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沖縄本島の那覇から西方約四十キロのところに慶良間列島があります。
今はリゾート地としても知られますが、歴史的に見ればここは大東亜戦争末期に激戦地となったところで、
この集団自決というのは、最近ではマスコミに登場する事も少なくなっているせいか、一般の人はあまり関心がないかもしれません。
しかし、教育現場では少し様子が違いまして、平成十四年度から使われている中学歴史教科書にも、その集団自決が全八社のうち六社にまで登場し、うち五社はこれが「軍命令」によって行われたと書いているんです。
記述の仕方はどれも似たり寄ったりなんですが、例えば日本書籍の教科書には次のように書いてあります。
「日本軍にスパイ容疑で殺されたり、『集団自決』を強制された人々もあった」「軍は民間人の降伏も許さず、集団的な自殺を強制した」。
確かに、集団自決が起こった事は事実ですし、それは本当に痛ましい事件ではあるけれども、しかし、これが「軍命令」で行われたというのは事実ではないのです。
こうした記述の背景には、当然下敷きになった文書がいくつかあるんですが、もうそれ自体事実に反する内容になっている。
代表的なものを二つほど挙げますと、まず『
その戦史編(『
「いよいよ、敵の攻撃が熾烈となったころ、赤松大尉は『住民の集団自決』を命じた」「慶良間列島のもう一つの座間味島でも、友軍の命で集団自決が行われた」
後で詳しくお話しますが、赤松大尉とは、渡嘉敷島に駐屯していた海上挺進第三戦隊の指揮官で、「集団自決」の命令を出した張本人と槍玉に挙げられている人です。
おそらくこうした記述の原型になったのではないかと考えられるのが『鉄の暴風』(編集・沖縄タイムス社。初版発行・昭和二十五年八月十五日)で、実は集団自決が「軍命令」であるということを初めて活字にしたのはこの『鉄の暴風』が次のように書いた所にあると思うのです。
「・・・避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた。『こと、ここに至っては、全島民皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する』というのである」
こうした文書が元になって教科書でも集団自決が「軍命令」で行われたという話になっているわけですが、実は『
実際、『
しかしながら、教科書を書く時には、そうした文書は参考にされていないようです。
『鉄の暴風』の方はどうかというと、これも信憑性に欠ける。
例えば、赤松大尉と同様、集団自決の命令を出した張本人として指揮される座間味島の梅沢少佐(海上挺進第一戦隊長)は、『鉄の暴風』の中でこんな風に書かれているのです。
「隊長梅沢少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げた事が判明した」
けれども、梅沢少佐は米軍との戦闘中に重傷を負って退却し、行方が分からなくなっていただけで、昭和二十一年には病院船で内地に帰ってきている。
つまり、生きているのに死んだ事にされたわけですからこれは明らかにデッチアゲです。
にもかかわらず、この記述が『鉄の暴風』から削除されたのは昭和六十年代に出た第九版で、それまでは訂正も何もなされていない。
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では、どうして集団自決のような悲惨な事件が起こったのか。
それを知る為にはまず、沖縄戦に至る経緯というものをきちんと押さえる必要があります。
でなければ、単に「悲惨な事件だった」「日本軍はひどかった」というイメージがのこるだけで、何も見えてきません。
沖縄戦は軍民合わせて十数万の犠牲者を出したといわれ大東亜戦争の最激戦でしたが、それ以前の沖縄は、昭和十九年十月十日に「十・十空襲」と呼ばれる空襲があったぐらいで、ほとんど平和だったんです。
しかし、昭和二十年に入ると硫黄島が戦場となり、ここが陥落すれば次は台湾か沖縄のどちらかに来るだろうという状況になった。
日本軍はもし米軍が沖縄に来るならば、慶良間列島のように小さくて地形の険しい島ではなく直に本島に来るだろうと予想し、慶良間列島に海上特攻の基地をつくった。
海上挺進隊という「海の特攻隊」を座間味島、阿嘉島・慶留間島、渡嘉敷島に各一個戦隊(隊長以下百四名)ずつ三戦隊置き、米軍が沖縄本島に攻めてきたら、背後から舟艇で奇襲する手筈を整えていた。
この舟艇とは幅二メートル、長さ五メートルくらいのベニヤでできた一人乗りのボートで各戦隊に百隻ずつありました。
これに自動車のエンジンと百二十キロの爆薬を二つ付けて、敵の航空母艦などに角度三十度で突っ込み、直前に切り離して米艦に爆薬をぶち当てようとしたわけです。
ところが、米軍はわが方の予想に反して先に慶良間列島にやってきた。
米軍の狙いは、ここを艦艇の停泊地として確保し、沖縄上陸の補給基地にしようというものだったのです。
慶良間攻略は三月二十三日、米機動部隊の空襲によって始まりました。
上空を埋め尽くした無数のグラマンは、島々の集落から山中までしらみつぶしに機銃掃射を浴びせ、ガソリンを撒いた上に焼夷弾を投下した。
島民たちは防空壕に避難したり、物陰に伏せたりして難を逃れましたが、村の公共施設や民家はその過半が焼失しました。
一方、我が軍はそれに対してどうしたかというと、実は一発の応射もできなかったんです。
海上挺進隊は特攻隊だから若干の軽機関銃と小銃程度の装備しかないし、基地の防衛に当たる基地隊というのはいたけれども、その主力(六、七百名)は沖縄の第九師団が台湾に転出した穴埋めとして沖縄本島に移ってしまい、慶良間には二、三百の部隊しか残っていなかった。
こういうことですから、唯一とれる方法は持久戦だけで、海上挺進隊等はそれに備えて山の中に立て篭もるしかなかったのです。
米軍はなんの反撃もなかったから、慶良間海峡にゆうゆうと大艦隊を侵入させ、島の周りを完全に包囲した。
それで二十四日夕刻から猛烈な艦砲射撃を加えてきたのです。
艦砲の破壊力は、爆撃とは比べられないほどものすごいものです。
それで以って畳二枚に砲弾二十一発が撃ち込まれたというほど目茶苦茶な砲撃をしてきたものだから山野は瞬く間に焦土と化した。
海上挺進隊の舟艇もこの艦砲射撃でほとんどが使用不可能になりました。
三月二十五日午前、米軍はまず阿嘉島に上陸。
またしばらくして座間味島にも上陸した。
そこで山の中に立て篭もっていた海上挺進隊は秘密保持のため残っていた舟艇を海に沈め、斬り込み隊を編成して刀と手榴弾だけでどんどん斬り込んでいったのです。
だけど、向こうは機関銃ですから勝負になりません、ほとんど全滅してしまった。
やがて慶良間列島全域がほぼ制圧され−小競り合いは七月まで続くんですが−四月一日から沖縄本島で本格的な戦闘が始まるという事になるわけです。
大まかな流れでいうとそういうことなんですが、慶良間の住民にしてみれば、平和に暮らしていたところに突然無数のグラマンが飛んできて、それが終わったと思ったら艦砲射撃の雨あられ。
ひっきりなしに砲弾が飛んでくるわ、村はどこもかしこも燃え上がっているわで逃げ場もない。
おまけに米軍が上陸して来た。
当時は、捕まったら女は散々あそばれた揚げ句に刺殺され、男はローラーで轢き殺されるとみんな信じていた。
敵の手にかかって死ぬくらいなら皇国の民として潔く死のう、そんな気持ちになるのも無理はない。
そうした混乱の中で集団自決が起きたわけです。
数は今でもはっきりしていないんだけれども、慶良間列島全体で七百名前後ということです。
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今度は具体的に個別のケースを見ていきましょう。
まず
ここに村の女子青年団長をしていた宮城初枝さん(当時は宮平姓)という人の手記があります。
それによると、世間では海上挺進第一戦隊の梅沢裕隊長(少佐)の命令によって住民が集団自決させられたことになっているけれども、事実は宮里盛秀という村役場の助役が集団自決を主導したというのです。
当時、彼は助役として行政全般を取り仕切ると同時に、兵事主任、防衛隊長も兼ねていましたから、米軍の上陸が間近に迫っている段階では、住民のとるべき手段をいち早く決定する立場にあった。
それで上陸の始まった二十五日の夜、宮里助役は村民に非常米の配給を行い、その後、収入役、若い吏員(役場の職員の事)、小学校校長、女子青年団長だった宮城初枝さんを集め、五人そろって梅沢隊長のところへ行ったんです。
そして梅沢隊長の前に出た宮里助役はこう願い出た。
「もはや最期の時がきました。若者たちは軍に協力させ、老人と子供達は軍の足手纏いにならないよう、忠魂碑前で玉砕させようと思います。爆弾をください」と。
当時は「集団自決」ではなく、「玉砕」と言ったんです。
しかし、梅沢隊長は軍刀をついてじーっと考え込んで、「今晩は一応お帰り下さい、お帰り下さい」と、その申し出を断り、弾薬も何も渡さなかったというんです。
ところが、その帰り道、宮里助役は宮平恵達という若い吏員に向かって、住民が避難している各壕を廻ってみんなに浜辺の忠魂碑前に集合せよと伝えるように命令した。
つまり、そこにみんなを集めて集団自決させようとしたわけです。
なぜ軍に断られたのにそんな命令を出したのか。
おそらく梅沢隊長の所へ行く前の時点で村役場の幹部と相談して事前に決めていたんだろうという説もあるんだけれども、それはあくまで推測であって真相は誰にも分かりません。
ともかく、集合の指示を聞いた村民の多くは、大人も子供も晴れ着に着替え、いわば死装束で忠魂碑前に向かったんです。
ところが、行こうとしても米軍の照明弾が撃ち上げられて、浜は昼間のように明るかった。
これでは危なくて行けないという事でみんな引き返し、結局、あちこちの壕で集団自決が起きたという事です。
宮里助役のいた農業組合の壕では六十七人が集団自決。
宮里本人と収入役、吏員もこの壕で自決しました。
また小学校の校長は別の壕で自決しています。
ただ、宮城初枝さんは、宮里から重要書類を忠魂碑前に運ぶようにと命令され、別行動だったので一人だけ生き残ったんです。
