日中戦争 憲兵の手紙424通公開
5月8日11時38分配信 毎日新聞
拡大写真 |
展示されている手紙のコピー。便せんや原稿用紙に時に丁寧に、時に走り書きで書かれている=甲府市の山梨平和ミュージアムで、春増翔太撮影 |
五味さんは旧制甲府中(現・甲府一高)に首席で合格したが、養父に反発して上京。会社勤めの傍ら中国語を学んで会話も堪能だった。製薬会社に勤めていた時に召集され、1937(昭和12)年9月、24歳で陸軍第149連隊(甲府市)の兵として中国に渡り、40年3月に帰還するまで郷里の妻や弟に手紙を送り続けた。38年1月に戦地の警察官である「憲兵」となったが、それ以前から軍隊内で文書処理などに携わっていたといい、自分が書いていた手紙の検閲は受けていなかったとみられる。
長女の保坂衣子さん(68)によると、作家か新聞記者を目指していた五味さんは、召集前に「こんな戦争を続ければ日本は世界から孤立する」と周囲に語っていた。手紙の文面からは戦争への冷徹な視点がうかがえ、戦時中の史料を収集している山梨平和ミュージアム(甲府市)の浅川保理事長(64)は「回顧ではなく、その場で書かれたという意味でも貴重」と評価する。
五味さんは終戦直後に龍岡村長を2期務め、79年に66歳で病死したが、家族に戦争のことは一言も語らなかった。しかし死後30年近くが経過した08年9月、保坂さんは実家の土蔵で丁寧に束ねられた手紙の束を見つけた。そこには<巻頭言>と題する便せんが付けられ、こう結ばれていた。
<燭(しょく)の下に綴(つづ)ったこの便りも吾々(われわれ)の尊い体験として保存するも決して無意味ではなかろう>
父の思いを知った保坂さんは手紙を多くの人に読んでもらおうと決意。同ミュージアム(055・235・5659)で23日までコピーが公開されている。保坂さんは「今も大小いくつもの戦争がある。父の手紙を読むと、それがいかに愚かなことかと思います」と話している。
◆手紙の一部(原文のまま)
<新聞記者のついて来る戦場は勝味のある場所です。新聞で伝わるのは、ほんの一部分>(1937年12月)
<(上海は)大ていデカタンな享楽と各国人種入り交った混った相変わらずの魔都です。エロとグロとテロ(暴力)と殺人のカクテルです>(38年2月1日)
<伝染病も非常に悪性で甚だしいのは予防注射をしてゐてもコレラ等十数時間でまるで即死同然の者も有ります>(同年7月26日)
<弾丸は全く雨の様に私共の身を掠(かす)め私共もそれぞれ最後の決意を以(もっ)て殆(ほとん)ど銃剣のみで突撃を敢行した>(38年10月30日)
<慰安所と呼ぶ一種内地の遊郭の少し程度の悪い位なものが開設された。戦友等は休日にはワンサと出かけて一瞬の快楽にうかれてくる。(中略)その女共は大てい朝鮮人だ>(39年1月)
【関連ニュース】
グーグル:1〜3月期大幅増収増益 米景気回復で
金総書記訪中:北京に向け出発、胡主席と5日にも会談
中国地震:胡錦濤国家主席が帰国の途に 被災者救援を重視
中国地震:死者617人 10万人避難、当局は報道規制も
余録:ネットの壁
最終更新:5月8日11時38分
Yahoo!ニュース関連記事
- 日中戦争 憲兵の手紙424通公開[photo](毎日新聞) 5月 8日11時38分
- <日中戦争>憲兵の手紙424通公開[photo](毎日新聞) 5月 8日11時25分