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コージの小部屋 スペシャル

玉砕の島 ペリリュー島 


パラオ共和国ペリリュー島は、知る人ぞ知る大東亜戦争末期に於ける日本軍玉砕の島です。

休暇を利用してパラオにダイビング&スノーケリングツアーに行って参りましたが、その際、このペリリュー島も訪れました。
ガイドの中川さんよりお聞きしたお話を元に、この島における日本軍玉砕について簡単に纏めてみました。

ちょっと判りにくいかもしれませんが、私の見学した順番に掲載しておりますので、ご容赦ください。


*ガイドの中川さんについて
数えで73歳になられる四国ご出身の中川さんという方にペリリュー島観光のガイドをお願い致しました。
中川さんは、若い頃ペリリュー島で育ちましたが戦争と共に徴兵で日本に戻り、そのまま敗戦後も日本で自営業を営まれていたそうです。その後、かつてご自身が住んでいたペリリュー島で亡くなった多くの日本兵を慰霊したいと考え、日本のバブルが崩壊した頃(10年ほど前)にペリリュー島へ再渡航され、日々慰霊とガイドをされていらっしゃるとのこと。
パラワン(パラオ現地人)のお子さんを引き取られて養父をされているそうです。また、中川さんのお姉さんが中村前大統領のお姉さんと同級生だったつてで、ペリリュー島に家を持って住んでいるとのことでした。
中川さんは日本政府要人や各遺族会がペリリューを訪問された際にもガイドをされており、またテレビでも中川さんの生活振りが紹介されたことがあるそうです。



【ペリリュー島の基礎データ】
・ペリリュー島はパラオ共和国の首都コロール島の南約50kmにあります。
・南北約9キロ、東西約3キロ、総面積13平方キロ、珊瑚礁に囲まれた島です。
・総人口は約700名ですが、うち日本人はガイドをして頂いた中川さんを含め4名だけとのこと。


【パラオとペリリュー島の軍事上の重要性】
米軍による日本本土空襲の拠点となったのはご承知の通りグアム、サイパンです。
また、日本軍にとってフィリピンは南方戦線上、非常に重要な拠点でした。
このパラオ共和国は日本軍にとってはフィリピン拠点の防波堤として、米軍側にとってはグアム、サイパン攻略の為の後方支援拠点として極めて重要な位置を占めていました。
したがって、日米両軍ともにパラオを奪取することが事実上南洋諸国の制海権・制空権を得ることになり、ここの奪取が戦況に大きな影響を与えることになっていたようです。
また、日本軍がペリリュー島に建設した空港は、南洋諸国随一の規模を誇り、制空権を得る上で重要な拠点だったとのこと。


【慰霊碑と残存日本兵】
総勢1万名以上いた日本守備隊は、玉砕の直前には56名に減っていたそうです。
この地で散った1万人以上の日本軍人の慰霊碑がペリリュー島北部現地人墓地の隣りに隣接されています。それぞれ生き残った遺族会の方々等が中心になって建設・整備されているそうです。
尚、戦後も終戦を知らずにこの島には34名の残存日本兵隠れ住んでいたそうです。彼らは、司令部が玉砕命令を出し、日本軍がペリリューから撤退したことは知っていたものの、日本が負けたとは夢にも思わずペリリューに隠れ家を作って住んでいました。
彼らは米軍の缶詰などを備蓄して、発見時点でもなお2年分程度の食糧貯蔵があったとのこと。
終戦2年後、どうもこの島には未だ日本兵が居るらしいとの情報があり、グアムの戦犯収容所にて捕虜となっていた日本将校をペリリューへ派遣し、空から日本が既に降伏したことを知らせたそうです。
残存日本兵も当初は警戒していましたが、日本の現況を事細かに知らされ、また日本に残る家族などからの手紙などの効果もあって、全員無事に投降したとのこと。
この玉砕から生き残った方々が立てた碑もここにはあります。
因みにこの墓地の隣りには日本政府援助により病院が建設中だそうですが、墓地の隣りに病院というのはちょっと何かな、という気がします。


