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03/05/01-15
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日々

あたまがいたい。

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斑鳩の攻略DVDのデモムービーて普通に公開されてるのな。知らんかった。

買ったあとで見ても(そりゃ本編のほうがちゃんと見れるわけだから)どうってことはないわけだけども、広告文句の日本語がなんかちょっとおかしなことになってるのがおもしろかった。毎日寿司を食う毎日ですみたいな。
というかサイヴァリアといい斑鳩といいこのへんのひとの作る攻略DVDはタイトルムービーが決しておしゃれでもかっこよくもなくて新声社っぽいっていうかビデオ編集で適当にでっちあげましたみたいなかんじの雰囲気でそのへんのなつかしい空気がけっこう好きだ。
タイトルムービーが変に垢抜けて今風な出来になったら、たぶん「あー」じゃなくて「ふーん」とかちょっとネガティブな意味でスルーするようになっちゃうよな多分。べつにそんなふうにかっこつけてもかっこよかねえよみたいな。そういう意味で「あー、あのへんの空気感と共にある、あんたがた」という印象は、けっこういい。

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t2k音源はclub mix(zip / 127KB)もなかなかいい。
あれだな不思議だな、言うまでもなくこのへんの曲はいまさら古臭いのでベタベタでギトギトでギニャー聴くに耐えないと思うかといえば案外聴くに耐えるのが不思議だ。たとえば頭文字Dのアニメとかああいったかんじの曲になると、うわなんだいまさらかよ冗談じゃない聴いてらんねえよみたいな気分になるのに、差はなんだろうな。はっきりしているようで案外自分で納得するのはむずかしいかもしれない。
あー?ていうかもしかして「懐メロとしてのテクノ」ってのがふつうに語れるようになったのかな?さすが21世紀?

おれもなんかかっこいいMODでもつくりてえけどそんなもんつくれねえなあー。

15:39 2003/05/15

曲がるレーザー 補足

曲がるレーザーに関するつっこみ。

<ここから引用>

まあもともとレーザーは真空中で見えませんし。それを逆手に?とったのがA ・C・クラークの『地球光』。
最初にレーザー(というか光線)を曲げて見せたのは『ガルフォース』?もっとも大昔のマンガやアニメの「怪光線」は稲妻型で、最初から曲がってるといえば曲がってましたが。
逆に記憶にある一番最初の「真っ直ぐなビーム」ってなんだろ。『ウルトラセブン』に出てきたウルトラホークのビームかな?最初の『宇宙大作戦』のビーム(フェーザー)ってどんなんだっけ。

<引用ここまで>
7:00 2003/05/15 採録

先端の見えるレーザーに関するつっこみ。

<ここから引用>

Doodleにコメント・・先端の見える光線は日本に於いては勿論スペシウム光線がもっともポピュラーで、それはジョージパルの宇宙戦争など、50年代アメリカSF映画あたりにオリジン?スペシウム光線は東宝特撮のマーカライトファープ、メーサー殺獣光線と平行進化。雷撃・アーク放電の模倣。
特撮の表現として帰ってきたウルトラマン・ミラーマンあたりで進化が一旦停滞した一方、アニメの方で金田伊功を嚆矢としたエネルギッシュな光線描写がゴッドマーズあたりでポピュラーな技術に裾野拡大。
 一方東宝特撮ムーンライトSY3とネオノーチラスつながりからアニメ技術が曲がる光線に辿り着き云々。

Posted by: 4F(スレ違い乞容赦) on 2003/05/14 22:11

<引用ここまで>
7:00 2003/05/15 採録

出直してきます。

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曲がるレーザー

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あーあと、文章はなにもそれを読むすべてのひとの脳内に同じビジュアルを再現させるために書かれるものではないはずだ、ということについて本筋と関係なさそうだから飛ばしてたのでいちおうメモ。確かに小説などにおいて情景描写(によって読者に具体的なイメージを想起させること)はもともと重要な要素のひとつだったが、それは「すべての読者に同じビジュアルを思い浮かべさせる」という意味では元来なく、つまりなんというか「読者の脳内に同じ結果を出力させる」ことを重視したのではなく「同じ意味の処理をさせる」ことが重要だったんだと思う。

漫画オタとアニメオタとアイドルオタとエロゲーオタが同じ小説を読んだとして、中に出てくるヒロインをどのように想像するかといえば、恐らく漫画オタの脳内では漫画絵として、アニメオタの脳内ではアニメ色に、アイドルオタの脳内では実在のアイドルによく似たかんじに、エロゲーオタの脳内ではCG塗りの、それぞれ違うけど同じ意味になるヒロイン像がビジュアライズされるはずというか。それで何も問題ない。

ジュブナイルが表紙や挿絵に力を入れるようになって以降そういうものは少なくなっていったような記憶がある。もともと読者の脳内にあるパーツを使ってビジュアルを構築したほうが自然に受け容れられるはずっていう考え方が古くなって、漫画やアニメ調(最近だとこれに加えて「エロゲー原画風」もかな)のひとつのイメージを固定して提供したほうが喜ばれるし売り上げにもつながるっていうふうな流れがあったのかな。
あといつごろだったか忘れたけど、オタ雑誌の読者コーナーなどで「○○に出てくる△△というキャラの声優さんのイメージは□□」みたいな声優談義が流行った時期があったと思う(いやこういうのはいまでもあるのか、水量は減ったかもしれないけど)。映像の画一化があれば次は当然音声の画一化だっていう、ひとつの気分があったのかな。多様化を成熟した衰退とするなら画一化は未熟な成長と思うので、それは野暮でショボい当然の一コマってことになるかもしれないなあ。
まだ「○○がアニメ化」が力あることばだった時代の話。

7:54 2003/05/15

メモ書き設置

果たして手書きweb日記で有効に運用できるのかどうかよくわからないし、そもそもこのおれはToDoリストなんて見るのもいやなはずだから、無駄かもしれないけど、一応男子の日記たるものはポストイットの積み重ねで十分でもあるはずなので、ちょっとは試行錯誤してみることにした。なんかおもいついたらページのトップにスタックしていき、処理したものは日記の末尾などにカット&ペーストして流していく(←廃止)。進捗等記録すべきことがあれば適宜対応。

いっそ突き詰めてこれくらいの境地までいっちゃうのもありだとも思っているが、たぶんそうできない。

19:50 2003/05/14

曲がるレーザー

レーザーは曲がらないが、曲がる。現実に曲がってるレーザーを観測するのはむずかしいかもしれないが、アニメやゲームでは容易にグネグネ曲がる。そのほうがかっこいいからだ。昨今、いまさらレーザーがグネグネ曲がってもそのことに真面目に異を唱えるひとはあまり居ない。国内SFはたとえばDAICON3→4とかを象徴的な事件としてそのメインストリームを文字から映像へと大きく転換していったみたいな話を以前に聞いたけど、たとえばこの曲がるレーザーも映像第一主義の台頭を象徴付けている現象だったのかなと思った。

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すくなくとも文字ベースで考えているぶんにレーザーが曲がる必要はない。
宇宙戦艦同士が戦ってるシーンでお互いレーザーをバンバン撃ち合っていたとしてもそれが最終的にビジュアルとして固着する可能性があるのは読者の脳内で、レーザーが直線なのか曲線なのか明示的に説明される必要はほとんどない。「ミサイルやレーザーが飛び交う」とか「戦艦が爆散した」とか、その過程における要点となるコマを押さえていけばよく、ミサイルが「どう飛んだか」とかレーザーが「どういう軌跡を描いているのか」とかすべてを描写しなければならないわけではない。文字ベースでは、レーザーがどういう軌跡を描いたほうがかっこいいかという問題にはあまり注目されない。「まぁだいたいまっすぐなんじゃないの」と思うだけで、そんなことはあたりまえだという認識を共有することで状況説明にかかる紙面を少なく抑えている。

むしろ、ここで不用意に「レーザーはゆるやかに弧を描きながら…」とか描写しようものなら世界設定の異常を強く表明してしまうことになるためリスキーだ。「常識として一般に流布しているものがこの世界では通用しませんよ」と言ってしまっていることになるのでそれに代わって物語世界を支えるだけの法則や設定を用意しなければならなくなり、それは作るのも説明するのも困難な作業となるか、あるいは不可能だ。
そういうレベルでの作者と読者の(「我々はおなじものを見ているはず」という)信頼関係が、文字ベースではとても重要なことだ。疑い出せばきりがなく、信じることでしかつながっていけない(たとえば日本語で書かれた文書について「これは日本語だ」とまず信じなければ、それを自分がまともに読むことができるのかさえ疑わしくなる。ものすごく日本語に似てるけど実は全然違う文法の言語なのかもしれない。たまたま日本語として読むことも可能な形状をしているけど実はまったく違う意味と内容をもっている文書かもしれない。日本語のつもりで書かれた文書なんだけど相手の日本語観と自分の日本語観がまったく違ってしまっているため意味をほとんど汲み取ることができない場合だってありうる。義務教育によって日本人同士の日本語認識は一定水準で平均化されているはずだからおれは他人の日本語とおれの日本語が大差ないと信じることができるけど、実際には各人の脳内にある日本語辞書は微妙に食い違っているはずで、その誤差を「許容範囲」と捉えるか「範囲外」と捉えるかで状況の意味(無意味)はまったく変わる。それと似たようなもので、「レーザーが当然のように曲がる」事態に対するありかたを作者と読者が共有するためには相互の進取的な信頼が必要になると思う)。
そこの部分に波紋を投じてまでレーザーを曲げることに意義があるか?と考えれば、「レーザーは直線です」とわざわざ表明するまでもない通念を共有することの妥当性に納得がいく。

