卒業論文

 象徴天皇制成立期の政治史

 −天皇退位問題を中心として−

日本史学専攻4年 河西秀哉

【本文続き】

第1章 天皇制・昭和天皇の危機
1 近衛の構想
当初は日本が戦局を優位に進めていたアジア・太平洋戦争も、四二年六月のミッドウェー海戦を機に戦局は一転し、日本軍はガダルカナル島、ソロモン群島で敗北を繰り返していった。そうした戦局の後退を背景として、四三年夏頃から、それまで戦争の遂行を主導してきた東条英機内閣を打倒し、早期和平へ向かおうとする動きが起こり始めていた。その動きは、「岡田啓介・米内光政などの海軍系重臣グループ、海軍内の反東条・反嶋田グループ、陸軍内の反主流派である『皇道派』系の将軍グループ、重臣の牧野伸顕の娘むこで外交官僚の吉田茂とその協力者である殖田俊吉、戦時議会における反主流派を形成した鳩山一郎らの同交会系議会人など」の勢力によって起こされており、それらの勢力の中心は、内閣総辞職後、政治の表舞台にはほとんど立っていなかった、前首相の近衛文麿であった。(11)近衛はこれらのグループとの接触の他にも、娘婿の細川護貞を使って、天皇の弟である高松宮宣仁と協力関係を築き、また戦後首相となる東久邇宮稔彦とも話し合いを重ねることによって、皇族の一部をもその運動の一部に引き入れていき、東条内閣打倒と早期和平を実現しようとした。
 それに対し、東条は自らの参謀総長、嶋田繁太郎海相の軍令部総長兼任と、東条内閣の権力強化によって近衛らの打倒運動に対抗しようとしたが、日本軍が四四年六月にマリアナ沖海戦で敗北し、七月にはサイパン島を失ったことによって、日本本土がB二九爆撃機の直接攻撃圏内に入り、東条内閣の責任問題は必至となった。
 東条内閣組閣から一貫して天皇とともに東条を支持していた、内大臣の木戸幸一も四四年に入るころから、次第に心が揺れ動き、四月頃には反東条となっていた。(12)有力な支持者のひとりを失った東条内閣の総辞職は決定的となり、四四年七月一八日に東条内閣は総辞職し、小磯国昭と重臣グループのひとり、米内光政の連立政権が組織されることとなった。
 東条内閣打倒運動、早期和平に向けての、こうした近衛の行動は、ある考えに基づいて行われていた。近衛は当初、「自分としてはこのまま東条にやらせる方がよいと思ふと申し上げた。夫れは若し替へてうまく行く様ならば当然替へるがよいが、若し万一替へても悪いと云ふことならば、せつかく東条がヒットラーと共に世界の憎まれ者になつてゐるのだから、彼に全責任を負はしめる方が良いと思ふ。米国は我皇室に対し奉り如何なる態度をとるか不明なるも、伊藤君も云ふ通り、個人の責任即ち陛下の責任は云々するかも知れぬが、皇室と云ふが如き観念は彼等には少いし、加ふるに東条に全責任を押しつければ幾分なりとその方を緩和することが出来るかも知れない。それが途中で二三人交替すれば誰が責任者であるかがはつきりしないことになる。また殿下は此の際御出まし遊ばさぬ方がよい様思ひますと申し上げたる」(13)と、東条にすべての戦争責任を負わせることによって、昭和天皇個人が免責され、天皇制が守られると考えていた。しかし、その考えはすぐに撤回されて、東条だけでは戦争責任は負いきれず、戦争終了後に連合国が天皇の戦争責任を追及し、それが天皇制それ自体を崩壊させる原因となりうるという考えに転換し始めていた。近衛はそうした戦後の連合国の動きを押さえるために、日本国内において昭和天皇個人の処遇を決定してしまうことで、天皇制を廃止しようとする追及を避けようとした。近衛の中では、四三年七月の高松宮との会談で表明したように、「戦争ノ推移困難ナル場合、少クモ国内、国体変革ニ及バザル様ニスル必要アリ」(14)と、「国体」=「天皇制」についてとにかく守ろうとのスタンスをとることにした。
 例えば、東条内閣総辞職前の四四年七月八日に、東条の後は中間内閣を経て、東久邇宮が「内閣を組織し、講和問題をや」り、「そのさい、今上陛下は御退位になり、皇太子に天皇の地位をおゆずりになって、高松宮を摂政とする」(15)という構想を木戸と話し合った。あらかじめ天皇を退位させた上で、講和に取り組もうとする姿勢を打ち出したのである。これは先に示された「国体変革ニ及バザル」という考えのためには近衛にとってはやむを得ない構想であった。
