これまで付き合って下さった
全ての皆様に感謝致します
掛け時計から音が部屋に響いた。
古めかしいそれからの音は見た目相応に荘厳で、一通り鳴り終わるとまたチクタクと
規則正しい音を奏で始める。
正面の扉から入り、正面に時計があって
その下には黒光りする、見るからに高級な幅広の机。
時には十数人が入る為か、かなりの広さをもったその部屋には今は一人。
高さ数メートルはある大きな窓からは光が部屋を明るくし、その役割を果たしている。
「ええ、理解しています。これが必要な事だとは。」
『ならばそれを行動で証明してほしい。
期待しているよ、総理。』
それから一言二言会話を交わすと男は受話器を置いた。
そして疲れを和らげる様に椅子に体を沈め、大きく溜息を吐いた。
「……決断の時、ですか?」
突然聞こえてきた声に驚き、男は体を震わせるが、声の主を確認すると再び力を抜いた。
「驚かせんでくれ。寿命が縮んだよ。」
「私はずっとここに居ましたが。」
「分かってる。すっかり人払いをした気でいたから驚いただけだ。気にせんでくれ。」
椅子から体を起こすと総理は両肘を机に突き、顔を下げて眼を閉じる。
顔に刻まれた皺を更に深くし、祈りを捧げる老人の様に手を組んだ。
「二年前に総理大臣になった時は、年甲斐も無くはしゃいだものだった。
何せ日本のトップだからな。これまでの総理達を見て苛酷さは理解していたつもりだったが、
それさえも忘れてしまう程の喜びだったよ。」
「お喜びの程、お察しします。」
「ありがとう。
だがその時から二年。これまで特に大きな事件も無く過ごしてきたんだがなぁ……」
三度総理は椅子に体を沈め、何かを探しているのか、背広のポケットをまさぐる。
しかし目的の物が見つからなかったのか、軽く顔をしかめるが、秘書官の男が総理の眼の前にスッと探していたそれを
差し出す。
「ああ、悪いな。」
「いえ。ですが今日はその一本で最後です。」
「つれないな。」
言いながら総理はタバコをくわえ、秘書官も黙って火を点ける。
「しかし、どうなさるおつもりですか?
直接的な戦闘行為をすると野党がうるさいですが。」
「世界的な非常時だ。多少強引な手段を取っても国民の支持は得られる。」
だが。そこで一度区切り、タバコを大きく吸い込む。
「余計な騒動を起こすのはスマートじゃないな。
精々私達はその手助けをする程度に留めておこう。」
「つまり自由な行動を容認する、と?」
「第三新東京市への誘導くらいまでならやってもいいだろう。」
しかしなぁ。
タバコをもみ消し、椅子から立ち上がって窓へと体を向けた。
「これで第三新東京市は十年は封地だな。これまで掛けた数兆円がパーだな。」
「何処かへ再開発を委託しますか?」
「買い叩かれるのがオチだよ。
少しずつ国内で開発していくしかあるまい。」
「ゼーレの支配から独立してですか。」
「でなければここで彼らに反旗を翻した意味が無いからな。
さて……」
窓の外から視線を外すと、椅子に深く腰掛け、机を挟んで向かいに居る秘書官に
低い声で指示を出した。
「関係各省に連絡。それと大臣達に緊急招集を掛けてくれ。」
新世紀 エヴァンゲリオン
それでも僕らはここに居る
「時は来た。」
闇の中に一つのモノリスが浮かび上がる。そしてその言葉を引き継ぐ様に別のモノリスが現れ、低い声を発する。
「閉塞した人類に未来を。」
「人類には未来が必要だ。」
「そして導く人間も。」
十二体のモノリスが出揃い、円卓を囲む様にして暗い部屋に浮かび上がる。
その最後にただ一人ホログラフでゲンドウと冬月が現れた。
「傲慢だと思いますが。」
「傲慢で結構。だが民衆は自分達だけで前へは進めない。」
「ヒトはヒトだけで進歩出来ます。それを手助けする為のエヴァシリーズでは無いのですか?」
「碇。」
01と打たれたモノリスからキールの声が聞こえ、やがてモノリスが消え、キールの姿が同じ場所に現れる。
常に着けていたバイザーを外し、閉じられた双眸がゲンドウに向けられた。
「ヒトは弱い。誰もがだ。どんなに強く見える者でもいつかは闇に囚われ、自分を見失い、
誰かを傷つける。
本来皆を導いてやらねばならない指導者でさえもだ。」
「キール議長も、ですね。」
「そうだ。」
両肘を突いた状態からキールは半身に座り直し、
冬月を、そしてゲンドウを見えない眼で見つめる。
「失った希望は容易に絶望に変わり、見つからないゴールは人を狂わせる。
善意は他人にとって悪意に、報われない想いは破壊へと導かれる。
ならば私が狂ってしまわぬ内に、この眼が正しい方向を見える内に向かっていかねばならん。」
「独りよがりですか……」
「それは君らもだろう?」
クックッ、とキールは笑った。
「所詮突き詰めればヒトというモノは自身の事しか考えられぬ。
求めるのは自分の気持ち良さだけだ。」
「その先に死が待っていたとしてもですか……」
「これは通過儀礼なのだ、碇。
行き詰った人類は死を以て再生へと向かう。」
「死は何も生み出す事はしませんよ。」
「死は―――」
「貴方にふさわしい。」
カチャリ。金属が擦れる音が場に響いた。
「……裏切るか。」
「ゼーレは貴方だけの物では無いのですよ、議長。」
「碇はいけ好かないが一つだけ正しい事を言ったな。」
「左様。死は失うだけで何も作りだす事は無い。」
取り囲むモノリス。姿無き十二の使徒がかつての長を見下ろしていた。
「議長。貴方の考えは理想論であり、現実的では無い。」
「そしてそれを実現する手段は議長以外同意していないのですよ。」
「無に還る事。我々の誰一人としてそんな事は望んでいない。」
閉じたキールの瞼が微かに動く。
わずかに開いたその下から、何も映せない白い瞳が覗いた。
「ユダになると言うのか、貴様ら……」
「そうだ。キール議長、貴方が、です。」
ゲンドウと冬月はその様子を黙って見つめていた。
一言も発せず、その様は予めこうなる事を予想していたかの様で。
「碇。貴様も知っていたのか?」
「いえ。予想はしていましたが。」
「そうか……」
小さく返事をするとキールは一同を見渡す。
「ならば先に行っているぞ、碇。」
また後でな。
キールの姿が消える。銃声だけを残して。
「さて。」
一人欠けた円卓。だが最早そこに関心を払う者は居ない。
「碇、君はどうする?」
「議長…失礼、元議長に贔屓にされてたみたいだが?」
「私は元々のシナリオを進めるつもりですが。」
「それは我々のかね?それとも君自身のかな?」
「槍を失った以上、リリスによる補完は出来ません。」
問い詰めるゼーレに対し、ゲンドウは淡々と答える。
姿勢も表情も変えず、ただ中心を見つめて。
他の人間を視野にも入れず、己の願いのみを具現する事を祈願して。
「リリスの分身たる初号機によって遂行するつもりか。」
「だが君が主導権を握る必要はない。」
「かねてからの予定通り、アダムのコピーたる弐号機で我々は行う。」
「さらばだよ、碇君。もう会う事も無かろう。」
そう言い残して全てのモノリスが消え失せる。
後には下からの光に照らされたゲンドウと冬月だけが残った。
「結局、ユイ君の願いは叶わないな。」
正面だけを見据え、冬月は呟いた。
「ヒトは生きていこうとするところにその価値がある。ユイも議長もそれを集団に求めた。
個の喪失は容易には受け入れられんよ。」
「受け入れられたところで前進しているとは限らん、か……
所詮過去に縋ってしかヒトは生きられんからな。」
踵を返して冬月は会議室を出ていく。
ゲンドウは誰も居なくなった部屋で、虚空を見つめ続ける。
口元を覆っていた掌はいつしか祈りを捧げる仕草へと変わっていた。
第弐拾六話
白い息が視界を染める。
邪魔をする自らの吐息に顔をわずかにしかめ、それでもミサト眼を細めて小さな端末を叩き続けた。
口元にはタバコ。器用に煙が眼に入らない様注意しつつ、視線は絶え間無く流れる情報の渦を
捉えている。
時折強い冷却用の冷房に体を震わせ、寒さに手が利かなくなってきたのか、タバコを隣に置いた灰皿に
引っかけて息を吹きかける。
二、三度繰り返し、やがて手の感覚が戻ると再度キーを操作し始めた。
「そう……これが補完計画の真実。」
やがて手を止めるとミサトは呟いた。
そしてスロットにメモリを差し込み、そのデータを移していく。
「すでに行き詰った人類を強制的に人工進化させる人類補完計画。十年も前から……いえ、もっと前か。
きっと……父さんが死んだあの南極から全ては始まったのね。
そして南極でアダムを見つけた事で計画は加速された。
誰も傷つかない世界。まさに理想の世界、か……」
灰皿の隣に置いておいた、すっかり冷めた缶コーヒーを掴んで口元に運ぶ。
「その為のエヴァ、そして地下のリリス。
二つを接触させる事でインパクトを起こす……
でも初号機がリリスのコピーだとするとその二つでインパクトは起こらない。
ならまだ他にキーがあると言うの?」
一通りのデータが抽出されたところで、ミサトはまたハックを始める。
加持の残したデータを使って。
MAGIの中を片っ端から探っていく。
どんな小さな情報でも見逃すまいと。
手元は忙しなく動き、また思考も途絶える事無く巡り続けた。
「使徒とアダムが接触するとサードインパクトが起きるとネルフ内で考えられてた。
でも地下にあったのはリリスで、となると使徒と接触してもインパクトは起きないの?