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映像で作るというなら話が違って、「見た目がかっこいいから」という一言によってレーザーは曲がることになる。
法則を「変更」する必要はない、ただそれを「無視」するだけでいい、という判断が多くの場合為されている。野暮なこと言うなよかっこいいんだから、という先制力によってかかるコストは戦略的に回避される。文字は世界を再生するためのコードだが、映像は世界のありさまを表現するための形式なので、理屈に合うとか合わないとかが第一義ではなくなるのでここで逆転現象が起きる。理屈に合わない文章はバグになるが、映像ではそれは「理屈に合わないはずだが存在するもの」として扱われる。つまり描いてしまえばそれはもう存在しているものなのだから、存在するのかどうかの議論など行われないし、「存在していいかどうか」の議論など「もう現にここにあるじゃん」と言ってしまえば容易に潰せる。

映像は文字と違って、たとえば24コマぶん埋めないと1秒経ったことにならないからとか、「レーザーが発射された」からいきなり「戦艦が爆散した」まで飛んでいい文字メディアとは違って「レーザーが発射されて、その軌跡が戦艦と交差して、爆散した」というふうに過程の説明が必要な(というか過程を説明することで成立する)メディアだから、「レーザーの軌跡」の表現についての具体的な発想や技法が生まれたんだろうと思う。中間を描いてて「んあー、なんかこうまっすぐばかりじゃつまんねえな、特徴ねえし。どうせおれが作るんだったらユニークに表現したいよ。いっそこんなかんじでこう、グイっとだな、曲がって当たるとどうよ?」みたいな。

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余1.
でもこのへんの問題について、海外では事情が違ってると思う。SF映画とか宇宙艦隊戦ゲームなどでも、海外産のそれでレーザーが曲がっている描写を見たことはあまりない(まったく無いかもしれない)。映像の力を駆使しまくっているアメリカ産作品などを照らしても大抵のレーザーはまっすぐだ。「んなもん曲がるわけねえだろ」という当然の態度がそこに見える。

そこで「映像作品ならレーザーは曲がってもいいんだ」とする考え方と「映像作品だろうとなんだろうとレーザーてのはまっすぐなんです」とする考え方の、それぞれの環境の差はなんだろう?常識感の差はまずありそうだけど、それだけかな。日本ではアニメが強かったから「レーザーを曲げる」(手で描くことによってそういう発想や指走りの余地が生まれた)ってのもありそうだな。

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余2.
曲がるレーザーのある世界において、作家の仕事の性質は「レーザーは曲がらない!」と主張する係から「レーザーが曲がるための理屈」をどうにかこうにかひねり出す係へとシフトしていったんじゃないだろうか。もはやレーザーが曲がることに何の疑問も抱かない現場の人間に対して、レーザーは曲がりませんと言ってもなんの感銘も与えない。「はぁ?」でおわりだ。

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あーあと「先端が見えるレーザー」はどうなんだ。
先端が見えるレーザー(≒末尾が見えるレーザー)に関しては、アニメもだけどゲーム(ゲーム機の表現性能と、そこからくるゲームデザインの幅)の影響が強いはずと思う。シューティングゲームにおいて先端の見えないレーザーはむしろ先端の見えるレーザーより後になって登場しているはずだし、第一の問題として、それをプレイヤが撃つ場合ならともかく敵が撃つ場合には「いきなり画面端まで到達する即死攻撃、発射時点で射線上に居たら回避動作を入力する余地もなくアウト」であってこれではゲームになっているとは言い難い(「覚えゲー」として成立しているならそれはそれだけど)。
メッシュや半透明などでレーザーの射線に「予約」を入れることによってプレイヤに不条理感を抱かせないようにできるようになってはじめて、先端の見えないレーザーはゲームデザインに組み込めるようになったと思う。
ああいや、違うか?そういう「フェア感の高いゲームデザイン」に意識的な言及がなされるようになったのは、レイフォース以降のことだったようにも思うし。

このへんについては、シューティングの偉いひとによくよく話を聞きにいってみないといかんなあ。
とりあえずテグザーくらいからスタートか?

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余3.
「曲がるレーザー」「先端の見えるレーザー」それぞれについておれが強い印象を抱いたのはいずれもGAINAX作品だ。

「トップをねらえ!」第5話において日高のり子が「ホーミングレーザー!」と叫ぶ。曲がるんかい、いや曲がっていいんだ、つうか曲げるんだよこのおれが曲げるんですアニメ舐めんなよこれはもう高らかな勝利宣言なんだよこのおれの最強に強まったひんまがるレーザーを見れー!みたいなイメージ。圧倒的なその威力は視聴者に有無を言わせない。
「不思議の海のナディア」の終盤あたりでニューノーチラス号が放ったレーザーが、バベルの光を追い越して先に反射衛星を撃ち抜き破壊する。そんな馬鹿な同じレーザー同士でスピード違うんかいそもそも先端見えるんですか、馬鹿だなそんなこともわからねえのかレーザーは気合が入ってるほうが速いんだよ先端だって見えるんだよっていうかてめえは確かに見たはずだぜこのおれが描いた最強に気合の乗りまくったレーザーのさきっぽをよ、説得力より納得力!呼ッ!みたいなイメージ。

でも「どっちもGAINAX作品」てのはなんとなく作為的なかんじがするので(おれはおれの記憶を操作しているのかもしれないという疑い)、このへんについてはもうちょっと真面目に記憶を漁ってみたほうがいいと思った。

7:00 2003/05/14

日々

自転車復活。

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最近おれの周囲で、(動作に問題のない程度の)故障のある自販機が修理されないまま使われ続けている状況をわりと多く感じるんだけど、これは国力の低下の顕在化と考えてもいいのかな。

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最近、特に気をつけるつもりがないのになんとなく気をつけてしまっていること。

普段から警戒しておかなければならないほど高確率な事故ではないとは思いつつも、そうした事故は油断が起こすものだとも思うので、ごく自然な警戒が働いてしまっているが、こうした末端での注意は根本的な解決にはならないと思うので、もうちょっと抜本的な対処が必要だろうけど、もともと警戒心の出所が刹那的な感情を司る部位からきているものであるためにあまり深く考察することができていない。
無意識にコンビニ弁当の包装を破ってて指先を切る、エレベータのドアがあいてもそこに床がなくて転落して死ぬ。

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HighMATっていう規格名を聞いて「あれー、なんかちょっと聞き覚えのある語感だなあ」と思ってちょっと調べてみたら、あった。Hi-MATだ。そうそう、笹本祐一「妖精作戦」だ。なつかしい。「磁気フェライト塗ったくってレーダーにも映らんとよ」とかいう台詞もついでに思い出した。これは誰の台詞だったっけか。沖田か南部かそのへんか。なつかしスパイラル発動中。
NHK-FMでラジオドラマとかにもなったんだよな。番組名がまだアドベンチャーロードの頃だったか、それとも青春アドベンチャーに変わったあとだったか覚えてないけど。真田役の声の出演のひとが槐柳二氏(おじいさん声のひと)になっててキャラ設定も全然変わってて、「おいおいそうなっちゃうの?」とか思ったけど、あれはあれで槐柳二氏といえば「仮面ライダーアマゾン」のモグラ獣人の声のひとであり偉大なのでまあいいかと当時思ったような覚えが。アドベンチャーロードではほかに菊池秀行「エイリアン・サマー」や清水義範「怪事件が多すぎる」とかもやってたよな。

というかみつけたページがそもそも妖精作戦ファンサイト内だったか。

5:54 2003/05/13

Event / 第15回CGアニメコンテスト入選作上映会

昨日。結局CGAコン入選作上映会行ったよ。
もうけっこう遅くなってから行ったので休憩時間から入った。

写真

行っといてよかったと言えた。一昨年応募してたイタリア人コンビがまた応募してたし、後半に上映された佳作・入賞作はかなり粒揃いの出来だったと思う。休憩時間も楽しかったし。

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途中からしか見てないので見たやつだけ簡単な感想を付記。

一番たのしかったのは休憩時間かな。

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余談になるけど、CGAコンテストはあれはあれで独特のテンションを持ちつつ流動しているコンテストだと思うので、そこで入選するために効果的な方向性っていうものがやはりあると思う。入選したひとのコメントなどでも、毎年の傾向を見ながら「そろそろこんなかんじのものがウケるかなと思って作ってみました」みたいなのとかがあって、あーやっぱし応募者のひとも一応分析とかしてんだなと思った。というか、そういうひとも居る中で「他人のことなんざ知ったこっちゃねえけどとりあえずおれの作りたいものができたので応募してみました」みたいなものがゴロンと混じるあたりがまたおもしろいわけだ。