 四五年に入って、戦局がますます悪化してくると、近衛は本格的な和平工作を始め、その中で天皇退位の構想をより具体化するようになった。一月二五日に京都の近衛の別邸で、岡田・米内・仁和寺門跡の岡本慈航との協議の場が持たれた。この中では「国体の護持をどうはかるか」が話し合われ、「皇室の護持」のために、天皇は退位し、仁和寺において出家し、門跡としてそこに住むという計画が示された。「連合国も出家した天皇をどうこうするとまではいうまい」(16)というのである。このことは翌日、近衛が高松宮と京都で会った際にも、話し合われたと考えられる。(17)また、同時期に東久邇宮が真宗管長の木辺孝慈との会談の中で、「戦局最悪の場合、わが国体護持のための対策、および今上天皇の御地位について考えておかなくてはならぬ」(18)と、天皇退位を匂わせる発言をするなど、反東条で集まった重臣・皇族グループは最悪の場合、天皇制という制度を守るためには昭和天皇の退位はやむを得ないという考えを持つようになっていった。これは、このグループの中心である近衛の考えに大きく影響されたものではないだろうか。
 こうした状況下で、二月に平沼騏一郎・広田弘毅・近衛・若槻礼次郎・牧野伸顕・岡田・東条ら七人の重臣によって時局に関する上奏が行われた。これら七人の重臣の中で、近衛だけが明確な政治的方向性を持って上奏した。(19)近衛は「最悪ナル事態ハ遺憾ナガラ最早必至ナリ」として、敗戦が最早避けられないことを述べ、「国体護持ノ立場ヨリ最モ憂フベキ」なのは「共産革命」であり、それを回避するためには、「一日モ速ニ戦争終結ノ方途ヲ構ズベキ」という考えを上奏した。これに対し天皇は「モウ一度戦果ヲ挙ゲテカラデナイト中々話ハ難シイト思フ」(20)と答えた。
 しかし、戦局は近衛の言った通り、「最悪ナル事態」に向かいつつあった。四月にアメリカ軍が沖縄に上陸を始め、小磯内閣は総辞職し、穏健派の鈴木貫太郎が内閣を引き継いだ。五月にはドイツが連合国に降伏し、ここに至って、天皇も「戦争の終結に就きても……之が実現に努力せむことを望む」(21)と方針を転換して、和平の道を進むこととなった。和平工作はソ連を仲介として進められることになり、近衛がその特使として派遣されることが決定された。近衛はその際、自らのブレーンとともに「和平交渉の要綱」を作成した。要綱は「國體の護持」=「天皇制」の維持が絶対条件とされていて、その要綱の解説には「國體の解釋については、皇統を確保し天皇政治を行なうを主眼とす。ただし、最悪なる場合には御讓位も亦止むを得ざるべし」(22)と従来の近衛の方針を堅持していた。
 結局、交渉はうまくいかず、近衛がソ連に派遣されることはなかった。国内でそうした動きが行われている中の七月二六日、日本に無条件降伏を求めるポツダム宣言が米・英・中より発表された。(23)この宣言が出ても、戦争継続派は非常に強硬ではあったが、広島・長崎への原爆投下、ソ連の参戦など戦局はより緊迫し、鈴木首相・米内海相らは「国体護持」だけを条件にしてポツダム宣言を受諾すべきだと主張し、日本側の自主的武装解除などの四条件付き受諾をとる阿南惟畿陸相・梅津美治郎参謀総長らと対立した。この結論は一〇日の御前会議に持ち越され、天皇の「聖断」によって、「国体護持」のみを条件としてポツダム宣言を受諾することに決定した。
 これに対し、アメリカ政府はこの条件に直接触れることはしなかったが、「天皇……の権限は、降伏の時点から連合国最高司令官に従属」し、「日本国の最終的政治形態は、ポツダム宣言にもとずき、自由に表明される日本国国民の意思によって確定される」(24)という「バーンズ回答」を発表した。これは「間接的表現を用いながらも、降伏後も天皇の地位が保証される可能性があることを示唆し、さらに占領の終了後に日本の国民が望むなら天皇制の存続がありうることを暗に認めたものだった」。(25)この回答に対し政府ではまた意見が分かれることとなり、一四日の御前会議で、「之以上戦をつづけては国体の護持も難しい。自分は明治天皇が三国干渉を耐え忍ばれた昔を偲び、それらを振り切って…敵の提案に應じようと思う」(26)と再度の「聖断」によってポツダム宣言を受諾する事が決まり、アジア・太平洋戦争は終結することとなった。(27)
