2010/05/16

読者のみなさんに最後のご挨拶をさせていただきます。

2008年11月から1年半もの間、コラムを投稿させていただいてきましたが、今回のコラムをもってその掲載を終了させていただくこととしました。どのような方がぼくのコラムを読んでくださっていたかはあまりわかりませんが、今までほんとうにありがとうございました。赤裸々に綴ってきたこの弱い心の内をみなさんはどのように受け止められたのでしょうか。

いつも大袈裟なことばかり言ってしまって申し訳なく思うのですが、最後だと思ってこれから綴るぼくの最後のことばを読んでください。

コラムの執筆は自分を見つめ直す良い機会となっていました。お陰で自分のやりたいこと、やるべきことがなんであるかを強く考えさせられました。その反面、過去の経験や失敗を思い出すたびにその傷を補うかのような慰めにも似た行為もし、それを綴ってきたように思います。いつしかそれは単なる言い訳になってしまい、ことばを発すれば発するほど自分自身をまた新たな苦しみへと誘っていったようにも思います。見かけ倒しの積み重ねをしていくうちに本当の自分が見えなくなり、進むべき道がわからなくなってきました。

そんな中、今やるべきことがなんであるかをしっかりと見極めたいという強い思いが今の自分をかろうじて支えています。きっとわずかしかない人生だとは思いますが、今まで自分の身に覆いかぶせてきた多くのものを少しずつでも削ぎ落としていき、最後に残ったものがなんであるかをもう一度自分の目でしっかりと見極めてみたいと思いました。

原点に立ち戻って、創作をはじめたころの自分のようにこつこつと楽しみながら手を使って生きていけたらいいなと思っています。

そのため、今まで自らの存在をつなぎ止めてきたコミュニケーションのツールである通信網も見直すことにしました。ぼくの創作活動の歴史と共に歩んできたWebサイトもこの機会に閉鎖しました。最近はじめたTwitterも一部を残してフォローを解除しました。Twitterに関しては、ある学生が誹謗中傷に利用していることを知り今も心が痛んでいます。それからというもの、いろいろな人の書き込みが上からの目線で綴ったような批判的なことばや自己主張の強いことばのように思えてきてしまいTwitterを開くのが楽しくなくなりました。もしかすると自分も同じ穴の狢なのかもしれません。きっと、ここのコラムで綴ってきたことばの数々も読者にとってみれば同じような嫌悪感を抱いた人も多かったのだろうと思います。

信じる気持ちはとても大切ですが、信じた分、裏切られたときのショックは大きい。悪意をもたない心変わりであっても信じた人にとっては裏切られた気持ちになります。過去の自分を振り返ると、ぼく自身もその被害者であると同時に加害者でもあります。それを踏みしめて前に進むしかありません。

だから、変化を惜しまない。例えその変化が今まで積み重ねてきたものを削ぎ落とす行為であっても。

きっと、自分の中にまだ残っているだろうと信じているわずかな光をもう一度この目で見てみたい。それが見つけられないとどうにもこうにもこれから進むべき道を照らすことができずにまた誤った方向へ進んでしまいそうで怖い。

だから削ぎ落とすことにします。

いっそのこと、隠遁者になってしまいたい気持ちですが、それができるほどの力がぼくにはまだありません。ぼくにとって、隠遁者はけっして世の中から逃げ出した人たちだとは思っていません。なぜなら、彼らはすべてを捨てていないからです。身に付いてしまったものを削ぎ落とすことはそう簡単なことではありませんが、大切なものだけを残し都合良く社会で生きていくということも簡単にはできません。むしろ、社会的な立場から完全に逃れ、すべてを捨てきることの方がきっと簡単なのだろうと思えてなりません。純粋なものだけを残すのはとても力がいることだと思います。

自分が純粋になれるかどうかわかりませんが、ちょっとでも意義を感じられる生き方ができたらいいなと思っています。簡単に言ってしまうと、手をうごかすことだけを考えて生きていきたいのです。もちろん、それが都合良すぎる考えであることはわかっています。だから難しい。でも、それに手をこまねいて見ているだけでは時間がもったいないので、削ぎ落とせることを少しずつでもしていきたいと思っています。

これからはあまり露出する機会が少なくなると思います。
いつか時がきて、またぼくの存在を知る機会をもっていただけることを願いつつこの場を失礼します。

さようなら。

※一定期間後にTOPページから「石川ふくろう」のリンクは削除されます。

2010/05/11

読者のみなさま

ここのコラムを読んでくださってなんとお礼を言ってよいのやら。
いつもほんとうにありがとうございます。

突然のお知らせで申し訳ないのですが、これより、コラムの掲載を休止させていただこうと思います。また掲載再開できることを願いつつ今できることに力を注いでみたいと思います。

