☆731部隊〈ななさんいちぶたい〉☆
アジアのアウシュビッツ(アウシュヴィッツ)・悪魔の部隊
旧日本陸軍が細菌戦の研究・遂行のために、中国・満州(中国東北部)のハルビン(Harbin。黒竜江省の省都で、19世紀末にロシア人が建設し、鉄道交通の要地として発展した松花江中流の南岸に位置する都市。哈爾浜とも書く)郊外に、満州事変勃発翌々年の1933(昭和8)年8月に創設した特殊部隊の略称。秘匿名、満州第731部隊、正式名、関東軍防疫給水部本部。部隊の設置にあたっては、大日本陸軍命令(大陸命)が出された。敗戦後には部隊長の軍医中将石井四郎の名をとり、石井部隊と呼ばれている。
建前上は感染病の予防や浄水の供給を目的としたが、実際には、ペストやコレラ、チフス菌などを使った細菌(生物化学)兵器(わずかな費用で製造可能なので「貧者の兵器」といわれる)の研究開発をし、実際に中国で細菌戦を行った。
1939(昭和14)年に平房(ピンファン)付近(現在の黒竜江省平房区)に6キロ平方メートルにわたる広大な敷地に移転した同本部は、総務部、第1部(細菌研究)、第2部(実戦研究)、第3部(濾水〔ろすい〕器製造)、第4部(細菌製造)、教育部、資材部、診療部で構成され、大規模な各種研究実験施設、細菌製造工場、常時80から100人収容可能な特設監獄、死体焼却場、実験用のウサギ、モルモット、ネズミ、ノミなどを飼育する動物舎、そのほか鉄道引込線、発電所、宿舎群、さらには飛行場まで整備されていた。施設は特別軍事区とされ、機密性保持のためその上空は、日本軍機の飛行さえ禁じられた。
部隊には、東京大学や京都大学を初めとした国立大学医学部・医科大学の優秀な教授・医師、それに民間研究所の研究員らが軍属・技師としてきそって赴いたが、その数は2,600余人であった。
菊池斉(ひとし)を部長とする第1部の役割は細菌兵器としての猛毒の細菌を開発で、ペスト、赤痢、脾脱疽(ひだっそ)、コレラ、チフス、結核の各研究班は生体実験により細菌戦のデータを集め、ウイルス、リケッチア・ノミの各研究班は中国東北部の風土病(流行性出血熱など)を生体実験で研究、昆虫班はどの種のノミがペスト菌の伝播(でんぱ=次々に伝わって広まること。「でんぱん」は誤読)に適しているどうか、また繁殖方法や散布方法などを、凍傷研究班は冬季における細菌戦や凍傷治療の有効方法を生体実験、さらに病理研究班は生体解剖や死体解剖、組織標本作製を担当していた。
血清研究班は伝染病への対症療法やワクチンの開発、薬理研究班は速効性、遅効性の毒物、化学薬品を生体実験し、敵要人暗殺用の特殊兵器を開発していた。
また生体実験のため送り込まれた捕虜は、女性や子供を含む中国人、ロシア人を中心とするモンゴル人、朝鮮人、少数のアングロ・サクソン系白人で、マルタ(丸太)と呼ばれた。彼らは1,000種類以上の生体実験、あらゆる生体解剖に使用されたが、その数は、1939年から1945年だけで3,000人以上といわれている。
石井四郎は、敗戦が濃厚となった1945年8月13日、証拠隠滅のため施設の完全破壊を命令、施設はことごとく破壊され、残されていた捕虜は全員が毒殺などによって虐殺された。
戦後石井ら幹部は、GHQ(連合国最高司令部)と取引し、東京裁判での戦犯追及を免れることと引き換えに、細菌兵器の資料を米軍に渡し、部下には、「秘密は墓場まで持って行け」と厳命した。
1949(昭和24)年1月、「東京裁判」でソ連検事団のスミルノフは、GHQ
の情報部(G2)のウイロビー部長に石井四郎らの人体実験を含めて訴追請求の覚書を送ったが、731部隊の技術情報がソ連に流れることを怖れたGHQは、逆にソ連の要求はシベリアに抑留している日本兵の問題をカモフラージュする宣伝だとして、これを拒否した。そのため、東京裁判では731部隊は裁かれなかった。
アウシュビッツ(アウシュヴィッツ)がニュールンベルグ(Nuremberg)裁判で裁かれたのに比して顕著な相違である。