……そう、そういう事ね。」
駆け巡る思考とほぼ同時にモニターも答えへと辿り着く。
厳重に保管されたデータを解析して、映し出された全ての解答。
「所詮は自分達のエゴを叶える為の生存競争にしか過ぎなかったの……」
アダムとリリスという二つの特別な存在に融合する事で叶う理想。
願いを叶える為に全ての使徒は二つの元へと集合していた。
そして人類も。
「私達は先人達を殺してたのね。何も知らずに、一部の人間しか知らない事実に弄ばれて。
そして群体であるヒトは一人ではインパクトを起こす事が出来ない。
だから第三新東京市とエヴァを作った。箱舟であるエヴァと必要な数を集める事の出来る街を。」
不意にミサトは立ち上がる。懐に手を伸ばし、引鉄に指を掛けて警戒する。
立ち上がった際に倒れた空のコーヒー缶が、カラカラと寂しくナイタ。
「違うか……」
何も感じなかった事に、ミサトは小さく溜息を吐くと銃から手を放して警戒を解く。
だが直後、ミサトを取り囲む景色がミサトを紅く染め上げた。
それと同時にポケットの携帯が緊急連絡を告げる。
「……了解。すぐに第一種戦闘配置を発令しなさい。ええ、作戦部長権限で。
こっちもすぐ行くから。それまで宜しく。」
「敵グループはA-3ルートを侵攻中!東ゲートからも侵入を確認!!」
「隔壁緊急閉鎖完了!」
「保安部はどうしたっ!?」
「先発隊と連絡が取れません!生死不明!」
ミサトとの連絡を終え、受話器を置いたマコトの耳に飛び込んでくるのは、電話を掛ける前と同じ喧噪だった。
階下からも、そして自分と同階級の上級オペレータ達が居るこの階層からも届くのは同じ。
怒号と悲鳴に近い叫び。最早パニックに近い。
しかしそれも仕方がないか、と口には出さずに呟いた。
今自分達がどういう状況下に居て、何をされているのか。情報は手元にはほとんど無い。
分かっているのは何者かがネルフに侵入していると言う事。
それも一人や二人では無く、数十人、もしかすると数百人単位で押し寄せてきているかもしれない。
そして恐らくそれが正しいであろう事も―――あってほしくないが―――予感していた。
(やばいな……)
その予感の正しさを裏付ける様に次から次へとネルフ側は押し込まれていく。
モニターに飛び掛かる血液の雨。真っ赤に染まった映像は次の瞬間には砂嵐。
映像から得られる情報などほとんど無い。戦闘服に身を包んだ男が数人で一方的に蹂躙している程度にしか分からない。
だが、だからこそ分かる事もあった。
あまりにも無駄が無い、その行動。
敵の殲滅の仕方。カメラの破壊。施設の破壊順序。その全てに効率を優先しての行動が成されている。
加えて統率力。複数のグループがそれぞれ別の場所から侵攻しているにも関わらず、その行動に差異をマコトは
感じる事は出来なかった。
「なあ、シゲル。」
「ん?何だ?」
マコトは隣の席に座るシゲルに声を掛け、シゲルもお座成りな返事を返す。
無論、マコトの手が休まる事は無いし、シゲルに関しても同じ。
視線も忙しなく右へ左へと動いている。
「何処だと思う?」
「さあな。錬度と日本に入り易いってなるとアメリカとかじゃないか?」
「やっぱそうなるよな。」
吐きたくなる溜息をグッと堪え、マコトは同意を返す。
絶望的だった。相手が軍人となるとネルフの持つ戦力ではどうしようもない。
精々が時間稼ぎ程度だろうか。
しかしそれを口にする事は無い。
口にしたところで状況が好転するわけでもなく、むしろ場の士気を下げる事にしか繋がらない。
今その事に気が付いて居るのが、軍に居た経験のある自分と情報部のシゲルだけである事にマコトは感謝しようとして
止めて心の中で悪態を吐いた。
「予想外だな、これは。」
マコト達が必死で侵攻を押し留めているその頭上で、冬月が口を開く。
「どう見る?」
「老人達の仕業では無いのは確かだ。」
「ああ、だろうな。ゼーレにしては早過ぎる。」
ゲンドウの返答に冬月も同意を以て返す。
二人はマコト達以上に現状を正確に把握していた。
攻めてきた相手、そしてその背後に居る相手と協力者。
「老人達ならばまずMAGIを抑えに来る。ゼーレとしても口から手が出るほどに欲しいはずだ。」
「にもかかわらず強硬手段をいきなり取ってきた。
となるとゼーレは無い、か……
ならばアメリカだろうな。」
「新しい国だけあってゼーレの支配力は弱い。
ましてやあの国は誰かの下に付くなどあり得ん。」
「確かにな。
ならばもうすでに政府も敵に回ったか。」
「そう考えてもいいだろう。」
足元からの報告ともつかない報告を聞きながらゲンドウは次々と砂嵐に変化していく、細分化されたメインモニターを
見つめる。一方的な戦闘が断片的ながらも分かるが、冬月と共に表情に変化はない。
「他の国にも手を回している可能性もあるな。
失敗すれば全てが水泡に帰すだけでなく正真正銘ゼーレの支配下に置かれると考えているはずだ。
他国に協力を頼むのが嫌いな奴らでも万全を期するだろうからな。」
冬月が言うが早いか、階下の状況が変化する。
「今度はMAGIがハッキングを受けています!!」
「何処からだ?」
「アメリカと中国からのアクセスを確認。続いて松代の第二支部からもハッキングを受けています。」
その報告に冬月はほう、と軽い感嘆の声を上げた。
「中国も向こうに付いたか。
政府もこのくらい外交が上手ければな。」
「期待するだけ無駄な事だ。
所詮誰もが自分の事しか考えられん。我々を含めてな。」
「つくづく救われんな、ヒトという種は。」
「くそっ!何だって俺達が攻撃を受けなきゃなんないんだよ!?」
苛立った様そのままにオペレーターの一人が叫ぶ。
その声に誰もが胸の内だけで同意し、だが声には出さなかった。
自分達は人類を守る仕事をしている。
それは本部に勤めるほとんどの職員が持つ誇りだった。
心からそれを信じる者、仕事だからと淡々と日々の職務に勤しむ者。
程度の差こそあれ、その事を疑う者は居なかった。
しかし、裏切られた。
ここが人類最後の牙城だと思って、危険を感じながらも皆、生きのびてきたにも関わらずここに来てこの扱い。
叫びたくなる。全てを放り出して逃げだしたくなる。
だがここは地の底で、逃げる場所は何処にもない。
折れそうになる心を見ない振りをして、ただひたすらにキーボードを叩く。
「ミサトは?」
「先ほど連絡が取れました。もう間もなく到着すると思いますが……」
マコトの返事にリツコはそう、とだけ応えると自分の席に戻った。
マコト達の後ろに陣取って先ほどから端末を操作しており、再びその作業に埋没し始めたリツコに対して
マコトは怪訝な表情を浮かべる。
MAGIがハッキングを受け始めてから始めたその作業は、どれだけ周囲が騒がしくなろうとも変わらない。
本来なら真っ先に何らかの対策を打ち始めなければならないが、
一言も指示を発する事無く全ての作業をマヤを始めとしたオペレーター達に任せていて
一切関わろうとしない。
現状はソフトでもハードでも最悪。本来指示を出す人間は一人は動こうとせず、一人は未だこの場に姿を見せていない。
故にマコトもいい加減口火を切ろうと開きかけるが、
それをリツコは視線で黙殺する。
「もうすぐミサトが来るわ。MAGIの事はこっちに任せて日向君は自分の仕事をしなさい。」
「は、はい……」
立ち上がり掛けた腰を下ろし、再びマコトも眼の前の仕事に取り組み始める。
果たして、それからものの数分もしない内にリフトに乗ったミサトの姿が現れた。
「侵攻の状況は?」
「ダメです。とてもウチの保安部じゃ歯が立ちません。
MAGIの方は何とか食い止められてますが……」
振り返り、ミサトはリツコに視線を送る。
それに気付いたか、リツコは小さく頷き返した。
「あっちは大丈夫。赤木博士に任せとけば問題無いわ。
それよりもこっちの方がやばいわね。」
「第十一番通路の隔壁が爆破されました!」
チッ。
マコトの耳元で舌打ちが聞こえた。
「思ったより侵攻が早いわね……」
「以前侵入されたのが効いてるんでしょう。」
ネルフの建物内は非常に入り組んだ作りになっている。
こういった有事に備えてのものだが、その複雑さは慣れている職員でさえも迷う事がある。
ミサトもリツコも初めて来た時はあまりの迷宮さに戸惑った。
しかし今、モニターに映る敵はその迷宮を迷う事無く進んでいた。
「くっ!!
第三層までを破棄します!戦闘員を下がらせて!
子供達の場所は!?」
「アスカを303号室で確認。」
「シンジ君とレイちゃんの居場所を確認出来ません。携帯にも繋がりません。」
「本部の外ならまだ良いわ。護衛と連絡は着く?」
「それが……カードの履歴から本部内に居るはずなんですが、本部内の何処にも反応がありません。」
ギリ、とミサトの奥歯が軋む。
固く握られた手がわずかに震えた。
「……捕捉急いで。殺されるわよ、間違いなく。」
「葛城三佐!!」
喧騒の中にあって一際大きな声でシゲルが叫ぶ。
ミサトが駆け寄ると耳元に口を近づけて報告する。
「どうしたの!?」
「グループ3が足止めを食ってます。
まずいですよ。恐らくアスカちゃんの病室に向かうつもりです。」
ミサトの背中に戦慄が走った。
彼らは走る。静かに、だが獰猛に。
全身を黒く染めた獣は高らかに吠えて存在を示すわけでもなく、足音だけを響かせた。
矛盾を抱えた彼らの前に立ち塞がる、黒い鉄の塊を持ったヒト。
いや、立ち塞がるというのは正確ではない。分岐した通路の陰から上半身だけを出して手にした機関銃を
彼らに向けた。
同胞が向けた殺意。だがお互いがお互いを同胞であるとの認識は決して持ち得ない。
彼らは敵で自分らに害成すモノ。物、であって者では無い。彼らはすでにそれを捨てていた。
だからこそ彼らは殺意も無く、躊躇いもなく引鉄を絞る。
訓練を受けた彼らは、銃を向けられた程度で焦る事は無い。
それ以前に軍人である彼らは気を抜いてはいない。死角が存在すればそこに敵がいる可能性は決して低くは無く、
それを予測し、保安部の人間が銃を向けた瞬間には、軍人である彼らは引鉄を引いている。
二人のヒトに対して彼らは、明らかに余るほどの弾丸を浴びせた。
そしてそのほとんどが二人の体に吸い込まれ、皮膚を裂き、肉を貫き、骨を砕く。
原型も無く破壊しつくされ、臓物が飛び出し、血の雨が世界を紅く染め上げる。
当然、銃を放った彼らの黒い体も。
一方は無口で、一方からは悲鳴。
逃げ遅れた者たちは必死で抵抗する。後少し、後少し。もう少しだけ頑張れば逃げ切れる。
ある者は銃を向け、ある女性は嗚咽を漏らしながら物言わぬ死体になった誰かを引きずり逃げる。
恋人同士か、何かか。遅々として進まぬ足。
疲労からか、それとも恐怖からか、足がもつれて転んで男の死体と離れる。
銃を持って抵抗していた誰かがその様を見て何かを叫んだ。
だがその言葉が意味を持って彼女に届く前に体は穴だらけ。血を流しながら地に伏す。
汗と埃と涙にまみれた顔を上げ、彼女は見た。そして気付く。誰も、誰も周りに居ない事に。
カチャ。
固い何かが彼女の頭に押し付けられ、無骨な音を立てる。
パン。
軽い音を立ててわずか数グラムの金属が打ち出される。それだけで彼女の頭はその機能を永久に止めた。
「こちらグループ5.制圧を完了した。」
「了解。ただちにグループ8の援護に向かえ。」
「了解。」
響く爆音。暴風。全てが焼き尽くされ、全ての生命が駆逐されていく。
彼らと同じヒトに。
灼熱に焼かれ、爆風に吹き飛ばされ、弾丸に切り刻まれる。
無慈悲に、無感情に。
汚れきった世界の中を彼らは走る。足を止める事無く、物言わぬ肉塊になったモノを
蹴散らす。そこに感慨は無い。
彼らにとって当たり前の事をしただけで、この先同じ光景が続いていくことを知っている。
ゴールに何があっても彼らが変わる事は無い。
兵隊はただ与えられた職務をこなすだけだった。
「葛城三佐が行くんですか?」
「そうよん。他に誰が居るのよ?」
ホルスターから取り出した愛用のUSPからラックを取り出して残弾を確認し、ミサトはロックを外した。
そしてそれをホルスターにしまうと紅いジャケットを上から羽織る。
「しかし……今葛城三佐が居なくなると……
代わりに僕が行きます。」
「それこそダメよ。いくら元軍人だっていっても日向君じゃ実戦経験が少なすぎるもの。
それに、私は元々指揮官ってタイプじゃないしね。」
マコトに背を向けたままミサトは話す。その間も予備のカートリッジを準備し、弾を込めていく。
「あ、それとさっきの命令だけど、破棄するブロックを第5層まで拡大して。
それから退避が完了したブロックから順次特殊ベークライトを注入。
そうすれば少しは時間が稼げるでしょ?
んじゃ後はよろしくぅ〜。」
「葛城三佐!!」
ミサトの軽い口調をマコトの怒声が遮った。
「……ゴメン。ここはどうしても私が行かないとダメなのよ。」
「アスカちゃんを乗せるつもりですか……?」
マコトの言葉にシゲル、そしてマヤも振り向く。
ミサトの背中に突き刺さる視線。ミサトは振り返らない。
「今、場所が分かってるのはアスカだけだしね。
それに、エヴァの中が一番安全なのよ。」
「ならそれこそ残っている保安部に運ばせた方がよっぽど確実です。」
「そうね。でも今、アスカには立ち直ってもらわないと困るのよ。
貴方達の為にもアスカの為にも。そして、私の為にも。」
「そんな!アスカちゃんはもう十分に頑張ったじゃないですか!?
シンジ君もレイちゃんも……もう十分過ぎるくらいに……
葛城さんは更にあの子達に傷を負わせるんですか!?」
マヤの一言一言がミサトの胸を切りつける。
悲痛な叫びをマコトもシゲルも黙って聞いていた。
ミサトも自覚はしている。このままアスカを眠ったままで居させてあげたい、と願っている。
だが、口を割って出て来そうな、マヤの言葉を肯定するセリフを、ミサトは奥歯をグッと噛みしめて堪える。
「現実は待ってくれないわ。もう数時間もすればここも占拠されて、貴女達は全員殺される。
そんな未来を回避する為にもあの子に賭けるしかないのよ。」
「でも!!」
「アスカもシンジ君もレイも、まだこんなところで終っていい子じゃないわ。
例え生き残れたとしても、ね。
その為の荒療治が必要なのよ。一度、あの子達と本気で向き合って傷を抉って膿を出す。
そんな荒っぽい事がね。」
例えそれが一方的なものだとしても。
最後は自分の内だけで呟く。
そう、これは究極の自己満足だ。
本当に膿を出す必要があるのは自分で、アスカと向き合う事でそれを実行しようとしている。
どこまでも自分勝手で、救われない。
失ってばかりの自分の人生。そして奪ってばかりのそれ。
加持には口で子供達を守ってやりたいと言っておきながら守れず、最後にはシンジとアスカの関係を
自分で貶めてしまった。穢してしまった。
だけど、まだ終わっていない。
シンジもアスカもレイも、そして自分もまだ生きている。ここに、居る。
どれだけ状況が絶望的でも、まだ希望はある。パンドラの箱にさえ希望は残っていた。
ならやれる事をやろう。失ったモノを取り戻す事はまだ可能なのだから。
「また後で会いましょう。子供達も含めて皆、笑顔で。」
ミサトは強く胸元の十字架を握りしめた。
神に祈る為では無く、自分を信じる為に。
ミサトが歩き始め、程無くして喧騒で張り詰めた空気が少しだけ緩まる。
「MAGIに第666プロテクトを掛けたわ。
これで外部からの侵入は出来なくなった。」
「サンキュ、リツコ。
また後でね。」
「ええ、また後で。」
眼鏡のレンズ一枚を挟んでリツコとミサトの視線が交錯する。
ミサトの姿が消え、やがてマコトの大声が発令所に木霊した。
「第5層までのブロックを破棄!片っ端からベークライトを流し込んで時間を稼げ!!
