篠突く雨の煙る夕暮れ。
一人の少女が驚愕に目を見開き、一人の青年を見つめていた。
少女の表情は硬く、唇を震わせ――――――まるで何かに怯えているかのようだ。
視線の先にいる青年は悲しみを堪えているのか、悲痛な表情で少女のことを見つめている。
「どうして……………ですか」
少女が問いかける。
――――――――彼女の声が震えていた。
必死に縋り付くように搾り出された少女の声。
彼女の声に青年は動揺したのだろうか、肩が大きく震えた。
………………それでも。
「すまない、志摩子…………俺と、別れてくれ」
今、恋人たちに別れの瞬間が訪れた。
黒衣の守護者・After episode
白薔薇パニック
秋の天高く抜けるように青い空が心地よいある日のこと。
ここ、リリアン女学園高等学部の生徒会執行部、通称「薔薇の館」は今日も平穏な日であるはずであった。
未だに妹問題であれこれと悩んでいる紅薔薇と黄薔薇のつぼみの二人に、市松人形のように和装の良く似合う妹を持った白薔薇様の三人がそれぞれに思い思いの場所に腰掛け、お茶を飲みながら談笑している。
「もう、祐巳さんよしてよ、そんな冗談ばかり」
「いや、冗談じゃないんだってばー」
「フフッ……」
由乃と祐巳の二人の会話がポンポンとまるで卓球のラリーのように弾んでいるのを見て、藤堂志摩子は小さく…………でも楽しそうに笑った。
すると、視界の端にでも彼女の様子が映ったのだろうか、祐巳はクルリと顔を向けて志摩子のことを突然凝視しだした。
相変わらずの奇抜な行動にやや呆れながら、由乃がどうしたのか聞いてみることにする。
「どうしたのよ、祐巳さん。志摩子さんが笑ったのが面白くなかったの?」
笑われることなど常日頃である福沢祐巳。
一年前など、ことあるごとに抱きついてくる上級生がいたのだ。ちなみに、その人物は藤堂志摩子の姉(スール)ではあるが。
あの頃に比べれば今はマシなほうだろう。
セクハラまがいのことや、からかわれて笑われることが無いのだから。
それに、志摩子が笑ったのは二人の様子が微笑ましいからであり、侮蔑や失笑といった悪意のあるものではない…………由乃もそのことは分かっているし、祐巳だって分かっているはずだ。
けれど、唐突過ぎる祐巳の奇行の答えが分からずこう尋ねるしかなかった。
問いかけられた祐巳はブンブンと首を強く振り、由乃の問いかけに答える。
「ちがうよ、由乃さん。その――――志摩子さんのスタイルが変わったなーって思って」
祐巳は志摩子の胸元を凝視しながら自分の胸に手を当てて見る。
スカスカとした自分の胸と違い、志摩子の胸元はかなりボリュームがある。
胸元だけではない…………腰つきなど体全体の曲線が柔らかくなり、花のつぼみのような少女から色香る大人の女性の肢体へと変化しているのが一目瞭然なのがわかる。
ムッと眉間に一瞬皺を寄せた由乃は、ガタッと音を立てながらイスから立ち上がり無言で志摩子のすぐ後ろに立つ。
由乃が険しい表情をしているわけでもない――――というのに、どこと無く雰囲気に緊張感を漂わせたまま背後に立ったためか、志摩子はソワソワと落ち着きをなくした様子でいた。
「あの、由乃さん…………どうし――――」
様子のおかしい友人を気にして声を掛けようとして――――最後まで言い終わる前に由乃は手を伸ばしていた、女性らしく豊かに実ったその果実に。
「キャッッ!!…………よ、由乃さん!!?」
「うーん、この大きさ――――私の手には収まらないわ」
悔しげな表情をしながらつぶやく由乃。
一方胸を触られている志摩子はというと、どうしてよいのか分からず完全にパニック状態になっていた。
大きくつぶらな目元に大粒の涙を溜め、頬が羞恥で上気している。
志摩子の困り果て、恥らっている姿を見ると由乃がポツリとこぼした。
「ヤバッ…………セクハラしたがるオジサンの気持ち、分かるわ――――」
唐突に不穏なことを囁く友人に、志摩子は身を硬くして緊張した。
彼女の背後に立っている由乃の声は、自然志摩子の耳元に囁かれるような形になるわけで。
恐怖に硬直している志摩子を見て、嗜虐的な笑みを浮かべながら胸を揉みしだこうとする由乃。
「ちょ、やめようよ、由乃さん。志摩子さん嫌がってるよ?」