拒否されたソ連は「東京裁判」閉廷後の1949年12月25日から6日間、極東のハバロフスクで細菌戦について731部隊細菌戦部隊部長・川島軍医少将、課長・柄沢軍医少佐、部長・西軍医中佐、支部長・尾上軍医少佐ら元日本軍人12名に対する軍事裁判を開いた(いわゆるハバロフスク裁判―公判記録は、モスクワの国立政治図書出版所から公刊されている〔日本語訳して788ページ〕)。
そこでは残虐な人体実験や中国浙江(せつこう)省北東部の商業都市寧波(ねいは・ニンポー)、浙江省西部の都市衢州(くしゅう・チュイチョウ)、湖南省北部、洞庭湖西方の商工業都市の常徳(じょうとく・チャントー・ジヤウトク)などに対して、飛行機からペスト菌を散布したことが明らかになっている。
そして、731部隊の幹部たちは高額の退職金を手にして、官公庁、国立大学(東大、京大、阪大、大阪市立大、防衛大学、金沢大などの医学部教授)、薬学研究所、病理学研究所、製薬会社(武田製薬)、自衛隊などに再就職をするのであった。
731部隊や細菌戦に関する公文書は、敗戦で撤退するときに証拠隠滅の目的で徹底的破壊し、また幹部らが持ち帰った資料は、米国に引き渡された。このため日本政府は「資料がない」などの理由で、公式には事実を認めていないが、森村誠一『悪魔の飽食』(角川文庫=同書は、1981〔昭和26〕)年7月より74回にわたって、「赤旗」に連載され、後に光文社よりカッパノベル、ドキュメントシリーズとして100万部のベストセラーになった)で一般に存在が知られるようになった⇒国家賠償訴訟。
その数年後の朝鮮戦争で中国義勇軍の反撃に遭遇したアメリカ軍は、朝鮮・中国国境地帯に帯状に細菌戦や毒ガス戦を展開したが、それは731部隊の悪夢が朝鮮半島で復活したことを意味した。
また、1948(昭和23)年8月、世間を震撼とさせた帝銀事件で当初警視庁は、使われた毒物が731部隊で製造されたものであるとの情報を根拠に内偵を進めていたが、上層部からの政治的圧力で、731部隊追求の捜査は一切中断させられる。そのため、一人の画家が犯人とされ、世紀に冤罪がここから生まれた。
なお、731部隊で石井を全面的に支えた一人が戦後日本ブラッドバンク(後のミドリ十字―1998年吉富製薬と合併し、吉富製薬となる。現田辺三菱製薬)を創設する内藤良一(京都大学医学部卒)や同社の取蹄役に就任する北野政次らであった。いうまでもなくミドリ十字は、非加熱製剤によるHIV感染(薬害エイズ)事件を引き起こした企業である。
つまり、ミドリ十字ら血液産業は、部隊の生き残りによって創設され、売血で発展し、後年、薬害エイズを生み出す土壌を生むにいったのである。
☆ 厚生労働省は10年4月13日、血液製剤の製造過程で、子会社(株式会社バイファ)が承認申請に必要な試験データを改ざんするなどの不正をしたとして、田辺三菱製薬(大阪市)に対し、薬事法に基づく処分として17日から25日間にわたり一部業務の停止を命じた。子会社の治験データ改竄(かいざん)で業務停止命令を受けた。前身となった企業(旧ミドリ十字=1998年に当時の吉富製薬と合併、その後も社名変更や合併を繰り返し、現在は田辺三菱製薬)にはスモンやエイズ、C型肝炎など数々の薬害を繰り返してきた歴史がある。肝炎訴訟では被告企業となり、08年に和解の合意を交わした際には、再発防止を誓っていた。「信じられない」「許せない」…。薬害被害者からは怒りの声が上がった。 |
日本軍部の組織的犯罪が、戦後も脈々と生き続けている一つの証左でもある。
☆ 明治大学は、生田キャンパス(神奈川県川崎市多摩区東三田1−1−1)内にある旧日本陸軍「登戸研究所」(正式名称:第九陸軍技術研究所)を、「登戸資料館」(正式名称:明治大学平和教育登戸研究所資料館)として開館し、10年4月7日(水)から一般公開を開始した。旧日本軍の研究施設をそのまま利用したミュージアムとしては、全国唯一のもの。明治大学は、戦争においては必ず存在する秘密戦や謀略戦と密接に関わった登戸研究所の全貌を後世に語り伝えていく事が、大学が平和教育・歴史教育・科学教育の発信地としての一端を担い、社会に広く貢献する事にもつながると考えtるえいる。 登戸資料館として開館したのは、戦前に登戸研究所の施設だった生田キャンパス36号棟。これまで農学部の実験施設として使われてきた平屋建て鉄筋コンクリート製の建物(約360平方メートル)で、09年から開館に向けての改修が進められてきた。内部は5つの展示スペースに分かれており、風船爆弾の開発▽生物化学兵器の開発▽中国紙幣の偽造―など、登戸研究所で行われた研究・開発についての展示がテーマごとに構成されている。