一応、再開予定日を7月4日にさせてもらおうと思います。
そのときは是非また読者になってください。
自然消滅しないようにがんばってみます。

よろしくお願いします。

石川ふくろう

2010/04/27

最近、身の回りでなにかが狂いはじめているのではないかと感じてしまう。なにかがおかしい。理解できないことが多い。安心できない。信用もできない。楽しいと思えない。むしろ怖い。この悪の連鎖反応はなんなのだろう。もうなにも言えなくなりそう。覇気がどんどんと消えていくのを感じてどうしたものかと思い悩む。自分まで狂いそうだ。いや、もう狂っているのかもしれない。針で刺したかのようなこの心臓の痛みを感じながらも苦笑いしかできない。この腐りかけた脳をどうしてくれようか。目の前を見れば、異臭を放つ血の色がぼくの視野を覆っている。そのわずかな隙間を頼りに近づいてみるがここから抜け出ることはできそうにない。信じていたものがあたかも虚像だったかのようにまるで異物に見えてくる。一刻も早くここを立ち去りたいとは思うもののどこにも逃げ場を見つけることができない。SOSなんて無駄なことか。なにがどうなっているのかさっぱりわからない。この想いをどうにかして吐き出したい。一つの救いは、吐き出したい気持ちがあるということか。どうかこの命がなくなる前にぼくにもう一度だけこれを吐き出す権利と機会と勇気を掴みとらせてほしい。

周りをよく見てみると、汚れた血で染まり弱りきった幾人もの弱者が苦しみもがいているのに気づいた。それを見て自分だけではないと安心するも、瞬く間にその思いはどこかへ消え去ってしまう。みんな自分の身を守るので精一杯なのだろうと思う。「少しでもいいから他人に興味をもてればきっと道は開けるよ。」ともう一人の自分がささやく。遠回りのようで意外にもそこに出口が隠されているのだと思う。自己主張ばかりでは人の心は離れていくよね、きっと。ぼくはそれで何度となく痛い思いをしたしね。見返りを求めない優しさをまた捧げられたらきっと気持ちいいだろうな。

今の悪の連鎖反応をどうにかして断ち切り、他人を信じる気持ちを取り戻したい。

2010/04/14

ジョン・ルーリー展に行ってきた。
タデウシュ・カントル以来に共感を持てたアーティストだった。

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この出会い、まるでもう一度出発点に戻ることを示唆しているかのようだった。
自分はプロデューサではなく、クリエイター「つくり手」であることを改めて認識させられた。言い換えれば、自分で自分をプロデュースするのは何よりも苦手な行為であることを今さらながらに思い知らされたわけだ。

久しぶりにクリエイターの血が騒いできた。
この「ひらめき」を描かずにはいられまい。

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2010/04/11

大学を卒業し社会人として一歩を踏み込んでまだ間もない20代の初め、通勤途中のバスで同期入社の男と一緒になったときのこと。彼から思いがけないことばを聞いてショックを受けた。「仕事は慣れた?」とぼくが聞くと、「いやー、なんか一生このままの感じだといいな。」と彼は言った。そのときのぼくにはとても信じがたいことばに聞こえた。ぼくは彼のそのことばに切望感を強く感じてしまい、そして間もなくしてそれは怒りへと変わっていった。沸々とわき上がるその怒りは、その後の自分の仕事に対する行動にも如実に表れるようになっていった。

20代は生意気に生きた。地方の年上の営業所長に「売れるなら売ってみろ!」と啖呵を切ったこともあった。配属された部署での所信表明のとき、「早く先輩である皆さんを超えるようがんばります!」と言った自分がそこにはいた。それを聞いたある先輩から、のちに「お前生意気だな。」と言われたのをよく覚えている。仕事上のいじめにもあった。会社のトイレで悔し涙を流したことも何度かあった。不器用なぼくはそれでもそのときは生意気でいるしかなかったように思う。何かがぼくをそうさせていた。せっかくもらった命をエキサイティングに生きなくてどうする、と。まるで、弱かったこどもの頃の自分を打ち消すかのような行為にもとれる。

挑戦もたくさんした。英語は苦手だったが海外出張を率先して希望した。その頃は、生きていく価値観を出世とか報酬とかに見出してモチベーションを高めて仕事をしていたように思う。本当の価値観が見えないなりにも一生懸命だったのだろうと歯がゆくも感じる。100人いる同期入社の社員の中で一番にマネジャー職に就いたことに嬉しさを感じたり、20代半ばでストックオプションや特別給をもらうようになると、ますますその生意気ぶりに拍車がかかるようになっていった。それが間違っているか正しいかはあまり問題ではないと思う。それがどうであれ、思いっきり突っ走っていた自分がそこにいたことに少しは誉めてやろうか。そんな20代のころの自分に感謝したい。日本拠点で1,000人以上いた社員の中で残業時間が一番多いからと労働組合に何度か呼び出された。まるで何かに取り憑かれているかのようだった。でも、けっして自信があったかというとそうではなかった。全国を営業サポートで回っていたころ、医局の医師に「お前みたいな若造に何がわかるか」という顔で見られることはざらにあった。悔しくて行く先々の地方で酒もたくさん飲んだ。飲んだら前向きにまたがんばろうと思えた。どうしたら話を聞いてくれるだろう、どうしたらわかってもらえるだろう、という想いで毎日を乗り越えていった。

しかし、20代後半になると早くも自分の体はそれに付いてこられなくなった。あげくに骨肉腫と診断され「運が悪くてあと3ヶ月の命だな。」と医師に宣告された。でも、意外にもそれでは心が崩れなかった。今思えば、心が崩れていくことにただ気付かなかっただけなのかもしれない。

結果的に仕事を辞めた。そして、二つの幸運が舞い降りた。一つは、また生きていくチャンスを与えられたこと。そして、二つ目は、「つくる」という人生のキーワードを見つけられたことだ。