【米軍機と米軍戦車】
この島は日本軍が玉砕したところですので、当然残っているものには日本軍関係が多いのですが、米軍関連もあります。
慰霊碑から島中心部へ向かう途中に、米軍機と米軍タンクが残されていました。
左写真は撃墜された米軍機の残骸です。写真は左翼部分ですが、この奥にはその他の部品も殆ど残っています。
私も詳しく無いのですが、形状からして大東亜戦争期に最も活躍した局地戦米軍機グラマン社製F6Fヘルキャットではないかな、と思います。であれば、この戦闘機は別名Zero Killerと呼ばれ、戦時中最も多くの零式戦闘機を撃墜した機種です。日本軍機の雷電によく似たシルエットです。
右写真のタンクは米軍シャーマン戦車のようで、日本軍が敷設した地雷を踏んで横転したとのこと。確かに裏に回ると大きな穴が空いています。戦車手前の碑は米国による記念碑です。
尚、この付近は未だ日本軍が敷設した地雷(但し、本来の地雷ではなく、通常の爆弾を改造して地雷にしたもの)が残っている可能性があるため、この戦車から奥はロープが張られて立ち入り禁止になっています。
ペリリューには未だに多数の不発弾や回収未済地雷が眠っており、実は結構危ないとのことで、ガイドの中川さんのお話では、先日も学校横で焚き火をしていたところ、土中に埋まった不発弾に引火して爆発があったらしいです。
主要な観光地は流石に問題ないですが、それでも迂闊に一人歩きはしないほうが良いかもしれません。


【日本軍総司令部跡】
ペリリュー島中央部やや西よりに、日本軍総司令部跡が残っています。
左写真は司令部右側面から撮影したものです。
天井には2つの大きな穴が空いており、一説では1トン爆弾の直撃を受けたとのこと。左手が正面玄関で、右手に二階に上がる階段、更にその右奥には風呂場とトイレが残っています。
この司令部が建設されたころは、よもやここが大東亜戦争有数の激戦地となり、司令部が全滅して玉砕するとは誰も思っていなかったことでしょう。
それくらい、長期的使用に耐え得るように建設された立派な建物でした。写真奥、建物正面からみて左側は殆ど無傷で残っていますが、今でも使用に耐え得る状態でした。
また、右写真のように壁面には至る所に弾痕が残っており、その攻撃の凄まじさを物語っています。但し、実際に米軍がここに進軍してきた時点では既に日本軍は裏山の洞窟に撤退しており、ここでは戦闘や戦死者は殆ど無かったとのことです。


【日本軍95式軽戦車】
ペリリュー島観光のパンフレット写真に必ず載っているのが、この95式軽戦車です。
95式軽戦車は昭和8年7月に開発要請、同年9月に設計完了というスピード開発軽戦車で、三菱重工製です。翌年年6月には早々に試作車が完成、昭和10年12月16日に正式に「95式軽戦車」と命名されました。
この戦車は写真の通り超「軽」戦車で、正直実際の戦車戦には到底耐えられるものではなかったようです。通常の戦車砲では装甲を貫通されてしまう程度の出来だったようですが、開発当時は機動性を重視する騎兵隊の要請が優先されてこのまま実践配備されたとのこと。この95式は89式とともにノモンハン大敗北の主役(?)となりました。何しろ装備されている砲塔では敵戦車の装甲を撃ち抜くだけの威力が無かったのですから、悲しい限りです。その代わりといっては何ですが、南方戦線では故障も無く非常に耐久性が高いとして好評も得ていたようです。まぁ戦闘用というよりは移動用戦車(?)、ということなのでしょう。
いずれにしても、ペリリュー戦で対峙した米軍シャーマン戦車の敵では全く無かったのは事実で、それどころかバズーカ装備の歩兵隊にも負けてしまうという悲しい戦車でした。
この戦車は大戦初期、中国北方で主に活躍しましたが、パラオ地域へ派遣された連帯は当初中国東北部派遣軍だったようなので、その意味では使い慣れた戦車であったのかもしれません。


