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2010年5月2日(日曜日)

花も嵐も踏み越えて、行くが男の生きる道

普天間の移設問題で、鳩山総理が窮地に立たされている。
昨日は、徳田虎夫氏訪ねて、徳之島を一部訓練施設にお願いに伺ったようだ。
徳田先生とは先々月、私もお逢いしたが、以前より元気になられている。
基地の騒音は、その場に住んでいるものでないとなかなかわからない。私の住んでいる大村市のすぐ近く、古賀島にも海上自衛隊のヘリコプター基地がある。
時折、ヘリコプターが飛んでいてバリバリと空気を引き裂くような音が聞こえる。
私の住まいは、少し離れているのでさほど感じないが、先日古賀島の公民館で住民から、それこそ険しい形相で「どうしてくれるのか」と迫られた。
飛行場のすぐ側の住民にとってはたまらない。
ましてや、普天間の住宅密集地では大変なことだ。
・・・・・どこかに移設できないものだろうか。
そうかと言って、総理も焦ることはない。
誠意を尽くして、ことにあたれば、いつかは必ず道は開ける。
小沢一郎幹事長の検察審査会の「起訴相当」の決議にも驚いた。事案としてはこのブログで何回か述べたが、政治家なら誰にでもある政治資金規正法の虚偽記載に過ぎない。
新聞、テレビも大きく騒ぎ立てる。
政権交代して7ヶ月、本当に毎日いろいろなことがある。

ふと思う。
花も嵐も踏み越えて、行くは男の生きる道、
泣いてくれるな ホロホロ鳥よ
月の比叡を一人行く
西條八十作詞の古い映画、「愛染かつら」の主題歌だ。

今こそ、鳩山総理、小沢さん我々も、一体となって花も嵐も踏み越えて、政権交代当初の理想に向けての頑張るべきときなのだ。
考えれば、14、5年前、私が初当選して細川政権が誕生、意気揚々と走り回っていたら、突然。社会党が連立を離脱、自民党と組んで選挙もなしで我々は下野した。
それから、再び長い自民党1党支配の時代に戻った。
あの頃、忘れられない思い出がある。
私たち新生党の一回生20数名が集まった。
その場に見えられた渡部恒三先生が、私たちに「異国の丘」を唄ってくださった。

今日も暮れ行く 異国の丘に
友よ辛かろ、切なかろ
我慢だ待ってろ、 嵐がすぎりゃ
駆る日も来る  春も来る

それから、次の総選挙に落選、次からは当選できたものの、いわゆる政治家としての野党生活、称して「橋の下」の生活が長い間続いた。
当時の同期生で残っているものは数人に過ぎない。


2010年4月16日(金曜日)

真冬、寒の戻りに野菜もお茶も深刻に

霞ヶ関、官庁街の銀杏の大木、ごつごつとした黒い幹から、天空に刺さるような小枝、そこにも、かすかに新芽が吹き出した。
排気ガスにも汚れてない鮮やかな緑色の新芽は、私たちの心を癒して、いよいよ本格的な春の訪れを感じさせてくれる。
日毎に新芽は広がって、色も濃くなっていく。

ところが、東京はまた真冬にかけ戻った。寒い。
4月の半ばだと言うのに、冷たい雨が降り続き、先ほどは雪まで降り積もってきた。
このところの天候不順は異常だ。
街では、キャベツが1個580円、ネギが1本で200円、比較的安いモヤシ、タマネギがスーパーから姿を消した。
農家も大変だ。この寒さに葉物(野菜)は先が茶褐色に霜枯れして、出荷したくても商品にならなくて、お金にならない。
野菜の生産農家も深刻な状態に陥っている。
気象庁の予測ではこの寒さは4月一杯続きそうだ。
農水省も、この16日には霜よけの被膜など防御措置を呼びかけるとともに、キャベツなど小玉の早出しを督促する呼びかけを行った。
どこまで、効果があるか心配している。

現在、野菜農家には、野菜が売り物にならなくて甚大な被害を受けたような場合、よくあることだが天候に恵まれ豊作で価格が暴落したときには、価格下落分の一定額を補填して経営を続けられるようにしてある。
国が指定したキャベツ、白菜、大根、ネギなど14種類の野菜には、生産者と県、国がそれぞれ出資して基金を積み立てて、そこから価格が暴落した場合には、その額の9割相当分を補填しているのだ。
実際の支払いは、ALIC(エーリック)と称して農畜産機構が野菜の生産農家に直接支払いをしている。
専業の野菜農家には便利な制度だ。
このALICがいよいよ仕分けにかかる。
心配である。

もう一つ心配なことがある。
今回の冷害ではお茶農家が深刻な冷害被害を受けた。
これまでは、私にとって地元長崎の東彼杵町の茶畑はいつも心が癒される、のどかな安らぎの場だった。

大村湾に面した山肌に日本の「棚田百選」のように、芸術的ともいえる、見事に刈り込まれた茶の樹の緑色絨毯の棚畑が広がる。
ことに満月の夜など、遠く大村湾の海を背景に月明かりに茶畑を眺めていると別世界に迷い込んだような幻想にとらわれる。
その茶畑が霜害で、新芽の部分が縮れて枯れている。場所によっては鮮やかな緑の新芽が赤茶けて見える無惨な状況に陥っている。

いずれお茶、果物にも収入共済のような制度が必要ではないだろうか。


2010年4月12日(月曜日)

電動の漁船で燃費、8割削減も夢ではない

冬の山並みはいつ見ても、薄く透けてきた初老の男のザンギリ頭に見えるのは、私だけだろうか。
単調な茶褐色の山肌に、ところどころ山桜の白い花が浮き立って見える。
四国、愛媛県の宇和島に向かう高速道路の山中。
よく見ると、山々の木々が、かすかに色ついてきている。
新芽のうすい黄緑色、まだ赤紫の蕾、微妙な色彩を織り成して、いかにも山々が微笑みを始めたようだ。
早春。
今年は、まだ朝夕の寒さには厳しいものがあるが確実に春はやってきた。
今回、私は宇和島に重油やガソリンに頼らない電動漁船があるのを聞いて、なんとしてもこの目で確かめたくてやってきたのだった。
自動車はCO2を排出しないエコ・カーと称して電気自動車の時代を迎えつつある。
かねてから、私はひそかに漁船にも燃費を大幅に節減できるエコ・シップがあっていいのではないかと考え、水産庁に電動船の資料を求めていた。
最近のリチウム電池をなど蓄電池技術の進歩には目を見張るものがあって、必ず近い将来、進化した蓄電池による電動漁船の時代が来ると、私には確信に近いものがあった。
なんとなく、私には幼児のころの思い出、よくオモチャのボートを風呂に浮かべて遊んでいたことが鮮明に蘇ったのだ。当時は単電池、一個でボートは水中でプロペラを回しながら、面白いように走りまわる。
そのようなことが、私には簡単にできそうな予感があった。

なんと宇和島では、愛媛県がEVプロジェクトをたちあげて、すでに船外機で漁船の電動化が実現していたのだ。
驚いた。
養殖などに使われる船長7メートルほどのFRPの漁船に、よく見慣れた船外機がつけられている。
異なるのは船外機の上部の部分エンジン部分が取り外されて、そこにコイルを巻いたモーターが取り付けられているだけだ。
モーターも中学時代理科の実験室で、自分たちで作ったモーターを大きくしたものに過ぎないのでは。
愛媛県の部長さんが私に自慢げに語った。
「発想の転換ですよね。エンジンのような故障もないのでメンテナンスフリーです」
さらに、このFRP漁船には燃料タンクが外されてそこにはバッテリーが組み込まれている。
このバッテリー(蓄電池)に8時間(300ボルト充電で4時間)充電すれば4時間は作業に使えるそうだ。

早速、電動漁船に試乗させてもらった。

湾内を音もなく滑り出す。ブワッとエンジンを始動するときの騒音も、煙も一切出ない。
排ガス特有の匂いも一切ない。
船は波をけたたて、かなりのスピードで走り出す。
快適だ。時速も15ノットのスピードだから素晴らしい。
私は開発したアイティーオー株式会社の伊藤社長に心底感謝して次のように語った。
「是非、4,5トンの小型の漁船もモーターとバッテリーで置き替えられるようにしてほしい。地球環境に優しい漁船ができていけば、農水省としても助成を検討したい」
そうなれば、現在養殖などに使用されている船外機付のFRB漁船だけでも、燃費が年間45万円はかかるところが、8万円ですませることができ、CO2も80%削減できる。
国内10万隻の船外機付FRP漁船だけでも、モーターとバッテリーに替えたら、それだけで19万トンのCO2の排出ができる。それを取引の対象にして売却することもできるのではないだろうか。
「今年は、船外機だけでなく沿岸の小型漁船でも試作を始めます」
夢は広がる。アイティーオー会社も愛媛県も張り切っている。
是非夢を実現したい。