いいな!絶対に皆で生き残るぞ!!」
どこだろう、ここは。
まどろみの中、アスカはぼんやりと考えた。
うつろな瞳で正面を見る。何も無い。白い天井だけが見える。
白?
アスカは疑問に思う。
見えるのはモノクロームの世界。白とも黒ともつかない、一つに塗りつぶされた景色が広がる。
色の無い世界。ならば色など意味を持たない。
いつから世界は色を失ったのだろうか。
きっとどこまで行っても無色の世界。ならば自分もそれに塗りつぶされていくのだろう。
多分、その方がいい。
ずっと、大人になりたかった。
誰にも頼らず、生きていける人になりたかった。
努力を重ねて、サミシサを堪えて、考えないようにして、そして一人で生きていける人になれたと思った。
だけどダメだった。一人では生きていけなかった。
寂しくて、悲しくて、誰も理解してくれなくて、誰も理解できなくて。
自分から一人を望んだはずで、望み通りになったのに嬉しくなくて、
残ったのは空虚だけ。
いつしかアタシは他人の存在を望み始めていた。
そして、手に入れた。そう思っていた。
だけどそれは嘘だった。手に入れたつもりに過ぎなかった。
アタシ達は気付いていた。でも気付かない振りをしていた。
二人とも相手を見ていなくて、顔の無い相手で自分を誤魔化していた。
それは辛いだけで、自分と相手を切りつける、好意。
殺されていく自分が、どうしようもなく怖かった。
自分は■■を殺したというのに。
■■■を殺そうとしたというのに。
……■■■って誰だろう?■■って誰だろう?相手というのは誰だろう?
誰でもいいか……アタシはここで生きるだけ。
誰も居ない世界で生きるだけ。他人なんて要らない。
アスカは眼を開いたまま、ココロだけを閉じる。
他者を排斥し、夢の世界で。
静かな眠りの中。だが心地良いそこを邪魔する足音が聞こえた。
うるさい。
アスカは苛立った。しかし動く事は無い。
バタバタとした音と、聞き慣れない炸裂音。騒がしい。
それでもこの部屋だけは違った。変わらぬ時間が流れてきて、これからも流れていく。
だが、世界は壊された。
騒がしい音を立てて扉が開け放たれ、数人のヒトが病室に入り込む。
アスカの世界に小さな彩りが生まれた。
「エヴァンゲリオンのパイロットと思われる少女を発見。」
『ファーストか?』
「いや、セカンドと思われます。」
『まあいい。いずれにせよ、エヴァンゲリオンのパイロットに対しては射殺の命令が出されている。』
「了解。速やかに排除します。」
その彩りがアスカの瞳に映った。白だけの世界に黒が生まれる。
世界にぽっかりと開いた丸い黒が、アスカの視界をより黒く染め上げた。
「じゃあな、嬢ちゃん。死んでくれ。悪く思うなよ。」
アスカの額に突き付けられる、何か。
それに伴って黒い染みが拡大していく。
染みによって作られていく、その何か。そして銃が輪郭を取り戻す。
し?シ?死?
死ぬ?誰が?決まっている。アタシだ。
他の誰でもなく、他人を殺そうとしたアタシだ。
汚らしく脳しょうをぶちまけて、どす黒く染まった血に塗れて死んでいく。
そしてそれがアタシには相応しい。
黒い染みは尚も広がる。
銃も男も部屋も全てを黒く、暗く染め上げる。
そしてその中に現れた一人の女性。そして若い男。
闇の中でもはっきりと浮かび上がる彼女の病院服は白く、また肌も病的なまでに青白い。
もう一人の男は、白いカッターシャツと黒いスラックス。項垂れた頭から垂れる黒髪は背景に溶け込んで
不気味な様相を呈している。
女性の手には人形。そしてナイフ。
男性の手には巨大な槍が握られていた。
―――アスカちゃん
―――アスカ
二人の体がゆらりと揺れ、醜く歪んだ口元が露わになった。
唇が同じ動きを示す。
―――死んでちょうだい
―――死んでよ
振りかぶられる二人の腕。何処にもない光が刃物を光らせた。
殺される?
私が?
なんで?
アタシはこんなにもママが大好きなのに。シンジが大好きなのに。
いやだ。死にたくない。
まだ死にたくない。死にたくないの。だから止めてよ、ママ。シンジ。
ママを殺してゴメンなさい。シンジを殺そうとしてゴメンなさい。
だからアタシを殺さないで。だからアタシを見捨てないで。
誰かアタシを見つけてよ。誰かアタシを見てよ。誰かアタシを愛して。誰かを愛させて。
一人で死ぬのはいや。死ぬのはいや。死ぬのはいや。死ぬのはいや。死ぬのはいや。死ぬのはいや。
死ぬのは……
―――アスカぁぁぁぁっ!!
「いやあああああああぁぁぁっっっ!!」
絶叫と共にアスカの拳が喉に突き刺さり、男は弾き飛ばされた。
油断は無かったとは言わない。男達の前に居たのは精神を病んだ病人で、
数か月に渡って眠っていた十六歳の少女。気を抜いていた訳では無いが、その病人が動き出すとは思いもしていなかった。
だが彼らは軍人で、一瞬の間の後すかさず銃を向けた。
しかしその刹那は長過ぎた。
ベッドから跳躍。男の放つ銃弾がアスカの頬をかすり、だが
体重の乗った蹴りが顎を砕く。
鈍い音と欠けた歯が飛び散り、アスカは四肢を使って着地した。
「このアマがっ!!」
激情そのままに男は引鉄を引き、
しかしその弾はアスカの傷んだ髪を散らしただけに過ぎない。
獣じみた動きで男に迫る。
「くっ!!」
咄嗟にガードする。が、アスカのパンチを受けた瞬間手に持っていた銃が弾き飛ばされ、男の表情が驚愕に染まる。
(何処にこんな力が残ってるっていうんだよ!?)
こっちは軍に長く居て鍛錬も怠ってはいない。それで生き残れる程甘い世界でもない。
まして相手は病人で、何ヶ月も運動どころか飯さえ食ってないに違いない。見ろ!手も足もガリガリじゃないか!
なのに!!
次々と襲い来るアスカの拳は殺人的な威力を以て人の急所を確実に狙ってくる。
呼吸さえも忘れ、だが眼だけは細く引き絞られ、青い瞳がギラギラと睨みつけていた。
「がっ!」
突如としてアスカの姿が男の視界から消え、その向こう側から何かが砕ける音と悲鳴。
倒れた男が持っていたナイフが奪い取られ、アスカはその喉にナイフを突き立てた。
噴水の如く舞い上がる血液。白い病室を瞬く間に紅く染め上げる。
全身から血を滴らせ、それに構う事無くアスカは流れる様な動きで最初に吹き飛ばした男に馬乗りになる。
振りかぶられるナイフ。一瞬の戸惑いも無く、喉に振り下ろされる。
男は悲鳴を上げる事も出来ず、ただゴポ、と血の泡を吹いて絶命した。
残った一人は何も出来なかった。ガードしていた両腕は感覚が無く、巡る思考は絶望だけ。
男は恐怖していた。自分の半分程度しか生きていない、今の今まで寝ていただけの少女に。
抜かれたナイフからは血が滴り、だがそれはすでに散らばった血液のほんの一部に過ぎない。
長い髪を紅い池に浸け、返り血で赤く染まった相貌の中で瞳だけがやけに目に付いた。
男は逃げだした。情けないとは思わない。ただ恐怖だけが思考を支配する。
血に足を滑らせ、バランスを崩しながらも必死で足を動かす。
壁に頭から突っ込み、衝撃に視界をぶれさせ、だけれどもそんなものには構わない。
無理やり前へと進む。
視界の先はクリア。通路からは物音一つしない。遠くからの銃撃音が小さく鼓膜を叩いた。
助かった。男の思考を支配したのは、それだけ。
緩む表情で自分の行く先を見据え、第一歩を踏み出した。
直後。
パンッ。
「悪いわね。こっちも余裕がないのよ。」
て、聞こえてないか。
笑みを浮かべて絶命した男を見下ろし、冷たく吐き捨てる。
男が見た、希望の光。だがそのすぐ後ろでは幾人もの男達が倒れ伏していた。
「アスカ……」
病室の方をミサトは息を殺して見つめる。
男の出て来方は尋常では無かった。こういう経験の豊かな軍人があそこまで怯えていた理由。
それに思い至らずミサトは慎重に病室へと近づく。
アスカはまだ無事なのか。それともここに来るまでに何処か連れて行かれたのか、はたまた……自分は間に合わなかったのか。
部屋からはグチャグチャと、何とも言えない音が聞こえてくる。
不安がミサトを駆り立てる。
ミサトは無意識の内に乾いた唇を舐めた。
そしてそれと同時に音も止まる。
静まり返るフロア。慎重に行きたいミサトだが、時間は無い。
わずかにかかった返り血が、やけに気に掛かる。
ミサトは飛び出した。
最小の動きで対象に照準を合わせ、指に力を込める。
だが、引鉄は引かれなかった。
「ぐぅっ!!」
下腹部に衝撃。壁に叩きつけられ、肺から強制的に酸素が吐き出される。
見上げた先には紅い影。咄嗟に銃を構えた。
「ああああああああっっっ!!」
「アスカっ!!」
二つの影が交差した。
NEON GENESIS EVANGELION
Re-Program
FINAL EPISODE
Never Let You Go Alone
「葛城さん、大丈夫かなぁ……」
カチャカチャとキーボードの音とマコトと溜息の声が混じる。
今、ミサトが何処に居るのかさえも全く分からず、連絡も入って来ない。
何処かで回線が切れたか、アスカが居た病室のカメラは全く映らず
アスカの存在を示す信号も受信できない。
仕事をきちんとこなしながらも、やはりマコトの心中は不安で満ちていた。
「やっぱり俺も着いていった方が……」
「止めとけ止めとけ。お前じゃ足手まといだったよ。」
シゲルの言い様にマコトはムッと顔をしかめる。
反論しようと口を開きかけるがそれよりも早くシゲルの方が話し始めた。
「葛城さんも言ってたろ?お前じゃ実戦経験が少なすぎるって。
マコトと葛城さんじゃ歳はほとんど変わらないかもしれないけどな、
俺らみたいのと葛城さんじゃこういう荒事の場数が全然違うんだよ。」
「あの、葛城三佐ってそんなに慣れてるの?その、こういう事に……」
マヤが話に加わるが、語尾は尻すぼみに小さくなり、少しだけ眼を逸らす。
そんなマヤにシゲルは気付かれない程小さく溜息を吐く。
「ああ、荒事だけじゃなくて人を殺す事にも慣れてるよ。
記録だと十年はこの世界に居るはずだ。」
「十年って……中学を卒業した頃じゃないか。」
「そういう事だよ。
だからお前じゃ逆に足を引っ張るだけだ。」
諭すシゲルにマコトは返す言葉が無かった。
無言で顔を歪めるマコト。
「結局、俺は何も出来ないのかなぁ……」
「ま、俺らが出来る事は葛城さんが帰ってくるまでここを守っておく事くらいだよ。」
シゲルが慰めの様な言葉を掛けた。
その直後―――
「―――っ!?」
階下から響く爆音。
次いでの銃撃音と悲鳴。落ち着きを見せていた発令所の景色が紅く彩られていく。
「ちぃっ!もう来たのかよ!」
「やっぱ本職は違うねぇ!」
吐き捨てながらマコトとシゲルは備付の引き出しを開ける。
普段は鍵で固く閉ざされた引き出し。そして使う事が無い様に祈っていたが、
ここに来てその願いは棄却された。
ロックを外し、コックを引いて弾を装填。残弾数を確認するとシゲルは支給品の拳銃を手にマヤの元へ駆け寄る。
「ロックは外してるから。」
「私……銃なんて撃てません……」
震える手でマヤは拳銃を受け取る。
しかし両掌の上に置かれただけでそれ以上の動きは無く、膝の上に置かれたお気に入りの
クッションが両腕の重さに潰れていた。
「訓練で何度もやってるだろ?」
「でも!でもその時は人なんて居なかったんですよ!?」
「馬鹿!!」
この場での誰よりも大きい怒号。
シゲルは怯えるマヤを睨みつけ、怒りに体を震わせながら叫ぶ。
「撃たなきゃ死ぬぞ!!」
「……」
「皆でここを守るんだ。子供達と葛城さんが戻ってくるまで。」
マヤは震える視界で手の中の物を見つめる。
訓練では何度も練習した。成績はあまり良くは無かったが気にする事は無かった。
自分には縁のないモノだと、必要となる事は無いのだと思っていたから。
それが今、必要なモノとして自分の手の中にある。
重たいと思っていた。だが今はそれが何倍にも感じられる。
零れそうになる雫を懸命に堪えてその重さを握りしめた。
「はい……」
精一杯の、それでも消え入りそうな声でマヤは返事をする。そしてそれはしっかりとシゲルの耳に届いた。
応える様に一度頷き、シゲルも元の場所に戻って時折隙を見ては階下に向かって発砲する。
その様子をマヤも見ていたが、やがて自らもコンソールから身を乗り出した。
「ええ、こっちは何とか無事に確保できたわ。
うん、うん……悪いわね、ホント面倒事ばっか押し付けちゃって。