 その後発足した東久邇宮内閣でも近衛は副総理格で入閣し、戦後処理に関する問題を担当することとなった。一〇月に連合国軍総司令官D.マッカーサーと会見して、憲法改正問題に着手するよう示唆を受けたと思った近衛はその時、有頂天であった。その状態で臨んだ、一〇月二四日のAP通信東京特派員R.ブラインズとのインタビューの中では、「天皇の御退位に関する規定は、現行の皇室典範に含まれてゐない、……憲法改正に當る専門家は近く、改正皇室典範に退位手續に関する條項を挿入する可能性を検討することにならう」(28)と述べて、天皇の退位の可能性があることをほのめかした。「最悪の時」には、天皇個人が退位する事によって責任をとり、「国体護持」を図るという戦前からの持論を展開したのである。
 しかし、そんな近衛に大きな危機が待ちかまえていた。国際世論では日中戦争など、アジアに対する責任を問う声が次第に高まっていた。GHQもそれを無視できず、近衛への取り調べを行い、逮捕することを決定した。「保守勢力のなかで最もリアルな政治感覚をもっていた近衛でさえ、アジアに対する戦争責任の問題に関してはまったく無自覚であった。」(29)逮捕を嫌った近衛は一二月一六日、自宅で自殺し、彼の構想は実現されることはなかった。
 さて、戦前からの近衛の構想に対して、「お坊ちゃん気質が最後まで抜け切れ」ず、「退位によって天皇を気軽な生活に解放してあげたいと単純に考え、退位が天皇の戦犯訴追や天皇制の存廃にリンクしていることに気づいていなかった」という評価がある。(30)果たしてその評価は正しいのだろうか。次の2で詳しく述べるが、アメリカ側は天皇制存続と退位の問題は厳密に区別して考えていた。確かに近衛もまた、今まで見てきたように、天皇制と天皇個人をはっきり区別して構想を考え、行動していた。しかしそれがすぐに上の評価につながるには、やや短絡的すぎると思われる。近衛の退位論は、日本国内における自主的な退位によって、天皇個人に責任をとらせ、対外的な天皇制存置へのアピールであった。そして、国内で責任をとらせることによって、天皇が戦犯とされることのないようにと考えた。これらを見てみれば、近衛は退位と戦犯訴追・天皇制存廃の関係をリンクして考えていたと見るのが正しいだろう。
 ところで、天皇の退位によって戦争責任を天皇個人がとるという近衛の考え方には、いわゆる政治的責任の意味合いはあったのだろうか。これまで本論文で触れてきた近衛の言葉には、政治的責任を示唆するものはない。確かに死後発表された「近衛公手記」には、「統帥権の問題は……政府と統帥部との両方を抑へ得るものは、陛下たゞ御一人である、……平時には結構であるが……國家生死の関頭に立つた場合には障碍が起り得る場合はなしとしない」(31)と日米開戦の時に天皇が開戦を止めることができたのに、しなかったと非難しているが、これも天皇の政治性を強く非難していると言うよりもむしろ、止めることができなかった天皇個人の道徳性を非難しているのではないか。つまり、近衛は政治的責任よりも、あるべき君主として振る舞うことができなかった昭和天皇に、退位によって、道徳的な責任をとらせて、天皇制を存続させ、より強固なものにしようとしたのではないか。第2章で検討するような、知識人による道徳的責任論の萌芽はすでに近衛の構想の中にあった。(32)

2 アメリカの「天皇」検討
 連合国の主要国として日本と戦争をしていたアメリカでは、四二年後半頃から、国務省内で戦後占領政策における天皇・天皇制の扱いについて検討を始めるようになっていた。この頃の国務省の中には、中国問題の専門家で、中国との外交関係を重視する立場から天皇制廃止を唱える「親中国派」と、日本問題の専門家で、日本との外交関係を重視する立場から天皇制利用を唱える「親日派」がはげしく対立していた。(33)しかし当時は、国務長官c.ハルを中心として、J.グルーら親日派が主導権を握っており、四四年に設置された戦後計画委員会(PWC)には、多くの親日派が参加し、数ヶ月にわたって天皇制についての検討がされ、PWC一一六d「日本ー政治問題ー天皇制」を完成させるに至った。