
▲武装解除。ソ連が没収した日本軍兵器は中共党軍に渡った。

▲強制連行の途中、乗り換え駅にて。
所持品検査の名目で頻繁に強奪され、私物はすっかり奪い取られた。
「捕虜」の呼称について
ソ連に強制抑留された人たちは捕虜ではない。終戦で自ら武装解除したのであって、そのまま帰国して当然であった。
それを不法に無理矢理、強制連行したのだから拉致監禁と呼べるものである。
しかし現在、ロシアでは「捕虜」と称して軍事行動の延長にしている。
「捕虜」ならばハーグ条約により賠償の義務を負う必要がないからである。
また日本の外務省も領土問題を先行させるため「抑留者」と呼称を変えることによってロシアを刺激したくないとしている。
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▲手製の布バンドに縫い込んで持ち帰った認識票。

▲斧とノコギリ、ロシア製。

▲両袖のない防寒外套。あまりの空腹に耐えかね、片袖ずつロシア人労働者の持っていたパンと取り換えた。当時は一般ソ連人も極貧の極みだった。
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ソ連軍の男狩り
昭和20年8月、ソ連軍は満洲、北朝鮮、樺太、千島に進駐すると同時に日本軍の武装解除をおこない、各地に集結させ収容した。
その後、約千名を単位とする569の作業大隊を編成し、昭和20年8月下旬から翌21年6月までの間に、次々にソ連領に送り込んだ。
人員が足りなければ日本人壮丁であれば一般人からも連行し、シベリアをはじめ外蒙古、中央アジア、ヨーロッパ・ロシアなどの広範な地域で長期にわたり労働を強いた。
その総数は60万名といわれ、さらに作業大隊以外にも情報関係者が1万2000名逮捕されシベリア送りとなった。
連行された中にはタイピスト、通訳、看護婦などの女性も含まれていた。
シベリアでの劣悪な環境と過酷な労働、飢餓などによって、多数の死亡者があり、その数は総計6万名と推定され、特に最初の冬の間に5万名近くが死亡したと言われている。
後日、かろうじて生還した人でも、そのうちの4万5千名が極度の疲労や極寒のために障害者や重病になっていた。
東京ダモイ
ソ連軍に武装解除した日本兵はこれで日本に帰れるものと信じていた。
しかしソ連側は帰国列車だと偽り、ソ連領内に連れ去ったのだった。
帰国のための輸送だと考えたからこそ、統制を保ち、行軍にも耐え、迅速に短期間で移動できたのである。
掠奪
ソ連軍は関東軍の食料・被服・薬品などはもちろん、満洲国内の日銀券・朝銀券・社債・株券・ダイヤ・金塊、そして工場の設備・製品・原料など、満洲にあった諸設備の4割をソ連領に持ち去り、4割を破壊した。
ソ連が満洲から強奪したのは機械や物資だけではなく田んぼの稲、事務所のイス・机、ドアのノブ、日本人住宅のフスマや畳、とにかくありとあらゆるものに及んだ。
連行された日本人兵士からも腕時計・万年筆に始まり、つぎつぎに持っている物品を掠奪していった。
ただ働きの囚人
ソ連側の連行・抑留は、戦争で破壊されたソ連経済を復興開発するための労働力として日本人を利用するためであった。
それは奴隷となんら変わらない。
入ソした人たちは、極東、中央アジア、シベリア、モスクワ以東のヨーロッパ・ロシアの2千余りの収容所に連行され、鉄道敷設、炭鉱・鉱山労働、森林伐採、農漁業、都市建設などで酷使された。
その中でも鉄道建設や鉱山作業は、最も危険で過酷なものであった。
スターリンが最優先したバム鉄道建設には、「枕木一本ごとに日本人一人の亡き骸が眠っている」と言われるほど苛烈な突貫労働を強いられた。
加えて食料不足と非衛生的施設への収容という厳しい生活条件の中、病死や事故死、自殺などで多くの死者が出た。
「働く動物」となりながら、ひたすらダモイ(帰国)を夢見て、今年こそは、今年こそは帰れるかも知れない、と先の見えない強制労働を耐え抜いたのだった。
過酷なノルマ
過酷なノルマが割り当てられ、ノルマが達成できなかった者には営倉にぶち込むなどの懲罰が待っていた。
しかもノルマは一定不変のものではなく、達成すれば必ず上昇する。
日本人はバカ正直に働き、自分たちでノルマ量を引き上げてしまったのであった。
ノルマ達成の出来不出来はすぐさま食事の増減にも反映された。
達成率の低い者の量を削り、優秀者の分に増やすという方法で、ソ連側は簡単に労働の督励ができたのである。
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