2008年02月01日
「日本人のルーツ探し」に生涯を捧げた鳥越憲三郎著「古代中国と倭族」を読み直す。
長江古代文明の遺跡発掘調査、中国古典の文献学的検討、東アジア・雲南省・貴州省の現地踏査など、膨大な調査研究に基づいた鳥越憲三郎の「中国古代長江文明の研究」は、「倭族→大和民族→日本民族」という日本民族のルーツを明らかにする上で偉大な足跡を残したといえよう。
鳥越憲三郎は「古代中国と倭族」・中公新書で、倭族の民俗学的特徴を以下のとおり主張する。(要約)
1.聖なる「村の門」
我が国における鳥居の原型である。悪鬼や悪霊がこの門から村内に進入しないための安全祈願の設備である。かって、我が国の農村にも散見された。
2.しめ縄
結界としての「村の門」や「しめ縄」の習俗は、さらに家の門や戸口にも及んだ。「悪鬼」や「悪霊」を寄せ付けない「まじない」である。
3.高床式住居
土間式住居では腰掛けや寝台を用いるが、高床式住居では、履物を脱ぎ跣(はだし)になって床上に腰をおろす。正座またはあぐらを組み、眠るときも床面に体を横たえる。
4.貫頭衣
三国志・後漢書の東夷列伝の倭人の条に、女性は「衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、貫頭にして衣(き)る」とあり、「単被」とは一重衣のことで、弥生時代の女性は貫頭衣を着用していた。
現在でも、雲南省奥地に住むワ族の一部や同族のタイ山岳地帯のワラ族をはじめ、ミャンマーからタイ西北部にかけて分布するカレン族が着ている。
5.断髪・文身の習俗
「墨子」公益の条に「越王句践、髪を剪り身を文(かざ)る。」と見え、断髪・文身していた。また「春秋穀梁伝」哀には「呉、夷荻の国なり。髪を祝(た)ち身を文(かざ)る。」とあって、呉越ともに断髪・文身の習俗があった。
長江中流域の四川省の重慶市から漢中地域にかけて国を形成していた巴国について、「文選」魏都賦に「膚をろうして髪をきり」とあり、巴人も断髪・文身であった。タイ北部や雲南省の一部には現在でも断髪・文身の風俗が残っている。
我が国に断髪の風があったかどうか不明であるが、「三国志」魏志倭人伝には「男子は大小となく、皆鯨面文身す」とある。「三国史記」新羅本紀や「後漢書」には、朝鮮半島中・南部でも文身の習俗があった旨の記述があるが、断髪が記されていないところを見ると、倭族が(長江下流域→黄河下流域→朝鮮半島中・南部)に移動するにつれ、断髪の風俗を失ったのではないかと思われる。
以上のほか、鳥越憲三郎は「村落と聖林」「屋根の鳥と鬼の目」」「タスキとチハヤ」などを比較検証している。
「龍の文明、太陽の文明」安田喜憲著・PHP新書によると、約7000年前から数千年前まで、中国・長江中・下流域並びに同支流域には、稲作・漁労を中心とする「太陽の文明」があったという。最近、その遺跡が続々と発掘され、中国古代史を見直す契機になっている。
また、「古代中国と倭族」、鳥越憲三郎著・中公新書によると、近年、これらの遺跡が次々と発掘され「河ぼ渡文化・馬家浜文化・マツ沢文化・リョウショ文化」等と命名されたという。
安田喜憲と鳥越憲三郎の説を要約すれば、おおよそ以下のとおりである。
「約7000年前から、長江並びに同支流水系で稲作・漁労文化を発達させ高度な文明を誇った倭人は「太陽神と鳥」を崇拝する民族であった。約4000年前頃から、黄河流域で発生した「龍の文明」の侵食を受け、一部は同化したが、その他は、広東省及び長江上流の四川省、貴州省、雲南省、ベトナム、タイ、台湾、並びに日本列島ほかに移動した。」
鳥越憲三郎は「古代中国の倭族」126・127ページで、長江並びに同支流域の倭族について、以下のごとく主張する。
「この地域(長江下流域)の文化が紀元前2600年頃のリョウショ文化をもって終息する。(臥薪嘗胆の)呉王夫差や越王句践が活躍するまでの1600年間の長い年月があったにもかかわらず・・・(呉の)太白を中心に呉の文化として再生した。太白の弟から19代目寿夢王の即位は紀元前585年であるが、その頃近隣の倭人がたくさん心服して集まってきた。つまり、太白から約500年を経て、やっと寿夢のとき王と称し、年号を記すほどの体をなした。」
「紀元前473年、呉王夫差は越王句践に破れ、呉国は滅亡した。その越も紀元前334年に楚に討たれて滅亡した。これによって、長江下流域における倭族の王国は終局を迎えることになった。」(同上128ページ)
