「医の世に生活するは人の為(ため)のみ、己が為にあらずということを其(その)業の本旨とす。安逸を思わず、名利を顧みず……人を救わんことを希(ねが)うべし。人の生命を保全し、人の疾病を復治し、人の患苦を寛解するの外他事あるものにあらず」▲これは幕末の蘭方医・緒方洪庵がドイツの医学者フーフェランドの「医師の義務」を抄訳した「扶氏(ふし)医戒之略」の冒頭だ。「医は仁術」の掛け声とはうらはらに無能で強欲な医者が横行した江戸時代にあって、西洋医学はその倫理面でも心ある医者を魅了したという▲ひたすら病者を見ろ、貴賤(きせん)貧富を顧みるな/病者を決して手段としてはいけない/病者の金銭的負担を思いやれ/病者の秘密を知る者は沈黙すべし--こうした戒めを記す「医戒」は職業倫理に基づき専門知を駆使する専門職の自律と矜持(きょうじ)を日本の医学界に教えた▲こんな先人の自己研さんも知っているはずの医師が、「まさか」と絶句したくなる医療技術悪用の容疑で警察に捕らえられた。大学病院の36歳の内科医が、交際していた女性に栄養剤と偽って子宮収縮剤を点滴し、女性の同意のないまま胎児を流産させたというのだ▲逮捕容疑は刑法の「不同意堕胎罪」という聞きなれぬ罪である。強制捜査も異例だが、容疑通りなら医師の立場を利用して胎児の未来を奪ったことになり、警察が手段を尽くしての全容解明に乗り出したのもうなずける。医師は調べに対し容疑を否認しているという▲職業倫理の底が抜けたような話には事欠かぬ昨今だが、「医戒」はいう。「斉民の信(庶民の信用)を得ざれば、其徳を施すによしなし」。真相究明を待つ。
毎日新聞 2010年5月19日 0時09分
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