友人の暴走を見て必死になって祐巳は抑えようとする。
ケダモノのような目をしていた由乃に一瞬理性が戻ったのか、パッと手を離して祐巳のほうに視線を向ける。
ホッとしたように肩をなでおろす祐巳に、安堵したように自分の肩を抱く志摩子。
薔薇の館に平和が戻った…………祐巳と志摩子は思ったに違いない。だが由乃の次の言葉によってあっけなく穏やかな雰囲気が壊された。
「祐巳さんも揉んでみる?」
とんでもない発言である。
これ美味しいけどどう?みたいな軽いノリである。
由乃の問いかけに祐巳はというと――――
「え、あ――――――うん」
一瞬の逡巡、頷く祐巳。
祐巳の視線が一瞬志摩子と交差するが、すぐに視線が移って胸元のほうを見ていると……
……自然と祐巳は頷いてしまった。
「ちょ、祐巳さん――――よして、お願いだから」
必死に懇願する志摩子。
赤く染まる頬に、濡れる瞳。
保護欲をかき立てるだけの条件はそろっているというのに、それを上回る加虐的思考のほうが迸ってしまう状態。
それを証明するように、志摩子の背後に立っていた由乃はというと――――
「さ、今よ祐巳さん。遠慮なく志摩子さんの胸を触って!!」
「ちょ、由乃さんやめて!!!」
背後から志摩子のか細い体を羽交い絞めにして楽しそうにしている。
流石にこの光景を見ると少しだけ申し訳ない思いになったのか、祐巳は内心で、
(ごめん、志摩子さん……)
そう思いつつもしっかりと志摩子の胸元に手を伸ばす辺り、祐巳もすっかりと場の雰囲気に流されていたようだ。
「い、いやーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!?」
生徒会執行部、薔薇の館に今日は切なくも儚い悲鳴が響き渡るのであった…………。
「あー楽しかった」
顔をつやつやとさせ、満足げな由乃がつぶやく。
彼女のやや後ろには自分の肩を抱きしめて震えている志摩子の様子が見て取れた。
何故か志摩子の制服の肩のあたりが乱れているのはどうしてだろう…………。
「ウッゥ…………ゥッーーーー」
「ごめんね、志摩子さん…………本当にごめんね」
泣き咽ぶ志摩子に、彼女に平謝りしている祐巳。
ここ、リリアン女学園内ではめったに見られない光景がいまこの場にある。
あの2年生にして白薔薇様になった藤堂志摩子が泣き咽んでいるのである。
ともあれ、徐々に落ち着きを取り戻すと、アレほど平謝りしていた祐巳も油断して思わず口についてしまう。
「それで、志摩子さんのスタイルどうしてこんなに変わったんだろうね」
この一言で、ようやく落ち着きを取り戻しつつあった志摩子の表情が一変する。
再び顔に火がついたように火照りだし、恥ずかしそうに俯いた。
彼女の仕草はあどけない少女のようであり、様子を間近で見ていた祐巳は愛くるしさのあまり、つられて頬を真っ赤に染めた。
二人の様子を見ていた由乃もまた少々頬を紅潮させながらも、自身の中で出していた結論を語った。
「バカねえ祐巳さん。そんなことも分からないの?志摩子さんに彼氏が出来たからに決まってるじゃない」
あっけらかんとした様子で話由乃に、一瞬祐巳はほうけた表情をした。
何を言ったのか、彼女の頭の中で理解と状況整理が出来ていないのである。
一方、志摩子はというと上気していた頬が一転、城を通り越して真っ青になった。
肩をフルフルと小刻みに震わせ、これまた珍しく射抜くような視線で由乃のことをねめつけている。
「ど、どうして由乃さんがそのこと」
「ハァー、分からなかったのは祐巳さんと志摩子さんに、後状況をいまいち知らない乃梨子ちゃんくらいよ?令ちゃんも祥子様もご存知だと思うけど?」
重苦しい溜息を吐き、やんわりと伝えようとする由乃。
ただし、彼女の言葉は功を奏することは無かった。
まるで自分だけが仲間はずれであったかのように感じた祐巳。
事実を周囲の知人たちが把握していたとは知らず呆然となる志摩子。
二人のことなどどこ吹く風、推理探偵のように気取ったポーズでイスに腰掛け問いかけるものが一人。
「それで、志摩子さん…………今どうなってるの?」
ワクワクとした感じで尋ねる由乃。まだ未だに状況が把握しきれていない様子でありながらも多感な年頃のためか、喰いつくように頷く祐巳。
