「知能が高い生物ほど命の価値が重い」という論理こそ傲慢だ
クジラ、マグロ保護を叫ぶ欧米人の独善
(SAPIO 2010年5月12日掲載) 2010年5月17日(月)配信
「イルカ裁判」で飛び
出した仰天主張
個体数の問題とは別に、90年代前半から捕鯨反対派の間で「クジラの知能は高く、殺すのは残虐で非人道的だ」という主張が増えてきた。そもそも「知能が高い生物ほど命の価値が重い」とは驚くべき傲慢な論理だが、その議論にお付き合いするとしても、彼らの主張は間違っている。例えばマッコウクジラは世界最大の脳を持つが、それと知能は関係ない。またコミュニケーションで音波を出して相手の場所を確認するが、これは海中に適応した行動様式であって、頭がいい、という話とは違う。
他にもザトウクジラは歌を唄うとか、コククジラは人なつっこいとか、イルカはキューキュー鳴く様が可愛いとか、鯨種によってそれぞれ特徴、性質を持っている。あたかもクジラがそれらすべてを兼ね備えているかのような言説、いわゆる「スーパー・ホエール論」には要注意だ。実際にそんなクジラは存在しない。
もう1つ、捕鯨反対派の特徴的な価値観がある。
80年に長崎県壱岐島でアメリカの環境保護団体の青年が、イルカの入っている網生け簀を切断して逃がし、裁判になった。原告の日本側から、クジラやイルカを殺すことを批判しながら、あなた達は牛や豚を殺しているではないか、という主張があった。ところが、それに対して弁護人側からは「クジラやイルカは野生動物だが、牛や豚は家畜であり人間が管理しているから殺しても構わない」という反論があった。おそらく野生動物は神の所有物であり、家畜は人間の所有物だと言いたいのだろう。これまた恐ろしい価値観の押し付けだ。日本人は仏教の影響でクジラを殺したら位牌を作ったり、供養したりする習慣がある。これは食べたことに対する感謝と憐憫の気持ちであり、人間の自然との関わりの原点だ。捕鯨反対派は、世界中のさまざまな文化を理解しようとしない野蛮人なのだろうか。
考えたくはないが、捕鯨反対の裏にはドス黒い日本人差別感情さえ感じられる。かつて太平洋戦争をひきおこし、エコノミックアニマルで、有色人種なのに先進工業国になった……。欧米人には、いまだに異質で脅威を与える存在なのかもしれない。
そうでもなければ、シー・シェパードが「テロ」を行なってもオーストラリアで英雄視され、首相が日本に対して謝りもしないというのは異常である。野生動物を殺してはいけない、と言うならオーストラリアは野生のカンガルーを獲ってはいけない。彼らは捕鯨に反対しながら、その一方でカンガルーを大量に殺している。
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