書評「Telephone Peeping」 −ilya−
「Telephone Peeping 第1巻」(amazon) 「Telephone Peeping 第2巻」(amazon)「出版社公式サイト 第1巻紹介」 「出版社公式サイト 第2巻紹介」
大変ですキーマスター、数字(視聴率)が…10%を切ってしまいましたッ
(ほりもとあきら「Telephone Peeping」)ほりもとあきらさんの「Telephone Peeping」1・2巻を読了――。
いやあ、私は月に単行本だけで十数冊は成年コミックを読んでいるけど、
これは凄い傑作だと思うな…。もりしげさんとか、山文京伝さんの優れた
傑作群に匹敵する力がある作品だと感じた…、お勧めです。非常に衝撃的。
本作は、元は普通の少女達が性犯罪組織に囚われ調教を受けて、最終的には
自己のアイデンティファイを失って狂気のなかで処分されてゆくまでを
描く作品ですが、極めて面白いのが、少女達も、少女達を調教する側も、
催眠暗示や薬物や多重人格などによって、アイデンティティがクラッシュ
している人物達ばかりで、しかも、それを動かしている背景である性犯罪組織もまた、
個人的意志ではなく、集合的、複合的な、不気味な訳の分からなさによって動いている。
この性犯罪組織は、非合法のデジタルネットワークを介した組織で、非合法
ライブTVの視聴率によって運営されているんですよ。だから、視聴率を上げる
ために、調教側はTVに撮影する少女達に特殊なメニューを課す。調教側も、視聴率を
あげる為に色々模索している。人間個人の意志みたいのが、本作では徹底的に
否定されていて、それは調教する側も調教される側も同じなんですね。どちらも、
自分を否定するような要素、自己がゆらぐような要素を持っていて、それが
物語が進むに連れてどんどん増大するようになっている。そして最後は、全てが
崩壊していって、凄いなこれ…山文京伝さんなら救っちゃうところを、もりしげさん
みたいに完全に切り捨てて、人物達の自己の崩壊のなかで全てが終わって行く…。
過去想起描写や断片的なカットの羅列や挿入が多く、敢えて物語の一貫性が否定してある
作品なので、エロとしては使い辛いですが、純粋に、物語として非常に面白い。
本作はとても一般向けとは云えず、多分、一般の方が読んだら嫌悪感で顔をそむける
と思いますが、私にとっては、平凡なラヴラヴエッチや単なる陵辱を描く作品よりも、
遥かに面白かった作品ですね。サドやもりしげさんや山文京伝さんの作品が好きな方、
そして次の柳下毅一郎さんの文章で描かれる作品世界に、魅力を覚える方にお勧めです。
(もりしげの救いなき作品には)不思議に爽快なものがある。思いやりも、愛情も、
希望も、あらゆる人間的感傷を排した先に広がっている不思議な清浄の世界だ。………
サドにとっての最終到達点「ソドムの百二十日」はもはや小説ではない。そこには
ただひたすら、加えるべき拷問と陵辱のメニューが書き記されているだけだ。
物語も意味をはぎとられ、物語はただ人間性をすりつぶす手順を記したマニュアル
となる。性倒錯としてのサディズムを突き詰めたとき、最後にはセックスすら存在
しない世界が待っている。清らかなる悪意。人間的なるものの全てを排した清浄の地。
(柳下毅一郎「サドの末裔」「子供の森・完結編」より)
この時、私は気づいてしまった――あそこ(完全に狂気に陥った少女の処理場)
にいるのは、未来の私だ…って。そう、きっと私は逃げられない(逃げようとしない)
ここで性奴隷になって、そしていつかあそこに吊られるんだ。用済みになって廃棄されて。
その時やっと(自分自身の破滅を志向する刷り込まれた性的欲望から)解放されるんだ――
(ほりもとあきら「Telephone Peeping」)
主体性は存在しないということを仮借なく描いていて、読んでいて本当に戦慄した…。
そして現代の我々がなんだか分からない非人間的な不気味なもの(本作だと多重人格や
視聴率の形で現れる)の中にいることを上手に示している作品…。サドやもりしげの作品なら、
陵辱・調教者側の主体というものははっきりしているけど、本作はそれすらない…。
本作においては、陵辱・調教者側もまた訳の分からない自己以外の何かに動かされている…。本作は現代の非人間的なものを見事に描いた作として、純粋に優れた作品と思います。
参考図書(amazon)
ほりもとあきら「Telephone Peeping 第1巻」ほりもとあきら「Telephone Peeping 第2巻」
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「マーブル騒動記」とplummetさん −希望−
俺がいるだろ?俺とお前は友達じゃないのか?お前が
いなくなったら、俺がどう思うか、お前、考えたこと、あるのか?