この文書では、日本人が天皇に対して「ほとんど狂信的と言えるほどの献身性を示している以上……天皇制を廃止しようとする外部からの企てはおそらく効果がな」いとしている。そうした分析を踏まえて、占領当局が「最大限に天皇制を利用するのは、政治的に望ましい」が、一方で日本人による大規模な天皇制廃止を求める運動が広がった場合、「いかなる処置もとるべきではなく、また、政治的道具として天皇を利用することもやめるべきである」との見解を示し、占領に際しては天皇制を利用し、アメリカ側から廃止しようとはしないが、日本人が自発的に廃止運動を始めた場合、それを妨げないという立場を明らかにした。(34)この文書は国務省が用意した文書として、その後のアメリカの政策に大きな影響を与えたことは否めない。
 PWCでの天皇制の検討の後、四四年末頃から、対日処理に関する問題はPWCから国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)に責任が移っていった。(35)国務省は四五年四月に陸軍省から「日本の取り扱いに関する簡単な政策文書」を提供するよう求められ、SWNCC一五〇「敗北後における米国の初期の対日方針」が作成された。これによれば、日本の敗北後、最高司令官は日本の「内政および外政に対する最高の権力を行使」し、「天皇の憲法上の権限は停止」し、「国家の方針の策定もしくは検討に参加するすべての機関は……停止され、軍政府によって掌握される」(36)として、直接統治を示唆していた。PWC一一六dと見解が異なるのは、国務省内における親日派と親中国派の対立、戦局を優位に進める軍部の影響があったためである。まだこの頃は、アメリカの政策も流動的であった。
 ところでSWNCCの検討作業とは別に、四五年初め頃から、日本の早期降伏を促すための声明を出そうとする動きが、国務次官となっていたグルーらを中心として起こっていた。(37)グルーによる声明案は、戦後の天皇制存廃に関しては連合国が関与しないという降伏案だったために、軍部などからの反対があり、実現しなかった。その後、六月に親中国派のJ.バーンズが国務長官に、D・アチソンが国務次官に就任し、国務省内の主導権は一変した。そうした状況下で七月に開かれたポツダム会談では、原爆実験の成功とも相まって、草案にあった、「現皇統のもとにおける立憲君主制の排除を必ずしも意味するものではない」(38)という文言が削除されるという強気の姿勢でポツダム宣言が発表された。
この文言が削除されたことからもわかる通り、ポツダム宣言では戦後の天皇制や天皇の地位に関してははっきりとした言及はなかった。(39)日本政府がこれを黙殺するというのも当然の結果であったかも知れない。しかし前述のように、日本は戦局の悪化に伴って八月一〇日、「国体護持」だけを条件として、ポツダム宣言を受諾することを決定した。これに対し、日本国民の選択によっては天皇制が存続することもあるし、廃止されることもあるという「バーンズ回答」が出され、日本側もそれを好意的に解釈し、受諾したことによって、戦争が終結したことも前述した通りである。  
 日本が一〇日にポツダム宣言を受諾することを決定してから、SWNCCも急ピッチで戦後占領政策に関しての検討作業を行うようになった。天皇制に関しては、先のSWNCC一五〇の改訂作業が始まり、二二日に出されたSWNCC一五〇/三では、「最高司令官は……天皇を含む日本国統治機構および諸機関をつうじてその権限を行使する」と、間接統治の方針に転換した。(40)これによって、天皇制が戦後も占領のために利用され、存置する事が決定したわけである。このように方針が転換した理由として、日本の降伏が予想よりも数ヶ月早まったために占領要員が確保できなかったこと、日本の武装解除が天皇の命令によってスムーズに展開されたこと、占領コストを下げるのを意図したことなどが考えられる。(41) 