ん。じゃあ宜しく。」
肩で挟む様にして携帯でミサトは会話していたが、
マコトとの会話を終えると役目を終えたかの様に床へと落ちる。
カチャ、と軽い音が響く。
ミサトはそれを気にする事無くガーゼ代りのシーツを持った右手に力を込める。
左腕から脳へと走る痛みに眉を寄せ、だがそれも一瞬で終わらせる。
血液が腕からシーツへと染み込み、白から赤へと染めた。
「こっちは終わったけどアスカ、ホントに怪我は無いのね?」
応急処置を終えてミサトはアスカに声を掛けた。
だが返事は無い。顔を上げるとアスカは先程と変わらない姿勢でうずくまっていた。
壁に背を預け、頭を抱えて震えている。
抱える腕にはべっとりと血液がこびり付いており、所々が乾いて黒ずんでいた。
「アスカ?」
もう一度声を掛けると小さく頭が下がる。
ミサトは溜息を吐いた。多分な安堵を込めて。
まさに危機一髪だった。そして幸運だったとミサトは心底思う。
二人が交差した瞬間、ミサトは振りかざした銃を捨てた。
そして気が付けば一歩を踏み出していた。両腕を大きく広げて。
瞬間、飛沫が舞った。
ミサトの脇から突き出すナイフ。
眉尻が逆立ち、何処か悔しそうにミサトを睨みつける。
ミサトの腕にかろうじて掠っただけのナイフ。
血が滴り落ちるその腕にアスカは温もりを感じた。
「大丈夫よ、アスカ。大丈夫……
ここに貴女を傷つけるモノは何も無いから……」
アスカの耳元でミサトは囁いた。
カツン、と音がした。
アスカの手からナイフがすり抜けていく。
「あ…あ……」
笑みを浮かべるミサトの顔に、母の顔が重なる。
幼き日々に見た、優しい母の顔が。
紅い腕が顔に付いた血を伸ばし、頭を抱えた。
二、三歩よろめきながら後ずさり、壁にぶつかるとそのままアスカはうずくまる。
「アス…カ……?」
出血する腕を抑え、痛みに顔をしかめながらも出来るだけミサトは笑顔を浮かべてアスカに近寄る。
だがアスカは手だけでミサトを制すと、小さくうめいた。
「来ないで…お願いだから来ないで……」
その声は震えていた。
ミサトは立ち上がり、アスカの元に歩み寄る。
足音が静かになった病室に響き、アスカの体がビクリと震えた。
足音が止まる。
アスカは恐怖した。他人に恐怖していた。
そして、傷つけても自分を気遣う優しさを見せるミサトが分からなかった。
ミサトはアスカの隣に腰を降ろし、右腕でアスカの頭を撫でた。
「良かったわ。アスカが無事で。」
力強く撫で、溜息を吐いた。
震えていたアスカの体が、ほんのわずか、震えが小さくなる。
「死ぬかと思った……」
「私もよ間に合わないかと思った。
でもまだ生きてる。」
「死んでもいいと思ったの。」
顔は膝に埋められたまま。そのままアスカはポツリ、ポツリと話し始めた。
「ずっと夢を見てたの、アタシ。」
「夢?」
「そう、夢。
誕生日だったの。ママが居てパパが居て、友達がたくさん居て……
その中でアタシは笑ってた。
その後アタシは成長して、ミサトのマンションに居た。
シンジがアタシのあげたジャケット着て、ミサトが笑ってレイも珍しく楽しそうにしてんの。
ヒカリも居てバカカケルと鈴原と相田も居んのよ。
そんな事、今まで無かったのにさ……
でも現実は違うの。
誕生日なんて無かった。楽しくなんて無かった。誰もアタシを見てくれなかった!」
「アスカ……」
「ずっとアタシは一人で……頑張っても誰も見てくれなくて……
一人で生きていきたくて、だけど出来なくて誰かを求めて、なのに…なんでアタシは自分から捨てんのよ……」
頭を抱える腕に力が込められる。
細くなって骨と皮だけになった指がかきむしり、傷みきった髪の中に埋没していく。
「アタシがママを殺したの。寂しくて、寂しくて、幸せを自分で壊したの。
ここの楽しい時間もアタシが壊したの。きっとこれからもアタシは幸せを自分で壊していく。
だからアタシは一人で良いと思った。死んでも良いと思った。
でも……死にたくなかった……」
わずか。ほんのわずかにアスカの顔が上がる。
痩せてくぼんだ瞼の下で青い瞳が大きく覗いた。
ミサトは横に並んだまま、右腕でギュッとアスカの体を抱きしめる。
長らく動いてなかった体はかつての面影を残していない。
病的な色を濃く残すそれがミサトのココロを確かに握りしめた。
ごめんなさい。
自分の内だけでミサトは呟く。
貴女を見てあげられなくてゴメンなさい。
幸せにしてあげると言いながら、何もしてあげられなかった。
自分の事しか考えられなくて、見て見ぬふりをしてしまった。
もう今更アスカの悩みを聞いてあげるなんて事は出来ない。
だから、今だけはこうしてあげたい。
母親の代わりなんて出来ない。姉の代わりなんて出来ない。
だけど葛城ミサトとして惣流・アスカ・ラングレーという少女を見てあげる事は出来る。
アスカが一番望んだ願いだけは叶えてあげられる。叶えてあげたい。
だけど……
「アスカ。」
優しく、だが力を込めて名をミサトは呼んだ。
「……分かってる。」
顔を上げ、アスカは眼元に浮かんだ涙を拭いた。
「アタシにはエヴァに乗るしか出来ないのは分かってるから。
アタシは……まだ死にたくない。自分だけ死ぬなんて許されない。」
「アスカ、そんな事は……」
「それにね、ミサト……まだここに居たいって、少しだけど思えるんだから。」
小さくアスカは笑う。
それは久々に見た笑顔。ただその場が楽しいだけでは無い、意味のあるそれ。
救われた。
アスカでも誰でもない、ミサト自身が救われた。
「ありがとう……」
だからミサトの口からは自然と感謝の言葉が漏れた。
それに気付かない振りをしてアスカは立ち上がる。
その際にわずかによろめいたが、ミサトがしっかりと支える。
「ダンケ。」
礼を言い、アスカはミサトの手をそっと離れる。
「アスカ、悪いんだけど……」
「大丈夫よ、ミサト。」
歯切れの悪いミサトにアスカは笑って応える。
「アタシを誰だと思ってんの?今がどういう状況かくらい、寝てても分かるっつーの。」
「ゴメン。」
「それと、シンジは?あのバカは何してんのよ?」
「あー……それがね……」
「まさか……」
「あ、いや、どっかに居るのは分かってるのよ。」
タハハ、と笑うミサトにアスカは盛大に溜息を吐いて見せる。
「ならさっさと行きなさいよ。
どうせあのバカの事だから勝手に人生に絶望していじけてんのよ。」
だからさっさと行きなさい。
そっぽ向いて言い放つアスカの様子はミサトの知るアスカで、
それが嬉しくてミサトも笑顔で頷いた。
血の匂いの満ちた病室を出る。しかしその一歩を踏み出したところで一度立ち止まり、
懐から取り出したものをアスカに手渡す。
「出来れば使ってほしくは無いんだけどね。」
「ま、しょうがないわね。ありがたく貰っとくわ。」
「言っとくけどあげるんじゃないからね。あくまでも貸すだけよ。
皆で生き残って、その時に返しなさい。」
アスカは病室をしっかりとした足取りで飛び出した。
が、それをミサトは呼び止める。
「アスカ……貴女のお母さんは貴女を恨んでなんかいない。」
一度そこで区切る。呼びとめたものの言って良いものか、決断がつかず躊躇う。
しかしそれも一瞬。アスカから外した視線を持ち上げるとミサトはアスカの眼を見つめた。
「エヴァに乗ったらお母さんに呼び掛けてみて。」
アスカは怪訝な顔を浮かべたがミサトの真剣な様子に
茶化すべきではないと判断したか、黙って頷く。
そしてアスカは再び走り出した。
ケージに向かって、手はミサトの愛銃を持って。
血の足跡を残して小さくなるアスカを見送り、ミサトはすでに息絶えた男から銃を奪い取ると
同じ様に走り出した。
戦場は苛烈にして過酷。
一発上から撃てば三発と言わず数十発の弾丸が返ってくる現状で、
それでも発令所はまだ耐えていた。
向こうはプロフェッショナルでこちらは完全なる素人集団。
にもかかわらず未だ制圧され切ってない理由は―――
「やっぱMAGIのおかげだよなぁ……」
頭上をかすめていく弾丸の嵐に肝を冷やしながらも呟いた。
「あちらさんも一気にカタつけたいところだろうけど、
やっぱりMAGIのオリジナルがあるからな。」
「他みたいに無茶は出来ないって事か。」
「じゃないとここもあっという間に爆破されてオシマイ、だって。」
シゲルは肩をすくめて上目遣いに頭上を見上げる。そして隣のマヤに向かって視線を走らせる。
マヤの手は震え、しゃがんだ足も小刻みに揺れる。
それでも時折立ち上がり、コンソールの上から発砲してはすぐにしゃがみ込んで緊張に息を切らせていた。
(無茶しすぎなきゃいいけど……)
シゲルの内で不安が頭をもたげる。
少し前向きになってくれたのはいいが、やりすぎなければいい。
シゲルとしては、いざこの階まで侵入され、銃を向けられた時にきちんと対応してほしいからこそ怒鳴りもしたのだ。
その成果は出たと言えば出ているが、現状ほど期待はしていなかった。
立ち上がって自分から行動を起こしてくれているマヤを嬉しくも思うが、
反面嬉しくも無い気持ちもある。
いつ弾がマヤに当るかと気が気でなく、
実際、何度かマヤの近くを弾が通り過ぎて冷や汗を掻いていた。
果たして、一筋の弾丸がマヤの肩を掠めた。
「マヤちゃん!」
「だ、だいじょうぶ……」
マヤの制止を振り切ってシゲルはマヤに駆け寄る。
素早くそばの引き出しから救急用キットを取り出し、手際良く治療をしていく。
「無茶するから!」
「ごめんなさい……」
謝罪を口にするマヤ。だが治療が終わるとすぐに脇に置かれた銃を取る。
「もういいって!マヤちゃん!」
「ダメだよ、青葉君……」
初めて経験する痛みに脂汗を流しつつもマヤは立ち上がる。
「葛城三佐も言ってたじゃない。皆、笑顔で会いましょうって。」
「だからって!」
「今何もしなかったらきっと私は後悔すると思うの。
このまま皆助かっても、多分私は笑えないから。」
だって私は闘ってないから。
汗を拭い、コンソールに登って銃撃の止む隙をマヤは伺う。
痛みからか、マヤの持つ銃は震えていた。
その銃をシゲルはそっと抑える。
「青葉君。」
「そんな持ち方じゃダメだ。」
「えっ?」
シゲルはマヤから銃を取り上げると、銃弾が飛んでこないように頭を下げさせる。
「上から下を覗き込む時は、後頭部を壁に押し付けた状態で後ろ向きに見るんだ。
そうすればはみ出る面積が小さいから当りにくい。」
「青葉君……」
「撃つ前に予め相手の位置をイメージしておくんだ。
そして構えたら迷い無く撃つ。少しでも危険を感じたら絶対に無理をしない。いいね?」
説明しながら新たなマガジンを挿入するシゲル。
マヤはその言葉を驚きと共に噛みしめる。
「皆で生き残ろう、だろ?」
「……うん。」
笑顔で話しかけるシゲルにマヤは力強く頷く。
シゲルはマヤに銃を返し、自分も元の位置に戻ろうとしたその時、
マコトの叫びがシゲルに届いた。
「シゲル!」
「どうしたんだ!?」
「これ見てみろよ!」
マコトが指差したコンソール上の小さなモニターの上。
画面の端に点滅するThird.Cの文字。
「……ったく、今まで何処に……」
「それより早く葛城さんに連絡を!」
慌しくマコトはミサトへ連絡を取る。
そしてそれと同時に最上階でも動きがあった。
それまで座ったままだったゲンドウが立ち上がり、銃声が飛び交う発令所に背を向ける。
「冬月先生……後を頼みます。」
「ああ。ユイ君に宜しくな。
それと、二度とこんな世界にしないように。」
「心得ていますよ。」
冬月に背を向けたまま答え、ゲンドウの姿が消える。
時は動き始めた。
「Fの83ね……」
辺りに注意を払う事を怠る事無くミサトは壁に書かれた通路の名を呟いた。
この階層は特にこれといった施設や部屋は無い。
一般職員さえ普段はこの区画に来る事はまれだ。
そんな所に何故シンジが、今この非常時に誰にも気付かれずにここに来ているのか。
(シン君の考え…かしら……)
もしそうならば納得できなくも無い。
今このネルフ内で最も安全な区画の一つと言えるかもしれないこの区画。
敵軍からの攻撃を逃れる為に逃げに逃げてここに辿り着いた。
(あの子ならシンジ君を悪い方向には向け無いはず。)
そう心の内で繰り返してみるが、ミサトには自信が無かった。
全てが狂ったのはいつだろうか。
零号機を刺した時か?アスカの精神が汚染された時か?自分がシンジと関係を持った時か?