☆ 連合国軍総司令部(GHQ)が終戦2年後の1947年、実験データをはじめとする情報提供の見返りに現金を渡すなどの秘密資金工作を展開していたことが05年8月14日、米公文書から明らかになった。総額は、国家公務員(大卒)の初任給ベースで比較すると、現在の価値で2,000万円以上に達する。米国が積極的に働き掛ける形で資金工作を実施していた事実が判明したのは初めてのこの文書は、米国が731部隊の重大な戦争犯罪を認識していたにもかかわらず、細菌兵器の開発を最優先した実態を記している。 文書は47年7月17日付のGHQ参謀第2部(G2、諜報部門)=肩書は当時、以下同=のウィロビー部長のメモ「細菌戦に関する報告」と、同月23日付の同部長からチェンバリン陸軍省情報部長あて書簡(ともに極秘)。神奈川大の常石敬一教授(生物・化学兵器)が米国立公文書館で発見した。 両文書によると、ウィロビー部長は、731部隊の人体実験を調べた米陸軍省の細菌兵器専門家、フェル博士による部隊関係者への尋問で「この上ない貴重なデータ」が得られたと指摘。「獲得した情報は、将来の米国の細菌兵器計画にとって最大限の価値を持つだろう」と、G2主導の調査結果を誇示している。 具体的な名前は挙げていないものの「第一級の病理学者ら」が資金工作の対象だったと記載。一連の情報は金銭報酬をはじめ食事やエンターテインメントなどの報酬で得たと明記している。 陸軍情報部の秘密資金から総額15万〜20万円が支払われたとし「安いものだ」「20年分の実験、研究成果が得られた」と工作を評価している。当時の20万円を国家公務員(大卒)の初任給ベースで現在の価値に置き換えると2,000〜4,000万円に相当する。 なお、GHQ中心の調査は、フェル博士が47年6月に中間報告をまとめた後も別の専門家が継続。47年末の別の米軍資料は総額25万円が支払われたとしており、資金工作がその後も続いた可能性を示している(05年08月14日配信『共同通信』)。 10年4月25日付『神奈川新聞』−「社説」=戦争の“裏面史”後世に 川崎市多摩区の明治大学生田キャンパスにある旧陸軍登戸研究所の一施設が改修され、「明治大学平和教育登戸研究所資料館」として一般公開が始まった。旧日本軍の研究施設をそのまま利用したミュージアムは、全国でも初めて。「負の歴史」を真正面からとらえ、戦争の悲惨さを後世に伝えていく施設として貴重な戦争遺跡となろう。 |
石井四郎(1892〜1959)
1892(明治25)年6月25日千葉県出生まれ。京都帝大医学部を首席で卒業。京都帝大総長、のちに学習院院長,枢密顧問官などの要職を歴任、生体内乳酸生成などの研究で有名な荒木寅三郎の娘婿。
1921(大正10)年陸軍軍医。1925(大正14)年に調印された細菌兵器の使用を禁ずる「生物化学兵器禁止ジュネ−ブ議定書」から細菌兵器の開発に着眼する。
ヨーロッパ出張後、細菌戦の必要性を説き、1933年陸軍軍医学校部員として防疫研究班を創設。1936(昭和11)年関東軍防疫部長となり細菌兵器研究の組織化を図る。「石井式濾水器」を発明し、これを用いて給水活動を行う。1940(昭和15)年関東防疫給水部部長、後に731部隊長。
1945(昭和20)年8月のソ連軍参戦で脱出・帰国。中将で敗戦。
戦後、新宿区若松町で陸軍が使用していた建物を利用して旅館を経営。1959(昭和34)年10月9日、喉頭癌のため67歳で死去。
☆ 東京地裁;裁判で初めて731部隊の存在を認める(02年8月27日)=判決文(抜粋)