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事実はこういうことなんですけれども、戦後になって「集団自決は軍の命令で行われた」という「虚構」が村ぐるみでつくられたのです。
ここで重要な役割を果たすのが、先程お話した宮里盛秀という助役の弟です。
この弟は戦後名字が変わって
しかし、昭和二十八年に
ところが、いざ担当してみると、集団自決は援護法の対象ではないということが分かった。
ちょっと援護法(戦傷病者戦没者遺族等援護法。昭和二十七年施行)について説明しますと、この法律は制定当初、軍人・軍属を対象としていたのですが、その後、軍と何らかの関係があれば準軍属として扱うということになった。
軍と関係があったかどうかというのは、要するに軍の命令があったかどうかが判断基準になる。
例えば、軍に部屋を貸したとか、軍と一緒に生活したとか、軍の命令で塹壕を掘ったとか連絡に行ったというのは、全部入ることになったんです。
ただ、単に砲弾に当たって死んだり米軍に殺されたりしたというのは対象にならない。
集団自決の場合もこれと同様、対象に入っていなかった。
そこで
むろん厚生省の係官は集団自決は法令の対象にはならないと断った。
でも、
そうしたら係官が「軍命令があったのなら・・・」。
こう言ったもんだから、早速、村に帰ってみんなに諮ったところ、軍命令があったということにしようということになった。
で、その方針に基づいて必要書類を作成し厚生省に申請した結果、集団自決の負傷者や遺族にも年金(障害年金、遺族給与金)が支給されたというわけです。
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しかし、昭和五十年代になって、軍命令は事実ではないということが発覚する。
先程、宮城初枝さんが五人の中で唯一人生き残ったという話をしましたが、年金などを厚生省から貰う為に「軍命令にしよう」ということになったとき、村の長老から呼び出され、「梅沢隊長の命令だということにしてくれ」という圧力がかかった。
もちろん宮城初枝さんはそんなウソはつけないということで一旦は断ったのですが、住民が集団自決の命令は軍からの指示と思い込んでいたこともあって断り切れず、ウソの証言手記を書いた。
援護法の適用を申請する村の公文書には、その手記も含まれていたそうです。
ここで考えなければならないのは、なぜ住民達が集団自決の命令を宮里助役の命令ではなく、「軍の命令」として受け取ったかということです。
私はおそらく宮里助役が防衛隊長を兼務していたことが関係していると思うんです。
というのは、それまでも軍の命令−作戦に必要な木の切り出しや荷物の運搬など−はすべて防衛隊長である宮里助役を通じて住民に伝えられていました。
だから、米軍の攻撃の中で、忠魂碑前に集まれという命令が出された時、受け取った住民の方が「ああ、これは軍から来ているな」というふうに考えたとしても、これは無理もない。
ところが、『
実は証言の聞き取りに当たったのは宮城初枝さんの娘さんなんです。
その娘さんが聞き取りを始めた当初、住民達は「隊長から玉砕命令があった」と言っていたのですが、お母さんの宮城初枝さんから「もう一度よく確認しなさい」と諭された。
それで再度詳しく聞き取りを行ったところ、住民達の証言は事実関係としては「役場職員の伝令が来た」「忠魂碑前に集まれと言われたから」となり、誰も明確に「隊長命令があった」とは言わなかった。
それで証言録には「軍の命令」というのが一言も載らなかったのです。
だいたい、当時の状況を思い起こしてみると、この時点で部隊は山の中に立て篭もっており、ほとんどの村民は軍人の姿を見ていない。
直接命令を受けたり、死ねと迫られることも勿論なかったわけで、これはやはり思い込みだったと思うんです。
話を戻しますと、その後宮城初枝さんは『家の光』という雑誌の懸賞論文にそのウソ証言を含めた戦時中の体験を綴って応募するんです。
どうしてそんなものを出してしまったのか事情はよく分からないけれども、結果的にはそれが入選し、多くの人の目に触れることで遺族や部隊関係者から問い合わせが来るようになった。
その中で、梅沢さんが健在ということも分かったのです。
それで宮城初枝さんは梅沢さんに謝らなくちゃいけないと思って手紙を出し、昭和五十七年六月、座間味島で行われた慰霊祭で三十数年ぶりに梅沢さんに会った。
そこで宮城初枝さんは「虚構」が生み出された背景から何から洗いざらい話して、心から謝罪した。
梅沢さんはそれを聞いて胸のつかえが全部とれたといいます。
というのも、梅沢さんはその間、ものすごく辛い境遇に置かれていたからです。
昭和三十三年頃、週刊誌が梅沢少佐や赤松大尉こそ集団自決の命令を出した張本人だという記事が世の中に出回った。
それ以来、職場にいられなくなった梅沢さんは職を転々とし、息子さんが反抗して家庭も崩壊状態になった。
もうよっぽど反撃に出ようかと思ったけれども何を言っても敗残の身。
猛火に飛び込む蛾の如くなってはならないと隠忍自重していたというのです。
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不思議なことに、それ以来梅沢さんの冤罪を晴らすような出来事が次々と起こった。
昭和史研究所に送られてきた梅沢さんの手記(『昭和史研究所会報』第四十三号、第四十四号所収)によると、宮城初枝さんと会ってからしばらくして自称反戦運動家という沖縄の人が梅沢さんを訪ねてきたという。
その人は『鉄の暴風』に登場する軍人さんに事の真相はどうだと聞いて廻っていたんだが、梅沢さんが真相を全部話したところ、「沖縄人として貴殿を扱うは沖縄の恥辱なり。今後は貴殿の弁護に立つ」といって帰った。
それからしばらくして神戸新聞の記者が梅沢さんを取材しに来た。
理由を聞くと、その反戦運動家が街頭で情宣しているのを聞きつけたと言うわけです。
それで昭和六十年七月三十日付の神戸新聞朝刊に「絶望の島民悲劇の決断、日本軍命令はなかった」という記事が出たんです。
しかし、なんといっても決定的だったのは、例の
梅沢さんの手記によれば、
その時にこういう文書も残されています。
証言
昭和二十年三月二六日の集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役の宮里盛秀の命令で行われた。之は弟の
右当時援護係
梅沢裕殿
昭和六二年三月二八日
これは宮城初枝さんの話とも合う。
これによって集団自決は「軍の命令」では全くなく、戦後補償を申請する為の便法として考え出された虚構であったことが完全に証明されたわけです。
梅沢さんによると、
これが、今分かっている座間味島の「集団自決」の真相です。
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これまでお話しましたように、座間味島の集団自決は「軍命令」で行われたのでは全くなかった。
集団自決として知られている事件が起こったとされる島がもう一つあります。
同じ慶良間列島の渡嘉敷島です。
ある人が「こんなものがありますよ」といってある手記を持ってきてくれました。
それは比嘉喜順さんといって、米軍による慶良間攻略作戦が行われた当時、渡嘉敷島の駐在巡査(当時は安里姓)をしていた方が書かれた手記で、内容は渡嘉敷島の住民に集団自決の命令を出したと言われている赤松嘉次大尉(渡嘉敷島駐屯の海上挺進第三戦隊長)が、実際はそんな命令を出していないというものだった。
それで早速比嘉さんに接触したところ、自分の周りには当時の関係者がまだ何人か健在だという話を聞いたんです。
だったら、実際に沖縄に行ってみようということで平成十年四月、カメラマンを連れて取材に出かけた。
その時にお目にかかったのが比嘉さんのほかに、赤松隊長の側近だった知念朝睦元少尉(海上挺進第三戦隊本部付小隊長)、当時十三歳で集団自決の前後の様子を一部始終目の当りにしていた金城武徳さんといった方々です。
また、平成十四年五月にも再度渡嘉敷島を訪ねて金城武徳さんの案内で、集団自決跡地など当時の状況を克明に取材しました。
二度の取材で関係者からじかにお話を聞いて分かったのは、要するに昭和二十年三月二十八日、この地で三百余名の集団自決があり、それは海上挺進第三戦隊長、赤松嘉次大尉の命令によると戦後喧伝されているけれども、赤松大尉の命令というのはまったくのウソだということです。
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さて、集団自決に至るまでの状況というのは、先にお話した座間味島のケースと基本的には同じですが、簡単に経過を振り返っておくと、三月二十三日、二十四日の二日間にわたる空襲と二十五日の艦砲射撃で島全体が燃え上がって廃虚になります。
そして渡嘉敷島の場合は二十六日に米軍が島の南部の阿波連という浜の方から上陸し、我が軍は段々と追いつめられて行く。
その様子を『鉄の暴風』はこういう風に書いています。
まず赤松隊長は米軍の攻撃が激しくなってくると安里巡査を通じて、「住民は捕虜になる怖れがある。軍が保護してやるから、すぐ西山A高地の軍陣地に避難終結せよ」という命令を出します。
ところが、いざ住民達が軍陣地付近に行ってみると、赤松隊長が軍の壕の入口に立ちはだかって住民を全く寄せ付けない。
それで仕方なしに高地の麓の恩納川原に下って避難用の仮小屋をつくっていたのですが、翌日になって米軍が展開している渡嘉敷部落に避難しろという命令が赤松隊長から下された、というのです。
危ないからこっちに来いと言いながら、行ってみたら寄るなと言うわ、米軍がいる方へ行けと言うわ、この記述を読むと赤松隊長とはなんと冷酷無比でひどい奴だと思ってしまう。
それだけではなく米軍の迫撃砲による攻撃がいよいよ激しくなると、赤松隊長は、「こと、ここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。
軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する」と命令し、これを聞いた住民達は軍から自決用に渡されていた手榴弾を使って恩納川原で集団自決して三百二十九人が死んだ、と。
まあ、そのように書かれているのですが、これが本当の話ならまさに赤松隊長は数多くの住民を死に追いやった張本人ということで指弾されてしかるべきである。