 ところで、天皇制は存続された事が決まったが、前述のようにアメリカ側は天皇制の存続と退位の問題は厳密に区別していた。(42)退位に関係する天皇の戦争責任の本格的な議論は九月一八日にアメリカ議会で、天皇を「戦争犯罪人として裁判に付する」ことが決議されたことより始まる。SFE一二六では、「天皇を裁判に付すことが正当とされる場合には、戦争犯罪人として天皇を逮捕し、裁判にかけるべき」(43)とし、SFE一二六/二では、天皇は「戦争犯罪人として逮捕・裁判・処罰を免れ」ず、その際には退位する(もしくは退位される)ことが必要であるとした。(44)しかしこれらのSFEでの結論を受けた、SWNCCでの話し合いでは、SFE一二六シリーズが政治的判断に依っていて、天皇を戦犯として裁く場合はもっと司法的な観点に立つべきとの意見が出され、それまでの議論は修正されることとなった。そして、マッカーサーに現地司令官として意見を聞くとともに、天皇の戦争犯罪の証拠を収集するように命じる通達が四五年一一月二九日に出された。
 アメリカ政府当局は占領政策によって、天皇制という制度を残すことについては決定したが、天皇個人の退位と、戦犯として裁くことについては、その結論をマッカーサーの手にゆだねることにしたのである。

3 天皇・マッカーサー第一回会見
 敗戦後、日本側には2で述べたようなアメリカ側の、占領のために天皇制を残すという政策は伝わって来ず、天皇制存廃に関しての連合国の出方に大きな関心を持っていた。八月二九日に天皇が木戸に退位の意向を洩らした際に、「聖慮の宏大なる誠に難有極みなるも、聯合国の現在の心構より察するに、中々其の位のことにては承知致さゞるべく、且つ又外国の考へ方我国とは必しも同じからず、従って御退位を仰出さるゝと云ふが如きことは或は皇室の基礎に動揺を来したるが如くに考へ、其結果民主的国家組織(共和制)等の論を呼起こすの虞れもあり、是は充分慎重に相手方の出方も見て御考究被遊るゝ要あるべし」(45)との見解を木戸が述べていることからもわかるように、日本側は天皇の戦争責任を認めてしまった場合、それによって天皇制を廃止しようとする動きが高まることを恐れていた。また、天皇自身も自らの退位が「『国体護持』という、より大きな責任を全うすることと接触すると分り」(46)、退位を断念したことも大変注目される。
 さて、宮中グループはアメリカの出方をただ傍観するのではなく、情勢を探るために積極的な行動をとることで、流れを天皇制存置の方向へ向けようとしていた。その積極的な行動の中に、天皇とマッカーサーとの直接の会見の実現が含まれていた。当初、東久邇内閣の外相であった重光葵は直接会見に難色を示していたが、重光が閣内で孤立して辞任し、後任に吉田茂が就任すると、事態は急転し、天皇とマッカーサーとの会見が行われる事が決定した。これは宮中側の積極的アプローチによる結果であった。(47)
 会見は九月二七日、天皇がマッカーサーを訪ねる形で、約三七分間行われた。この会見において、天皇が戦争の全責任を負うことを示し、自分はどうなってもかまわないから国民を救ってほしいと発言したという美談が定説化している。(48)しかし、この会見の通訳奥村勝蔵のメモの発見や、豊下氏や松尾氏の研究(49)によって、この美談とは異なる天皇の発言があったと考えられる。松尾氏は諸史料を検討して、天皇は「開戦についていえば、宣戦布告に先立って真珠湾攻撃を行うつもりはなかった。わたしは戦争回避のため極力努力したが、結局は開戦のやむなきにいたったことはまことに遺憾である。その責任は日本の君主たる自分にある」と発言したのではないかと推定している。(50)天皇は自らの戦争責任を「相手の内懐に飛込む気持ちで」認めたが、「責任逃れの弁解も行っているのであり、こちらの方が天皇の『真意』」であった。(51)天皇のこの発言や態度に大変感動したマッカーサーは、戦争責任の問題に関してはやや判断をあいまいにするものの、「陛下程日本ヲ知リ日本国民ヲ知ル者ハ他ニ御座居マセヌ」(52)と、暗に天皇の地位を認める発言をした。マッカーサーがこのように天皇個人を高く評価したことは、日本側にとって、天皇制存置のための大きなステップとなった。
