我が友<加山雄三>の「歌声と人間力」
January 19 [Sat], 2008, 2:17
「日経」夕刊の<交友抄>に歌手・守口博子さんの記事が出た。「60代にして果てしなく伸びる歌声に、底知れぬ力を感じた。2004年6月、NHKの歌番組で、加山雄三さんが歌う洋楽を初めて隣で聞いた時のことだ」と始まる。
「米国ポピュラー界の大物、故ペリー・コモのような、心の痛みも包み込む深い声に心が震えた。加山さんのように年を重ねるごとに進化するボーカリストになりたい。ずっと、憧れている」―――。題して「歌声と人間力」(5月20日)。
「我が友<加山雄三>」とタイトルにつけた。実は小学校の同級生だ。茅ヶ崎の小学校。東海岸という高級別荘地に彼の家があった。父親は有名な俳優<上原健>というのでクラスの人気者だった。ハンサムで頭がよく、男らしくてしかも優しい。皆に好かれて当然だ。
どういうわけか火山と非常に気があった。席が火山の後ろ。休み時間になるとよく雑談を繰り返した。ある日、「遊びにおいでよ」と誘われた。一人で遊びに行った。
昭和21年(1946年)、彼も火山も小学校2年生。8歳だ。戦後で物資が不足。というより食料難。食うや食わずの毎日だった。疎開先の長野県飯山市から茅ヶ崎へ引っ越したばかり。火山の家は父がまだ出征先のラバウルから帰還していない。貧乏のドン底だった。
彼の家は豪邸。応接間にはグランド・ピアノがあった。女中さんが出してくれたのが食パンに砂糖をまぶしたもの。ケーキなどない時代。食パンさえも見たことがない。砂糖だって貴重品だった。それも真っ白なパンと砂糖。上等なものだ。感激した。
彼は当時からピアノが上手だった。何を弾いてくれたのかは覚えていない。しかし、遊びに行く都度、おいしい食パンと素晴らしいピアノを聞かせてもらった。モーツアルトの「トルコ行進曲」だったような気がするがはっきりはしない。でも二人でよく遊んだ。
その後、火山の父が復員、横浜に就職したので火山の家族は横浜に移り住んだ。茅ヶ崎にいたのは1年に満たない短い期間だった。友人らしいのは彼1人。クラスに担任教師の娘がいた。美人で気立てのよい子だった。覚えているのは彼女と彼だけだ。
高校へ進学した時、驚くべき偶然が起った。なんと高校の同級生に、茅ヶ崎小学校の同級生がいたのだ。何かの偶然で茅ヶ崎時代の話をしたのだろう。同級生に「上原健の息子がいた」ということから<同級生>と判明したのだ。嬉しかったのは担任教師の娘が火山のことをよく覚えていて「勉強もよくできたし、好きだった」と言っていたというのだ。
もっと驚いたのは上原健の息子も同じ高校に来ているという。<再会>のチャンスだった。
だが火山たちの高校、クラス数が<18>もあった。同期生といったら800人。200人程度だったら<親近感>も湧くだろうが、<800分の1>では<友人>になろうという気持ちは起きない。しかも火山たちは第二外国語がドイツ語。上原健の息子はフランス語だという。別世界の住人という感じだ。それでも同級生の彼は上原健の息子が「火山のことをよく覚えているから会おう」と誘ってくれたが、引っ込み思案だった火山、勇気が出なかった。
エスカレータ式に大学に進学した。大学ももちろん同じだった。だが学部も違うし、学年の人数も倍増する。大き過ぎて高校の時より距離が広がった。火山は「ドイツ文化研究会」とか「資本論研究会」「平和の会」。どう考えても上原健の世界ではない。
だが仰天。ある日、大スター<加山雄三>が誕生した。映画界にも<若大将>が彗星のように登場した。爆発的な人気だ。そして加山雄三とは上原健の息子だというではないか。げっ。だったらもっと<仲良く>しておけばよかった。そう思ったが<手遅れ>だ。
電機メーカーに就職した火山。入社後、ずっと人事畑だった。37歳で研修課長になった。49歳で人事部長代理。新入社員研修で「会社の歴史」を語る講座を担当した。
戦後の厳しい時代をいき伸び、<家庭電化>ブームに乗って<3種の神器>テレビ・冷蔵庫・洗濯機が飛ぶように売れた。会社は<急成長>を遂げる。東京オリンピックではカラーテレビが登場、再び<テレビ>ブームが起る。そんな中で当社はどんなマーケティング戦略をとってきたか。業界での地位はどう変化したか。そんなことを語る。
何気なく「加山雄三は小学校の時の同級生だ」と話した。<万年青年>―――。「私も若い」と言いたかった。<生涯青春>―――。だが…!