それで私はこれは本当のことですかと、一部始終様子を見ていた金城さんに聞いてみたんです。
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そしたら金城さんは、『鉄の暴風』に書いてあることは全くのデタラメで「もうあの本は二度と読まない」と嫌っていた。
そもそも、自決の場所からして違うというんです。
住民が軍の命令によって皆北の方に逃げたことは事実なんだけれども、集まった所は恩納川原とは全然別のフルノチビという辺りなんです。
その証拠に今は此処に「集団自決跡地」という碑が建っています。
ちなみに、恩納川原は、このフルノチビから西南に約一キロの所です。
金城さんの証言に基づいて米軍上陸後の様子を再現してみると、概略このようになります。
渡嘉敷島に上陸した米軍はまず島の中北部にあるA高地という所を占領し、ここからさらに北の、日本軍のいるとおぼしき西山に向かって迫撃砲を猛烈に撃ち始めた。
それがフルノチビにいた住民達の上にも雨あられのようにどんどん飛んできて逃げる場所もなくなり、これはもう駄目だとみんな思い始めた。
なにしろ捕虜になれば、女は辱められる、男は男根をちょんぎられてローラーで轢き殺されると信じていましたから、もう気が気じゃない。
それで民間人で構成される防衛隊が住民達に手榴弾を配り始めた。
『鉄の暴風』にはこの手榴弾は軍から供給されたと書かれているけれども、実際はそうではなく防衛隊がどこからか手に入れた物だった。
ともかく、手榴弾をみんなに配ったところで古波蔵村長がみんな玉砕しようと言って、「天皇陛下万歳」を唱え、集団自決が始まった。
二、三十人が一塊りになって手榴弾を囲むようにして死んでいった。
辺りには自爆した人達の肉片が飛び散っていたそうです。
ただ、住民の多くは手榴弾の扱い方が分からず不発も結構多く、そういった人達は、夫が妻や子供の首を絞めて殺したり、斧、鍬でもって殺したという。
米軍の迫撃砲でやられる方がまだ死に方としてはいい方だったと言われるくらい地獄のような、本当に痛ましく悲惨な光景が現出したわけです。
それで結局、集まっていた住民約六百人のうち三百人くらいが死にました。
ところが、そこで死にきれなかった人達は今度は軍の陣地へ行き、「機関銃を貸してくれ。皆、自決するから」と頼んだのです。
そうしたら赤松隊長が出てきて、「なんと早まったことをしてくれたんだ。戦いは軍がやるから、お前たちはしなくてもいい。我々が戦う弾丸もないぐらいなのに、自決用の弾丸なんかない」ときっぱり言ったという。
そして赤松隊長は、安全な所に避難するようにと住民達を今はグラウンドになっている東側の空き地に行かせた。
しかし、そこでも半狂乱状態の住民達が自決を始めて、三十人前後の自決者が出た。
その後、住民達はぐるりと山を伝わって『鉄の暴風』では集団自決地になっている恩納川原へ行った。
実際は恩納川原には米軍の弾はまったく飛んで来なくて安全だったそうですが、ここで三百人ぐらい残った住民達が四ヶ月ほど避難生活を送って終戦を迎えたということです。
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このように、金城さんは「軍命令はなく、赤松隊長は自殺用の武器提供を拒否した位だ。軍命令は赤松隊長を誹謗するためのものだ」と断言していましたが、安里巡査、知念少尉もやはり「赤松隊長の命令はなかった」と証言しています。
安里巡査によると、島が米艦にぐるりと囲まれた時、まず村民をどうしたらよいかを赤松隊長に相談しようと思った。
でも、安里巡査は米軍の空襲が始まる前日に赴任したばかりだったからこの島の地理に不案内で、一日かけて軍の陣地を探し回り、ようやく赤松隊長の居場所を突き止めて相談したところ、赤松隊長はこう言ったそうです。
「我々は今、海からあがって陣地構築を急いでおるところですから、作戦の邪魔にならない、部隊近くのどこか安全な所に避難させておったらいいでしょう。我々は死んでもいいから最後まで戦う。あなたたち非戦闘員は生きられる限り生きてくれ」と。
安里巡査も住民も部隊の近くの方が安心だろうと考え、「じゃあ、そうしましょう」と、あちこちの避難小屋を歩きながら、部隊近くに集まるように伝令した。
ところが、米軍の攻撃が激しくなってくる中で、村民の中には大変な動揺が起こった。
それまでほとんど戦争状態を経験したことのない人たちばかりですから無理もない。
それで村長はじめ村の幹部たちは、「捕虜になるようは自決したほうがまし」という意見でまとまった。
安里巡査は「戦争は今から始まる。死ぬのはまだ早い」と説得したんだが、もう砲煙弾雨の下でみんな半狂乱になっていたから、「どうしても死ぬ、死にたい」「日本人の精神じゃ」などと言って聞かない。
それで安里巡査は匙を投げてしまって、側に退いて状況を見ていた。
安里巡査は部隊に状況を報告する義務があるということで、集団自決の輪には加わらなかったそうです。
まもなく、古波蔵村長を中心に「天皇陛下万歳」が始まった。
皆そう叫んでは手榴弾を投げつけて自決しようとしたんだが、不発が多くて死んだのはそんなにいなかった。
この辺の話は金城さんの証言とも一致します。
で、軍の機関銃でも借りて死のうと、生き残って歩ける者は部隊の陣地へ押し掛けていった。
安里巡査もそれに付いていって自決者が出たことを報告すると、赤松隊長は「早まったことをしてくれた」と悲しんだ。
むろん、機関銃は貸してくれなかったということです。
ですから、安里巡査は「みんな赤松さんに責任を全部おっかぶせようとしているけど、赤松さんは絶対にそのような命令は出していない」と述べています。
一方、赤松隊長の側近であった知念少尉は「私は赤松の側近の一人ですから、赤松隊長から私を素通りしてはいかなる命令も行われないはずです。集団自決の命令なんて私は聞いたことも、見たこともありません」と言っている。
また、赤松隊長は村民に自決者があったという報告を受けて、「早まったことをしてくれた」と大変悲しみ、村の幹部某氏が機関銃を貸してくれと言うので理由を問い質したところ、村民を殺す為だというので赤松隊長は追い返したと証言しています。
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参考までに、赤松さん自身はどう述べているかというと、「命令は出していない」と言っている。
これは曽野綾子さんの著書『ある神話の背景』(初版・昭和四十八年)に書いてあります。
昭和四十五年、沖縄戦から二十五年目の時に赤松さんは慰霊の為に沖縄へ行った。
しかし那覇には来訪を知った抗議団が待ち構えていて赤松さんを取り囲み「赤松、帰れ!」とやった。
赤松さんは無言でじっと立ち尽くしていたのですが、抗議団は「三百人の住民を死においやった責任はどうする」などと声を荒げたもんだから、赤松さんは、「事実は違う。集団自決の命令は下さなかった」と答えた。
では、真相はどうなんだと更に問い詰めたところ、赤松さんは「この問題はいろんなことを含んでいるので、ソッとしておいて欲しい」と、それ以上何も語らなかったという。
なぜ何も語らなかったのか、赤松さんが亡くなった今ではもう分かりませんが、恐らく年金(援護法に基づく障害年金、遺族給与金)のことを赤松さんは知っていたのではないでしょうか。
前回お話した座間味島駐屯の海上挺進第一戦隊長、梅沢裕少佐と同様に、自分が真実を言ってしまうと、戦後、「軍命令」があったとして年金を貰った人達が迷惑すると考え、言えなかったのではないか。
つまり、自分は悪者にされても渡嘉敷の人が助かっているんだから言わない方が良いだろうと。
私はそう推測し、渡嘉敷島の住民に年金が給付された経過等を調査している最中なんです。
ともかく、これまで紹介した証言によって、赤松隊長が命令を出していないことは間違いない。
座間味島と同様、渡嘉敷島でも「軍命令」による集団自決がなかったことは明らかです。
ちなみに、慶良間列島の「集団自決」事件でもう一つ関わりがあるのは、
ここには二つの島にまたがって海上挺進第二戦隊が駐屯していました。
隊長は野田義彦少佐です。
私が現地で取材して聞いた話では、ここでは住民が皆自決したいと申し出たんだけれども、野田隊長はできるだけ生きろと言って、自決を止めたそうです。
『
杉山とは三方山に囲まれた谷間のことで、どこから弾が飛んできても当たらない安全な所でした。
それが抑止力になったのでしょう、慶留間島では少数の集団自決はあったけれども、阿嘉島では集団自決はなく、散発的に自決した人がいただけだったということです。
こう見てくると、慶良間列島に駐屯する部隊の指揮官たちはいずれも住民に集団自決を命令したり示唆したりということは全くなかった。
また、米軍の攻撃から住民を守ることはできなかったけれども、少なくとも出来るだけ生き延びるようにと願っていたことが窺えます。
それだけに、『鉄の暴風』をはじめ集団自決があったとするウソの罪は重い。
前回お話した座間味島の梅沢隊長の場合は生きている間に汚名を晴らすことができたけれど、赤松隊長は黙して語らないまま病死された。
世間の誹謗中傷の渦に巻き込まれ、娘さんまでがお父さんはそんなに酷い人だったのかと苦しみ自殺を図るという辛い出来事もあった。
そういうことを聞くにつけて、こんなウソをでっち上げた『鉄の暴風』の執筆者の罪は万死に価すると言わざるを得ない。
当然、教科書からは「軍命令」によって集団自決が行われたという記述は即刻削除すべきです。
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これで、慶良間での集団自決が「軍命令」で行われたのでは全くないということはお分かり頂けたと思います。
とはいえ、なぜこんなに多数の人々が自決しなければならなかったのか、なぜこんな悲惨で痛ましい出来事が起こってしまったのかということになると、戦前の教育に原因を求めようとする傾向が非常に強い。
実際、沖縄でもそう思っている人が多いんです。
どうして皆が皆「戦前の教育の問題」として片づけてしまうのか理由はよく分かりません。
しかし、少なくとも、集団自決事件が沖縄戦の中でも最も悲惨な事例として、戦後この方、いわゆる「反戦平和教育」の材料に使われてきたことは事実ですから、私なりの考えをお話しておきたいと思います。
