広島編 前編 (2002・9・5)

当HPでも度々ふれているように、太宰文学の原点が昭和5年の鎌倉・腰越心中未遂事件である以上、 この事件で不幸にして亡くなった女性、田部あつみの故郷広島を訪れない訳にはいきません。 しかし、東京在住の明石は遠く離れたこの土地を訪れる機会が今までなく、漸く取れた短い休暇を利用 し、あつみの墓参りを計画したのでした。
まだ残暑厳しい東京を新幹線「のぞみ」で出発、約4時間ほどで広島に到着しました。駅に降り立つと、 東京と変わらぬ暑さです。今回の広島行きには、短歌雑誌『火幻』の代表者で、また『知られざる井伏鱒二』 などの著書もある豊田清史(せいし)氏が案内役を買って出てくれたのです。初対面の豊田氏と挨拶を交わし、 早速、あつみらの墓がある草津へ。広島電鉄(広電)広島駅から40分で草津駅(写真1)に到着、そこから歩いて 数分の距離に、教専寺(写真2)があります。


写真1:広電草津駅周辺 写真2:教専寺

前日、電話で訪広の目的を話しておいたことから、既に豊田氏は花束と線香を用意してくれていました。豊田氏は 前年長篠康一郎と京都在住の浅田高明博士が訪広の際にも教専寺に同行した経緯があるので、すぐさま田部家の 墓(写真3)を見つけました。「良かったねあつみさん、東京から墓参りに来てくれたよ」と、墓前に話し掛ける豊田氏。 明石も墓前に手を合わせます。これで長年気にしていたことがなくなったので、明石は感無量です。


写真3 田部家の墓

ところで、田部家の墓には、島吉(父)、シナ(母)らの名前はあっても、シメ子(「あつみ」というのは東京で 彼女が用いていた通称です)の名は刻まれていません。これは、父島吉が、娘が男と心中未遂の末に一人だけ死んでしまった ことを恥じ、近所に憚って彼女の名を墓に残さなかったのです。死亡届も過失(転落)死ということで提出したそうです。 そこに、明石は昔の地方の閉鎖性を感じました。
長篠は、この墓を特定するのに膨大な時間と数百万円の費用をかけたと言います。今日、多くの文献で見ることの出来る (無断借用が多いとも聞きましたが)あつみの17歳の時の写真(兎に角美人ですよね)も、長篠が手に入れたものです。 若くしてこの世を去った彼女に、明石は「あれは事故だったんだよね?」と、心の中で問い掛けました。
墓参りを済ませ、二人は再び広電に乗って宮島に向かいます。終点宮島口で降り、船に乗れば10分で到着します。 我々が訪れた時間はちょうど引き潮にあたり、厳島神社の大鳥居は海の外でした。ただ、鳥居は大分白っぽくなって いた(そろそろ塗り替えの時期だとのことでしたが)ので、正直このときはあまり綺麗だという印象は受けませんでした(写真4)。


写真4 厳島神社から見た大鳥居

宮島の名産は、何と言ってももみじ饅頭ですが、木製の杓文字もここで作られています。今では殆ど見かけなく なった木製の杓文字ですが、厳島神社に向う途中には、日本一大きな杓文字があります(写真5)。そう言えば、 高校野球で杓文字を鳴らして応援する光景を見たことがありますよね。


写真5 日本一の杓文字

豊田氏は宮島の観光協会の人とも親しく、明石は同島のパンフレットを貰いました(長篠は観光協会も訪れており、 『カレント』その他を送っていました)。僅かな時間で全部を見ることは不可能なほど広大な宮島を後にした我々は、 広電で広島市内に戻り、夕食を摂ってから豊田氏と別れた明石は、宿泊先のビジネスホテルにチェックインし、 ビール片手に広島−阪神戦のナイトゲームを観戦したのでした(どうでもいいがこの日は広島が6−3で勝利しました)。

(後編に続く)

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