2010年4月6日(火曜日)

106歳の母が風姿抄を読んでいた

五島に一人で暮らしいている母が、先月の10日で106歳を迎えた。
明治37年3月10日生まれだから、NHKの大河ドラマ「坂の上の雲」の日露戦争のときに生まれたことになる。
元気なことはありがたい。
久しぶりに、先日五島の実家に戻った。
母は玄関横の廊下から安楽椅子に寄り添って庭の花を眺めていた。
やっと暖かくなって、春の日差しを身体一杯に浴びている。いかにも満足そうに目を細めている。
庭にはフリージアの黄色い花が咲き乱れている。強烈な、なんともいえない匂いが漂ってくる。
遅咲きの水仙、石段のパンジーも、植え込みのチューリップも色とりどりで鮮やかだ。
春、満開。
いつものことだが、五月の連休になると芍薬、牡丹が見事に咲き競って賑やかになる。
昔から母は花が好きだった。
今では弟が庭の花の世話をしている。
弟の話だと、母は今でも口だけはうるさいらしい。冬、廊下から弟に「寒肥」をどこに、どれだけやれと細かい指図して、思い通りにならないと悔しがるらしい。
いつまでも勝気な性格は変わらない。

ありがたいことに、最近も よく本を読んでいる。
今回、私も驚いたが、白洲正子の「風姿抄」がベッドの横に置いてあった。
白洲正子といえば、白洲次郎の妻であって、それこそ日本の古典美についてはカリスマ的な存在である。
最近日本経済聞に掲載された、細川護煕元総理「私の履歴書」のなかにも、細川さんは「私の陶磁器に対する思いは白洲正子さんから教わった」と述べている。
白洲正子さんは明治43年1月7日生まれだから、私の母のほうが6歳年長になる。
同じ時代に生きてきたものとして、感ずるものがあるのだろうか。
「どうして、白洲正子を読んでいるのか」と聞いた。聞くと言っても母は、さすがに耳は遠くなっているので、側にホワイトボードとペンが用意されている。そのようにボードに書いて渡した。
「則子(私の姉)が、長崎から買ってきてくれたから・・・」と言って、ただ笑っている。
いずれにしても、106歳になる母がメガネもかけずに、朝日新聞と長崎新聞、日本農業新聞3紙を毎日、丁寧に読んでいることは嬉しい。
近頃では、活字離れがひどくなった。
新聞も小説も雑誌も売れなくなって、廃刊が続く。なんでも学生の2割しか新聞を読まなくなったと言われている。
一方的な受身のビジュアルなテレビだけのメデアでは、人は次第に考える力が失われていく。
テレビだけ見ている老人は痴呆症になりやすいと言われている。
かつて、私の学生時代、大宅壮一が新しいテレビ時代の到来に「一億総白痴化」と警鐘を鳴らした。
私の母が106歳になっても、なおボケないのは、活字を大切にしているからではないだろうか。


2010年3月30日(火曜日)

これからの中・低層の公共建物はすべて木材で

眠れないままにテレビを入れたら、法隆寺の御本尊の話から聖徳太子の遺徳をたたえて建てられたいきさつがハイビジョンの映像で流されていた。
伽藍の天井裏から出た当時の板をもとに、その年輪から年代が鑑定されていた。何でも678年というから凄い。
今から1332年も昔に建立されて、いまだに幾多の風雪を経ながらも健在である。
正倉院はもっと古くて、建物そのものが呼吸しているから、梅雨のときなど湿度の高いときには湿気を吸って、冬の乾燥時期には吐き出して、天然の空調設備として古代の宝物を大切に保存してきた。
当時はノコギリもなく、生木を削りながら建てていったとの話には驚いた。
そういえば田舎では、10年ほど前は大工さんが生木の癖をわかって上手に一戸建ての家を建てていた。
「国産材は乾燥、乾燥してなければ使えない」とか、今のようにうるさいことは言ってなかった。

2,3週間前になるが、全国市町村会館で農水省、林野庁主催の「途上国の森林劣化についての対策ゼミナー」の国際会議が催された。
私が副大臣として歓迎の挨拶をすることになった。その控え室での話。
島田泰助林野庁長官が私に語りかけた。
「・・・・・・副大臣から、いきなり公共の建物は、これからはすべて木材で建築しようではないかと言われたときには驚きましたよ。うちの幹部も皆ができるわけがないと言っていたのです。
この国会で中・低層の公共建物はすべて、木造建築にする、しかも国産材を明記することができる法律案を鳩山内閣で閣議決定して、これから法案の審議に入るのだから夢のような話ですね」
「そうだな、言ってみるもんだな。しつこく言っているうちにできたんだから、君たちも偉いよ。国土交通省の営繕をここまで説得できるとは思わなかったな」
「国土交通省、文部科学省も積極的になりました。
なんでもインフルエンザでの休校が、木造の校舎では8割も少なかったそうです。身体にいいんですね」
昔は、小中学校の校舎もすべて木造だった。五島列島の北にある小値賀島では、小中学校を耐震構造に修復するよりも、廉価にできるとして、すべて純木造で、23年度には建てかえることが決まった。
嬉しい話である。

もとはといえば、3年前に菅直人財務大臣が民主党の代表代行時代、林業再生に取り組んで、ドイツの黒い森に、五月の連休の間、1週間も入っていたことがあった。
上り下りの急勾配の山の伐採現場を歩きながら、工務店もいくつか覗くことができた。
それで知ることになったが、ドイツの木造の家は頑丈にできていて200年はゆうに持ち続けるそうだ。
なんと1本のモミの木が製材所に運ばれると、鯨のように皮から芯の部分まで余すところなく利用される。外壁だけで20センチから30センチはあるがほとんどが集成材で作られている。
そのときに聞いた話で、私はひっくり返るくらい驚いたことがあった。
「山田さん、耐火に最も適しているのは実は純木造の建物なのです」
「え、どうしてですか」
「木は1センチメートル燃えるのに1時間かかります。容易に燃え広がりません」
なるほど、昔は火事で家が焼けても人が死ぬことなどめったになかった。
今ではクロスなど石油化学でできたものは、一瞬にして燃え広がり有毒なガスが発生して逃げる間もなく、死者が続出することになってしまった。
帰国して、すぐに国土交通省の建築の担当者に真偽を確かめた。
「そうなんです。日本でも耐火には木造建築は最適です」

それから、私の木造建築に対する信頼は願望から信仰に近くなってしまった。
東京でも5階建ての木造集合住宅の建築の確認申請を手伝い、さらに住宅金融支援機構(旧住宅金融公庫)に、耐久性がないからと中層の木造建築への融資を断るのは理不尽であると異議を唱えたりした。
今も農水省、私の副大臣室に、そのときの木造集合住宅の模型を飾っている。
今回公共建物を木造にする法案を提出するにあたって、いろいろ調べていただいたが、意外なことが分かった。
日本では、昭和30年の閣議で「耐火建築の普及奨励を促進するために、国、地方公共団体は率先して用途規模により建築物の木造禁止の範囲を拡大すること」と決定され、その旨の通達がなされていたのである。
それを受けて、日本建築学界でも34年9月に木造禁止の決議がなされていた。
それゆえだろうか。
3年程前、北海道の富良野に、日本でも有数の混合林を視察したとき、山奥の営林署の建物も鉄筋コンクリートで建てられていてがっかりしたことがある。
(そのときの話はこのブログにも書いている)

いよいよ、来週から日本の中・低層の公共建物はすべて木造で建築する法案が審議に入る。
嬉しい。


2010年3月19日(金曜日)