あとなんかおれちょっと気になってるんだけど、CGAコンテストで評価されがちなストーリーて、妙に月刊アフタヌーンあたりに載ってそうな漫画のそれっぽいかんじがする(過去の入選作などを鑑賞する機会があったときなどにそういう作品にでくわすと、失礼ながら「あーまたアフタヌーン系ムービーか」とか思ってしまう)。単に短編とか中編のアマチュアムービー制作でストーリーを考えるような場合に適しているのがあの毛色のものというだけで、CGAコンテスト固有の特徴ってわけじゃないのかもしれないけど。
逆にそのへんを見込んで、DoGAとアフタヌーン編集部でタイアップ企画とかやったらけっこういいかんじのものができるんじゃないかなあと思うんだけどなっていうか。

4:35 2003/05/12

日々

んあー、DoGA CGAコンテストの上映会がそろそろはじまっとる頃合だな。

12:19 2003/05/11

ノ|\(←適当な字がみつからず挫折)

2D or not 2Dで紹介されていたJagu-Soundsにいって「TEMPEST 2000」の音源(めんどくさい場合はこれ(mod / 100KB)だけ落としておけばよい)をDLしてしあわせな気分になった。

それもあってPalm用でフリーのMODプレイヤてなかったっけなと現在探している。PEG-NX70V付属のAudio Playerがrmpもwmaも再生できないことはべつに気にならないけどMODを再生できないというのは明らかに不便だ。なんかないのかと波平会を見てみたら一応PALM TRACKERてのがあるらしいと書いてあったので調べてみたけどいまいちな印象(2000年9月30日付参照)。ていうかモノが古いしなあ。ほかにMuchy.comでも探してみたけど見当たらない。

MDXが聴けないのは「あーCLIEだしおしゃれマシンっぽく融通利きませんかねやっぱりっていうかパワー不足ですかね」みたいに諦めもつくけどMODすらだめというのはどうなんだ。このやり場のない正義の怒りどうすればいいんだ。やり場がないのはやり場を見出すことができないからであり、それは無知と蒙昧が原因なんだから、いまこそ拳をふりあげておれはおれの頭を殴るべきだが、殴っておれの頭がよくなるわけじゃないので、つまるところやり場もないのに怒ること自体論理的じゃないから、まずそれをやめるべきだとわかった。理性と感情のうち感情を優先させるべき場面は今じゃない。第一、無知と蒙昧はそれが多数だからこそ許容されるが間違っても正義とはいえない、憐れむべき善ではあるかもしれないが。

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まあそれはそれとしてせっかくT2kのMODが手に入ったんだからBullet Philharmonic Orchestraでギュンギュンいわしたろと思ってかけてみてなかなか満足したが、やはりちょっと不満足ではあった。弾幕避けによる脳汁あふれはあるものの、避けるだけではなくボタンか反応が生み出すリズムによって音楽に参加(干渉)できないとTEMPEST 2000やRezみたいなかんじのきもちよさには到達しないからだ。

一応おたまでも感覚を試せないかな(おたまの場合bmsから弾幕を生成する関係上リズムと弾幕の同期感がbpoより高めで、そのかわり弾幕自体のおもしろみが少なめになるので多少感想が変わるはず)と思ってT2kのbmsを検索してみたがヒットしなかった。んー、そんな馬鹿な?

7:48 2003/05/11

日々

NINJA FIVE-0、NORMALクリア。
あれーラスボス出てくるのが1ステージ早いんじゃないのと思ってたらFINAL STAGEは障害まみれの時間制限ミッション。ひーきびしー。

ひさしぶりにゲームやった気分になった。おもしろかった。
つぎは当然ハードなんだけど雑魚が硬くなっててきびしそうなんだよな。ジャンプ斬りなら一撃だけど立ち斬りだと2発。ちまちま進めるか。

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そういえば以前Tさんと「ネギま!」について話したとき、おれは生徒が31人なのは単純に片手(指5本)で2進数で数えられる最大の数(0がネギま本人として)ってことだろうと思ってたんだけど「1ヶ月だいたい30日か31日だからじゃないですか?」と言われてなるほどそういう考え方もあったかっていうかそっちが正解っぽいなと納得したことをメモし忘れていたので、今メモ。

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モニタから少女が飛び出てくる話の主人公のオタ男は金持ち説。
14、17インチ程度のモニタだと少女が頭とか肩とかつっかえて出てこれないはず。ある程度以上の大きさのモニタが必要。そういう漫画やアニメがあった当時に十分な大きさのモニタを用意できていたということは、主人公の彼らは相当金持ち。

確か小林少年だか怪人二十面相だかが「頭いっこ通り抜ける隙間さえあれば壷などにも出入りできる」と言ってたが、モニタから出てくる少女が彼らなみのヨガマスターとは限らないのだからある程度マージンを見込んだサイズのものを用意しておかなければ、いざというときになって「あー、ゴメンちょっと引っかかっちゃってどうにもならんわ、バイバイ」とかせっかくのチャンスを逸して歯噛みする羽目になる。

というような論法を駆使して貧乏オタに血の小便流してでも高品質なデカいモニタ買わせよう運動を展開すると多少の効果を見込めるのではないかという主張。あと国内メーカ製のモニタでなければ日本のアニメキャラは飛び出してきませんよなどと吹き込むなど(「よく知らないメーカの買うとせっかく出てきたヒロインが耳慣れないリージョン設定で喋りますよ」とか)。
もちろんのこと、少女がこっちに飛び出してくるためだけでなく「自分があっちに飛び込む」ためにも十分な大きさのモニタを買っておくことは必要。

4:30 2003/05/11

夜空にCM飛行船

ついさっき煙草吸いに出たらGOODYEARのCM飛行船(?)みたいなのが飛んでたよ。これか。

写真 写真 写真 写真

最近は飛行船なんて滅多にみかけないのでびっくりした。しかも夜間飛行だ。
地上から見上げてるぶんにはけっこうでかく感じたけど、夜だったし、距離もよくわかんないしで、飛行船としては中くらいのサイズなのかも(追記:全長39mらしい)。4枚目の写真で飛行船の手前にかかってるのは電線。

ゆっくりと池袋の駅付近上空を旋回したあと飛行船は板橋方面に去っていった。

東京上空巡回してるなら、各地で目撃情報とかありそうだ。

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追加。公式サイトで今日前後1日の飛行スケジュールを見たら、

とあるので、今夜は神幸祭に行く途中か帰りにでも池袋上空を通ったか寄ったかしたってことかな。

20:28 2003/05/10

ホタル族の雑談
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俺ニュースのゲノム情報の230MBくらいっていうものから想定できる、いわゆるところの「俺ニュゲノム解析プロジェクト」は人間のそれに対するものとは比較にならないほど小さい規模だろうけど、それにしたって個人でやるぶんには(それがtechle氏本人であったとしても)暗礁まちがいなしな巨大さだなあと思ったので、おれは俺ニュースのDNAを保存しないことにした。
ドライフラワーのような形骸として保存しておくことにだって意義はあると思うけど、結局そういうことをやらない。あれかなー石文明より木文明のひとなのかなーおれは。んー?

23:50 2003/05/09

日々

嗚呼、自転車が逝く…。
ペダルっていうのか、あのへんの、なんか漕ぐあたりの部分が丸ごと脱落した。
よく走った、おつかれさん。でも修理できたらあとしばらくがんばってもらう予定。

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キョキョせんせえ(6歳のひとらしい)による日記しんだひと、しにかけたひとはおもしろいんだけど、なにがおもしろいのかといえば「それが存在するために要するテンションの供給源がおれにはまったくわからないしそんなことどうでもいい」点で、つまり他人ということだ。他人ならおれに関係ないひとだからそのひとの考えることは単純におもしろいと判断することができる。そういう意味でこのページはおれにとって妖精現実 フェアリアルなどと同列にあたる。妖精現実も、各個の記事がおもしろいのにそれらが存在している理由や意味がさっぱりわからないサイトだ。そのさっぱりわからなさが素晴らしい。おもしろい、たのしめる、どうでもいい、この3つが揃えば一流だ。

あとキョキョせんせえの広島弁(?)を読んでいるとだんだんくらもちふさこ「天然コケッコー」を読み返したくなるので、読み返したい欲が喫水線に達する前に段ボールを掘り返して積んでおかなければならない。天コケの方言は広島弁+山口弁あたりの中間くらいかなあと思ってたんだけどあれはほぼ完全に広島弁だったと考えてもいいのかなあ。

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Symantecのページの広告画像のまんなかのおっさんの、ちょっと間抜けそうな顔がいい。

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映画「THE CORE」のポスターだが、あの割れてる地球の北極あたりの位置にアラレちゃんが居るような気がしてしかたがない。

