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きょうのコラム「時鐘」 2010年5月13日
「演説」という日本語は明治初期に「スピーチ」を訳して生まれた。背景に政党政治と新聞の誕生があり「政治家の武器は筆と舌の他になし」と言われた
戦後も「沼は演説百姓よ」と涙を絞った池田元首相の浅沼稲次郎氏追悼演説や、北陸では会場を聴衆で埋め尽くした辻政信氏の演説が語り草だ。右も左も政治家の演説は真剣勝負だった。その伝統が消えて久しい 平成の政界はタレント候補登場で騒々しい。だが、悲しいかな「タレントだからだめ」とは言えない現実がある。タレントでなくても首を傾げたくなるような人物が議員になれる。テレビ映りのいい議員をもてはやすマスコミも自戒が必要だ 演説の復権を叫べば時代錯誤と言われかねない。が、顔も見えず感情も伝わらないネットの「つぶやき」など政治を劣化させる材料ばかりだ。辻立ちをもてはやす風潮があるが、聴衆もまばらな辻立ちは自己満足に終わる なぜ人を集めて、堂々と政策を語らないのか。タレント候補もそこで政治家としての適性が分かる。政治家の武器はカネでもなければ知名度でもない。原点に返り、演説の力を取り戻したい。 |