日本の近海のクロマグロは大丈夫か

子供のころ、3月のはじめごろには五島の富江町で、よくシビ(クロマグロの幼魚、とは言っても60センチから80センチはある)が釣れていただいたものだった。
まだサシが入る前のトロなどとはいえない赤味だったが上品な味で美味かった。
そのクロマグロがワシントン条約でシーラカンスと同様な絶滅危惧種として、大西洋地中海での漁獲、商業取引が禁止される寸前まで来ていた。
危ういところで、発展途上国の欧米諸国の身勝手さに対する反発もあって、リビアからの緊急動議が功を奏した。
18日、反対68票でモナコ提案は否決されたのだ。
よかった。皆がほっとした。
ところで、農水省としては、赤松大臣の意向もあって私がドーハ行き、各国との最後の交渉を25日本会議まで、ぎりぎり詰めることになっていた。
20日には私の主催で現地での各国の代表団を招いて、晩餐会の手筈も整えられていた。

その日の午後3時ごろ、現地から緊急連絡が入った。
何でもリビアからの緊急提案でワーキングチーム、委員会、本会議と言った手続きを踏まずに、会議の入り口でモナコ提案を否決できそうだとの情報だった。
瞬間、省内は沸き立った。
それでも、どのような巻き返しがあるかわからないので、その夜、私は海外旅行用の大きなスーツケースに衣類をつめて準備をしていた。
夜11時過ぎ、赤松大臣から電話がはいった。
「山田さん、うまく行ったよ・・・・・・」声が弾んでいる。
クロマグロが絶滅危惧種を免れた瞬間だった。

その3日前の15日、私は韓国の農林水産食品部(日本での農水省にあたる)で、ハ・ヨンジェ第二次官と向かい合っていた。
「・・・・・・ドーハでクロマグロのことで、日本の立場を支持してくれることでありがたい。ところでもう一つお願いがある。
私たちが漁獲している太平洋、日本海のクロマグロも、次の段階では絶滅危惧種として鯨のような禁止措置にならないとも限らない。
日本は、今この時期にこそ率先してクロマグロの資源管理をはかる覚悟をして、それなりに沿岸、まき網の業者と話し合いを始めている。
ついては、両国の領海内を回遊している同じクロマグロなので、韓国のまき網も日本と同様な規制をして欲しい」
ハ次官も日本の姿勢には十分な理解を示していただいた。

私が韓国にこだわったのはわけがあった。昨年10月、壱岐の勝本から若いマグロ釣り漁師が数人で私の副大臣室まで押しかけてきた。
昨年まであれだけマグロがあがって、沸いていた勝本ではまだ1本のマグロも釣れてないと嘆くのだ。
彼らは、まき網が一網打尽にクロマグロの幼魚を獲ると怒るが、それだけではない。2,3年前から山口県の見島からクロマグロが釣れなくなったように、太平洋、日本海のクロマグロも資源が激減しているのではないだろうか。
対馬でのクロマグロのヒキナワ漁も不振を囲っている。かつての五島沖のシビ(クロマグロ)釣れなくなって久しい。
今回問題になったワシントン条約でのクロマグロの資源管理をしているアイキヤットと呼ばれている太平洋、地中海マグロ類資源管理委員会が太平洋、日本海域でもあって、科学委員会のもとで資源調査が行われている。
そこでもクロマグロの資源の減少は問題になり、とりあえずこれまで以上の漁獲は禁止する旨の合意がなされたが、韓国だけは、反対の立場から留保してきた。
今回は悠長なことを言っておれない。韓国にも協力していただき、更なる日本海、東シナ海のクロマグロの資源管理に積極的に取り組まなければならない。

私は壱岐勝本町の若い漁師さんに言った。
「これからは沖合いのまき網漁も、クロマグロの漁獲については規制せざるを得ないが、沿岸の漁民の皆さんも、これまでのように無制限に獲ってはいけなくなる。
皆で限られた資源をいつまでもクロマグロの漁獲ができるようにしっかり管理しよう」
若い彼らは大きくうなずいてくれた。
秋田で3年間もハタハタの禁漁をして見事に資源を回復できたように、今クロマグロの資源管理を強化しなければならない。
クロマグロだけでなくブリ、その他の魚でもいえることだがその産卵の時期と海域では、そのつど漁獲を規制することも考えねばならないのでは。
いずれにしても、魚類の資源管理と漁業所得補償はセットで考えなければならない。


2010年2月19日(金曜日)

日本の土地改良事業をアフガンに学んではどうか

予算委員会で公共事業予算の箇所付けが事前に与党に報告されていたとして問題になっている。
国土交通省と同様、農水省でも公共事業の予算がある。
農水省では前年比37%と思い切って公共事業(土地改良事業)を減らして、農家の戸別所得補償に5618億円の予算をつけてメリハリをつけた。
現在減額されたとはいえ、農水省でも農山漁村の振興のために地方に交付される予算の配分について、優先順位の基準が政務3役でも検討がなされている。
先ずは灌漑排水が老朽化して、緊急に対策を講じなければならないところから優先すべきだと言った話になってきた。
驚いたことに、灌漑用水の施設は30年も経過すると老朽化して補修を必要とするものらしい。21年度だけでも2000億円を要している。
これからも莫大な予算が必要とされる。

私の地元大村市に、350年前の江戸時代に深沢義太夫という鯨網の親方が、個人の財産を投げ打って完成させた野岳湖(灌漑用水)がある。
ありがたいことに、いまだに200ヘクタールの水田を潤していている。
素晴らしいもので、堤も、石を組み合わせてできた斜樋、底樋は当時のままで使われている。勿論一部は補修されている。
古くからの「水守り」尾上五郎さんの話では、30年ほど前、一度だけ用水池を干したそうだが、底樋の入り口の当時の木材がそのまま残っていたそうで、石と石のつなぎは鉛が使われていたそうだ。
痛く感動した。
私がさらに感心したのは、用水地から田畑に引かれた数10キロに及ぶだろう水路が、石が積まれてできていて、いまだに水がとうとうと流れている。
ときおり、鮒などの泳ぐ姿も見られて嬉しくなってくる。

農水省で施工している現在の灌漑用水の水路は、地中に埋められた黒い鉄のパイプで作られている。バブルを開け閉めするだけで便利にはなったが、30年も経てば耐用年数がきて新たに交換しなければならなくなる。
江戸時代の野岳の用水は350年もの間、ほぼそのままで維持できたのだから凄い。

さらに凄い話がある。
アフガニスタンで、ペシャワール会(国境なき医師団)の中村哲医師がクナール河から24キロの水路を拓いて、不毛のカンべリ砂漠に、なんと3000ヘクタールもの青々とした麦畑を拓いたのだ。
しかも、政府のODA予算での助成金も一切なくて、個人の善意の寄付金を集めて完成させた。
20万人から30万人の難民が、農業で平穏な生活を取り戻すことができる。
中村医師は語る。
「私は医者なので、土木工事は素人です。九州では昔から筑後などさまざまな用水施設が今も残されています。それを見て歩きました。それを参考にコンクリートと鉄柱を使わずに、石と土だけで用水施設を拓くことにしたのです。日本に昔からあった蛇籠をとりいれました・・・・」
蛇籠とは金網に小石を詰め込んで、1立方メートルほどの籠にしたもので、それをツルハシで掘りさげた水路の両側に積み上げていく、気の遠くなるような工法を取り入れたのである。
若い日本の青年たちと延べ80万人もの現地のアフガンの人達が一体となって、黙々と汗を流して働いている様をCDで見ると、目頭がジンと熱くなってくる。
「瀕死の小国に世界中の超大国が束になってかかっている・・・」
と中村医師は嘆く。
治安は日を追うごとに悪くなって、記憶に新しいが、日本から来ていた伊藤和也さんは心無きテロによって殺された。
犠牲になった伊藤さんが現地で、頭をタオルできびって、にっこりとした笑顔は、何度見ても素晴らしい。
伊藤さんはもう日本に帰ってくることはないが、今アフガンではケシの花に変わって
彼が持ち込んだお茶の木が立派に育ち始めている。
さらにアフガンでは、日本から中村さんたちによって持ち込まれたサツマイモの栽培が人気を呼んでいるそうだ。
水路の側には、ガゼの樹の植林も始まった。7万本の植林が計画されている。

日本の農業公共事業のあり方も、ここいらで考え直さなければならないときにきた。


2010年2月12日(金曜日)

