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宮台真司からの近況報告です。更新はセンセの忙しさ次第で不定期?

Message from ミヤダイ
2003年5月10日
(前回の書き込みは5月8日です)
朝日新聞5月1日付夕刊の文化面に、論説を掲載しました。
新聞論説としては異例の長さになりました。

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日本人が背負う二重の困難
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■日本人は憲法をめぐる二重の困難を背負う。第一の困難は、私たちがいまだに憲法的原則を理解せず、憲法を活かせないこと。第二の困難は、21世紀が解決すべき課題の多くが憲法的原則では扱い切れないこと。憲法を活かせないがゆえの問題と、憲法では対処できない問題とが同時に襲う。そのため憲法改正一つ取っても、心ある者は一概に肯定も否定もできない困難な立場に陷る。
■この種の困難は実はお馴染みだ。明治の亜細亜主義、十五年戦争期の「近代の超克」論、八〇年代のポストモダン論と、日本の抱える問題が「近代化の不徹底」によるのか「近代自体の欠陥」によるのかが繰り返し議論された。それと同型なのだ。近代の根本的欠陥は、第一次世界大戦後の欧州でまず議論され、日本に飛び火した。だが近代の欠陥に対し、近代を知らぬ者が「近代の超克」を処方箋にする愚を、欧州も日本も二度目の最終戦争たる第二次世界大戦で思い知った。結論を言えば日本人は、第一に憲法的原則とは何物でどこまでの射程を持つかを理解した上、第二に「そのことを通じて」憲法的原則を越える21世紀的問題とは何かを理解し、問題解決に当たるべきだ。

【憲法的原則への無理解】
■憲法の無理解は多側面に渡る。第一に、日本国憲法に書いてあるのが国民の権利ばかりで義務規定が少なすぎるとの幼稚な議論に象徴されるが、憲法が統治権力(機構としての国)への命令であることが理解されない。憲法という知恵は、ジョン王の横暴な課税を制約すべくシモン・ド・モンフォール議会が王にのませた契約書マグナ・カルタに由来する。この知恵が、議会の制定する法といえどもコモンローに服すべしとの「法の支配」観念と結合し、近代憲法につながった。だが、日本国憲法は市民が統治権力にのませるどころか、手続き的には大日本帝国憲法の改正という形で欽定された。こうした経緯ゆえに、憲法が市民ではなく統治権力の義務規定であることが、今に至るも理解されない民度の低さだ。
■第二に、第9条の字義解釈に勤しむ弊が象徴的だが、統治権力への命令たる憲法は、市民への命令たる法と違い、その内容を、字義ではなく立法意思(憲法意思という)が決めることが理解されない。憲法意思とは、市民がどんな意思に基づいて統治権力を制約するかという歴史的主体性。憲法に書いてあるから「交戦権放棄」が重要なのではない。私たちの主体的意思が、交戦権放棄(9条)と生命財産維持(13条)のどちらを優越させるべきかを決めるのだ。しかし先に述べた欽定性ゆえに「市民が憲法を手段として統治権力の制御を意思する」という憲政の常道が理解されない。その結果、私たちは今に至るも統治権力の制御という発想を持たない。その証拠に国会は立法府としての機能を果たしていない。法案の9割は内閣提案で、議員立法に不可欠の政策秘書団は先進各国の数分の一以下だ。
■第三に、第19条「思想・良心の自由」が規定する「法と道徳の分離」の原則の無理解が横行する。法は道徳を命令してはならず、道徳的に中立な法の下、市民同士が何が道徳的かをめぐるコミュニケーションをすることのみを許容するという原則だ。こうした無理解の結果、青少年の人権を守る法案がいつの間にか青少年の道徳を規定する法案に化けることに象徴されるが(児童買春・児童ポルノ禁止法案など)、市民が自己責任でなすべき道徳的コミュニケーションが、「お上」に委ねられてしまうという、実に見事なお粗末さだ。

【憲法的原則を越える21世紀的問題】
■これらとは別に、21世紀は憲法的原則だけで対処できない問題の数々を明らかにしつつある。憲法が保証する人権(統治権力が侵してはならない市民の自由)の下で市民が自由に振舞うだけでは解決できない。第一に、世界初の近代憲法を作った米国が、憲法的原則を踏み越える統治権力の振舞いを許容している。近代憲法はリヴァイアサン(怪物)たる統治権力を馴致するためのもの。そこでは「国家は社会より恐い」との観念が前提になる。典型は「百人の罪人を放免するとも一人の無辜の民を刑するなかれ」との推定無罪。だが同時多発テロ以降の米国は、「百人の無辜の民を拘束するとも一人の罪人を放免するなかれ」とばかりにアラブ人たちを拘束、「社会は国家より恐い」へと転じた。先進各国で拡がる情報管理法制も、従来ならプライバシー権の侵害が問題化されたはずだが、社会に紛れ込む鼠が大規模テロを引き起こす恐れという大義名分を前に必ずしもチェックされない。
■第二に、憲法的原則へのコミットメントを口実にした戦争動員が大量破壊をもたらすのを、国際法システムや国連体制がチェックできなくなった。米国が国際法と国連の無視を宣言するのと、明確に憲法違反の人身拘束を許容するのとはコインの両面だ。第三に、憲法的原則(自由)が許容する一国主義的な利益追求行動が、地球環境破壊や南側の構造的貧困化をもたらすことに見るように、近代諸国の統治権力が憲法に服するだけでは解決できないグローバルな問題が露呈してきた。国連の環境開発サミットでも話題になったが、憲法的原則が許容する利益追求がもらたす南側の環境破壊と構造的貧困化が、怨念を醸成して大規模テロの危険を増し、米国に憲法的原則を踏み越えさせる悪循環が見えてきた。
■憲法後進国の日本が憲法的原則に無知なままでいるうちに、憲法先進国の米国が憲法的原則ならびに国際法的原則を踏み越え始める。「米国だってそうしている」と、近代を微塵も理解できない者どもが「近代の超克」を主張する愚が繰り返されるのか。憲法的原則を越える問題に対処するためにこそ、憲法的原則を極限まで利用した上で、憲法パトリオティズムを越える想像力を発揮することが求められているのだが、やはり遠い道のりか。

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