(長江中流域の倭族国家の滅亡については略す・・・筆者)
「周第二代成王時(紀元前1030年前後)倭人チョウを貢す」(論衡)という記述がある。この倭人は四川省成都市を中心とする地域にいた国人である」(同上144ページ)
(以後、長江上流域における倭族国家の滅亡は以下のとおり)
1.秦の全国統一に際し、始皇帝は蜀国を討ち、蜀郡として秦帝国の版図に編入した。こうして、倭族の王国の二つ蜀と巴は秦の領土となって滅んだ。
2.前漢の第7代武帝(在位紀元前140−87年)の猛攻撃を受け、倭族の王国の中では、漢の属国となったセン国と、かろうじて漢の攻撃を防いだ昆明国だけが生き残り、他の国々はすべて滅亡した。
3.三国時代の蜀漢の建国初頭の建興3年(225年)諸葛孔明が大軍を三路に分けて侵攻、倭族の古代王国はすべて壊滅した。
戦国時代から前漢代に編纂された「山海経」に「倭は燕に属す」と記されている。燕は現在の北京・天津・大連など渤海周辺の海岸・内陸を占める広大な国家であったから、「倭」は渤海沿岸の一小国であったのではなかろうか。
燕は紀元前222年に滅亡した。以来、中国大陸の歴史に「倭人の国家」が登場することはなくなった。だからといって、7000年前から長江・同支流域で高度な稲作文明を築いた倭人がすべて消滅した訳ではない。北方騎馬民族や漢族ほかと同化して「倭族としてのアイデンティテーを失った」ということだろう。
(以後、中国の歴史書は「倭(国)」を日本列島上に特定しているようである。)
「後漢書」光武帝紀・東夷伝・・・紀元57年「東夷の倭の奴国王、貢を奉じて朝賀す。光武賜うに印綬をもってす」(志賀島で発見された金印)
「後漢書」東夷伝・・・紀元107年「倭国王王帥升等・・・生口(奴隷)160人を献上など」
「三国志」魏書巻30、烏丸鮮卑東夷伝倭人条・・・紀元239年「倭人は帯方の東南海の中にあり・・・」(通称、魏志倭人伝)
以後、「倭の五王」の朝貢がつづいた。
黄河中流域(中原)で栄えた中国歴代王朝は自らを「中華」と称し、東西南北に野蛮な人種がいるとみなし「差別的用語」を割り当てた。「倭人」というのは、「身毒人」(インド人)と比べるとマシかもしれぬ。鮮卑というのも、名づけられた側からすると「はい、そうですか」とは言い難い差別用語である。
中華歴代王朝が「倭人」などと蔑称してきた用語をそのまま使用するのも腹立たしいが、「代用できる言葉もない」から、とりあえず「倭」「倭人」「倭族」という差別用語で議論をすることにしよう。「中国55の少数民族一覧」では、差別用語を抑制しているようであるが、それでも「土」とか「怒」とかの民族名をつけているから、差別意識を払拭するのは困難であろう。少数民族という呼称からして、「漢族優位」を誇示したいとの気分がにじみ出ているといわねばならぬ。
「漢族」といっても、いろいろな民族が混合・同化したものであろう。長江流域の稲作・漁労文明と黄河文明の諸民族が混合したのは当然として、中央アジア・中東などコーカソイド人種の影響が濃いといわれる。胡・馬・毛などの名前は、北方騎馬民族(牧畜と商業)の流れを示唆している。当然ながら、モンゴロイドとは身長や顔立ちが異なる。
高木桂蔵著「客家」・講談社現代新書に「数の発音」という面白い記述があった。
1.客家語・・・1(イッ)、2(ニー)、3(サーム)、4(シー)、5(ウン)
(はっか) 6(ロック)、7(チット)、8(パット)、9(キィゥー)
2.北京語・・・1(イー)、2(アル)、3(サン)、4(スー)、5(ウー)
6(リュー)、7(チー)、8(パー)、9(チュー)
3.広東語・・・1(ヤット)、2(イー)、3(サム)、4(セー)、5(ウン)
6(ロック)、7(チャッ)、8(パ)、9(カウ)
その他、上海語(呉語)は北京語とは相当異なっているそうである。三国志の呉と魏以来、否、さかのぼると「稲作・漁労の長江文明」と「牧畜・畑作の黄河文明」の違いが、現在でも残っているのかもしれぬ。言葉や風俗で共通点が少ない異民族同士を無理やり「漢族」の範疇に入れるのも如何なものかと思うのだ。
もともと、黄河中流域にいた「客家」は、漢族の原型を最も濃厚に温存している集団だといわれる。北方騎馬民族の圧力で「中原」から追われ南下、広東・福建・四川等の僻地で逼塞してきた。このような「客家」がなぜ、我が国とほぼ同じ発音なのか?