だから、あの頃の生意気だった自分に今は感謝したい。繰返すあやまちはけっしてなくなることはないけれど、そのあやまちの数だけ自分はまた一歩も二歩も前に進すむための道しるべを見つけることができる。

自分自身の根本を変えることは難しいかもしれないけれど、生き方を変えることはいつの時代であっても可能だと信じている。中学生時代に落ちこぼれだった劣等生のぼくも、高校生時代には3年間成績が一番で特待生になったという極端な経験をした。すし屋の家で育ったぼくは、中学生のころに、国語の教師が「すし屋のバカ息子」と影で生徒たちに言っていたのを人づてに知り、そのときのショックは今でも記憶に深く刻み込まれている。心無い教師は意外と多い。でも、環境の転換は、気持ちの転換にもつながる。心の操縦次第では生き方を変えられるとも思っている。いかにいい人と出会えるかということも大切な要因でもある。いい人と出会う偶然もあるが、いい人を引き寄せる力があれば、もっと人生は明るく開けるようになるのだと思う。ぼくにはその才能はないのかもしれないけれど、少なからず、いい人と出会うことができていたとも思っている。

「ゼロ」の自分であってはならないと思う。しかし、「10」でも「100」でもなくてよい。「ゼロ」に「10」の経験を掛けても「100」の経験を掛けても「ゼロ」は「ゼロ」のままである。しかし、「1」はそれに掛けた分だけ「10」にも「100」にも変えることができる。若い頃はそれでいい。しかし今は、なにも掛けないときに見えてくる「1」が大事だと気付いた。たくさんの成功やあやまちを積み重ねていくうちに、それをすべて削ぎ落とすことが必要になるときがある。そしてそこに見えてくるものは、積み重ねる前の「1」とは遥かに違う「1」に見えてくるはずだ。およそ自分の人生の目指すところは、大きさではなく、いかにシンプルに輝くものにできるかということなのだろうと思う。

彫刻家のイサム・ノグチ(Isamu Noguchi、米国ロサンゼルス生まれ、日本名: 野口 勇、1904年11月17日 - 1988年12月30日)は、石の彫刻技術を駆使し優れた作品を残したが、晩年になるとその作品がよりシンプルなものへと変化していった。そして、彼は「私が死んだらこの石の中に入りたい。」と言って死んだという。

自分は一人の「素材」だと思っている。
ここ最近、その「素材」を磨くことをせずに、それを自ら活かすことばかり考えさせられていた。この「素材」を活かすのは自分の「役割」ではないと今ようやく気付きはじめたところだ。だから、今やろうとしていることは本意とは言えない。最近は空回りばかりして躓くことが多くなった。相変わらず不器用すぎるな。

今のこの失望感をなくすためにも、これからは自分の意志に反することには屈しない。
だから、ことば遣いも自然と強くなっていくのかもしれない。

でも、今もなお変わらずに優しさをくれる人には本当に感謝している。
こういうときにこそ、本当の優しさを思い出させてもらえる。
今ここにいるぼくを好きでいてくれる君に心から感謝している。

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2010/04/10

2010年3月26日にタレントの杉本彩さんが自身のブログで発信したメッセージには心を打たれた。そこには動物愛護に関わるすべてのメッセージが含まれていると感じた。

ご本人には申し訳ないのですがその全文をここに転載させていただきます。リンクを貼るのは簡単だがここにも掲載することで少しは読む人を増やすことに役立つだろうと思った。

著名人が民衆に与える「ことば」の力は善にも悪にも利用されることがあると思う。杉本彩さんのこの力の使い道は、著名人だからこそできる善の在り方の一つだと思う。

下文、2010年3月26日掲載の杉本彩オフィシャルブログより全文を転載。

一昨日、
民主党の動物愛護に関する
‘第3回 犬猫議連’に呼んで頂き、
お話させて頂きました!

会長の城島光力衆議院議員と、
生方幸夫副幹事長、
岡本英子衆議院議員を
中心としたこの議連に、
50名近くの議員の方々や、
動物愛護活動家の方々が参加されました。

会長ご挨拶の後、
最初に私が
お話する時間を頂き、
まず、同じ志を持って
活動に取り組む方々や、
ブログにも寄せられる、
同じように
犬猫の殺処分をはじめとした問題に
心痛めている方々の思いを、
私が代表して
お話させて頂きます
とお伝えしました。

私がお話させて頂いた内容は
以下の通りです。

ペット大国日本の
悲惨な現状は、
直視するには
耐え難いほどのものであること。

私の活動の中で、
保護した猫を
里親さんに差し上げる時、
もし、無責任にも
飼育放棄した場合、
犬猫が保健所や
動物管理センターでたどる運命が
どのように悲惨なものかを収めた
本を渡すのですが、
その理由は、
責任を持って
終生飼育して頂くためであること。