いや、もっと以前から予兆はあったのだろう。
ただそれに自分が気付けなかっただけ。
今のシンジの精神状態が危うい事は容易に想像がついた。
元々シンジは精神的には脆い。
アスカとの支え合いで何とかここまで来ていたのにミサトは気付いていたはずだった。
だがそれは壊れた。そして自分は何もしなかった。
自分の余裕の無さを言い訳に、更にはシンジに負担を求めてしまった。
シンならばシンジを良い方に導いてくれる。
短い付き合いだがそれは分かる。
しかし今、シンジの精神状態が危うい状況で、シンの精神状態が支えれるほどの状態だろうか。
リコに至ってはそういった面では始めから期待は出来ない。
もし、もしもシンさえもシンジの精神状態に引きずられていたら。
ミサトは身震いした。
ここまでどうして思い至らなかったのか。
情けなさにミサトの膝が折れそうになる。だがグッと力を込めて留める。
(まだ…間に合う!)
自分を鼓舞し、一度気合いを入れて走り出す。
早く見つけて、全てを終わらせて、そしてアスカとレイと一緒に帰ろう。
ああ、そう言えばレイは何処に居るのだろうか。
あの子も連れて帰らなければ。自分では気付いてないかもしれないけれど、きっと寂しがっているに違いない。
そんな考えがミサトの頭に浮かび、自然と笑みが浮かび、
すぐに気持ちを切り替えて足に力を込める。
一つ角を曲がり、二つ目の角を曲がる。そしてミサトの眼がシンジの姿を捉えた。
「シン……」
シンジの名を呼ぼうとミサトは口を開きかけた。
だがその後ろには銃口。次いで戦闘服を着込んだ男の姿が露わになる。
ためらう事無くミサトは引鉄を引いた。
寸分の狂いなくミサトの弾丸は男の額を貫き、男は何が起こったか分からぬまま絶命した。
間に合った。
息を整え、ミサトは肩の力を抜いてシンジに笑顔を向けようと振り返る。
ミサトの双眸がシンジの顔を捉えた刹那―――
「……!?」
背筋を鋭く駆け抜ける戦慄。
怖気がミサトの足を、腕を、表情を凍りつかせ、満足な呼吸さえも奪う。
シンジは笑っていた。
傍らで血を流して倒れる男に見向きもせず、ただ笑っていた。
ミサトが見せていた笑顔とは違い、どこか形だけを取り繕った様なそれ。
その笑顔を浮かべたままシンジは口を開いた。
「ああ、ミサトさん。無事だったんですね。良かった。」
「え?ええ……」
何とか返事をするものの、ミサトは違和感を拭えない。
口調はシンジ。だがシンジでは無い。そんな感覚がミサトの中でねっとりと絡みつく。
気付けばミサトの口からは疑問が零れていた。
「貴方……本当にシンジ君?」
ミサトにしてみれば単なる確認の意味しか持たない質問。
しかし、それを聞いた瞬間、シンジの表情が著しく変化した。
「へえ……!」
感嘆の声と共に口元が歪む。
そこには嘲りの色は無く、ただ純粋な喜びがあったが同時にのっぺりとした印象の表情が消え、
獰猛さが見え隠れした。
ミサトの中で何かが激しく警告する。
眼の前の男は決して碇シンジではない、と。
「…アンタ……!?」
「ふむ、こんな短時間で見破られるとは予想していなかったな。」
隠し事がばれたというのにシンジの姿をした誰かは焦る素振りも見せない。
頭を捻りながら、だが嬉しそうにミサトの構えた銃口を見る。
「流石にシンジと暮らしてきただけの事はあるか。
いや、そう言えば二人は関係を持っていたんだったな。」
「黙りなさい。」
引鉄に掛けた指にミサトは力を込める。
この男はシンジではない。シンでもない。もっと危険な何か。
そんな奴が軽々しく自分達の事を話すのが癪に障った。
「答えなさい。貴方は誰?」
「まあそう急くな。」
シンジは苦笑いを浮かべながらエレベーターのボタンを押す。
力のこもった銃身がシンジの顔を捉えて離さない。
「別に教えない、というわけではない。
教えるのに相応しい場所で教えてやろうと思ってな。」
「お心遣いに感謝するわ。
でも今はこっちも余裕が無いの。」
「外も騒がしいみたいだしな。
だが心配する事はないぞ、葛城ミサト。直に終わる。」
「それを信用しろと言うの?」
「信じる信じないはお前に求めてはいない。
私としては事実を言っているだけだからな。」
「……何が起こると……いえ、何を起こすと言うのかしら?」
「さて、な。
お前も予め想像は出来ているだろうが、恐らくは正解では無いだろう。」
エレベーターが到着して扉が開き、一際明るい光が通路に漏れ出す。
「加持リョウジとお前が探し求めてきた答えがあるが、どうする?」
光に照らされて浮かべた笑みはミサトの眼を捉えて離さなかった。
「はあっ、はあっ、はあっ……」
長く、複雑に入り組んだ通路を抜けてアスカはようやくケージへと辿り着いた。
それまでの道のりは病み上がりのアスカにとっては距離以上に長く、
両膝の上に手を突いて呼吸を整える。本当ならばすぐにでもエヴァに乗りたいが、
衰えた体は中々言う事を聞いてくれない。
震える膝を抑え込み、目を閉じて一刻も早い回復に努める。
不意にここまでの光景がアスカの脳裏に蘇る。
ボロボロに破壊された壁。こびりついた血液と硝煙の匂いと死臭。
急激な運動と強烈な光景に、アスカはほんの少し前に自らの行動を忘れて吐き気を催した。
頭を振ってその記憶を意識の外へ追いやる。
忘れろ、今は目の前だけを見据えなさい、アスカ。
自分に言い聞かし、アスカは頭を上げた。
自分に決着を着ける。そんな希望を持ってここまでやってきたアスカだったが、
視界に入ってきたのは絶望だった。
ケージに備え付けられた、エヴァに搭乗する為の施設。
デッキやキャットウォークといった、ありとあらゆるものが破壊され、LCLの海に漂っていた。
力無くアスカの膝が床に着く。
流石にエヴァの装甲そのものには傷一つないが、拘束具を外す為の非常用ディーゼルも壊され、
最早どうしようも無い。
何も出来ない。無力感がアスカの体から力を奪う。
守りたいと思った。でも守れない。
何を期待しても、何を願っても自分には手に入れる事が出来ないのか。
俯いたアスカの眼から涙が零れる。
(エヴァに乗ったらお母さんに呼び掛けてみて。)
ミサトの言った言葉が浮かぶ。
それが何の役に立つというのか。この期に及んで居もしない母に頼る事に対して情けなさが先立つ。
まして母は自分が殺し、文字通り切り捨てた。
だが―――
「ママ……」
アスカの口から零れる母への呼びかけ。
決してアスカが意図したものでは無く、
絶望の中から半ば無意識に出た希望の名。
母の存在を失ってから初めてアスカは心から母を呼んだ。
それは小さな響き。静まり返ったケージにおいて、隣に居たとしても聞き取れたかさえ怪しい程の小ささ。
しかし、それでもその声は確かにそこにあった。
突如として響く轟音。
世界が砕け散る様な音がアスカの耳をつんざき、顔を上げたアスカに向かって立ち上ったLCLが
押し寄せる。
飛沫が雨の様に降り注ぎ、腕を使ってその飛沫を遮る。
濡れた前髪が張り付き、それを一度払うとアスカは涙に濡れた眼を開き、
そして息を飲んだ。
アスカの視界の先にあったモノ。
常に自分と共に居たエヴァ弐号機。それがアスカの目の前に立っていた。
『現在ドグマ第三層までを完全に制圧。
第七層までの主要部をすでに制圧下に置いています。』
「エヴァンゲリオンの方はどうなっている?」
『すでに三機ともに制圧しています。』
報告を受けて現場指揮官の男は満足気な笑みを浮かべ、そしてすぐにまた口元を引き締める。
いかなる時でも全てが終わるまで気を抜く事は無い。
常識とも言える事だが実際にそれを実行するのは難しい。だが男はそれをこれまで常に実行してきて、
今、こうして重要な役割を任せられるまでにステップアップを重ねてきた。
「了解。引き続き作戦に当たれ。決して気を抜くな。」
そしてその考えを言い含める様にして部下に伝える。
何事も油断が全てを崩壊させる第一歩になる。ならばそのきっかけさえ与えなければいい。
部下の方も重々にそれを承知しているだろうが、一瞬のよどみも無く同意の返事をする。
それに小さく頷いて通信を切ろうとした指揮官だったが、通信機から突如として聞こえてきた音に不審を抱いて
再び通信機を耳に当てる。
「どうした?何の音だ?」
『分かりません!何かが近づいて来る様な……
うわあぁっ!!』
甲高い音を残して途切れる通信。指揮官の呼び掛けに返ってくるのは無言の砂嵐。
何かが起こった事は分かるがその何かが分からない。
何らかの反撃を受けた事は確かだが、その直前に言っていた内容が気にかかった。
(何かが近づいてくる……?)
近づいてくる、などと形容されそうな物はエヴァンゲリオンくらいしか思いつかない。
だがそれは先程はっきりと制圧下にある、と聞いたばかりだ。
(良くない、良くないな……)
もし、もしも万が一にも制圧が不十分だった場合。
その時には全てが崩壊する。
男はすぐに連絡を取り始める。万が一の事態に備えて準備はしてある。
「こちら第七特殊空挺部隊。作戦行動中に相手に不審な動きあり。例の物の準備を頼みたい。
繰り返す……」
用件を男が告げた直後。何処からか警報音がジオフロント全体に響き渡った。
何事かと男が顔を上げた瞬間、警報に混じって轟音が耳を打つ。
そして紅い巨人がその身を躍らせた。
「おおおおおおおおおっ!!」
雄叫びをあげてアスカは地面へと降り立つ。
下にあった戦闘車両を踏み潰し、抉り取られた土砂と木々が吹き飛ばされ、
爆発と共に付近に居た兵士と戦車を弾き飛ばした。
足元の炎に照らされ、幽鬼の如くゆったりとした動作で弐号機はその身を起こす。
「ママは笑ってくれてた……」
一歩踏み出して右手を払う。
その軌道上に居たVTOLが弾き飛ばされてバラバラになり、激しい爆発が空を照らす。
「ママはいつでもアタシを見てくれてた……」
VTOLを始めとして、地上、空中の両方からおびただしい数の銃弾とミサイルが弐号機に向かっていく。
それらが弐号機の表面で弾け、熱風と爆煙が弐号機を覆い隠す。
「アタシを祝福してくれてた。アタシの幸せを願ってくれてた……」
だが一万二千枚の特殊装甲とA.Tフィールドで守られたそれは傷一つなく、
煙を切り裂いて弐号機の腕が伸びる。
「アタシは幸せになっていいんだ。アタシは独りじゃない……」
逃げ遅れたVTOLの尾翼を掴み、力任せに振り回す。
バラバラになりながら投げ飛ばされたそれは破片を撒き散らし、
鋭利な刃物となって付近の物を切り刻む。
空は砕け、地には紅い雨が降り注ぐ。
「アタシは…ここに居ていいんだ……」
ジオフロントの森林は燃え、陽炎が揺らめく。
比較的穏やかだった地下の世界は一瞬にして地獄の変わらぬ様相を示す。
その中でアスカは歓喜の涙を流した。
「だからアタシは負けない。」
呟きと共に再び轟音。
巨大な地鳴りと揺れ。地底空間の天井が不自然に膨れ、赤く染まってそして破裂。
張り詰めた膜が千切れる様に空に穴が開いていく。
少しずつ広がっていくそれに向かってアスカは手を掲げた。
「アタシがここに居たいから!!」
爆発。
激しい衝撃が弐号機を、そしてジオフロントを襲う。
地上のあらゆる物を焼き、地面を抉り、存在を無へと帰していった。
「くうううううぅぅっ……!!」
うめき声を上げながらもアスカはA.Tフィールドを張って耐える。
両足が埋まり、それでも踏ん張り続ける。
本部の外郭部が削り取られて、衝撃と超高温の熱線がアスカの身を焦がしていった。
だがそれも終わりを迎えた。
熱が徐々に引き、爆発の余韻の中に濃い水蒸気が立ち込める。
弐号機も例外では無く、全身から立ち上る湯気が紅い身を白く染め上げていた。
やがて粗熱が引き、傷一つない機体の姿が露わになる。
そして周囲には焼け焦げた本部の残骸と崩れ落ちた天井都市のビル群。他にはただ一面の荒野が広がっていた。
終わった。アスカは大きく溜息を吐き、肺に残っていたわずかな気泡が吐き出される。
