コラム
山崎元の時事日想:
給料に不満を感じる理由――日本に根付く“陰気な成果主義”とは? (1/2)
多くの会社で導入されている成果主義。しかしこの人事制度に不満を感じている従業員は多く、うまく活用しているところは少ない。仕事や人を評価することは難しいが、どこに成果主義の問題点があるのだろうか?
[山崎元,Business Media 誠]
数年前に成果主義への賛否が話題になったことがある。多くの会社員、特に若い社員は成果主義的な人事制度を望む一方、実際に成果主義を導入した企業では、うまくいっていないという事例が紹介されて、日本の企業には成果主義がなじまないという主張がなされた。
特に、富士通の人事部に在籍されていた城繁幸氏の「内側から見た富士通 『成果主義』の崩壊」は、実情を知る元人事マンが成果主義の機能不全の様子を具体的に書いた本だったので、大いに影響力があった。当時の富士通の成果主義は、最終的には個々人が目標を立てて、その目標の価値と、達成度合いによって、個人の「成果」が評価されるようなシステムであった。しかし個人が達成しやすい目標を立てて能力を十分発揮しなくなったり、上司による「評価」に多くの不満が出て、組織の雰囲気が悪くなったり、といった弊害がリアルに紹介されていた。読者にも似た制度を経験した星方が多いのではないだろうか。
しかし筆者の考えでは、日本の多くの会社で行われているこの種の人事・報酬制度は本当の成果主義ではない。名前を付けるなら「陰気な成果主義」とでも呼ぶべき、別物だ。
通常、この制度にあっては、目標の価値と達成度で評価される成果が部署なりグループなりの中で相対評価されて、その相対評価に応じてボーナスなどで「差を付ける」仕組みになっている。しかもボーナスは、会社が事前に払ってもいいと思っている程度の金額を配分するものであり、仮に大いに成果を上げても、その絶対額は大きなものにならない。
外資系の会社の報酬制度を経験すると、日本の会社が強調する「同期でも、上下に数十万円、場合によっては、数百万円の差が付くのだ」というポイントは、「たかだか、そんなものか」「しょぼい」という印象になる。支払いが「しょぼい」くせに、成果・報酬の優劣をあたかも人の優劣の差であるかのように強調するから、雰囲気が何とも「陰気」なものになる。
また、この「陰気な成果主義」が社員一般には好かれないもう1つの理由は、この制度にあっては、社員の目標と成果を評価して経営計画との整合性をチェックする役割の「社長室」「経営企画室(部)」「人事部」といった部署の社内エリートが常に安全圏で優遇されがちなことだ。
成果主義の弱点は3つ
経営者に近い社内エリートのことを筆者は「経営茶坊主」と呼んでいるが、「陰気な成果主義」は、現場と経営者の間で経営茶坊主たちが活躍する場を確保するとともに、現場に対して茶坊主が経営者の権威を借りて接する際のツールともなる。
「陰気な成果主義」のシステムは、個人の目標の総和が部署・部門の目標であり、さらにその総和が会社全体の経営目標となっていて、事後的には、それぞれの達成度の総和が会社のパフォーマンスになるような整合性を持っている(かのように見える)。あたかも、表計算ソフトのようにつじつまが合っていて、弱点を知らない場合、論理的には反論しにくい構造だ。概念で考えがちな、社内エリートたちにとっては納得しやすい構造にできている。また、このツールは、部署の目的の重要性によって社内の人的資源を配分する上でも使い勝手が良く、経営茶坊主たちが社内の人事権を確保するのに好都合だ。
それでは、このシステムのどこに弱点があったかというと、1つ目は目標の評価が完全には出来ないこと、2つ目は事態の変化に対する対応に柔軟性を欠くこと、3つ目はインセンティブの仕組みとして弱いことの3点だった。
これらの中で最大でかつ根本的な弱点は、目標評価の難しさだろう。現場の具体的な成果をどのくらいの価値だと評価するかということは、経営の根本ではあるが、簡単ではない。特に、個々の現場が専門性を帯びてくると、経営企画担当役員のレベルでは、目標自体の価値を正しく評価することができない。
金融の世界で言うと、新しいデリバティブ商品の開発といった目標に対してどのような価値を与えるかは、その分野の専門外の管理者・経営者には難しいし、それがどのくらいの難度の仕事なのかということについても、見当が付きにくい。さらに、その仕事の価値はマーケット環境の変化によって変動しているので、計画と評価の単位期間(例えば「年度」「四半期」など)が環境変化のスピードについていけない。成果を測る基準となるべき計画がどんどん陳腐化してしまうのだ。
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