歴史と日本人―明日へのとびら―

日本という国は、悠久の歴史を持つ国である。 この国に生まれた喜びと誇りを胸に、本当の歴史、及び日本のあり方について考察してみたい。 そうすることで、「明日へのとびら」が開かれることだろう。

幸せと不幸せについて

 本日はあまり時間がないので、ミクシィでコメントとして他の人のところに書いたものを記事として再構成したものを投稿させていただきます。

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 私は幸せ不幸せは主観の問題だと思います。

 だからこそ「日本は安全だ」とか「日本で飢え死にする人はいない」とか、それだけでは満足できないのではないでしょうか。 そう思え! と周りが強いることは却ってその人にとって重荷にしかならないように思えます。

 時に、「若者は不幸だ」と発言するような論客が多いから若い人が不幸だと思うのだ、というような発言も耳にしますが、不幸だと思うことが主観の問題であるならば、不幸か否かは本人が決めることなので「あなたは不幸だ」と言われたかそうでないかは全く関係ないということになります。文筆業者ごときに言われたからと言って「そうか、私は不幸なのかー」と思いこむ人間などいないということです。もともと不幸だと思っていて、それを言ってくれた! と思う人はいるでしょうが。

 比べるなと言われても比べてしまうのが人というものではないかな、と思います。 それは弱さかもしれませんが、そういう部分を抱えていない人間というものが想像できないのです。子供だってみんな持ってるじゃないか! と言って新しいものやお金をねだるものでしょう?(笑) 私はどちらかというとそういうのとは縁遠い子供でしたが。
 日本社会において、「世界にはご飯も食べれない人がいるんだ! だからお前は一日一食パン一枚でいい!」と言われて実際それ以外口にすることを許されない人がいたとして、その人が幸せに感じることなどありえるのでしょうか。あるとすればそのパン一枚すら食えず目の前で飢え死にした人を目の当たりにした場合だけでしょう。

 貧困はまず心からと言います。飯が食えないことは大きな要素ではありますが本質的な問題ではないのです。自分は生きる価値のない屑だから他の人より貧乏で、リストラされて、仕事にも就けないんだ、と思ってしまうことが最も怖いところです。こうなってしまった人は豊かな場所にいても貧しい場所にいても成功しないでしょう。残念ながら現在の日本社会はそう思う人を量産しつつあるように見えます。貧しさは心を荒ませてしまうのです。それも、世界大での相対性ではなく、自分の周囲においての相対的な貧しさがその人に決定的影響を与えるのです。

 現に社会の状況というものがありますから、社会的地位や状況がその人に影響を与えるのは当然と言えます。

 今現在フリーターとしている人に「お前はアフリカで飢餓に苦しんでいる人より幸せじゃないか」と言われても納得しないでしょうし、むしろ冒涜されている感覚を抱くかもしれません。それが「幸不幸は人の主観の問題」というものの本当に厄介なところではないかと思います。

 ある程度経済成長しきってしまった国においては、商売になるほどの新たな需要を見つけ出すハードルも上がってしまうので、閉塞感が生まれてくるのでしょう。

 それを社会的に解決に導くよう動くことは必要です。
 自分が世界一でも日本一でも、周りで一番でもないけれど、そこそこ幸せであると思える、と思えることが必要です。そういう環境づくりが必要です。

 ちなみにそれは政府だけの仕事とも思っておりません。

若者論のあいまいさ―若者は統合失調症?―

 私も好きな評論家の一人、精神科医の和田秀樹氏が「若者がモノを買わないのは統合失調症の性質があるから」であると発言し批判が集まっている。実際、上記発言のみを見れば若者に対する偏見、誤解に基づく典型的な若者異質論に映る。リンクだらけになって恐縮だが、今回は正確に論じたいため、厳密に書かせてもらう。元記事がこれ。批判が集まっているというのは、例えばここを参照すれば明らかであろう。

 さて、この和田氏の記事全文を読んでもやはり違和感が残ったのは私だけではあるまい。消費行動に走らない要因をそもそも精神論で論じられること自体に違和感があると言ってもよい。実際和田氏への批判も「若者が消費しないのはカネがないからに決まってるだろう」といった意見も目立つ。

 一方和田氏は自分のブログで今回の騒動についてこのように述べている。
 これを参照するに、そもそも和田氏は格差社会に批判的であり、若者を物質的面においても救済すべきという意見を持っていることがわかる。

