刑事裁判から人権追放する時効廃止を訴える毎日新聞
8月の毎日新聞「記者の目」欄に、「■殺人の公訴時効廃止 法改正の前に/刑罰バランスも議論を/真の被害者救済に」と題する石川淳一記者署名の記事(→記事)が載った。
刑事手続きを論じながら被疑者・被告人の存在にまったく言及しない異様な内容だ。石川記者は、犯罪被害者救済にテーマを絞っただけと言うかもしれない。しかし、こうした主張の多くは言及しない部分に本質がある。暗黙の前提とすることで批判を避け、市民がそれを受け入れれば結論は当然のもの思わされてしまう。この記事の問題点も、被疑者・被告人を無視し、刑事手続きを犯罪被害者救済という視点から論じる点にある。 国家の不当な刑罰権行使から市民を守る近代刑事手続き刑事手続き(刑事裁判)は、国家の刑罰権発動と不当で過酷なその行使から市民を守るせめぎあいの中で形成されてきた。とくにフランス大革命以降の市民社会の形成は、刑罰権規制を市民の人権として確立し、刑事裁判をその実現の場とした。犯罪立証を一方的に訴追者の義務とし、合理的疑いの余地のないほど立証されないかぎり刑罰を科すことを禁じた「無罪推定の原則」はその中心に位置する原則である。そうした国家と市民(被疑者・被告人)との関係にたつかぎり、刑事手続きに犯罪被害者が主体として存在する余地はないし、存在させてはならない。 被害者への同情利用し「無罪推定」原則を否定刑事手続き(刑事裁判)での犯罪被害者の救済を語ることは、「被害者」の導入で、国家と市民という刑事手続きの対峙構造を犯罪被害者と犯罪加害者という対峙構造にねじ曲げることである。それは、被疑者・被告人を最初から加害者・犯罪者と決めつけることだ。 「無罪推定の原則」では、国家による市民の訴追をひとまず「根拠のない言いがかり」と考える。だから国家(検察官)は、それに「根拠がある」ことを刑事裁判で立証する義務が課せられる。 犯罪被害者が国家と同様の立場で刑事裁判に参加すれば、犯罪被害者にも自らが被害者であることを立証する一方的な義務が生じることになる。しかし、豊富な人的・経済的資源や強制力を持つ国家と同様の義務を一市民にすぎない被害者に求めることはあまりに過酷だ。 そこで被害者に対する市民の同情を逆手に取ってその義務の緩和を求め、実際には国家の立証義務や「無罪推定」原則を否定するのが被害者参加論の手口だ。 犯罪被害者の肩書きを利用して刑事手続きの反動化を求める「宙の会」が無罪推定の原則を敵視し、認めないと公言しているのは決して偶然ではない。 国家の存在を隠蔽することで人権原則を追放同時に、対峙構造の転換は刑罰権発動の主体としての国家の存在を隠蔽することにほかならない。そして国家が隠蔽されれば市民から国家への強制という人権概念の余地はなくなる。結局、無罪推定の原則だけでなく、刑事手続きからあらゆる人権原則を追放することになる。結論的に言って、犯罪被害者救済という視点で刑事手続きを語ることは、刑事手続きを市民を守る人権保障手続きではなく、「秩序を守る」ための国家による無制限の刑罰権発動である魔女裁判化、お白州裁判化を求めることなのだ。 そうした人権否定を隠すために「犯罪被害者の人権」という詭弁が乱発される。石川記者が「遺族の悲痛な叫び」とか「悲惨な殺人事件の遺族」などと情緒的で非理性的言葉をならべたてるのも同様だ。 国家の隠蔽で時効の存在理由否定刑事手続きの存在理由から刑罰権規制という考え方を否定すれば、その一部である公訴時効つまり刑罰権発動の時間的制限も必要なくなる。実際、石川記者は時効について被害者に「あきらめ」を強制するものと語らせる以外何も語らない。犯罪者をより効率的に断罪して社会秩序を守ることが刑事手続きの目的と考えているらしい石川記者にとって時効は妨害物にすぎない。だから時効は廃止すべきで、遡及適用も賛成となる。「刑罰バランス」と言っても、バランスを取るべき対象は重大事件の被害者とそれ以外の被害者にすぎない。