【日本軍零式戦闘機】
日本軍が建設し、今でも現役のペリリュー空港(とはいっても滑走路があるだけ)の近くには、21型零式戦闘機が残っています。右写真は胴体部分を撮影したものです。尾翼部分には機体の緑と日の丸の赤も僅かに見て取れました。
この戦闘機は足が出たままとなっており、空港を飛び立ってすぐに撃墜されてしまったものと想像されています。
左写真はコックピット部分で、操縦桿こそ無いものの、方向舵ペダルなどは残っています。
ところで、冒頭にも書きましたが、この飛行機が飛び立ったペリリュー空港は今でも現役です。
以前は民間機定期便があり、コロール国際空港からの軽飛行機が飛んできていたそうで、ガイドの中川さんもこの空港まで送迎に来ていたこともあったそうですが、以前墜落事故(乗客乗員とも全員死亡)があってからは、利用者が激減し、最近では余り使われていないそうです。


【オレンジビーチ】
オレンジビーチの地名は、ここで数多くの米軍兵が戦死し海岸が血の色に染まった事から、戦後このように呼ばれるようになったと伝えられています。今では非常に綺麗な珊瑚礁のビーチがただ静かに波の音を奏でるのみです。
(ガイドの中川さんは、この海岸では沢山あさりが採れるが、これは米兵の血を吸っているから食べないよ、と仰っていました)。

この静かな波の音からは想像も出来ない壮絶な戦闘がここで繰り広げられました。
日本軍は米軍上陸に備え、爆弾を改造した地雷や機雷、魚雷を多数配置して、圧倒的物量を誇る米軍に対抗したそうです。先に紹介した横転したシャーマン戦車もそうした地雷に掛かったものの一つですが、このオレンジビーチでも遠浅の珊瑚礁海岸に多数の機雷が設置されたようです。

昭和19年9月15日早朝、米軍第一海兵師団28,400名がオレンジビーチよりペリリュー島上陸を開始しました。
米軍は既にこの数日前から艦砲射撃によりペリリュー島を激しく攻撃しており、この上陸作戦は比較的短期間で終結すると考えており、早朝作戦開始、昼食はこのオレンジビーチにて取る予定まで立てていたと記録にはあるそうです(このときの米軍の上陸艇は300隻以上であったと言われています)。

然し実際には日本軍守備隊の抵抗は非常に激しく、この海岸上陸には1フィート進むのに1%の損失を出したと言われています。
結局、米軍第一海兵師団は、全体の50%もの損失を出して一旦撤退します(米軍史上最低の戦果と言われているそうです)。
上陸戦は長期化し、結局米軍が上陸したのは11月でした。なんと、2ヶ月もの間、日本軍はこの厳しい状況の中で持ちこたえたことになります。尚、この状況の中で、ペリリュー島に逆上陸し、守備隊を支援した隊もあったそうです。

米軍上陸部隊である第一海兵師団迎え撃った日本守備隊は
・歩兵第二連隊第二大隊
・同第五中隊、野砲一個小隊
・工兵第三小隊(茨城・水戸連隊)
・歩兵第十五連隊第三大隊(群馬・高崎連隊)
であり、守備隊全体を率いたのは水戸連隊長中川大佐(自刃後、中将に特進)でした。
しかし、日本軍守備隊の損害も甚大であり、ある部隊では戦闘開始時の60名が戦闘終了時には15名になっていたそうです。

尚、既に米軍はこの時点で事実上の制空権を得ていたそうなので、正直この作戦で両軍併せて2万とも言われる犠牲を出した戦闘が行われた理由、特に米軍側の理由が、私にはよく判りません。
米軍がもっと上手な上陸作戦を立てていれば、両軍ともに被害は遥かに少なくて済んだかもしれないのですが。


【日本軍高射砲】
空港の北西には日本軍が最後まで抵抗した陣地があり、そこには高射砲がそのまま残っています。
今でも動きそうなほどにこの高射砲は空を見つめています。
松本零士氏の戦場漫画シリーズ(古い・・・)風に言えば、戦後60年を経てもなお、この高射砲は敵を探して大空を睨み続けている、というところでしょうか。
この高射砲のすぐ横には防空壕もあります。
また、すぐ手前にはシャーマン戦車の残骸と捕虜収容所あともあります。


