【萬物相】韓石峰

 中国の書道史で、王献之(348-386)は、父親の王羲之(303-361)と共に「二王」と呼ばれる。献之は若くして優れた腕前を発揮したが、同時に要領がいい一面もあった。ある日、献之が「大」という字を書いた後、遊びに出たところ、父親がそのすきに点を書き加え、「太」という字にした。後に献之がその字を母親に見せたところ、こんな答えが返ってきた。「真ん中の点だけが上手に書けているね」。恥をかいた献之は、父親に字が上手になるための秘訣(ひけつ)を尋ねた。父親は庭にある18個の水がめを指して、こう言った。「お前が墨をするのに、あの中の水を全部使い切ったら分かるだろう」

 朝鮮王朝時代の書家、韓石峰(ハン・ソクポン)=1543-1605=は、王羲之を生涯敬愛し続け、その教えを実践した。3歳のときに父親を亡くし、母親に女手一つで育てられた韓石峰は、庭にあったかめの表面や落ち葉に字を書く練習をした。真っ暗な夜、母親がもちを切る横で石峰が字を書く練習をしたという話は、彼の血のにじむような努力を後世に伝えるエピソードとして知られている。石峰は王羲之の字体を学びながらも、これを自己流にアレンジした「石峰体」を編み出した。それは、高麗時代末期に中国から伝えられた松雪体の柔らかな美しさとは違い、朝鮮の書道特有の厳格で端麗な美しさだった。

 石峰は性格が気難しく、文人や役人たちの中には、「ただ字を書くだけの人」として見下す人も多かった。だが石峰は、自らも名筆家として知られた宣祖(朝鮮王朝第14代国王)に重用された。対馬の領主が「扁額(へんがく)の字を書いてほしい」と要請したのに対し、宣祖は「何でもいいから書いてやれ」と、石峰に揮毫(きごう)を依頼したという。

 北朝鮮の国外向けラジオ「平壌放送」が最近、開城の近くの黄海北道兎山郡石峰里で、韓石峰の墓碑や、業績を記録した碑を発見した、と報じた。石峰の雅号は、故郷の村の名前に由来するものだ。墓碑には、生前に加平郡(現・京畿道)の郡守(郡の首長)を務めた石峰に対し、死後に国王の側近としての地位が与えられたことや、明の学者が石峰の字を「怒れる獅子が石を砕き、のどが渇いた駿馬(しゅんめ)が泉を目指して走っていく様を思わせる」と絶賛した、という内容が刻まれているという。

 石峰の存命中、朝鮮では崔笠(チェ・リプ)=1539-1612=の文章、車天輅(チャ・チョンノ)=1556-1615=の詩、そして石峰の書が「松島の三節」と呼ばれた。石峰は陶山書院(慶尚北道安東市)の扁額をはじめ、幸州山城(京畿道高陽市)の勝戦碑や善竹橋碑、開城にある「徐敬徳神道碑」などを手掛けた。哨戒艦「天安」の沈没事故以来、石峰を生んだ開城が次第に遠い場所になっていくような気がして、残念に思えてならない。

金泰翼(キム・テイク)論説委員

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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