この問題を考えるに当たってまず我々が知っておかねばならないのは、「戦時」というのは今の「平時」とは置かれた状況が全然違うということです。
とりわけ、集団自決が起こった慶良間列島の場合は、敵が数百メートル先、あるいは数十メートル先まで迫り、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされた「敵前」の極限状態であり、軍民ともにその切迫、緊迫した状態に置かれていた。
しかし今は戦争といえば悲惨だ愚かだというイメージが先行し、そうした状況や心理状態なんて想像できないでしょう。
一方、そういう生きるか死ぬかの極限状態の中で、われわれの先人は捕虜になるよりも自決を選んだ。
皇国の民として潔く死ぬことが天皇への忠誠を全うする道だと信じていた。
『
こうした意識の背景には「忠君愛国」「生きて虜囚の辱めを受けず」といった教育があったことは確かでしょう。
しかし、だからといって、「忠君愛国の思想が悪かった」「鬼畜米英と教えたのがよくなかった」と一方的に断罪するのは短絡的な捉え方だと思う。
なぜなら、程度の差や何を信ずるかの違いはあれ、どこの国でもそういう教育とか信ずるものを支えにしたりバネにしたりして発展を遂げたのであって、日本の場合は「忠君愛国」という形をとったということに過ぎない。
忠君愛国の思想は、戦後は負のイメージで捉えられているけれども、実際は日本の近代化を推進する原動力になったと言っても過言ではない。
もし敵が攻めてきた時に「自分の命が一番大事だから俺は逃げる」という卑怯な国民ばかりだったら、果たして明治以降の日本の発展はあったでしょうか。
今日の我々には理解し難いかもしれませんが、当時は敵に負けるのが悔しかった時代であり、敵前逃亡する奴は卑怯な奴として憎まれた時代であり、負けて敵に殺されるぐらいなら潔く自決しようという時代であった。
それを理解しようとするところからしか歴史的な事件の真相は見えてこないのではないでしょうか。
教科書は間違っている13
沖縄の集団自決事件は、一般的には余り知られていないけれども、教科書には大きく取り上げられているという事件ですが、同じような例として、大東亜戦争緒戦で日本軍がシンガポールを陥して英軍を降伏させた後、敵性華僑を大量に処断した「シンガポール華僑粛清事件」というのがあります。
この事件は、シンガポールの教科書では処断された華僑の数を四万人とか五万人という誇大な数字で以って教えられているそうで、いわば日本軍による東南アジア侵略の代表的な事例として、反日宣伝にも使われています。
勿論こんな数字は全くのデタラメで信憑性のないものではあるけれども、あろうことかこの事件は近年、我が国の中学歴史教科書にも登場するようになりました。
現行教科書を調べてみると、さすがにシンガポールのような数字は記されていませんが、「血債の塔」という犠牲者の慰霊碑が写真付きで、全八社中五社にまで登場し、いわば日本軍による東南アジア侵略の象徴としてシンボリックに紹介されているのです。
例えば、教育出版は、「左の写真は、1967年にシンガポールの中心地に建てられた、高さ68mの塔です。その台座には文字が刻み込まれています」として文字の訳文を写真とともに掲載しています。
「1942年2月15日から1945年8月18日までの間、日本軍によってシンガポールは占領されていた。その間、われら住民の内から無実の罪で殺された者は多く、数えきれないほどだった。20余年が過ぎた今、初めてここに遺骨を収集し、丁重に埋葬するとともに、この碑を建立して、その悲痛の念を永久に誌してとどめる」。
さらに、男の子のイラストがあり、「なぜ多くの住民が殺されたのだろうか」というキャプションが付されております。
中学の教科書というのは、このように視覚に訴える手法が最近は特に増えているようですが、歴史的事実についてはざっと触れるだけですので、非常に一面的、局部的で、ともすれば子供たちの戦争観を歪めてしまう恐れがあります。
むろん、シンガポールで軍命令による敵性華僑の粛清が行われたことも、多数の敵性華僑が処断されたことも事実です。
しかし、それを以って単純に「日本軍は残虐だった」「アジアを侵略した」とするのは、余りにも乱暴な決めつけというものです。
私は、「あったこと」は「あったこと」として正視しつつも、それに至るまでにどのような経緯があったのか、なぜ華僑を処断しなければならなかったのか、こういうことをきちんと踏まえなければ、この事件の真相は見えてこないと思います。
そこで先ず事件の背景として、日本軍がシンガポールに向けて進撃したマレー作戦の流れを押さえておきたいと思います。
教科書は間違っている14
昭和十六年十二月八日というと、今は真珠湾攻撃ばかりがクローズアップされるようですが、同じ大東亜戦争開戦の日、東南アジアでは陸軍による南方作戦が開始されました。
実を言うと、こっちの方が真珠湾攻撃より数時間早かったんです。
南方作戦とは、マレー半島および英領シンガポール、同じく香港、米領フィリピンといった英米の重要軍事拠点を攻略した後、オランダ領蘭印(インドネシア)を占領するという壮大なる作戦でしたが、マレー作戦は大英帝国東洋侵略の牙城たるシンガポールを攻略する、また欧米列強のアジア駐留軍の中で最大戦力を誇る英軍と雌雄を決するという意味で、最も重要な作戦でした。
戦略的にも、「東洋のジブラルタル」と称されたシンガポールはインド洋への出入り口、マラッカ海峡のある要衝で、ここを押さえればインド洋方面からの救援を遮断することができ、インドネシア、フィリピンの攻略を有利に進めることができる。
従って、シンガポール攻略は急務であり、開戦から百日以内の陥落を目標としていました。
このマレー作戦に当たったのが、山下奉文中将を軍司令とする第二十五軍(山下兵団)で、兵員は近衛師団、第五師団(広島)、第十八師団(久留米)の三個師団、三万五千名で構成されていました。
参加した人は有名な人が多く、第五師団長の松井太久郎中将はロ溝橋事件の時の北京特務機関長。
また第十八師団長の牟田口廉也中将もロ溝橋の時の連隊長ですが、この人はむしろ後のインパール作戦の司令官として有名です。
それから作戦参謀は、「作戦の神様」と称される一方、戦後は何かと槍玉に挙げられる辻政信中佐です。
一方、敵軍はパーシバル中将を司令官とする英印軍、つまりイギリス人とインド人で構成される部隊で、オーストラリア軍もいました(欧州インド第十一師団、インド第九師団、豪州第八師団など)。
数は我が方の倍以上、十万以上の大軍でした。
さて、十二月八日未明、第二十五軍はまずマレー半島の東側、タイ領のシンゴラとパタニー、英領マレーのコタバルという三地点で上陸作戦を開始。
シンゴラの第五師団主力、パタニーの第五師団安藤支隊は難なく上陸しましたが、コタバルに上陸した第十八師団のたくみ支隊は激戦となり、指揮官のたくみ浩少将自ら軍刀を振るって戦ったといいます。
こうして上陸作戦は成功し、マレー半島の真ん中は山で通れないから、主力は半島の西側を、一部は東側を南下してシンガポールを目指します。
十二月十五日、今度はタイ・マレー国境から約三十キロの、英軍が三ヶ月は阻止できると豪語したジットラ・ラインという堅固な陣地をたった二日間で突破すると、アロールスター、ペナン、タイピン、クアラカンサル、イポーと進撃。
明けて昭和十七年にはずっと南下してクアラルンプール、一部はマラッカ、ゲマス、そして一月三十一日にはジョホール水道をへだててシンガポールをのぞむジョホールバルを占領しました。
つまり、十二月八日に上陸してからマレー半島一千百キロ、ちょうど東京〜下関間の距離をわずか五十五日で突破した。
ただ進むだけでもなかなかの強行軍なのに、これを敵軍と戦いながら突っ切ったわけですから、まさに驚異的な快進撃です。
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次はシンガポール攻略戦です。
山下兵団はスルタンのジョホールバル宮殿に司令部を置き、ここで作戦を練りました。
英軍はまさかそんな所に司令部を置くなどと考えもしなかったから、攻撃はしてこなかった。
二月八日、作戦を開始した我が軍は、まず近衛師団がジョホール水道の東側で陽動に出て英軍を惹き付け、その間に第五師団、第十八師団がシンガポール島−縦二十三キロ、横四十キロで淡路島よりやや小さい−の西側から中央のブキテマ高地に向かって前進しました。
ブキテマ高地では両軍の砲撃がもの凄く飛び交って激戦となりましたが、我が軍はこれを占領、シンガポール市街を包囲して二つの水源地を確保します。
シンガポールは飲料水の半量をジョホールバルからの供給に頼っており、ここを押さえられて給水を止められるともうどうにもならない。
それで英軍は降伏し、ついに大英帝国東洋侵略の牙城たるシンガポールは陥落したわけです。
このように日本軍は倍以上の敵を七十日という予定を大幅に上回るスピードで英軍を降伏させたわけですが、とにかくこの戦史に残る快進撃は、天の時・地の利・人の和、この三つが完璧に揃っていた。
それを話すと尽きないので一例だけ挙げると、銀輪部隊とマレー人の活躍です。
マレー半島はジャングルとゴム林で出来ているから車は使えませんので我が軍は進撃に際し車の代わりに自転車を使いました。
これがマレー急進撃の原動力の一つになった。
熱帯の行軍は想像するだに大変なものですけど、この時はゴム林とヤシ林をぬう舗装道路を自転車で進んだから非常に早いスピードで進軍でき、兵の疲労はかなり緩和できたと言われている。
ちなみに、当時は自分の家に自転車がある者は本当に数えるぐらいだったから、兵隊でも自転車に乗れない者が沢山いた。
だから、チャイナ大陸で自転車に乗る練習をしてからマレー作戦に臨んだそうです。
けれども、敵軍と戦闘する時は自転車を置いて突撃するわけだから、後で自転車を取りに戻らなければならない。
ところが、実際はマレー人が頼みもしないのに担いで持ってきてくれて、戻らなくてもよかったのだそうです。
また、南洋には日本の自転車が輸出されていて部品がそこらじゅうで調達できた。
だからパンクした自転車を見つけたら、マレー人があそこにいいのがあるぞと代わりになる物を持ってきてくれた。
マレー人はそのくらい協力的だった。
