン・ザ・ワールド」って言ってもらったという(笑)。とにかく、これは僕の力っていうより、初来日公演の日本のオーディエンスがすごくよかったせいですね。

−たしかコーラスがおこったという・・・

既存の曲は合唱できるし、新しい曲、当時『ザ・ベンズ』用に録音していた曲を6曲7曲やってたけど、それらの曲に対してもオーディエンスのリアクションがすごくいいわけですよ。とにかくイギリスやアメリカのオーディエンスより何倍もいいリアクションを日本のオーディエンスが返したんです。だから日本公演の最終日、公演が終わった後のバックステージは、メンバーおおはしゃぎですよ。

−メンバー感激してたんですね。

わー!!!!とかですよ?あんな大騒ぎしてるレディオヘッドって今から想像つかないくらいに大騒ぎ。で、俺そのときにファン、読者用にポラロイド1枚撮らせてっていってるんだけど、あまりのはしゃぎように、5人が並ぶことがなくて、「ちょっと待ったー!5秒だけくれーっ!」っていいながらメンバー並べて。で、パシャってとって。で、とにかくその日本のオーディエンスのリアクションのよさで、バンドのムードがよかったんですね。それがそのときの取材の成功につながったと思います。

−日本のオーディエンスはレディオヘッドにすぐなじんだんでしょうかね?

当時はブリットポップ全盛で、覚えてるのは、渋谷さんがチッタの観客を見て「ようやくロッキング・オンもこれだけの影響力をもつようになったんだな」って言っててて、「そういう話でもないような・・・」って思ってとか。(笑)いわゆるUKインディーというものが、ブリットポップ中心に盛り上がってて、レディオヘッドはその亜流、亜種として日本のオーディエンスに受け入れられていたんじゃないかな。当時ブラーとマニックスが両極にあって、その中間として受け止められていたという。若干アメリカのグランジ好きも覗きにくるが、軟弱かなって言ったり、という、いろんな音楽ファンのいい意味でハザマにいたかな。当時のレディオヘッドのファンと、『OKコンピューター』以降のレディオヘッドのファンでは、バンドの何に惹かれていたかっていうのがちょっと違うかもしれないね。当時は女性ファンの比率高かった。すごく曲の感情的な側面に感情移入しやすいバンドだったんだと思う。猛烈に自己投影しやすいバンドだったのかなと。だから当時のレディオヘッド・ファンが100人いたら、そこには100通りのレディオヘッドの聞き方があって、お互いそれは誰にも譲れない、というちょっとカルティックなつながりがあったんじゃないかなあ。

−というのが『OKコンピューター』以降だと、もうちょっとフラットな・・・

感情移入型じゃないファンが増えたというか。今のレディオヘッド・ファンって本当にいろんなファンがいると思う。レディオヘッドの何が好きかっていうところで、いろんなレディオヘッド像があるという。レディオヘッドの音楽が好きだとか、たたずまいが好きだとか文学的なところが好きだとか・・・それぞれのファンがいろんな側面を見てるという。

−なるほど・・・ では、レディオヘッドの取材で心がけてることはありますか?

なるべく、作品に対して、複数のアングル、いろんな角度、音楽的な角度、本人たちのキャリアの変遷としてどうなのかとか、社会的にどういう意味を持ってるのか、とか、1つの側面だけフォーカスするんじゃなくていろんな角度を持って作品を読者が楽しめるようにする、それを促すような記事にすることかな。

−それは他のアーティストに対しても思ってること、それとも特にレディオヘッドに対して思うことですか?

ベーシックにどの取材においても思うことですが、特にレディオヘッドの作品というのは多面的なものだと思うし、ともすれば、一元的に捉えられがちだからこそ、なるべく自分は多面的に捉えたいと。

−では、今までのレディオヘッドの取材で一番大変だった取材、あるいは印象深かった取材についてお聞かせいただけますか?

