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財政の悪化に歯止めをかける。その強い政治的意思を国民はもちろん、世界の市場が待ち望んでいる。
ギリシャの財政危機に端を発した世界経済の動揺は、財政赤字の拡大を放置すれば何が起きるかを各国に突きつけた。先進国で最悪の借金依存を続ける日本が、財政再建への道筋を考えずに済むはずがない。
この意味で、菅直人副総理兼財務相が来年度の新規国債発行額を「44.3兆円以下に抑える」との考えを表明したことを評価したい。
44兆円は当初予算として過去最悪となった今年度の国債発行額と同じ規模である。小泉政権時代の国債30兆円枠と比べても甘い目標だ。それでも世界経済が同時不況からの回復途上で、日本はデフレ克服のために財政金融政策の手助けが必要な状況にあることを考えれば、達成はそう簡単ではない。
まして、民主党が政権公約を来年度予算でフルに実施しようとすれば、歳出額は今年度の92兆円から100兆円近くに膨らむ可能性がある。
その半面、不況で37兆円まで落ち込んだ今年度に比べて税収が大幅に増えるめどは立たない。特別会計の積立金など「埋蔵金」も底をつき、国債発行額は50兆円を超えかねない。
昨年来の「事業仕分け」が示すように、無駄減らしだけで短期間に歳出額を何兆円も削るのは無理だ。となると、国債発行を44兆円以下に抑えるには、民主党が政権公約の目玉として掲げる子ども手当の満額支給や高速道路無料化の本格実施などを大幅に見直さざるをえまい。
与党からの強い抵抗が予想される。だが、借金の膨張に対する歯止めとして、やはり44兆円枠は必要だ。
しかも、それですら来年度限りの歯止めである。医療や介護などの財源をまかないつつ、日本の財政が内外の信認を得るには、抜本的な税制改革による歳入確保策こそが欠かせない。
民主党内では、次の総選挙後の消費税率引き上げを政権公約に明示することも議論されているが、参院選で不利になるとする反対論が根強い。しかし日本の国債格付けは、ギリシャに次いで財政状態が厳しいスペインやアイルランドと似たような水準だ。
いまは国内の1400兆円の個人金融資産と経常収支の黒字が支えとなって国債を消化できているが、将来にわたって支えられる保証はない。いずれ国債の相場下落・金利上昇という形で市場の反乱が起きかねない。
鳩山政権は今後3年間の財政運営を盛った中期財政フレームを6月にまとめる。増税を含む10年程度の財政再建の道筋も、同時に示すべきだ。
国の運営に責任を負う政権が赤字を垂れ流すばかりで増税という課題から逃げ続けることは、もう許されない。
仕事のない休日に、職場や自宅から遠い地域で、身分を明かすことなく、支持する政党の機関紙を家やマンションの郵便受けに1人で投函(とうかん)する。
そんな行為が、公務員に政治的中立を求めた国家公務員法に違反するとして、2人の男性が起訴された。審理は別々に行われ、1人は東京高裁で無罪となり、1人は同じ高裁の別の裁判部から有罪の罰金刑を言い渡された。
事件の概要はほとんど変わらない。裁判官の判断を分けたのは、憲法が保障する「表現の自由」に対する理解の深さの違いというほかない。
無罪とした中山隆夫裁判長は、表現の自由には政治活動の自由も含まれると指摘したうえで、この程度の行為で行政全体の中立性に対する国民の信頼が失われる危険があるとはいえず、刑罰を科すのは憲法に反すると述べた。
一方、有罪の出田孝一裁判長は表現の自由について正面から論じないまま、機関紙の配布は政治的偏向が強い行為で「放任すると行政の中立的運営が損なわれ、党派による不当な介入や干渉を招く恐れがある」と説いた。
もちろん行政は国民全体の利益のためにあり、中立・公正であるべきは言うまでもない。だからといって、そのために個人の人権をないがしろにしてもいいという話ではない。
なぜ表現の自由は大切なのか。ものを考え、他者に伝えることによって、人間は成長をとげ、政治にも前向きに参加していくことができる。自由で民主的な社会を築き発展させるために、それは不可欠な存在なのである。
だれもが基本的人権として表現の自由をもつ。ここをしっかり押さえたうえで、では行政の中立性を担保するために、公務員にいかなる制約を課し、違反した場合にどんな制裁を与えるのが適当かを検討する。それが憲法の理念にかなう考えの進め方である。
公務員の地位や権限、仕事の中身と性質、政治活動の内容・態様……。様々な事情を考慮し、問題のあるなしをケースごとに見極める。そうしたアプローチをとって無罪を導き出した中山判決にこそ理があると思う。
高裁の判断が割れ、結論は最高裁に持ち越された。最高裁は1974年に公務員の政治活動の自由を厳しく制限する判決を出している。15裁判官のうち4人の反対意見がつき、学界などからの批判も強い猿払(さるふつ)事件判決だ。
それから36年。今回の二つの事件をすべての裁判官が参加する大法廷に回付し、徹底して議論してもらいたい。猿払判決を貫く論理の荒っぽさ、この間の国民の法意識の深化や人権意識の発達、行政や公務員を取り巻く環境の変化などを考えれば、この判例は見直されてしかるべきだ。
憲法や人権をめぐる認識がまた一歩深まる。そんな判断を期待したい。