今は日本軍の快進撃やマレー人の協力といったものはほとんど語られず、逆に「侵略」と決めつけられているけれども、大東亜戦争は英米の植民地支配からアジアを解放する戦争だったからマレー人たちは日本軍を大歓迎したのです。
もし本当に侵略戦争だったらそんなことあるはずがないし、今以ってマレーシアの人々が親日的であるということをどうにも説明できません。
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話は前後しますが、日本軍が英軍の降伏の申し入れを受けたところで、二月十五日にはフォード自動車工場で、山下将軍とパーシバル将軍の会談が開かれます。
その時パーシバルは治安維持のために一千名の武装部隊はなんとか残してくれと、くどくど申し入れたらしいんだけれども、勿論こっちははねつけた。
まあ、最終的にはその条件を呑んで、城下の盟ということになるのですが、しかし、ここで問題が発生する。
我が軍は会談にあたって、降伏の場合の処理要項を作って臨んだんですけれども、その中に「戦闘軍は海峡植民地義勇軍(華僑)も含めて武装解除し現在地に留まる」という一項があった。
この海峡植民地義勇軍とは、要するに華僑と共産党で構成された抗日ゲリラのことで、我が軍はマレー半島でもシンガポールでもこの抗日ゲリラにさんざん悩まされた。
例えば、マレー作戦に従軍した朝日新聞の酒井寅吉特派員は、皇軍にとって最も陰湿で見えざる敵は華僑であった、とその著『マレー戦記』に書いています。
また、当時の軍参謀杉田一次中佐は終戦後の戦犯裁判で、「マレー作戦においては、その作戦間終始華僑が我が作戦実施を不利にさせたことは、実にはなはだしいものがあった。彼らの頻繁な通敵行為によって、我が作戦企図はつねに敵側に察知され、わが高等司令部、部隊密集地域に砲爆撃をこうむり、兵站線の襲撃、交通通信の破壊は、軍需品特に弾薬の戦場到着を著しく遅延させた」と証言しています。
だからこそ、我が軍はこの一項を降伏条件に盛り込んだのですが、英軍はこれを無視し、あろうことか武器を持たせたまま義勇軍を解散してしまった。
つまり、当時約七十万人いるとされたシンガポール市内にゲリラが入り込んでしまったわけで、ちょうど南京事件のときに、敗走した国民党軍が便衣となって難民区に入り込んだのと同じような状況になったのです。
私はこれが華僑粛清事件の発端になったんだと思う。
つまり、義勇軍は義勇軍のままでいれば、戦時国際法に基づいて捕虜として扱える。
しかしそれが武器を持ったまま市民になりすまして地下に潜伏したということは、日本軍としては治安維持の面から言っても、放っておくわけにはいかない。
要するに、これが事件の伏線としてあるわけです。
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実は、そうした抗日ゲリラが暗躍するようになったのも英軍の責任なのです。
英軍は自慢のジットラ・ラインが突破された三日後、チャンギー刑務所に収監していた華僑共産党員を一斉に釈放し、抗日ゲリラとしての訓練を始めます。
むろん、共産華僑は英軍にとっても好ましからざる存在で、英軍司令部も当初は共産華僑に武器を持たせるのは反対だったらしい。
しかし、余りにも日本の攻撃が激しいので仕方なく武器を持たせた。
ダーレー大佐を指揮官とするダル・フォースという四百人ぐらいの部隊で訓練された共産党員百五十五名は、やがて中核となって各戦線のゲリラを指導することになります。
しかし、そもそも抗日義勇軍のお膳立てをしたのは、南方抗日華僑の領袖であった陳嘉庚という男です。
陳嘉庚はシナ事変勃発以来、各地で展開されていた排日援蒋運動をまとめてそれを強化した非常に反日的な華僑で、特に経済力のある華僑のカネを集めて莫大な献金を蒋介石にしています。
そして日英開戦となると、在マレー抗日各種団体を統合して華僑抗敵総動員会なるものを組織し英軍への協力を始める。
実は収監されていた共産党員を釈放するよう英側に働き掛けたのも、陳嘉庚です。
当時マレー華僑は三百五十万人いたと言われ、英国支配体制の中で中間搾取階級として現地人に君臨していました。
その彼らにとって日本軍の進攻は好ましいものではなかった。
なにしろ権力者の交代はこれまでに培った経済的基盤・勢力をどう変化させるか分からなかった。
もっとも、南洋華僑の反日抗日というのは、満州事変以来の根深いものでもあった。
事実、満州事変以降、南洋の日本人居留民は華僑の物凄い迫害を受け、みんな日本に引き揚げています。
戻らなかったのは「マライのハマリオ」こと谷豊くらいだ。
谷豊といえば、華僑を襲っては奪ったカネを貧しい人達に配っていたというあの伝説がありますが、彼が一千名の匪賊を率いる盗賊団の頭目になって華僑を襲うようになったのは、満州事変の直後、六歳の妹を華僑に惨殺されたのがきっかけです。
妹が殺された時、谷は日本にいたんだけれども、マレーに戻ってその話を聞き、華僑への復習を誓うのです。
ちなみに、谷はマレー作戦の時、藤原機関に協力して英軍の破壊工作を未然に防ぐなど随分活躍し、彼を主人公にした映画「マライの虎」を、少年時代には胸を躍らせながら見たものです。
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さて、シンガポール攻略作戦が終わると、第二十五軍の師団、近衛師団はスマトラへ、第十八師団はビルマへ、それから第五師団は南西方面へとそれぞれ転用されることになりました。
そこで警備兵力が手薄になるシンガポールの治安を維持し、後方の備えを万全にしておかなければ危ないということで、昭南警備隊(長・河村参郎少将)が編成されることになり、すでに入市していた第二野戦憲兵隊(長・大石正幸中佐)二百名のほか、第十一、第四十一連隊の各一個大隊を補助憲兵として治安維持に当たらせます。
ところが、まもなく軍司令部からシンガポール華僑のうち、十八歳から五十歳までの男子を検問し、敵性と断じた者は即時厳重処分すべしとの命令が下されます。
厳重処分とは、要するに処刑ということです。
この命令が出された背景や評価については後で述べることとしますが、ともかく命令を実行する立場にある大石憲兵隊長は軍司令部に対して十日間の検問機関を希望しました。
しかし、司令部から返ってきたのは、二月二十一日から三日間で検問を実施すべしという命令でした。
作戦上の必要からという理由でした。
多数のシンガポール市民の中で少数兵力の憲兵が言語不通、地理不案内のまま検問を実行するのは、難しいと言うより事実上無理な話だったんですけれども、これにより華僑が「大検証」と呼ぶ、検問が始まったのです。
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ここで、憲兵の特徴や任務について少し説明をしておきたいと思います。
憲兵というと、いまでは何か占領地の住民に対して悪逆なことを行った代名詞のように言われますが、決してそうではありません。
憲兵というのは、要するに兵隊を監督する軍事警察的な役回りで、国際法はじめ多くの法律の知識を身につけた、いわば司法問題の専門家でもあります。
基本的に優秀な兵が選り抜かれて憲兵に登用されるのですが、職務上、上官を連行することもあるので上等兵以上でないと憲兵にはなれなかった。
ただ、普通は前線に出て敵と戦うことはないので、持っている武器は拳銃と軍刀程度です。
しかし、第二野戦憲兵隊は第一線の戦闘地域に出るため安穏としてはいられず、例えば、マレー作戦では通常任務に加え、戦闘準備地域の住民退避、軍事情報の収集、防諜、鉄道・通信の警戒・・・等々、任務は数え切れないほどあった。
この憲兵二百名がシンガポール陥落後、市内に入って治安維持任務につきました。
具体的には五分隊がそれぞれの警備区域に分かれて任務を遂行した。
五分隊とは、横田昌隆中佐率いる横田隊の下に、水野隊、合志隊、大西隊という三つの分隊。
それから城朝龍少佐率いる城隊の下に上薗隊、久松隊という二つの分隊。
これらを指します。
ちなみに、この時市内に入ったのは憲兵隊と補助憲兵だけで、それ以外の一般作戦部隊はほとんど入っていません。
無用の混乱を避けるためでしょう、作戦部隊はシンガポール郊外かマレー半島でそれぞれの任務に着いていました。
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さて、敵性華僑処断の軍命令が出された経過を簡単に振り返っておくと、マレー半島で共産華僑ゲリラに散々悩まされたことは先にお話した通りですが、陥落直後のシンガポールは難民や浮浪者の掠奪放火が続出したり、敵性華僑の暗躍が始まって物情騒然たる有様になった。
そこで二月十八日、第二十五軍司令部は掃蕩命令を発出し、これを受けた憲兵隊がまず検問を行うべく、各警備区域内の市民に対して水と食糧五日分を持ってジャラン・プッサー広場など指定されたいくつかの集合場所に集まるようにと布告指導しました。
一応、対象は十八歳から五十歳の男子だったんですが、続々と集まってきた市民の中には、老人や婦女子も含まれていました。
検問(二十一日−二十三日の三日間で実施)の要領は、検問所を三つ設け、まず第一検問所では覆面をした現地人協力者十数名を配置し、市民を一列にして通過させ、「こいつはおかしいな」という者を指摘させる。
次に第二検問所では、第一検問所であやしいと指摘された者を別の所に連れて行き、改めて憲兵が調査を行う。
憲兵はマレー作戦中イポーで英軍から没収した抗日団体名簿やシンガポール陥落後、F機関の藤原岩市少佐が英当局から入手した思想犯の名簿などいちいち照合しながら、華僑義勇軍、共産党員、抗日分子、蒋介石の重慶政府への献金者、無頼漢、前科者に該当する者を摘発した。
そして最後の第三検問所では、第一、第二検問所を通った者をもう一度チェックして、最終的に容疑がないと判断された者には「良民証」を交付する。
だいたいこういう段取りで市民を弁別していったわけです。
ただし、検問の実態はかなり大雑把なものだったらしい。
大石憲兵隊長が当初懸念したとおり、やはり三日間で人口約七十万のシンガポール市民を弁別することは非常に難しかった。
それに、検問に現地人を利用したことも裏目に出た。
どういうことかというと、現地人協力者の中には、「こいつは気にくわない奴だからスパイにしちまえ」という風に恣意的な判断をする者がおり、「敵性」とされた人の中に無実の罪の人も多数含まれていたというのです。