 元記事は数人の識者に聞く連載物で、他の回も見てみると、ちゃんと若年者の貧困問題にも触れていることが分かる。和田氏が精神科医だけにそれに類する発言を取材者側が求めた結果、上記記事になってしまったのだろう。それだけが和田氏の意見であるかのように独り歩きしてしまったことが今回の騒動の原因であろう。

 いずれにしても中高年の賃下げの可能性に踏み込んでいないのはおかしな話である。景気という奴はカネの回り具合と考えてもよい。だとすると元来消費するはずの世代に対して金銭が回るようにするのがもっとも有効な景気対策となるはずである。それをいつまでも医療だの年金だの中高年におもねるからいけないのではないか。

 ニュースを探していたらこういうものまであった。何をやっても若い世代にしわ寄せがいく。ちなみに柳生さんにも私の親にも知り合いにも公務員になれと言われた。だが今や公務員は就職予備校に高いカネを払ってなる時代である。日本の総理大臣になれないと言ったらじゃあアメリカ大統領になれと言っているようなものだとどうして気付かないのか、自分たちの世代の常識しか見えないのか、理解に苦しむばかりである。

 ものの本には解雇規制の緩和により若者にしわ寄せがいかなくなると言うようなことが書いてあるが、極めて怪しい。解雇されたらどうせ「失業対策」だ何だと言って税金が投入されるに決まっているからだ。首にせず賃下げで対応し、なおかつ増税ではなく年金の廃止、議員削減などで予算を捻出するのが筋であろう。累進課税の強化ももっと検討されるべきだろう。

 いずれにしてもあいまいな若者論で若年層にしわ寄せが行くのはいい加減にしてもらいたい。

 雇用問題以外にも書きたいことはあるのだが議論が尽きない。「累進課税にするとやる気がなくなる」という様な意見を粉砕しなくてはならないからだ。

李長吉の人生

 長安有男児。二十心已朽。
 (訓)長安に男児あり。二十歳にして心すでに朽ちたり。


 この一節を書いた人物は、李長吉という。李賀という漢詩人としても名を成した人物だそうだ。以下このページ
http://www.geocities.jp/tyoukitu2000/rigasyougai.htmを参考に李長吉の人生をたどってみたい。

 李賀は唐の皇族の末流とも言われたが、科挙(官僚試験)に失敗し、失意のうちに生涯を送る。詩人としては名を成したが結局出世できず二十七歳で病没している。

 その詩は魑魅魍魎が出てきたり超常現象が描かれるなど非常に変わったものであったが、それが大きな魅力でもあると言われる。現実世界の人間も魑魅魍魎に類するものと考えていたのではないかといわれる。

 時に非常に悲観的な内容を記し、この世の凡てが悪意に満ちているという感覚を表現した。

 ちなみに魯迅や毛沢東、芥川龍之介、三島由紀夫なども李賀の詩が好きだったようである。

貧困はまず心から―正社員は本当に幸せか―

 貧困という奴は日本社会においては根絶されたかのように思われているかもしれない。実際、食うものがない、餓死するといった形での貧困はかなりの程度なくなったと言ってよい。しかしならばなぜこんなにも多くの人が自殺するのだろうか。年間三万人以上が自ら命を絶っているのである。

 もっともその理由において多いものは「健康問題」であるらしい。しかし二位は「経済・生活問題」である。餓死すると言った形での貧困は撲滅されているようで、まだまだなくなっていないことがわかる。

 「貧困はまず心から」であるという。食べ物のことよりも、住む所よりも、一番最初に差し迫るのは心の問題―難しく言うと自己の存在証明に対する疑問、易しく言うとなぜ生きているのかわからなくなる―である。

 あるいは戦後の食糧難のころの方が現代日本のいかなる貧者よりも物質的には貧しかったかもしれない。だが、あの当時貧しいことは普通であった、と言ったら乱暴かもしれないが、少なくとも貧しいということだけでは自分が劣った人間であるとか、生きていてはいけない人間だというような追い詰められ方はなかったと言えるだろう。社会的排除はされていなかったということだ。

 職につくとき必ず求められる履歴書。これほど忌まわしいものはない。履歴書は社会的排除者を見つけ出す格好の指標となる。もっといえば、履歴書は「まとも」でない奴を見つける道具としてつかわれるのである。