 しかし、この会見の行われた九月頃といえば、アメリカ国内でSFE・SWNCCによって、天皇の戦争責任問題が討議されており、その後の一二月には皇族の梨本宮に逮捕指令が出たりと、日本側にとっては天皇個人が守られるかということに関しては、まだまだ疑心暗鬼の状態であった。そのため、宮中グループは松平康昌宮内省内記部長らを中心として、GHQと接触し、その真意を探ろうとしていた。日本側はその接触の中で、GHQの天皇政策に関する情報を次第につかみ始めていた。一一月二六日に米内海相がマッカーサーと会談した際、「天皇の地位について、これを変更するという考えを全然もっていない」(53)との発言を引き出し、四六年一月一日にはGHQ民間情報局K.ダイク局長の情報が、右翼の安藤明を通して木下道雄侍従次長に伝えられた。その情報とは「今上天皇及び男子御兄弟御三方の皇族としての已存権を確認す。右は民主国日本建設の見地より日本国民を幸福ならしむる政策として堅持す。しからば民衆の指導原理乃至一般国民大衆の信仰にも一致し、如何なる場合に於ても天皇の存続は絶対必要なりとの主張あり」(54)というものであった。また二月二七日にはマッカーサーの側近中の側近である、B.フェラーズ准将から高松宮に「陛下ガ唯一ノ現在ノ指導適格者ト認メルカラ、モツト積極的ニナサルガヨイ。Mcハ陛下ヲ認メテヤツテユクツモリデヰル」(55)と伝えられた。日本側は四五年後半から四六年初頭にかけての間に、こうした断片的な情報から、天皇制が存置され、天皇は退位させられることなく、戦犯として裁かれることもないと確信したのではないだろうか。
 それでは、GHQはいつこのような方針を決定したのだろうか。四五年一○月二日に、フェラーズはマッカーサーに対して、「大衆は裕仁に対して格別の敬慕の念を抱いている。……天皇を存置しても、彼らが権利として選びうる最も自由主義的な政府の樹立を妨げることはない……天皇を大いに利用したにもかかわらず、戦争犯罪のかどにより彼を裁くならば、それは、日本国民に目には背信に等しいものであろう。……統治機構は崩壊し、全国的反乱が避けられないであろう」(56)という内容の覚書を提出している。フェラーズは戦前に日本を訪問したこともある「親日派」であって、戦中からこの覚書のような認識を持っていた。(57)マッカーサーはこのフェラーズ覚書に影響を受けたと思われ、一一月二九日に本国から天皇の戦犯としての証拠を集めるよう指示された時も、そうした証拠を集めた形跡はなく、四六年一月二五日には、天皇が「政治上の諸決定に関与した……証拠は何も発見されていない。……もしも天皇を裁判に付そうとすれば……日本国民の間に必ずや大騒動を惹き起こし……占領軍の大幅な増強が絶対不可欠となる」(58)との極秘電をアメリカ本国に打ち、事実上、天皇を戦犯として裁くことに反対した。マッカーサーの目付役として派遣されていた、「親中国派」のJ.アチソンも日本の現状を見、自らの考えを変化させ、一月四日にトルーマン大統領に宛てて、「われわれは、日本を統治し、諸改革を実行されるため、引きつづき日本政府を利用しなければならず、したがって、天皇が最も有用であることは疑問の余地がありません」(59)と報告している。これらを受けた四月三日、極東委員会は天皇を戦犯として告発しないことを決定した。これによって、アメリカの政策として天皇制を存置すること、天皇を退位させ、戦犯として裁かないことが定まった。
 マッカーサー個人は、いつ天皇を戦犯として裁かないことを決定したのだろうか。マッカーサーはもともと、グルーらと同じ「親日派」であり、日本人は「権威に対して従属的にふるまう」ので、天皇が民主主義を受け入れるように命令した時だけ従うという、「天皇制民主主義」の考え方を持っていた。これは日本占領以前から、天皇制を存続させる事を前提として、考えられていた。(60)また、マッカーサーは次期大統領候補として、日本占領政治の成功を手みやげにして選挙戦に臨みたかったこともあり(61)、天皇制を廃止すること・天皇を退位させることによっての、無用の混乱も避けたかった。天皇権威によって、武装解除が進み、着実に占領政策が実行されていく度に、自らの考えに確信を強めていった。そして天皇との直接の会見で、マッカーサーは天皇の言動に大いに感動し、天皇を退位させないことを強く決心したのではないか。この会見によって、マッカーサーの中に、天皇制存置とともに、天皇個人を守る姿勢も加わったと言ってよい。

