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プロフィール

私が歩んだ道

少年時代…十字屋界わいは、商都の中心

終戦の年の昭和20年(1945年)6月22日、私は父 野坂陞三、母 千年の間に生まれた。兄弟姉妹がいないので1人っ子である。
祖父 野坂康久は、米子市東倉吉町で「十字屋」を経営、父や母、おばがこれを手伝っていたが、私が幼いころは、市会議員もしていた。(祖母のいとこには、戦後米子市長を務めた野坂寛治がいる。)祖父は、酒造りをしていた稲田家から野坂へ養子に来ている。琵琶を弾いたりして、宴席ではおもしろい人だったらしいが、明治気質の人で、家族に対しては絶対君主的存在で怖かった。ただ、お祭りのたびに、祖父からもらえるおこづかいは楽しみだった。若いころから髪が少なかったそうで、私が物心ついたころにはほとんど丸坊主、頭はテカテカ光っていた。だんだん髪が少なくなってくると、やはり祖父の孫だと思う。


写真:昭和43年ごろの「十字屋」

十字屋は、洋食のレストランで、レコードや楽器も売っていた。洋食屋なので、進駐軍の外国人も来た。私が生まれてすぐは、父母は角盤町の祖父の家に同居したり、錦町に間借りしていたらしいが、5歳ぐらいのときに十字屋の後ろ部分を改築して住居としたので、幼稚園(マリア園)の途中から中学までそこで暮らした。
十字屋には、戸田さんという職人気質のコックさんがいて、この人の得意料理がカツ丼やカレーライス、タンシチューなどであった。カツ丼のカツは、牛肉を叩いて伸ばし、それに衣をまぶして油で揚げた後、トマトケチャップをベースとしたソースにくぐらせる。ご飯の上にはカレー風味のキャベツを敷き、その上にこのカツを乗せ、ふたをしたものが十字屋のカツ丼で、ふたをとるとなんとも香ばしい湯気が鼻をなでた。カレーライスは、こってりしたカレーをご飯にかけ、その真ん中に卵の黄身だけを乗せたもので、いずれも子ども心にとてもうまいと思った。

小学校は就将校に行った。図画、習字は苦手だったが、足は速く運動会が楽しみだった。私が子どものころは、裏の加茂川沿いの道は狭く舗装されていなくて車もほとんど通らず、よくかけっこした。やがて、西部生協がオープン。本通りはひじょうににぎやかで、十字屋も結構はやっていた。土曜夜市はたいへんな人ごみで、店先には金魚すくいやヨーヨーつりも出て、子どもたちにも待ち遠しかった。
私には同年代のいとこが3人いて、4人でよく遊んだし、近所には、きよちゃん、まんちゃん、かずちゃん、たかちゃん、なおちゃん、ひろちゃんなどたくさんの子どもがいて一緒に遊んだ。裏の加茂川で、ふなやどじょう、えびがにを捕ったり、城山や近くの野原を駆け、ペッタイやタンチゴマ、六むしといった遊びに興じた。家には犬がいて、その散歩は私の役目だったし、モルモット、はつかねずみ、じゅうしまつを飼ったりしていた。1人っ子で甘えん坊の、元気な子どもではなかったかと思う。


写真:小学3年、角盤町の祖父の家で。右から2番目が野坂市長。

昭和29年3月、ラジオ山陰が、東倉吉町のパチンコ屋のあった小安ビル2階に設立され、おじ野坂一郎と父が勤め始めた。後で知ったが、戦前に無線技師をしていた経験を持つおじが発案し、祖父がこれを強力に支援し、同じ経験を持つ父と3人が協力し、たくさんのかたがたの参画、支援を得て、開局に至ったものだった。また、祖父は、かねてより米子に百貨店を誘致する構想を持っており、たくさんのかたがたのご援助、協力を得て、昭和39年に米子高島屋の設立にこぎつけた。
祖父はそのほかにもいろいろ構想を持っていたようである。しかし、私が社会人になるころには、ヘルペスが脳に回って痴呆状態になってしまっており、じっくりと大人として話を聞く機会を得なかったのは残念だ。

思い出の数々

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