あのRAKスタジオでの取材のとき、マネージャーが1曲新曲をかけてくれたんだけど、確か「ザ・ベンズ」。そしたらスタジオの端にいたトム・ヨークがばーっとやってきて、またパチン!!!って消すという。その曲でアルバムを判断してほしくなかったという。そのときはスタジオ中凍りついたね。

−中途半端な形で聴かせないで、っていう・・・

うん。「ザ・ベンズ」っていう曲をきいて、『ザ・ベンズ』っていうアルバムがどうなるんだってことを想像しないでほしい、なぜなら、その曲はアルバムを代表する曲じゃなかったから、という。で、スタジオ中凍りついて・・・

−みんなトムに気を遣っていたんですね・・・

そう。で、ちょっともめて、代わりにこの曲を聴いてもらおう、とかやってて・・・僕と(山下)えりかさんは、まずいとこにきちゃったかなって思ったという。その後のインタビュー自体は和んでたけど。あの頃は、『ザ・ベンズ』のレコーディングがあんなにタフなものだったとは誰も知らなかったから。ただどうやら切迫してるんだなあって感じました。

−他に何かこう忘れられない取材など、ありますか?

取材じゃないけど、『ザ・ベンズ』のアルバムがリリースされた後、96年8月、アラニス・モリセットのサポートでの全米ツアーで、ニュージャージーのスタジアムでライヴを見たことかな。5,6万人入るすっごいばかでかい屋内スタジアムで、会場の8割がアラニス・モリセットみたいなでっかいTシャツきて、髪の毛の長い5歳から50歳の女性という・・・。

−女の人が8割!?

そう、当時のアラニスのファンって女の人が8割。で、あの日はほんとに5歳から50歳とかで、アラニスと同じ格好した、ちょっと田舎っぽい女の人がいっぱいいたなあ・・・。

−そこでレディオヘッドが演奏してどうだったんですか?

『OKコンピューター』の曲とかもうそこでやってんですよ。で、俺とか大興奮してるんですが、周りは誰も聴いてないっていう。で、「クリープ」やった瞬間にどーっと沸くという。

−これは結構厳しいですね・・・

『ザ・ベンズ』もうリリースしてて『OKコンピューター』の曲やってるって時期に、「クリープ」でどっかーんっていう。それ以外のときはもうザワザワザワーッ!っておしゃべりしてる。だから、「クリープ」のときは、もうトムは半笑いで腕くんで歌ってた。結構リラックスしてましたよ。誰も聴いてないからリラックスしてたという。そのときにバックステージにいったら、逆にそういった意味でリラックスしてて、これがツアー用のサウンド・システムなんだとか、くだらなーいギャグなんですが、今はサウンド・システム組んでリー・ペリーきいてるとか言ってたな。バズ・ラーマンの脚本があって、彼の映画の音楽を書こうと思ってるんだとか。まだ「エグジット・ミュージック」ができる前ね。

−そのときのショウでやってた『OKコンピューター』の曲というのは?

えーと「カーマ・ポリス」、「アップタイト」その当時そう呼ばれてた曲とか(注:後にこの曲は“サブタレニアン・ホームシック・エイリアン”と呼ばれるようになる)、3,4曲やってたね。

−ちなみに田中さんが、レディオヘッドはこの先ビッグになるとか、サヴァイヴしていくって感じられた瞬間はいつでしょう?

作品、ライヴに触れたときは、毎回そんな確信めいたものを感じるんだよね。ほんとに最初のロスでみたときからずっとね。ただ、例えば、『ザ・ベンズ』がリリースされたとき、「これって今のアメリカじゃ売れないよな」とか思った記憶もあるし、『OKコンピューター』が出たときも、「最高だけど、売れないかも」って思ったし。ライヴや音源に接したときは確信めいたものがあるけど、ちょっと時間を置いて客観的になったとき、「果たしてどうなんだろう、ポテンシャルあるのかな」って感じた気がします。実際『OKコンピューター』も発売されてからイギリスでブレイクするまでは、「グラストンベリー・フェスティヴァル」まで待たないとならないじゃないですか。本当にその作品がポピュラリティを得るものなのか、っていうのは常に思ってました。比較するなら、例えば、あの頃オアシスを聞いたら、「これ、売れるよ」ってするっと言えたけど、レディオヘッドの場合、「すごくいいけど、売れるのかな」って言葉が常について回った感じ。

−なんでレディオヘッドはサヴァイヴしてこれたのだと思いますか?

