最近読んだ本の一つに、ガバン・マコーマック『属国 米国の抱擁とアジアの孤立』(凱風社)がある。題名の「属国」とは日本国家を指す。日本の戦後史や現在の状況を日米関係を中心に分析し、批評した本である。腑に落ちるところの多い、示唆に富む内容だった。
冒頭の「日本語版への序 日本はアメリカの属国なのか」で著者は、以下のように「属国」を定義している。
〈わたしが属国というとき、初めて国民国家の主権と独立の概念ができた一六四八年のウェストファリアの国家の定義を想定したうえで、植民地でも傀儡国家でもない、うわべだけでも独立国家の体裁があるが、自国の利益よりはほかの国の利益を優先させる国家という意味で使っている〉(3ぺージ)。
それにふまえて著者は、小泉、安倍両政権の特徴を以下のようにとらえる。
〈私は、小泉・安倍両政権の特徴は対米依存と責任回避だと考える。日米関係の核心にあるのは、冷戦期を通して米国が日本を教化した結果としての対米従属構造だが、二人の首相の「改革」はこれまで長年継続してきた対米依存の半独立国家・日本の従属をさらに深め、強化した結果、日本は質的に「属国」といってもいい状態になるまで変容した。日本独自の「価値観・伝統・行動様式」を追求するどころか、そうした日本的価値を投げ捨てて米国の指示に従い、積極的に米国の戦争とネオリベラリズム型市場開放に奔走した。世界中で米国の覇権とネオリベラリズムの信用度が急落している中で、小泉・安倍両政権は献身的にブッシュのグローバル体制を支えたのである〉(3ページ)。
小泉・安倍政権の対米従属ぶりを批判するのは珍しくないが、著者はもはや〈日本は質的に「属国」といってもいい状態にまで変容した〉と言いきる。その上で米軍再編やアジア外交、憲法と教育基本法、沖縄、核兵器と原子力産業、小泉政権と安倍政権など、多様な側面から日米関係を分析し、米国の「属国」としての日本を検証していく。
米軍再編やネオリベラリズム型市場開放などで日本が米国の言いなりになっていることは、著者の指摘を待つまでもなく多くの人が論じていて、比較的見やすいことだと思うが、興味深かったのは〈日本独自の「価値観・伝統・行動様式」〉における対米従属の構造についての指摘である。一見すると、小泉首相の靖国神社参拝の強行、安倍首相の「美しい国」という主張や愛国心強化を狙った教育基本法の改悪など、両政権下では〈日本独自の「価値観・伝統・行動様式」〉が強調され、復古的な「伝統」回帰の政策が採られたかのように見える。
それに対して著者は、米国の基本戦略として、日本とアジア諸国を分断するために、天皇を中心とした特異な歴史を持つ日本、という自己認識を日本人に持たせるための追求が、占領当初からなされてきたことを指摘する。
〈米国は戦後、日本の特異性や他のアジア諸国との根本的な違いを強調し、日本が東アジア諸国と関わろうとする計画にはすべて断固として反対した。これは占領当初からの米国の基本政策であった。退位せず戦犯として訴追されない天皇の存在によって、日本が保守政体を維持しつつ親米国家になるーーつまり、天皇を罰するより天皇を象徴として、重要であっても実体のないまま国家の中心に置くという新たな仕組みこそ、最も米国の利益にかなっていた〉(22ページ)。
このような基本政策を実現するためにアメリカは、米国戦時情報局海外戦意分析課(FMAD)の研究成果であるルース・ベネディクト『菊と刀』の流布などを通して、〈日本文化の基底には、言葉にはできない、とりわけ非アジア的な天皇中心の「文化パターン」がある〉という意識を戦後の日本人に植え付けた。〈日本が心理的に距離をおけば、決してアジア諸国と共同歩調はとれないだろうし、米国に依存し続けるはずだと分析したのだ〉。日本と他のアジア諸国を離反させ、米国依存を深めさせるための〈宣伝戦〉を、著者は〈二十世紀最大の成功例とみなしていいだろう〉と記す(以上29〜30ページ)。