 自分の例ばかりだしていると「オレを何とかしろ」と訴えたいだけなのかと思われかねず、不本意なのだが実例がないのも論の説得力として問題なので私の例を少し挙げる。私が企業に訪問しても、履歴書の提出を求められ(ここまでは全学生共通)、その後「ご縁がなかった(なんて残酷なセリフ!能力が足りないとか言われた方がまだ楽である)」と連絡が来る場合もあるし、放置される場合もある。大概は無視される。

 無視するなと言いたいわけでもない。履歴書により、文系大学院に行っていることを見つけ出し、排除している、ということを示したのである。他にも女性である、とか浪人・留年している、外国人である、などが排除の対象となる。彼らは排除されたことすら明確にならず、また別の企業を受け、また排除されるのである。だからではないだろうが、「能力が足りない」ではなく「ご縁がない」のだ。排除されているのだから。文系大学院に行ったことは刑務所にでも行っていたかのようだ。あるいは、女性であること、浪人・留年していることは屑の証明であるかのようだ。

 私は排除するななどと言っているのではない。もっと悲観的な境地に立ってものを述べているつもりである。「排除」された人間は非正規雇用に流れ、不安定な生涯を送る。「排除」されなかった人間は正社員となり物質的には安定するが、サービス残業や長時間労働により心をすり減らす。排除されたから不幸なのではない。生まれたから不幸なのである。生きているから不幸なのである。生まれてこないのが一番幸せではないだろうか。少子化にもなろう。生まれてくれば不幸なのだから。

 ある意味生まれたときから貧困は始まっている。貧困問題の解決はその次元で語られなければ意味がない。

雇用のひずみ

 私はときどき理屈っぽいと言われ、それはそれで当たっているし、ありがたいとも思うのだが、基本的には感情的な人間だと自分では思っている。

 本当に腹が立つ報道が二つあった。一つはやずやが採用の過程で「再チャレンジ」と称しYOUTUBEに動画をアップさせ、それが流出した件である(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100427-00000057-jij-soci)。ここではっきりさせておくが個人情報流出に関しては本人のミスという部分もあり一概に会社を責めるわけにはいかないだろうと私は考えているということだ。むしろ怒りを感じたのは「再チャレンジ」などと称するこの馬鹿げた選考である。学生をおちょくって遊んでいるだけではないか。働く前にどうして「熱意」がアピールできるのか。社のほのめかされる意向に従順で無批判な学生が量産されるだけではないか。そしてそれをもくろんでいるのではないか。

 もう一つは「餃子の王将」の研修の模様とそれに対する同社のコメントである(http://news.livedoor.com/article/detail/4742526/もしくはhttp://news.livedoor.com/article/detail/4744571/)。こうした根性優先のスパルタ的な研修もどうかと思うが、それはそれでこういう会社があってもよい。しかし「現代の若者は、家庭や学校でこうした躾をされることが少なく、叱られたことのない人も多」くて、「「汗をかかない」「涙を流さない」「感謝を知らない」といった傾向があ」り、「個人の自由という名目でわがままを通すことが黙認」されているのだというこの偏見に満ちた若者観はなんだ。到底許されてはならない差別発言ではないのか。家庭や学校で躾をされないと言うがその躾をすべきだった世代は自分たちではないか。そもそも若い連中が大人よりマナーにかけているとは思えない。同程度に荒み、同程度にまともだと言える。自分たちの若いころを思い出していただきたい。感謝を知らないと言うが自分たちの会社に来た若い者に対する「感謝」とか若い世代の苦境に共感する「涙」に欠けているのではないか。まず自分たちの精神から叩きなおせと言いたい。

 頭に来たついでに王将の悪口を言うが王将はまずいから私は大嫌いである。ラーメンはインスタントみたいな味だし、餃子は冷凍食品の方がまだまし。これで外食を名乗るのかと思わせるようなひどいチェーンである。一度行ったきり二度と行っていない。これからも行かない。
 単純に恨みでこういうことを言っているわけではない。例えばやずやの商品など使ったこともないし興味もわかないから悪い評判も書かないではないか(笑)。

 若者バッシングはほぼ全部無効である。それは二種類に分かれる。一つは完全に偏見の場合。もう一つは今の若者に当てはまっているが若者に限ったことではなく人間すべてに当てはまる場合である。「自分を変えようとしない」であるとかはその典型である。人はいつでも変わるし、いつまでも変わらない。両者が共存するのが人間という存在だからだ。

