辺りは一面、白に覆われていた。
雲間の月に照らされぼんやりと光るそれは、冷たく、柔らかく、そして美しかった。
彼はベンチを手で払うと、いつものように腰を下ろす。
積もったばかりの雪にはただ、彼の足跡がベンチに向かって延びているだけだった。
「さみ……」
そんな彼のぼやきも、吐き出された白い息と共に寒空に溶けていく。
ふいに月明かりが厚い雲に遮られ、ぼんやりと光っていた雪が色を失う。
彼はその様子に空を見ると、顔をしかめた。
「また降り出すな、これは」
そうつぶやくと、彼は不釣合いなほど小さなコートを深く着直した。
人工的な灯りに燈されるだけになった雪は、どこか寂しげに映る。
昔からこの公園は、人影とは無縁の存在だった。だから人目を気にする必要もない。
そして何より、家から近い。めんどくさがりにはちょうどいい。
この公園が待ち合わせ場所として定着したのは、そんな単純な理由だった気がする。
そんな場所での待ち合わせは、何故かお気に入りだった。ただ、いつも待たされてしまうのだけは不満だったけれど。
「やっぱり降ってきたな」
一粒、また一粒と舞い落ちる雪を眺めながら彼は溜息をついた。
「寒いの苦手なんだよな……」
彼の肩は小刻みに震えていた。
「ん?」
雪のように真っ白い、一匹の野良ネコの登場である。その白ネコは彼の目の前まで来ると、一声、にゃーと鳴いた。
「よし、っと」
彼は白ネコを抱え込むと、自分の膝の上に乗せた。黙って背中を撫でていたが、やがてポツリと話を始める。
「今日は大事な話があるんだ」
にゃー、と気の無い返事が返ってくる。
「俺んちがさ、引っ越すことになったんだ。だから今日はお別れを言いに来た」
白ネコは特に反応を示さず、ただ膝の上で黙って聞いていた。
「新しい家は遠いからな。もう、ここには来れなくなる」
今の家からもそれなりに遠いけどな、なんて彼は笑って見せる。
白ネコはスクっと立ち上がると、彼の膝から飛び降りた。
そして一声鳴いてみせると、ベンチの後ろの茂みに消えた。
「……元気でな」
ふっと、彼は笑った。そしてゆっくりと立ち上がり、コートを脱ぐとそれをベンチに掛ける。
「これ、返すよ。ユキのお気に入りだっただろ?」
彼は今までありがとう、と礼を言うと一度も振り返ることなく去っていった。
私はそのお気に入りを羽織る。それにはまだ彼のぬくもりが残っていて暖かった。寒がりな彼に長いこと貸したままだった、私のお気に入り。
「やっと返してくれたね」
結局果たせなかった待ち合わせだけど、ようやくお別れがきたようだ。かじかむ両手に吐きかけた溜息と共に、私は寒空に溶けて消えた。
掌編小説です。