日本の酪農はこのままでいいのだろうか

「最近、どうだろう、私には昔と比べて牛乳が不味くなったと思うが・・・・」と、酪農家の集まりで、言い出すと、皆がぎよっとしたような顔をしている。
私にはそう思えてならない。
「・・・そう言っても、副大臣。今ではお店では薄くて安い調整牛乳しか売れなくなっているのです。消費者の思考が変わってきたのです」
と反論する。
本当だろうか。牛乳の消費もどんどん落ち込んでいる。
売れない。経営は厳しくなって酪農を辞める人も後を絶たない。

いよいよ、私達農水省の政務三役も平成22年度の畜産物の価格を2月中に決定しなければならない。
久しぶりに、現場の声をききに、私も長崎の島原半島に酪農家、宮本貞寿さんの牧場にやってきた。
昔の畜産の仲間だ。すでに親父に代わって息子の時代になっている。
昔、私がよく来ていたころの臭くて汚い畜舎はなくなって、近代的な酪農経営に変わっている。畜舎も2億円ほどかかったそうだが、新築されて、給餌も乳搾りもすべて自動化されている。
牛も1頭ずつ繋がれてないので、ストレスがないのか、のんびりとしている。
「おかげで、牛の病気もなくなって、皆1万キロリットルは出せるようになりました」と息子も胸を張っている。
感嘆した。
庭先で久しぶりに絞りたての牛乳をいただいた。
「美味しい」ヤカンで沸かしたそうだが、コクがあって子供のころの牛乳の味だ。
若奥さんが手作りの牛乳豆腐も用意していた。豆腐と代わらない形だが弾力あってなかなかいける。
同じ酪農家の三宅さんの奥さんが作った「生キャラメル」も並べてあった。
食べると口の中で溶けてくる。
「これは北海道産よりもうまいのではないのか」思わず言ってしまった。
布巾で絞ったばかりのふわふわしたチーズもある。
「貞寿、どうして最近の市販している牛乳は不味いのだろうか」
私は思わず尋ねた。
「・・・・・市販の牛乳は、一瞬に100度以上の高温で熱殺菌しているからで、これは昔のように60度で40分間かけて殺菌したものだから、このように上に薄い脂肪の幕が張って、生と変わらない味がするんだよ」
なるほど、そういう事情もあったのか。
私は息子に語った。
「私が昔、君の親父と畜産やっていた時代には、ホルスタインは7000キロも乳を搾れればいいほうだったぞ。
今では1万キロはだせるスーパーカウばかりだと自慢しているが、2産か3産で廃牛にせざるをえないようだが、私の頃は5産か6産まで牛は丈夫で乳が搾れた。(酪農は牛に子供生ませることで乳を搾る)
粗飼料も藁を使っていたが・・・。どちらがコスト的にはいいのか考えてごらん。さらに丈夫で健康な牛こそ、人の身体にも良い乳が出るのではないだろうか」

私にはそう思えてならない。
農水省の酪農行政、これまでのスーパーカウの多頭飼育、大規模化は間違いだったのでは。
多くの農家が億単位の負債を抱えて倒産、自殺するなどを数多くの凄惨な事例をこの目で見て、そして話も聞いてきた。
先日も九州の酪農家の集まりで、牛乳が不味くなった話をしたら
「確かに、牧場で子供たちに、生の乳を沸かして飲ませたら、こんなに牛乳は美味いのかと驚かれる。それなのにお店で買って飲む牛乳は、何かうすい感がして味が違うといわれる・・・・」と語り始めた。
「どうだ。夫婦で50頭も牛を飼っていると早朝から夜遅くまで仕事が大変だろう。思い切って10頭ほどに減らして、低温殺菌できる台所ほどの小さなプラントをこしらえて、学校給食に使ってもらう、昔のように近所の子供のいる家庭に宅配したらどうだろうか。
これこそ農業者が加工して、販売する「6次産業」路線で、私たち新政権では無担保、保証人も要らない無利息の融資ができるよ」と話した。
一瞬ではあったが、酪農家の目が強く輝いた。
私にも苦い経験があるが、億単位の負債を抱えていると、規模を縮小するにしても、支払いを考えるとできない。さらに負債を抱えていく。
考えなければならない。


2010年2月1日(月曜日)

東條英機に逆らった大審院判事、吉田さんの「気骨の判決」

相変わらず、新聞テレビで小沢一郎幹事長の問題で、ゼネコンからいかにも裏献金を受けていたかのような報道が続いた。
誰が考えても、検察からのリークとしか考えられない。これは、検察官、公務員のまさに守秘義務違反になるのではないだろうか。
あれだけ騒がれて小沢一郎が党の代表を辞任せざるを得なかった、大久保秘書の西松建設の迂回献金事件にしても、裁判での証人調べでも西松の政治団体の事務所があり、事務員もいて実態があったことが明らかになってきた。
前回の起訴だけでは無罪になる公算が大きい。
事実、今回小沢一郎幹事長は不起訴になった。
土地購入の資金にしても、小沢一郎は、個人のお金だと述べて個人の預金口座も、妻の個人口座も明らかにしている。
小沢一郎の父が所有していた湯島の土地の売却代金を本人らの口座に入れていたものと聞いている。
そうであれば、石川衆議員ら3人が逮捕されて起訴されたのは、単なる政治資金の届出の記載のミス、政治資金規正法違反の虚偽記載に過ぎない。
私もそうだが、政治家は政治資金の申告の書類にまで目を通すことはない。間違っていて修正申告したが、誰でも1、2度は経験しているはずだ。
形式犯なので修正申告で終わるべきところを逮捕され、しかも起訴されて民主党を離党せざるを得なくなった。
それでいて新聞、テレビの世論調査では、82%の国民が小沢一郎は説明責任を果たしていない、さらに70%の国民が幹事長を辞任すべきだと考えているという。
国民の世論はどうしてこうなったのだろうか。
私はマスコミの報道の姿勢に問題があると思う。
大手新聞社のかつての編集長が私に語ったことがある。
「検察の批判記事を書くと、その社は翌日から1月間は記者会見から外されるのです。それでは報道の公正が担保されないと、抗議しようということになったら、現場のデスクからの猛反対で、結局できなかった。
うちだけ特種を落としたらどうなりますか」といわれてしまった。
検察が正義としてマスコミが報道して、国民世論をリードする。
残念である。

私の農水省の副大臣室に、精糖業界の久野修慈会長が尋ねてきた。サトウキビの話だったが、その2,3日後、清永聡さん著の「気骨の判決」の新書と一本の映画ビデを届けてくれた。
私は早速ビデオ映画を見せていただいて、とめどもなく涙が溢れてきた。
昭和17年、私が生まれた年である。
大審院の判事(今で言うところの最高裁判所の裁判官)吉田久さんは、その年に行われた衆議院の選挙が無効である判決を下したのである。
当時は太平洋戦争の真っ只中、新聞、ラジオを始めほとんどの国民が「鬼畜米英」のもとに、高揚していた。
その年、東條英機元帥が首相として、大政翼賛会による総選挙がなされた。
選挙は、大政翼賛会の推薦候補だけを、知事も教育委員会、警察も一緒になっての組織ぐるみで行う、今では考えられない選挙が繰り広げられたのだ。
吉田大審院判事は、警視総監、司法大臣などから筆舌に尽くしがたい脅迫を受けながら命がけで、法に従い、選挙が無効である旨の正しい判決を下したのである。
体制の流れに、屈することなく法の正義のために命をかけての気骨の判決だった。

かつて吉田さんの秘書をしていた久野氏が、吉田さんに聞かれたそうだ。
「正義とは何ですか」
久野さんの期待に反して
「正義とは、正義とは倒れているおばあさんがいれば、背負って病院に連れて行ってあげることだ」と応えたそうだ。


2010年1月16日(土曜日)