地上最強の男・竜でもいい。

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このページにあった「一度でいいから見てみたい セガが天下を獲るところ 歌丸です」という文句に笑ったが、セガが天下なんか取ったらおれは死ぬと思った。セガは酸素みたいなもだから濃度が上がりすぎるのは危険だ。20%もあれば十分だ。おれの酸化も早まるし、草木も枯れた星になる。

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またひとり周囲にRD-X3を購入したひとが増えた。いや2人だ。うちひとりは旧くなったモデルからの買い替え。きちがいじみている。そんなにまでして便利な暮らしがほしいのか(欲しいから買うんだよなしかし)。というかおれの場合そもそもTV買ってもゲーム以外に使わないひとだから、どんなに高性能であろうと録画のための機械は要らないので、うらやましくないので、なんかあのへんの流行が遠いもののように見える。崖っぷちに背負った荷物を投げ捨てにいくひとたちの行列をながめる気分。

21:40 2003/05/09

よく寝た

グラップラー刃牙が少年から青年になるくらいよく寝た。起きて目を開けるとき「あーここでおれの周囲に蔦でも張ってりゃ完璧だね」と思いつつうすうすと目を開けてみたけど、さすがに蔦まではなかった。朝。最後に時計を見てから13時間ほど経過。12時間式だと自分が半日寝たのか一日寝たのかしばらくわからなくて社会的不安に襲われる(ひょっとすると今日おれはとんでもない遅刻をしたかもしれんなとか)。おれの部屋には窓がないので太陽がどこにあるかわからない。

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セガとサミーとナムコの情報が錯綜している。
この錯綜のすごいところは、どのレベルがどう錯綜しているのかがさっぱりわからないところ。どのレベルの誰がなにに振り回されてるのか、どのレベルの誰がなにを振り回しているのか、加害者のつもりで情報被害者なのか、被害者のつもりの情報加害者なのか。

おれの願望としては「ナムコと合併し、なぜか株の60%をビル・ゲイツ個人、30%をマイケル・ジャクソンが持ってる状態になる」ことかなあー。ひとの会社に何ぬかしてるかね。一応最近はゲームにもナショナリズムを意識する必要があるかみたいな論調もあるわけなので海外資本にガスガスあのへんの資産が買い叩かれるのは単純によいことじゃあない気もするけど。どひーそんなのありかよーみたいな。Pow!

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昨日俺ニュースで紹介されていた、映画「THE LEAGUE OF EXTRAORDINARY GENLTEMEN」のページを見ていて、予告ムービーに「TRAILER」のほかに「TEASER」てのがあったのでんー?と思った。DEMOに対するINTROみたいなもんかなあとなんとなく認識してるんだけど、正式な意味はなんだろう。
こういうのってどうせまともな英語辞書系のページでは解説されてないんだよねーたぶんと思いながら検索してみたら、あった。TEASERの解説

<ここから引用>

一般的に映画業界でいうteaser「ティーザー」とは、映画公開よりもかなり前の段階で発表される短い予告編のことで、わざと映画がどんなストーリーであるかをぼかし雰囲気だけ伝えて観たくなるような気にさせるようなものを指します

<引用ここまで>
8:09 2003/05/09 採録

あー。雰囲気ムービーっていうかんじなのね。

あとTRAILERは映画だとふつうに予告編っていう印象だけどTV業界(の一部?)では違う意味(ページ末尾あたり)になってるらしい。

<ここから引用>

trailer  あとについて行くものという意味。放送用語としては、テープやフィルム本編の後に繋がれた映像や、黒味・白味のことをいいます。

<引用ここまで>
8:12 2003/05/09 採録

んー、予告編っていう印象があるから映画の観客としては「先に来るもの」っていう印象があったけど、放送業界的には逆なのか?よくわからんな、というか映画における「TRAILER」の意味が調べられなかったので対比できない。実は映画業界的にも「後で編集するもの」って意味でTRAILERなのかもしれないし…。もうちょっと調査してみよう。

8:15 2003/05/09

○○がアニメ化

オタ系のニュースページを巡回しているとたまに「○○がアニメ化」っていうニュースを見かけるけど、そういう情報は現在ニュース性のある情報としてあのへんのニュースをやってるひとに取り扱われているんだろうか?(まあアニメ専門のニュースならそういうことを取り上げないとおかしいけどそういうものでなければ)おれはないと思っている。儀礼的というか、儀式の報告みたいなものとして読み流している。昔にそういう「作品が大きく展開していきます」的な文法があって「○○がアニメ化」はその象徴的な文句なので今でもそれが継承されてるだけなんじゃないだろうか。本日のニュースの項目いっこゲットーみたいなかんじで。
そんなおれの気分と関係なく実は世間にまだ「○○がアニメ化」にニュース性があるなら、おれは世間からかなりズレていることになる。いかんなあ。

○○がアニメ化される、その事実に対する期待値が限りなく0に近い、というかプラスでもマイナスでもゼロでもなく、計測しようにもまず数値が出ない。あー。そー。というかんじで流してしまう。べつにそういうことでおれがワクワクしないとかドキドキしないならもうおれはオタじゃいよとかそういうのではなくて、単にあの文句が持ってる摩擦係数が限りなくゼロに近くなっちゃったので心にひっかからないというかんじ。そういうことなんじゃないかなと思う。
でもやっぱ作品に携わってる当事者のひとなどからすれば、いまどきでも自分の作品がアニメ化されるっていうのはけっこうドキドキしちゃうものなのかなあ。おれは、当事者もドキドキしてないんじゃないかなと思うんだけど。へんなたとえになるけど仮にこのおれの日記がアニメ化されることになったとしても、おれはたぶんドキドキしないよ。10年前ならドキドキしたかもしれないけど、今はその10年後だから。

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あーでもあれかな、「○○がアニメ化」ていうのは、「後付けでやる「全米No.1」」みたいな効果としてあるのかな現在。映画は前に箔付けとかないとしょうもないけど、漫画とか小説とかゲームとかなら後まで引っ張っていいし。映画でもDVD化とか考えれば後付けの全米No.1みたいなのもアリなのかもしれないっていうか、実際もうありそう。
映画のあのへんのセンスがいつまでも変わらないのは、それは伝統とかじゃなくてたぶん慣習と惰性のブレンドからだろうと思っているけど、それでもまあそのことによって出る影響は(よくもわるくも)あることだし。全米No.1て、だったらどうしたこの野郎みたいな気分を持ってない観客はほとんど居ないと思うけど、それでも「必ずあって当然スルーするヘッダ」みたいなかんじで、すでに「客に与える安心感として必要」みたいな気分(強迫感)が関係者の間にはあるのかもとか。

どっちみち末端の関係者のひとなどで「○○がアニメ化するので、騒げ」と言われるひとって辛そうだなあと思う。それ自体まだおもしろくもつまんなくもなってないふつうの話でしかないものを大声でしろって言われたらそりゃやだよみたいな。いや、そういう商売をやっているっていう自覚があるなら、辛いとか辛くないとかじゃなくてそういうものとして認識するのかもしれないか。

8:32 2003/05/09

日々

部屋の中は寝て起きたら汗まみれになる季節に突入。外はまだ涼しい。

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NINJA FIVE-0、3面クリアしたら4面(CAVE)出現。まったく予想してなかったわけではないがやはりこういう演出はうれしい。5面もあるか?

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ウェブログに見る日米個人サイトコミュニティ事情という記事を見てなるほどと思ったが、

<ここから引用>

多くの個人ニュースサイトが、トップページをヘッダ、サイドバー、メインコンテンツエリアの3つのエリアに分けるという、標準的なウェブログとほぼ同じインターフェースデザインを採用していたことは特筆すべき事柄かもしれない。

ブロードバンドの普及で日米両国の回線状況が似通ってきたこと、海外発のニュースサイトの洗練されたデザインに両者が影響を受けたこと、同種のサイト同士が互いを情報源として活用したためにコミュニティが発展し、相互に影響を与えあいながらより使いやすいインタフェースが模索されていったこと、といった共通の要素が、必然的に両者のスタイルを近づけたのだろう。

<引用ここまで>
4:47 2003/05/08 採録

この部分だけは「んー?」と思った。
おれは、ヘッダとサイドバーに機能を集めてーというのは、使ってるブラウザがIEだろうとNNだろうとOPERAだろうとそれ以外だろうとどれも一様に、

画像

こんなかんじに流し込まれる仕様だから、そのうえで出せる機能の必然との印象があった。強いていうなら、ヘッダ&サイドバー&メインコンテンツというデザインは、大抵のブラウザのデフォルトデザインとよく似ている気が。

4:55 2003/05/08

ハンマーの届く距離

この話題に関して、なんかコメントを書き込んでみようかと考えてはみたものの、妄想エンジンが無駄に空転して、よりしろがとかシンボルがとかセレモニーがとか脳汁があふれたので書くために考えるのをやめた。ようするに情報としての人格と物質としての人格がどこで触れ合うかみたいなはなしに脳が飛んで、トイレでうんこしたらうんこの代わりにへんな色の魚が出て(淡水魚だったと思う)、それを見て驚くでもなく水に流すおれの像などが浮かんだりした。

