時々、闇夜の海が無性に見たくなる。埼玉に生まれ、東京でうろうろ生きる私にとって、沖縄の宮古島で深夜に目にした海は、美しくも怖く映じた。星のない夜の海は、空と海の境もわからないほどの漆黒をたたえていた。
夜の海を眺めていると、この海に投げ出されて亡くなった人、生還した人のことが頭に浮かぶ。宮古島から台湾へ南下すると、台湾とフィリピンの間にバシー海峡が横たわる。この海域では、太平洋戦争中、多くの輸送船がアメリカの潜水艦や艦載機によって沈められた。
1945年、古代史研究者の土田直鎮は、台湾の高雄沖で漂流すること9時間半で海防艦に拾われ、「眠狂四郎」シリーズで知られる作家の柴田錬三郎は、バシー海峡で漂流すること7時間で駆逐艦に拾われた。生還した土田や柴田の時間を追体験するのは無理だが、海の暗さを追想することはできそうだ。
暗い海を眺めながら、はるか昔、この海に向かってこぎ出した父祖たちの勇気を思う。私たちは今や、電車や飛行機の乗り換え案内、目的地への道案内まで携帯ソフトに依存するようになった。だが、この列島に生きた人々は、「日本」という国号を名乗るようになった7世紀末から8世紀初頭にかけ、航海術も造船術も未熟なまま、唐、新羅、渤海へと果敢にこぎ出した。その目的が先進的な政治制度や文化の輸入であったことはよく知られている。
ここで思い出したいのは、日本と中国大陸・朝鮮半島との緊密な関係が、それ以前からずっと保たれていたことである。また、制度や技術の輸入以外に、密接な通交のなされた理由が別にあったことにも留意したい。日本が極東の端に描かれる地図を見なれた我々は、日本を閉ざされた島々ととらえがちだ。だが、網野善彦が看破したように、ユーラシア大陸の東端を包む五つの海、すなわち、ベーリング海、オホーツク海、日本海、東シナ海、南シナ海の外縁に位置する日本には、位置そのものに意味があった。
時は3世紀、中国では魏・呉・蜀の3国が並び立つ状態にあった。魏の皇帝が、東アジアに浮かぶ島国・倭国の卑弥呼に「親魏倭王」との称号を授けて優遇した理由を、考古学の寺沢薫教授は次のように説く。当時の魏は、倭国を北部九州から南へ長く伸びた国だと思っていた。そのような空間把握を前提にして魏は、魏と対立する呉(魏の南に位置する)を、背後の海上からけん制しうる国として倭国を重視した、と(「日本の歴史02 王権誕生」講談社学術文庫)。
大陸で興亡を繰り返す中国の王朝にとって、大陸の東端の外縁に位置する日本は、中国内に深刻な対立がある場合、特に内陸部において問題を抱える場合、目の離せない国となる。今の中国が、新疆ウイグル自治区の民族問題に加え、西部で国境を接するカザフスタン、キルギスの政情不安など、内陸部における問題を抱えていることは、容易に察せられる。
この4月には、中国海軍の沖縄沖への積極姿勢を示す案件が2件起こった。中国潜水艦が浮上したまま宮古島沖を航行した件と、自衛隊の護衛艦「あさゆき」に中国艦載ヘリが接近した件である。この中国の行動を、太平洋へと積極的な展開を図りたい中国軍の意思表示である、と簡単に結論づけてよいか。
一連の行動は、東端の安全をまずは確認し、次いで中国内部の問題へと向かう先の示威行動であったように思われる。中国外交のより重要なシグナルは、これまで課長級であった会談を局長級に上げ、今月4日、北京で日中ガス田共同開発についての協議を行ったこと、こちらにあるのではないか。2年前の6月の、ガス田共同開発に関する日中合意以降止まっていた問題だけに、進展が期待される。
とはいえ、超大国への歩みを確実にとり始めた中国に世界がいかに対処すべきか、最適解を見つけるのは容易ではない。米国外交が専門のアイケンベリー教授は、次のように説く。中国に覇権国家としての米国の地位を奪いたい欲望とその実現可能性は多分にある。しかし、中国の相手が欧米秩序となれば、中国がそれに代替しうる可能性は大きく低下するはずだ、と(「中国の台頭と欧米秩序の将来」論座08年2月号)。
米国の単独行動主義を批判する一方で、戦争や経済恐慌後にいかなる国際秩序が出現すれば世界の幸福となるかを熟考してきたアイケンベリーならではの視点だと思う。だが、この論文の書かれた後、世界金融危機が起こった点を思い出さなければならない。
アイケンベリー教授が望みをかけた欧州といえば、ウォール街暴走のツケを弱者の財布から払おうとする投資家の動向に端を発し、ギリシャに債務危機が発生した。米国のツケをEU(欧州連合)が払わされる格好だろうか。ドイツ国内では政府のギリシャ救済策を批判する論調が根強い。また保守党・労働党・自由民主党が三つ巴(どもえ)で総選挙を争った英国政治の今後も予断を許さない。中国にどう対応していくかを占うには、今しばらく時間がかかりそうだ。普天間基地問題の結論は、急いではならない。=毎週日曜日に掲載
毎日新聞 2010年5月9日 東京朝刊
5月9日 | 中国関係史と今=東京大教授・加藤陽子 |
5月2日 | シチュエーション・アウェアネス=防衛大学校長・五百旗頭真 |
4月25日 | 解体の誤謬を考える=同志社大教授・浜矩子 |
4月18日 | 端末としての電気自動車=東京大教授・坂村健 |
4月11日 | 「健全育成」のために=精神科医・斎藤環 |