【中川州(くに)男大佐自刃の場所】
米軍の上陸攻撃に圧倒的な装備と物量差がありつつも2ヶ月持ちこたえた日本守備隊でしたが、11月にはいよいよ最後の玉砕のときを迎えます。
最早これまでと悟った中川連隊長は、ペリリュー島中央にある現ブラッディー・ノーズ・リッジ・モニュメント(米国が設置した米軍犠牲者モニュメント)近くの山間の洞穴にて、玉砕を意味する暗号電文「サクラサクラ」を打電した後、自刃します。
この近くには数多くの日本軍が立てこもっており、多数の遺骨を現在でも見ることが出来ます。
左写真中央に見えるのが、遺骨です(大腿部と思われます)。
もともとは全身部分があったそうですが、徐々に散逸してしまっているそうです。ガイドの中川さんによれば、発見当時は壁にもたれかかるような感じで肋骨や頭蓋骨なども残っていたとか。
この辺りの洞穴は、米軍が日本軍が立てこもる洞穴を火炎放射器で焼き払い、順番に埋めていったらしいので、それを掘っていけばまだまだ同じ様な遺骨が出てくるだろうとのこと。
中川さんたちがパラオ共和国政府に遺骨収集と遺族への返還を働きかけているそうですが、パラオ政府は賛成したもののペリリュー地方政府が反対しており実現していないとのこと。ここでは戦争の遺物・遺骨も重要な観光資源の一部なのです。
また、パラオ人の考えでは、人は死んで土に返って安息を得られるのであって、折角既にパラオの土となっている遺骨をわざわざ掘り起こすことは、死者に対する冒涜となるという発想があることも背景にあるとのこと。

右上の写真はこのあたり一体の崖斜面です。黒く変色しているのは、当時火炎放射器で焼かれた部分だとの中川さんの説明でした。
また、この近くの山頂には「ブラッディ・ノーズ・リッジ・モニュメント」という米軍が設置した戦争犠牲者への追悼碑もあり、ここからペリリュー島を一周見渡すことが出来ます。

最後に中川大佐の最期の電文の一部を掲載します。
「地区隊ハ本二十四日以降、統一アル戦闘ヲ打切リ、残ル健在者約五十名ヲ以テ遊撃戦闘ニ移行、飽ク迄持久ニ徹シ米奴撃滅ニ邁進セシム。重軽傷者中戦闘行動不能ナルモノハ自決セシム。将兵一同聖寿ノ万歳ヲ三唱、皇運ノ弥栄ヲ祈念シ奉ル。集団ノ益々ノ発展ヲ祈ル。」
尚、こうした電文が今日まで残っているのは、中川さんによれば、当時の残存兵が米軍の目を盗んで電文を引き上げ時に持ち帰ったものがあるからとのこと(因みに、一度は米軍に見つかったもの「日本軍人として誇りを持って死んでいった者の最期の言葉を遺族に伝えるのだ、それくらいの人情すら米国軍人には無いのか」と説得して持ち帰ったものだそうです)。


【ペリリュー島民と日本人】
パラオは今でも非常に親日的な国です。
恐らく一部左翼の方には信じられないかもしれませんが、今でも子供に日本人名をつけたりしています。
さて、このペリリュー玉砕戦で、日本軍は略全滅しましたが、当時ペリリューのパラワン(パラオ人)にはどの程度の被害が出たのでしょうか。
なんと、中川さんの説明によれば直接の被害はゼロだと言うのです。
ペリリュー島民は、日本人とともに数十年暮らしており、既にお互い一体になっていましたから、ペリリューパラワンの中には日本軍とともに米軍と戦う意志を持った方もいらっしゃったらしいのですが、民間人を犠牲にしてはならぬという判断のもと、日本軍は迫り来る米軍への対抗に不足する物資や船舶を割いて、ペリリュー島民の強制疎開を実施したそうです。
日本軍玉砕後にペリリューに戻った島民は、島中に散乱する日本人の遺体を見て非常に悲しみ(しかも、当然ですが米軍は米兵遺体は埋葬しても日本兵は放置されていたので)、日本兵の遺体を埋葬してくれたそうです。。

また、ブラッディーノーズの近くにあるペリリュー神社には、米軍ニミッツ元帥による以下の日英2文が記されています。
「Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island.」
「この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶うその心根を……」