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こういうことですから、検問を終えて軍司令部から選別者を即時厳重処分、つまり死刑にせよという命令が届いた時、憲兵達は非常に驚いた。
分隊長の一人、大西覚中尉は「何という無茶な命令であろう。憲兵が治安維持のため検問を実施して、不逞分子や、抗日分子を排除することは当然の任務であるが、即時厳重処分とは余りにひどい。選別者の容疑も三日間の検問では自信が持てない」と述べています。
また、大西中尉はすぐに上官の横田隊長の所へ赴き、刑務所が空いているから選別者を一時的に収容して十分調べた上で処分する。
あるいは、やむを得ない場合は島流しにすべきだ、という意見を具申している。
これを聞いた横田隊長はなんと答えたかというと、「自分も同感である」。
しかし、すぐさまこう続けた。
大石正幸憲兵隊長も河村参郎昭南警備司令官も即時処断の軍命令に異議を唱えたけれども、軍司令部はこれを容れず、断固たる決意を以って即時処断を命令している、と。
河村警備司令官の遺書『十三階段を上る』にはその辺の様子がもう少し詳しく描かれていまして、「私の質問に対して、鈴木(宗作)参謀長は、本件は種々意見もあるだろうが、軍司令官においてこのように決定せられたもので、本質は掃蕩作戦であるとの応えで、これに服せざるを得なかった」と記されている。
つまり、純然たる司法問題であれば、憲兵は自分の判断でいろいろと処置することができるけれども、作戦命令ということであれば絶対に従わなければならない。
これはどこの国の軍隊も同じで、軍人はいかなる理由があろうとも命令に従うのが本分であり、これを逸脱すれば軍隊というものは成り立ちません。
ところが、河村警備司令官と大石憲兵隊長は、終戦後の戦犯裁判で粛清の執行責任を問われ、絞首刑に処されます。
敗者のさだめとはいえ、慎重意見を唱えたこの二人が処刑されたのは、まことに皮肉と言わざるを得ません。
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話を戻しますと、横田隊長の答えを聞いた大西中尉は、やむなく自隊に帰り、補助憲兵に処分を実行するようにという命令を伝えました。
補助憲兵とは、要するに憲兵の腕章を着けた歩兵で、それなりの武器を携行している。
憲兵は刑の執行に一切関係ないので、大西中尉のような分隊長でも処刑の様子を全く知らないそうですが、複数の目撃者の証言を再現すると、検問で摘発された者をトラックに乗せて数ヶ所の浜辺に連れて行った補助憲兵は、華僑に砂浜に自ら穴を掘らせ海に向けて坐らせた上で、背面から機銃掃射を浴びせた。
すると、穴の中にばたっと倒れますから、後は上から砂をかけて埋める。
こういう風に処刑したということです。
あるいは海の上で処刑された者もいる。
戦犯裁判におけるインド人灯台看守の証言によると、シンガポール島の南にあるブラカン・マテー島の沖合まで行って、船の上で機銃掃射を浴びせる。
死体は海の中に放り込まれ、辺り一面が血の海になったそうです。
その数がシンガポールの教科書では4万とか5万とされているわけですが、しかし、こんな数字は何の信憑性もないまったくのデタラメなものです。
『日本憲兵正史』によれば、戦後の戦犯裁判における検事側の申立でも4千人から5千人。
弁護側の収集した情報では千人足らずであったということです。
また、戦時中に設立された華僑協会の調査でも実数は3千人に満たないと報告されています。
さらに、当時昭南警備隊の通訳として協力した篠崎護氏は−この人は戦後もシンガポールに住み着いた人で日本側よりもむしろ向こう側に理解のある人ですが−粛正された華僑は6千人と言っています。
つまり、若干の差はあれ、いずれもその程度の数で、4万人も殺されたということはあり得ない。
この点、大西中尉はのちに処刑者4万人はあり得ないということをリアルに分析しています。
大西中尉が言うには、実際に4万人を処刑するとなると、手榴弾や機関銃、小銃を使って一体何人の兵と日数がかかるか計算してみたら分かるだろうと。
実際、大西隊の場合は処刑に当たった補助憲兵は一個中隊。
一個中隊は通常150人くらいだけれども、マレー・シンガポール攻略戦で戦病死者が続出し、この時は5,60人くらいしかいなかった。
また装備は、軽機関銃と小銃しかなかった。
これで以て処刑した人数がおよそ百数十名ということです。
ただし、処刑した数を上申する場合は、実際より百名ほど上乗せして「二百数十名処分した」と報告した。
これは数が少なければ、敵性華僑の処断に躍起であった軍の某参謀が何かとうるさいので、だいたいどの分隊もそうやって水増しの報告をしたそうです。
ですから、仮に5分隊にそれぞれ補助憲兵一個中隊が付いたとすれば、水増しを入れて最大見積もっても千人くらい。
4万どころか1万にもほど遠い。
要するに、「南京虐殺」と同様、白髪三千丈式に誇張して宣伝に使われているのです。
むろん、我が国の歴史教科書にはこうした数字は出てきません。
けれども、内容は誤解を与えるものが多い。
先に紹介した教育出版以外にも、「シンガポールでは、非協力的だとして、多くの中国系市民が殺されました」(東京書籍)とか、「シンガポールで日本軍に虐殺された中国系住民の慰霊碑」(日本文教出版)と、まるで我が軍が一般市民を無差別に「虐殺」したかのように説明している。
しかし、「非協力的」という理由で殺したことはないし、市民を無差別に「虐殺」したわけでもない。
日本人が向こうの反日宣伝に乗っかるような形で、わざわざ歴史教科書にこんなことを書く必要があるのか、私には甚だ疑問です。
教科書は間違っている23
これで事件の全容がお分かりいただけたと思いますが、最後にこの事件をどう見るか、私なりの見解を述べておきます。
まず、敵性華僑処断の軍命令については、これが鈴木参謀長が言った通り「掃討作戦」であるとすれば、裁判抜きで即時処断したとしても合法ということになります。
つまり、捕虜の資格のないゲリラを処断するのは作戦行動(戦闘行為の延長)であり、司法手段は不要だからです。
一方、憲兵隊関係者が即時処断に異議を唱えたのはおそらく、戦時国際法の規定に、捕虜ならば軍律会議で処置を決定するとされているからでしょう。
そこで問題になるのが「掃討作戦」として処断したのが適切であったのか、それとも「軍律違反」として処理するのが正しかったのかという極めて微妙な点です。
非常に難しい問題ですけど、私はやはり即時処断ということでなく、一旦留置し軍律に照らして審判を行うことが適当だったと思います。
なぜなら処断された人の中には誤って摘発された無実の罪を着せられた人も含まれていたし、その結果、本来買わないでもいい恨みをかうことになってしまったからです。
ちなみに、現場の最高責任者たる河村警備司令官は、「本来これ等の処断は当然軍律発布の上、容疑者は軍律会議に付し、罪状相当の処刑を行うべきである。それを掃討作戦命令によって処断したのは、形式上些か妥当でない点があるが、それを知りつつ軍が敢えて強行しなければならなかった原因は、早急に行われる兵力転用に伴い、在昭南警備兵が極度に減少しなければならなかった実状にあったためである」と複雑な心境を遺書に綴っています。
それにしても、この事件の根本的な責任を考えれば、これは英軍にあると言わざるを得ません。
と言うのは、我が軍(第二十五軍)の英軍に対する降伏条件の中に「・・・重慶側シナ人ハ直チニ監禁シ日本軍ノ保護下ニ入ルルコト・・・陸軍(義勇兵及軍属、雇用人ヲ含ム)(ハ)停戦ト共ニ即時武装ヲ解除シ、大隊(若クハ独立部隊)毎ニ現在地ニ於テ集合シ、要塞部隊ハ要塞内ノ守備ヲ撤シ各兵営ノ一隅ニ終結シ」云々とあり、共産、抗日華僑は武装解除して現在地に集合させることになっていたのです。
英軍がその条件を守っていれば問題は起こらなかったはずです。
すべては英軍が停戦条件に違反して抗日義勇軍(協賛華僑ゲリラ)をシンガポール市内に解放し、市民の中に潜入させたことから派生した問題だからです。
もし英軍司令官パーシバルが降伏条件を遵守し、抗日ゲリラを市民の間に潜入させなかったならば、我が軍の「検問」も「掃討作戦」も必要なかったことは明白です。
だいたい抗日ゲリラというのは、イギリスが思想犯として牢屋に放り込んでいた連中です。
対日戦では一時的に利用できたかもしれないが、戦後この連中はイギリスに反旗を翻し抗英運動に走った。
英軍の中にも反対意見があったのだからそのまま牢屋にぶちこんでおけばよかったのに、因果なことをやったものです。
教科書は間違っている24
参考までに言っておくと、ゲリラが市街に潜伏しなかったケースではこんな事件は起こっていないんです。
例えば、廬溝橋事件の後、日本軍が北平(北京)を占領した時は何も起こらなかった。
なぜかというと、我が軍の攻撃が始まるやいなや敵軍はみんな逃げてしまって市街には一兵たりとも残っていなかった。
従って、我が軍は掃討作戦を行う必要性が全くなく、北平に入ると同時に「安民布告」を発表し、直ちにシナ人有力者による治安維持会を発足させたのです。
それから5ヶ月後の南京攻略戦では、国際安全区内で軍民が混在していたため、我が軍は掃討を行ったわけですが、国民党軍が住民と分離されていたら、そんな必要もなかったと思います。
とかく一般の人は軍隊と一緒にいれば安全だという思いこみがあるかもしれないけれども、こういう問題を考える時は、前提として戦時における軍民分離の原則をきちんと知っておかねばなりません。
実は民間人が軍隊と一緒にいていいのは、小戦の時だけに限られるんです。
これは先だって亡くなられた草地貞吾さん(元関東軍作戦参謀、大佐)にお聞きした話ですが、戦争には小戦と大戦があり、軍より弱小な匪賊や馬賊を相手とする小戦の場合は、住民は軍と一緒にいるのが安全。
しかし、ソ連のような国家を相手とした大戦の場合は、非戦闘員は軍と一緒にいたら全滅する恐れがある。
逆に軍から離れて無抵抗であれば、国際法の保護をある程度は帰隊出来これが一番安全だ、と。
その意味では、大東亜戦争末期の沖縄戦で、日本軍が沖縄の住民に対して、「洞窟に入るな。お前たちは勝手を知っているんだから自分で逃げろ」というふうに言ったのは過酷な措置だと非難されるけれども、私はむしろ温情ある措置だったと思う。