日本では
年間30万頭以上の犬猫が、
ガス室に送られ、
窒息死という惨いやり方で
殺されていること。

これから自分の身に
何が起こるかもわからず、
怯えながら体を寄せあって震え、
そして15分もの間、
酸素を求めてもがき苦しみ、
のた打ちまわり死んでいきます。

歩くのもおぼつかない老犬も、
否応なしにガス室に追いやられます。

犬猫は苦しさのあまり、
目を大きく見開いたまま、
口からは泡を吹き、
無惨な姿で息絶えます。

無酸素状態でもなかなか死なない
子猫や子犬などは、
生きたまま焼却炉で焼かれます。

保健所に持ち込まれた犬猫は、

病気をしたから、

歳を取ったから、

番犬のつもりで飼ったけど
吠えてうるさいから、

不妊去勢手術もせずに、
また子供を産んで増えたから、

違う種類を飼いたくなったから、

という耳を疑うような
身勝手な理由ばかりです。

このような、
いらなくなったからという理由で、
なんの罪もない
犬猫の命を殺すことに、
罪の意識さえ感じない人が
沢山いるのです。

この人たちは、
みな普通の人で、
特に世に目立つ悪人ではないのです。

保健所に持っていけば
行政が殺してくれるから、
行政がやっていることなので
罪の意識がないのです。

公然と引き取って、
ひっそりと殺してしまうものだから、
どんなふうに死んでいくかも
飼い主は知らず、
知ろうともせず、
自分が手を汚さないものだから、
余計に罪の意識が芽生えないのです。

しかし実際には、
30万頭というのは、
保健所や動物管理センターが
把握している数であって、
その生産過程や流通過程で、
殺されてしまった
犬猫の数は入っていません。

最近ではマスコミも
この現状を積極的に
取り上げてくれるようになり、
多くの国民が知ることとなりました。

皆心を痛めていますが、
なぜこういう犠牲が
生まれるかについては、
認識していない人が
まだまだ多いのが現状です。

ペットショップでの
生体展示販売は、
生後8週間にも満たない犬猫を、
小さくて可愛い間に、
売ってしまえ、
という衝動買いを
促すようなやり方です。

これが無責任な飼い主を
増やす要因であることは否めません。

生体展示販売が存在する以上、
劣悪な環境の中、
まともな食事も新鮮な水も与えられず、
ただ出産マシーンのように
何度も何度も子を産ませ、
使えなくなったら処分してしまう、
そんな悪質なブリーダーはなくならないのです。

経営悪化で
崩壊したブリーダーなどは、
何も与えず放置し、
病気と飢えで痩せ細り、
ボロボロの状態で死なせているのです。

東京の繁華街のど真ん中、
夜の街に、深夜営業の
ペットショップがありますが、
深夜の眠らなければいけない時間帯に、
明々と電気に照らされて、
小さなショーケースに閉じ込められた
犬猫を展示すること自体、
虐待です。

そんな環境で
幼い時期過ごすのは、
子犬子猫の心身にもリスキーなことです。

犬猫が問題行動を起こす場合、
そんな環境にいたことが
要因であることも否定できません。

さらに、
酔って判断力の低下した人間に
犬猫を売ることは許されないことです。

犬が噛んだからいらない、
なんて理由で捨てる人もいるわけですから、
生体展示販売は悪循環の一因です。

夜の繁華街で
公然と虐待が行われていることに、
私たち日本人は恥じなければいけません。

人間の利益のために作られた命は、
無駄な命という犠牲を生みます。

その犠牲は、
人間が救わなければいけません。

保健所や管理センターは、
殺処分所であってはいけないと思います。

犬猫を保護して、
里親を探す施設として
機能しなければならないこと。

虐待の定義を明確にし、
悪質なペットショップの生体展示販売や、
悪徳ブリーダーが淘汰されていくような、
法律やシステムを作って頂きたいと、
私たちが
心から願っていることを、
お伝え致しました。

うちには
現在3匹の猫がいて、
抱っこをせがんだり、
私の膝の上を取り合ったり、
頬を寄せて眠ったり、
彼らには心と感情があります。

ふかふかのベッドや
クッションの上で
気持ち良さそうに眠る姿を見ると、
愛おしいという
幸せな気持ちと同時に、
こんな幸せな環境で
安心して眠れない子たちが
沢山いるのだと、
その向こうに
かわいそうな子たちの姿や
思いを感じてしまい、
どうしようもなく
悲しい気持ちに襲われてしまいます。

一度も愛されることなく、
ただ殺されるためだけに生まれた命…。

家族だと信じていた人間に裏切られ、
それでも飼い主を信じて待ち続けたのに、
無情にも断ち切られる命…。

死んでも誰も悲しんでくれない
かわいそうな命…。

せめて、
今度生まれてきた時には、
いっぱい撫でて、
キスして、
愛してくれる家族に出会えることを
願わずにはいられません。

この問題は、
教育の問題とも深く関わっています。

命は尊いもの、
大切にしなさい!

弱い者に優しく接しなさい!

そういう道徳を、
子供たちに
教育していかなければならない社会が、
弱き犬猫の命を簡単に
殺処分をしているという矛盾。

介護の問題も教育の問題も、
すべてはこの道徳が
土台にあってこそ
成り立つものなのに…。

そして、日本が
真の先進国であってほしいという
願いを込めて、
ガンジーの
『国家の偉大さや道徳的水準は、
 その国で動物が
どう扱われているかによって判断することができる』

という言葉を、
最後にお伝えして
締めくくらせて頂きました。

涙ぐみながら聞いて下さった議員の方や、
自分も保健所から
引き取った犬がいるのだと、
言葉を詰まらせる議員の方もいらっしゃいました。

このような貴重な機会を頂けたことは、
本当によかったと思います。

これからも、
来年の法改正に向けて、
私たちでその動向を
しっかりと見ていきましょう!