スレッジハンマーで横殴りにされた衝撃からようやく立ち直ることが出来た志摩子は、新たな危機に直面する。
自分のことを素直に話すのか、それともはぐらかすのか――――――彼女の思考は4ヵ月ほど前の重たい梅雨の時期に飛んでいた。
唐突な別れ話を最愛の恋人であり、命の恩人であり、尊敬する異性からされた志摩子は翌日から熱を出して寝込んでしまっていた。
無理も無い話しである。
あまりの衝撃的な話をされたとき、自暴自棄に陥ってしまい冷たい雨風にその可憐な体をさらしてしまったのである。
彼女は思う、何故恭也は別れ話をしたのかを…………。
(どなたかほかに好きな女性が出来た――――)
寝床の中で首を横に振る。
別れ話をされた直後に無意識的に彼女は恭也に尋ねた。色々と自分の思うこと、知らなければならないこと、知っておきたいことを。
志摩子は思い出す、恭也の語った言葉を。
『ほかに好きな女性が出来たわけじゃない…………志摩子以上に好意を寄せる女性はきっと俺には現れないだろう』
(では何故ですか?何故別れるなんておっしゃるんですか?)
記憶の中にある高町恭也に、志摩子は涙を流しながら問いかける。
『すまない…………今でも君の事を愛している――――愛しているからこそ、別れてほしい』
(愛している――――なら、どうしてなのですか?私の何がいけなかったのですか?)
縋りつくように、志摩子は問いかける。
恭也は答えてくれない――――ゆらり、恭也の姿が揺らいで翳んでいく。
必死に手を伸ばし、彼のことを捕まえようとする…………。
手が届く、その刹那恭也の姿がスーッと消える。
消える直前に彼は志摩子のほうに振り返り悲しげな表情とともに一言『すまない』と謝罪の言葉を残して消えてしまう。
「ま、待ってッ!!?」
涙で頬を濡らし、志摩子は目覚めた。
悪い夢なら醒めてほしい――――少女の想いと裏腹に彼女の悲しみにくれる気持ちは現実のものである。
のそり…………気だるい体を起こし布団の中で力なく項垂れる。
恭也に別れを告げられて早二日、熱にうなされながら見る悪夢である。
「どうしてかしら」
力なく志摩子はつぶやく。
あの日――――恭也に別れを告げられたあの日は、志摩子にとっていつも通りのデートであるはずであった。
恭也と駅前で待ち合わせ、二人一緒に手を組みゆっくりと歩きだす。
離れ離れに暮らしている二人だからこそ、こうして一緒に会うことの出来る時間を大切にしたい…………そんな思いで志摩子はいつも胸が一杯であったし、恭也もそのはずであった。
だが、よくよく思い返せばあの日の彼は――――
(恭也さんは思いつめた顔をしているときがあった)
自分の中にあるピースを一つ一つあわせていく。
いつものように志摩子が待ち合わせの場所に繰るよりも5分は早くやってくる彼。
そうでなくても恭也が志摩子の住んでいる街までやってくるのだ。いつもいったい何時に家を出ているのだろう?
遠目から彼が待っているのを見るのが、志摩子は好きであった。
年が5つ上のせいだろうか…………同級生と比較すれば大人しく年不相応に落ち着いているように見える自分よりが子供のように思えるほど彼は――――高町恭也は大人に見えた。
優しく、包容力があり、強く、暖かい。
甘えてばかりいて、彼に甘えさせる機会がなかなか無い志摩子にとってその瞬間はとても大切で、自分のことを想っていてくれるのだと知ることの出来る大切な時間であった。
腕時計で時間を確認しながら少しだけソワソワとしている彼。
自分と出かける場所を考えたり、やってみようと密かに想っているのであろうか。
恭也の仕草から伝わってくる確かな想いに、志摩子はいつも胸が熱くなり、思わず頬が火照ってしまうのである。
「恭也さ…………」
いつものように彼の名を呼ぼうとして――――志摩子は声に詰まった。
一瞬――――ほんの一瞬だけ、恭也の表情が憂鬱で辛そうな顔をしたのである。
自分の中にある悲しみや苦しみを表に出すことの少ない恭也があんな顔をする。
それも、自分との出かける前の時にである――――。
(…………何かあったのかしら)
志摩子の胸のうちに思わず重苦しい予感が奔る。
何かあったのだろうか――――胸のうちに募る思いが高ぶる。
誰にもいうことの出来ない悩みでも抱えているのだろうか?