なぜなら、軍と一緒に洞窟にいた住民は米軍の火炎放射器で焼き殺された。
火炎放射器は同じ洞窟にいる軍人と民間人とを区別するようなことはしないから、殺されたって文句は言えません。
また、軍と一緒にいるということは、日本軍の協力者、あるいはゲリラと同一視されても仕方がない。
ところが、逆に軍から離れて行動した住民の多くは米軍に保護されている。
軍民分離でなければならないというのは、こういうことなのです。
ともあれ、シンガポール攻略ではその軍民分離の原則を英軍が無視したがためにこの事件は起きた。
その意味でシンガポール華僑粛正事件の第一次的責任は英側の降伏条件違反に帰せられねばならない。
私はこう思います。
教科書は間違っている25
昨年四月、平成十六年度から使われる高校歴史教科書の検定結果が発表された。
南京「三十万人虐殺」説や「三光作戦」「沖縄集団自決」などの偏向記述のほか、「従軍慰安婦」という造語が復活するなど前回中学校時の検定よりも記述内容がひどくなっている。
どれもこれもデタラメだらけで、よくもまあこんな書きたい放題の偏向記述が検定を通ったな、と。
もちろん、教科書会社それぞれに書き方の強弱はあるけれども、戦争の犠牲者数の記述なんて、にわかには信じ難いほどいい加減です。
例えば、実教出版『日本史B』にはこんな数字が出てくる。
<アジア太平洋戦争によるアジア諸国の死者の数は、各種の文献を総合すると、中国約1000万、朝鮮約20万人、台湾約3万人、ヴェトナム約200万人(大部分は餓死といわれる)、インドネシア約400万人、フィリピン約111万人、インド約350万人(大部分はベンガルの餓死者)、マレー・シンガポール約10万人、ビルマ約15万人と推定される。>(二一一頁)
ここに出てくる数で「中国約1000万」とか「マレー・シンガポール約10万人」などはこれまでも教科書に出てきていたし、それが事実に基づかない誇張した数であることは言うまでもない。
けれども、その他のは意味不明なものが多い。
というより、日本軍に関係のないものも含まれている。
まず、「朝鮮約20万人」というのは、朝鮮は当時日本だったのだから、日本とは戦争をしていないし、沖縄のように戦火にさらされることもなかった。
考えられるのは、日本兵として従軍し戦死した者の数くらいですけれども、だとすれば靖国神社にお祀りされている朝鮮出身者は約二万一千名で、教科書記述の十分の一です。
また、「インドネシア約400万人」というのは考えられない。
インドネシアでの戦争というのは、インドネシア人と戦ったわけじゃなくてオランダ軍と戦った。
しかも、最初の戦闘は七〜九日間ほどで終わっている。
もしインドネシア人が戦争で死んだとすれば、日本が降伏した後の対蘭独立戦争の時でしょう。
けれども、独立戦争での戦死者は八十万人ですから、「400万人」という数字はいったい何を指すのか全く分からないのです。
「インド約350万人」も同じです。
日本軍はインパール作戦以外はほとんどインドに入っていない。
だから、これも意味不明なんだが、括弧の中に「大部分はベンガルの餓死者」とある。
検定に合格した別の教科書には、「日本軍がインド国境にせまると、日本軍の略奪を恐れるイギリスが農作物を焼却したために1943年〜44年にかけて、ベンガル地方で350万人の餓死者を出す大飢饉がおこった」(三省堂『世界史B』三一三頁)と書いてあるけれども、こんなの日本軍とまったく関係ないじゃありませんか。
世間一般では、こういうのをサギと言うんですがね。
こんないい加減なことが書いてあっても検定を通るんだから、文部科学省はいったい何を「検定」したのか聞いてみたいものです。
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<中国側は、市民や武器を捨てた兵士など30万人以上の人々が日本軍によって虐殺されたと発表している。>(実教出版『日本史B』二〇三頁)。
<約20万ともいわれる捕虜・非戦闘員を殺害するとともに、略奪・放火・性暴力を多数ひきおこした(南京大虐殺)。>(東京書籍『日本史B』三三八頁)。
<婦女子を含む一般市民のほか捕虜もあわせると、およそ20万人といわれる大量の人びとを虐殺した(南京大虐殺事件)。>(桐原書店『日本史B』三六二頁)
<犠牲者の数については諸説あるが、歴史学者の洞富雄は20万人をくだらない数、中国側は30万人、という見解をもっている。>(三省堂『日本史B』三一九頁)
これもおかしいですね。
戦争なのだから何もなかったなどと言うつもりはありませんが、無抵抗の市民や非戦闘員を日本軍が計画的組織的に二十万も三十万も虐殺したなどというのは、絶対にあり得ない話です。
当時、南京には朝日新聞や東京日々新聞(現在の毎日新聞)など日本のメディアが何社も行っておりましたが、報道カメラマンが撮った写真を見れば、日本軍入城とともに、平和な市民生活が急速に回復していった様子がよく分かります。
市民達は日本軍の入城後早々に露店を開き、食事をする日本兵との交歓風景もあるし、散髪をやってもらった日本兵はいくらでもいる。
また、南京にいた日本人の証言も沢山あります。
例えば前田雄二という人は南京陥落一週間後の十二月二十日に南京を去るんだけれども、その前に「お別れ会」を安全区の中のレストランでやったという。
そこで前に使用人として使っていた中国人もやって来て老酒を送ってもらったという話があるんです。(『戦争の流れの中に』)。
そうした様子からも、二十万、三十万もの市民が殺されたなどとは到底考えられない。
だから、前田さんはもし本当に大虐殺があったとしたら自分達は明き盲だったと言っているくらいです。
また、だからこそよく知られるように安全区の人口は二十五万、三十万とどんどん増えていった。
要するに、南京の市民達は、日本軍は市民を殺害も処断もしないということを知っていたのです。
「婦女子を含む一般市民」(桐原書店)という記述もいい加減。
婦女子の犠牲者がいかに少ないかということは研究者の間では常識です。
南京戦後、死体の埋葬を請け負った紅卍字会という慈善団体があります。
その報告によると、城内の遺体で女の遺体は四十八体、子供は二十九体です。
この他、報告には城内から城外に持ち出した分として女三十体、子供十七体という数字が付け加えられているけれども、これは埋葬作業が終わっているはずの七月から十月にかけて埋葬したもので、埋葬自体がウソか、ウソでなかったとしても南京問題とは無関係。
仮にそれを全部足したところで、女七十八体、子供四十六体に過ぎません。
「南京大虐殺」の数については、これまでの研究でチャイナ側が主張する「三十万」という数字は完全に虚構だということははっきりしていますが、教科書にはいまだにこれが出てきます。
一番問題なのは、結局、チャイナ側の主張と、日本側のでも大虐殺説だけが載っているということです。
非常に偏っている。
数を出すということは、非常に大きな印象を与え、記憶に残すことになりますから偏ったものを出すのは無責任です。
数は諸説あって確定できないんだから、「数は確定できない」とだけ書けばいい。
もし、どうしても数を出すというのであれば、複数の説を出すべきでしょう。
こういうことですから、市民の二十万三十万大虐殺などという記述は即刻教科書から削除すべきです。
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ところで、こうした大虐殺説は荒唐無稽な作り話とはいえ、捕虜の大量処断が行われたのは事実です。
この捕虜の扱いについては、私なりに考えるところがありますので、簡単に述べておきたいと思います。
南京事件を考える時に重大なポイントの一つは、便衣兵の問題です。
南京戦で南京市内に残された兵士は五万から七万と言われていますが、兵士達は軍服を平服に着替えて市民の中に入り込みました。
これを我々は「便衣兵」と言いましたが、この便衣兵のために、日本軍は兵士と一般市民を区別することが非常に困難だった。
兵隊と間違えて市民を殺害するという大変不幸な出来事も起きてしまったわけです。
とりわけ、便衣兵として捕らえた者を裁判抜きで処刑してしまったことが大きな禍根を残したと思うのです。
南京には留置できる場所も沢山あったのだからスパイ行為や抵抗したものは処刑すると軍律を布告し、これに違反した者は拘束して一旦留置した上で軍律裁判にかけるべきだった。
そうした手続きを踏んだ上で処刑しておけば、今日のように騒がれることもなかったかもしれない。
この問題は非常に微妙で難しい問題だけにいろいろと解釈があるのだけれども、私は便衣兵であろうと何であろうと、武器を捨てて日本の権力下に入った者、つまり捕虜になった者は保護すべきだったと思う。
もちろん抵抗した場合や逃亡した場合は別です。
しかし、物理的抵抗ができない状況である場合には、これはもう完全に捕虜として扱うべきで、たとえ昨日まで便衣であったからといって殺害していいということにはならないと思います。
ただし、誤って市民が入っている例もあったとはいえ、それはあくまでも兵隊と疑った者を処刑したということであって、一般市民を対象としたものではなかった。
これはハッキリ言っておきたい。
何はともあれ、すぐに普通の市民生活が回復したのは、南京の市民が自分達は処断の対象ではないということを知っていたからなのです。
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<中国軍民の抵抗に直面した日本軍は・・・華北の抗日根拠地への攻撃で「焼きつくす、殺しつくす、奪いつくす」という「三光作戦」をおこなった。>(実教出版『日本史B』二〇三頁)
これは明らかに中共の政治宣伝です。
なぜこんなのが教科書に載るのか不思議でならない。
そもそもチャイナ戦線に行った我が軍の兵隊さんたちに聞くと、「三光作戦」などという言葉を聞いた人はいないんです。
それもそのはず、「三光」という言葉はそれ自体日本語ではない。
「光」という言葉は「〜し尽くす」という意味で、これはチャイナの言葉なんです。
一応、私が持っている向こう側の辞書をいくつか紹介しましょう。
まず、中華民国で出版された『中共述語彙解』(一九六六年刊)という辞書で「光」という字で引きますと、ちゃんと「〜し尽くす」という意味で出ており、「中共軍が逃げ回っているときに行軍の負担を軽くするため実施した方法で『三光』と呼ぶ」と書いてある。
