日韓併合100年を迎えた今も、日韓の間には多くの課題が残る。解決が急がれる問題の一つが、第二次世界大戦に巻き込まれ、今も心や体に残った傷跡に苦しむ朝鮮半島出身の人々の名誉回復や補償問題だ。戦後、日本人兵士とともに酷寒のシベリアに抑留された朝鮮半島出身者たちも高齢化が進んでおり、解決のための時間はわずかしか残っていない。【ソウル大澤文護】
第二次大戦後、当時のソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留され、強制労働に従事させられた旧日本軍兵士は約60万人。その中に数千人の朝鮮半島出身者が含まれていた。極寒の地での労働に耐え、韓国に戻ったのは約500人。彼らを待っていたのは「対日協力者」や「共産主義者」としての徹底した監視と差別だった。
ソウル南郊の始興(シフン)市に住む李在燮(イジェソプ)さん(84)が「日本兵」として徴用されたのは終戦のわずか半月前の1945年8月1日だった。連合軍に追い詰められた日本軍は旧満州(現中国東北部)の部隊を南方や沖縄に送り出した。その穴を埋めるため、当時、日本の植民統治下にあった朝鮮半島出身の若者を次々と急造の兵士として徴用した。結婚したばかりだった当時19歳の李さんも、同月6日、同郷の人々と一緒に貨車で満州北部のハイラルに送られた。しかし、一日も訓練を受けないままソ連軍の攻撃を受け、部隊は敗走した。
李さんら朝鮮半島出身の兵士は、日本の敗戦も知らされないまま、17日に武装解除命令を受けた。戦争で破壊された鉄道を直してから故郷に戻るという話を聞かされただけで、中部シベリアのクラスノヤルスクに送られた。季節はすでに冬になっていた。
「野原で凍土に穴を掘る作業をさせられた。ツルハシでは硬い凍土には歯が立たない。でも体を動かさないと凍傷にかかる。朝から晩まで凍土の野原で足踏みをするしかない。何の希望もない。まさに『死ね』というばかりの扱いだった」
間もなくレンガ工場での作業に回された。収容所の施設も少しずつ整備された。しかし45年冬から46年春の間に数万人の捕虜が死亡し、李さんの仲間も次々と倒れた。
47年春、クラスノヤルスクに収容された捕虜に帰還命令が出た。李さんも故郷に戻れると思った。しかし、帰国の汽車に乗る直前、朝鮮半島出身の捕虜たちだけが集められた。「君たちは帰れない。帰る国がまだないからだ」と説明を受けた。
いったん収容所での労働に戻った李さんらが、ナホトカ港から、成立したばかりの北朝鮮の興南港に到着したのは48年12月下旬。さらに、韓国に戻ることを希望した約500人が徒歩で38度線を越えた。李さんは49年1月、やっとソウル北郊の町に着いた。
だが、故郷に帰った李さんを待っていたのは警察の尋問だった。冷戦の最前線となった韓国では共産主義思想が固く禁じられた。どんなに否定しても「収容所内でどんな思想教育を受けたか」と質問された。疑いが晴れ、故郷に戻る前、警察官は「抑留されていたことを口外してはならない。どこに行く時も警察に申告しなければならない」と命じた。
李さんらが沈黙を破ったのは、韓国が社会主義圏との外交を積極的に展開するようになった80年代末から90年代になってからだ。90年12月、シベリア抑留を体験した人々約60人が集まって「韓国シベリア朔風会」を発足させ、日本政府や旧ソ連・ロシア政府などに強制労働に対する謝罪と補償を求める活動を開始した。
「昨年、また仲間が1人亡くなった。発足当時60人いた朔風会の仲間は20人を割った」と李さんは語る。
日本では、元シベリア抑留者に給付金を支給する特別措置法を議員立法で制定する動きが出ている。朔風会の副会長を務める李さんは「日本で特措法が成立すれば、日本の元抑留者の名誉回復や補償がある程度、達成される。仲間としてうれしい。しかし、あと何年生きられるか分からない我々に、そのような機会がめぐってくることはもうないだろう」と語る。
日本人として徴用され、朝鮮半島出身者だったために故郷への帰還が遅れた。特措法も朝鮮半島出身者は適用対象から外される。
「これ以上日本を信用できるだろうか」
4月の定例会に参加した朔風会のメンバーからは次々に疑問の声が飛び出した。
日本では、第二次大戦後に旧ソ連の捕虜となり、強制労働に従事した元シベリア抑留者に「特別給付金」を支給する特別措置法案を超党派の議員立法で今国会に提出し、成立をめざす動きがある。
関係者によると、特措法はシベリア抑留者が「酷寒の地で長期間にわたり劣悪な環境の下で強制抑留、強制労働に従事させられたにもかかわらず、支払いを受けていない」ことから、抑留期間の長短などに応じて25万円から150万円の「特別給付金」を支給することなどが骨子となっている。
さらに、抑留問題の真相究明、犠牲者の埋葬場所の特定や遺骨収集について必要な措置をとることが明記され、「強制抑留者の労苦について国民の理解を深め」「後代への継承を図り」「帰還できなかった抑留者の追悼事業を行う」ことも盛り込まれる。
しかし、同法の対象は「法律の施行日に日本国籍を有するもの」に限定される見込み。日本の植民統治下にあった朝鮮半島と台湾から徴用され、抑留された人々には適用されない。国内外の元抑留者や支援者の取りまとめをしている「シベリア立法推進会議」世話人の有光健さんは「日本人の犠牲だけでなく、あまり知られていないが、外国籍の元抑留者に対しても何らかの措置が必要だ」と話している。【ソウル大澤文護】
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1945年 8月 日本の敗戦
45年 8月末~10月 シベリア各地の収容所に送られる
45年10月~48年初め 寒さや栄養失調、重労働で多くの死傷者が出る
48年 ハバロフスクに移動。約2300人の朝鮮半島出身者が思想教育と重労働を課せられる
48年12月 ナホトカを経て北朝鮮・興南に
49年初め 約500人が38度線を越えて韓国に
2~3月 米韓の情報機関や警察から調査を受けた後、帰郷を許されるが、長年「要監視対象者」として処遇される
90年 9月 韓国と旧ソ連が国交樹立
12月 シベリア抑留体験者が集まり「韓国シベリア朔風会」を結成。日韓両政府などに名誉回復や被害補償を求める活動を開始
2003年 6月 東京地裁で、日本政府に謝罪と補償を求める訴訟を起こす
06年 5月 東京地裁が「請求棄却」判決
09年 2月 韓国シベリア朔風会が故郷に戻れなかった仲間を追悼する「韓国人シベリア抑留者帰還60周年慰霊祭」を南北軍事境界線近くの京畿道漣川郡で開催
10月 東京高裁が「控訴棄却」判決
※韓国シベリア朔風会、日本の支援団体の資料をもとに作成
毎日新聞 2010年5月14日 東京朝刊