石川議員逮捕に絡んで、今こそ、「可視化法案」の審議を

石川知裕衆議院議員がいきなり逮捕された。
政治資金規正法虚偽記載の疑いだが、一般に考えれば、これだけの嫌疑で3人も逮捕することなどありえないことである。
私も10年ほど前に、政治資金規正法虚偽記載があったとして、当時の朝日新聞に写真入で報道されたことがあった。
単なる過ちだったので、すぐに修正申告をしてことなきを得た。
誰でも政治家であれば、1,2度は経験しているのではないだろうか。
石川君の場合、金額が大きいから逮捕したのだとすれば、鳩山総理の献金問題はそれ以上に金額は大きい。
もともと政治資金規正法は、政治家、立法府の金の流れの透明化を図る自浄努力を政治家立法府が法律にしたものである。
検察と小沢の対決の因縁があったとしても、司法がそこまで立法府に、あからさまに、そこまで介入するのは問題ではないだろうか。
民主党大会での鈴木宗男代議士の訴えは、自らの体験をもとにしたもので、心に迫るものがあり、弁護士である私にとっては深く刺さった。
私も若いころに苦い思い出がある。
弁護士を始めて間もないころ、刑事事件の弁護が楽しくて冤罪事件を扱いたかった。
ある県庁職員の贈収賄事件を奥様から依頼受け、毎日のように拘置所まで接見(面会)に行った。
本人が事実を強く否認するので、何とか無罪であることを明らかにしたかった。
あまりにも頻繁な私の接見を、押しとどめようとする刑事たちを振り払って接見した。
ところが、突然被疑者が、「先生、犬小屋に200万円を置いてあるので、そのお金を部屋の鏡台の下、さらに畳を剥いでその下に隠してくれと家内に言ってくれ」と言い出したのです。
私は、やはり業者からお金をいただいていたのだと無罪だと信じ込んで頑張っていたのにがっくりしました。
警察署の前で、不安そうに私の報告を待っている奥さんに、私はありのままにその事実を告げたのです。
最後に一言「そのようなことをしたら、証拠隠滅罪になりかねませんから注意してください」と付け加えておきました。
その翌日、いきなり刑事が5,6人で被疑者の自宅にきて、カメラで写真撮影しながら鏡台の畳を剥いで現場検証したのです。
奥さんは前夜、よほど主人の言う通りにしようかと考えたら眠れなかったそうです。
それでも最後の私の一言が気になって、そうしなかったのです。
その場で、鏡台の下から何も出てこなかったので、刑事は奥さんに「山田先生から何も聞かなかったか」とたずねたそうです。
すでに私(弁護士)の証拠隠滅罪での逮捕令状も用意していたそうで、後でそれを聞いて、ぞっとしました。
もしも、奥さんが犬小屋から200万円を鏡台の下に移していたら、私は逮捕されて、いくら争っても、証拠が明白だとして弁護士の資格を剥奪されていたことでしょう。
鈴木宗男が行った「警察、検察は怖いところで、狙ったらなんでもできる・・・」と話したのは本当のことなのです。
小沢一郎幹事長も、その官憲と戦うのですから大変です。
昨年17年間も無実の罪で拘留されていた菅家さんの話は記憶に新しいと思います。
刑事弁護に当たっていると捜査での菅家さんが述べているようなことは、よく聞くことなのです。
取調べの調書も私が刑事弁護をしているころは、手書きでしたが、今はワープロで署名もコピーで貼り付けも書き換えも簡単にできます。
これは恐ろしいことです。
私たち民主党は野党時代に、すべての検察、警察の取調べをビデオで記録してなければ、刑事裁判上では証拠として認められない趣旨の「取調べ可視化法案」を国会に提出しました。
今、コンビニでも、どこでも監視用のビデオが回っています。
先進国では、取調べのすべてをビデオで明らかにすることは、すでに常識です。
今回の小沢一郎の不動産購入資金に関する疑惑も、検察と小沢の対決としてマスコミは面白く例えているが、今こそ「可視化法案」を真剣に討議すべきときです。


2010年1月13日(水曜日)

家内が亡くなった

夜8時、羽田に着いた。
滑走路は雨に濡れ、静かに光っている。
冷たい雨が降っている。
羽田から赤坂の宿舎へ向かう車窓から、ぼんやりと外を見る。
冷たい雨の中、高速道路は、赤と黄色の光の波が走る。
暗い夜の闇の中、次第にビルの赤や青のネオンが鮮やかになってきた。
冷たい雨が降り続いている。路面も濡れて光っている。
・・・・・・家内が亡くなったのだ。
昨日の葬式のことが走馬灯のように、私の頭の中をめぐり始める。
幸子。
本当に亡くなってしまったのだ。
もう2度と話しすることも、喧嘩して言い合うこともなくなったのだ。
・・・・・・これまでに、いろいろとあった。
すまなかった。
私には君を思いやる優しさがなかった。
ただ、がむしゃらに自分のやりたいことだけをやり通した。
君のこと、子供たちのこと一切を顧みることがなかった。
君は私の非情を恨んで亡くなったのだろうか。
・・・・・それでも君は、4人の子供をそれなりに立派に育ててくれた。
ありがとう。
心から感謝する。

君は救急車で病院に運ばれ、そのままもう意識を回復することはなかった。すでに体温も測れないくらい低くなっていた。
私は冷たくなっている、右腕をさすった。少しでも体温が上がってくれればと、さすり続けた。・・・・・・孫たちも。
「こら、幸子、しっかりしろ」激しく身体をゆすった。三途の川から引き戻したかった。
君は呼吸器をつけて、顔を高潮させ必死でゼーゼー激しい息使いをしながら、最後まで生きる闘いを続けていた。
健気だった。
それでも家内は天国に旅立った。これまでにないような、多くの人達の盛大なお見送りを受けて。

冷たい雨が、今も降り続いている。


2010年1月5日(火曜日)

福江島で小さな、小さな成人式に参列して、決意を新たにする

一、
年の始めの例(ためし)とて
終わりなき世のめでたさを
松竹(まつたけ)たてて門(かど)ごとに
祝う今日こそ楽しけれ

二、
初日の光差し出でて
四方(よも)に輝く今朝の空
君が御影(みかげ)に比(たぐ)えつつ
仰ぎ見るこそ尊けれ


今年も新しい年、五島福江商工会議所の新年会で「1月1日(年のはじめ)」の唄を皆で合唱する。なにやら「坂の上の雲」を思わせる古い日本の歌である。
日本でも最果ての五島列島では、今でも正月には必ず唄われる。唄いながら、ひととき私の気持ちものどかになる。

子供のころの正月は、何もかもピカピカで空気までが新しく、それでいて厳粛だった。
ひとしきり、賀詞を交わした後、私は岐宿町の日本でも最も小さいであろう「成人式」に参列した。40人の新成人が、それぞれが色鮮やかな振袖姿で晴れやかに席に座っている。
男の子は紋付袴のいでたちも見られる。そこだけが蝶が舞っているような華やぎがある。
後ろの席には両親、おばあさん、子供たち、家族が、温かく見守っている。
一段と高いひな壇には、日の丸の国旗が飾られ、見事な松の盆栽が添えられていている。
少し頭の禿げた副市長が厳粛な面持ちで、名前を読み上げて一人ひとりに「成人証書」を手渡す。新成人たちも姿勢を正して、緊張した面持ちで恭しく「成人証書」を受け取る。
齢を重ねてきた私にとっては、最近の荒れた成人式の報道しか接してなかったので、すがすがしい気分になる。

その後、新成人を代表して3人が壇上からそれぞれに、成人を迎えての抱負を壇上から発表する。

「式」・・・・・節目というものは大切なことなのだ。
私も、新しい年を迎えて、決意を新たにする。


2009年12月30日(水曜日)