あれこれと考えてしまいながらも、彼の――――恭也に早く会いたくて駆け足で向かう。
「遅れて申し訳ありません」
いつも彼にかける挨拶の言葉。
先程までの思いつめた表情は霧散していて、変わりに浮かんでいるのは――――
「久しぶりだな、志摩子…………いつも通り少し早く来てしまったんだ、俺のほうこそすまん」
彼はいつもの柔らかな微笑を浮かべ謝り、頭を撫でてくれる。
所々節くれだち、硬い彼の手のひら……。
ごつごつとしているが、彼の手で撫でられるのがもっと志摩子にとって嬉しくもあり気恥ずかしくもあり、たまらなく心地よくもあった。
(いつもの恭也さんだ…………)
胸のうちに灯る温かな想い。
恋人である志摩子だけが素直に表現することを許された切なくも心地よい恋心。
「今日は、どちらに行きましょうか?」
「そうだな、午後から雨が降るらしいから先にウインドウショッピングでもするか?」
「はい…………さ、参りましょう、恭也さん」
彼の左手を握り、そっと歩き出す志摩子。
かって知ったる街を最も愛しい異性と一緒に歩く。
ただそれだけのことなのに、自分が世界でもっとも幸せな女の子に志摩子は感じる。
一緒に服やアクセサリー、靴やズボンを見て回る。
「どうですか、恭也さん」
「うん、似合っているよ」
パールホワイトの携帯にゆれる小さな白兎。
恭也の前でゆっくりと揺らしながら笑う志摩子。
たまたま入った店で気に入った小さな白兎の携帯ストラップを恭也からプレゼントしてもらい、心地よい想いに包まれているといつの間にかお昼時になった。
二人で小さな和食店に入り、気ままに会話をしながら昼食を楽しむ。
1時間ほどゆっくりと食事を終え、外に出ると予報どおり雨が降っていた。
梅雨の雨らしく少し強い雨音が響き渡る中、恭也と志摩子は一緒に美術館に向かう。
ひとつの傘の中、寄り添うように映画館へと向かう。
前から一緒に見ようと約束していた宗教画を展示している美術館。
志摩子は嬉しそうに絵画やキリスト教の教えや言い伝えを恭也に説明し、彼もまた嬉々として語る志摩子の様子を瞳を細め見守っていた。
優しい色…………志摩子の周りを包む、やさしく暖かな色が恭也の目には映っていた。
祐巳に由乃――――彼女とともに過ごしてくれる頼れる友人。
祥子に令――――頼れる上級生であり、志摩子とともに先頭に立って奔る生徒会役員。
(大丈夫…………大丈夫なはずだ)
心の中で蝕む負の感情を飲み込み、恭也は言い聞かせる。
一緒にいたい――――志摩子とともに、未来に歩いていきたい。
何度も何度も考え、迷い、辛さに負けそうになりながらも出した結論。
(志摩子――――お別れのときだ)
刻一刻と、志摩子に悲劇のときが訪れる。
降りしきる冷たい雨。
恭也の愛車に送られ、自宅の前で別れるときが来た。
今度はいつ会えますか?志摩子の心のうちを占めていたのは恭也との再開の約束だった。
次会うことが出来るのは当分先かもしれない――――そうであっても、次会える日を思えば耐えることが出来る。
「すまない、志摩子…………少し話したいことがあるんだが、いいか?」
「はい、どんなことでしょう?」
いつもは車の中で次会うときを約束するはずなのに、今日は彼が車から降り雨の降りしきる中、傘も差さずに志摩子と向き合った。
恭也の体が濡れて冷えるといけない――――純粋な想いからそっと恭也に傘を差し出そうとする…………だが、恭也は傘の中に入ろうとしなかった。
それどころか、差し出す志摩子の手を押さえ、静かに首を横に振る。
「すまない、志摩子…………次に会うことはもう出来ない」
「エッ?」
突然告げられた恭也の一言。
志摩子は、彼の言葉の意味が分からず、ただ息を呑むことしか出来ずにいた。
あっけにとられている彼女の表情を知りながらも、恭也は続ける。
「俺と別れてくれ、志摩子」
しとしとと降り続ける雨音が、不快に彼女たちの耳の中で響き続けた――――。
まるで生ける屍のように無気力になっていると、突然部屋の中で電子音が響き渡った。
『ピリリリッピリリリリッ!!』
パールホワイの携帯電話…………恭也に連絡を取り合うために持っていてほしいと渡された携帯電話である。この電話番号を知っているのは恭也しかいない。