「客家」が中原にいたころ、我が国の留学生が「洛陽や長安」で学んだ発音の仕方を我が国に伝えたからか?それとも、「客家」集団が、倭人が多数住んでいた四川省・広東省・貴州省などに逃れて交わり、「倭人の発音」を真似るようになったのか?不可解ではある。
鳥越憲三郎(93歳)は「日本人とは何か」「日本人のルーツ探し」を生涯のライフワークとして取組んできた。そして、最後に「長江流域の倭族」にたどりついたのである。長江中・下流域での考古学的発見が相次いだことも、大きなヒントになったのかもしれぬ。
(最後に、「中国古代と倭族のあとがき」で、鳥越憲三郎が記した思いを紹介しておきたい)
「倭族の足跡を求めて東アジア各地の旅を重ねた。本書は各地に移動分布した倭族の故里であり、発祥の地でもある中国の長江流域を中心に、倭族論の終結扁として執筆したものである。ところで、中国に残留する倭族の大半は少数民族という境遇に没落しているが、遠く故里を離れた倭族はそれぞれの地で古代王国・近代国家を建設した。そのいずれにせよ、彼ら倭族は文化的特質である稲作と高床式住居を、一様に生活の基盤として生き続けてきた。その長江で育成された文化は、他の地域にはみられない顕著な民族的特色をもち、長江文明と称するに価するものと確信している。」
現代日本には、鳥越憲三郎がいう長江文明の痕跡が「日々少なくなっている」状況にある。しかし、注意してみると、形態は変化しつつも、貫徹しているシステムがあると思うのだ。
日本人は一戸建住宅であろうが、マンションの住人であろうが、履物を脱いで家に入る。家の中では跣(はだし)で生活する。ベッドや家具が洋風化しても、高床式住居で身につけた生活態度の基本は変わらない。これが、文明というものであろう。
現在、鳥越憲三郎が存命が否か不明である。彼が生涯を賭けて押し開いてくれた御蔭で「日本民族のルーツの一つ」が明瞭な姿を見せ始めた。
我が民族は、「長江文明ー太陽神崇拝」を基底にすえながら、朝鮮半島、中国大陸そして東南アジア等から多くの移民を受容した。さまざまな文明が混合し醗酵して「日本民族」を形成した。
鳥越憲三郎の長年の研究に謝意を捧げたい。あえて苦言を呈すれば「倭族という用語の使い方は、差別用語を認容する危険な一面がある」と思う。さらに、中国が推し進めている「中国少数民族の研究」の一環に利用されはしないかと懸念する。
中国は漢族(龍と鳳)を初め、55の少数民族の紋章を円形ドーム状に陳列しているという。そして、最後の1枚だけ空白になっているとのことである。中国の考古学者が、冗談交じりに「ここに倭族がいるといいですね」といったとの紹介記事を読んだことがある。50年先又は100年先「日本を併合する予定」で、空白部分を1枚設けているのかもしれぬ。油断はできない。
倭族の故里である「長江・同支流の流域」を再び「奪還する」などと夢想する必要はない。13億人を養うには中国の大地は広いとはいえない。だが、倭族を長江流域から追い払った成功体験を有する彼らが「温暖で湿潤な日本列島に目をつけ狙っているかもしれぬ」という程度の警戒心を持つのは当然である。中国歴代王朝の侵略的体質は、数千年前と変わっていない。21世紀、軍事力を増強して「虎視眈々」と機会を窺っているかもしれぬ。
鳥越憲三郎は「古代中国と倭族」・中公新書で、倭族の民俗学的特徴を以下のとおり主張する。(要約)
1.聖なる「村の門」
我が国における鳥居の原型である。悪鬼や悪霊がこの門から村内に進入しないための安全祈願の設備である。かって、我が国の農村にも散見された。
2.しめ縄
結界としての「村の門」や「しめ縄」の習俗は、さらに家の門や戸口にも及んだ。「悪鬼」や「悪霊」を寄せ付けない「まじない」である。
3.高床式住居
土間式住居では腰掛けや寝台を用いるが、高床式住居では、履物を脱ぎ跣(はだし)になって床上に腰をおろす。正座またはあぐらを組み、眠るときも床面に体を横たえる。