【注】

(11) 吉田注(3)前掲書    吉田裕氏「近衛文麿ー「革新」派宮廷政治家の誤算」(吉田裕氏他『敗戦前後』所収 青木書店 1995) (12) 木戸の転向の様子について見てみると、「御信任を得ている東條に対して私から辞めたら どうかというべき筋道でもなければ、また御上に東條を辞めさせられたが宜しうございます   と申上げる筋でもない」(『高木惣吉日記』四四年三月一日)と東条を支持したかと思えば、   「東條内閣の存続は相当困難を予想せらる」(『木戸幸一日記』一月六日)と日記に書くなど、   心が揺れ動いていた。四月には、近衛が「木戸が最近東條のことをひどく悪くいうようになった   ネ、十一日会でも大いに東條を扱き下した。あいつは”不熟慮断行だ”などといっていた。   東條内閣に対する気持ちが変ってきたのではないかと思う」(『高木惣吉日記』四月二五日)   と語ったように、次第に東条を見放すようになり、六月に近衛と会談した際には、近衛も   「顔負けする程反東条になつて居」て、最近天皇が「東条に人心離れたる由、御承知遊ばされたる」   のは、「自分が申し上げるから」と述べた。(『細川日記』六月七日)  (13) 『細川日記』一九四四年四月一二日 中央公論社  1978 (14) 『高松宮日記』第六巻 一九四三年七月一五日 中央公論社  1997 (15) 『東久邇日記』一九四三年七月八日 徳間書店  1968 (16) 高橋紘・鈴木邦彦氏『天皇家の密使たち』 徳間書店  1981 (17) 『高松宮日記』第八巻 一九四五年一月二六日    日記には具体的な会談の記述はないが、翌日にわざわざ近衛と高松宮が会談したことから、 前日の話し合いの内容が高松宮に伝えられたと考えるのが自然だろう。 なお、高橋注(16)前掲書にこの日の会談の記述がある。 (18) 『東久邇日記』一九四五年一月二二日    真宗管長と会談したということは、近衛のように、天皇退位後、出家という話が出たという 可能性は否定できない。 (19) 吉田注(3)前掲書 (20) 『木戸幸一関係文書』「時局ニ関スル重臣奉答録」東京大学出版会  1966 (21) 『木戸幸一日記』下巻 一九四五年六月二二日 東京大学出版会  1966 (22) 矢部貞治氏編『近衛文麿(下)』弘文堂 1952 (23) その内容とは、軍国主義の除去、連合国による占領、植民地などの放棄、軍の武装解除、 戦争犯罪人の処罰、民主化傾向の復活などであった。 なお、アメリカ側の天皇問題に関する政策決定過程は次の『2 アメリカの「天皇」検討』で 詳しく論ずる (24) 山極晃・中村政則氏『資料日本占領1 天皇制』 いわゆる「バーンズ回答」 大月書店 1990 (25) 吉田注(3)前掲書 (26) 『徳川義寛終戦日記』一九四五年八月一四〜一五日 (27) この二度の「聖断」で大きな役割を果たしたのは近衛や木戸、高松宮らであった。 閣議で結論が出なかったために、決定を御前会議に持ち込み、木戸は天皇に逐一、 その際の情報を提供していた。 (28) 「朝日新聞」一九四五年一〇月二三日付 (29) 吉田注(3)前掲書 (30) 秦注(9)前掲書 (31) 「朝日新聞」一九四五年一二月三〇日付 (32) 吉田氏は注(3)前掲書の中で、近衛が側近に語ったエピソードをもとに、「一つの選択肢として、    天皇が国家と民族の先頭に立って名誉ある戦死をとげることで皇室と国民の間の一体感を強め、 他方で戦争責任を戦死した天皇にになわせることによって皇室の存続を確保する、 ということまで考えていたのではないだろうか」と推測している。    非常に興味深い推測である。近衛は昭和天皇ひとりを犠牲にすることで、天皇制と国民の絆を より深めようとしていた。天皇の戦死によって国民を納得させるという考え方こそ、 道徳的責任の取り方と言えるのではないだろうか。 (33) 武田注(2)前掲書 (34) 山極注(24)前掲資料集「PWC一一六d・CAC九三e」 (35) 国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)は四五年一二月一日に戦後政策における 三省間の調整のために設置された。