 若者論がいかに無根拠で高年者の下らぬひがみにすぎないかは後藤和智などの著書で語りつくされている。もっとも後藤は時に左翼的言葉づかいをするのが鼻につくのだが…。

 話がそれたが元に戻ろう。やずやや王将のような例は特異な「一部」ではない。誰の目にもわかるようにはっきりと見えたことは珍しい事例だったが、大なり小なり企業という奴はこうしたブラック性を抱えているのである。

 官僚バッシングの論調が嫌いなだけで官僚を必ずしも擁護しているつもりはない。だが一面的に「悪者」を仕立てあげてそれを叩いて悦に浸っているような胸糞悪い連中が大嫌いで、ついその虐げられている人を擁護してしまう。私なりの義侠心のつもりである。尊皇アナーキズムの論理を厳格に適用するならば、官僚も民間企業もどちらも廃止が正当である。

 雇用のひずみは若年者と定年直前の両世代にしわ寄せがいった形となっている。私の親はその定年前の世代であり、私はいちおう若年者の世代に属する。父は日本経済はもう駄目だという。私もそれに共感する。老人に搾り取られて日本は何も残らなくなる。戦後すぐアメリカに媚びて日本の風土を破壊し、そして今若い奴らの生き血をすすって日本の崩壊と引き換えに自らの老後を満喫しようとしている百害あって一理なき世代。彼らによって日本は滅ぼされたのだ。彼らには彼らの言い分があろう。一方的に悪者にするような馬鹿なことはしたくない。だがマスコミには決して悪く書かれない彼らに、私一人猛然と怒り狂ってもよかろう。もし日本全体が老人バッシングになってきたらいつの間にか私は老人擁護派になっているかもしれない。そういう性格だからだ。

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追記:動画を見つけました。気持ち悪い、異様な光景としか思えません。


賃下げ

 実のところ解雇規制緩和には反対である。正式なデータを探そうと検索したが見つからなかったので私の記憶頼みになり恐縮だが、全企業のうち新卒採用を考えている企業は一%を切っていると言われる。中途であれば採用してもよい、と考えている企業が二割程度、残りの八割のうち「今のまま維持したい」という企業が四割、「人を減らしたい」という企業が四割だった(と思う)。

 数字はだいぶ間違っているかもしれないが、とりあえず確かなのは「人を減らしたい企業」と「人を増やしたい企業」では人を減らしたい企業の方が多く、新卒を採用したい企業はかなり少なくなっている、ということである。バブル期のころは新卒、中途含めて人を増やしたいという企業が七割近くあったというからこれは決定的な差といえるのだ。もちろんこの一%未満の新卒として採用したいという企業に採用されなければ中途としても採用されない可能性が高い。また採用している企業でもいわゆる「ブラック企業」化しているところが多く、問題が多い。

 念のため申し添えておくがブラック企業の最大の問題点はサービス残業漬なところではない。それも問題なのだが、それ以上に「教育する意思がまったくない」所が問題である。つまりブラック企業に入っても自身のキャリアにおいて何らプラスになるところがないということである。

 極端な実例を挙げれば、新入社員に何も教えずいきなり営業の電話をかけろと言われ、営業の電話で話を聞きたいと言われなかったと報告すれば怒鳴られ一本取るまで帰るなと言われ、アポをとったらとったで先輩もつかずいきなり一人でいかされ、契約にならなければこれまた怒鳴られ、飛び込みで何社も回って契約取って来いと言われる。

 こういう例は極端なケースではあるが、いずれにしても「ブラックでも入りさえすれば教育もするし本人の経験にもなる」といった認識(勝間和代もそんなこと書いてた気がするが)はとんだ甘ちゃんだと言わなければならない。

 話がそれてしまったがこのような状況の中で雇用規制を緩和すれば採用が増えるかというと私は強い疑問を持っている。統計から自然に想像するに、解雇だけされて新しい人など採用しないのではないか。失業者が増えるだけでおしまいなのではないだろうか。ならば解雇よりも賃下げの方がよかろう。年収八百万を二人雇うより二百万を八人雇う方が当座しのげる人が多くなるではないか。

 もはや資本主義を捨てるところから考えなくてはならない、と思い段階的に資本主義の弊害を緩和しつつ全く新しいことを考えなければと私などは思っているのだが、そういった危機感はあまり共有されていないようだ。虚しいことである。