現状のペットビジネスで
利益を得ている人が沢山いる以上、
あらゆる思惑が影響し、
この法改正は、
一筋縄ではいかないことでしょう。

何を選択すれば犬猫は救われるのか、
いろんな人がいろんな主張をすることでしょう。

それらを統制し、
解決へのシステムを構築するのは、
とても大変なことだと思いますが、
もうこれ以上、
人間のエゴで犠牲となる
犬猫を増やさないよう、
エゴによる愚かな戦いは避けたいものです。

その日、
参加されていたライターさんから、
こんな話を聞きました。

ゴミ袋に入れてアビシニアンの
子猫が捨てられていたそうです。

ガサッと動いたから
気が付いたそうです。

このような場合は、
完全にペット業者の仕業です。

何かの理由で売れなくなった子は、
このような形で生ゴミと一緒に
処分される場合も多いのです。

なぜなら、基本、
保健所やセンターは、
業者から引き取らない決まりになっています。

ですから、このように
処分される命が沢山あります。

ですから、年間30万頭以上の、
私たちが把握できない数の命が
処分されているのだということも、
しっかりと踏まえた法改正が必要なのだと、
改めて考えさせられました。

皆さんの身近なところから、
この愚かな日本の現状を、
一人でも多くの人たちに語って下さい。

よろしくお願いします!

 

以上、杉本彩さんのメッセージから。

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2010/04/04

最近、遅ればせながらTENORI-ONという楽器をいじりはじめています。TENORI-ONは、メディアアーティストの岩井俊雄氏とヤマハのコラボレーションによって生まれたオーディオインターフェースです。2007年に発表されて以来、多くの国内外のシンガーがコンサートに使用するなど注目を浴びている電子楽器です。

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ヤマハ社製 オーディオインターフェース
TENORI-ON

縦に16列、横に16列、合計256個のLEDが独立したキーボタンとなっていて、モードを切り替えることによって様々な音色やリズムを生みだすことができます。一見、シンプルな楽器に見えますが、ユニークな演奏モードが複数用意されているので、使うほどに奥が深く、音楽を思いどおりに奏でられるようになるまでにはそれなりの練習も必要となってきます。とは言っても、初めて電源を入れたその日から直感操作でなんとなく演奏してもそれなりの音楽にはなります。ぼくも今はまだそんな段階です。音楽を聴くことはリラクゼーション効果を高めるのにとても良い方法だと思っていますが、自ら音楽を演奏することも同じくらいの効果が得られるのではないでしょうか。専らぼくの場合は、リラックス効果というよりも創造性を刺激してくれるツールとして利用しています。ただ、今はまだ思いどおりに演奏ができないのでフラストレーションを感じることもしばしば。

さて、このTENORI-ON、外部電源だけではなく電池での作動も可能なので、本体にスピーカが内蔵されていることからケーブルレスによる演奏も楽しめそうなのですが、欠点はその内蔵スピーカの出力音量がとても低いということです。TENORI-ON単独で演奏をする場合はヘッドホンを使用するのが通常のスタイルなのだと思います。アンプを介した外部スピーカから音を出力させる場合は、TENORI-ON 本体のPhones端子からケーブルでつなぐことになります。個人的には、この部分もケーブルレスにして演奏してみたいと思いました。つまり、ワイヤレス通信でTENORI-ON本体から出力される音をアンプに伝送することによって、外部スピーカから大音量の音が奏でられるようにすることができないかということです。しかし、ここにちょっとした盲点がありました。本体から出力できるのはアナログのステレオ信号なのですが、このステレオのオーディオ信号をなるべく音劣化させずにワイヤレスで伝送するという機器がどうやら一般的な製品としてはないようなのです。ネット検索で情報を探りながらいろいろな楽器販売店や家電量販店、秋葉原の電子部品専門店にも足を運んで調べてみたのですが、ステレオで出力されたアナログ信号の音質をなるべく劣化させずに、つまり高品質にワイヤレスでオーディオ信号を伝送することができる機器を見つけることはできませんでした。モノラルの音であれば、高品質に音をワイヤレスで伝送することができるマイクのトランスミッタがありますが、必要なのはステレオなので論外です。今流行のBluetoothであれば、ステレオのデジタルオーディオ信号で伝送することができますが、その信号は圧縮される(サンプリングの分解能を低くする)ため、音質はあまり期待できません。いっそ自分でつくってしまおうかと思って既存の機器を探すのをあきらめかけたそのとき、なにやらちょっと興味深い機器の存在を秋葉原の大型家電量販店のハイエンド製品コーナーで知りました。それは、CHORD社のChordette GemというBluetoothのDAコンバータ(デジタル信号からアナログ信号への変換器)です。

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CHORD社製 BluetoothDAコンバータ
Chordette Gem