たぶんこのへんのうまそうなあたりを適当につまんで感動とか奇跡とかちりばめて無駄にこむずかしい系大好きっ子な年頃(「最終兵器彼女」課程の単位を全部取って「ほしのこえ」をつまみ食いとかしてるあたりのひとなど)をターゲットにエロゲーつくったらそこそこ掴めるんじゃねーかなとか適当に失礼なことを想像して、今に至る。いや商業じゃ無理だな(作りがオナニーすぎる)。同人で出してチョイ受けして儲けそれなりで話題だけ残る、これだ。

それにつけてもCD-ROMドライブとかにちんこ突っ込んでみせる絵を描いた唐沢なをき氏(とり・みき氏もだったっけ)などは偉かったなと思った。描いてる側としてはまったく感触違ったんだろうけど。

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以下思い出せる範囲で思いついたことを適当につなげてメモ。
つないでみたけどもともとつながってなかったはずなので、つなげて考えたらおかしいような気がする。

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対人親交関係に「スープの冷めない距離」っていう空間(距離)的な比喩があるけどそれに近い感覚で、自分と自分の管理する情報について「その気になればいつでもそのデータが入ってるHDDをハンマーで叩き壊せる距離」っていう感覚を充たしておきたいというのがたぶん本音としてある。
その器(具体的にはPCの中にあるHDD)は自分の家にあるのが最上だが、ギリギリまで妥協するなら「どこそこのデータセンタに行ってそこにあるサーバからHDDひっこぬいてハンマーで叩き割ればOK」みたいな感覚までなら大丈夫かもしれない。その場合移動のための時間とか交通費とか単純な肉体疲労とか、いろいろコストがかかるので面倒だし、第一実際やったら犯罪だけど、それで問題ない。単にそういう可能性を確保しておけばいいというだけの話で、実際にやる必要はないからだ。むしろ(あたりまえだが)ほんとに実行するのはあまり好ましいこととはいえない。

また仮に実際に叩き壊すとしても、やる気まんまんではやるようなことでもない。やる気でやるようなことというのは、やる気がなければやらないようなものということで、おれとおれの管理する情報はそういう遠い関係上にあるものではないはずなので、そういうシチュエーション(やる気が出なければ繋がらないような関係上の事件)とは無縁だ。「ふと」「なんとなく」それは行われるべきだ。

とにかく器が空間的に存在していることが重要で、それさえあればおれが納得し安心する(可能性を抱いて死ぬ)ことは可能ということだ。問題になるのは「ターゲットと特定したものが遍在していた場合」と「ターゲットと特定したものがハンマーで叩くことも壊すこともできないものだった場合」で、しかし実際のところ情報それ自体というのは、そのどちらでもある。

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こうした感覚はおれの情報に対するありかたのうちの必ずしも明るいとはいえない面にあるもので、具体的には不安や苛立ち、怖れからくるものだ。生死でいうと「死」であり、産む殺すでいうなら「殺」に対する感じ方というか、「それをどう感じることで(自分の中で)処理したいか」という方法論に対する希望だからだ。おれは生や産に対する感性だけでものごとと接することにリアリティを感じないので、なにかと関係を持つとき当然それによって死ぬ可能性やそれを殺す可能性も考慮する。情報に関しても同様であり、そして情報は厄介で手ごわい存在(?)だから、怖れや不安と折り合わせる必要がある。
そうでなければ、楽しくない。

おれが安心するために実際に情報を殺せる可能性を確保する必要は、ない。そんなことまではできなくていい。単におれが発する情報に対して安心するというその条件を充たせばいいわけで、代償行為とか儀式とかそういうもので十分だ。それがつまり「ハンマーでHDDを叩き壊す」にあたる。HDDは当然情報自体ではない。単にその器になっているもので、HDDを叩き壊したからといって情報を葬り去ったことにはならない(強いてたとえるなら「ドアを閉じる」行為に近いだろう)。そんなことはわかっているが、それで十分と感じることができるなら、それでいい。

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ハンマーでは情報それ自体を叩くことも壊すこともできない。理屈は単純で、ハンマーが存在する次元と情報が存在する次元が違うからだ。真にハンマーで情報を殴りたいなら、まずハンマーを情報化する必要がある。

情報化したハンマーでなら情報自体を叩き壊すことはできるだろう。でもそれはだめだ。なぜなら、そもそもなぜハンマーで情報の「こちら側」の器(HDD)を破壊することに意味があるかといえば、それが「こちら側」で起きる事件だからなのであって、そういう事件を「あちら側」で起こしたからといっておれはそのことに関係することができない。あちら側の武器であちら側のものが壊れるのはあたりまえで、意味がない、おれが居るのはこちら側だからなんだから、おれが安心したり納得するためには、おれ自身が行動するしかないし、おれが行動したり関係したりするものというのはつまり、すべてこちら側にあるからだ。
第一そんなことにでもなれば戦争だ。おれは戦争がしたいわけじゃなく、単に安心したいだけだ。

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いや違うな、そもそも情報は情報によっても死なないだろう。そういう変化をするようなものではないという意味だ。物理や生物の法則ではない。それにありうる最も近い状態は消滅かもしれない(噂や反論などの攻撃でもとあった情報を変質させることは可能だが、それは総体として熱を増加させるだけで的確な攻撃とはいえないと思う)。
また、死なないものは同時に生まれず産まれないはずだ。生は死と対になるから、片方の解釈だけが通用するなどということはないはずだ。生に近く情報に対して最も近い概念があるとすれば、なんだろう?発生か?いきなり出てきていきなり消える?変化の過程が存在しない?おおいにありうる、それなら自然に感じる。
情報生命は、想像できる。そういうものならおれは既に無数に見ている。
実体の存在しない全員のことだ。

5:06 2003/05/08

日々

NINJA FIVE-0、HARDの3面まで進んだ。
2面ボス戦(ちょっと「海腹川背」を連想する)で水死すると、死後屍がプカーと浮いてくる。ああ、完全だ。

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ほんと唐突に、くら☆りっさ氏主催の同人サークルぷーるぐえとわすの軌跡について調べてみたくなり、ひとしきり検索結果のページを漁ったが、いまひとつ欲しい情報がなかった。
ネットだけでやってるぶんに情報に不自由する状況は原理的に起こりえないが、やはり現実に迫ろうとするときweb上にない情報はあまりに多い(「事実がない」ものは単に「存在しないもの」だから、そのことに不満足感を覚えたり「存在しないこと」自体を追求する発想は起きない(あるとすれば可能性の追求で、事実の追求ではない)。それが起きるのは「それは(ネットにはないかもしれないが実際には)あるはずだ」という現実への認識と照らし合わせるからだ)。

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いちおうメモ。
ボーイズラブ、BLの漫画を男性向けに描くという状況を想定するとき、そこでは(非闘牌系の)麻雀漫画的なやりかたが強く活用できるはずという仮説を一端立ててみた。一定の明示的なルール下における駆け引きの中に公然と(厚顔にも)論理的に証明しようのない不可解で巨大な強制力(「流れ」の概念など)を描いてみせ、そして肉弾のアクションでなく表情と視線と台詞と二の腕から先の演技のみで過剰なハッタリをかまして紙面の大半を幻惑的に支配する、あれだ。いくつかのパーツをBLのそれに置き換えて多少のチューニングを施せばそれなりに効率のいい男性向けBLエンジンのできあがり、という気がしなくもない。

問題のひとつめは、麻雀漫画のそういった手法が女性読者に対して通用している現場をおれはまだ見たことがなく(不成立している現場なら何度も見た)、たぶん男向けにしか通用してないんじゃないかなあと思っているので、「男性向けBL」という微妙な位置でしか使えそうもないかなということ。問題のふたつめは、単なる思いつきなので、なんか根本的な抜けなどがあってそもそも成立しない話なものなのかもしれないことだ。

23:31 2003/05/06

15年だよ、15年。

先日(2:11 2003/04/30)、文系男に理系女がバタバタ惚れるがどうしたみたいな日記を書いたあと、加野瀬さんから「複数の女の子からモテモテ、でも主人公は受動的という作品は「ああっ女神さまっ」が最初な気がします(参考)」との指摘をいただいて、あーそういえばそうだったーなんで忘れていたんだろとか思って当該のページを見てみたらああ女神さまって今年で連載15周年なのな。すごいびっくりした。

連載時に読み始めたオタが子供つくってもうそろそろその子が中学校に入るっていうような頃合だ。父オタがウルド転向スクルド派で息子オタがベルダンディー一筋でとか、家庭内宗教戦争とか起きたりとかしてな。あんまりありえなくもない想像だ。
おれは藤島康介氏についてあまり漫画家として強い印象をもったことはないけど、内容云々でなくその実績に対しては敬意を持つべきなのかもしれないなと思った。