一つには、フロントマンの強迫観念的な常に新しいものを、常によりよいものを作ろうという意志。もう一つにはその意志を、形にできるバンドメンバーの結束と能力。そしてスタッフのそれに対する理解。この3つがでかい気がします。

−そしてそんなサヴァイヴの中で、音楽的進化をしてきたレディオヘッドに、なんでファンはついてきたのだと思いますか?

どうでしょうねえ・・・。確かにレディオヘッドのファンはロイヤルじゃないですか。・・・・・・。どうなんだろうなあ・・・。人が第三者に夢中になるときにある、自分の期待を満たしてくれる部分、逆に、自分の期待をすり抜けてくれる部分、その両方が絶妙なバランスであったからじゃないですかね。ライヴ的にも作品的にも。100人が100人、部分的には期待を満たされ、部分的には期待を裏切られたと感じるという。

−田中さんは何百とバンドをご覧になってきていますが、レディオヘッドについて、唯一無二の魅力というか、決定的に他のバンドと違う、と思うところはどこでしょうか?

バンドの組織論じゃないですかね。要するに5人の結束とは別に、5人それぞれが明確な役割があって、そのバランスが奇跡的なところ。一人かけても、あるいは、誰かが今より才能があっても、なくてもダメだっていうバランス。ちょっとバンド・マジックていうロマンチックな思いかもしれないですけど、ビートルズでもザ・フーでもクラッシュでも、ワン・ピースでもかけると成り立たない、っていうバンドがいくつかいて、レディオヘッドにも同じようなバンド・マジックがあると思います。

−そういえば97年に発刊されたスヌーザー誌の創刊号は、レディオヘッドが表紙でしたが、それはたまたまタイミングがよかったからなのか、レディオヘッドを選ぶことで、一つのメッセージ的なものをこめたんでしょうか?

両方です。タイミングもあったし、一方でロッキング・オンに在籍していたころから、BECKやレディオヘッドのようなアーティストが普通に表紙になるような雑誌をやりたいと思っていたんです。そしてエッジーなポップをやってるアクトがエッジーなファンにも普通のポップファンにも理解されるアイコンとして、当時BECKとレディオヘッドというのが自分の中にあったんです。

−今回ベスト・アルバムでレディオヘッドを知った方には、次に聴くレディオヘッドのアルバムとしてどのアルバムをオススメになりますか?

難しいね。・・・でもやっぱり時系列がいいと思うな。『パブロ・ハニー』から聴いていく。毎アルバムに進化とその必然があるから、それが面白いと思います。その変化と歴史の変遷を楽しむのが一番いいかな。

−今までレディオヘッドのライヴはかなりご覧になっておられますが、レディオヘッドのライヴの魅力は?

ライヴでなくとも作品でもわかるとおり、レディオヘッドの音楽は、非常に実験的、有機的なアンサンブルで出来上がってて、それがステージで演奏されるとき、5人のメンバーの人間性、関係性、そのときの気分のようなものが如実に反映されるバンドなんですね。いいときも、悪いときも。曲の表情がツアーごとに違う、同じツアーでも状況によって違う。演奏日ごとにも違う。それが5人の気分が何かパシッ!と合ったときに、やっぱりこう奇跡に近いオーバー・ザ・トップな瞬間があるんですよ。で、普通のバンドは上手い下手で、上手いバンドもアベレージで上手くて、でもレディオヘッドの場合は、いいとき悪いときあるし、本人たちのキャラクターや気分が演奏に表れる。それがやっぱりおかしい。昔の激エモな頃のライヴは80の感情を120で表現してたからトゥーマッチなところもあったけど、今はその日の本人たちのたたずまいがそのまま演奏に出るという。

−それはある意味一番大変ですね。

でも何だろう、音楽のマジック、精神性を感じますよね、本当に。やっぱり人が感情と意志を持って音楽を鳴らしたときに、こんなにも表情が変わるんだというのを。こんな血が通ったものなんだっていう。で、もともとすごくよいものが、表情を変えたりっていう。

−では日本公演の中でご自分的なベスト・ライヴをあげるとしたら?

初来日のクラブチッタの最終日と、OKコンピューターのツアーの最後の方。何日目だったかなあ・・・。ブリッツの最後の方どちらか。

−ちなみに、初来日でトムが感極まって、というのはチッタですか?