(井上剛「マーブル騒動記」)私の凄く大好きなSF「マーブル騒動記」の作者の井上剛さんと、
先日、朝日新聞に”ネット右翼代表”のようなネガティブな形で
取り上げられてしまったplummetさんはご友人だったんですね…。
plummetさんが、ブログで「マーブル騒動記」を勧めておられる。
「マーブル騒動記」を読んだ人なら分かると思いますが、本作をplummetさん
が勧めるという時点で、plummetさんにネット右翼とかレッテルを貼るのは、
全く最大に馬鹿げた行為だと思う。本作を読んだ人なら分かるでしょうが、
この作品は本当の意味、真の意味でリベラル(自由)な意志を描き、差別とか
支配とかのあらゆる権力や争いなどを超えて、それでも、存在と存在は、個々の
友情を結ぶことができる、あらゆる支配や教条主義を超えて、結びつき合える
関係というのを描いていて、凄く感動的で…、私、読んでて泣いちゃったよ…。
plummetさんは、自分のことは自分で決める、自律的に生きるということに、
ちゃんと取り組んでいる人だと、plummetさんのブログをずっと読んできて、
私は思っているし、そういった”自律的に生きる”ということがリベラル=自由
の真の意味だと私は思っている。それを左翼的な教条主義にそぐわないからと
云って、plummetさんにネット右翼というレッテルを張り、左的なイデオロギー支配を
押し付けてくる人々の方が、私にとっては全くリベラルではない他律的存在に見える。
「マーブル騒動記」の物語は、牛が知性を得た世界が舞台。知性を得た牛達は、
家畜として扱われることに当然反発し、人権の牛版”牛権”を求めて立ち上がる。
私達は生きる権利を有している。それを無断で蹂躙することを、誰が諸君に許したのか。
快適とは言えない環境で飼育され、やがて殺されることに、私達が何の苦痛も覚えない
とでも思っていたのか。諸君に警告を発する為に、私はここに来た。今や、日本中の
牛達が、次々と私のように知能を具えつつある。もはや我々は下等な動物ではない。………
君達(人間)が紳士的に接すれば、私の仲間(知性ある牛)も紳士的に対応するだろう。
(井上剛「マーブル騒動記」)
牛が知性を持ったことは、日本中を大混乱に陥れる。教条主義的な動物愛護主義者は
牛権を擁護し、人間は肉を食べるべきではないと主張し、逆に人間という種を優先する
立場に立つ人間達(畜産団体等)は、牛権に反対する。そんな中、主人公の家族と、
知性ある牛のモー太郎は、一緒に家族として暮らし始め、最初は軋轢もあったが、
次第に家族の一員として打ち解けて行く。モー太郎は、凄く理性的で知性的で、
そして凄く優しくていい奴(いい牛)。彼は牛権運動の立役者なんだけど、そんな彼が、
動物愛護に教条主義的な連中に対して疑問を抱くシーンとか、凄く考えさせられる。
《どうして人間は、自分の利害を押し通さないのかと不思議に思っただけだ。
(人間の権利を主張する)畜産団体の男の言い分の方が私には正当に思える》
「おかしな奴だな」俺は面食らった。「お前からみれば、あの男は憎むべき敵だぞ」
《しかし彼の主張の方が人間の利害に沿っている。いいかい、嗣人。私は牛として
の主張を述べたが、それが人間の利害と衝突しているだけで、人間の行為(肉食)を
悪だと断じるつもりはない。人間は私達との妥協点を見出すべきであって、全面的に
譲歩する必要など微塵もない》