で、さっきふと月刊アフタヌーンの2003年1月号をパラパラながめていたら、ツボに入った台詞があった。

写真

「ばかね あんた何年ベルダンディーと付き合ってるの」「え?」

15年だよ、15年。なまなかじゃねえよ。25で結婚すれば40までだ。食卓で「ん」って言ったら「ん」って七味唐辛子が出てくるとか、寝転がってTV見ながらブーておならしてるの見ても何も感じないとか、なんかそういう通過儀礼はひととおりやり終えてるかんじだ。クレしんのヒロシとみさえより長いよ。サザエさんとマスオさんより長いだろたぶん。15年。長いよな。その先を見ればまだまだみじかいとは、いえもするんだろうけど。
すくなくともオタ読者に課していい時間じゃないと思った。
オタが感じることのできる「ヒロインと共にあった時間」というのはまず一週間、一週間の次は一ヶ月、次は三ヶ月、ギリギリ最長で三年、そこから先の認識力はほとんどゼロになって、そしていきなり千年単位に飛ぶと思う。そういう意味で15年は半端で、そして圧倒的に長く、そのリアリティをオタの感性が捉えることは多分できない。

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対オタ漫画一本を15年も続けるなんて尋常なことじゃあない。というか、そういえば月刊アフタヌーンにはほかにも園田健一氏やあさりよしとお氏などの、オタ市場向けに20年以上現役を張り続けている妖怪みたいなひとたち(失礼)が居るのだなあといまさらながら気付いた。
地表はウラナリみたいなヒョロヒョロしたオタの群れで覆われたが、しかし強く確かに数少ない純血種は棲んでいる。このおれは萌え尽きることのない情念のエンジンを持って生まれ育ってきたのだぞヘナチョコ野郎共みたいな。強いオーラを感じる。いやそうではなくて、それ以下の世代にとってオーラのようにしか感じ取れないものを、あのへんのひとは「空気」としてふつうに吸って吐いて生きているんだろう。

21:32 2003/05/06

虚と実、ネットの浮き草とハードディスクの肥やし

いうまでもなくこれはおれの日記なんだけど、そのへんのことについてちょっとほったらかしている面倒くさい部分っていうものがあるということを、おれは少なくともこの形式で日記を再開する時点でわかっていたが、現在に至るまでほったらかし続けている。

おれは日記を書いている。が、おれが書いた日記はしかし、現状おれが書いた日記というだけの意味になっていない。このページが、おれの日記というだけではなくおれのサイトという意味も持っているからだ。これは矛盾で、曖昧な部分だ。しかしそのことをおれは明確化していない。めんどくさいから。

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たとえばaboutの存在がある。このページについて。
こんなもの、このサイトが単におれの日記という意味しか持っていないなら必要ない。自分に対して自分自身のことを説明するなど馬鹿げている。記憶喪失になったとき用にこのサイトを作ったのならそれは必要かもしれないが、このサイトはそういう事態までは想定していない。
邪魔だ、消すか。いや消すわけにはいかないだろう、なぜならこのサイトはネットに公開しているサイトなんだから、見ず知らずの他人も見る可能性がある。見ず知らずの他人は当然おれじゃないから、いうまでもなくこのサイトについて全く予備知識を持っていない。そういう人間に対してなら自己紹介はあってもいいはずだ。いきなりわけのわからんものを見せられた読者には当然説明を読む権利がある。一個人サイトの管理者として最低限それだけは保証すべきだ。だから、about.htmlは置いておく。

しかしこの時点ですでに半端だ。このサイトのaboutは「このサイト」自身の自己紹介を一応やっているが、「おれ」自身の自己紹介はしていない。片手落ちだ。どうせaboutを作るならそこでおれはおれ自身を紹介すべきだ。しかしそれは、できない。
外向けに一通りの体裁を取り繕う必要があることは認める、しかし基本はおれの日記なんだからおれ自身について書くのはおかしい、それは許可できない、それを許可したらおれはこのサイトで単に日記を書くという行為ができなくなる(←前提として「他人への意識」を認めることになるから)。という考えが根っこにあるために、おれはこのサイト内でおれ自身を紹介しない。
第一おれ自身に関しては日記の大半以上を費やして説明されているはずなので、それ以上詳細な説明などできない(←いやこれは明らかに屁理屈というものだ、aboutに「おれについて」の項が無いことの説明にはなっていない)。

このサイトは他人にも向けたものでなければならない(←インターネット上で公開しているから)が、しかしこのサイトが存在する理由は「日記を書く」という行為を日常に織り込んでいくためのひとつの様式を(内的・外的に(←それは視点の違う同じ意味と思う))確保するためなのだから、その意味を曲げるようなことはしない、できない、という中途半端な判断がそこにある。
逆にいえば、一応その程度までの他人への意識であれば、おれはまだそういうabout.htmlのあるサイト上でも「自分の日記」を書くことができるだろうという判断だ。

一事が万事なので、本質の先にこそ枝葉はあるのであり、火があるところにこそ煙を立てるべきで、散漫に余分な力を入れてしまうような状態は功夫が足りないのだ。

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一応段階は踏んでいる。
「自分以外を意識しない日記」はすでに2年ほど書いて、その書き方はわかった。現在は「あくまで自分のためのものだが他人に見られても構わない程度には整理した日記」を試行しいている状態で、about.htmlなどはその影響上にある。結局誰のためかと言われれば自分のため以外の何物でもないがそうはいいつつ他人を意識していないわけではない、むつかしいところだが、「それ(他人)が居ること自体は承知しつつ、その意識はあくまで可能性に留める」あたりだ。そういう意味で実際には読者が自分一人だった場合などでも対応は変わらない。他人に読まれても困らないようにするということであって、他人に読まれなければならないわけではない。
なにも考えずに日記を書くということは、自分のあたまの中身をそのまま言語化する試みなわけだから、他人にみられたら人間関係をぶっこわしかねなかったり、社会的制裁を喰らっても文句をいえないような内容だったりするような場合も当然出てくるが、それはナシの方向で一応留めようといういわば歯止めでもあり、またこういう意識は副次的に未来のおれ(対象読者)に対する過去のおれ(当事者)と現在のおれ(記述者)の立場も明確化するため、「おれがなに言ってんのか後で読んでも最低限理解できるように書く」という基準を意識しやすくもする。

こういった段階の先には「自分も見るが他人に見てもらうための日記(文章)を書く」という選択も想定できるかもしれないが、それは旨みが目減りするうえに価値基準を曖昧にするので危険な選択だ(他人は要素として不確定なうえに、都合良く解釈できてもしまうため、仮に自分が正常な判断をできなくなっしまった場合それに気付くまでに時間がかかる)。

すくなくともwebでうだうだやってるぶんには、たぶん現在の段階の習熟にじっくり時間をかけるのが正解だと思う。リスクがなく、旨みは自分で(未来の自分に)供給。趣味の日記は長続きする。

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最近もうひとつ意識したことがある。おれが、いはゆる「おれのサイトの実体」をどこにあると認識しているのかという点についてだ。

おれのサイトは、おれにとってどこにあるのか?
http://doodle.tripod.co.jp/ か?ちがう。おれのサイトの実体はおれのPCのHDDの中に置いてある。おれのHDDの中のサイト管理用フォルダの総容量は実際にTripodに置いてあるファイルの総容量より多く、最新だ(ローカルで更新したり修正したりしてからアップロードするんだし、実際にはアップロードしないデータだってあるんだから当然だ)。現在の方式で運営する限りその逆の状況にはなりえない。TripodのサーバにあるDoodleは実体から生じる影だ。影は実体の輪郭を正確に反映するので日記としてもサイトとしてもそれで十分だが、やはり影でしかない。
自分のPCの中に実体があるならおれはその生死に責任を負えるが、無料レンタルのスペースに置いたデータが消されてもそんなのどうしようもないんだから、どちらを実体として捉えるかは自明だ。「結局誰のための日記(サイト)か」という意識とも合致する。

(余談になるが、結局のところ「どっちも大して長い期間残っちゃいない」という意識はある。普通、日記の賞味期限は6,7年くらいじゃないかなと思っているが(それ以上昔の日記はもうさすがに痛すぎて食えないだろう。逆に10年過ぎればこくまろの旨味が出てくるものかもしれないが)、おれはたぶんそんな長い時間ひとつのデータを保存しておけないんじゃないかなと。おれはGoogleもWebarchiveも信用するが、完全とも永遠とも思ってないし、ましておれ自身のデータ保全能力など全く信用していない)。

おれがこのサイトについて掲示板は不要と判断したのには、多分このへんの意識が大きい。
当初はまだ曖昧だったので「一応メールアドレス書いときゃ十分と思うけど掲示板もあって困るもんじゃないし借りとくか」とかいうぬるい保留をしていたんだけど、Doodleに移行した頃にはだいたい勘も掴めてきたので「メールで十分、掲示板不要」と判断できるようになった。というだけでなく、「掲示板の本体の在り処はサーバであってPCのHDDではない(掲示板はサーバにあるものが最新で、HDDに記録するとしてもそれはバックアップにしかならないから)」という点にひっかかりがあって、特に要らないものなら統一感のない掲示板という存在を積極的に省こうという意識があったんだろう。