国民総不幸

 中高年の雇用、社会保障を守るために若い者が食いつぶされようとしている。そもそも正規雇用に着けなかったり、つけてもサービス残業などで身体、精神までも破壊されてしまったりしてしまう。

 一方でこうした若者の搾取だけでは事態は一向に改善しなかった。経営者はついに「早期退職」の名のもとで中高年の首切りまでもはじめた。

 社会人としての始めと終わりにしわ寄せが行っているようにも思える。

 一方でその真ん中の世代は優遇されているかというと、これは働きづめで飼殺しにされてしまっている。どんどん自殺しているのはこの世代である。

 パイが縮小する中でその奪い合いが始まってしまった。

 そもそも一つの社に所属しなければならないことが不幸の始まりではないかと最近考えている。完全時給制にしたうえでアルバイトを兼任するように何社も掛け持ちすることができれば、一社当たりの負担は少なくとも生活ができるのではないだろうか。

 私は非正規雇用に落ち込んでしまった人が不幸で、正社員になればよいというような単純な考え方は持たない。人を社に縛り付ける仕組みが、そもそもの不幸の始まりのようにも思えるのである。

(小説)またあそぼう

 昼下がり。この場所に立つと幼いころを思い出す。幼いころの想像力は世界をワンダーランドにする。

 目の前に市バスが到着した。乗ると思ったらしい。私は乗らないですと動作で示すと運転者は乱暴にドアを閉めて悪態つくように走り去って行った。徐々に速度を上げてエンジン音を上げながらバスは小さくなっていった。

 子供のころもこのバスに良く乗った。祖父の家に行くために。バスから降りて母と手をつないでバスを見送っていた。バスがエンジン音を上げて去っていく様を見て、私は母に「バスがまたあそぼうっていってる」と叫んだことを覚えている。母は何のことかわからないままに「そうだね」と言っていたように思う。
エンジン音を聞いて、それが「またあそぼう」と言ってるように聞こえるのである。これは比喩でも何でもなく、本当にそう言っているようにしか思えなかったのである。

 もう少し大きくなると、バスではなく家の車で直接祖父の家に行くようになった。途中でごみの焼却場のわきを通る。

 焼却場の煙突には小窓が就いており、目と口がついているようにも見える。私は煙突がまるでゴジラのようにこちらに向かってくるかのように思い、怖くて泣き喚いた。その煙突を過ぎて後ろの窓から様子をうかがうと煙突がこっちを向いている!追ってくると思い私はまた泣き喚いたのであった。前後左右に小窓が付いるんだよと思うのが普通なのかもしれないが、私は振り向いたと思ったのである。ゴジラが建物を押しつぶすように煙突がのしのし歩きだして自分たちをつぶそうと追ってくる…というようなことを考えていたのであった。

 道行く人と肩がぶつかりふと現実に戻る。バスが走り去ったエンジン音はもはやどう聞いてもエンジン音だった。煙突も煙突にしか見えなかった。

 周りの建物を眺めてみると、中のテナントはほとんどがあの頃と変わっているような気がする。私も変わった。今日はバスでなく、歩いて帰ろう。

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今日の一曲

就職活動というくだらない馬鹿騒ぎ 3

 就職活動なんてもうやめたらどうか。というと「就活廃止論」の著者のように就職活動の早期化をより進めようとする論客ばかりなのが馬鹿馬鹿しいことなのだが、正社員と非正規雇用などというくくりはおしまいにして、すべて「社員」として時給扱いから月給扱いに仕事を重ね評価されることで「昇格」する仕組みの方がよい。「学校の勉強だけではダメだ」などと格好つけたがる社会人がいるがだとすれば面接も何もなく、単純に仕事ぶりで評価すればよいだろう。まずは今でいうバイトから今でいう社員に登用すればいいのであり、学生に下らぬ面接や履歴書など課さなくてもよいではないか。年齢など無視して、働きがよい人を採用すればよいではないか。それができないから日本社会は息苦しいのである。

 新卒で社会人になれないともうビジネスマンとしての生涯はそれでおしまいなどという現制度は明らかにおかしい。人を不幸にする仕組みといってもよい。年齢なんかで判断するから何も考えてないくせに周りがやっているからということで就職活動をはじめる学生を量産し、そして苦労して入った会社には誰も残らないのである。

