Hideo Amamoto
天本 英世
1926年北九州市若松生まれ。東大法学部中退後、俳優に。映画は木下恵介監督『女の園』をはじめ岡本喜八監督『殺人狂時代』など多数。テレビは「仮面ライダーV3」など。
天本 英世 さん(俳優)
30代以上には仮面ライダーのかたき役、「死神博士」として強く記憶されているだろう天本さん。その広い役柄から“怪優”と言われる一方で、スペインの詩人ロルカに深く傾倒するなどスペインに思いを寄せる人物としても有名だ。戦争をくぐり抜けてきた世代でもある天本さんはいま現在どういった思いで生き、日本という国をながめているのか。若者への強烈なメッセージを聞いた。
昼下がりのレストランは主婦や営業合間のサラリーマンで適度に込み合っている。隣席をおしゃべりに熱心な主婦にはさまれ、店内の角で天本さんはじっと、正月に封切られるゴジラの台本をながめている。
家に電話がないものでね。事務所からの連絡もここで受けることにしている。(まわりを見渡し)人混みというほどでもないけど、こういう適度に人がいる中で、ひとりでいるのは好きなんだ。
10年くらい前から「こんなボケた国に調子をあわせていたらボケた日本人みたいになってしまうぞ」と思った。スペイン人と日本人の違いはなんだと思う?
それはスペイン人は明日も生きているとは思っていないところだよ。「アスタ・マニャーナ」といえば、日本人はなまけもののスペイン人のよく使う言葉だと思っているだろう。とんでもない。例えば日本人が銀行に行って換金を頼んでも「アスタ・マニャーナ」。“今日は終わり、また明日おいで”と言われる。
なんてなまけものだと日本人は思うが、実はこの後に「シ・ディオス・キエレ」と続く。「アスタ・マニャーナ、シ・ディオス・キエレ」。これは「もしも神様の思し召しで明日も私とあなたが生きていたらお目にかかりましょう」という意味。
スペイン人はベッドに寝ても、明日の朝、目が覚めるとは思っていない。ここに、昨日も明日もなく、今日しかないんだという考えがある。
だから今日を精いっぱい楽しんで生きようとする。日本人は10年も、何年先でも、自分は生きていると思っている。それはたんに生きているだけではないか。戦争がないに越したことはないが、平和が怖いのは平和になれ平和ボケしてしまうことだ。
僕はまったく兵隊になるのがいやだった。だけどしかたがない。昭和20年5月に久留米の野砲隊に入隊した。で何をやらされたかといえば、来る日も来る日も野原に穴を掘らされた。
毎日ツルハシで穴を掘り、気を失うと水をぶっかけられ、ぐずぐずしていると木刀でぶん殴られた。そういった意味で、僕はまったくの劣等兵だった。もともと兵隊がきらいだから精神的にも肉体的にも兵隊になろうという気がない。
戦争について考える気力もないので、劣等兵なら劣等兵になりきろうと考えた。終戦(1945年)を迎えても、僕ひとりだけ 12月まで復員できなかった。英語ができるからという理由で、占領軍のための立て札を英語で書いたりしていた。そのせいで、僕の運命は狂ってしまった。
僕は北九州の若松生まれで、田舎のある程度の秀才だった。英語が得意だったけど、戦争中なので英語は敵国語だとされ、試験科目から外された。
こういうところは、文部省の今も変わらないボケたところだ。それで英語の代わりに数学が出題されたが僕にはまったくわからない。
だからいくら受けても落ちた。おまけに文科は戦争の役に立たないから(募集人数を)35人に減らし、理科は300人に枠を広げたからひどいもんだ。理科は23歳まで兵役免除だが文科は20歳で徴兵された。とにかく1年浪人して旧制高校(鹿児島の七高、現在の鹿児島大学の前身)に入った。それが昭和19年(1944年)だった。
旧制高校は11人に1人の合格率で難関だったけど、田舎生れだから、とくに頭が澄んでいたわけじゃなかった。35人のうち半数は鹿児島出身だが、残りの半分は東京や関西から来ていた。こういった連中は頭の仕組みが全然異なっていて、読む本の質も量まるで違った。あの時代でもマルクスを読んでいたようだ。
そうした中でも早熟だったのは『仁義なき戦い』で有名になった作家の飯干晃一だった。飯干は「あと何ヶ月で日本は負ける」と言っていて、その通りになったからびっくりした。彼はクラス一の立派な「非国民」だったよ。
戦争で勝つとか負けるとか関心がなかった。でも徹底的に兵隊になるのはいやだった。ところがそのきらいな兵隊にとられ、満州に行けと言われた。父は気休めに「九州にはアメリカが上陸するから満州に行く方が安心だ」と言っていたけど、とんでもない。