しかし直後、奇妙なざわめきを感じ、アスカは空を見上げた。
巨大な空洞と化した第三新東京市。
その穴の中から見えるのはおびただしい程に空を埋め尽くす戦闘ヘリ。
黒く染まった空をアスカは見据える。
大規模な戦闘を予感させるそれだが、アスカの意識はそこには払われていなかった。
青い瞳が捉えるのはその遥か向こう。
小さく、単なる点にしか見えなかったそれは徐々にその姿を大きくしていく。
やがてその輸送機の姿がはっきりと確認できる程になった時、
吊るされていた物が切り離される。
ゆっくりと、そして次第に加速していくそれ。
輸送機が離脱し、白い飛行機雲を残して遠くへと去っていき、
切り離された物がその白い翼を大きく空に広げた。
「エヴァシリーズ……完成していたの……」
黒い海にくっきりと浮かぶ白い船。
クルクルと第三新東京市の上空でその身を躍らせていた。
黒いモノリスが一堂に会し、時が満ちた事を確認し合う。
そして全ての始まりと終わりを宣言した。
「我らの願いが成就する時が来た。」
「閉塞した人類を導く。」
「更なる発展の為に。」
「悠久の時を越えて今この時に。」
「人類の補完を始めよう。」
「しかしヒトというのは面白いな。」
エレベーターを降り、暗く足元を照らす照明だけの通路を歩きながらシンジはそう唐突に切り出した。
「運命、という言葉があるが、今私はそれを感じているよ。」
「やっぱり貴方は……」
「ああ。葛城ミサト。君の考えている通り私はヒトでは無い。」
体はヒトだがな、と付け加える。
シンジの後ろでミサトは銃を持つ手に力を込める。
もっとも、自分で目の前のシンジの顔を持った男をどうにか出来るとも思っていなかったが。
「という事は使徒、と考えてもいいのかしら?」
「愚問だ、それは。
使徒がどういうものか、聡明な君ならすでに気付いているのだろう?」
「……ええ、知っているわ。
私達人類も貴方達と同じ、第十三番目の使徒だという事は。」
流石だなと、まるで教師が優秀な生徒を見るようにシンジは笑顔を浮かべた。
「そう言えば十三、という数字は君らにとっては不吉な数だったと記憶しているが?」
「中にはそういう人も居るけど、私は違うわ。知識としては知っているけど日本人にとってはあまり意味は無いわね。」
「だが知っているという事はそれだけで意味を持つ。
事実、君はその数字に皮肉とも言える運命を感じている。違うか?」
「それが貴方の言う運命ってヤツ?」
敢えて馬鹿にするようにミサトは言い放つ。
虚勢を張らなければ、全てを見透かされている錯覚に潰されそうで、
実際に彼の言った通りの事をミサトは感じていた。
イエスを裏切ったとされる十三番目の使徒、ユダ。
それは常に何かを裏切る事を業とする人類を如実に表している様で、
皆を裏切ってしまったミサトの心を静かに、だが深く抉っていく。
痛みを内だけに留め、表面上を取り繕ってシンジを見た。
「いや、違う。」
ミサトの言葉を気にした風も全く無く、短く否定を口にした。
そして不意に足が止まる。
「そもそも運命という言葉もこの体になって、しかも最近になって知ったのだがな、
まさかこの体に寄生するとは思わなかった。
碇シンジ。数ある人類の中でこの体に埋め込まれた事を運命と言わずして何と言うべきかな。」
手をかざし、固く閉ざされたドアが開き行く。
差し込む光。暗闇に閉ざされた通路が徐々に明るく照らされる。
決して強くは無い光。だが闇に慣れたミサトの眼にはひどく眩しい。
「そして葛城ミサト。」
逆光に背を向け、シンジは振り向く。
ミサトからは顔は見えず、だがシンジが笑みを浮かべているであろう事は想像がついた。
「十五年の時を経て、この懐かしき黒き月でお前と再会した。」
扉の全てが開く。
明るさに慣れたミサトの瞳に映るシンジとレイ、そしてゲンドウ。
静まり返った空間は、悠久の時を過ごした教会の様に荘厳な雰囲気を醸し出している。
その後ろでは磔にされたリリスが冷たくミサトを見下ろしていた。
「さあ一緒に補完を始めようか。」
アダムの言葉だけが響いた。
「これからが本番ってわけね……」
戦闘ヘリで黒く染まる空を見上げ、アスカは呟いた。
分かってはいたが、これだけの戦力を費やしてくるという事はそれだけ相手も本気だという事。
通常兵器だけだと相手にもならないが、
エヴァが相手になるとすると話は変わってくる。
「全く…こっちは病み上がりだっていうのに。」
口調とは裏腹にアスカの表情は明るい。
傍から見ればあまりにも絶望的な戦力差。エヴァ一機を相手にするだけでも本来ならば厳しいのに
それが九機。彼我戦力差は大きい。
「行くわよ、アスカ……」
自分に言い聞かせるように呟く。そして不敵な笑み。不安は無い。
「さあ、どっからでも掛かって来なさいよ!」
その声に呼応するようにして旋回を続けていた量産機の高度が落ち始める。
ヘリを叩き落としながら。
「なっ!?」
アスカは驚きを隠せなかった。
ヘリ側もエヴァも協力して―――少なくとも邪魔はせずに―――攻撃をしてくるものだと思っていた。
しかし今、エヴァはまるで煩わしいハエを落とすかの様にして
アスカに近づいてくる。そこに躊躇いは無い。
一機が爆発し、その破片と爆風を受けてまた一機とその数を減らす。慌てて他の機体が道を開け、
モーゼの奇跡の如く黒い海が開ける。
「まあ、どっちでも良いわ……」
状況は良く分からないがこれは自分にとっては好都合。
不安が和らぎ、それと同時に何か得体の知れない不吉な想いが湧き起こり更なる不安を掻き立てられる。
九機のエヴァが荒野となった地面に降り立ち、弐号機を取り囲む。
「うりゃあああああっ!!」
自分の内に巣食う不安を無視してアスカは構え、そして眼を見開いて雄叫びをあげながら飛び込んで行った。
ミサトは銃を構えていた。
狙いは正面の敵、敵、敵、テキテキてき。
これまで何度となく訓練で繰り返し、実戦で実行してきた作業。
一時期は毎日毎日、呼吸をするかの様に行ってきた。
だが、今はその銃口が細かく震える。呼吸は荒く、息をする度に銃口が上下していた。
―――仇を、お父さんの仇を。
引鉄に掛かる指に力を込める。しかし、指は力が込められるだけで凍りついている。
どうして。
相手は何もしていない。私を見下しているだけ。なのに……!
泣き出しそうな表情でミサトはアダムを睨みつける。
カチカチという音が耳障りだった。
「銃を下ろしたまえ、葛城三佐。」
低く響くその声にミサトは解放される。
銃口がアダムからゲンドウへと変わり、未だ安定はしなくとも照準は確実にゲンドウの頭を捉えている。
「どうして…どうしてコイツがここに……!
しかも…よりによって……!」
「君が知る必要は……」
ミサトの叫びを戸惑う事無く切って捨てようとしたゲンドウだが、
それをアダムが手で制した。
「そう言うな、碇ゲンドウ。
ミサトにも知る権利はあると思うが?」
「だが時間が無い。」
「なに、どうせ地上で始まるまでこちらからは何も出来ないのだ。
上もまだ余興が終わったばかりで本番も始まっていない。少しくらいなら良いだろう?」
「アンタ達、シンジ君とレイをどうするつもり!?」
ミサトは銃をゲンドウに向けたまま、瞳だけを順に動かす。
ゲンドウ、アダム、レイと巡り、そしてまたゲンドウへと。
注意を怠る事無く、忙しなく三人の間を駆け回った。
「無論、一緒にインパクトを起こすつもりだが?」
刹那、ミサトの指に力が戻る。弾はアダムの頬のすぐ脇を通り、乾いた音を広い空間に響かせた。
「そんな事はさせないわ。」
「最悪、シンジの死も厭わない、か。」
「シンジ君を寄り代にされるくらいなら。
勿論、レイでもそうするわ。」
「出来ないと分かっていてもお前なら何とかしてしまいそうな気がするな。」
視線をミサトから外し、背を向けてアダムはレイの元に近づく。
「だが、本人が望んでいるとしたらどうだ?」
ミサトの動きが止まる。少しでも妙な動きをしたら躊躇いもなく引鉄を引く覚悟をしていたミサトだが、その言葉に目が見開かれる。
「勘違いしているようだが、別に私やゲンドウがシンジの意志を無視して実行するわけではない。
シンジもシンも、リコさえも賛成してくれたよ。」
「そ…んな……」
「レイに至っては初めからその為に動いていたのだからな。」
アダムの言葉に、ミサトは驚きと共にレイの顔を見る。
「本当なの、レイ?」
「ええ、本当よ。」
レイはミサトへと向き直り、紅い瞳でミサトを見る。
透き通る様なその眼が無感動にミサトを覗き込んだ。
「動いていた、というのとは少し違う。」
「ああ、そうだな。
私とレイはその為に生きてきたのだから。」
「どうしてよ、シンジ君……インパクトが起きれば皆、レイもアスカも、カケル君も皆死んでしまうのよ?」
膝を突いて項垂れるミサト。
絞り出した問い掛けに答えたのはシンジでは無く、ゲンドウだった。
「訪れるのは死では無い。
ヒトが持つA.Tフィールドを開放し、新たな人類としての道を歩み始める為のものだ。」
「それが余計なお世話だって言ってんのよ!!」
立ち上がり再びミサトは銃をゲンドウに向けた。
「私達は今、自分達の足で立ってる。
どれだけ膝を突いたって、どれだけ絶望と後悔に襲われてもまた立って歩き始める事が出来るわ。
励まし、励まされて前を向いていける。
欠けてるから他人で無理やり埋め合わせようなんて冗談じゃないわ。」
「それが例え気持ち良いものだとしても?」
「支えるのと一つになるのでは全然違うわ、レイ。
私は私で、レイはレイ。一つになれば何処にも貴女は居なくなる。
綾波レイという存在は多くの存在に飲み込まれ、貴女を綾波レイたらしめてるモノは
何処にも見つけられなくなるわ。代わりなんて誰もなれやしないのに。」
「見解の相違だな。」
諭す様に語りかけるミサトだったが、
それをいささかつまらなさそうにアダムは吐き捨てた。
「お前の様に他人の存在を望む奴もいればその逆も然り。
他人の存在自体が自らを傷つける事もある。
そもそもがこういうモノに答えなど無いからな。」
アダムはリリスを見上げ、そしてミサトへと振り返った。
「もっとも、この中でそれを望んでいるのはシンジだけだからな。私にとってはヒトが何を選択しようが興味は無い。」
「……その為にサードインパクトを起こすのではないの?」
「それを望んでいるのは、私の知る限りシンジ達とキールだけだな。」
その言葉にミサトは更に詰め寄ろうとするが、
アダムは少し待て、と制した。
「そろそろか……」
「何が……」
「弐号機か。」
アダムはゲンドウに向かって頷く。
「ああ。九機を相手にここまで粘ったのは流石だが、少々分が悪いな。
ん……分かってる、シンジ。」
アダムは独り言に近い呟きを終えると何処ともなく空を見上げた。少なくともミサトにはそう見えた。
しかし次の瞬間、地鳴りにも近い音が何処からか聞こえ、遥か地下でも小さな揺れを感じ取れた。
「な、何?」
何かが起こる。そんな予感に襲われたが、何も起こらない。
天井からパラパラと小さな欠片が落ちてきただけでまた静寂の帳が下りる。
「心配は要らない。初号機を弐号機の援護に向かわせただけだ。」
「初号機をってアンタはここに居るじゃない?誰が乗ってるっていうのよ?
ダミーはもう受け付けないはずでしょ?」
「初号機は元をただせばリリスのコピーだ。
欠けた魂が中にはあり、独立した存在として自意識さえ生まれている。
すでに私とシンジを受け入れさせている。むしろ他のモノは受け入れないだろうな。」
「……完全に独立した兵器となったわけね。リツコ辺りが聞いたら卒倒しかねないわね。」
「アレは全てを承知の上だ。流石にそれを知った時は驚いていたがな。
それはともかくとして、弐号機が巻き込まれるのはこちらとしても本意では無いし、厄介な事になるからな。」
「巻き込まれるって、アンタ達がインパクトを起こすんじゃないの?