「ずいぶん、(人間の権利を主張する)蝦蟇親父の肩を持つんだな」
《好悪ではない。適否を論じているのだ。たとえば、あの動物愛護団体の主席理事
だが、菜食主義を標榜していた。………人間には、体内で合成できない八種の不可欠
アミノ酸がある。肉を食べていれば、苦もなく摂取できる。それらを菜食で過不足
なく補うには、相当に高度な知識と、工夫と、何より時間的かつ経済的な余裕が
必要だ。それが全ての人間に可能だと思うか?》
「肉を食えば万事解決だといいたいのか?」
《少なくともその方が合理的だ。それに(教条的動物愛護主義者が主張するように)
動物を食べることが許されなくなれば、野生の肉食動物はどうするのだ?》………
《あの理事は、『動物の声なき声を代弁して』と語っていたが、種が違えば感覚も
違う。私と君だって、世界の見え方は相当異なっている筈だ。よくあんな無責任な
ことが言えるものだ、そうは思わないか、嗣人。》
(井上剛「マーブル騒動記」)
主人公の嗣人は人間、モー太郎は牛で、人間と牛の利害は対立しているけれど、
でもこの二人は、そういった社会的利害の対立を超えた、関係性を持っている。
物語は展開し、人権と同等の牛権が認められるが、利害の対立する人間の牛に
対する憎しみ、そして牛の人間に対する憎悪は互いに深まり、過激な反牛権運動
が台頭し、人間は牛を密猟して殺害し、それを食うようになり、牛達も復讐の為に
人間に対してテロ行為を実施する。モー太郎と嗣人はそれを一生懸命、なんとかして
止めようとするが、それは絶望的な努力で…。人も牛も感情的で身勝手に振舞う。
「現状、牛権法撤廃がかまびすしく叫ばれているのに、あなたの組織を始め、
いわゆる愛護団体の人が、何の動きもみせていないのはなぜですか」
………「それは法律問題ですわ」………
………「じゃあ、なにか。牛は(知性があって)喋れるから
自分で活動しろと言いたいんだな………卑怯なのは、あんたらだ!」
俺は応接テーブルをぶっ叩いた。「美紗緒じゃない!」
「は、何の話です」
「わからないだろう。わかる筈がない。そうやって、いつまでも救世主みたいな面
を下げて、可哀想な犠牲者探しを続けるんだな。あんたらのやっていることは、
弱い者いじめの裏返しだよ。弱いということにしか価値を見出せないというのはな」
(井上剛「マーブル騒動記」)
《人間の牛権法違反(牛殺し)には、暴力(人間へのテロ)
ではなく言論で立ち向かうべきだ》
「そう考えているのは、この界隈じゃお前だけらしいぞ」
(井上剛「マーブル騒動記」)
結局、感情的で破滅的な対立の激化によって、知性ある牛の集団と人間は
全面戦争に突入し、人間が勝利して、牛は徹底的に殲滅される。そして、
最後に、モー太郎と、主人公とその家族だけが、牛と人間の、利害を超えた、
友情、社会的な利害対立を超えた、本当の友情として残り、物語は幕を閉じる。
《全ては無に帰すだろう。私には何も無い。仲間も、将来の展望も》
彼はやっと頭突きを止めた。
《嗣人。私には家族もないのだ。母牛の匂いのあやふやな記憶があるだけで、
(人工授精で生まれ)父の名も顔も知らず、兄弟や子供達も知らない。
私の考えを共有してくれる者は、誰もいない》
「俺が」
俺は彼の正面に回った。
「俺がいるだろ?俺とお前は友達じゃないのか?お前が
いなくなったら、俺がどう思うか、お前、考えたこと、あるのか?
