「20年以上前、長崎支局にいませんでしたか」。突然の電話に戸惑った。確かにいたが、その女性の声に聞き覚えはない。しかし、話を聞くうち「あー、あの時の」と記憶がよみがえった。
電話の主は宮崎市の長谷良子さん(75)。長崎への原爆投下後、爆心地へ入った「入市被爆者」だ。88年8月9日、長崎市の平和祈念式典に宮崎の遺族代表として出席した際、私が取材させてもらい、記事を書いた。
長谷さんは1941年12月から4年間、家族と長崎に住んだ。原爆投下の1カ月半前に郊外へ疎開しており、直接被爆は免れた。だが「惨状を若い人に見せておきたい」という母親に連れられて爆心地を歩いた。当時10歳。がれきを片付ける進駐軍や傾いた電車などの光景を覚えている。
被爆直後、一足先に入市していた父母は内臓を長年患った末、相次いで亡くなった。自身も38歳でリウマチを発病して以来、体が不自由だ。
しかし、電話を機にお会いした長谷さんは前向きだった。昨年、疎開時代の思い出を新聞へ投稿したのをきっかけに、弟の小学校の担任だった女性から便りが届いたと話してくれた。「こんなことがあるんですね」。新聞が取り持った不思議な縁に、声が弾んでいた。
ところで、長谷さんが新聞で見た私の名前にピンと来たのは理由がある。当時、記事とともに載った写真が欲しいと何度も頼んだのに、届くことはなく「記者の名を忘れまい」と思ったという。送らなかった理由は思い当たらないが、22年ぶりに失礼をおわびした。
覚えられ方は実にさえない。それでも、新聞記者っていい仕事だなあ、と思える再会だった。
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宮崎支局に新人記者が配属されました。東京都出身の中村清雅(26)。早大大学院で政治学を勉強しました。県警を中心に取材しています。よろしくお願いします。<宮崎支局長・池田亨>
毎日新聞 2010年4月18日 地方版