韓国映画「牛の鈴音」に、改めて農業のあり方を考える

今年も終わる。
いろいろな思いが頭をよぎる。
最後、私は銀座のシネパトスに韓国の映画「牛の鈴音」を見に行った。
新聞で知って、どうしても見ておきたかった。
韓国の山深い農村での老農夫と老牛とのドキュメンタリー映画で、今では日本で失われてしまった懐かしい農村の風景に出会いたかった。
五島でも、私の若いころまでは、どこの家でも、住まいの土間のうちに家族の一員として牛を飼っていた。
農作業をすべて牛に頼っていたのだ。
牛車もこの映画ではゴムのタイヤに変わっていたが、当時の五島では木と鉄の輪でできていて、土埃のたつ道路をゴトン、ゴトンと揺られていたものだ。
朝早く、父が映画のチェ爺さんのように裏畑の畦草を鎌で刈り取っては、背負ってきて牛に与えていた。
子供のころだったが、父がじっと牛を見つめている視線は、映画のチェ爺さんと通じるものがある。
母が朝餉の米のとぎ汁を牛の桶にいれて飲ませる。
小学校高学年のころだろうか。
私は父に聞きながら、始めて牛に鞍をつけ、鋤を引いて畑を耕した。牛を使えば、こんなにも土を耕すのが軽やかで、しかも早いのかに驚いたことがあった。
トラクターなどの無い時代、牛が役牛として、いかに農家にとっては大切なものであったか。CO2も排出することなく、化学肥料、農薬も使っていなかった。
そのころまでは、日本でも循環型の農業が普通に営まれていた。
わずか50年にもならない前のことで不思議な気がする。
今では日本から農耕用の役牛は消えてなくなり、肉牛、乳牛などの畜産に代わってしまったが・・・・・・。
映画でチェ爺さんは、婆さんにいくらやかましく乞われても農薬を一切使わない。牛の餌になる畦草が農薬で毒されると思い込んでいる。
爺さんは若いころ、針治療に失敗してビッコを引いている。
79歳の爺さんは腰も曲がっていて、農作業の一つ一つの所作が大変だ。ゆっくりとこなしている。
田植え、稲刈りにしても、隣の水田ではトラクターのハーベスターであっという間に収穫を終えるのに、いまだに手作業、鎌を使ってこつこつと続けている。
老牛も40歳。
毎朝、老牛は30年もの間、牛車を引いて畑に爺さんと婆さんを連れて行く。
とぼとぼと車を引く老牛に、山村の四季の移ろいが、溶け込んでなんとも鮮やかである。
私の田舎でも、牛が7産8産もしたら婆牛として、家畜市場に連れて行かれる。そこで廃牛としてミンチなどの肉にされていくのだ。
私も、かつて牛を飼っていたが、牛の寿命はせいぜい10年か15年のものと思っていた。
老牛の白いまつげも長い。見るからに角も節々が割れて年輪を感じさせる。
寡黙なチェ爺さんだが、「牛は人間より大事だ」とポソリとつぶやく。
爺さんの老牛へのこまやかな思いやりが、全編に滲み出ていてなんともいえない暖かさを感じる。
牛の世話、農作業と婆さんも腰が曲がって、これ以上働けないとぼやく。
「何で、いつまでも働くのよ」
「生きているから、仕事するんで死んだらゆっくり休むよ」
と爺さんは応えて、何をいわれても動じない。
頭が痛くなって、牛車で町の病院に行く。医者からは働くのは無理だといわれるが、朝になれば牛のために畑の畦草を刈りに行く。
「せめて飼料を買って牛にやればいいのに、何んでそうしないのか」と婆さんにののしられる。

今では日本でも、ほとんどの老人が介護施設で生活しているのに。
沖縄のサトウキビ農家も言っていた。
「わずかな畑でも、90歳になっても働くことが楽しみで、健康のもとなんです」
考えさせられる。

爺さんが足も怪我してしまった。医者からはこれ以上働くことは無理だといわれる。やむを得ず、町の家畜市場に老牛を売りにいく。
市場では、家畜商たちに老牛を口汚くののしられて、爺さんは怒って売らないことにする。
その瞬間、牛の大きな目からツーと泪が落ちる。

その年の冬、山から小枝などの薪をせっせと運んでいた老牛は動けなくなる。
チェ爺さんが必死で動かそうとする。
「・・・・・・・お前のおかげで9人の子供を育てることができた。この冬の薪もこんなに集めてくれた」
婆さんが老牛をねぎらう。
チェ爺さんが牛の鼻繰り(輪)を静かに離す。牛の鈴も放す。
老牛は応えるかのように、首を大きく振ってそのまま動かなくなった。

「リーン、リーン・・・・・・」
優しい牛の鈴の音が、今も私の耳に聞こえてくる。


2009年12月26日(土曜日)

南アフリカ本場のゴスペルに、魂が揺さぶられる

秋田は雪が深かった。
飛行機が飛ばないとのことで、朝早く、新幹線で講演に出かけた。
農業戸別所得補償という、新しい大胆な改革だけに、秋田のおばこ農協組合員1300人は真顔だ。真剣に聞き入って熱気がこもっている。
質問も鋭く、私もついつい時間をオーバーして話も1時間半に及んだ。
その夜、6時半に東京駅に帰着したが、そのまま車で渋谷CCレモンホールに送ってもらった。
「ゴスペルのキップが入手できたので、クリスマスキャロルのコンサート行くのだ」
羽石秘書官が、少し驚いた顔をしている。
予算、予算、会議、講演の連続で、こんな年末のいそがしい時期に私がコンサートに突然行くのは似つかわしくなかったに違いない。
読売新聞に「南アフリカよりゴスペルのルーツ初来日」との小さな記事を見て、なんとしてもあの魂の叫びゴスペルの本場もの(アメリカでも2年連続でグラミー賞をいただいている)を聞きたくなった。
良かった。
まさに全身を使っての激しい動き、魂を揺さぶるような腹のそこからの響き。太鼓の音もシンプルだが、また何かを叫んでいる。次第に魅いられながら、私は南アフリカ、アパルトヘイトの激しい弾圧のなか、ソウェト地区で生まれたゴスペルに、いろいろな思いが重なってきた。
マンデラの獄中での生活・・・・日本でも上映された映画「遠い夜明け」もソウェト地区の話だった。

私はコンサートからの帰り、ビデオショップに寄ってDVD「遠い夜明け」を借りてきた。20年ぶりに見た映画はさらに感動した。

主人公の、若いステーブビコ、黒人による黒人のための黒人の病院の建設に奔走し、黒人の文化と誇りを訴え続けたビコ・・・・・・無残にも獄中で拷問を受け殺された。
さらに、数多くの黒人活動家が獄中で殺されている。
ソウェト地区では、当時夫婦であっても一緒に生活できるのは年に1,2回しかなかった。虫けらのように扱われていたのだ。
差別撤廃を求める学生たちの激しいデモ、ところが激しい弾圧で、一時期に700人もの若い人達が無残にも機銃で殺されていく。
自由と公平を求めて、殺されても、さらに殺されても、湧き上がってくるように素手で戦う。
「神の改革を待つ時間は無い。今立ち上がらなければならない」
白人の新聞記者ドナルド・ウッズも叫ぶ。命がけで国外に亡命して真実を明らかにした。
ゴスペルに秘められた死を恐れずに立ち向かう祈り。・・・・・その叫び。


対馬をエコの島に、トヨタの奥田相談役とおおいに語る

雑誌「島へ。」を創刊して、あしかけ9年、50号を迎える。
今回、特集の座談会でトヨタ自動車の奥田碩相談役と対談した。
面白かった。
トヨタの奥田さんといえば、この前まで経団連の会長をなさっていた超有名な方である。
たまたま愛馬の日に馬事公苑で、お逢いすることができていろいろお話したのがきっかけだった。
私の著書「小説日米食糧戦争―日本の飢える日」を読んでいただいたのだ。
「山田さん、大変面白かった。このようなことは現実に2回、3回と現実に起こりうることだと思う」と大変に褒めていただいた。
それがきっかけで「島へ。」の雑誌での対談に結びついた。
奥田会長は、大変に気さくな方で、終始にこやかに、自分から語るのではなく、むしろ私の話を丁寧に聞いてくださった。
驚いたことには、奥田会長は大変な読書家でもあった。
日本の歴史でも、正史として語られていることより、小林恵(やす)子さんの日本の外史「興亡古代史」を読んでいて、万葉集の詠み人の不明となっているところもすべて解読できると面白そうに語ってくれた。
そういえば、古くから対馬に伝わっていた阿比留文字は表音文字だと聞いたが、どこか相通じるものがあるかも知れない。
「秋篠宮様の何かのお手伝いをなさっているそうだが、そのときに宮家から「韃靼そば」をいただいた。
韃靼と言えば、今日本経済新聞に、対馬を舞台に「韃靼の馬」と言う小説が連載されているが、韃靼国といえば、中国大陸の国でしょう・・・・・・」
と奥田会長は語る。
「私が生まれた五島列島の三井楽は、万葉集にもみみらくとして歌われていますが、今でも柏という部落があって、潮帆(風に向けての帆ではなく、海流の流れに帆をかけて走行する)で韓国の済州島などと行き来していたときいています」
古代から韓国、中国大陸との交流が頻繁になされていたのだろう。
話は弾んだ。
トヨタ自動車は和歌山に山を所有して林業も手がけている。
対馬を間伐材を活用したバイオマス発電、風力、潮力発電など再生可能なエネルギーで燃料を賄える島にできないだろうか。
先日、農水省を訪ねてきたデンマークの大使の話では、サムソー島では再生可能自然エネルギーで140%賄っている。その隣の島、ボーンホルム島では、人口も対馬と変わらない5万人ほどだが、今年の3月から、再生可能自然エネルギーを活用しての「スマートグリッド」の実験が始まっている。
奥田会長も喜んだ。
トヨタ自動車で開発中のプラグインのハイブリッドの電気自動車、新しい蓄電池の話から。デンマークのボーンホルム島を一緒に見に行こうではないか。
そして、日本での「スマートグリッド」の最初のモデル事業を対馬で始めよう。
話は盛り上がった。
対馬で、家庭用の電力から、車も漁船も再生可能自然エネルギーによる蓄電池を利用したエコの島にすれば面白い。
明けて1月23日、対馬で林業の大きなイベントを予定している。