次官補クラスが委員で、専門のスタッフが必要に応じて 出席した。下部機関に国務・陸軍・海軍三省調整委員会極東小委員会(SFE)があり、 ここでSWNCC文書の起草が行われた。(山極注(24)前掲資料集解説) (36) 山極注(24)前掲資料集「SWNCC一五〇」一九四五年六月一一日    なおこの文書は国務省内で検討され、「天皇の権限ならびに国家方針の策定もしくは検討に 参加するすべての機関の権限と権能は、軍政府によって掌握される」と修正されたが、 本質的な意味は変更されていない。 (37) 44年11月にハルが国務長官を辞任し、E.ステティニアスがその後を継いだ。グルーは そのもとで、国務次官に就任した。 (38) 山極注(24)前掲資料集「ポツダム宣言[案]」 (39) 武田注(3)前掲書、中村注(6)前掲書 (40) 山極注(24)前掲資料集「SWNCC一五〇/三」一九四五年八月二二日 なお中村氏は注(6)前掲書の中で、アメリカ政府が間接統治・天皇制存置を決定したのは、 八月一一日から、このSWNCC一五〇/三が出された八月二二日の間ではないかと 推定している。 (41) 中村政則氏『象徴天皇制への道』岩波書店 1989 ところで、SWNCC一五〇/三でも、「政治形態の変革は」国民から起こった場合、 「許容され、かつ支持される」と、「バーンズ回答」にあるような自主的選択によっては、 天皇制が廃止されるかもしれないというのでは、天皇制存置が決定したわけではないと 見えるかもしれない。しかし、アメリカ側は先のPWC一一六dにあるように、日本人は 天皇制に「狂信的と言えるほどの献身性を示している」と分析しているのであり、日本に    おいて自主的に天皇制廃止運動が大きく起こるとは考えていなかった。 日本国民は存置の方向を選択すると考えていたのである。もちろん、天皇制改革の必要で あると考えていた。 (42) 例えば、SWNCCの下部組織SFEの構成メンバーであった、デニソン海軍大佐は 覚書の中で、「天皇制を存続させることと天皇裕仁を皇位にとどめることとのあいだには 明確な区別をもうけるべき」と述べている。(山極注(24)前掲資料集) このように、アメリカの政策立案者たちは天皇制度と天皇個人を厳密に区別していた。 (43) 山極注(24)前掲資料集「SFE一二六」一九四五年九月二六日 (44) 山極注(24)前掲資料集「SFE一二六/二」一九四五年一〇月一日 (45) 『木戸幸一日記』下巻 一九四五年八月二九日 (46) 渡辺注(7)前掲書 (47) この会見には、GHQ側からのアプローチもあった。それは天皇に厳しいアメリカ世論に、 占領者と非占領者という形で、天皇を呼びつけて会見するという「服属儀礼化」をアピールした かったからである。(坂本孝治郎氏『象徴天皇制へのパフォーマンス』) (48) D.マッカーサー『マッカーサー回想録』朝日新聞社  1964    藤田尚徳『侍従長の回想』講談社  1961 (49) 豊下楢彦氏「『天皇・マッカーサー会見』の歴史的位置(上)(下)」(『世界』1990年2月号、3月号所収) 松尾注(8)前掲論文 (50) 松尾注(8)前掲論文 (51) 松尾注(8)前掲論文 (52) 山極注(24)前掲資料集 奥村勝蔵「第一回天皇・マッカーサー元帥会談記録」 (53) 実松譲氏『米内光政』 光人社 1966 (54) 木下道雄『側近日誌』一九四六年一月一日 文芸春秋  1990 (55) 『高松宮日記』第八巻 一九四六年二月二七日 (56) 山極注(24)前掲資料集 「フェラーズ准将覚書」 (57) 東野真氏『昭和天皇二つの「独白録」』NHK出版 1998 (58) 山極注(24)前掲資料集 「マッカーサーからアイゼンハワー陸軍参謀総長あて電報」 (59) 山極注(24)前掲資料集 「アチソン覚書」 (60) J.ダワー氏「天皇制民主主義の誕生」(『世界』1999年9月号所収) (61) 東野注(57)前掲書






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