大体九機って……まさか!?」
「すでに我々は袂を別っている。」
ゲンドウはただ事実を紡いだ。そこに別段の感情は見てとれない。
サングラスの奥から覗いた瞳が冷たく、強固にミサトを捉えた。
「ゼーレの望むモノと私が望むモノは違う。」
「インパクトという始まりは共通でも、結末は望むモノによって異なる。
ゲンドウはそれすらも利用するつもりだがな。」
さて、とアダムは大きく息を吐き、ミサトを静かに見つめた。
「葛城ミサト。ここで答えを聞きたい。
インパクトはもう止められないし、止める気も無い。
あるのは結末の違いだけだ。
ゼーレの、皆が一つになる世界……いや、キールは死んだからまた違うか。
少数のヒトに率いられた、画一的な人類の一員として生きるか、
それかゲンドウ達と共に世界をやり直すか。
それとも、無理だと分かっていてもインパクトを止める為にこの世界で足掻き続けるか。」
どうする、とアダムは問いかける。
静かな、静かな間。銃を構えたまま、だがミサトは眼を閉じた。
自分は何を望むのか。何故、ここに居るのか。
今、自分が望むモノは何で、その為には何をすべきか。
その黙考の時間は長かったのか、それとも刹那にも満たない時間だったのか。
不意に、声が聞こえた。
(終わった時に帰る家を作ってあげたい―――)
それはホンの数か月前に願った想い。
加持と二人で居ながら思った、口には出さなかった気持ち。
ああ、そうか―――
ストン、と何かがミサトの中に収まった。
ミサトの眼がゆっくりと開かれる。
眼を開けたミサトの視界には閉じる前と変わらぬ世界。
正面にアダムが立っていて傍らにはゲンドウとレイ。
アダムは不敵にも見える笑みを浮かべ、ゲンドウとレイは同じ様に無表情でミサトの返事を待っている。
その三人に向かってミサトは銃を構え直した。
「それがお前の答えか?」
ミサトは黙って頷く。
アダムはその決断にさして驚く事も無く、ただ肩をすくめて仰々しい溜息を吐いた。
その様はひどく人間臭かった。
「一つ、聞いていいかしら?」
「何だ?」
「どうして、私にここまで選択肢をくれたの?」
「さてな。」
ガリガリと頭をアダムは掻く。ミサトから目を逸らし、何処か照れくさそうに口を開いた。
「こういうのを情、と言うのだろうな。
あの日、ホンの一時であってもサミシサを忘れさせてくれたお前に何かを返したかったのかもしれんな。」
アダムの手に冷たくも柔らかいモノが触れる。
隣を向けばレイの姿。無表情だが何処か不機嫌そうにミサトには見えた。
頭半分低いレイの肩をアダムは抱きしめる。
「ありがとう、なんてとても言えないけど、感謝だけは少ししてあげるわ。」
ミサトは今度こそ引鉄を引いた。
ゲンドウに向かって。
乾いた音が寂しく響いた。
NEON GENESIS EVANGELION
Re-Program
FINAL EPISODE
Final battle
紅い巨人が走る。
低く、その身を滑らせ、その青い瞳が定めた獲物へと近づく。
一機の白い量産機が緩慢な動作で弐号機の方向を向き、次の瞬間にはその身を紅く染めた。
「Erst……」
頭を砕かれた量産機はその場で倒れ、アスカはそれを小さな呟きだけで捨て去った。
空からは鋼鉄の弾丸。地上に居る者は全て敵であるとばかりに雨が血と爆薬の匂いを伴って降り注ぐ。
その中を弐号機は駆けた。
強固な装甲とA.Tフィールドはミサイルを全て無効化し、機体の損傷は皆無。
弐号機も量産機も、影響を微塵も受けずに戦場を舞う。
だが豪雨となって降り注いだそれは、あっさりと弐号機のケーブルを引き裂く。
「ちっ!!」
無限を意味していたカウンターがその身を削り始める。
しかしアスカは止まらない。一秒が惜しいと更に速度を上げた。
ナイフを手に襲い来る白い巨人を切り刻む。その度に弐号機の腕が軋み、
血のような体液の雨が降り注ぐ。
切り落とされた白い腕が落ち、地が揺れる。
弐号機が空いた方の手で量産機の顔を掴み、そのまま地面へと叩き落とした。
握りしめた拳で顔を叩きつぶす。
二体目を潰したその時、何かがアスカの背筋を走る。
直感に従ってアスカは弐号機を回転させた。背後から振り落とされる刃が土砂を削る。
その勢いのまま落ちていた両刃刀を拾い、切りかかってきた量産機の足を両断した。
更に二機の量産機が両刃刀を振り下ろす。
「おおおりゃああああぁぁっ!!」
それをアスカは自身の両刃刀を横にする事で受け止め、叫び声を上げながら力任せに振り回した。
その勢いに押されて量産機はバランスを崩し、たたらを踏む。
次の瞬間、袈裟がけに振り下ろされた両刃刀が白い右腕を切り落とした。
声無き悲鳴を上げる量産機。
アスカはそれを蹴飛ばし、体を捻ってもう一体をも切り捨てた。
次いで蹴り倒した方へ飛び上がる。
そして重力の勢いそのままに両刃刀を突き立てた。
休む間もなくアスカは次の一体へと目標を変える。
「つぎぃっ!!」
勢いに任せ、弐号機を走らせる。
だが量産機はそれを予想していたかの様に待ち構え、大きく裂けた口元を緩ませた。
かかった、とばかりに横薙ぎに刃を振り回す。
弐号機の腹部を切り裂かんと振られたそれが当たる刹那、
アスカは速度を緩める事無く、上半身だけを極限まで前へと倒して避けた。
わずかにかすり、フィードバックでアスカの頭部からもドロリとした血が頬を伝う。
「でええええぇぇりゃあぁぁっ!!」
渾身の力を込めてアスカは右腕を突き出す。
白い肌を突き破り、弐号機の紅い腕が体液と共に飛び出した。
「くおおおぉぉっ!」
力を込め、弐号機の腕が盛り上がる。
苦しげに量産機は口を開き、逃げようと身をよじり、それが更に苦しめる。
やがて動きが止まり、アスカは腕を振り回してそれを放り捨てた。
その時、アスカの眼に両刃刀を振り上げる量産機の姿が眼に入る。
やり投げの様に大きく振りかぶられたそれが量産機の手を離れ、
真っ直ぐに弐号機へ、意志を持った様に迫る。
ギン、と甲高い音が響く。
手を伸ばした弐号機の先に輝く金色の壁。
拮抗する矛と盾。しかし凡百の矛と最強の盾では矛盾は起きない。
はずだった。
「なっ!」
丈夫なだけの平凡な武器がその本性を露わにする。
一枚刃の剣が二つに分かれ、又が深く抉れる。
ギシギシと壁が軋み、徐々に形を変える矛に侵食されていく。
そして、剣が神殺しの槍へと姿を変えた時、絶対の壁はあっけなく砕け散った。
アスカの顔目掛けて急速に迫る槍。
反応しきれない。アスカは眼をつむるしか出来なかった。
砕ける顔面と襲い来る激痛を想像したが、いつまで経っても来ず、代わりに一つの巨大な影がアスカを覆っていた。
「初号機……」
ロンギヌスの槍を掴み、弐号機の前に仁王立ちする初号機。
「シンジ!?」
紫の鬼がそこには居た。
「忌むべき存在の初号機か。
ゲンドウめ、あくまでも我らの妨げとなるか。」
モノリスの一つが苛立ち混じりの声を発する。
他のメンバーも同じ気持ちか、似た色を含む溜息が小さく漏れ聞こえた。
「神は二つも要らないな。」
「左様。我々の願いを叶える神は一人で十分だよ。」
「このままでは願いが不当に歪められかねん。」
「神一人に願いも一つ。他に介入するモノがあってはならん。」
「ましてや混じりモノがゲンドウではな。」
「だが対策はすでに打ってある。」
発した言葉が次々と暗闇に吸い込まれていく。
そんな中、最後に放たれた言葉だけは各々の耳へと残り、その意味を伝えていった。
「この事態も予想されてしかるべきだった。
そして初号機である事が同時に枷となる。」
その言葉を発したモノリスからは無機質な感情しか感じられない。
だがその口調にははっきりとした侮蔑が含まれていた。
「碇、残念だったな。」
「ウオオオオオオォォォォォッ!!」
初号機が吼える。
手の中にあったロンギヌスの槍のレプリカを握り潰すと、折れて半分になったそれを投げ返す。
衝撃波を発生させながら飛んでいった槍は量産機の頭を貫通し、
のけ反る格好で地面へと縫い付けられた。
そして初号機の姿が掻き消える。
通った後には抉れた地面とその破片が残り、次の瞬間には一体の量産機がまたその活動を止めた。
陥没した頭には拳がめり込み、体を起こした初号機の右拳からは血の様な紅い体液が滴り落ちる。
「ちょっとマヤ!あれにはシンジが乗ってんの!?」
『いいえ!初号機には誰も乗ってないわ!!』
「じゃあどうやって動いてんのよ!?」
アスカがマヤと通信している間にも初号機はまた一体、体を潰す。
絶え間無く響く咆哮。そして何かが潰れる音。圧倒的な力を以て倒していく。
「くっ!もういいわ!!」
通信を切るとアスカもまたその身を戦場に躍らせる。
初号機の後ろに迫っていた量産機を蹴り飛ばすと、そのまま首を踏みつけて潰した。
苦しげにもがき、間もなくその動きを止める。
背中を預ける形になった弐号機だが、アスカが一体を倒して振り返るとすでに初号機の姿は無い。
奇妙な音が聞こえ、その方向に目を向けるとまた一体、量産機が潰されている光景が目に入った。
その様を見ていた時、アスカが異変に気付く。
慌てて他の倒した量産機を見て、アスカに戦慄が走った。
「何よ、あれ……何なのよ……」
泡立つ血液。盛り上がる筋肉。
潰れたはずの顔が復元され、千切れた腕が生え、無くなった脚が元に戻る。
体液の流出は止まり、まだ復元しきれて無い顔をそのままに量産機が立ち上がり始めた。
半端に戻った顔のまま嗤う量産機。
その横でまた一体、また一体と起き上がり始める。
『そんな…自己修復だなんて……』
マヤの驚きと、恐怖の入り混じった声が通信から漏れる。
アスカもまた驚愕と嫌悪に彩られた表情を浮かべていた。
『アスカっ!!』
呆けたアスカの耳にマヤの叫びが届く。
我に返ると、背後に居た量産機の投擲した槍が弐号機に迫っていた。
「ちっ!」
自らを叱責しつつそれを避ける。
地面に突き刺さった槍は再びその姿を両刃刀に戻し、墓標を立てた。
その様は自分の近い将来を暗示している様でアスカの背筋に寒気にも似た何かが走り、
その時、甲高い音が頭上から聞こえてきた。
『大気圏外より高速接近する物体!』
『光速の0.003%の速度で接近しています!捕捉出来ません!!』
アスカは空を見上げ、一方的な殺戮を繰り返していた初号機も何かを感じ取ったのか空を仰ぐ。
遥か彼方に見える一つの、針の先よりも小さな点。
それは空気を切り裂き、空に浮かんでいたヘリを吹き飛ばして明るい花火を爆発させる。
そして数瞬後には初号機の全てを貫いて地面に縫い付けていた。
「!!」
苦しげに叫ぶ初号機。何とか自身の首に刺さった槍を抜こうとする様は先程までの量産機の姿そのもの。
初号機の力を以てすればそれは容易く抜けるはず。
しかし、槍が力を奪っているかの如く、初号機の手は槍の表層を撫でるのみ。
「ウオオォォォ……」
声に力は無く、もがく様子も徐々に力を失っていく。
アスカは迷った。このまま単機で戦闘を継続するか、それとも初号機を助けるか。
だがそれも一瞬で、アスカは弐号機を動かす。
目指すは初号機へ。
アスカの頭の中でその為の行動をシミュレートする。
何処を通り、どう行動すれば量産機の攻撃を避けて初号機の元へ辿りつけるか。
完璧な当りをつけて動き出そうとしたその瞬間、弐号機の膝が崩れ落ちた。
「な…んでこんな時に……!!」
ガン、と音を立ててレバーをアスカは力一杯叩いた。
薄暗くなったプラグ内に、ピーっという電子音が空しく響く。
非常用電灯に照らされたパネルに浮かぶのはゼロ。
予備電源も無く、再び動き出す要素は無い。
それでもアスカはひたすらにレバーを握って力を込める。
「動け、動け、動け、動け……」
カチャカチャとただひたすらに、一心にそれだけを願って念じる。
その間に量産機は弐号機に向かって動きだす。
血に伏す初号機の脇を、何事も無かったかのように通り過ぎ、九機のエヴァが並んで、
罠に掛かった獲物をじっくりと品定めしていた。
「動け、動け、動け……
動きなさいよ…これじゃ何の為にここに来たか分かんないじゃない……
動いて、動いて、動いてよぉ……」
泣き声が混じりながら同じ動作を繰り返す。
静寂の中にアスカの声とレバーの音が絶え間なく響き、それ以外に内側に音は無い。
だが外では着実な変化が起き始める。
足音は大きくなり、量産機の手にある両刃刀が一つの例外も無く槍へと姿を変える。
そして弐号機の手がぎこちなく動き始め、アスカの想いに応えようと手を太陽に向かって伸ばしていた。
天を掴めとばかりに伸びる紅い、血に濡れた腕。
それを更に濃い深紅の槍が貫いた。
「きゃああああああああぁぁっ!!」
アスカの悲鳴と共にL.C.Lが泡立ち、血飛沫が舞う。
貫通した槍はそのままアスカの掌に聖刻を刻み、激痛をアスカの脳裏に刻む。
右手に次いで左手にも刻印が刻まれ、三本目が両足を縫いつける。
その様を見て量産機は嬉しげな表情を更に歪め、白い翼を大きく広げた。
弐号機は純白の羽根を持つ天使に連れられて空へと還る。
今、最後の準備が整えられた。
乾いた音が広大な閉鎖空間にこだまする。
そして、その音と共にミサトの手から拳銃が零れ落ちた。
次いでミサトの体も崩れ落ちる。
「っ……ゲホッ!!」
口から吐き出される紅い塊。
力を失った頭がその中に伏す。
ミサトは必死でもがいた。その度に血に濡れた手が滑って頬を紅く染めていく。
その後ろから徐々に近づく、パンプスが床を鳴らす音。
何とか顔だけをそちらに向け、その人物をミサトは睨みつけた。
「リツコ……!」
「ダメじゃない、ミサト。こんな所に来ては。」
涼しい顔でそう言ってのけ、ミサトの脇をするりと抜けていく。
ミサトには一瞥だにくれず、ゲンドウの隣に並んで立つ。
「……良かったのか?」
「良いんです。
加持君を殺した時に覚悟は出来てますわ。」
「じゃあリツコ……アンタが……」
「ええ、そうよ、ミサト。私が加持君を殺したの。この手で。」
リツコは自らの手を見る。
白衣の先から出た、血に濡れた掌を幻視する。
「それで、準備は出来たのか?」
「ええ。
MAGIの最後のプログラムはさっき完成したわ。
これで準備は全て整ったのね?」
「ああ。」
頭一つ高いゲンドウを見上げ、リツコは嬉しそうに微笑んだ。
「MAGIを……ゲホッ!」
「あんまりしゃべらない方がいいわよ、ミサト。」
「ゲホッ、ゴホッ!……MAGIを…どうするつもり?」
「あら?今更になって興味を持ったの?」
「意地悪してないで教えてやれ、リツコ。」
「そうね、もう長くないでしょうから知っておくのも悪くないでしょうね。」
腹部を抑えて見上げるミサトの元にリツコは歩み寄る。
顔には笑みが浮かび、だがそれは何処か嘘臭い。
それはリツコも自覚していたが、貼り付いた嘲笑はもう取れなかった。
「MAGIはね、ミサト。使徒や情報統制の為のモノじゃないのよ。初めから。
母さんが開発した、使徒との戦いの後に起こす人類補完計画、それを制御する為の高度演算装置。
複雑なエネルギーの奔流を事細かに制御して望んだ結末をもたらす為の。
情報制御とかは単にその演算能力を流用したものに過ぎないわ。
だけどそれだけじゃ足りないの。演算能力だけなら、巨大化さえ厭わなければMAGIなんて新しい物を作る必要は無かった。
補完計画を実行する上で重要なファクター。ヒトの感情を制御するのが補完計画にとって重要なの。」
「コホッ…科学者とは思えないセリフね。」
「あら、科学者っていう人種はリアリストでありながらもロマンチストなのよ?」
二人の様はまるで無知な小娘とそれを嗤う魔女。
リツコは笑みを妖艶なモノに変えて話を続ける。
「感情というモノは様々な性質を持っているわ。単純に二分すれば正の感情と負の感情。
そのそれぞれに喜怒哀楽を始めとした多くの感情が含まれて、しかもヒトが抱く感情はそれらが
複雑に入り乱れた状態になっている。
機械じゃ定量化はおろか、定性化さえまともに出来ないの。
ねえ、ミサト。感情を制御するのに機械じゃ出来ない。
ならどうすればいいと思う?」
「…感情なんて制御できるもんじゃないわ。」
「貴女が考えてるのは他人の、でしょう?
