時代の風

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時代の風:ネット接続権=東京大教授・坂村健

 ◇電子的社会へ参加義務

 最近、筆者はフィンランドと共同研究を進めるなど深く交流している。フィンランドの運輸通信相が私の研究所に視察に来られたこともある。そのフィンランド運輸通信省がつい最近、高速で大容量のデータ伝送のためのブロードバンドへの接続を国民の「権利」として法律で保障するという宣言を発表した。

 ここで重要なのは、単なる政策目標でなくこれを「国民の権利」としたことだ。基本的人権の中でも、生命権や自由権や財産権などの「自然権」に比べ、国家により欠乏や抑圧から免れる権利--生存権、教育を受ける権利、労働基本権、勤労権などのいわゆる「社会権」は比較的新しい概念の人権だ。20世紀に確立したことから「20世紀的人権」とも呼ばれる。

 この社会権が生まれた背景に産業革命というエネルギー分野のイノベーションがあったことは確かだろう。突き詰めれば「新しい技術」が「新しい人権」を生む。その伝でいけば、インターネットを中心とする情報通信分野のイノベーションと、それに伴う社会構造の変化という時代の風が生んだのがこのフィンランドの「ネット接続権」。

 産業革命以前には「貧乏は個人の自己責任」という考え方だった。しかし、発達した工業社会で必要とされるのは多数の教育を受けた労働者である。さらにはイノベーションを起こせる有能な人材の供給源としても、消費者としても厚い中間層が必要とされる。つまり国民の生活を国家が保障することが結果的に工業社会を支え国力につながる。人道的側面ではなく、そういう功利的な考えでも社会権は説明できる。

 だからこそ、社会権の多くの権利は同時にその義務と対になっている。フィンランドの「ネット接続権」についても、権利であると同時にその義務の側面が重要なはずだ。フィンランドではすでに相当に高度な電子政府が実質的に稼働している。そしてその背景には、日本と同様の急激な社会の高齢化があり、非効率な社会プロセスに人手を割いていられる余裕はないとの危機感があるという。

 同様な危機感を持たなければいけない日本が「住民基本台帳番号」で足踏みし、電子政府もいつまでたっても掛け声倒れに終わっている間に、フィンランドでは「国民番号」はおろか、「国民登録センター」への各種住民情報の集中化も実現した。新生児は病院で生後2時間以内に登録され、国民番号を与えられ、これを基に子ども手当が支給されるという具合だ。

 さらに、望ましくない利用を防ぐためのオンブズマン制度をきちんと作った上で、公共機関や企業へ情報の有料提供まで行っている。だから、国勢調査もデータベースをさらうだけでよく、1980年を最後に行っていない。

 当然、携帯電話でも利用可能な電子カードを利用した暗号化通信(ちなみにこの技術は日本のもの)により納税など各種公共手続きの電子化も進められている。

 ただ、引っ越しなどのメール申請は簡単なのでいいとしても、納税についての申告は面倒なので係員に対面でやってもらいたがる人が多く、電子申請は依然数%程度で日本同様伸び悩んでいるという。

 使い勝手は日本とは比べものにならないぐらいよくなっているので、結局やり方の善しあしにかかわらず、不利益の可能性がある行為については、慣れたやり方でも可とすればそちらに固執するという人間心理が最も大きなバリアーなのだろう。

 財政を含めた国の未来が危ぶまれる状況の中で、人々が感情的に過去にとらわれていることが問題ならば、ネットワーク時代に適応した社会を実現するには、「公共サービスの基本は電子ネットワーク」という原則をどこかで確立しなければならない。

 そのときに「ネット接続権」の義務的側面がはっきりしてくる。民主政治にかかわり社会に貢献できる国民となるために、教育を受けることは権利であると同時に親には子に受けさせる義務が生じる。同様に、少ない資源と厳しい自然環境、それに加えての急激な高齢化という状況に耐えられる国になるためには、社会の効率化を進め、国民すべてが電子的に社会に参加することは権利であると同時に義務と考えるべきだ。

 さらに言えば、義務教育のすべてが無料でないように、応分の負担も求められる。どうしてもその負担ができない人には「権利」の側面から今度は政府にさまざまな施策を求めることになる。そういう戦略目標をきちんと見据えた上での福祉であれば、成人向けのネット教育の補助から、低所得家庭にネット対応可能なデジタルテレビチューナーを無償で配ることまで、考えられることはいくらでもある。

 今後も生命科学などのさまざまなイノベーションにより新たな人権が生まれ、いずれ「21世紀的人権」が確立することになるだろう。やむにやまれずその先頭を走っているフィンランド。しかし、日本にその努力を冷ややかに見ながら身の振り方を考える余裕があるかどうか--真剣に考えるときが来ているのではないだろうか。=毎週日曜日に掲載

毎日新聞 2009年11月22日 東京朝刊

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