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おれが現在やっているこの日記は、もうほとんど完全以上の形でBLOGツール上でも行えるようになっているのにも関らずそういう方向への移行を検討しないのも同様の理由だ。BLOGは、なにをどう考えてもweb上に存在しているかたち(または情報自体)が実体で、自分のPCのHDD上には実体として存在しえない。というかそういう様式を提供するためのツールなわけだからそれで問題なく、ゆえにおれのやりたいことと交じり合う点がない。
BLOGはやはり「BLOGをやる」ためのツールであって、おれは自分の中での「日記」ということばの意識をBLOGと重ね合わせることが、まだできていないんだなと思った。

しかしまあそのへんの問題はすでに技術的には解決されており、手法的にも解決策はいくらでもあるわけで、金と手間と機材次第でどうにでもなる現状で、あとは心理的な部分を時間が解決していけば勝手に移行は進むんだろうなとも思うんだよな。どんなに耳障りのいい声で囁かれても重い腰を上げないのがボンクラだが、さすがに下から底上げされればノタノタ動きだすし。
結局のところ、ちまちまHDDの中で肥やしを作るか、ネットでへろへろ浮き草を栽培するかとか、その程度の意識の違いっていうか。いやそれは勘のずれた喩えかな。農耕と狩猟くらいは違うのかもしれんな。どうなんだ。わからん、というか、移行してえなと思ったことがないので、まだ考えたことがない。

9:34 2003/05/06

日々

んあー、ボンクラ規範にのっとり二度寝、三度寝、四度寝とやっていたらこんな時間に。あー起きてたら自アン+OFFにでもいてみるかーと思ってたけど寝過ごしたな。なんか去年もそのパターンだったような気がする。
GWは仕事と睡眠で終わってしまった。いやまだ終わってない。いまから朝までがある。

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ノートパソコンもって一人でドライブに行って、誰も居ない山の上でひなたぼっこしながらネットやったりチャットやったり日記(blog)更新したりもってきたエロDVDを再生して青空オナニーをするっていう、ボンクラ田舎パソコン&ネットライフの話を聞いて「あーそういうのもアホアホPC野郎の見事なひとつのかたちだね」とひとしきり感心。ソフトもハードもインフラも自分なりに最適化してこそスタイルと言えるわけだしな。

あんまり関係ないけどイギリスじゃ野外セックスが人気っていうし、野外オナニーてのもおもしろいのかもしれないな。日本て人口密度高いからイギリスよりは機会的にむずかしそうだけど。

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ARTIFACTがリニューアルしており、いいかんじだった。おれとしてはOPERAでもふつうに閲覧可能になったのが大きいかも(以前はリンク部分にマウスカーソルを置くとガキャガキャとレイアウトが崩れてたいへんなことになったりしていたので、ARTIFACTを見るときにはユーザCSSモードにしていた)。

23:18 2003/05/05

GBA / NINJA FIVE-0 / HUDSON

EASYクリア。ラスボスに逃げられたのでNORMALにつづく。お、おもしろいぞ。
ラスボスはラスボスのくせして機長を人質に取ってるので正面から斬り込んだら2発で機長がギャーとか死んでゲームオーバーです!こういうときはダッシュ前転→ジャンプ手裏剣です(たぶん)!ていうかブルブルふるえまくりの機長のドット絵がすこぶる良い。このゲーム開発したひと絶対いいひとだよ!

で、クリアしてスタッフクレジットが出たら販売KONAMIだけど開発はHUDSONなんすな。ほう。

7:45 2003/05/05

日々

先日GBA「NINJA FIVE-0」を買ったがこれがなかなかのナイスゲームだったので満足している。
KONAMIのゲームなのだが、KONAMIで忍者といえばティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ(TMNT)のイメージが強いのだが、ていうかおれが「いやこのKONAMIのGBA向け忍者ゲーがですな」とか言ってると「亀の?」とか平然と聞き返されたりして閉口したが、出来がいいのだこれは。

写真

操作系に若干の疑問が残るものの(というかワイヤーアクションの上下操作が「海腹川背」と逆なのが気になる)おおむねきもちよくスイスイ飛んで跳ねて斬り殺せる。当初エレベーターアクションっぽいスーパー忍のパチもん程度かなあと思ってたら悪魔城ドラキュラのノウハウでメガドラ向けにオリジナル忍者ゲー作りましたみたいな感触でこれがなかなか。
ストーリーや設定なども疑いなく清く正しい忍者アクションゲーであり、

などの基本をきっちり押さえている。
まだ最後まで進めてないのでなんともいえないが、あとは対地攻撃ヘリと戦闘するシーンさえあれば120点満点中100点をあげてもいいくらいしっかりしている(あと20点を加点するためには「NO SHURIKEN BONUS」が存在しなければならなかった)。KONAMIにもまだまだ人材が居るじゃありませんかというか、なんでKONAMIはこれを日本で発売しませんか?

というかKONAMIアクションの牙城だった悪魔城ドラキュラが本丸ごと砂糖漬けみたいな物悲しい(「簡単なメトロイド」みたいな)状態になってしまっている現在、まるで隔離されたように良心が光っているこのゲームはちょっともう現在の国内の水には確かに合わないのかもしれないなあ。

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夜半も過ぎてからお疲れ飲み会。

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全然知らなかったんだけど「ガンパレードマーチ」のスタッフの中にSF作家の梶尾真治氏の娘さん夫婦が居たらしいと聞いて、ああそういや舞台が熊本だしなあと思って調べてみたらけっこうソースがあった。わりと有名な話なのか。

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そろそろふとんを押入れに仕舞わないと暑くて暑くて暑くて死ぬ季節に入るな。
東京の夏はふつうにはじまりふつうに終わるが、おれの部屋の夏は前後最低1.5ヶ月ほどは長く見積もらないといけない。

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俺ニュースが終了するというのでせかいのまんなかを見にいったら47件のリンク(さっき見たら52件に増えてた)。さすがにすごいな。せかいのまんなかでネットのサイトがああしたこうした系の話題ですごい数になった例といえば教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史ヽ(´ー`)人(´ー`)ノ公開とかだろうか。あれとは事件の質が違うけど、実際にそれが起こす影響は俺ニュース終了のほうが大きいんだろうなと思うし(どの方面にどういうふうに影響するかは考えてみる必要があるし、それを考えることは結構悪趣味におもしろい遊戯だろう)。

ていうかおれはどうするかな。俺ニュースのないインターネットはわりと読みづらく退行してしまうかんじがして億劫になるよな(それはたぶん幻想だが、情報社会では幻想は重要な現実のひとつだ)。いずれ慣れるにしてもしばらく個人ニュースサイトを見る頻度は極端に落ちることになると思う。難民をやるほどには、さしあたりネットに上がっている情報に対する飢えや情熱を感じることがないし。

俺ニュースにはニュースを見に行っていたんじゃなくてニュースのかたまりが作る模様のようなものを眺めにいっていたと思うので(誰かが言ってた「情報DJ」っていうのは、おれとしてはあんまりビシっと決まるかんじの言葉じゃないなあと思っているのであまり使いたくないが、的確だと思う)、同じくらいの精度とスピードと傾向で同じようなニュースを集めたサイトがあってもそれを魅力と感じるためにはおれはそのサイトを俺ニュースに対して費やしたのと同じくらいの時間眺める必要があるはずで、そういう時間を投資したサイトは現時点でほかにないから、空虚な感じを受けているだけの話なんだけど、同時にそれは清清しくもあるわけだ。切り捨てていった結果だから当たり前だ。

4:26 2003/05/05

Movie / X-MEN2

みてきた。おもしろかった。

写真

単純に楽しめる映像カタログ的な代物だったと思うのだが話としての食い応えはなんだか一応ありそうでいて全然なさそうっていうか、そのへんの感触は1とまったくいっしょ。まあ先日見た「デアデビル」と比較するならはっきりと見ごたえのある映画だったとは言える(かかってる金、どれくらい違うんだろう…)。

デアデビルは、もう単につまらなすぎたんだよな。ほかのいかなる理由もなく。デアデビルは制作規模においてX-MEN2にそもそも勝てるわけないんだから、スクリプト面で頑張るべきだったんだなあとはっきりわかった。いやデアデビルはどうでもいいんだ実際。X-MEN2だ。といってもX-MEN2にしても1週間もあればきれいさっぱり内容忘れそうな映画ではあったので、いまのうちにメモ。

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例によって重大なネタバレを含んでる場合があります。適宜CSSで隠蔽していますが、お使いのブラウザでCSSを適用していない場合や、アンテナ等でぶっこ抜いてる場合にはそのまま表示される可能性があります。この部分→「(この文が普通に表示されていたら注意)」が普通に表示されており、かつ映画の内容を知りたくないひとは読まないほうがしあわせです。

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余談になるが、どうやらこの映画はシーンごとにCGを別の制作会社が担当しているようだ(この映画のスタッフクレジットの表記の仕方はその点で特徴的だった)。別個様々の会社のスタッフを連合軍的によせ集めてもきちんとほぼ均質のクオリティの画面として最終的にまとめあげるっていうことが、(仮にお祭り騒ぎであったにせよ)この映画ではできてるっていうことなんだろう。

