(サイズが大きいのしかありませんでしたので、PCによってははみ出るかもしれません)
5/7(金)にテレビ東京系列で放送された「世界を変える100人の日本人」の中で、史上初の有色人種のプロバスケット選手としてと、「ワット・ミサカ」こと三坂亙氏のことが放送されていました。
私はNFL(アメフト)やNPBやMLB(野球)など、スポーツの歴史はある程度知っているつもりですが、バスケットは守備範囲外で、三坂氏のことは、初めて知りました。
ちょっと興味をそそられたので、調べてみました。
三阪(みさか)亙(わたる)氏は1923年に米国ユタ州で、広島県からの日本人移民夫妻の間に生まれました。
ユタ大学時代の1944年、彼がポイントガードとして所属していたチームは全米大学選手権(NCAA)で優勝します。
番組でそのときの画像が流れましたが、相手のパスをカットしまくってました。
驚くべきことは、この年はまだ太平洋戦争中だと言うことです。
(太平洋戦争は1941年から1945年まで)
米国では、日本人や日系人の多くが収容所へと送られていた時代です。
(ちなみに、ドイツ系やイタリア系の人々については、こういうことはなかったそうです)
その時代にこういう活躍の場を与えられた、とい言うのが、奇跡的だと思いました。
その後、1947年に、前年に創設され、後のNBAの前身となる、米プロバスケットボールリーグのBAA(Basketball Association of America)に所属する、ニューヨーク・ニックスにドラフトされ、入団します。
(ドラフト1巡とか、ニックスが唯一指名した選手、との記事も見ましたが、英語版Wikipediaによると、どちらも違いました)
まだ、黒人選手もいない頃で、有色人種として、初のNBAプレイヤー(BAA時代の選手もNBAに在籍したと認められているそうです)となりました。
(同年4月にジャッキー・ロビンソンがMLBでデビューし、近代MLB史上初の黒人選手となりました)
しかし開幕してから一カ月もたたないうちに、チームから解雇通告を受けます。
その理由については、今でも不明だそうです。
2009年10月、ホワイトハウスで行われたイベントで、バラク・オバマ大統領から、祝福のメッセージを受けました。
その模様は冒頭の動画で見ることが出来ます。
ところで、今回この記事を書くために、下記のサイトを参考にしました。
「NBAの扉を開いた日系人 ワット・ミサカ物語」
「Life Under Construction」の「白いお家での催し」
「世界を変える100人の日本人」の「2010年5月のバックナンバー」
「Wikipedia」の「Wataru Misaka」の項(英語)
最初の「NBAの扉を開いた日系人 ワット・ミサカ物">NBAの扉を開いた日系人 ワット・ミサカ物語」が最も詳しくかつ、唯一、三坂氏のことを「日米両方の国籍を持っていた」と書いていました。
これが本当であれば、2004年にフェニックス・サンズと契約した田臥勇太選手は、史上二番目の日本人NBA選手となります。
最後に、私がこの記事を書いた理由を書かせてもらいます。
私は人物伝が大好きです。
子供の頃から、浅く広く読んできました。
しかし社会人になった頃から、メジャーではない人の話しを読むのが好きになりました。
今回三坂選手のことを調べて驚いたのは、YouTubeの動画にいくつか関連する動画がアップされているものの、その閲覧数が極端にすくないことです。
冒頭に載せた動画は、アップされて3か月もたっていませんが、それでも400回しか再生されていないのは寂しすぎると思いました。
同時期にアップされた「Wat Misaka Interview」に至っては、89回でした。
ですので、一人でも多く、三坂選手のことを知ってもらいたく思い、書いた次第です。
今後も、マイナーで凄い人達のことを、書いて行きたいと思います。
P.S.バスケットボールは、元々アメリカンフットボールを室内でやれないだろうか、と言う試みからできたスポーツだそうです。
そしてその試みに「イシカワ」と言う日本人らしき人物も関わっていたと言う話しを聞いたことがあります。
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