朝鮮は西洋との条約をどう読み誤ったのか

【新刊】崔徳寿(チェ・ドクス)著『条約に見る韓国近代史』(開かれた本たち社)

 1876年の開港から1910年の亡国まで、韓国の運命を決定したのは、韓国と各国、または列強同士が結んだ数々の条約だ。日本と清が日清戦争後に結んだ下関条約第1条は、「清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認する」となっていた。朝鮮が自主独立国であることを明示する条項が、隣国同士で結んだ条約の最初の項目に登場するのは唐突な感じだが、実は清の支配圏から朝鮮を取り除き、日本の影響力の下に置くという計算によるものだった。

 崔徳寿(チェ・ドクス)高麗大韓国史学科教授など5人が書いたこの本は、朝鮮が列強と締結した「修好通商条約」とその付属文書(原文と翻訳文)、条約締結の背景および過程はもちろん、当時の朝鮮と国際社会が条約の意味をどのように受け止めていたのかを皇城新聞、独立新聞、大韓毎日申報、ニューヨーク・タイムズ、タイムズなどを通じて説明する。特に、旧韓末(朝鮮末期から大韓帝国の時代)の30余りの条約原文をすべて掲載し、忠実に翻訳した。

 条約に盛り込まれた国際秩序を読み誤ったのは致命的だった。1882年、米国と締結した朝米修好通商条約第1条は、高宗が退位直前まで最後の望みを懸けたとりでだった。

 「もし他国が不公平に扱ったり、軽視することがあれば、必ず互いに助け合い、間に立って調整し、厚い友誼と関心を示す」

 この「仲裁調整」条項は、韓国が他国から不利益を受けた場合、米国が調整を行うという内容で、何度も論争になった。米国は実際にこの条項によって仲裁に立ったことはない。1894年、朝鮮の要請によって清と日本の紛争を調整しようと乗り出したが、2国が応じなかったため引き下がるしかなかった。

 「仲裁調整」とは、紛争当事国に仲裁を提案する次元のものであって、当事者が応じなかった場合、実力を行使して仲裁を成立させるほどの義務を課したものではないためだ。高宗は1904年の日露戦争勃発時も、米国政府に仲裁調整を要請したが拒否された。

 米国はロシアに対抗して戦う日本に友好的だったからだ。仲裁調整条項は、拡大解釈した高宗の希望とは違って、この条項は日本の脅威から朝鮮の独立を守り抜くには力不足だった、というのが著者の主張だ。

金基哲(キム・ギチョル)記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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