4.貫頭衣
三国志・後漢書の東夷列伝の倭人の条に、女性は「衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、貫頭にして衣(き)る」とあり、「単被」とは一重衣のことで、弥生時代の女性は貫頭衣を着用していた。
現在でも、雲南省奥地に住むワ族の一部や同族のタイ山岳地帯のワラ族をはじめ、ミャンマーからタイ西北部にかけて分布するカレン族が着ている。
5.断髪・文身の習俗
「墨子」公益の条に「越王句践、髪を剪り身を文(かざ)る。」と見え、断髪・文身していた。また「春秋穀梁伝」哀には「呉、夷荻の国なり。髪を祝(た)ち身を文(かざ)る。」とあって、呉越ともに断髪・文身の習俗があった。
長江中流域の四川省の重慶市から漢中地域にかけて国を形成していた巴国について、「文選」魏都賦に「膚をろうして髪をきり」とあり、巴人も断髪・文身であった。タイ北部や雲南省の一部には現在でも断髪・文身の風俗が残っている。
我が国に断髪の風があったかどうか不明であるが、「三国志」魏志倭人伝には「男子は大小となく、皆鯨面文身す」とある。「三国史記」新羅本紀や「後漢書」には、朝鮮半島中・南部でも文身の習俗があった旨の記述があるが、断髪が記されていないところを見ると、倭族が(長江下流域→黄河下流域→朝鮮半島中・南部)に移動するにつれ、断髪の風俗を失ったのではないかと思われる。
以上のほか、鳥越憲三郎は「村落と聖林」「屋根の鳥と鬼の目」」「タスキとチハヤ」などを比較検証している。
「龍の文明、太陽の文明」安田喜憲著・PHP新書によると、約7000年前から数千年前まで、中国・長江中・下流域並びに同支流域には、稲作・漁労を中心とする「太陽の文明」があったという。最近、その遺跡が続々と発掘され、中国古代史を見直す契機になっている。
また、「古代中国と倭族」、鳥越憲三郎著・中公新書によると、近年、これらの遺跡が次々と発掘され「河ぼ渡文化・馬家浜文化・マツ沢文化・リョウショ文化」等と命名されたという。
安田喜憲と鳥越憲三郎の説を要約すれば、おおよそ以下のとおりである。
「約7000年前から、長江並びに同支流水系で稲作・漁労文化を発達させ高度な文明を誇った倭人は「太陽神と鳥」を崇拝する民族であった。約4000年前頃から、黄河流域で発生した「龍の文明」の侵食を受け、一部は同化したが、その他は、広東省及び長江上流の四川省、貴州省、雲南省、ベトナム、タイ、台湾、並びに日本列島ほかに移動した。」
鳥越憲三郎は「古代中国の倭族」126・127ページで、長江並びに同支流域の倭族について、以下のごとく主張する。
「この地域(長江下流域)の文化が紀元前2600年頃のリョウショ文化をもって終息する。(臥薪嘗胆の)呉王夫差や越王句践が活躍するまでの1600年間の長い年月があったにもかかわらず・・・(呉の)太白を中心に呉の文化として再生した。太白の弟から19代目寿夢王の即位は紀元前585年であるが、その頃近隣の倭人がたくさん心服して集まってきた。つまり、太白から約500年を経て、やっと寿夢のとき王と称し、年号を記すほどの体をなした。」
「紀元前473年、呉王夫差は越王句践に破れ、呉国は滅亡した。その越も紀元前334年に楚に討たれて滅亡した。これによって、長江下流域における倭族の王国は終局を迎えることになった。」(同上128ページ)
(長江中流域の倭族国家の滅亡については略す・・・筆者)
「周第二代成王時(紀元前1030年前後)倭人チョウを貢す」(論衡)という記述がある。この倭人は四川省成都市を中心とする地域にいた国人である」(同上144ページ)
(以後、長江上流域における倭族国家の滅亡は以下のとおり)
1.秦の全国統一に際し、始皇帝は蜀国を討ち、蜀郡として秦帝国の版図に編入した。こうして、倭族の王国の二つ蜀と巴は秦の領土となって滅んだ。
