【本文続き】 第1章 天皇制・昭和天皇の危機
【注】
(11) 吉田注(3)前掲書 吉田裕氏「近衛文麿ー「革新」派宮廷政治家の誤算」(吉田裕氏他『敗戦前後』所収 青木書店 1995) (12) 木戸の転向の様子について見てみると、「御信任を得ている東條に対して私から辞めたら どうかというべき筋道でもなければ、また御上に東條を辞めさせられたが宜しうございます と申上げる筋でもない」(『高木惣吉日記』四四年三月一日)と東条を支持したかと思えば、 「東條内閣の存続は相当困難を予想せらる」(『木戸幸一日記』一月六日)と日記に書くなど、 心が揺れ動いていた。四月には、近衛が「木戸が最近東條のことをひどく悪くいうようになった ネ、十一日会でも大いに東條を扱き下した。あいつは”不熟慮断行だ”などといっていた。 東條内閣に対する気持ちが変ってきたのではないかと思う」(『高木惣吉日記』四月二五日) と語ったように、次第に東条を見放すようになり、六月に近衛と会談した際には、近衛も 「顔負けする程反東条になつて居」て、最近天皇が「東条に人心離れたる由、御承知遊ばされたる」 のは、「自分が申し上げるから」と述べた。(『細川日記』六月七日) (13) 『細川日記』一九四四年四月一二日 中央公論社 1978 (14) 『高松宮日記』第六巻 一九四三年七月一五日 中央公論社 1997 (15) 『東久邇日記』一九四三年七月八日 徳間書店 1968 (16) 高橋紘・鈴木邦彦氏『天皇家の密使たち』 徳間書店 1981 (17) 『高松宮日記』第八巻 一九四五年一月二六日 日記には具体的な会談の記述はないが、翌日にわざわざ近衛と高松宮が会談したことから、 前日の話し合いの内容が高松宮に伝えられたと考えるのが自然だろう。 なお、高橋注(16)前掲書にこの日の会談の記述がある。 (18) 『東久邇日記』一九四五年一月二二日 真宗管長と会談したということは、近衛のように、天皇退位後、出家という話が出たという 可能性は否定できない。 (19) 吉田注(3)前掲書 (20) 『木戸幸一関係文書』「時局ニ関スル重臣奉答録」東京大学出版会 1966 (21) 『木戸幸一日記』下巻 一九四五年六月二二日 東京大学出版会 1966 (22) 矢部貞治氏編『近衛文麿(下)』弘文堂 1952 (23) その内容とは、軍国主義の除去、連合国による占領、植民地などの放棄、軍の武装解除、 戦争犯罪人の処罰、民主化傾向の復活などであった。 なお、アメリカ側の天皇問題に関する政策決定過程は次の『2 アメリカの「天皇」検討』で 詳しく論ずる (24) 山極晃・中村政則氏『資料日本占領1 天皇制』 いわゆる「バーンズ回答」 大月書店 1990 (25) 吉田注(3)前掲書 (26) 『徳川義寛終戦日記』一九四五年八月一四〜一五日 (27) この二度の「聖断」で大きな役割を果たしたのは近衛や木戸、高松宮らであった。 閣議で結論が出なかったために、決定を御前会議に持ち込み、木戸は天皇に逐一、 その際の情報を提供していた。 (28) 「朝日新聞」一九四五年一〇月二三日付 (29) 吉田注(3)前掲書 (30) 秦注(9)前掲書 (31) 「朝日新聞」一九四五年一二月三〇日付 (32) 吉田氏は注(3)前掲書の中で、近衛が側近に語ったエピソードをもとに、「一つの選択肢として、 天皇が国家と民族の先頭に立って名誉ある戦死をとげることで皇室と国民の間の一体感を強め、 他方で戦争責任を戦死した天皇にになわせることによって皇室の存続を確保する、 ということまで考えていたのではないだろうか」と推測している。 非常に興味深い推測である。近衛は昭和天皇ひとりを犠牲にすることで、天皇制と国民の絆を より深めようとしていた。天皇の戦死によって国民を納得させるという考え方こそ、 道徳的責任の取り方と言えるのではないだろうか。 (33) 武田注(2)前掲書 (34) 山極注(24)前掲資料集「PWC一一六d・CAC九三e」 (35) 国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)は四五年一二月一日に戦後政策における 三省間の調整のために設置された。