重大事件だけでなく、あらゆる事件の時効の廃止が石川記者の主張のようだ。 突然、被疑者・被告人とされて家族と切り離され、自由を奪われ、拷問まがいの取調べと無実を立証しない限り有罪とされてしまう刑事裁判に引き出される市民の悲惨さについては想像も言及もしない。石川記者にとって、「犯罪者」はただ非難し、抹殺すべき存在にすぎないのだろう。 時効廃止が生み出す人権侵害時効は、刑事訴追に時間的制限を課して国家に「言いがかり」の正当性の立証機会も与えないことで、市民を過酷な刑罰権行使から守ることにその本質的存在理由がある。何年以後の訴追が過酷か原理的基準がある訳ではないが、市民ですら20年たてば損害賠償請求権の行使を制限されるのだから、まして国家がそれ以上の期間訴追権行使を許されるというのは市民主権の原則を否定するものだ。時効廃止は何を生み出すのか。 第1に、被疑者・被告人の防御権行使が非常に困難になる。 市民が無実を立証しない限り有罪という刑事裁判の現実がある。しかし、数十年も前に何をしていたか思い出したり立証するのは不可能だろう。アリバイ主張は根絶される。しかも、その間に証人が死亡すればその供述調書が無条件で証拠とされ、反対尋問の機会も剥奪される。 第2に、えん罪被害者などが賠償を求めることもほぼ不可能となる。 刑事手続き継続中は違法捜査を根拠に民事裁判を訴えることができないという判例がある。「犯人」が捕まらない限り、えん罪や違法捜査の被害者が国家賠償を請求することはできないということだ。 第3に、捜査資料が永久に隠蔽され、市民の捜査批判を不可能にする。 外交機密ですら一定期間後に公開され市民の批判を受ける。しかし継続中の捜査上の秘密を口実に捜査資料は永久に公開されず、市民に批判の機会は与えられない。まさに市民の監視から自由な秘密警察の登場だ。 市民間の分断と敵意あおる被害者救済論この記事に貫かれているのは、被害者の対極に据えた被疑者・被告人を無条件で抹殺すべき犯罪者とする敵意である。「社会秩序を守る」「被害者や遺族の苦しみは癒えない」「突然家族を失った悔しさ悲しみ」「市民の応報感情」……情緒的言葉がまき散らされる。石川記者にとって、犯罪とは市民による規範からの逸脱ではなく、「犯罪者」という特別の人間集団による社会秩序の意図的な破壊なのだろう。その背景に、富める者、特権者と化したマスコミ人のそれ以外の市民への敵意と恐怖を感じざるをえない。石川記者にとって国家は犯罪者から自分を守る保護者だ。だから、自分の役割もジャーナリストとしての権力批判と監視ではなく、マスコミ人として権力者にいかに役立つかでしかないのだろう。 かつて、社会秩序が動揺した時代に市民の怒りを支配者からそらすために多くの市民が魔女として一方的に断罪された。日本でも朝鮮人など少数派に対する差別と敵意があおられてきた。 いま、社会の支配構造が再び揺らぎ、市民の怨嗟の声が高まる中で、マスコミが先頭に立って「犯罪者」を生け贄の羊にして敵意をあおり、その抹殺を煽動することで権力者を救済する。石川記者が主観的にどう考えようとこの記事の内容はまさにそういうものだ。毎日新聞は社会部名で同様の内容の書籍「時効廃止論」を刊行しているから、それは記者個人ではなく、毎日新聞全体の意志と見るべきだろう。全国新聞が、ついに市民の間に分断と敵意をあおり始めたようだ。私たちはこのことを軽視してはならない。 |
コメント(8)
その記事を読んでいませんが、世間一般に受けいれやすい意見でしょうね。私は自由ネコさんの意見と同じ考えです。時効廃止の考えが最近表立ってきたのではっきりさせたほうが良いと思います。でも、この考えは正義を信じる多くの人の怒りの感情を生むでしょうね。
2009/9/17(木) 午前 8:32 [ nanachan.umekichi ]
nanachan.umekichiさん、こんばんは
記事については文章の中にリンクをはっていたのですがわかりにくかったですね。
