しかし、スイートポテトも10年くらいしかもたなかった。スイートポテトは半生のため、土壌菌により発酵したり、穴が開いたりした。これがクレームになった。当時、雪印乳業の乳製品による集団食中毒事件などが起きており、消費者が過敏に反応していた。年600万個のうち、不良品が1個出ても大問題になった。スイートポテトの売上は半減した。大川は夜眠れなくなった。
02年、売上は4億円にまで落ち込み大赤字、大川は会社の売却まで考えたが、買ってくれるところは現れない。
「下請けはもうやめた!」
再起をかけたのは新触感のラスク
スイートポテトに代わる新製品作りが大きな課題になった。模索を続ける中で、大川はレストランでラスクに出会う。ワインが好きだった大川は、ワインのつまみを食べていると、カナッペが載せてあるのがガーリックラスクだった。「これを袋に入れたら商品になるな」「進物にも使えるな」と直感した。
当時、ネットで売っているところはあった。大川は、今度は自分の店を出店し、自分で売ることを考えた。利益幅の少ない下請けをやめ、自前の商品の製造・販売をやろうと思った。ラスクとは2度焼きという意味で、売っている多くの店が、売れ残りのパンを焼いていたので硬かった。大川は口溶けがよく、歯触りのいいラスクを作りたかった。パン作りの職人に来てもらい試行錯誤を繰り返した。
原料には徹底的にこだわった。それまでのラスクといえばマーガリンを使っていたが、大川は最高のバターを使った。北海道乳業が函館中心の酪農家の牛乳を使って作る最高のバターを仕入れた。小麦粉もいろいろ試した末、2~3種類の厳選したものをブレンドした。パン職人と議論を繰り返し、試作を重ね、ようやく思うようなラスクが焼き上がったのは3ヵ月後の02年6月だった。シュガー、ごま、ガーリックの3種類を作った。それまでの機械が使えたものの、それでも初年度5000万円の投資が必要だった(最終的には4億円の投資を行なった)。
東京からの贈り物として使えるように、大川は商品名を最初から「東京ラスク」に決めていた。東京はマーケットも大きい。次はパッケージや商品名等のデザイン。これは知り合いのデザイナーに依頼した。出店場所もおしゃれな街と決めていた。するとそのデザイナーの事務所の1階が空いているという。場所は六本木なので、申し分ない。