このChordette Gem、よく見かけるBluetooth受信機とは違い、自動アップサンプリング機能が付いています。アップサンプルとは、デジタルオーディオ信号処理の際に通常44.1kHzや48kHzで収録されている楽曲データを、その2倍の88.2kHzや96kHzにレート変換する技術で、より制度の高い再生が可能となるようです。その上位機種はQBD76というもので、価格は70万円近くもする名機のようですが、それに比べるとこのChordette Gemはハイエンド製品コーナーにあったとはいえはるかに安価ではありました。かなり期待できそう。そんなこんなで手に入れたChordette Gemですが、TENORI-ONはそもそもアナログ出力しかなく、そこから出力されたオーディオ信号をサンプルレートの低いBluetoothトランスミッタでデジタルにわざわざ変換するのですから、伝送時点でかなり音質が悪くなってしまいます。Bluetoothトランスミッタのサンプルレートは22kHzなわけで、果たしてこのChordette Gemで受信してどの程度の音の劣化を改善させることができるのかちょっと不安もありましたが、別に所有していたBluetooth受信機(イヤホン接続タイプの小型のもの)での音と聞き比べるとやはりChordette Gemの方が音の分解能は改善されているように感じます。また、Chordette Gemの場合は、電波の受信効率が良いらしく、仕様どおり10m以内の距離であれば音が途切れるといったことはありませんでした。通常のBluetooth機器だと、それほど距離が離れていなくても音が途切れたりすることがあるので、Chordette Gemの優位性は感じられます。

BluetoothトランスミッタはLogitec社製のLBT-AT100C2を選びました。

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Logitec社製 Bluetoothオーディオトランスミッタ
LBT-AT100C2

LBT-AT100C2はBluetoothの音楽転送機能A2DP(Advanced Audio Distribution Profile)に対応したワイヤレスオーディオトランスミッターです。このトランスミッタのミニジャックをTENORI-ONのPhones端子に接続してChordette Gemとペアリングすれば、比較的劣化を軽減させた音質での音楽を外部スピーカで聴くことができます。しかし、ここで少し不満が生じてきました。トランスミッタのミニジャックをTENORI-ONのPhones端子に接続するだけだと固定感が悪くてトランスミッタがぐらつき演奏の妨げになってしまうことがわかりました。そこで考えたのが、ちょっと無理矢理ですがPhone端子の左隣にあるMIDI端子をトランスミッタの固定用に利用することにしました。

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TENORI-ONのMIDI端子(左)とPhone端子(右)

TENORI-ONに付属されていたMIDIケーブルの先端に付いているコネクタ部分を切り取り、それをトランスミッタのボディに移植し成形しました。移植のついでにそのボディカラーを白に変更しTENORI-ON本体とのカラーバランスを整えました。

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改造後のLBT-AT100C2

そしてこれをTENORI-ONに接続します。

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しっかり固定することができました。

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で、次に取りかかったのはTENORI-ONのスタンドです。
実はこのTENORI-ON、裏面にも操作面と同じく256個のLEDが付いていて両面が同期して光ります。要するに見せる楽器でもあるのです。この効果をなるべく削がないためにも透明のアクリル版を使用して専用スタンドをつくることにしました。製作に使用したアクリル版の厚さは5mmでしたが、さらに厚くすると固定感があって良かったかもしれません。しかし、一枚板を使っているのでその厚さが厚くなればなるほど、成形が難しくなります。

板の曲げる箇所に均一に熱を加えて徐々に曲げていくとこうなります。

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製作したTENORI-ON専用スタンド

そして、セッティングするとこうなります。

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使用感はなかなかいい感じです。
まだまだビギナーレベルではありますが、演奏するとこんな感じになります。

TENORI-ON with Bluetooth

早く思いどおりの音楽を奏でられるようになりたいものです。

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2010/03/28

ぼくが師と仰ぐ人の一人、中村しんじさんのパフォーマンス作品「ひるえかにもどこ」(初回公演: 1998年3月19日、場所: 北沢タウンホール)において映像作品をいくつか制作したことがあります。ふと、その作品のことを思い出してみました。

「ひるえかにもどこ」は逆さまから読むと「こどもにかえるひ」、つまり「子どもに帰る日」を意味します。この映像作品は、表現手段に捕われることなくイメージの具現化をしている中で生まれた作品の一つです。作品にはいくつかのキーとなるアイテムがあります。まずは、和服を着て片方しかない下駄を履いた主人公の女の子。彼女は、なくした片方の下駄を探して現代の都会に足を踏み入れます。しかし、その下駄はそんなところにはあるはずもなく、時は流れていきます。それでも、彼女は混沌とした都会の雑音の中で下駄を探し続けます。そして、ラムネ瓶。それはぼくたちの世代に面影として強く印象に残っている懐かしの瓶。今や都会の子どもたちには見向きもされないものかもしれないけれど、それでも強く生きていこうというメッセージを込めてみました。中村しんじさんが描こうとした世界観はこんなことなのではないのかなと思って制作した映像作品です。映像に使用されている音楽は中村しんじさんの希望で取り入れた素材です。アップテンポでポップなこの音楽は、現代の都会に迷い込んだ昔の面影を象徴するかのような一人の女の子が、汚れた世界に身を置いても「そんなのへっちゃらよ。」と言わんばかりに明るくそして力強く生きていこうとする、そんなイメージをぼくは感じました。

テクノロジーで未来を創り出す人間が
今、ちょっと足を止めて月の光に照らされて
ふと、恍惚感に陥った時……
自分の立場を忘れて共に感じ入る出来事に
ふれ合えるかもしれない
あの人もこの人も そして私も
今の立場は捨てられない
だから 今宵一夜
ひるえかにもどこ……
われらの心にひそむ
背徳を刺激する

