【社説】狂牛病騒動が過ぎ去った光化門で(上)

 2010年5月を迎えた大韓民国の国民は、2年前の08年5月、この地で何が起こったかなどすっかり忘れ去ってしまったかのようだ。当時は日が傾くころになると、ソウル・光化門をはじめとする全国の主要都市で、ろうそくを手にした集団が街に飛び出し抗議の声を上げた。「わたしはまだ15歳です。死にたくないです」などと書かれたプラカードを手にした幼い子どもたちや、赤ん坊を乗せたベビーカーを押す多くの若い母親たちも、この行列の先頭に加わっていた。あのとき、政府は国民を守るどころか、コンテナが積み上げられた城壁の内側に追い込まれ、自分たちの身を守るのに必死だった。こうした光景は、今ではかなり昔のようにも感じられるが、大韓民国の国民は、米国産牛肉の輸入をめぐる「牛肉デモ騒動」の実態が、果たしてどのようなものだったのか、今一度しっかりと理解しておく必要がある。大韓民国がいつしかまた、狂乱の中で無政府状態に陥らないためには、当時のデモ騒動がどのようにして起こり、また誰をきっかけに全国各地に広まっていったのか。またその結果として、何がもたらされたのかという真実を、きちんと理解しておくべきだ。

 「牛肉デモ騒動」から2年たった今、今年1-3月期の米国産牛肉の輸入量は1万9230トンで、前年の1万2281トンに比べ56%も増えた。韓国国内ではオーストラリア産に次いで最も多く販売されている。一方で「狂牛病(牛海綿状脳症〈BSE〉)の危険性がある米国産牛肉の全面輸入に反対する国民対策会議(以下、対策会議)」の中心メンバーとしてテントに立てこもり、デモを扇動した人たちは、地方選挙で野党陣営の一本化を目指すとして、政界の動向をうかがっている。誰一人、国民に謝罪しようとはせず、堂々と「新たな民主事業」に向け活動しているというわけだ。

 2008年6月にはソウル大学で「米国産牛肉同盟授業ボイコット」が行われたが、当時の総学生会長で、8回にわたりろうそくデモに参加したというチョン・チャンヨルさん(動物生物工学科4年生)は、「(あの当時)大学で学んだ知識や複数の資料を調べた上で、米国産牛肉が人体に致命的な影響を及ぼすという主張はかなり誇張されたものだと知っていた。そのため、デモの現場に行くと、このままでは国が崩壊してしまうと思い、心配になった」と語る。それにもかかわらず、周囲の熱気に押されて真実を口にすることができなかったという。また、光化門で行われたろうそくデモの際、10回以上にわたりステージに上り、「なぜ大統領のせいでわたしたちが心を痛めなければならないのですか」という内容の声明文を読み上げ、当時「ろうそく少女」と呼ばれたハン・チェミンさん(当時高校2年生)も、「あの原稿はすべて“ナヌム文化”という団体が書いたもので、わたしはそれを読んだだけ」と証言している。

【ニュース特集】米国産牛肉輸入問題

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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