このような視点に立って著者は、小泉元首相の政策・言動を以下のようにとらえ返す。
〈日本が世界帝国アメリカ合衆国に従属的な「属国」あるいはむしろ「臣下」として組み込まれているからこそ、国民に対してはナショナリズムを表すジェスチャーやレトリック、シンボルが不可欠であった。小泉首相は特にこの役割を見事に演じた〉(25ページ)。
このような著者の指摘には得心がいく。沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落したとき、小泉首相は東京まで行った稲嶺沖縄県知事に会おうとさえしなかった。墜落現場から沖縄県警や大学関係者が排除され、米軍が占拠するという治外法権的状況が現出しても、日本政府はそれを容認していたのだ。まさに米国の「属国」でしかない日本の現状を見せつける一方で、小泉首相は靖国神社参拝を強行して排外的ナショナリズムを煽り立てていた。小泉首相が演じた〈役割〉が沖縄からはよく見えた。
小泉や安倍に限らず、ナショナリストを自称する日本の政治家が、米国の国家意思に沿って政治を行っているのは、新しく首相になった麻生も同じである。首相就任直後に米国に行き、国連総会で「テロとの戦い」への積極的貢献を演説したかと思えば、次のような発言もしている。
〈麻生太郎首相は二十五日(日本時間二十六日)、自衛隊の国際貢献に関連し、憲法解釈で禁じられている集団的自衛権行使について、「重要な問題で、これまで解釈を変えるべきだと言ってきた。大事な問題だ」と述べ、容認へ向け解釈変更を積極的に検討していく考えを表明した。ニューヨーク市内で記者団の質問に答えた〉(08年9月27日付琉球新報朝刊)。
憲法9条を無理して改定しなくても、解釈変更で集団的自衛権を行使できるというわけだ。これが米国政府の要求に応えるものであるのは言うまでもない。
〈ブッシュ政権が描く日本の将来像は、軍事・政治・外交のすべての面にわたって世界規模で米国を支援するようなNATOタイプの「パートナー」となること、言い換えれば「東アジアの英国」になることだが、これほど九条の規定や精神からかけ離れた考えはない〉(190ページ)。
マコーマック氏はこう指摘する。〈ブッシュ政権が描く日本の将来像〉に麻生首相も応えたいのだろう。憲法を守る義務のある日本の首相が、集団的自衛権を行使して自衛隊がアメリカとともに海外で戦争をできるようにしたいと、それこそ〈九条の規定や精神からかけ離れた考え〉をニューヨークで公言している。ブッシュの後釜がマケインになろうとオバマになろうと、米国の新政権が描く〈日本の将来像〉は変わるまい。日本に比べれば英国はまだしも独自の国家戦略を持っているだろうし、アジアにおける日本のようにヨーロッパで孤立しているわけでもない。このまま「属国」化が進めば、いずれ日本は「東アジアの英国」という言葉も勿体ないほどの惨めな状況になるだろう。そのとき沖縄はどうなるか。
本書では沖縄について一章が割かれているが、米国の「属国」というときに日本においてその実相が端的に表れている地域が沖縄であることは言を待たない。
〈天皇のこの見解(筆者注・天皇メッセージのこと)によって日本は「平和国家」としての本土と「戦争国家」としての沖縄に二分され、ともに冷戦体制の中に封じ込まれていった。日米両政府にとって七二年まで米軍の施政権下にあった沖縄の存在理由は、日本国憲法第九条で禁じられている「戦力」の保持と「武力による威嚇又は武力の行使」だった〉(225ページ)。
マコーマック氏が指摘する日米両政府にとっての沖縄の存在理由は、本質的に今も変わっていない。それを根底から覆していかなければ、米国の「属国」の中の軍事的植民地として、沖縄は「戦争国家」の危険と犠牲、そして加害責任を負わされ続けるだろう。
マコーマック氏らが中心となっているジャパン・フォーカスは先頃、琉球新報社が創設した池宮城秀意賞を受賞している。沖縄の基地問題を考えるうえでも、一読の価値がある本である。