中村しんじ

そしてできた作品がこれです。

作品タイトル: 「ひるえかにもどこ」都会編
1998年制作
作: 石川ふくろう

この作品、とにかく撮影が楽しかった。今はもうない不法投棄のゴミ山や乱雑に不法駐輪された自転車の群れ、そして新宿でのゲリラ撮影など、とにかく夢中で撮影しました。自宅の裏山にあった不法投棄のゴミ山はすっかりきれいに処分され、「トトロの森」として生まれ変わっています。新宿東口駅前に乱雑に不法駐輪された自転車の群れも今はきれいにすべて撤去されています。人間は、失敗を繰返しながらも少しずつ生まれ変わろうと努力しています。まだまだ途上な私たちですが、昔を振り返ることで、今の自分たちの浅はかさに気付いたり、少しは成長できたことを確認できたりと、いろいろなことを感じさてくれます。

きっと、あのとき、カメラのレンズを覗くぼくの目はとても輝いていたのだろうと思います。最近、自分はほんとうに何かに夢中になっているのだろうかと問うたとき、ふとこの映像作品のことを思い出したのです。日々の仕事に追われ、ほんとうにやりたいことを夢中になってやれているのだろうか。でも、心の中に灯されているロウソクの火はまだまだ消えることはありません。きっと、その火を煌煌と燃やすためには、空気がもっと必要なのだろうと思います。今、自分に必要なのは、心に吹き込む新鮮な空気なのかもしれません。

パフォーマンス作品「ひるえかにもどこ」のプログラムを見てみたら、当時(33歳)の自分の写真と幼いころ(3歳ごろ)の写真が掲載されていました。

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あー、こどもにかえりたい。

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2010/03/21

3月17日から19日の三日間、東京のお台場にある東京ビッグサイトにて健康博覧会2010が開催され、その期間、ぼくはその展示会場で仕事をしていました。「人の心と身体にやさしい医療と健康」をテーマに展示ブースを設けて会社の取組みをより多くの人に知ってもらおうと出展を試みた企画でした。今年2月に異動したコーポレート・デザイン課として初めての表立った仕事となります。経費削減の折、費用負担をできるだけ軽減させるためパネルのデザインや印刷、パンチカーペットの床張りまで、外注業者に頼らず手作りによる展示ブースの設営となりました。パネル印刷の際には、ぼくが非常勤で講師を務めている武蔵野美術大学の映像学科研究室の設備を借りるなど、リーズナブルに仕上げられたのではないかと思っています。他の展示ブースに比べると見劣り感はどうしても否めず明らかにブースに立ち寄る人の数は多かったとは言えませんが、切り札として、血糖値や総コレステロールなどの検査をそれぞれ500円でできる「ワンコイン健診」のコーナーを設けたことで多少なりとも集客率アップに貢献できたのではないかと思っています。

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遠目で展示ブースを見ている人には、ここぞとばかりに声をかけ、私たちが今どういう取組みをしている会社なのかを少しでも多くの人に知ってもらおうという思いで三日間の会期は終わりました。「人に優しい医療」は、会社のスローガンの一つです。この言葉を基軸に今回の展示会では「人の心と身体に優しい医療と健康」というテーマで出展を試みましたが、まだまだ私たちの挑戦は続くのであります。

これは、会社で運営しはじめたココロとカラダのインフォサイト「ココロランド」のWebサイトリンクバナーです。

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ココロランドのWebバナー
(クリックでWebサイトを閲覧できます)

メンタルチェックと健康に役立つ情報発信をコンセプトに、心と身体の健康診断ができる「ココカラ・ツール」や健康について考える「ココカラ・コラム」など、いろいろな形で心と身体の健康に関する情報を提供しています。まだまだ発展途上なサイトですが、今まで会社が20年以上も取組んできた不整脈治療や虚血性疾患治療のための優れた医療機器を提供し続けている医療への貢献だけではなく、人の心のケアにも目を向けはじめた試みの一つとして、このWebサイトは存在しています。会社の本家Webサイトについても、リニューアルすることを会社内で提案していこうと考えています。時間はかかるかもしれませんが、会社の「人」と「医療」に対する取組みをわかりやすく少しでも多くの人に知ってもらうためには必要なステップの一つだと捉えています。

展示会開催前日、展示ブースの設営をしていると、朝のTV番組「スッキリ!!」のディレクターが訪ねに来られました。展示会初日の取材交渉が目的のようでした。どうやら、「ワンコイン健診」の幟(のぼり)に書いてある「メタボ」という言葉に興味をもたれたようです。しかし、翌日の健康博覧会当日、その番組取材班は私たちのブースを素通りしていきました。もっとも、他に魅力ある取材ネタはたくさんあるはずです。悶々とした想いで頷いたのは言うまでもありません。その翌朝、早速その番組で健康博覧会の開催模様が紹介されていました。番組が注目した展示ブースの一つに、人のオーラを色で可視化するという装置を披露している会社がありました。両方の手のひらをその装置にあてて数十秒待つとPCのモニタ上にその人が発しているというオーラが色となって見ることができるとのことです。そのオーラの色は人によって様々で赤や青、紫、黄、緑など様々な色となって表れてくるようです。また、その色にもそれぞれ意味があるとのことでした。番組では実際にその装置をスタジオに持ち込み、専門家による診断と合わせて司会をはじめとする出演者全員のオーラを見ていました。それぞれ出演者の個性が色に反映されているようでしたが、全員共通して診断されたのが、疲れがくすんだ色となって表れているとのことでした。「ふむふむ、なんか面白そうだな。」と思ったのは言うまでもありません。早速、チャンスを見計らってその展示ブースへ行き自分のオーラを見てもらいました。で、結果はこうなりました。

