10月19日 97年危機から10年の“失敗学”
2007年11月2日は三洋証券の経営破たんをきっかけに金融システム危機が一気に噴出しだしてから、10周年にあたる。97年11月以降の日本の危機は同じ年の夏に発生したアジア通貨・金融危機とは根本的に異なる。ヘッジファンドなどによる投機とは無縁であり、もっぱらホームメードの危機だったからだ。
1980年代後半の景気のバブルがどうして防げなかったのか。バブル崩壊後の不良債権問題の処理の不手際、経済運営の数々の失敗はなぜ生じたのか。90年代以降の長期経済停滞、信用収縮、持続的デフレなどは世界を驚かしたが、それは危機の症状であり、より重要なのはそうした異常現象をもたらした原因である金融行政、金融機関経営の失敗そのものである。それだけに失敗の責任論もさることながら、失敗の原因を検証し、失敗からの教訓を引き出すことが肝要である。
97年11月には三洋証券に続き、大手銀行である北海道拓殖銀行の倒産(11月17日)、山一證券の自主廃業(同24日)とわずか1週間の間の相次ぐ大型倒産が内外に衝撃を与えた。翌98年には日本長期信用銀行、日本債券信用銀行も破たんした。
これは大蔵省による護送船団行政といわれた金融行政の破綻のプロセスでもあり、その過程で大蔵省から民間金融機関検査・監督の権限が分離され、最終的には内閣府の外局として金融庁が生まれた。当の大蔵省は財務省に改組された。大蔵省にとっては痛恨の組織分割・改組だったが、日本経済にとっての痛恨事は三洋証券の会社更生法適用に伴って発生した戦後初の金融機関によるデフォルト(債務不履行)だった。それをきっかけとして信用収縮が始まった。それが石油危機以来のマイナス経済成長、持続的デフレへと発展していった。
デフォルトは金融機関同士が日々の資金過不足を調整しあう無担保コール市場で発生し、以後、コール市場が極度な機能不全をきたした。金融機関同士が相手を信用しないという異常事態のなかで、市場から流動性が激減し、債務超過に至っていない金融機関までもが資金繰り難から破綻に追い込まれだした。銀行間市場の混乱は、やがて一般企業、個人への貸し渋り、貸しはがしに発展した。銀行貸し出しの残高が98年度から2004年度まで減り続けた。
金融当局はデフォルトの影響を明らかに過小評価した。一件のデフォルトが市場を麻痺させたのは、お互いに情報公開を十分しておらず、自分もこれだけ問題債権を抱えているから相手もそうだろうと、相互不信が生まれたからだ。
底流に相互不信があっても従来は“too big to fail”を原則とした金融行政があり、それが表面化しなかった。だが、政策の不手際、官僚の不祥事等で批判を浴びていた大蔵省は護送船団行政を捨て、「金融機関の将来は市場に任せる」という方向に転換したという認識が広がりだした。つまり“too big to fail”原則が放棄され、行政に救済を求める甘えが許されなくなったとの認識から、銀行間市場における相互不信と機能麻痺が増幅された。
金融当局の裁量行政は不十分な情報公開とワンセットになっていた。それは不透明な金融システムを生んだ。その不透明さがデフォルトによってあぶりだされた。これから必要なのは明確な基準と正確で十分な情報公開である。それが行政当局においても金融機関においても自己規律を生む近道である。
97年危機では消費税・医療費引き上げ等による9兆円程度のデフレ要因が景気回復の腰を折ったこと、危機のさなかに最悪のタイミングで金融ビッグバンを実施したことなど、点検、検証すべき失敗は多い。これらすべてが、ホームメードの純粋国内問題だった。
90年代、およびそれに先立つバブルの80年代後半は日本の問題(失敗)の宝庫である。そこには多くの重要な教訓が眠っている。その教訓の眠りを覚まし、今後に活用する知恵が問われている。
(日本経済研究センター会長)
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