(続き)
【万が一の備えは必要か】
憲法9条はお花畑だという人々は、
1.人が嫌がることさえしなければ、人から嫌なことをされたり、攻撃されたりすることはない
2.(軍隊がないので)私たちは他国に干渉せず、友好的に接しているから、攻撃される不安はない。
5.軍隊を持たず、何の攻撃もしない国に、いきなり武力行使するなんてありえない。もしそんなことをしたら、世界中の民主国家を敵にまわすことになる。
※(1)のエントリーで引用した資料より
これをお花畑というようですね。
私達が悪いことをしなければむこうも悪いことはしてこないはずだなんてお人好しすぎる、というわけです。
そこには自国はともかく他国は「こちらに軍事力がなければそれを奇貨として早々に攻撃をしかけてくるにきまっている。すきあらば襲ってやろうと企んでる」という暗黙の前提があります。
まあ、自分以外は皆ケダモノみたいな前提ですね。
じゃあ、あなたは軍隊を持たない国に嬉々として侵略を仕掛けようと思いますか?と聞いてみたいです。(ジブチではそれに近いことをやろうとしていますけど。)
きっと次のような答えが返ってくるのでしょうね
「いや、我が国はそんな野蛮なことはしないが、世の中我が国のように平和主義的な国ばかりじゃないのだ」と。
なんかご都合的・・・(^^;
これが古代・中世のバトルロワイアルな時代だったら、軍事力を持たないことにつけ込まれるかもしれませんが、グローバル化が進んだ現代では、友好関係を結びたいと思うような国、国際的にも尊敬を集める国になれば、武力侵攻を仕掛けてくることなど事実上不可能です。
第二次世界大戦後一度も戦争をしなかった国、日本の「匂い」が、戦争まっただ中の国でどのように受け止められたか、以前エントリーにしたことがあります。(繰り返しの引用で恐縮です)
・
http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-44.html・
http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-357.html高遠菜穂子さんは、人質になったとき犯人側が気を緩めてくれたのは、高遠さん達が丸腰だったからだ、と言います。
「私たちが個人レベルで戦争に反対している、そして戦力を持っていなくて丸腰だということが、彼らの殺意を止めた。それは言い換えれば、それぞれが憲法9条の精神を実践していたからということじゃないか、と後から思うようになったんです。」
アフガニスタンの軍閥の武装解除を行った伊勢崎賢治さんは
『「アフガニスタンの軍閥は、我々が行くと例外なく言う。「日本人だから信用しよう」と。
アフガニスタン人にとって日本のイメージは、世界屈指の経済的な超大国で、戦争はやらない唯一の国というものだ。
9条のもとで暮らしてきたわれわれ日本人に好戦性がないことは、戦国の世をずっと生き抜いてきた彼らは敏感に感じ取る。そういう匂いが日本人にはあるのだ。』
と著書に書いています。
暴力に訴えず平和理に解決しようとする姿勢は、相手方の武力行使を抑止する良い例だと思います。
(1)では今の日本は、紛争に発展しそうな現実的危険性はない、と書きました。
それでも
「今は軍事紛争になりそうな具体的危険はないかもしれないけど、将来紛争の危険性が現実にかなり高まることがあれば、そのときはやはり軍事的抑止力はいるんじゃないの?そうなってから準備していては泥縄だから、あらかじめ「万が一の備え」はしておくべきでは?」
という気持ちは捨てきれないかもしれません。
しかしコスタリカは実際に中米紛争において話し合いによる解決を実現させました。それにより当時のアリアス大統領はノーベル平和賞を受賞しました。軍事力でなく話し合いで、かなり勃発する危険度の高い紛争を抑止できることを証明したのです。
(オバマ大統領の受賞でノーベル平和賞も格が落ちた気がしますが)
それに結局「万が一の備え」は何の役にもたたず、ほとんど無意味だと思われます。
まず、圧倒的な軍事力を誇るアメリカはテロ攻撃を防ぐことが出来ませんでした。つまりアメリカの軍事的抑止力は期待したほどの効力がなかったということです。
その後アメリカは報復に出ました。「正当防衛」という名の報復は、軍事力がなければ出来ないことです。
「万が一の備え」を使うときがきたわけですね。
でもその備えを使った結果はどうだったでしょう?
おびただしい血が流されそれでもまだ出口は見えず、死体は増えるばかり。返ってあらたなテロリストを産んでしまいました。
つまり
、「万が一の備え」なんか紛争が実際に起こってしまえば、結局紛争解決のために何の役にもたたないのです。だったら最初からいりませんね?
それより、もしアメリカが一切武力を行使しないと約束し、イスラム社会と辛抱強く話し合いの場につき続けていたら
そのほうが、はるかに戦争はさけられたのは想像に難くないです。
「万が一の備え」にこだわりたくなる気持ちはわからないではありません。その底流にあるのは原始的な恐怖なのだと思います。それは簡単に理性を凌駕していまいます。
だから、軍備増強させたい政治家や軍事産業は、恐怖という感情に訴える演出をするのです。
恐怖と猜疑心が支配するとその行き着く先は、冷静に効果的に物事に対処できなくなり、イラクへ派遣されたアメリカ兵のように動く者皆撃ちまくる、ということになります。
平和理に話し合いで解決しようという憲法9条こそが紛争を抑止する力となる、というのは、理性こそが難題を解決する力であるという事だと思います。
こちらが丸腰なら、相手の恐怖心猜疑心を解くのは、こちらが武装しているときより遙かに簡単です。
これでもまだおとぎ話だと切り捨てられるでしょうか?
そうはいっても自分でわざと自分の家の窓ガラスを割り、お前が割ったのだろう、とヤクザみたいな難癖をふっかけてこられたらどうするんだ、と再反論されるかもしれません。
私が知ってる中でそういうことをする国はただ一つ、覇権大国アメリカです。
だから、対等で友好的な日米関係は大事なのだと思いますよ。
(続きます)