■
2007年4月25日(水)
『上下・端午の節句まつり』
女の子の節句を祝うひな飾りを町中に展示する"ひな祭り"は各地で行われていますが、男の子の端午の節句飾りの祭りがあることを私は知りませんでした。それは
府中市上下町
(じょうげちょう)の《
じょうげ端午の節句まつり
》です。4月22日(日)しとしと降る春雨の中、白壁と格子の古い街並を歩きました。
「女の子のイベントがあるのに男の子の祭りがないねぇ」―上下町の端午の節句まつりは去年始まり今年は
2回目
。ひな祭りが終わって(上下町でもひな祭りを開催)ホッとする間もなく今度は端午の節句まつりです。
上下町は石見銀山からの銀を運ぶ銀山街道の中継地・宿場町として江戸時代大いに栄えました。その関係で古い時代の端午の節句飾りが残っています。豪華な衣裳をまとい足を踏ん張って見得を切っている金太郎さん、大阪道頓堀が発祥の地の【
竹田人形
】(人形芝居用のからくり人形を模して作られたもののため武者の作りに動きがあり表情も実に豊か)、大きな緋鯉を抱えた牛若丸の【
上下人形
】(土人形)など見慣れた端午の節句飾りとは異なる珍しい骨董人形にも出会えます。
ある商家でいい話を聞きました。ここでは当代、子、孫―3代の鎧・兜・武者人形・金太郎などが飾られていました。3代の家族に加えて親戚もやってきて毎年々みんなで飾りつけをするとのこと。飾り終わると、鯛の季節です、様々な鯛料理に木の芽を添えてみんなで食べ飲みます。これを《
鯛じま
》というのだそうです。が、「じま」はどういう字を書くのか、何故そういうのかはわかりません。ご存知の方は教えて下さい。子や孫とともに飾りつけをするのは飾り方を覚えて欲しいから、とご主人。「教え教えられ」の風景や鯛じまの様子を想像してみます。胸の内がポッとあたたかくなりました。
じょうげ端午の節句まつりは
5月31日(木)まで
開かれています。のんびりゆっくり一日を過ごすつもりで白壁の街並を一軒一軒訪ねてみませんか。夫々の家には夫々の家の端午の節句飾りが、そして夫々の家の歴史が―。
今週のはがき絵は《
鯉のぼり
》です。「いらっしゃいませ」というように小型の鯉のぼりが通りのアチコチで泳いでいます。大島紬など私の着物のハギレで真鯉を作ってみました。
山 原 玲 子
(2007年4月25日更新)
■
2007年4月18日(水)
『早駆け馬』
馬が駆ける祭りといえば《流鏑馬(やぶさめ)》を思い浮かべますが、
庄原市山内町
(やまのうちちょう)に伝え残る行事は《
早駆け馬
(はやかけうま)》。地域の氏神さま
日吉神社
の参道を早馬が駆け上ります。
早駆け馬の起源は
戦国時代
。山内地区を治めていた
山内隆通
(やまのうちたかみち)が永禄6年(1563年)尼子(あまご)軍との戦いに勝利したことから始まります。山内軍は出陣に際し日吉神社で戦勝を祈願。ご加護あってか見事勝利をおさめた山内軍は戦場から
早馬を走らせ日吉神社に戦勝を報告
。その様が早駆け馬神事となったのです。
今年の祭りは4月15日(日)に行われました。馬は三頭。砂利の敷かれたおよそ50mの参道を砂利を踏み散らしながら蹄(ひづめ)の音も高く駆け上ります。装いこそ時代の流れか、乗り手は白のTシャツの上に裃姿だったり、女物の長襦袢に緋だすき姿だったりしますが、私は戦国時代の侍たちのいでたちや、戦場から一刻も早くと馬に鞭打ち鞭打ち駆け込む武者と馬の姿を自分なりにおもい描きながら眺めました。今はIT時代、急ぎの報告は携帯電話やメールで瞬時に行うことが出来ますが戦国時代は早馬を走らせるのが最も早い情報伝達手段だったのでしょう。
田園の広がる山内町。昔は農耕馬として馬が沢山飼われていました。馬の調達に不自由はしませんでした。乗り手も希望者が殺到しクジ引きで決めました。今は馬も乗り手も岡山県に頼っています。
祭りの世話役 寺西良造さん
(74歳)の家でも馬を飼っていました。50年前早駆け馬に乗りました。一番馬のクジを引きました。「やぁ嬉しかったですよ」と顔がほころびます。祭りの日は神社の境内や周辺は黒山の人だかりだったとのこと。バナナ売り、ヘビ使い、のぞきからくりの店も立った早駆け馬に近郷近在からどっと人が集まったのです。
農業事情が変わり里山の暮らしが変わり祭りが変わりました。が、早駆け馬は続いています。お宮参りの赤ちゃんを見つけました。赤ちゃんの家は神社のすぐそばにあります。おばあちゃんは小さい頃から見ていた早駆け馬の日に孫のお宮参りをしたかったのだと。赤いべべの赤ちゃんはまぶしそうにお母さんの胸に抱かれていました。将来、祭りを支える人になってくれるでしょうか。今年の馬の乗り手は2人が女性だったのです。
アッという間に私の前を通り過ぎる早駆け馬。細かいスケッチは出来ません。はがき絵は駆け抜ける馬の雰囲気を割箸で書きました。