2.前漢の第7代武帝(在位紀元前140−87年)の猛攻撃を受け、倭族の王国の中では、漢の属国となったセン国と、かろうじて漢の攻撃を防いだ昆明国だけが生き残り、他の国々はすべて滅亡した。
3.三国時代の蜀漢の建国初頭の建興3年(225年)諸葛孔明が大軍を三路に分けて侵攻、倭族の古代王国はすべて壊滅した。
戦国時代から前漢代に編纂された「山海経」に「倭は燕に属す」と記されている。燕は現在の北京・天津・大連など渤海周辺の海岸・内陸を占める広大な国家であったから、「倭」は渤海沿岸の一小国であったのではなかろうか。
燕は紀元前222年に滅亡した。以来、中国大陸の歴史に「倭人の国家」が登場することはなくなった。だからといって、7000年前から長江・同支流域で高度な稲作文明を築いた倭人がすべて消滅した訳ではない。北方騎馬民族や漢族ほかと同化して「倭族としてのアイデンティテーを失った」ということだろう。
(以後、中国の歴史書は「倭(国)」を日本列島上に特定しているようである。)
「後漢書」光武帝紀・東夷伝・・・紀元57年「東夷の倭の奴国王、貢を奉じて朝賀す。光武賜うに印綬をもってす」(志賀島で発見された金印)
「後漢書」東夷伝・・・紀元107年「倭国王王帥升等・・・生口(奴隷)160人を献上など」
「三国志」魏書巻30、烏丸鮮卑東夷伝倭人条・・・紀元239年「倭人は帯方の東南海の中にあり・・・」(通称、魏志倭人伝)
以後、「倭の五王」の朝貢がつづいた。
黄河中流域(中原)で栄えた中国歴代王朝は自らを「中華」と称し、東西南北に野蛮な人種がいるとみなし「差別的用語」を割り当てた。「倭人」というのは、「身毒人」(インド人)と比べるとマシかもしれぬ。鮮卑というのも、名づけられた側からすると「はい、そうですか」とは言い難い差別用語である。
中華歴代王朝が「倭人」などと蔑称してきた用語をそのまま使用するのも腹立たしいが、「代用できる言葉もない」から、とりあえず「倭」「倭人」「倭族」という差別用語で議論をすることにしよう。「中国55の少数民族一覧」では、差別用語を抑制しているようであるが、それでも「土」とか「怒」とかの民族名をつけているから、差別意識を払拭するのは困難であろう。少数民族という呼称からして、「漢族優位」を誇示したいとの気分がにじみ出ているといわねばならぬ。
「漢族」といっても、いろいろな民族が混合・同化したものであろう。長江流域の稲作・漁労文明と黄河文明の諸民族が混合したのは当然として、中央アジア・中東などコーカソイド人種の影響が濃いといわれる。胡・馬・毛などの名前は、北方騎馬民族(牧畜と商業)の流れを示唆している。当然ながら、モンゴロイドとは身長や顔立ちが異なる。
高木桂蔵著「客家」・講談社現代新書に「数の発音」という面白い記述があった。
1.客家語・・・1(イッ)、2(ニー)、3(サーム)、4(シー)、5(ウン)
(はっか) 6(ロック)、7(チット)、8(パット)、9(キィゥー)
2.北京語・・・1(イー)、2(アル)、3(サン)、4(スー)、5(ウー)
6(リュー)、7(チー)、8(パー)、9(チュー)
3.広東語・・・1(ヤット)、2(イー)、3(サム)、4(セー)、5(ウン)
6(ロック)、7(チャッ)、8(パ)、9(カウ)
その他、上海語(呉語)は北京語とは相当異なっているそうである。三国志の呉と魏以来、否、さかのぼると「稲作・漁労の長江文明」と「牧畜・畑作の黄河文明」の違いが、現在でも残っているのかもしれぬ。言葉や風俗で共通点が少ない異民族同士を無理やり「漢族」の範疇に入れるのも如何なものかと思うのだ。
もともと、黄河中流域にいた「客家」は、漢族の原型を最も濃厚に温存している集団だといわれる。北方騎馬民族の圧力で「中原」から追われ南下、広東・福建・四川等の僻地で逼塞してきた。このような「客家」がなぜ、我が国とほぼ同じ発音なのか?