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専門家の診断によると、全体に「黄色」が広がっているのは「優しさ」にとても満ちあふれていることを意味しているとのこと。人を喜ばせたりすることに長けているとも言えるので、お笑い芸人にもその兆候が多く見られるそう。そして、「緑色」は「創造性」に長けていることを意味し、人前に露出してその才能を発揮することが向いているとのことです。また、頭の上からも「緑色」がす〜っと出ていますが、これは自分の目標やアイデアが見つかったことを意味しているとのことのです。科学的根拠はまったくわかりませんが、前向きに素直に受け止めさせてもらいました。

みなさん、ココロのケアはしていますか。

2010/03/07

歌手、水前寺清子さんの曲で「三百六十五歩のマーチ」というのがありますが、その中の歌詞で「三歩進んで二歩下がる〜♪」というフレーズがあるのは皆さんもよくご存知のことと思います。この歳になって、それが「なんて的を射たことばなのだろう」と実感しているところです。「二歩下がるのなら、最初から一歩進むだけでいいじゃない。」なんてことを昔は思っていましたが、前に進んで少し戻りながらちょっとずつ前進するということの大切さにそのときはまだ気づいていませんでした。

目の前に立ちはだかるものが大きくそして強固であればあるほど、三歩も四歩も突き進む勢いが必要であって、それでも突き破れない壁に向かって何度も体当たりすることで、いつしかその壁を打ち砕き大きな前進を遂げるのだと思います。人間の成長とはそういうものなのだと思っています。今歩いている道が平坦で緩やかに続いているのなら、そんな努力は必要ないですよね。たとえ、そんな道で一気に前に進んだとしても、呆気なさがどこか空虚感をつくり出し人生の物足りなさを感じるのだろうと思います。自分の人生を振り返ってみると、どれもこれもが体当たりだったとふと気づきました。意図してそういう道を選んでいた自分がいました。それが良いのか悪いのかは自分ではよくわかりません。そんな自分とは対照的に平坦な道を好んで前に進んでいる人たちを多く見ますが、ここで価値観を比較するのは愚問だとも思います。ただ、たとえ平坦な道を選んで歩いていたとしても、いつか進まざるを得ない道の先に大きな壁が立ちはだかっているとしたら、誰もが体当たりの前進を挑戦しなければならないことになると思います。それに挑戦できるかそれとも諦めるかは、その人の人生の選び方、つまり生き方に大きく左右されるのかもしれません。

創作活動でものづくりをしていると、時々、人間の生き方にも通じるものを感じるときがあります。とても些細なことではありますが、「ネジ穴」を切るときにもそんなことを感じたことがあります。ネジを右に回すと締め付けられるように穴にネジ溝を削り込みます。そのとき、通常の金属よりも硬い超硬金属でつくられたタップというネジ切りの道具を使用してネジ溝をつくります。

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左がネジで右がタップ(ハンドルを付けた状態)

タップ(Tap)とは、金属加工において、穴の内側にネジを刻むために用いられる工具です。タップの外観はネジ(雄ネジ)やドリルに似ていて、穴の奥へ回転しながら削り込むことで雌ネジが形成されます。このタップで雌ネジを削り込むことを工作者はよく「ネジを切る」と言います。ネジ穴(雌ネジ)は、雄ネジをねじ込むように予め小さめに空けておいた穴にタップをねじ込んでいきます。しかし、タップが硬い超硬金属であっても硬い金属の穴にネジ溝を削り込むのですから、強引に削り続けるとタップを折ってしまうことがあります。そのため、ネジを切るときは、削り続けるのではなく、1回転したら1/2回転(おおよそ)戻し、さらに1回転したら1/2回転戻すという行程を繰り返していきます。これがうまくネジを切るためのコツとなっています。とても地道な作業ですが、作品をつくる上でも重要な行程の一つです。

人生もものづくりと同じような観点で捉えると、意外にも人生の生き方のコツが見えてくるのかもしれません。

今、ちょっとハマっていることがあります。開脚マシンです。まるで拷問のようなこのマシン、手前にあるハンドルで強制的に股を開いていきます。

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地下室の拷問マシン
(開脚マシン)

実はここでも、ネジ切りの法則が思わぬ効果を発揮します。ハンドルを「1回転したら1/2回転戻す」というのを繰返していくと、限界と思っていた開脚角度が意外にもさらに開いていくようになります。

人生も限界で苦しいと思っても、少し立ち止まって心を落ち着かせるとさらにもう少しやってみようという気持ちになります。だから、がんばったら休む、休んだらがんばる、そんなネジ切りのような生き方ってけっこう大切な要素だったりします。

ちなみに、開脚マシンで自分を虐めたあとは、サンドバッグで頭をスカッとさせています。

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地下工房にあるサンドバッグ

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