山 原 玲 子
(2007年4月18日更新)
■
2007年4月11日(水)
『細工かまぼこ』
親たちが結婚式から帰る、その時が楽しみでした。かまぼこの折があったからです。鶴・亀・松竹梅・鯛もありました。《
細工かまぼこ
》です。我が家では細工かまぼこを甘辛く煮て食べていました。子供の私は「これは鯛の尻尾のところ」「これは鶴の羽根よね」と現代の遊び"パズル"のように部分当てをしながら食べたものです。その細工かまぼこにトントお目にかかりません。しかし作っているところはあります。
広島市西区草津本町
のかまぼこ店《
坂井屋
》がそうです。
坂井屋は100年前の創業以来ずっと細工かまぼこを作り続けています。古い木箱には型がいっぱい。鶴・亀・鯛・鯉・宝船・打ち出の小槌・松・蕪・蓮の花などなど。
三代目 高崎幸二郎さん
(70歳)手作りの金属の型です。早速作っていただきました。
幸二郎さんは幅3センチほどの長めの包丁で魚のすり身をすくい型に詰め込み、あふれたすり身を包丁で削ぎ取ります。実に手際よくアッという間の まさに"
神業
"。この道50年ですもの。型をはずすと誰が見てもそれは宝船。色付けをするのは
妻のみどりさん
の仕事。様々な色をつけたすり身が細長い三角形のチューブから絞り出されます。あああっ、宝船の舳先(へさき)・帆・波頭・珊瑚・米俵がもう描けた!!これも"神業"。
いい機会です。細工かまぼこに挑戦しました。これまで何匹も食べてきた鯛です。すり身をすくえません。やっとこさ型に入れたものの不充分。身の薄い鯛になってしまいました。次は色付け。エラやヒレの線がスムーズに伸びません。オコゼみたい!?Oh No!!
坂井屋は冠婚葬祭用だけでなく
季節々の細工かまぼこ
も作っています。近いところでは間もなくやって来る
端午の節句
用の
兜
。店頭売りもあります、注文も受けます。端午の節句の祝いの膳に兜の細工かまぼこが載っている様を想像しました。いい風景ではありませんか。職人技で手作りされる細工かまぼこ、日々の暮らしの中にもっと取り入れたいものです。
はがき絵は私が作った鯛を描きました。背ビレをパクリ!歯型の残った山原ダイです。あなたのお好きなところをかぶりついてください。さぁご遠慮なく。
山 原 玲 子
(2007年4月12日更新)
■
2007年4月4日(水)
『三原・布団だんじり』
有名な大阪岸和田のだんじりは曳き歩き廻しますが、
三原市幸崎町
(さいざきちょう)
能地
(のうぢ)の《
布団だんじり
》は担ぎます。丸太組みの上に七枚重ねの赤い布団を載せただんじりはおよそ1トン。“
だんじり襦袢
”と呼ばれるカラフルな法被のようなものを羽織った男衆が担ぎ『伊勢音頭』を歌いながら細い路を練り歩きます。角地や神社前の広場では布団だんじりがぶつかり合い合掌立ちに。次にはドドッと横倒しに。見物人はその都度歓声を上げ拍手を送り「だんじりにぶつかっては」とはねるように引き下がります。それはそれは荒々しい激突です。見ている方も力が入ります。
幸崎町能地は古くからの漁業の町。
豊漁を願う漁師たちの祭り
と聞きました。130年以上も続いている春を告げる伝統行事です。
だんじりは4基。それぞれに2人ずつ男の子が乗り、どんなに高く持ち上げられてもどんなに揺らされても、いきなりだんじりを落とされても太鼓を叩き続けます。《
神童
》といわれる5歳から8歳までの子です。白塗りに燃える口紅、袴に緋襷(ひだすき)姿はとても可愛く美しく男の子であることを忘れさせます。“神の子”なのです。神童は地に足をつけません。その昔神童を経験したであろう兄ちゃん達に肩車をされだんじりに乗り込みます。神童は幕で隠され人に顔を見せません。神の子だからです。
世話役や担ぎ手に聞いてみると、幼い頃に神童となり、青年になったら担ぎ手となり、そして経験を重ねて祭りの取り仕切りをするのは当たり前のことのようです。お父さんもおじいさんもそのまた上の人も能地の男は代々だんじりに関わって生きてきたのです。教え・教えられ面倒をみ・みられ、の関係が実に自然に祭りの中にありました。青年がわが弟のように神童の着付けをしてやっている様は心温まる光景でした。
さて、はがき絵です。布団だんじりを描くには余りに複雑です。スケッチするには余りに時間がありません。そこで神童役2回目の男の子を。頬を見て下さい。両方の頬に乗っただんじりの【丁目】が書いてあります。2日間(3月24・25日)落ちもせず泣きもせず大役を務め終えた8人の神童にねぎらいの気持ちを込めて―。
山 原 玲 子
(2007年4月4日更新)
Copyright (C) 2006, RCC BROADCASTING CO.,LTD. All rights reserved.