卓人だってそうだ。あんな小さなチビでも、俺以上にお前のことを
気にかけているんだ。話せよ。話してみろよ。人間の世界には、
話すだけで気が楽になるって言葉があるんだ。知らないのか。
自分ひとりで、何もかも抱え込んだって、何も解決しやしないぞ」
ああ、俺は何を言っているんだろう、きっと意味の通じないことを
口走っているに違いない。高速で回転し続ける舌とは裏腹に、頭は
ゆるやかに、実にゆるやかに、そんなことを考えていた。
(井上剛「マーブル騒動記」)
モー太郎と、嗣人とその家族の関係というのは、あらゆるイデオロギーを
超えているんですよ。それぞれ人間と牛という立場も何もかも超えている。
それが、最後の希望として描かれている、本当に、そうだと思う。
全ての教条主義的なもの、イデオロギー的なもの、支配的なものは、
自らの敵、即ち自らが支配できないとしたものを殲滅しようとする故に、
常に破壊を生み出す。それは左右とか、そういったものは全部超えて、
そうなんですよ。朝日新聞みたいな平和主義イデオロギーだって、その
イデオロギーにそぐわないものを殲滅しようとするが故に、結局は破壊
を世界に齎してゆく。plummetさんにネット右翼なんてレッテルを貼って、
plummetさんという固有な存在をみないで、ただ朝日のイデオロギーにそぐわない
からレッテルを貼って排除するなんてのは、まさにその表れじゃないですか。
でも、「マーブル騒動記」は、そうじゃないんだ、あらゆる自分の立場を
括弧に入れて、それでも最後に残る、自分自身の意志、自律的に生きようと
する意志が、共に個と個と互いに自律した存在として認め合い結びつくとき、
そこには、あらゆる教条主義的なもの、イデオロギー的なもの、支配的なもの
を超えて、それでも結びつく、本当の個と個の関係がある、それが最後の
希望なんだということを描いていて、私は、凄く感動して、涙が出たよ…。
本作ほど、plummetさんに相応しい作品はないと思う。
それは、イデオロギーなどに支配されるのではなく、
自分で判断するということ、自律的に生きるということ――。
そして、自律的に生きる人と人が結びつく時、
希望は生まれると私は思う。
参考図書(amazon)
井上剛「マーブル騒動記」---------------------------------------------------------------------------------------------------------------
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「グリュフォンの卵」 −人間とは何か−
マイクル・スワンウィック「グリュフォンの卵」(amazon)
マイクル・スワンウィックのSF短編集「グリュフォンの卵」を読書中。
本当は、全部読んだ上で書くべきだと分かっているけど、それでも、
10の短編のうち半分の5篇を読んだ今、伝えたくてたまらない!!
これは、SF史上に残る神的なSFだということを!!
ああ、SFの歴史がまた一ページ。凄い、驚くべき傑作、こんなにも
魂が揺さぶられるSF短編集と出会ったのは、イーガン「祈りの海」
「しあわせの理由」以来だよ。本当に、素晴らしい、至高の傑作。
私は昔はそれこそ一日一冊のペースでSFを読んでいたんですが、
その時は古典の傑作から読んでいく訳ですね。古典には心震わされる
ものが沢山あった、ハインライン「夏への扉」アシモフ「永遠の終わり」
クラーク「幼年期の終わり」ベア小松左京「果てしなき流れの果てに」
筒井康隆「霊長類南へ」星新一「月の光」etcetcetc、でその後は、
グレッグベア「ブラッドミュージック」神林長平「過負荷都市」
大原まり子「未来視たち」とか、新しい傑作を読んでいって、魂を
震わされた。ただ、ずっとSFを読んでいくと、だんだんそういう魂を
震わせるSFに会えなくなってくる。そういった力を持つSFの数は、
SF全体の量に比べれば、とても少ないから。今では私がSFを読む数は
月に数冊になってしまった。だけれど、時々、新星の如く新たに現れる、
魂を震わせる、素晴らしい新しい作品に巡り合える。それがあるから、
私はずっとSFを読んでいる。それは、グレッグ・イーガンであり、
テッド・チャンであり、飛浩隆であり、そして、マイクル・スワンウィック。
時の流れによって、”人間””世界”が変容してゆく姿を描く作家達。
「グリュフォンの卵」、本当に凄いです。「グリュフォンの卵」の中の短編は、
「人間とは何か?」という問いを、イーガンすらラディカルに超えてゆく
技術とともに人間と世界の変容する姿を描き、問い続け、凄い、衝撃!!