志摩子の心臓が鷲掴みされた。
彼の――――恭也からの電話なのでは、甘く切ない希望が志摩子の胸を締めつける。
たった二日間の絶望の中、力をなくした四肢を叱咤し慌てて電話に飛びつく。
だが、
「誰、この番号…………」
ディスプレイされているのは見たことも無い番号である。
心当たりの無い電話番号、志摩子は不快な気持ちと何故か恭也に裏切られたような気持ちとがない交ぜになった暗く泥沼に引き込まれるような思いに陥る。
『ピリリリッピリリリッ!!』
いつまでも鳴り止まない電子音。
電話を切ってしまいことも出来たはずなのに、生来の生真面目さのためか志摩子は思わず電話に出てしまった。
「はい、もしもし…………」
暗く沈んだ声、電話相手もさぞびっくりするのではないだろうか。
馬鹿げたことを思っていると、予想を裏切る。
「あの、わ、私高町美由希って言います。その、あなたは恭ちゃんのその…………」
電話の相手は相当切羽詰った様子である。声色からは志摩子と同い年かいくつか年上といったところだろうか。慌てて喋っているためか、どこと無く幼く感じながらも志摩子は相手の言葉の中からキーワードになる言葉を尋ね返す。
「高町美由希様…………ですか?」
少しだけ軽くなった声で志摩子は電話相手に尋ねる。
そういえば、恭也の妹の名前を聞いた気がした――――美由希となのは…………だったと彼女は脳裏で確かめる。
「はい、高町美由希です。兄の…………高町恭也のことについてお話したいことがありまして」
「恭也さんのことですか?」
「はい、兄のことについてです。ところで、お名前を窺っても良いですか?」
電話越しから少し乾いた笑い声が聞こえる。そういえば、相手は…………恭也の妹である高町美由希はどうやら電話越しの志摩子のことを良く分かっていないらしい。
なんだかその様子が少し可愛らしく思えたのか、思わず志摩子は口元に小さな笑みを浮かべながら自己紹介をする。
「失礼しました、私は藤堂志摩子と申します。美由希様のお兄様、高町恭也様とお付き合いさせていただいておりましたものです」
「ご丁寧にありがとうございます…………ところで、あのどうして過去形なんですか?」
「それは――――――」
志摩子の言葉が詰まる。
抑えていたドロドロとした気持ちがあふれ出す。
美由希と話したことで少しだけ軽くなった気持ちが――――蓋をして隠していた気持ちがあふれ出した。
「私…………私、急に恭也さんに分かれてほしいといわれて、それで」
「っ――――そうだったんですか」
大粒の涙がこぼれだしていることを気にも留めず、美由希に切々と語りだす。
電話越しの美由希は、はじめこそ困惑した様子であったが志摩子が話すことの中からおぼろげにだが、自分の尋ねたかったことが見えてきたのか、とにかく聞き役に徹していた。
特に何かアドバイスなどすることなく、志摩子の心の内に溜め込んでいるものすべて吐き出してしまえるように。
「申し訳ありません、聞き苦しいことばかり話してしまいまして」
志摩子は吐き出すだけ吐き出して落ち着きを取り戻したのか、美由希に対して申し訳なさそうに項垂れていた。
電話の向こう側にいる美由希も、志摩子の少女らしい様子が伝わってきてホッとしたのか、口元を緩ませ苦笑する。
「いえいえ、気にしないで下さい。それに、志摩子さんが苦しんでいる理由はウチの兄にあるんですし、こちこそ申し訳ないです」
「あの、そんなこと――――「そんなことあります」」
明確な理由も告げずに別れを決めた兄に対して憤慨しているのか、美由希は志摩子の優しさから来る否定を間髪いれずに否定する。
志摩子は二の句が告げられずにいると、美由希が小さく笑いながら提案する。
「もし良かったら近いうちに会えませんか?」
「あの、美由希様?」
「今週の土曜日にそちらに行く用事があるんです。そのときにもし良かったら会いたいなって思いまして。あ、もしかしてもう予定とか会ったりします?」
「いいえ、予定は特にありません。
では、待ち合わせは南改札口前でよろしいでしょうか?」