2009年12月21日(月曜日)

いよいよ戸別所得補償の予算も大詰めに

風は冷たい。空は蒼く澄み切っている。
国会議事堂正門の通りから、農水省のある霞ヶ関の通りの銀杏並木が、金色に最後の輝きを増している。
はらはら、はらはらと金色の銀杏の葉が舞いながら落ちてくる。
いつしか、降り積もって、金色の絨毯があちこちの生垣の上にできてきた。
師走、いつも予算編成の最中、霞ヶ関で見られる風景である。
農水省の予算もここに来て、大詰めの段階を迎えた。
私たちが要求してきた戸別所得補償のモデル事業5600億円の予算が認められるかどうか。
米つくりの恒常的な赤字部分の定額の補償部分は、いくらになるか。
いよいよ、赤松農水大臣と藤井財務大臣との最終的な折衝が始まる。
それを受けて政務3役で定額部分を決定することになる。
これまでにもいろいろな思惑といきさつが財務省、国家戦略室、行政刷新会議との間に繰り広げられた。
なかでも事業仕分け、国民の間ではかなり評価されたが、わずか1時間の審議で決められていくことに残念な思いも残った。
もう少し、丁寧に説明してもらえば、分かってもらえたのに。
党からの要望も最後になってきついものがあった。
与党の議員さんたちからは私が主催する政策会議では、かなり激しい罵倒も浴びせられた。
「与党なんだから、決定前に我々の意見を聞くべきだ」「日本農業新聞に次々と報道されているのに、何故我々に決まっていることを報告できないのか」
・・・・・・と。
しかし、これまで自公政権が農水族議員と全中などの農業団体の圧力で政治家と官僚、業界団体との鉄のトライアングルは、今回の政権交代で完全に断ち切れた。
党の幹事長室が業界からの要望は受けてくれる。
与党の議員さんも、最終的には政務3役の決定をサポートしてくれる。
だからこそ、懸案の戸別所得補償のモデル事業を5600億円を、迅速に政務3役「赤松チーム」で決定できたのだ。
いよいよ、最後の大臣間の交渉までもう一歩。
満額の決定が待たれる。

突然、秘書官から電話がかかった。
「今晩遅くもう一回開かれる予定の政府税調は、明日早朝になりそうです」
そうだA重油の農業、漁業者に対する免税措置は、まだ決まっていない。
今晩の「税調」の禁足は解けたが・・・・・・・・。

霞ヶ関の大通りに、金色の銀杏の葉は、一陣の風に吹かれてキラキラと輝いて落ちてくる。


2009年12月13日(日曜日)

年の瀬のひと時、学生時代のクラス会で昔に戻る

久しぶりに学生時代のクラスの仲間が10人ほど集まった。
私の農水副大臣就任のお祝いだと言う。「大臣にでもなればお祝いを・・・」と言って断ったが、「大臣になれるかどうか分からないのに、今やっておかなくては・・・」と言われて、それもそうだと出かけて行った。
懐かしい。もう皆いい齢だ。髪も白くなっている。酒よりも話が弾む。
「それにしても、俺はなんとなく早稲田に入って、なんとなく、まーまーの会社に勤めて、なんとなく会社役員にもなって、なんとなく勤めも終わったが、山田は、今でも自分のやりたいことをやり、やろうとしているから感心するよ」
渡辺がしみじみ語る。
「おい、学生時代山田は授業も出てこずに成績も「可」ばかりだったろう。よく卒業できたよ(大学時代の成績が当時「優」「良」「可」の段階に分かれていて、皆「優」がほとんどで一流の商社など会社に就職していった)
試験のとき、隣に山田がいたので、俺の答案を見ろ(カンニング)と渡したが、俺は見らんと断られたのを覚えているな」と三木が笑いながら話しはじめる。
「早稲田キャンパス新聞を山田が創刊したとき、俺は勉強もしなければならないし、もう辞めるよ、思い出になってよかった」と言ったら
「お前は思い出つくりにやったのか」とえらい山田に怒られたのを覚えている」
羽村が懐かしそうに話す。
負けずに、平川が大声で語る。
「味噌汁をぶっ掛けられたな。俺が帰ると晩御飯は全部山田に食べられて何も無い。親父と酒を飲んでいる・・・・・・」
学生時代、松園ヤクルトオーナーの「書生」を首になって、転がり込んだのが親友の平川の実家、お肉屋さんだった。
そこで、平川の親父、お袋に、実の子供以上に可愛がってもらった。
もう二人とも他界してしまったが、20年も前に親父の訃報を聞いて、慌てて五島列島から駆けつけ、火葬場でやっと逢うことができた。
昨日のことのように思い出す。
今、考えると、いつも着流しの着物ので、江戸っ子の大店の旦那風の懐の深い親父さんだった。
お袋さんもキップがよかった。いつもエプロン姿でせわしく働いている。
「山田君、何をぐずぐず食べているのよ。商売人は早飯、早糞よ」と怒られていたのが懐かしい。
私は、平川の肉屋の2階に寝泊りさせていただいていたが、よく仲間が集まって酒を飲んで大騒ぎしたものだが、あるとき2階のネタが落ちてご迷惑かけたが、一言も怒られなかった。
「平川の親父は、皆、世話になった。ことに山田を可愛がっていたが、人を見る目があったんだな」
話はいつまでも尽きない。
昔の仲間もいいものだ。


2009年12月4日(金曜日)

野田財務副大臣といよいよ「友情を持って」キック・オフ

臨時国会も今日で終わった。
年末を迎えて、22年度の予算編成も、いよいよ大詰を迎えてきた。
先日は、国家戦略局の古川副大臣と国会議事堂内の控え室でカレーライスを食べながら、予算について会談、今日はいよいよ野田財務副大臣と差しの話し合いだ。
衆議院会館の一室で、野田さんは財務省主計局の次長、稲垣さんを連れて、私は農水省の針原総括審議官を横に、話し合いは、穏やかに始められた。
「山田さん、来年は税収が9兆円も減るのです。行政刷新会議の仕分けを入れても2,7兆円しかマニフエストの新たな予算はありません。
戸別所得補償のモデル事業は、大幅に縮減できませんか、米は余っているのに何故米からはじめるのですか」
いつもの落ち着いた話かただが、いきなり本丸に切り込んでくる。
「野田さんは記者会見でも、誤解されているようですが、実はそうではないのです。
今、日本の水田は4割も減反して、毎年2万ヘクタールの耕作放棄地が出ているのです。
かつて60キロ2万3000円していた米価が、今では農家の手取りは1万2000円にすぎません。
このところずっと恒常的な赤字で困っていますが、それでも先祖からの田畑を荒らすわけには行かず、年金など兼業で、65歳以上の高齢者でかろうじて稲作農業を続けているのです。
そこに欧米並みに所得補償をしよう。主食用の米は年々需要が減っているので、生産数量目標に参加した農家にだけ、定額の所得補償を直接支払いするのです。
今までは、米を作らない20万ヘクタールの水張り調整田など、主食用の米を生産しないことにお金を払っていましたが、来年からはそんなことにはお金は使いません。
麦、大豆、米粉、飼料米の作付けに、主食用米並み、それ以上のお金を出すのです。
それがセットで予算にすると5600億円です」
私の話も次第に熱を帯びる。
「例え、マニフエストに書き込んでいたことでも、こんなに税収が減っては、来年度はそれぞれに縮減していただけなければ、予算は組めないのです」
野田さんもたたみかけてくる。
「菅副総理も、これからは日本もデフレに入ったと言っていますが、日本は外国から借金しているわけではないので、こんなときこそ榊原英資さんがおっしゃっているように、景気対策のために10兆円でも国債を発行したらどうですか」
「そんなことをしたら、国債の信用がなくなります。
財政規律はなんとしても守らなければなりません」