記事は次のところにありますので、興味がありましたら読んでみてください。
http://mainichi.jp/select/opinion/eye/news/20090821k0000m070137000c.html
2009/9/17(木) 午後 8:57
2記事を読みました。この記者は記事の中で被告、被疑者の人権には全く触れていませんでしたね。この人にとっては『罪人ありき』なのでしょう。民主主義をいいながら、国家の側に立ち、個人を抹殺することを『正義だ』と広く国民に刷り込んでいく内容です。
バランスを言いながらより拡大させる意図と遡及性を違憲ではないと書いて、国の権力行使の後押しをしているのは、記者として恥ずべき行為だと思います。
2009/9/18(金) 午後 5:39 [ nanachan.umekichi ]
こんばんは
石川記者のこの記事に対しては、次のページからコメントを投稿できます。その都度、キチンと批判していくことがマスコミをとんでもない方向へ走らせないために大切だと思います。
https://my-mai.mainichi.co.jp/mymai/modules/weblog_eye103/details.php?blog_id=829#comment
2009/9/19(土) 午前 0:25
自由ネコさん こんばんは
石川さんの記事にコメントを書いたのですが、その後どうなったか見るために訪問しようと思うのですが、削除されたようです。理由は分かりませんが、意見を書いてほしかったですね。
毎日新聞社の名前を出すからには、その一員として簡単に削除して済むものではなく、恥ずかしい行為です。
2009/9/21(月) 午後 10:58 [ nanachan.umekichi ]
nanachan.umekichiさん、こんばんは
元記事は削除されたようですが、コメントなどを受け付けるブログは次のところにあります。nanachan.umekichiさんのコメントも表示されていますので、ご覧下さい。
https://my-mai.mainichi.co.jp/mymai/modules/weblog_eye103/details.php?blog_id=829&com_mode=flat&com_order=0#comment264728&
2009/9/22(火) 午後 11:47
自由ネコさん
殺人の公訴時効廃止が静かに成立してしまいましたね。被害者を思う『善意』がこの不人気な民主党に吹く風になるとは思えません。どちらにしても、こんな空しいことのために法が変えられていくのですね。
2010/5/1(土) 午後 3:46 [ nanachan.umekichi ]
nanachan.umekichiさん、こんにちは
民主党政権はある意味で自民党政権より悪いということが、この件で示されたのではないでしょうか。その背景には、民主党政権が自民党と異なり、ある一つのイデオロギー・思想傾向で結びついた党ではないという事実があると思います。だから、「善意」が思想によって検証されることなく暴走してしまうのでしょう。
こうしたことは、基地問題やその他多くの問題でも次々に現れてくると私は考えています。私が正しいと考えている史的唯物論あるいは唯物史観では、数十年単位の歴史的傾向を考えます。そして今は世界戦争に向かって次第に世の中が「悪く」なっていく時代です。そして、かつての日本の敗戦が示したように、落ちるところまで落ちないと「良く」ならないのかもしれません。
かつて政府批判の先頭に立っていた人たちが、今は「裁判員不要」運動に奔走していて、「時効廃止」というより大きな問題に大きな関心を見せていないのも、時代の流れかもしれませんね。
ただ、時効廃止の廃止は可能です。それには市民が時効廃止が何を生み出すか実際に体験することが必要でしょう。
2010/5/2(日) 午後 0:07