「ええーっと、はい。多分大丈夫だと思います。時間はお昼過ぎから空いてます?」
「はい、空いております。13時過ぎくらいがよろしいですか?」
「うん、それでお願いします。あ、お互いにお昼は食べてからにしましょうね」
美由希のあせりながらも気遣ってくれる様子に好感が持てたのか、志摩子は快諾した。
後はお互いにとりとめの無い話をして楽しく過ごした。
どうやって携帯電話の番号を知ったのかとか、実際に会うときはこんな服装で行きますとか、どんなお菓子が好きですかとか…………あっという間に二人の間には絆のようなものを感じられた。
「それじゃあ、会うときは私も恭ちゃんに対する愚痴をいいますからお願いしますね」
「フフッ…………私もまだ聞いて頂きたい事がたくさんありますから、お願いします」
「それじゃあ、また今度」
「はい、失礼します美由希様」
久しぶりにたくさん話した…………。
充実感が志摩子に心地よい疲労を与えてくれた。
人と話すことが楽しいと、人と接することが心を暖かくしてくれるのだと美由希との会話の中から志摩子は再認識した。
会いにきてくれる、そう思うと楽しみで少しだけ心の中にある重石が軽くなった気がした。
未だに何故恭也が急に別れ告げたのか分からなくてドロドロとした気持ちが渦巻いている。
それでも――――
「恭也さんの妹――――か」
志摩子は美由希のことが羨ましく思えた。
恋人という存在は、別れが訪れればもう二度と接することが出来ない存在なのだ。
妹であれば――――恋しい思いを抱くことが出来なくとも、ずっと血縁という形でつながりを保ち続けることが出来る。
彼女の――――美由希のことが、
「羨ましい」
「よし、後は恭ちゃんをなんとしてでも向こうに連れて行く手段を考えないと…………
そうだ、母さんに手伝ってもらうとしようっと」
美由希はたくらんでいた…………。
ここ数日の間様子のおかしかった兄、高町恭也。
何かあるとすれば、彼がもっとも大切にしているものの中にあるはず。
家族――――特になし。
友人――――特になし。
恋人――――不明。
何度も家に来ていたもうひとつの携帯電話の請求書。
そこに乗っていた番号にかけてみて核心が持てた。
何故、あんなに純真そうな少女と別れたのか、恭也の気持ちはまるで分からなかったがそれでも――――
「二人をもう一度引き合わせることが出来れば、何か変わるかもしれない」
美由希は固い決意を胸に拳を握り締める。
「恭ちゃん…………あんなに可愛らしい子を泣かせるなんて許さないからね」
土曜日の13時、M駅南口前。
志摩子は美由希との待ち合わせすることが出来た。
思っていたよりも志摩子が年下であったために美由希は驚き、志摩子もまた美由希が姉である聖と同い年であることに驚きを隠せないでいた。
「あ、あはは…………はじめまして、じゃないですけどはじめまして」
「こちらこそはじめまして。あの美由希様、今日はよろしくお願いします」
「はい、こちらこそよろしくお願いしますね、志摩子さん。あ、私のことはその、様付けはやめてもらえる?」
「えっと、それでは…………美由希さん、でよろしいですか?」
「はい、かまいません。それじゃあいきましょうか。一応、近くの喫茶店でちょっと待ち合わせをしている人がいるので」
「あの、その方は――――」
志摩子は息詰まる思いで尋ねた。
美由希のいう待ち合わせをしている人物というのが恭也ではないか…………淡い希望を抱いてしまう。
あんなに一方的な別れを告げられたというのに、未だに彼のことを想い続けている。
そんな自分が少しだけ誇らしく、悲しく思えた。
「ごめんなさい、志摩子さん。待ち合わせているのは実は私の母なんです」
「美由希さんのお母様ですか?じゃあ、恭也さんの――――」
「ちょっと事情がありまして、私の母は兄の…………恭ちゃんの叔母に当たるんです」
高町家の複雑な家庭事情を垣間見てしまった志摩子は申し訳なさそうに深々と頭を下げた。
綺麗な振る舞いに美由希は見ほれながらも、内心思うところがあった。
藤堂志摩子は兄の高町恭也に何処か似ている気がする、と。
気高く、それでいて人に対する優しさを忘れぬ強さ…………彼女の潔さの中から見て取れるものがとても強く美由希の気持ちを揺さぶった。
