「首相に向かってあんな失礼な質問をして大丈夫か」
東京に駐在する欧米の記者からこんな心配をされた経験がある。00年5月。当時の森喜朗首相が就任早々「日本は天皇を中心とした神の国」と神道関係者を前に発言し、「憲法を否定した戦前回帰の考え方だ」と批判を浴びたのはご記憶だろう。その釈明のため、森氏が記者会見に臨んだ時の話だ。
私も出ていたその会見で記者からは「立場、場所をわきまえない口の軽さ。そんな首相の資質が問われているんですよ」と遠慮ない質問が飛んだ。欧米の記者には、日本の政治記者は政治家と癒着していて政治家への批判もストレートにできないという先入観があったのだろう。
振り返れば、「首相の資質」という言葉が新聞やテレビで、ここまであっけらかんと使われるようになったのは、あの時からではなかったろうか。
例えば、麻生太郎前首相が資質を問われ始めたのは就任間もなく、漢字の誤読やらが発覚してからだった。沖縄米軍の安全保障上の抑止力について「理解が浅かった」と今さら口にする鳩山由紀夫首相も資質が疑問視されている。付言すれば、資質に言及され始めた時は政権は下り坂に入っている時でもある。
でも、考えてみよう。「資質が問われる」と言うと聞こえはいいが、要するに「首相として能力がない」という話だ。それを内外に報じるのは、国家機密を暴露するようなものではないか。それが平気でメディアをにぎわし、首相の言動がギャグのネタとなって、からかわれる。
何て自由で、いい国だろうと喜んではいられない。安直に資質の2文字を使うようになった私たちメディアの責任も大きいが、トップの資質が毎度毎度問われる事態を、まずもって政界全体でもっと深刻に受け止めるべきではなかろうか。
歴史に「もしも」は禁物だが、最近こんな空想をする。もし昨年、小沢一郎氏の代表辞任を受けた民主党代表選で、鳩山氏ではなく岡田克也外相が選ばれていたらどうだったか、と。
政権交代は実現しなかったろうか。仮に「岡田首相」だったら堅物で面白みはなかったろうが、「できないことはできない」ともう少し、きちんと言っていたのではないか。だとすれば、マニフェストはあそこまで財源無視の大盤振る舞いとはならなかったかもしれない。そして普天間の迷走もこれほどではなかったかも……。
「何を今さら」の話だ。岡田氏も外相として存在感は乏しいから、結果は同じだったかもしれない。ただし、昨年5月の代表選は極めて短期で行われ、その後のマニフェスト作りも党内でとことん議論したとは到底言えない。そのツケが今の鳩山政権に回ってきていることだけは間違いないように思える。
衆院選は「政権と首相」を有権者が選択する選挙だと私も書いてきた。しかし、議院内閣制のもと、実際には首相は国会の指名選挙で決まり、その候補選びは政党に委ねられている。
「国民に人気がありそうだ」という理由で総裁を選び、次々と失敗した自民党の例を持ち出すまでもない。政権交代時代を迎え、「首相候補選び」がより重要になっているのに、与野党通じていいかげんで時代に即していないと言いたいのである。行き当たりばったりの党首選はもうやめて、もっと時間をかけて指導者はどうあるべきか、その候補のもとでマニフェストはどうあるべきか、各党が徹底した議論をしないといけない。
近ごろ、全国を回っていると「首相も私たちに直接選ばせてくれ」という有権者の声をよく聞く。つまり首相公選制だ。小泉政権時代に一時、検討されて立ち消えとなったが、その後、住民に直接選ばれた各地の首長が、住民の支持をバックに実績を上げていることも、有権者に影響しているのだろう。昨年の総選挙で「自分たちが政権を代えた」という自信を得て、さらに「その先」を求めているような気もする。
公選制導入には基本的に憲法改正が必要だ。従来、私は一時の人気でとんでもない独裁者を選ぶ危険があるとの理由で否定的だったが、一方で有権者の意識が(政治家以上に?)格段と進んできたことも肌で感じる。
米大統領選のように候補者は最低2年はメディアと国民にさらされて資質を問われ続けるのが大前提だろう。それこそ国民的議論が必要だが、政党が首相候補を育てられないのなら、これも手かもしれない。そんな誘惑に私もかられ始めている。
毎日新聞 2010年5月9日 東京朝刊