次官補クラスが委員で、専門のスタッフが必要に応じて 出席した。下部機関に国務・陸軍・海軍三省調整委員会極東小委員会(SFE)があり、 ここでSWNCC文書の起草が行われた。(山極注(24)前掲資料集解説) (36) 山極注(24)前掲資料集「SWNCC一五〇」一九四五年六月一一日 なおこの文書は国務省内で検討され、「天皇の権限ならびに国家方針の策定もしくは検討に 参加するすべての機関の権限と権能は、軍政府によって掌握される」と修正されたが、 本質的な意味は変更されていない。 (37) 44年11月にハルが国務長官を辞任し、E.ステティニアスがその後を継いだ。グルーは そのもとで、国務次官に就任した。 (38) 山極注(24)前掲資料集「ポツダム宣言[案]」 (39) 武田注(3)前掲書、中村注(6)前掲書 (40) 山極注(24)前掲資料集「SWNCC一五〇/三」一九四五年八月二二日 なお中村氏は注(6)前掲書の中で、アメリカ政府が間接統治・天皇制存置を決定したのは、 八月一一日から、このSWNCC一五〇/三が出された八月二二日の間ではないかと 推定している。 (41) 中村政則氏『象徴天皇制への道』岩波書店 1989 ところで、SWNCC一五〇/三でも、「政治形態の変革は」国民から起こった場合、 「許容され、かつ支持される」と、「バーンズ回答」にあるような自主的選択によっては、 天皇制が廃止されるかもしれないというのでは、天皇制存置が決定したわけではないと 見えるかもしれない。しかし、アメリカ側は先のPWC一一六dにあるように、日本人は 天皇制に「狂信的と言えるほどの献身性を示している」と分析しているのであり、日本に おいて自主的に天皇制廃止運動が大きく起こるとは考えていなかった。 日本国民は存置の方向を選択すると考えていたのである。もちろん、天皇制改革の必要で あると考えていた。 (42) 例えば、SWNCCの下部組織SFEの構成メンバーであった、デニソン海軍大佐は 覚書の中で、「天皇制を存続させることと天皇裕仁を皇位にとどめることとのあいだには 明確な区別をもうけるべき」と述べている。(山極注(24)前掲資料集) このように、アメリカの政策立案者たちは天皇制度と天皇個人を厳密に区別していた。 (43) 山極注(24)前掲資料集「SFE一二六」一九四五年九月二六日 (44) 山極注(24)前掲資料集「SFE一二六/二」一九四五年一〇月一日 (45) 『木戸幸一日記』下巻 一九四五年八月二九日 (46) 渡辺注(7)前掲書 (47) この会見には、GHQ側からのアプローチもあった。それは天皇に厳しいアメリカ世論に、 占領者と非占領者という形で、天皇を呼びつけて会見するという「服属儀礼化」をアピールした かったからである。(坂本孝治郎氏『象徴天皇制へのパフォーマンス』) (48) D.マッカーサー『マッカーサー回想録』朝日新聞社 1964 藤田尚徳『侍従長の回想』講談社 1961 (49) 豊下楢彦氏「『天皇・マッカーサー会見』の歴史的位置(上)(下)」(『世界』1990年2月号、3月号所収) 松尾注(8)前掲論文 (50) 松尾注(8)前掲論文 (51) 松尾注(8)前掲論文 (52) 山極注(24)前掲資料集 奥村勝蔵「第一回天皇・マッカーサー元帥会談記録」 (53) 実松譲氏『米内光政』 光人社 1966 (54) 木下道雄『側近日誌』一九四六年一月一日 文芸春秋 1990 (55) 『高松宮日記』第八巻 一九四六年二月二七日 (56) 山極注(24)前掲資料集 「フェラーズ准将覚書」 (57) 東野真氏『昭和天皇二つの「独白録」』NHK出版 1998 (58) 山極注(24)前掲資料集 「マッカーサーからアイゼンハワー陸軍参謀総長あて電報」 (59) 山極注(24)前掲資料集 「アチソン覚書」 (60) J.ダワー氏「天皇制民主主義の誕生」(『世界』1999年9月号所収) (61) 東野注(57)前掲書