(絶対に何とかしよう…………絶対に)
「頭を上げてください。志摩子さんは恭ちゃんの恋人です。
ですから、私たちのその――――ちょっとした複雑な家庭事情も知ってもらわないとこまるんですから」
えへへ、と人懐っこそうな笑みを浮かべながら志摩子に語りかける美由希。
美由希の言葉を聴き、今度は志摩子が驚き、問いかけてしまう。
「あの、美由希さん…………私はもう恭也さんの恋人では――――」
「いーえ、志摩子さんは恭ちゃんの恋人です。恭ちゃんが認めなくても、私が認めます。
というか、分かれるなんてなしですなし。それこそ、志摩子さんが恭ちゃんを見捨てない限り」
「そんな見捨てるなんて!!」
続きを――――――自分が振られたのだと言おうとしたが、先をいうことは出来なかった。
志摩子の言葉よりも先に、美由希の人差し指がそこから先入ってはいけないとばかりに唇の上に乗せられる。
指を乗せたときは何処か年上としての威厳のようなものが垣間見えた美由希であったが、次の瞬間には霧散してしまい、何処か慌てたような様子になる。
「えっと、母さんを待たせてますからいきましょう。久々に日本に帰ってきたので色々としたいこともあるでしょうし」
「お母様は海外に行かれていたんですか?」
「はい、香港で働いてますから。さ、いきましょいきましょ」
志摩子の手を引いて先導する美由希。
まるでタイプの違い女性のはずなのにそのとき志摩子は――――――手を引いて歩いてくれる後姿に何処か姉の佐藤聖の面影を重ねた。
(――――お姉さま)
内心でつぶやく。姉である彼女なら今の志摩子のことを見てどう思うだろう。
たかが高町恭也に振られたくらいでぐずぐずするな、というだろうか。
志摩子の中に溜まっているものすべてを受け止めて、次へ向かえというだろうか。
恭也が振り返るように何か志摩子のことを手助けしてくれるだろうか。
分からない――――いま、志摩子の前にいるのは高町美由希であり、佐藤聖がそういったときどんな行動を起こすのか皆目見当もつかないのだから。
志摩子の心情とは裏腹に、美由希はハンドバックから取り出した地図を片手にずんずんと歩く。
もしかしたらもう待ち合わせまで時間が無いのかもしれない。少しだけあせっている様子の彼女のことを見ていると、志摩子は思わずハラハラとしてしまう。
(お母様って一体どんな方かしら)
まさかいきなり美由希の母親も一緒になると思っていなかっただけに、志摩子は気が気でない。あれこれと想像が膨らんでしまう。
年を召した人なのだろうか、自分の母親のような人なのだろうか、近所にいる叔母さんのような人なのだろうか、それとも怖い人なのだろうか…………。
「ああ、美由希…………久しぶりだね」
「母さん、お帰りなさい」
コーヒー店の片隅の席、穏やかに微笑みながら声をかける妙齢の女性がいた。
名を御神美沙斗、高町美由希の実母である。
元気そうにしている母の姿にホッとした美由希は嬉しそうに駆け寄る。
手を握りブンブンと強く振る…………少しだけ痛そうな顔をしながらも、美由希の手をしっかりと握り返す美沙斗の姿は、紛れも無く母親の姿であった。
「ああ、あなたが恭也の恋人の――――」
ひとしきり親子の再会を終えると、すぐ傍らで驚いたままでいた志摩子のほうに振り向き美沙斗は声をかけた。
――――恭也の恋人。
嬉しくもあり、悲しくもあるその呼ばれ方に志摩子は複雑な表情をする。
「初めまして、藤堂志摩子と申します」
「ああ、これはご丁寧に…………私は御神美沙斗、この子の母親です」
深々と頭を下げ自己紹介をする志摩子のことを見て美沙斗は柔らかく見守る。
そっと美由希の頭を撫でてみせる。母の手のぬくもりに、思わず美由希は表情を緩めた。
志摩子は想像していた姿と違い驚き、そして何故母である彼女と一緒なのか疑問に思う。
(あの時、美由希さんは会おうと仰っていた…………)
二人きりで会おう――――そういったわけではないが会話のニュアンスから思い込んでいた志摩子は穏やかな親子に思うところがあった。
何か隠し事をしている…………それとも?