「あら、加山雄三って<年>なのね」と短大出の美人が素っ頓狂な声を上げた。途端に全員が笑い出した。げっ! 誰よりも驚いたのは火山だ。まだ50歳にもなっていない。
「共演から少したった頃、加山さんに誘われて西伊豆近海であった船上パーティに参加した。カラオケ大会で歌う私にライトを当てて盛り上げてくれたり、手料理のイタリアンをご馳走してくれたり、何をやるにも気張っていない。さり気ない優しさなのに、深くそして温かい。『遊びにおいでよ』といわれてライブにも度々参加し、歌わせてもらっている」と森口博子さん。<歌声も人間力>も素晴らしいと文章は続く。
『遊びにおいでよ』―――。恐らくその昔、火山も言ってもらったに違いない。懐かしい思い出だ。そして昔と少しも変わっていない<人柄>にホレボレする。
(平成18年6月3日)
「米国ポピュラー界の大物、故ペリー・コモのような、心の痛みも包み込む深い声に心が震えた。加山さんのように年を重ねるごとに進化するボーカリストになりたい。ずっと、憧れている」―――。題して「歌声と人間力」(5月20日)。
「我が友<加山雄三>」とタイトルにつけた。実は小学校の同級生だ。茅ヶ崎の小学校。東海岸という高級別荘地に彼の家があった。父親は有名な俳優<上原健>というのでクラスの人気者だった。ハンサムで頭がよく、男らしくてしかも優しい。皆に好かれて当然だ。
どういうわけか火山と非常に気があった。席が火山の後ろ。休み時間になるとよく雑談を繰り返した。ある日、「遊びにおいでよ」と誘われた。一人で遊びに行った。
昭和21年(1946年)、彼も火山も小学校2年生。8歳だ。戦後で物資が不足。というより食料難。食うや食わずの毎日だった。疎開先の長野県飯山市から茅ヶ崎へ引っ越したばかり。火山の家は父がまだ出征先のラバウルから帰還していない。貧乏のドン底だった。
彼の家は豪邸。応接間にはグランド・ピアノがあった。女中さんが出してくれたのが食パンに砂糖をまぶしたもの。ケーキなどない時代。食パンさえも見たことがない。砂糖だって貴重品だった。それも真っ白なパンと砂糖。上等なものだ。感激した。
彼は当時からピアノが上手だった。何を弾いてくれたのかは覚えていない。しかし、遊びに行く都度、おいしい食パンと素晴らしいピアノを聞かせてもらった。モーツアルトの「トルコ行進曲」だったような気がするがはっきりはしない。でも二人でよく遊んだ。
その後、火山の父が復員、横浜に就職したので火山の家族は横浜に移り住んだ。茅ヶ崎にいたのは1年に満たない短い期間だった。友人らしいのは彼1人。クラスに担任教師の娘がいた。美人で気立てのよい子だった。覚えているのは彼女と彼だけだ。
高校へ進学した時、驚くべき偶然が起った。なんと高校の同級生に、茅ヶ崎小学校の同級生がいたのだ。何かの偶然で茅ヶ崎時代の話をしたのだろう。同級生に「上原健の息子がいた」ということから<同級生>と判明したのだ。嬉しかったのは担任教師の娘が火山のことをよく覚えていて「勉強もよくできたし、好きだった」と言っていたというのだ。
もっと驚いたのは上原健の息子も同じ高校に来ているという。<再会>のチャンスだった。
だが火山たちの高校、クラス数が<18>もあった。同期生といったら800人。200人程度だったら<親近感>も湧くだろうが、<800分の1>では<友人>になろうという気持ちは起きない。しかも火山たちは第二外国語がドイツ語。上原健の息子はフランス語だという。別世界の住人という感じだ。それでも同級生の彼は上原健の息子が「火山のことをよく覚えているから会おう」と誘ってくれたが、引っ込み思案だった火山、勇気が出なかった。
エスカレータ式に大学に進学した。大学ももちろん同じだった。だが学部も違うし、学年の人数も倍増する。大き過ぎて高校の時より距離が広がった。火山は「ドイツ文化研究会」とか「資本論研究会」「平和の会」。どう考えても上原健の世界ではない。
だが仰天。ある日、大スター<加山雄三>が誕生した。映画界にも<若大将>が彗星のように登場した。爆発的な人気だ。そして加山雄三とは上原健の息子だというではないか。げっ。だったらもっと<仲良く>しておけばよかった。そう思ったが<手遅れ>だ。
電機メーカーに就職した火山。入社後、ずっと人事畑だった。37歳で研修課長になった。49歳で人事部長代理。新入社員研修で「会社の歴史」を語る講座を担当した。
戦後の厳しい時代をいき伸び、<家庭電化>ブームに乗って<3種の神器>テレビ・冷蔵庫・洗濯機が飛ぶように売れた。会社は<急成長>を遂げる。東京オリンピックではカラーテレビが登場、再び<テレビ>ブームが起る。そんな中で当社はどんなマーケティング戦略をとってきたか。業界での地位はどう変化したか。そんなことを語る。
何気なく「加山雄三は小学校の時の同級生だ」と話した。<万年青年>―――。「私も若い」と言いたかった。<生涯青春>―――。だが…!
「あら、加山雄三って<年>なのね」と短大出の美人が素っ頓狂な声を上げた。途端に全員が笑い出した。げっ! 誰よりも驚いたのは火山だ。まだ50歳にもなっていない。
「共演から少したった頃、加山さんに誘われて西伊豆近海であった船上パーティに参加した。カラオケ大会で歌う私にライトを当てて盛り上げてくれたり、手料理のイタリアンをご馳走してくれたり、何をやるにも気張っていない。さり気ない優しさなのに、深くそして温かい。『遊びにおいでよ』といわれてライブにも度々参加し、歌わせてもらっている」と森口博子さん。<歌声も人間力>も素晴らしいと文章は続く。
『遊びにおいでよ』―――。恐らくその昔、火山も言ってもらったに違いない。懐かしい思い出だ。そして昔と少しも変わっていない<人柄>にホレボレする。
(平成18年6月3日)
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