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●第39号メニュー(2009/3/15発行) |
【神・神社とその祭神】《そのXIX》 諏訪大社 |
〔はじめに〕 〔建御名方命と諏訪神〕 〔ミシャグチ神〕 〔八坂刀売(やさかとめ)命〕 |
〔御神渡の祭祀〕 〔式年造営御柱大祭〕 |
【諏訪大社】 |
〔はじめに〕 |
諏訪大社には上社と下社があり、これらは諏訪湖をはさんで鎮座しています。上社は東南の守屋山(もりやさん)の北麓に位置し、本宮(諏訪市)と前宮(茅野市)の2宮から成っています。また下社は北にある下諏訪の町外れに位置し、春宮(はるのみや)と秋宮(あきのみや)(ともに下諏訪町)の2宮から構成されています。そして上社の本宮は拝殿の奥が空地になっており、本殿はありません。下社の春宮・秋宮も拝殿のうしろに宝殿が2棟建っていて、その後方には神木があるだけで本殿はなく、古い神社の形式を伝えています。 このように諏訪大社と呼ばれる神社は、本宮・前宮の「上社」と春宮・秋宮の「下社」を合わせた総称なのです。上社と下社の分立と、それぞれがもつ2宮との関係は古来から謎に包まれています。 |
上社本宮境内図 (拡大) |
祭神は上社本宮に建御名方(たけみなかた)命、上社前宮と下社の春宮・秋宮には妃神八坂刀売(やさかとめ)命が祀られています。創建年代は明らかではありませんが、『延喜式』神名帳に「南方刀美(みなみかたとみ)神社二社」とあって明神大社とされる古社で、信濃国一ノ宮とされ、狩猟神、農業神、武神として、朝野の信仰崇敬を集めています。中世には、神官の大祝(おおほうり)が源氏、北条氏と結び、政治的にも大きな勢力を形成しました。戦国時代には、武田氏の保護のもとに置かれていました。全国1万余に上る諏訪社の本祠(ほんし)であり、江戸時代には社領1500石を授かっています。旧官幣大社で、旧神主家は諏訪の大祝と称し神裔(しんえい)が世襲し、奉行職の矢嶋氏は母神高志沼河比売(こしぬかわひめ)を遠祖としています。 |
ところが、この伝説が大和朝廷に取り込まれると『古事記』の編纂者たちによって、主客か転倒してしまいます。つまり、勝者であったはずの建御名方命が、出雲の国譲りの話に一方的に挿入され、しかも逆に敗北者にされてしまいます。一方、勝利者となる建御雷神は、中臣氏(のちの藤原氏)の氏神で常陸の鹿島神宮の祭神であります。まったく出雲と関係のないこの神が国譲りに登場するのは、中臣氏の勢力誇示を図ろうとするものであります。事実、『古事記』の筆録に関与したといわれる太安万侶(おおのやすまろ)の同族の多氏(おおし)(太氏)は、鹿島神宮の神官でもあったのです。 |
(左)上社前宮 (右)下社春宮 |
その後、信濃の太守に任ぜられ、子孫がこれを継承し、神武天皇のとき、諏訪建勇(すわたけいさむ)命が日高(飛騨)、志奈野(しなの)、住和(すわ)3国の国造に任命され、一族は信濃10郡の国司となったと云われています。ここには国譲り伝承は記されていませんが、中臣氏系を通して大和朝廷に直接結びつけています。ここにも万世一系思想に追従する後世の思惑が感じられ、やはり諏訪神の性格を歪めたことは否めません。 『旧事記』には、諏訪と出雲の関係を示すものが記されています。大国主命が高志(こし)国(越の国・新潟県糸魚川市付近)の沼河比売(ぬかわひめ)命をはるばる訪ねて求婚したという神話があります。しかも、二人の間に生まれた子供が建御名方命であり、「信濃国諏方郡諏方神社にまします」と記されています。近年の研究に諏訪地方と出雲文化との交流が確認され、諏訪には出雲族や天孫族よりも古い原住民族がいて、その国津神として建御名方命を奉じる大祝(おおはふり)と出雲族との間に長期にわたって交流が行なわれ、混然一体となっていたのではないかとも考えられます。 大国主命に代表される出雲族と、高志と諏訪を象徴される沼河比売命と建御名方命との交流があることから、二つの集団氏族の存在が地方的な枠を越えての存在があったと認められます。そして、諏訪大社上社の本宮にかかる「日本第一大軍神」の額が示すように、建御名方命は高志地方に進出した出雲族にとって畏敬の存在であったと思われます。 そのため国譲りの記述には、温順な性格の大国主命や事代主命に対置するかたちで、武勇神の代表として建御名方を登場させて、この神の敗退を示すことによって天孫族たる大和朝廷の優位性を知らしめることが必要であったと思われます。 |
ミシャグチは、古来より日本に伝わる自然神、または祟り神であります。ミシャグチ信仰は東日本の広域にわたって分布しており、主に石や樹木を依り代とする神で、蛇の姿をしているとも言われています。その信仰形態や神性は多様で地域によって差異があり、その土地の神の神や他の神の神性が習合されている場合があります。信仰の分布域と重なる縄文時代の遺跡からミシャグチ神の御神体となっている物や依り代とされている物が、各地にも同じ物が出土している事などから、この信仰が縄文時代から存在していたと考えられます。 |
(左)矢立石のひとつ (中)前宮二之御柱 (右)御頭御社宮司総社 |
【神・神社とその祭神】《そのXIV》 諏訪大社 完 つづく |