旧日本軍の731部隊(関東軍防疫給水部)などによる細菌戦の被害に遭ったとして、80年代以降に公になった連合国軍総司令部(GHQ)の調査文書や731部隊幹部の業務日誌などを証拠に、「40〜42年に中国南部の浙江省、湖南省でペスト菌に感染したノミを空中散布したり、コレラ菌を混入した食べ物を配るなどして、住民を殺傷した」と旧日本軍の加害行為を主張して、中国人の生存者と遺族180人が1人1,000万円の国家賠償と謝罪を求めた訴訟の判決が02年8月27日にあった。
判決は、請求自体は「日本政府は細菌兵器の使用を禁じた国際慣習法に違反したが、国家責任については、戦争賠償の請求を放棄した日中共同声明などで国際法上、決着している」「被害者個人は加害国家に対し、直接、損害賠償請求権を持たない」として棄却したが、731部隊などが1940年から42年にかけて、中国各地でペスト菌に感染させたノミを飛行機から散布したり、コレラ菌を含んだ食料を中国人に食べさせたりして、伝染病に感染させたと認定した上で、中国側調査などから、8地域の被害者総数は1万人以上とみられると推定し、「細菌戦の被害は悲惨かつ甚大で、旧日本軍の行為は非人道的だったとの評価を免れない」と指摘し、旧日本軍が国際法で禁じられた細菌戦を中国で展開したことを認めた。
731部隊の存在については、第3次家永教科書訴訟の最高裁判決(1997年8月)や別の戦後補償裁判の東京地裁判決(99年)で認められているが、同部隊による細菌戦を認定した司法判断は初めてである。
判決文中のまとめ
本件細菌戦による被害は誠に悲惨かつ甚大であり、旧日本軍による当該戦闘行為は非人道的なものであったと評価を免れないと解されるものの、法的な枠組みに従って検討する限り、被告の国会に国家賠償法1条1項という違法な立法不作為があるとすることはできない。
そこで、本件細菌戦被害に対し我が国が何らかの補償等を検討するとなれば、我が国の国内法ないしは国内的措置によって対処することになると考えられるところ、何らかの対処をするかどうか、仮に何らかの対処をする場合にどのような内容の対処をするのかは、国会において、以上に説示したような事情等の様々な事情を前提に、高次の裁量により決すべき性格のものと解される。
|
☆ 日中戦争時、旧日本軍の細菌戦部隊「731部隊」などが使用したペスト菌やコレラ菌で病気になったり、親族が死亡したりしたとして、中国人180人が総額18億円の損害賠償と謝罪を国に求めた訴訟(97年と99年に提訴)の控訴審判決があった(05年7月19日)。
判決は、2002年8月の日本の司法で初めて細菌戦による被害を認めた1審判決同様、細菌戦による被害を認定した上で、「細菌兵器の使用で、日本には条約などに違反した国家責任が生じていたが、被害者個人が直接、加害国に損害賠償を請求できる規定はなかった」として、請求棄却の1審東京地裁判決を支持、原告側の控訴を棄却した原告側の主張を退けた。また、当時の中華民国民法による損害賠償請求について「細菌戦による加害行為は、国家の権力的作用に基づく公法的行為であり、私法関係ととらえ適用することはできない」と述べた。さらに、日本の民法に基づく主張も「国家賠償法施行前、国の公権力行使による損害に関し、国の賠償責任を認める法制度は存在しなかった」との国家無答責の法理に基づき退けた。
参考文献
1. アジアの声 (第8集) <七三一部隊> 戦争犠牲者を心に刻む会/編 東方出版 (1994.5)
2. 医学者たちの組織犯罪−関東軍第七三一部隊 常石敬一/著 朝日新聞社 (1994.5)
3. 七三一部隊の犯罪−中国人民は告発する [三一新書] 韓暁/著 三一書房 (1993.9)
4. 十五年戦争極秘資料集 (第29集) <七三一部隊作成資料> 不二出版 (1991.8)
5. 七三一部隊−生物兵器犯罪の真実 [講談社現代新書] 常石敬一/著 講談社 (1995.7)
6. 七三一部隊と天皇・陸軍中央 [岩波ブックレット] 吉見義明,伊香俊哉/[著] 岩波書店 (1995.12)
7. 七三一部隊のはなし−十代のあなたへのメッセ―ジ 西野留美子/著 明石書店 (1994.6)
リンク
==========================