そこで84年6月、日本で初めて、スイス製チョコを使った手作りチョコレートの卸専門店「スイス亭」を千葉県松戸市に設立した。大川29歳のときのことだ。
チョコレートは年間を通して売れない。売れるのは12月から3月までの冬場だけ。このため、夏はゼリーやクッキーを作って売った。売上は初年度1億円で、毎年1億円ずつ増えていき、6年目で6億円になった。取引先は300社、従業員も50人になっていた。工場が手狭になったため、90年に茨城県つくば市に移転した。
ナタデココブームで年商9億に!
しかしブームは2年で終わる
相前後して大川にカミカゼがやってきた。ナタデココが爆発的に大流行したのだ。大川はゼリー製造のため1億円もするラインを導入、大手フジッコの下請けとなってナタデココを作りまくった。売上はみるみる伸びていった。なにしろナタデココだけで3億円も売り、6億円の売上が9億円にも達した。従業員も100人にまで増えた。
大川はこの頃、「人生はこんなにも楽しいものか」と思っていた。大川は、朝工場で指示を出すと、昼にはゴルフ場でボールを追いかけていた。順風満帆で、絶頂期を謳歌していたのだ。
しかし、好事魔多し。ブームは2年でパッタリと終わった。注文がゼロになった。残ったのはゼリーの機械のリースと100人の従業員のリストラだった。会社は絶頂から一転、経営危機に陥った。原料業者、パッケージ業者への債務は、頭を下げて2年間の長期支払いに繰り延べてもらった。
スイートポテトで復活するも
約10年で再度経営難に…
再起策として考えたのは、1社依存経営からの脱却だった。これまでの経営を反省し、多くの顧客から支えられる体制づくりを考えた。
大川は、デパートなどを見て回り市場調査を行なった。そこで目に付いたのがスイートポテトだった。大川にはスイートポテトを1ヵ月保たせる技術があった。「これだ」と思った大川は、300社に売って反応をみた。反応は上々だった。92年、自らインドネシアに出向き、現地農場でさつまいもを直営栽培。これを現地でペースト加工して輸入し、低価格で販売した。
これが大当たりした。スイートポテトは1日4万個製造、年間4億円を売り上げた。これで経営危機を脱したのだ。96年、社名を「スイス亭」から「グランバー」に変更した。これは「大川」の英訳、グランドリバーをベースにして考案したもの。2000年には工場を岩手県釜石市に移転した。