日本人が忘れてしまった心が、ここにはあります。
日本軍と聞けば、略奪と暴虐の限りを尽くしたとしか考えられない左翼の人々には、是非ともペリリューで何があったのか、よく学んで欲しいと心から感じました。



以下はパラオ共和国に関する一般的な資料です。お時間があればどうぞお読みください。

【パラオ共和国基礎情報】
・首都はコロール、通貨は米国統治時代の名残で米ドルがそのまま使われています。
・スペイン、ドイツ、日本、米国の統治を経て、1994年に独立した新しい国です。
・総面積約489km2(屋久島と略同じ)、総人口17,225人(1995年国勢調査)の小さな国です。
・言語は英語とパラオ語ですが、日本語の単語も一部パラオ語化しています。
・人種はミクロネシア系で72%がパラオ人、残りの大半はフィリピン人です。
・宗教は欧米統治が長かったので一応キリスト教です。
・政治制度は大統領制(1期4年、最長2期)、議会は2院制(上院9名、下院16名、任期4年)です。
・主要産業は観光と漁業です。
・1998年のGDPは129.6百万ドルであり、米国との自由連合盟約に基づき米国の経済援助を受ける15年間(2009年迄)に経済的自立に向けて産業開発を行う事が現在の課題とのこと。


【パラオと日本の関係】
・日本の経済援助は、無償援助が86.09億円、技術協力が9.42億円(98年までの通算)です。
・経済支援額は米国と日本の2国で大半を占めております。
・在留邦人245名(2000年7月)です(が、最近はダイビング以外でも有名になってきており、それに伴ってパラオ勤務者も増えてきているようです)。


【パラオ共和国の歴史】

和暦 西暦 略歴
1500年代 スペイン人がミクロネシア諸島を発見。
1783年 イギリス船「アンテロープ号」がアラカベサン島(コロール本島の西に位置するリゾート島)沖に座礁。このときからパラオと西洋諸国の本格的な接触が始まる。
1885年 スペイン植民地となる。
1899年 スペインがパラオを含むミクロネシア諸島をドイツへ売却。ドイツ植民地となる。
1914年 第1次世界大戦勃発。日本はドイツよりパラオを含むミクロネシア諸島を占領。
1920年 国際連盟より日本によるパラオ統治を認められる。
1922年 日本の南洋庁がコロール島に設置される。また、これに併せて日本式教育が開始される。
昭和19年 1944年9月15日 米軍第一海兵師団の上陸作戦開始。
1944年11月24日 日本軍玉砕。守備隊長中川大佐は「サクラサクラ」を打電して自刃。
昭和22年 1947年 国連太平洋信託統治領として米国統治が開始される。
昭和40年 1965年 ミクロネシア議会が発足し、パラオも代表を派遣する。
昭和53年 1978年 パラオはミクロネシア連邦より脱退する。
昭和56年 1981年 パラオ憲法発布され、自治政府が発足する。初代大統領にハルオ・レメリクが就任する。
昭和57年 1982年 パラオ・米国間にて自由連合盟約案合意される。米国は核持ち込みを主張するも、住民投票にて75%以上の賛同が得られず否認。
平成4年 1992年 住民投票にて憲法の非核条項を自由連合盟約に適用しないことへ修正することが承認される。
平成5年 1993年11月9日 自由連合盟約承認住民投票により承認される。
1993年 第4代大統領に日系のクニオ・ナカムラ(Kuniwo Nakamura)氏が就任する。
平成6年 1994年10月1日 自由連合盟約が発行、パラオ共和国として独立。同日日本もパラオ共和国を承認。
1994年11月2日 日本との外交関係を開設する。
1994年12月 国際連合に加盟する。
平成9年 1997年 ナカムラ大統領が再任される。
平成11年 1999年1月29日 東京にパラオ大使館が開設される。
1999年2月15日 パラオに日本大使館が開設される(但し、大使はフィジーと兼任)。
平成13年 2001年 第5代大統領としてトミー・レメンゲサウが就任する。


パラオ共和国観光局の公式HP(日本語)はこちらへ http://www.palau.or.jp/

2002年1月

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