冒頭の「日本語版への序 日本はアメリカの属国なのか」で著者は、以下のように「属国」を定義している。
〈わたしが属国というとき、初めて国民国家の主権と独立の概念ができた一六四八年のウェストファリアの国家の定義を想定したうえで、植民地でも傀儡国家でもない、うわべだけでも独立国家の体裁があるが、自国の利益よりはほかの国の利益を優先させる国家という意味で使っている〉(3ぺージ)。
それにふまえて著者は、小泉、安倍両政権の特徴を以下のようにとらえる。
〈私は、小泉・安倍両政権の特徴は対米依存と責任回避だと考える。日米関係の核心にあるのは、冷戦期を通して米国が日本を教化した結果としての対米従属構造だが、二人の首相の「改革」はこれまで長年継続してきた対米依存の半独立国家・日本の従属をさらに深め、強化した結果、日本は質的に「属国」といってもいい状態になるまで変容した。日本独自の「価値観・伝統・行動様式」を追求するどころか、そうした日本的価値を投げ捨てて米国の指示に従い、積極的に米国の戦争とネオリベラリズム型市場開放に奔走した。世界中で米国の覇権とネオリベラリズムの信用度が急落している中で、小泉・安倍両政権は献身的にブッシュのグローバル体制を支えたのである〉(3ページ)。
小泉・安倍政権の対米従属ぶりを批判するのは珍しくないが、著者はもはや〈日本は質的に「属国」といってもいい状態にまで変容した〉と言いきる。その上で米軍再編やアジア外交、憲法と教育基本法、沖縄、核兵器と原子力産業、小泉政権と安倍政権など、多様な側面から日米関係を分析し、米国の「属国」としての日本を検証していく。
米軍再編やネオリベラリズム型市場開放などで日本が米国の言いなりになっていることは、著者の指摘を待つまでもなく多くの人が論じていて、比較的見やすいことだと思うが、興味深かったのは〈日本独自の「価値観・伝統・行動様式」〉における対米従属の構造についての指摘である。一見すると、小泉首相の靖国神社参拝の強行、安倍首相の「美しい国」という主張や愛国心強化を狙った教育基本法の改悪など、両政権下では〈日本独自の「価値観・伝統・行動様式」〉が強調され、復古的な「伝統」回帰の政策が採られたかのように見える。
それに対して著者は、米国の基本戦略として、日本とアジア諸国を分断するために、天皇を中心とした特異な歴史を持つ日本、という自己認識を日本人に持たせるための追求が、占領当初からなされてきたことを指摘する。
〈米国は戦後、日本の特異性や他のアジア諸国との根本的な違いを強調し、日本が東アジア諸国と関わろうとする計画にはすべて断固として反対した。これは占領当初からの米国の基本政策であった。退位せず戦犯として訴追されない天皇の存在によって、日本が保守政体を維持しつつ親米国家になるーーつまり、天皇を罰するより天皇を象徴として、重要であっても実体のないまま国家の中心に置くという新たな仕組みこそ、最も米国の利益にかなっていた〉(22ページ)。
このような基本政策を実現するためにアメリカは、米国戦時情報局海外戦意分析課(FMAD)の研究成果であるルース・ベネディクト『菊と刀』の流布などを通して、〈日本文化の基底には、言葉にはできない、とりわけ非アジア的な天皇中心の「文化パターン」がある〉という意識を戦後の日本人に植え付けた。〈日本が心理的に距離をおけば、決してアジア諸国と共同歩調はとれないだろうし、米国に依存し続けるはずだと分析したのだ〉。日本と他のアジア諸国を離反させ、米国依存を深めさせるための〈宣伝戦〉を、著者は〈二十世紀最大の成功例とみなしていいだろう〉と記す(以上29〜30ページ)。
このような視点に立って著者は、小泉元首相の政策・言動を以下のようにとらえ返す。
〈日本が世界帝国アメリカ合衆国に従属的な「属国」あるいはむしろ「臣下」として組み込まれているからこそ、国民に対してはナショナリズムを表すジェスチャーやレトリック、シンボルが不可欠であった。小泉首相は特にこの役割を見事に演じた〉(25ページ)。