予算、戸別所得補償5600億円は、なんとしても満額認めて欲しい私の主張もあって平行線。
会談後、野田財務副大臣は「友情を持ってキック・オフ」と語られたそうだが、まさに予算の攻防戦は年末に向けて、待ったなしの戦いが始まった。


2009年11月28日(土曜日)

村の鎮守の祭りで、遠く沖縄に思いを馳せる

ツワ蕗の濃い黄色の花が、冷たくなった風の中で震えている。
遠くに、深い藍色の晩秋の海が広がる。
すでに路傍の芒もすっかり、冬支度にかかった。
千綿の大神宮の秋祭り。
村の人が三々五々集まってくる。ほとんどが顔なじみだ。
池田神主の恒例のご挨拶が始まった。
「・・・・私は2年に1度は必ず知覧に行くのです。特攻隊で国のために、若くして散った日本人の手記(遺書)を今年はここまで、と読んでいきます。
そのたびに、私が今こうして生きているのは父が戦争で生きて帰れたからと感謝しています」
神社の境内から、遠くに広がっている藍色の海、あの海に沖縄戦で消えていった幾多の若い命が消えていった。
・・・・・無常。
沖縄はまだ戦争は終わっていない。
先日、サトウキビの農家から、「広い農地はすべて米軍基地に取られて、山間の傾斜地、小さな畑で細々とやっています。これが楽しみで生きがいなのです。
こんな小さな農家を切り捨てないでください・・・」
と、悲痛な訴えを聞いたばかりだ。
昨日、私の農水省副大臣室に仲井真沖縄県知事が訪ねてきた。
さすがに元気が無かった。心なしかやつれていた。
今朝の新聞に、沖縄知事の普天間移設案に、今となってはついてくるものはいなくなったとかかれてあったが、おそらく、普天間の基地移設問題で、鳩山総理、岡田外相らと官邸での話し合いのあとだったのだろう。
政治家はいつの世も孤独で、重い判断を迫られる。
私は仲井真知事が、まだ沖縄電力の社長をしているころ、雑誌「島へ。」を創刊する頃から知っている。
知事は、私に淡々とサトウキビ農家の救済を訴える。

「山田さん、餅を撒いてください」
はっと我に返る。
千綿神社の境内で、私は紅白の餅を思い切り遠くまで投げる。きゃきゃと皆が喜んで餅を拾う。
1000年の昔から続いたであろう千綿神社の秋祭りのざわめき
晩秋の空は底抜けに澄み切っている。


2009年11月22日(日曜日)

落選して、浪人時代の懐かしい思い出

農業ジャーナリストの土門 剛君という面白い男がいる。
「山田正彦農林水産副大臣の人物像」と言う一文を雑誌「農業経営」11月号に書いている。
我ながら噴き出してしまったが、そういう昔もあった。
紹介したい。


もう10年も前のことだろうか、実に奇妙な体験をしたことがある。今度、農水副大臣に就任された山田正彦先生と、当時、通産省(現経産省)の事務次官だった広瀬勝貞氏夫妻を誘って、真夏に和歌山・熊野の山中の山荘に遊びに行ったことがある。
実に不思議に思ったのは、出発前に山田先生には「通産次官の広瀬さん夫妻にも声をかけておきましたよ」と言い、広瀬氏にも「新進党の山田正彦先生もご一緒ですよ」と話していたのに、同じ屋根の下で過ごした3日間、ご両人は最初に挨拶しただけで、一切と言っていいほど会話を交わさなかった。
今振り返ってみても、朝起きても、2人が朝の挨拶を交わすこともなく、夜に天然鰻のバーベキューをした時も、双方、距離を置いて陣取り、お互いに知らんぷりという実に奇妙な状況しか思い出さないのである。
その旅から戻ってきて山田先生が、「広瀬は、一言も話しかけてこなかったな」とポツッと話してこられたことがあった。
山田先生は、政界に入られて以降、小沢一郎氏と行動を共にしてこられた。一方の広瀬氏は、大分・日田市の出身で、通産時代には、宮澤喜一首相の総理秘書官も務められたことがある。ある意味で、霞が関官僚としても保守本流中の本流に位置しておられ、自民党をぶっ壊す、霞が関をぶっ壊すと公言して憚らない小沢一郎氏の子分格でいる山田正彦先生は、広瀬氏には「敵」と映って、あえてシカトしたのかもしれない。
その山田先生が、農水副大臣に就任された。そのニュースを耳にして、思わず奇妙な熊野山中の出来事をふっと思い出したのである。まずは、副大臣就任のお祝いを申し上げたい。

すごく風変わりな人だなと思ったのは、熊野の山中に初めて訪れた時のことだった。確か5月の連休のことであったが、山中を歩いていると、突然、真っ裸になり渓流にドブンと飛び込まれた。水ぬるむ春といっても、たいていの人なら躊躇するぐらいの水温で、それでも30分ほど泳いでおられた。我々凡人とは皮膚感覚が違うのか、それとも鍛え方が違うのか、とにかく常人ではないと思った。
川から上がってこられた山田先生は、「俺は、自然という名前に改名したいのだ。山田自然、どうだ」と話しかけられてこられたが、どう返答してよいか分からなかった。ご本人が言うまでもなく、自然児の風があり、男らしい野生のにおいが漂ってくる。
2人でよく旅行に出かけた。山田先生が、96年10月の選挙で落選した時には、イタリアへセンチメンタル・ジャーニー(感傷旅行)に出掛けたこともあった。出発当日のハプニングは、今はもう楽しい思い出になってしまった。前日、わが家(船橋)に泊まられた先生に、出発日の朝、何気なく「パスポートはお持ちですか」と尋ねたら、「事務所(永田町)に忘れてきた」との返事。
朝7時前のことで、飛行機の出発は10時、わずか3時間しかない。ほとんどアクロバットのような動きで、永田町の事務所にパスポートを取りに行き、8時半初の成田エクスプレスに飛び乗り、出発30分前に空港に滑り込んでこられた。
旅行中で驚いたことがあった。大きなスーツケースに、ぶ厚い本を何冊も持ってこられ、飛行機や汽車を待つ、ちょっとした時間でも寸暇を惜しんでページをめくっておられた。塩野七生さんの大作、「ローマ人の物語」シリーズで、2週間近い旅行で4冊ほど読了されたようだ。その集中力たるや、さすが立派な方は違うものだなと感心した。
この時の旅行で極めつきエピソードを一つ。明日からシチリア島へという前日のこと、旅行分の現金を用立てるべく、手持ちのトラベラーズチェックを現金に換えようと、ローマ市内スペイン広場前のローマ銀行支店に飛び込んだところ、1人2万円までしか換金しないと通告されてしまった。2万円ぽっちじゃ1日分の費用にしかならないので、カウンターでクレームをつけてやった。30分ほどすったもんだしていると、突如、山田先生がカウンターをドンと叩いて「国際法違反だ!」と怒鳴られたのである。
その剣幕に恐れをなした銀行員が、「隣の紳士は、今、何を言ったのか」と聞いてきた。「彼は、日本の国会議員をしていた方で、弁護士でもあられる方である。その方が、ローマ銀行東京支店でトラベラーズチェックを発行してもらった時には、2万円しか両替できないというような案内はなかったので、告知義務違反とか仰っておられるようだよ」。こう説明してやると、相手の銀行員はそれまでの態度をがらりと変え、「申し訳ないことをした」と謝罪した上で、希望額を換金すると申し出てきたのである。
カウンターを「ドン!」と叩いた時の迫力は、側でみていても男がほれぼれする迫力があった。
副大臣になられて一つアドバイスを差し上げたい。この「ドン!」を、ひ弱な農水官僚や、国際交渉でカウンターパート(交渉相手)には、あまり使わない方がよいと思うのである。最近の霞が関官僚は、先生のような自然児ではない。もやしのような虚弱児が多い。目の前で一発「ドン!」をやれば、ノイローゼに陥り1週間ほど「出社拒否」を起こすかもしれない。はたまた国際交渉でやれば、即座に交渉決裂に至るか、あるいは国交断絶(そんなことはないか)に発展してしまうこともあり得ることを頭の片隅に置いていただいて、「ドン!」だけはつとに自重していただきたいものである。


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