「客家」が中原にいたころ、我が国の留学生が「洛陽や長安」で学んだ発音の仕方を我が国に伝えたからか?それとも、「客家」集団が、倭人が多数住んでいた四川省・広東省・貴州省などに逃れて交わり、「倭人の発音」を真似るようになったのか?不可解ではある。
鳥越憲三郎(93歳)は「日本人とは何か」「日本人のルーツ探し」を生涯のライフワークとして取組んできた。そして、最後に「長江流域の倭族」にたどりついたのである。長江中・下流域での考古学的発見が相次いだことも、大きなヒントになったのかもしれぬ。
(最後に、「中国古代と倭族のあとがき」で、鳥越憲三郎が記した思いを紹介しておきたい)
「倭族の足跡を求めて東アジア各地の旅を重ねた。本書は各地に移動分布した倭族の故里であり、発祥の地でもある中国の長江流域を中心に、倭族論の終結扁として執筆したものである。ところで、中国に残留する倭族の大半は少数民族という境遇に没落しているが、遠く故里を離れた倭族はそれぞれの地で古代王国・近代国家を建設した。そのいずれにせよ、彼ら倭族は文化的特質である稲作と高床式住居を、一様に生活の基盤として生き続けてきた。その長江で育成された文化は、他の地域にはみられない顕著な民族的特色をもち、長江文明と称するに価するものと確信している。」
現代日本には、鳥越憲三郎がいう長江文明の痕跡が「日々少なくなっている」状況にある。しかし、注意してみると、形態は変化しつつも、貫徹しているシステムがあると思うのだ。
日本人は一戸建住宅であろうが、マンションの住人であろうが、履物を脱いで家に入る。家の中では跣(はだし)で生活する。ベッドや家具が洋風化しても、高床式住居で身につけた生活態度の基本は変わらない。これが、文明というものであろう。
現在、鳥越憲三郎が存命が否か不明である。彼が生涯を賭けて押し開いてくれた御蔭で「日本民族のルーツの一つ」が明瞭な姿を見せ始めた。
我が民族は、「長江文明ー太陽神崇拝」を基底にすえながら、朝鮮半島、中国大陸そして東南アジア等から多くの移民を受容した。さまざまな文明が混合し醗酵して「日本民族」を形成した。
鳥越憲三郎の長年の研究に謝意を捧げたい。あえて苦言を呈すれば「倭族という用語の使い方は、差別用語を認容する危険な一面がある」と思う。さらに、中国が推し進めている「中国少数民族の研究」の一環に利用されはしないかと懸念する。
中国は漢族(龍と鳳)を初め、55の少数民族の紋章を円形ドーム状に陳列しているという。そして、最後の1枚だけ空白になっているとのことである。中国の考古学者が、冗談交じりに「ここに倭族がいるといいですね」といったとの紹介記事を読んだことがある。50年先又は100年先「日本を併合する予定」で、空白部分を1枚設けているのかもしれぬ。油断はできない。
倭族の故里である「長江・同支流の流域」を再び「奪還する」などと夢想する必要はない。13億人を養うには中国の大地は広いとはいえない。だが、倭族を長江流域から追い払った成功体験を有する彼らが「温暖で湿潤な日本列島に目をつけ狙っているかもしれぬ」という程度の警戒心を持つのは当然である。中国歴代王朝の侵略的体質は、数千年前と変わっていない。21世紀、軍事力を増強して「虎視眈々」と機会を窺っているかもしれぬ。