いや、あれは渋谷クラブ・クアトロ。そのことは当時インタビューでもきいたんだけど、「クリープ」をかいたときのこととかがふわーっと、気持ちがフラッシュ・バックしたんだって。あとは、2001年のツアーの横浜アリーナの最終日。宴会モードの最終日。武道館の日の演奏より100倍良かった。

−そしてこの秋、4年ぶりの来日公演が予定されています。どんな期待をお持ちですか?

正直、前回2004年の来日公演が今までの来日公演の中でワースト・ツアーだと思ってるんです。本人たちが日本のファンや招聘会社さんの熱意に負けてやってきた、本来はサマーソニックで終わっても良かったところを無理してやってきた。で、あの来日のタイミングは『ヘイル・トゥ・ザ・シーフ』にちょっと自信なくしてたし、ツアーに対するモチベーションをなくしてたと思うんです。2回みたけど、あれ!?って。でも、今回『イン・レインボウズ』は、作品もすごくよかったし、プロモーションも本人たちがやりたいようにできてる。で、ここ数ヶ月をみていてもすごくモチベーションあがってますね、明らかに。本人たちの状態が出るバンドだからこそ、今回は期待できると思ってます。

−実現できるかどうか別として、こんなレディオヘッドの作品を聴いてみたい、というのはありますか?

20枚目のオリジナル・アルバムを聴いてみたいですね。彼らがその頃何十歳になってるかわからないけど。(笑)ロック・バンドのロール・モデルって今だとローリング・ストーンズぐらいしかなくて、それは1つのいい形のロール・モデルだと思うんですが、もうそろそろ更新されてもいいと思うんですよね。要するにキャリアを重ねたビッグ・バンドが、どんな風に20作目を作るかということ・・・それを誰に期待するかっていうと、このバンドしかないと思うんです。

−ライヴはなにかありますか、こういうレディオヘッドのライヴを観てみたいとか・・・

最近、海外でオール・トゥモローズ・パーティ・オーガナイズのライヴの流行で、例えばソニックユースみたいなバンドが、ある年の一枚のアルバムを演奏するとかあるじゃないですか。レディオヘッドはそういうのは一番似合わないけど見てみたい。あるいは彼らが『キッド A』とか、『アムニージアック』とかでやってた、普段行かない自分たちがリラックスできる小さな場所でのライヴ。そういうライヴでは普段やらないような曲を2,3曲やるんですが、そんときのメンバーの照れてる感じとか、演奏がぎくしゃくとするけど、ほほえましい感じってやっぱり最高なんですよ。もうおかしくてたまらない。ホントに小さな会場、3、4千人の会場で、そこのヴァイブたるやアットホーム通り越してなんなんだろう、この空間っていう。もう、すごいおかしい空間になるんだけど。大同窓会みたいな。そういうのが実は似合ったりもするという。そういうのも観てみたいですね。

−最後に、田中さんだけが知っているレディオヘッドないしトム・ヨークのエピソードがあれば、教えて下さい。

ああ、それはやっぱりトムの車に乗せてもらったことかな。2回トムの自宅に行ったことがあるんですが、1回目は、『OKコンピューター』のとき取材をトムの自宅でやろうという話になって。2回目は『アムニージアック』のときだったか、オックスフォードの駅前で取材させてもらったときに、取材の余談で「REMの好きな曲10曲何?」って訊いたら、トムが「思い出せない、ちょっと自宅まで見に帰る」っていう話になって、で、そんときトムの車に乗せてもらったんだけど、車の中のオーディオセットの前の散らかりようがね、ほんと、トム・ヨークだったの。混乱してるし、常にいろんな情報がぐるぐるまわってるんですよ。俺助手席に乗せてもらったんですけど、助手席にカセットテープが2、30本ばーってあって・・・しかもケースと中身が別々。それをバラバラバラって、椅子から落として、「どれだったっけ!?」ってかけて、1曲かけたら、ぱっとだして、カチャってまた別のカセット入れて・・・。(笑)そして運転が典型的な急発進・急停車。(笑)

−本当に貴重なエピソード、お話をありがとうございました!

2008年5月15日 東京都内 : スヌーザー編集部にて

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