そのころには船が出るとみんなアメリカの潜水艦に撃沈されていた。ところが満州行きが宮崎に変わった。だから今でもこうして生きているわけだ。
軍隊からもどるのが遅れ、東大法学部に入ったものの学問に対する興味はすっかりなくなってしまった。結局、大学には半年しか行かず、後はバイトなどをしていた。原因は、一言で言えないけど、すっかり虚無的になっていたのはたしかだ。
それに東大法学部に入っても、後は官庁に入ってなんて出世主義しかなくておもしろくない。これまでにも「東大法学部に入ったのになぜ俳優になった」とたずねられたが、これに答えるには一晩かかるよ。ようするに、僕にとっては、俳優になるというのは乞食になるのと同じ意味だったんだ。生きることを捨てるというかね。かといって、それを怖いとも寂しいとも思わなかった。
背水の陣を布き28歳で俳優になったが、出入りしていた俳優座も養成所は25歳の年齢制限があった。だから僕は俳優座の青山杉作という先生について、先生のもとで俳優の勉強をしていた。
初舞台はヴェルディのオペラ『オテロ』、その後どういうわけか木下恵介監督の「女の園」「二十四の瞳」に出演できた。でも、そのころはまったくの素人で、目標も何もない。俳優になってはみたものの、何をやりたいというのもない。乞食だよ。ただそれは性にはあっていた。
日本人でスペインに入れ込んでいる理由は、100人いれば99人はフラメンコだろう。後はスペイン市民戦争。このふたつは共通している部分があって、非常にむずかしい点だけが似ているんです。
1936年に起きたスペイン市民戦争とは人民戦線政府の共和国軍とフランコ将軍率いる反乱軍との内戦だ。共和国軍には国内では共産主義者や自由主義者、アナキストがつき、また国外からはロシア、メキシコが武器や人員の援助を行った。一方反乱軍にはヒトラーやムッソリーニが味方し、都市が爆撃され、一般市民が多数殺されるなど、第2次世界大戦の前哨戦となった。
たんなる共産主義と右翼との対立を越え、人間の自由と理想をかけた戦いと位置づけられ、作家、ヘミングウェイやオーウェルなどが義勇兵として参戦した。日本人で参加した者もいた。
フラメンコを酒場での踊りだと思っている日本人もいるだろう。フラメンコは迫害を受けたジプシーがその生の苦しみを叫ぶもので、両者はそこが似ているところだと思う。僕はフラメンコを経由して、スペイン市民戦争に興味を持ち、スペインに深入りしたくちだ。
そう。比べて、日本人は自分はなぜ生きるのかという問いかけをしない。それは哲学がないからだ。個性はないのに、自己の存在は認めている。けれど他人の存在を認めていない。だから最近では簡単に人を殺す。
スペイン人は個性が強いが、同時に人も認めていて非常に寛容だ。日本人にはそうした寛容さもなければ、人間に対して無関心だ。電車に乗っている人を見てご覧なさい。異様ですよ。半分は居眠りしている。スペインのフラメンコの名だたる連中が日本に来たとき、「日本人はなぜ居眠りするのか」と不思議がっていた。
平和ボケしているんだな。それに比べれば、戦争中の日本人は生き生きしていましたね。今日しかないと必死で生きていた。
自分が生まれ、一生の間にしたいことをする。それだけだ。だからスペインに住みたいとは思っています。とにかく日本人には哲学がないんだ。なんのために生きるか。生きているとは何か。教師も何を教えていいかわからない。
文部省も僕らが小さい頃と同じだ。ばかばかしいことの再生産で、「君が代」を歌えなんて言っている。僕は日本のすべての俳優を引き連れて「君が代」反対のデモをやりたいくらいだ。「君が代」なんてバカの骨頂で、僕は全然天皇制なんて認めない。昭和天皇は戦争責任者の最たる者だった。
こういうことはテレビでしゃべっても全部カットされるんだ。そうしたことがあるかぎり、日本人はいつまでたっても精神的に自立できない。天皇や天皇制について議論さえしないんだよ、日本人は。
戦争中と違っていろんな本が読める時代です。先生が教えてくれなくても自分で考えることはできる。世代を越えてつきあう中でいろんなことを吸収したほうがいい。
まあ今は先輩とつきあうという機会もないか。みんな独りぼっちなんだな。それも自立した独りではないところが問題でしょうね。
Hideo Amamoto
天本 英世
1926年北九州市若松生まれ。東大法学部中退後、俳優に。映画は木下恵介監督『女の園』をはじめ岡本喜八監督『殺人狂時代』など多数。テレビは「仮面ライダーV3」など。
【天本英世さんの本】
日本人への遺書(メメント)
徳間書店