心のうちで勘繰ってしまう志摩子の表情を見、目の前の親子は申し合わせたように顔を見合わせ困ったような表情をした。
「その、色々と気になることもあるかもしれませんけど、今はお茶を楽しみましょ」
切り出してきた美由希の言葉にドキッとする。
自分の考えが見抜かれた――――あまり良い感情でないだけに一層後ろめたさを感じる。
「も、申し訳ありません。失礼なことを考えていたようで――――」
「ああ、気にしないで下さい。誰だってこんな状況なら思うところの一つや二つありますから」
やんわりと肯定をしてくれる美由希に、志摩子はありがたいと思った。
あの別れを告げられてからの数日間、心が荒びきり何かにつけてネガティブな想像しか出来ずにいた自分。そんな自分を肯定し、受け入れてくれる…………どれだけ心強く嬉しいことか。
とにかくその後はひたすら談笑に花を咲かせた。
「それからなんですよ、恭ちゃん甘いものだめになっちゃって」
「フフッ…………本当ですか?」
「その話は私も初耳だな。そうか、あの子は甘いものがダメなんだね」
恭也の幼少期や美由希の幼少期の話。志摩子の存在を薄々感じていた家族間の微妙なもどかしいさ。もう一人の母・高町桃子が志摩子に会いたがっている話。
話題は尽きることなく、ただただ暖かな時間がゆっくりと流れ続けていた。
ふと時計を見るとそろそろ2時間ほど経とうとしている。
美沙斗は意味深に美由希のことを見て頷き、美由希もまた何かソワソワとしだした。
「志摩子さん。お手洗いに行こうと思うんですけど、ご一緒してくれませんか?」
いきなりの発言である。
何か言いたげな美沙斗が頭を抱えている。
ここから志摩子を連れ出したいのか――――そんな気配がありありと見て取れた。
一方、声をかけられた彼女はというと。
「はい、いっしょにいきましょうか」
柔らかく微笑み頷いた。
志摩子の姿に美由希も美沙斗も驚き、少しだけ困ってしまう。
もっと警戒されるのでは――――色々と複雑な世界に身を投じている美沙斗も美由希も思わずにはいられない状況下で、志摩子は何故素直に応じたのか。
…………志摩子は無条件に信じた、二人のことを。
別に警戒心が無かったわけではない――――事実、美沙斗と会った瞬間は色々と思うところもあったわけだ。だというのに、何故?
(この方たちは、私のことを信じてくれる。ただ、あの人の恋人というだけで)
だから、志摩子も信じようと思ったのだ、目の間にいる親子のことを。
二人でそっと静かに立ち上がり、店の置くにあるトイレへと向かう。
二人の姿が消えるのを確認してから、美沙斗は懐に持っている携帯電話を取り出しある番号に電話をかける。いったい誰に電話をするというのだろうか。
「さて、呼び出すとするか………………………ああ、もしもし、今から駅前の――――」
唇の端を軽く上げ、軽い口調で電話越しの相手となにやらやり取りをする。
なにを話したのか――――。
志摩子たちがトイレに入ると以外と込んでいた。
そのため時間が掛かり二人してトイレを出ることが出来たのは十分以上たってからだった。
席に戻ろうとしたとき、志摩子の目に衝撃的な光景が飛び込んできた。
店の端にあるトイレから見た席には、美沙斗ともう一人、男性客が腰掛けていたのだ。
「あのひとは――――」
志摩子は息を呑む。
美沙斗の前に座っている人物――――それは、
「実は、恭ちゃんにこっちに来るように母さんに頼んだんです」
ちらりと舌を出し、イタズラっぽく笑う美由希。
志摩子は振り返る。瞳に大粒の涙を堪えながら必死に自分の感情が爆発しないように堪えるので精一杯だ。
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