例えば、一番初めに収録されている短編「ギヌンガガップ」は、ブラックホール
を利用した光速を超える瞬間移動装置の話ですが、その装置は、転送元の存在を
破壊して、転送先で原子レベルで作り直すというシステムで…、その時の転送先の
”私”は、転送元の”私”と同じなのかということを、衝撃的な形で描いている。
古典的な人間観念(ヒューマニティ)からすれば、”別の私”な訳ですが、本作の
作品の凄いところは、そういったヒューマニティはテクノロジーの発展によって
否応なしに崩壊してゆき、そして人間は過去の人間とは全く別の存在に変化してゆく、
ということを、一切の感傷なしに、非情かつ冷徹に描いていて、物凄く心を打つ。
表題作である「グリュフォンの卵」など間違いなくSF史に残るだろう凄い傑作で、
ナノテクノロジーで人間の精神を操作できるようになった未来、熱核戦争で地球が滅び、
そして残った月のコロニーでバイオテロが起きて、4000人のコロニー人員のうち、
宇宙服を着ていなかった3900人が、精神を狂わされる話で、バイオテロを起こした
犯人も、そのテロ計画を実行する為に、自分の精神を自分でパラノイアにしている…。
ナノテクノロジーの力で、人々の精神を延々と弄繰り回す展開で、そして最後は、
人間の破壊性を抑え精神を高める為に、自分自身で自分の精神を改変する世界となる。
そしてそれを、止められないこととして書いているのが、なんとも…恐怖とともに、
ああ、止めることはできないだろうなと、私の中の予想計算をする部分が考えていて、
私は止めたいと願っている方なので、止められない認識は、強烈に魂を震わせる。
過去のヒューマニティを残そうとする人々は、殺されたり敗北したりして、新しい世界、
新しい人間、今までとは全く違った人間が勝利する。それを一切感傷なしで、善悪を
超えて、「それはそのようになる。全ては流れる」として描いていて、とてつもなく鮮烈。
本当に凄いSF短編集です。イーガンをより強烈に鮮烈にして、希望や絶望や善悪
といった感傷的、心情的なものを超えて、人類が否応なく変わってゆく流れを描いている。
物凄い傑作集。SFを愛している方ならば、未読であればぜひ一読をお勧めいたします。
(精神の)再プログラミングに何を求めるかは分からなかった。充足だろう。
セックスと情熱も、まず間違いがない。だが、愛は要らない。ロマンチックな
幻想に(人間を超える存在として)もう用はない。大人になる時期が来たのだ。
ギュンターはべスを抱きしめた。あと一日で(べスに対して今覚えている愛情も)
もうどうでもよくなるのだ。おれはなんであれ、(精神をリプログラミング
して人間を超えた存在になることで)自分にとって最良の感情を覚えるだろう。
べスが彼を迎え入れようと口を持ち上げた。唇が分かれる。彼女の息の匂いがした。
彼らは口付けした。
(マイクル・スワンウィック「グリュフォンの卵」)
心底、戦慄した…きっと世界の未来は、ヒューマニティの消滅とともにある。
テクノロジーが人間をより高度に作り替えてゆくことで、今の私達は、砂の上に
刻まれた顔が波に洗われるようにして消え、そして全ての一切は流れてゆくだろう。参考図書(amazon)
マイクル・スワンウィック「グリュフォンの卵」