それをコーディネートした人間もまあ凄いんだろうけど、どちらかといえば「そういう均質さを理解して仕事ができているこれだけの人数(スタジオ数)」っていうのが衝撃的だ。もうすごい勢いでカプセル化っていうかカタログ化っていうかなんていうか、ザクザク割り切りまくって仕事してんだろうな。システムの均質化された(または段差を自然に吸収できるシステムのある)現場で、アイディアにせよ実制作にせよ馬力も瞬発力も桁違いの連中がゴロゴロ居てHAHAHAとか笑いながらラフ絵描いてへんなインターフェースでツール動かしてピザ食ってオレンジジュース飲んでるっていう。

こういうふうなすごさを見せつけられるとハリウッドに勝てるシステムは100年たってもハリウッド自身しかないんじゃないかとも思える。が、それは視野狭窄というもので、要するに「あのシステムでは絶対できないこと(=あのシステムが切り捨てていった可能性や、あのシステムがまだ発想できていないノウハウ)で凄いものを作れば少なくともハリウッドにだけは絶対勝てる」とも言えるわけだ。

であれば仮に「ハリウッドの作品が一番すごい」と視聴者側全員が思い込んでしまったとしてもまったく困らない。「ハリウッドのやり方が一番すごい」と制作者側全員が思い込んでしまうことがやばいので、それを警戒しなければならないが、もちろんそんなこと警戒するまでもなくありえないだろう。

6:50 2003/05/04

技術士官「服なんて飾りです。モテる人にはそれがわからんのです」
ハートマン軍曹「(前略)平等に価値がないッ!!」

ああこりゃGW最後の三連休だが全部仕事でつぶれるなあと思ってたけど頑張ったらどうにかなってニ連休は確保することができそうだ。ていうかそれはふつうの土日ってことか。ていうか起きたらもう一日おわってるし。秋葉いったり映画見たりしないと。

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物語において言葉はそれを語るために存在してはならない。人物の行動を保証するためにこそ語られなければならない。日記においてはその逆だ。と、一応思っているが、物語はわずかに日記を含む場合があり日記はかすかな物語を含む場合があるわけだからそれらを教科書的に区別できる状況は実はあんまりないはず。

17:13 2003/05/03

modulations

また睡眠時間調整に失敗、日焼けして伸びきったゴムのように惰眠をむさぼってしまった。睡眠なんていうものは完璧な惰眠に近ければ近いほどいいと思うので、いい眠りではあったんだけど、そうそう何度もいい具合に寝ていてもらっては困る。

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GC「WAVERACE bluestorm」を軽くプレイ。N64版と比べてやる気が増えてしなやかさが減ったような気がするが気のせいかもしれない。とりあえずまだ機械が重たく感じられ、波も硬く自由に動けない。いずれ機械を手足のように操り波間をチーズのように切り分けられるようになれるといい。そういう余地はたぶんある。

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WTM蒐集状況更新。

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Radium Software Developmentの030427付の日記、ペアプログラミングの解説上に出てきたTruck Numberっていう用語がおもしろかった。

<ここから引用>
件の本に登場してきた用語に「トラックナンバー」 (Truck Number) というものが存在する。これは,チームの構成人員のうち何人が「トラックに轢かれたら」(チームから抜けたら)プロジェクトが崩壊するか,というものを指数として表したものだ。
<引用ここまで>
0:31 2003/05/02 採録

ようするにヒットポイント(あと何発くらったら死ぬかの指数)と似たような考え方で作られたものなんだろうけど、どうしてまたトラックなんだろう?バスに轢かれたらとか。向こうのひとの想像力や表現力は周囲にある現実を展張した方向に特化するからかな。

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『かもめゲッター』Ver.0.90β。ひたすら上から落ちてるものを取りながら横あいから飛び出してくる犬を包丁で殺すゲーム。なんかこうメニューとかセレクターとか丁寧でちまちましてる感があって好印象だなあちくしょう。どっかで気付き損ねているのかやけに難しい。わからなければならないルールはなんだー?

0:38 2003/05/02

この世はおれの走馬灯説(決定論的、ただしこの場合の神は過去?のおれ)

死ぬ直前に余裕があったら走馬灯のようにガーっと一生の出来事を思い出すかもねーっていうような話があるけど、それならおれが今感じている現実がおれの死ぬ直前の走馬灯ではないという保障はないな(というかそれを確認する手段がないな)と思った。

おれはだいたい1秒くらいの時間をだいたい1秒くらいだろうと感じる能力を持っているが、その1秒の感覚は「それ(そういう感覚)がおれにはある」という信頼のうえにしか成り立っていない曖昧なもので、そこより下の前提の部分からおかしかったらもうおれにはそれを確認することができない(←フィルム上の人物はそのフィルムが正常に投影されるだろうと信頼することしかできず、フィルムが飛んだ場合にそれを確認することができないのと同じ)。似たような話で、おれは他人の1秒と自分の1秒を比較することもできない。時計という機能への普段無自覚な信頼によって「そういうことができるのに違いない」と思い込んでいるというだけの話で、極小微量の世界では実際には違うのかもしれないっていうかたぶん違うと思うが、そうだったとしても何も問題ない。いまがどういう状態であったとしてもおれにとってはそれが普通だから。

まあそのへんの話はさておいて、走馬灯だ。走馬灯は「ガーっと過ぎる」というけど、その「ガーっと」の流れの体感時間が現実の体感時間と等しくなったとき、おれはそこで「これは走馬灯だ」という意識を保つことができるだろうか?
死の直前にはじまる走馬灯を「1秒=1秒」のスケールで体感するとして、生れ落ちる瞬間、またはそれより以前からはじめておれが自我を得てそれを表現する手段を獲得する頃まで「これは走馬灯だ」と意識し続けることができないとすれば、いまおれが感じている現実は走馬灯かもしれないとも言える。(受精卵(?)→乳児→幼児までの?)長い年月をかけて「これは走馬灯だ」というレイヤの1枚かぶさった意識に対する自覚が磨耗していくからかもしれないし、もともと赤ん坊状態を意識するとき複雑な(たとえば「これは走馬灯だ」というような具体的な)意識を持ち込むことがそもそもできないのかもしれない。つまり走馬灯がはじまった瞬間に観客としての自分の意識が消えるのだ。

あとまあ一応ONの時間中は1秒=1秒かもしれないが(そうなってなくてもおれにはそれはわからないが)、「普段のなにげない時間」というのがほんとにちゃんとその時間ぶんだけ再現されているかが怪しい。特に意識せずスイスイ歩いてる時間とか電車乗ってる時間とか、周囲に情報はたくさんあるけど「たくさん情報がある」っていう情報以外はあんまり意識することがないので、実際のところ、自分が意識的に感じているもの以外は適当に再生しててもおれは絶対にそのことに気付かないだろう、なにしろ選別の基準がおれ自身だから。あと寝てる時間とか。適当だったとしてもどうにもわからんよな実際。身体の疲労度とかはおれの体感時間を保証するが、記憶の再生時間のことは保証しないしな。
おれの一生はそろそろけっこうな分量になってきたと思うが、しかしそのけっこうな分量のうち実際に今回再生されてんのってのはどのくらいか知れたもんじゃないってことだ。まあ数十分てことはないだろうけど、あいだ相当はしょってるんで1年ぶんくらいっすよーと、ある日おれは過去で未来のおれに言われる日が来るかもしれない。

おれが自分の意思で決定したと思うことは過去におれがまったく同じ状況環境下で決定したことでそれゆえおれによってまったく自然なことで、ランダムとかそれ以上の偶然みたいなことも過去(オリジナル)には実際ランダムだったり偶然だったりしたんだけど今はそのプレイバックなのでじつは偶然でもなんでもなく決定されているのかもしれないが、仮にそうだったとしてもまったく困らないわけだ(その揺らぎ方は現実そのものだから)。

おれは死後コンティニューされるかもしれないが、今は死の直前にあるREPLAYを延々繰り返している状態なのかもしれない。死の直前にリプレイされそのリプレイ中の死の直前にリプレイ中リプレイが発生しそのまた…と、幾重にもカスケードされていく。ものに限度がある世界でならいずれオーバーフローしたりフリーズしたりするかもしれないが限度がなければ合わせ鏡のように延々と続くのかもしれない。一考してその状況は永遠の生のようにも感じるがどのみち死ぬことは決定されているわけだからそれは永遠の生ではなく無限の死で(捉え方の問題に過ぎない)、可能性は最初の1回のプレイで消費され尽くしているので結局ふつうに一生分生きるのと変わらない。

もしそうなら真に死の直前で走馬灯を「見ている」おれのレイヤにまで意識を戻してAボタンかスタートボタンを押せば、リプレイをキャンセルして真のゲームオーバーを迎えることもおれにはできるだろうが、そのおれというのは「今このレイヤを現実と認識しているおれ」ではない。

23:39 2003/05/01