 50代の賃下げをもっとすべきである。役員の賃下げも断行すべきである。そして若い者にもっと求人件数を出してやらねば救われない。

 私の周囲では就職した者も就職しなかったものも明るい表情をしているものは誰もいない。若い者から未来を奪ったのはだれか。老い先短い連中のつけを払っているのはだれか。世代間での格差がひどすぎる。私の親の世代では高卒でも面接一回で大企業の内定が取れた。現代ではそんなことはあり得ない。高卒で、しかも面接一回で通ったその仕事は、今では派遣社員がやっている。正社員は昇給するが派遣はほとんど昇給しない。ましてや新卒で就職できなかった者は派遣にすらなれない。今年は五人に一人も本人の能力にかかわらず、今後の努力にも関係なくビジネスマンとしての生涯が始まる前に終わった人が出た。来年もそれくらいは出るだろう。彼らを落としたのは碌に就職活動をやっていない世代かもしれない。最終決定をくだした人間はその可能性が特に高い。

 老害ここに極まれり。

就職活動というくだらない馬鹿騒ぎ 2

 日本は年功序列給与が一般的である。少々成果主義の影響は受けたが、基本的にこの路線は変わっていない。

 そのために新卒採用などということをやっており、そしてそのために少々道を外れただけでも書類選考で対象外とされて会ってももらえないという事態になる。留学していたり文系の大学院に行っているとダメ。浪人は一年までなら大丈夫だが二年以上だとダメ。外国人はダメ。女性も不利である。

 企業は外面だけは多様な人材を迎え入れるかのようなふりをする。しかしそんな人間をとる気などない。採用の下請けをやっている企業の内部に入ると、企業側は表に出ていることと違うことを要求することに驚かされる。体力があって従順な人間が重宝される。そうでない人間は歓迎されない。「そんな企業ばかりでではない」などという逃げは許されない。そんな企業ばかりだからだ。そうでないほうが「例外」である。

 採用の下請け企業の内部に入ると、「女性は一次選考までは呼ぶが二次選考には呼ぶな」などというような企業側からの「お達し」がある。下請け企業はその「お達し」に従って粛々と学生を能力にかかわらず「不合格」とする。もちろん不合格の理由など公にされないからそういうことをしてもばれることはないのである。それでいて「いい人材がいない」などと嘆く人事は頭がおかしいとしか言いようがないだろう。以上は私自身が目利きした情報ではないので確実な情報とは言い難いし誇張が入っているかもしれないがある程度信頼できる情報であると考えてもらってよい。経済に余裕がなくなればなくなるほどこの傾向は強くなっている。自助努力でも能力でもない。採用されないことは初めから決まっている。このような馬鹿馬鹿しい出来レースをしたがるのも就職活動の特徴である。それを「ご縁がなかった」などと言ってごまかす言語感覚には脱帽である。最初からその人を見る気がなかった、という意味では確かに「縁」がなかったのだろう。だがそれが本人の努力というより生まれによるものだとすればその「縁がない」という言葉は残酷極まる発言であり、生まれながらに下流となることを宿命づけられていたと言うよりない。就職できないのは本人の努力不足というのは完全に神話である。人が足りていないにも拘わらず賃下げができず従って求人票を出さない企業側のお家事情のつけを何の関係もない若者が支払っているだけのことである。

 大学院生も同様である。刑務所に行っていたのではないのだ。怠けていたわけでもないのだ。せめて自分という存在が見られたという感覚を残して不合格にしてもらいたいものだ。それすらなく送った書類がただ戻って来るばかりのは虚しすぎる。

(続)
管理人について

陸羯南翁


中田耕斎

明治期の国民主義者、陸羯南(くがかつなん・写真)の思想に共鳴する。西洋嫌いの対外硬論者。近代日本思想史専攻の大学院生。二十三歳。古今東西の政治思想書・古典を読むことを日課とする。連絡先:kousuke_60422@yahoo.co.jp
*当ブログは管理人・中田耕斎の思索の記録です。そのため各記事はすべてどこかで問題意識が繋がったものとなっています。なるべく過去記事のリンクをつけるようにしますが、過去記事に書いた部分では、ご理解いただいているものとして論証を省いて書くこともありますので、ご容赦ください。また、コメントに関しては原則削除は行いませんが、間違って二重に書き込まれた場合などは編集または一つ削除する場合がございますのであらかじめご了承ください。荒しは事前に通告の上、削除することがあります。



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