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宜野湾市の歴史
(1) 位置
宜野湾市は沖縄本島の中部西海岸・東シナ海に面し、県庁所在地の那覇市から12.4 キロ離れた地点にあります。市域の総面積は19.69キロ平方メートルで、北東6.1キロ、東 西5.2キロのやや長方形をなしています。比率からすると、米軍基地が33.3%を占め、民 間地の宅地が36.3%、田畑が8.5%、原野が2.1%、その他19.8%です。
(2) 地形・地質
宜野湾市の地形は、ひな壇上の四つの段丘面からなり、海岸沿いの沖積低地のほか、 内陸部の三つの段丘面は大半が石灰岩層で占められています。石灰岩部層の段丘縁に は多くの洞穴と湧き水が散在します。東海岸にはクチャと称する島尻層群がみられます。
(3) 歴史概観
■琉球王府時代の宜野湾
宜野湾市は琉球王府時代の1671年、浦添間切・中城間切・北谷間切の3間切(ま ぎり:現在でいう市町村)から13村(ムラ)を割き、新たに1村を設けた計14村で「宜 野湾間切」として新設されました。この14村とは、我如古(がねこ)・宜野湾(ぎのわ ん)・神山(かみやま)・大山(おおやま)・大謝名(おおじゃな)・宇地泊(うちどまり)・喜 友名(きゅうな)・新城(あらぐすく)・伊佐(いさ)・嘉数(かかず)・野嵩(のだけ)・普天 間(ふてんま)・安仁屋(あにや)・真志喜(ましき)で、このうち、真志喜が新たに設置 された“村”です。また宜野湾村には、番所(ばんじょ:現在でいう役所)が置かれて いました。
宜野湾間切嘉数村から普天間村までの間には、尚貞王(1645〜1709)の世子・尚 純(1660〜1706)が植え付けさせたと記録に残る宜野湾並松(ジノーンナンマチ)と 呼ばれる松並木がありました。1644年からは、琉球国王が9月に普天間宮に参拝 する普天間参詣が行われ、次第にこの時期にお参りする習慣が王府の官人や庶 民にも普及していきました。1700年中頃からは、首里や那覇の士族層が生活の糧 や職を求めて地方へ移り住むようになります。これを屋取(ヤードゥイ)と言い、徐 々に集落を形成していきます。宜野湾間切では、1750〜1780年代に上原や長田 や愛知、中原などに士族層が移り住んできました。
■明治以降の宜野湾
1879(明治12)年、琉球王府が明治政府の琉球 処分によって解体され、沖縄県になりました。 明治政府下に置かれた沖縄県は本土化が行 われ、これまでの制度や習慣、文化に影響を 与えました。
1908(明治41)年の沖縄県及島嶼町村制の施 行により、これまでの間切が町・村(そん)に、 村(ムラ)は字(あざ)に改められ、宜野湾間切 も宜野湾村となりました。その年の戸籍調査に よると、宜野湾村の戸数は2,401戸、人口は 11,184人で、農業を主体とした村でした。琉球 王府時代に宜野湾に設置された番所も役場と なり、宜野湾に中頭役所が置かれました。のち に普天間に中頭郡役所や県立農事試験場な どの官公庁の施設が置かれるなど、宜野湾村 は沖縄本島中部の中心地となりました。
1922(大正11)年には、那覇駅〜嘉手納に、沖 縄軽便鉄道が敷設されました。宜野湾村には 大謝名駅・真志喜駅・大山駅の3駅が置かれ、 とりわけ大山駅からは宜野湾村内で収穫され たさとうきびが嘉手納の製糖工場まで運ばれていきました。
また、1932(昭和7)年、宜野湾並松(写真右上)が国指定天然記念物に指定され ました。この頃の宜野湾並松の行程は5.8km、松の株数2,944本であったと報告さ れています。
やがて人口や戸数も増加し、1939(昭和14)年には、旧集落から屋取集落が行政 区として分かれ、志真志(しまし)・長田(ながた)・愛知(あいち)・赤道(あかみち)・中 原(なかはら)・上原(うえはら)・真栄原(まえはら)が新たな“字”として設置されまし た。1943(昭和18)年には、真栄原から佐真下(さました)が分離して22行政区となり ました。
■沖縄戦と宜野湾
1945(昭和20)年4月1日、米軍が沖縄 本島に上陸し、宜野湾も戦禍を被りま した。4月5日、宇地泊−嘉数−西原 の棚原をラインに日米の攻防戦が展 開し、4月24日に日本軍は浦添への撤 退を余儀なくされ、その結果、4月下旬 には、米軍は宜野湾村を攻略し、那覇 市や南部方面に進攻しました。
激戦地の一つの嘉数高地(現:嘉数高 台公園;写真右上)には、今も戦時中 に日本軍によって造られたトーチカ (大砲や機関銃などを置いた場所を分 厚いコンクリートでおおった陣地;写真 右下)や陣地壕がいまなお、残されて
います。
同年6月には普天間飛行場建設が始 まり、主に4つの集落(宜野湾・神山・新 城・中原)は飛行場建設のために接収 されました。また野嵩には上陸して間 もなく米軍によって「野嵩収容所」が設 置され、住民はもちろん、主に南部方 面で「捕虜」となった住民もこの「野嵩 収容所」に運ばれ、その多くが中北部 の収容所へと移送されました。捕虜と なった住民にとって、戦後がスタートし たのです。
この沖縄戦では、1944(昭和19)年10月の宜野湾村の人口13,636人に対し26.9%に あたる3,600余の犠牲者が出ました。
■戦後の宜野湾
米軍は、宜野湾村に普天間飛行場、 キャンプズケラン、キャンプマーシー (真志喜にあった米軍施設で1976年に 返還)、キャンプブーン(宇地泊にあった 米軍施設で1974年に返還)の基地を建 設しました。米軍基地の存在によって 事故や事件が後を立たず、その取調 べや裁判の判決も不当なものでした。
米軍は基地拡張を目的とした土地の 強制接収を県内各地で行いました。 1955(昭和30)年には宜野湾村伊佐浜 でも土地の強制接収が行われ、そこ で暮らす30戸余の住民が強制立ち退 きを余儀なくされました。
1955(昭和30)年に18,469人を数えた 人口も1960(昭和35)年3月には3万人 を越え、1962(昭和37)年7月1日に市 に昇格しました。「宜野湾市」の誕生で す。
次いで1964(昭和39)年2月、戦後の混 乱期の産物である対人的行政区の地域を明確にした20行政区に再編されました。 市制施行後も市域の市街地化は急激をきわめ、嘉数ハイツ・大謝名団地・上大謝 名区の自治会が新設され、宜野湾市は都合23自治会20行政区によって編成され ました。
さらに「那覇広域都市計画圏」において軍用地を除く市全域が市街化区域に指定 され、あわせて西海岸の埋め立てに伴う沖縄コンベンションセンターや宜野湾海浜 公園などの公共施設の整備により、宜野湾市は新しい市街地として発達していま す。
しかし、普天間飛行場やキャンプズケランの米軍基地は、市域の33%の割合を占 め、特に市域の中心に構え、民間居住地と隣接して構える普天間飛行場による騒 音被害は今なお後を絶たず、今後も墜落事故が起こる可能性がないとはいえませ ん。
2006(平成18)年9月30日現在、宜野湾市の世帯数は36,992戸、人口は90,776人。
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更新日:平成18年11月21日
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