Column of the History
107.23ヶ国から承認されていた独立主権国家「満州国」 (2002.10.5)

[トップページ] [前のページ] [次のページ] [コラム目次] [歴史用語解説集] [歴史関連書籍案内]


「満州国」は日本の傀儡国家であり、世界からは独立主権国家として認められてはいなかった ── 戦後から現在に至る迄続いてきた「自虐史観」(日本悪者論)に基づけば、おそらく、こう言う事になるのでしょう。しかし、この歴史認識には明らかに誤りがあります。何故なら、当時、「満州国」をれっきとした独立主権国家として承認していた国々が存在したからです。と言う訳で、今回は、諸外国からの国家承認と言う観点から、「満州国」について論じてみたいと思います。

「満州国」を独立主権国家として最初に承認したのは、建国に深く関わった日本です。1932(昭和7)年3月1日の「満州国」建国から半年後の9月15日、日本は武藤信義・陸軍大将を関東軍司令官兼駐満特命全権大使に任命し、満州国国務総理(首相)・鄭孝胥との間に『日満議定書』を調印締結、これを以て実質的な国家承認としたのです。1933(昭和8)年1月20日、鄭孝胥・国務総理は、既に国交を結んでいた日本を除く71ヶ国の政府に対して、帝政実施を声明し、合わせて満州帝国の成立を通告。(執政・溥儀の皇帝即位は、翌1934(昭和9)年3月1日) これに対して、中南米のエル-サルバドルが早速、満州帝国を承認し、1934年4月にヴァチカン(ローマ教皇庁)、1937(昭和12)年12月にイタリア・スペイン(フランコ政権)、1938(昭和13)年5月にドイツ(第三帝国)、同年10月にポーランド、1939(昭和14)年1月にハンガリーと続き、合計23ヶ国が「満州国」を承認したのです。

「満州国」を承認した23ヶ国

種別 国名
正式承認 日本・中華民国南京国民政府(以上、アジア) ドイツ・イタリア・スペイン・ヴァチカン・ポーランド・クロアチア・ハンガリー・スロバキア・ルーマニア・ブルガリア・フィンランド・デンマーク(以上、欧州) エル-サルバドル(中南米)
国書交換(準承認) エストニア・リトアニア(以上、欧州) ドミニカ(中南米)
戦時中に承認 タイ・ビルマ・フィリピン・蒙古自治邦(内モンゴル)・自由インド仮政府

「満州国」を承認した国の数、「23」を多いと見るか、あるいは少ないと見るか? 当時、政治・経済・軍事とあらゆる分野に及ぶ世界のブロック化と、支那事変(日中戦争)・満州事変等によって日本に対する風当たりが極めて強かった時代に、全世界の国々の実に3割が「満州国」を承認したと言う事実。しかも、独伊やスペインと言った日本と「枢軸国」を形成した国家ばかりで無く、ローマ-カトリックの総本山であるヴァチカンや、日本や「満州国」と直接利害関係に無かった北欧・東欧・中南米の一部諸国をも承認したと言う事実。これらは揺るがしようの無い歴史的事実なのです。

り返しますが、当時の世界は、アジア・アフリカ・オセアニアの殆(ほとん)どの地域が、欧米列強の植民地だった時代です。アジアで独立を保持していたのは、日本・タイ・トルコ・サウジ-アラビア(当時はヒジャーズ-ネジド王国)程度でしたし、アフリカもエジプト(英国影響下)・エチオピア(伊国影響下)・リベリア・南アフリカの4ヶ国のみと言った実情です。又、当時の「独立国」の内、半数近い約30ヶ国が欧州にあり、その内の半数が「満州国」を承認したと言う事を考えると、全世界130ヶ国以上の独立国を数える現代において、たった数ヶ国からしか承認されなかったアフガニスタンのタリバーン政権よりも、「満州国」の方が余程、正当性があった共言えます。

に言えば、当時、内戦状態にあった支那において、南京に首都を置いていた汪兆銘・行政院長(首相)率いる南京国民政府が、1940(昭和15)年3月の『日満華共同宣言』に参加、同年10月には「満州国」との間に相互承認を交わし、翌(昭和16)年には大使の相互交換をも行ったと言う事実があります。もっとも、当時の支那には、汪兆銘の南京国民政府以外に、蒋介石の重慶政府、毛沢東の中華ソヴィエト臨時政府が存在していた訳で、「三国」の一つから承認されただけでは無いか、と言う意見も出る事でしょう。しかし、蒋介石政権は、1938(昭和13)年10月、日本軍による武漢三鎮陥落によって、四川省重慶への遷都を余儀無くされ、終戦迄日本軍とまともに戦えず、当然ながら、「中国」各地に対する統治権等、行使すべくもありませんでした。又、毛沢東政権にしても、廬溝橋事件を起こして日本・国民党両軍を戦わせ、ひいては支那事変を勃発させる事で、蒋介石の目を自分達から日本軍へ逸らす事に成功し、辛うじて滅ぼされずに済んだと言う程度で、実質的には単なる左翼共産ゲリラの域を脱してはいなかったのです。その様な情勢の中、蒋介石と共に同じ国民党にあって、党内左派の重鎮だった汪兆銘が彼を見限り、対日和平(支那事変の早期解決による国内秩序の回復)路線を推進し、日満両国と協調したのは前述の通りです。

り返しますが、戦後、「日本の傀儡」と言う烙印を押されてしまった「満州国」を、当時、23もの国家・政府が独立主権国家として承認していた事は紛れも無い事実です。更に言えば、もしも、「満州国」が日本の強い影響下にあったから「傀儡国家」と言うのであるならば、米国の強い影響下にあった、あるいは現在も影響下にある中南米諸国(パナマ等)や、かつてワルシャワ条約機構の加盟国として、ソ連の強い影響下にあった東欧諸国 ── 所謂(いわゆる)「衛星国」も又、「傀儡国家」と呼ばれて然るべきでは無いでしょうか?


[トップページ] [前のページ] [次のページ] [コラム目次] [歴史用語解説集] [歴史関連書籍案内]