このような著者の指摘には得心がいく。沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落したとき、小泉首相は東京まで行った稲嶺沖縄県知事に会おうとさえしなかった。墜落現場から沖縄県警や大学関係者が排除され、米軍が占拠するという治外法権的状況が現出しても、日本政府はそれを容認していたのだ。まさに米国の「属国」でしかない日本の現状を見せつける一方で、小泉首相は靖国神社参拝を強行して排外的ナショナリズムを煽り立てていた。小泉首相が演じた〈役割〉が沖縄からはよく見えた。
小泉や安倍に限らず、ナショナリストを自称する日本の政治家が、米国の国家意思に沿って政治を行っているのは、新しく首相になった麻生も同じである。首相就任直後に米国に行き、国連総会で「テロとの戦い」への積極的貢献を演説したかと思えば、次のような発言もしている。
〈麻生太郎首相は二十五日(日本時間二十六日)、自衛隊の国際貢献に関連し、憲法解釈で禁じられている集団的自衛権行使について、「重要な問題で、これまで解釈を変えるべきだと言ってきた。大事な問題だ」と述べ、容認へ向け解釈変更を積極的に検討していく考えを表明した。ニューヨーク市内で記者団の質問に答えた〉(08年9月27日付琉球新報朝刊)。
憲法9条を無理して改定しなくても、解釈変更で集団的自衛権を行使できるというわけだ。これが米国政府の要求に応えるものであるのは言うまでもない。
〈ブッシュ政権が描く日本の将来像は、軍事・政治・外交のすべての面にわたって世界規模で米国を支援するようなNATOタイプの「パートナー」となること、言い換えれば「東アジアの英国」になることだが、これほど九条の規定や精神からかけ離れた考えはない〉(190ページ)。
マコーマック氏はこう指摘する。〈ブッシュ政権が描く日本の将来像〉に麻生首相も応えたいのだろう。憲法を守る義務のある日本の首相が、集団的自衛権を行使して自衛隊がアメリカとともに海外で戦争をできるようにしたいと、それこそ〈九条の規定や精神からかけ離れた考え〉をニューヨークで公言している。ブッシュの後釜がマケインになろうとオバマになろうと、米国の新政権が描く〈日本の将来像〉は変わるまい。日本に比べれば英国はまだしも独自の国家戦略を持っているだろうし、アジアにおける日本のようにヨーロッパで孤立しているわけでもない。このまま「属国」化が進めば、いずれ日本は「東アジアの英国」という言葉も勿体ないほどの惨めな状況になるだろう。そのとき沖縄はどうなるか。
本書では沖縄について一章が割かれているが、米国の「属国」というときに日本においてその実相が端的に表れている地域が沖縄であることは言を待たない。
〈天皇のこの見解(筆者注・天皇メッセージのこと)によって日本は「平和国家」としての本土と「戦争国家」としての沖縄に二分され、ともに冷戦体制の中に封じ込まれていった。日米両政府にとって七二年まで米軍の施政権下にあった沖縄の存在理由は、日本国憲法第九条で禁じられている「戦力」の保持と「武力による威嚇又は武力の行使」だった〉(225ページ)。
マコーマック氏が指摘する日米両政府にとっての沖縄の存在理由は、本質的に今も変わっていない。それを根底から覆していかなければ、米国の「属国」の中の軍事的植民地として、沖縄は「戦争国家」の危険と犠牲、そして加害責任を負わされ続けるだろう。
マコーマック氏らが中心となっているジャパン・フォーカスは先頃、琉球新報社が創設した池宮城秀意賞を受賞している。沖縄の基地問題を考えるうえでも、一読の価値がある本である。
それらの多くを見てきました。
10年に一度とか、70年ぶりの行事とか、
沖縄の社会や歴史を垣間見る思いです。
関西に1週間ほど行ってきました。
多くのうちなぁんちゅがいます。
葛藤しながらたくましく生活していました。
「属国」、示唆に富むようです。
紹介感謝。