まったくもって自然は思い通りにならない。新潟県佐渡島のトキの「卵廃棄事件」に、がっかりしつつ納得した人は多いのではないか。
野外で抱卵していた放鳥トキのペアが、三つあった卵を次々と巣の外に放り出した。自然界で2世が生まれれば34年ぶりとあって、期待が高まる中での肩すかしである。
だが、トキにはトキの事情がある。専門家によると、卵がふ化しない無精卵だったり、有精卵でもうまく育たなかったりすれば捨てることがある。今回はペアが若く、無精卵の可能性が高かったようだ。
今年は「国際生物多様性年」で、10月には名古屋で「第10回生物多様性条約締約国会議」が開かれる。にわかに多様性が注目され、トキもひとつの象徴となった。政府の「生物多様性国家戦略」にもトキの野生復帰が盛り込まれている。
長い進化の歴史に支えられた多様な生態系は、水の循環や土壌の形成に欠かせず、災害を防ぐ役割も果たしている。変化に富む食べ物や医薬品などの恩恵ももたらす。そして、何より、多様性は美しい。
トキに関心が集まるのも、朱鷺(とき)色の羽を広げて舞う姿に引かれるからだろう。だが、ひなの誕生に一喜一憂しているだけでは、多様性の恩恵に浴することはできない。
佐渡では、トキのえさ場として、冬も田に水を張る「ふゆみずたんぼ」や、「ビオトープ」と呼ばれる多様な生物がすむ場所作りが進んでいる。農薬や化学肥料の削減に取り組む農家も増加している。ここから、トキ・ブランドの米も生まれた。
ひとつの生き物に関心を寄せることが、地域の生物多様性の向上につながる。無農薬の米など付加価値のある産物も生まれる。こうした変化は、コウノトリの野生復帰でトキの先輩格にあたる兵庫県豊岡市でも起きたことだ。
もちろん、コストがかかるし、草取りも大変だ。しかし、高くても付加価値のある産物を買ってくれる消費者はいる。農林水産省などがコウノトリ保全に配慮した米について調査をした結果、保全の取り組みを知る消費者は、知らない消費者より高値で買ってもいいと考えていた。他の生き物でも同じことだろう。
トキをめぐっては、テンによる「襲撃事件」も、生物多様性にからむ問題を提起した。そもそも、佐渡にテンを持ち込んだのは人間である。今回の騒動を機に駆除するかどうか意見が分かれているが、テンにしてみれば人間の勝手な議論だろう。
佐渡では、他にも抱卵するペアが複数いるようだ。ひな誕生も待ちながら、身の回りの生物多様性を考えてみてはどうだろう。
毎日新聞 2010年5月4日 東京朝刊