用例として、「分光」(分け尽くす)「用光」(使い尽くす)とか、「中共が大陸を占拠した後、上海公安部が糧食の節約のために炊事兵に一種の規定を作った『三光』。即ち、手光(手をきれいに洗え)、盆光(皿をきれいに洗え)、案板光(板をきれいに洗え)」というふうに「光」を使っているんです。
また、大陸チャイナで出している『中国人民述語辞典』(一九五〇年刊)という辞書には、「三光政策」というのが出てきます。
「抗戦時期、敵偽軍がやった残虐な殺し方。『焼光殺光槍光』(焼き尽くし、殺し尽くし、奪い尽くせ)。後に国民党反動派も使った」
それがなぜ日本軍がやったということにされたのは、北支の中共八路軍の逆宣伝でしょう。
チャイナ大陸でたびたび指揮を執った岡村寧次大将は敵の部隊とは戦うけれども、現地のチャイナ民衆を大事にし、余計なトラブルを起こさないようにと心を砕いていた人です。
岡村大将が戦後書いた回想録にはこういう話が出てくる。
蒋介石軍と戦っていた時は「倒蒋愛民」を標語としていたし、北支方面軍司令官としてチャイナ共産党と戦っていた当時は「滅共愛民」ということを部隊全員に唱えさせた。
とりわけ昭和十七年四月八日、全将兵に配布した「国民政府の参戦と北支派遣軍将兵」と題する小冊子の中で強調したのが「焼くな、犯すな、殺すな」という「三戒」でした。
これは岡村大将が発明したものではなく、清の軍隊が明に侵入したときの禁令「不焚不犯不殺」を借用したそうです。
ところが、その後、日中両方の共産党がこの岡村大将の標語を「岡村寧次の可焼、可犯、可殺の三光政策」とでっち上げ、さらに日本の進歩的文化人と言われる人達が無責任にも活字にして垂れ流したという。
要するに、「三光」とは日本の「滅共愛民」政策を批判するために持ち出した言葉です。
だから、さっき言ったように中共の政治宣伝なんです。
教育目的の教科書に政治宣伝が史実として堂々と書かれているんだから、こんな馬鹿な話はないですよ。
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<朝鮮総督府は軍隊や警察を動員し、参加者を逮捕・投獄し、7500人をこえる死者を出す過酷な弾圧をおこなった。>(実教出版『日本史B』一八八〜一八九頁)
三・一独立運動というのは、一九一九年(大正八年)に起こった運動で、万歳運動とも言われている。
この死者が「7500人をこえる」と言うわけですが、この数字はおそらく朴の『独立運動之血史』が下敷きになっていると思います。
『血史』には、死者七千五百九名という犠牲者数が不正確であるということは著者の朴自身が認めているんです。
朴は新聞や伝聞によるもので漏らしもあるかも知れないと言っているが、私に言わせれば、七千五百九名という数字には漏らしもあるかも知れないけれど水増しや誇張はもっとあるかもしれない。
だいたい朴は当時、上海にいて自分で確かめた訳じゃないんです。
日本側には朝鮮憲兵隊司令部と陸軍省の記録が残っていて、憲兵隊の記録では、死者五百五十三名。
『血史』のおよそ十四分の一です。
こうした記録と『血史』がどういう類の本であるかをきちんと弁えておれば、「7500人をこえる」などとはとても書けないはずです。
余談ですけれども、『血史』の序文には、あの汪兆銘が推薦の言葉を書いているんです。
これは思いやりもあり何もあり本当に素晴らしい世界大同のための運動だと書いている。
汪兆銘がなぜそんなに感激したかというと、たぶん「三・一独立宣言」を読んだからではないでしょうか。
「独立宣言」は、独立運動の端緒となったもので、われわれが専念するのは自国の建設であって、他国(日本)を怨む暇もないし、過去を咎める暇もない、と書いている。
私はこれはとても立派な文章だと思いますが、汪兆銘の性格を考えれば、彼もこの文章に感動したに違いない。
ただ、あの宣言通りなら本当にいいと思うけれども、今の朝鮮人は三・一運動は言うけれどもその発端となった「独立宣言」については絶対に言わない。
韓国の教科書にも載っていないでしょう。
つまり、あれを載せると三・一運動を反日だとは言えなくなってしまうから。
それにしても、この教科書の書き方は原因と結果があべこべです。
「軍隊や警察を動員し」と言うんですが、これは軍隊や警察を動員しなければならない暴動が起こったからです。
日本の教科書も韓国の教科書も必ず日本側が弾圧したと書くけれども、事実から言えば、原因は日本側ではなく朝鮮側にあるのは明白です。
つまり、ほとんどのケースは、朝鮮人自身が朝鮮人の商店を襲ったり、おもしろ半分に建物を壊したり放火したりと、さんざん好き勝手に暴れ回った文字通りの暴動だった。
それでは治安が保てないからこそ、憲兵警察や軍隊が出動して暴徒らを鎮圧したんです。
もっとも、そんな暴動があったなんて、シナにいた汪兆銘は知る由もなかったと思いますが。
しかも、捕まった暴徒らはその後、全員きちんと取り調べを受け、その多くは即時釈放されている。
また、起訴された者はきちんと裁判を受けて、みんな罪が軽かった。
裁判をやった上で死刑になったのは一人もいません。
そういう日本側の公平さや温情は教科書には一行も書かないわけです。
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<米を略奪されたヴェトナムでは飢饉もくわわり、約200万人の餓死者を出すほどの甚大な被害をあたえ・・・>(三省堂『日本史B』三二九頁)
これも何の根拠もない話です。
この二百万餓死説というのは、ホーチミンのフランスからの独立宣言に出てくる話で、日本で紹介されるようになった時期は特定できませんが、戦後五十年を迎える少し前から朝日や毎日といった新聞の記事が目に付くようになりました。
例えば、共同通信の配信記事ですけれども、平成六年(一九九四年)十一月五日付毎日新聞朝刊第三面には、<「旧日本軍の蛮行」非難「200万人餓死事件」ベトナムが特別報告書>という見出しが付いた記事が載りました。
そこにはこう書かれています。
「報告書によると、四〇年九月にフランス領インドシナに進駐した旧日本軍は、その年の三ヶ月間だけで四十六万八千トンのコメを調達、四四年までに計約三百五十五万トンを調達した。当時、北部デルタで収穫される夏・秋米は毎年約百八万トンとされており、年によってはほぼその全量を旧日本軍が調達したことになる。この結果、冬・春米の収穫を加えても四四年十一月から四五年五月までの間、北部デルタの住民約一千万人に残されたコメはわずか九十五万トン。これは『七百五十万人が辛うじて飢えをしのぐだけの量』で、国内での食糧搬送も厳しく制限されたため『二百万人以上が餓死した』としている」
しかし、これはまったく根拠のない話です。
ベトナム側発表では計約三百五十五万トンものコメを調達したというけれども、もしそれが本当ならば日本軍は五百年分以上のコメを調達したことになる。
そんな馬鹿な話があるでしょうか。
また、当時北部デルタ全体の人口は多く見ても五百万人。
二百万人が餓死したと言うならば、全人口の二人に一人は餓死したことになる。
しかし、実際にはそんなことは全然なかった。
このことは当時ベトナムにいた日本軍将校や外交官の証言に明らかです。
まず当時の仏印駐留軍(第二一師団)にいた中山二郎氏によると、第二一師団は兵員約二万二千人〜二万五千人未満。
兵士が一日コメ五合(約七百五十グラム)を食べたとすると、師団全員のコメ所要量は一日につき一万八千七百五十キロ。
一年間で六千八百四十三・七五トンの計算になる。
仮にベトナム側発表が正しいとして計算すれば、日本軍は一年間で六十八年分以上、計五百十八年分強のコメを調達したことになる。
中山さんはこのように計算した上で、「誰が見てもこれは正気の沙汰ではない」と述べています。
一方、当時在仏印の日本大使館でコメ行政に携わっていた石川良好氏(元アイルランド大使)は、食糧危機が若干あったのは事実だが、二百万人餓死なんて絶対に考えられないと断言している。
当時、飢餓が最も酷いと言われたのはハノイから南方へ二百キロほどのビンという人口五万の町だったそうですが、石川氏がそこへ視察に行った際、食に困っている人たちが道の所々でお湯を沸かして葉っぱのようなものを入れてすすっていた。
日本で呟かれている「二百万人餓死説」などというものがもし本当だとしたら、その時でも辺り一面に死体が転がっていなければおかしいけれど、餓死者など一人もいなかったという。
そもそも食糧危機の原因は、日本軍の調達によるものではなく、米軍がサイゴンとの接触を断つために爆撃をしたもんだから、鉄道や橋が破壊されて南でとれたコメが北のハノイに輸送できなくなったことにある。
もし食糧危機の責任を問うならば米軍に罪を問うべきで、日本軍とは何の関係もない。
ある意味でこれは冤罪なのです。
教科書は間違っている31
全体を通じて見ると、教科書というものは一体何のためにあるのか、という教育行政の根幹になる哲学が文部科学省には全くないと言わざるを得ません。
言うまでもなく、教科書というのは教育目的のために記述がなされるべきです。
しかし、今回検定に合格した教科書を見ると、教育目的というより政治目的のためになされているとしか思えない。
そして、教育目的のためにするのであれば、学校教育法(第四十二条)に明記されているように、「国家及び社会の有為な形成者として必要な資質を養う」べく教科書を書かなければならない。
今見てきたように事実をねじ曲げてまで、自国に対しての誇りを持てないような、自国を恥じるようなものばかりを教えることが、どうして国家や社会に有為な人材を育てることが出来るのか、考えてみれば誰でも分かることです。
要するに、教育目的だということをすっかり忘れて教科書を作っていると。
文部科学省もそのポイントを忘れて検定しているものだから、こんなのが出てくる。
チャイナ・韓国がこういうふうに言っていると言うだけであれば、日本の教科書がチャイナ・韓国の政治宣伝の材料になってしまうだけです。
それに対して、日本側はこういう風に言っているんだということをきちんと教えないと、到底「教育」とは言えない。
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