私達は生きていく上で少なからず自分の感情を抑え込んでいる。理性という檻でね。
その檻は何処で作られるのかしら?」
「まさか……」
「ええ、そうよ。私達の脳は完ぺきには無理だけど、自分の感情を制御し、他人の感情を慮る事が可能だわ。
MAGIの製作者は大雑把な制御を生体工学に、細かい制御と演算能力を情報技術に求めた。
その結果生まれたのがMAGIシステム。
MAGIはね、ミサト。ヒトの脳が埋め込まれているの。母さんの脳が。
その為に母さんは完成直前に身を投げ、私が脳をMAGIに移植したのよ。」
「ケホッ、ゴホッ…狂ってるわね。」
「ええ、全く以てその通りね。」
自嘲的な笑みを浮かべ、リツコは立ち上がる。
そして艶っぽい笑顔に切り替え、ゲンドウを見つめる。
ゲンドウは黙ってリツコを見つめ返した。
「いつからかしらね、ホント。こんなにも狂ってしまったのは。」
ゲンドウの胸に寄り掛かり、熱い視線を上に向ければサングラス越しに愛する人の瞳。
絶望の淵から抜け出せずもがき続け、息子を愛しながらも表現出来ず、
こんなにも愛されているのに愛を信じられない不器用な男。
ねだる様にリツコは眼をつむり、不器用なキスが交わされる。
開かれた瞳がサングラスの奥の瞳とぶつかり、ゲンドウはスッと視線を逸らした。
「ホント…どうして母さんも私もこんな人を愛してしまったのかしら……」
分かっていた。彼が自分を愛していない事など。
どれだけ自分が彼を愛そうと、彼の中にはユイさんの存在がどこまでも深く根付いていて、
それはまるで呪いの様に彼に新たな愛を育ませる事を妨げる。
それでも構わない。
上辺だけであっても彼は愛そうとしてくれた。ユイさんの事を、一時であっても忘れてくれた。
自分だけを見てくれた。それだけで、幸せだった。
母さんもこんな気持ちだったのかしら……?
「ちぃっ……!
ゲンドウ、少しまずい事態になった。」
不意にアダムが苛立たしげな声を上げた。
それはホンの些細な表情の変化だったが、彼にしては珍しく明確な負の感情を露わにしていた。
「何があった?」
「初号機がやられた。キールめ、厄介な物を残して逝ってくれた。」
「ならばこちらも始めよう。」
その言葉をきっかけとして、三人が円を作る。
リツコはそれを微笑みながら見送っていた。
アダムの手がレイの白い右胸に沈み、ビクン、とレイの体がのけ反る。
官能的な溜息がレイの小さな口から零れ、上気して赤く染まった頬が快感を示す。
そしてゲンドウの手がレイの左胸へ。
小さな光がレイを中心として発せられ始める。
悲しげな、それでいて嬉しげな、矛盾した二つの感情を持った綺麗で高いソプラノが広大な空間に反響する。
十字架に縫い付けられたリリスが動き出す。
ゆっくりと両手から巨大な杭が抜け落ち、L.C.Lの海に降り立った。
飛沫が雨となり、五人の体を濡らす。まるで、全ての柵を洗い流す様に。
「さよならですわ、ゲンドウさん。」
「赤木君……私は…」
何か言おうとしたゲンドウだったが、リツコはそっと指を唇にあてて微笑んだ。
「私は幸せでした。貴方のお役に立てて。」
「リツコ……」
「貴方の愛は結局最後まで得られませんでしたけどね。」
リツコの手が伸び、ゲンドウの頬を撫でる。
その瞬間、リツコの右腕が弾けて、液体となってゲンドウの服を濡らした。
「次の世界では……私も愛して下さると嬉しいです……」
リツコの泣きボクロを涙が伝う。
そしてリツコはゲンドウに抱きついた。
小さく音を立てて白衣が落ちる。
最後には、紅い水溜りだけが残された。
「シンジ…君……」
それを見届け、雨の中をミサトは這いずり回って前へと進む。
「貴方にとって…コホッ…そんなにこの世界は辛かったの……?
楽しい事は無かったの……?アスカやレイと一緒に生きていくのは、ダメなの……?」
「……そんな事は無かったよ、ミサトさん。」
久しく聞いていなかった、人を気遣う色を濃く含んだ声。
血に濡れた顔を、驚きと喜びと、そして悲しみに染めて上げた。
「ここに来た初めは楽しかった……ミサトさんと、アスカと、綾波さんと居るのは楽しかった……」
「だけど……ダメだったの?」
「ダメなんだ、もう……どれだけ楽しくても僕はもう笑えない。泣く事も、怒る事も出来ないんです。
喜びも楽しさも全て絶望にしかならないんだ。」
シンジは乾いた笑顔で乾いた涙を流す。
リリスが歩き始め、震動が地を揺らした。
レイを中心として発し始めた光は、薄暗かった世界を優しく包み込む。
そんな中、ミサトは血を滴らせながらもゆっくり立ち上がる。
愛用のジャケットは、血に染まってより紅くなっている。
二、三度咳き込んで血の塊を吐き出し、ミサトは歩きだす。
だがその前に見えない壁が立ち塞がった。
「来ちゃダメです、ミサトさん……こっちに来ないでください。」
シンジの制止をそのままに、ミサトは一歩を踏み出す。
そして、愛おしげに見えない壁を撫でた。
「ダメ、じゃないの、シンジ君……」
壁にミサトの血が流れ、紅い筋を作る。
「どんなに辛くても…どんなに光が見えなくても、未来は続くの……
私もね、ずっと暗闇の中に居たの。
十一の時に父を亡くして、脱出ポットから外を見た時、私には絶望しか見えなかった。」
「分かります、とは言いません……僕にはミサトさんほどの辛い経験は無いです。
だから僕にはミサトさんの気持ちは分かりません。
でも、ミサトさんにも僕の気持ちは分からない……!」
「そうじゃ…ないの、シンジ君。」
辛そうに溜息を吐き出し、壁にもたれかかる。
再度血を吐き、それでもミサトは話を止めない。
「南極のあの日から…私の時間は止まった。
どれだけ時間が経っても憎しみは消えなくて、使徒に対する復讐心だけが残ったわ。
全ての時間をそれにだけ捧げて……愛する人でさえも捨ててしまった。
だけどね、シンジ君……ここには貴方が居た。」
「ミサトさん……」
「レイ…そこに居るんでしょ?」
ミサトの視線が宙をさ迷い、レイの姿を探す。
視界は霞んでいて何も見えない。
それでもミサトは一際明るい姿を認め、笑顔を浮かべた。
「貴方が居て、レイが居て、アスカが来て……
勿論、楽しい事ばかりじゃなくて、大変だったけど…私は少しずつ前を向ける様になった。そう思うの。
絶望と希望の中を繰り返し歩いてきた。そして…少しずつでも前に進めて…きたと私は……信じたい。」
リリスの手がレイに向かって伸び、そしてそのすぐ頭上で止まる。
レイの体から発せられていた光はシンジ、ゲンドウと伝わっていき、一際強くなっていった。
「僕も……そう信じて生きてきました。
生きていればいい事があると…そう信じて上を向こうとしました。
でも……もう、ダメなんです……
全てが僕を傷つけ、僕の存在が全てを傷つける。僕が僕として生きれば周りを傷つけて、
自分を殺せばそれが僕という存在を否定する。
そんな世界……僕はもう嫌だ。」
「それでいいのよ……」
「シン…ジ…戻ってこ…い」
瞬間的にシンジの存在が消え、代わりにアダムが表に出てくる。
すでに発動が始まっているのか、その言葉は途切れ途切れで、そしてすぐにまたシンジへと切り替わる。
「私達…はいつも誰かを傷つけて、誰かに傷つけられて……
そこには苦しみしか…ないけれど、世界に目を向ける事が出来れば…必ず癒してくれる人が居るの……
他人にしか出来ない…力がそこにはきっとある……
シンジ君を傷つけ…アスカから目を…逸らして…レイを抱きしめて…あげられなかったけど
……私はそういう存在になってあげたかった……」
壁からミサトの体が滑り、床に倒れ込んだ。
L.C.Lよりも遥かに濃い血液が、命がミサトの体から流れ落ちていく。
伸びるシンジの腕。だがどこまでも近く、そしてどこまでも遠かった。
「ねえ、加持君……私、間違ってないよね……?」
薄れゆく意識の中でミサトは呟いた。
眩い光は弱まり、ミサトの世界は黒く染め上げられる。
それと反比例するように辺りは純白の景色へと変わり、リリスがレイに覆いかぶさり、レイがリリスの中に溶け込んでいく。
ミサトはその様子を見届けると溜息を吐いた。その時、何処からか壁を叩く音がしたが、ミサトに
その方向を向く力は残されていない。
「でも…もうちょっち……子供達と暮らしてみたかった…な……」
砕ける何か。破砕音と共に泣き叫ぶ声が聞こえる。
「ミサトさん!!」
世界が白のみに染まり切る、その刹那。
シンジの腕は自らの壁を砕いてミサトに触れた。
各々の前には小型のモニターがあって、そこには第三新東京市の様子が映し出されている。
数分前には空を埋め尽くしていたはずの戦闘機やヘリの類は全て消え去り、
晴天に恵まれた空からは燦々とした光が舞い降りる。
弐号機は量産機に牽引されて空へ昇っていく。
「ついに叶う。我らが悲願。」
「裏切り者の碇がどう出るか、心配していたが杞憂だったな。」
「まだ油断は出来ん。奴の事だ。何かを隠している可能性もある。」
「だがすでに事態は我々の手をも離れた。
ここからはゆっくりと傍観する事にしよう。」
言葉だけは慎重に、だがその口調はすでに安心しきったもの。
全員が待ちわびた瞬間を待って画面を注視する中で、量産機は中空でその動きを止めた。
「なんだ?」
動きを止めて何かを待つ量産機。
果たして、遥か下方から光の翼を広げた初号機が姿を現した。
「馬鹿な!?アレは槍に貫かれたはずだ!」
高速で迫ってくる初号機に道を開ける様にして量産機は散開する。
弐号機はその中心に残され、初号機は槍をその身に残したままの姿で弐号機の腕を掴んだ。
瞬間、量産機が動き出す。各々が持った槍を振りかぶると、それを自らのコアへと突き刺す。
身を捻り、苦しそうに悶えるが力を緩めはしない。逆に尚も奥へ奥へと突き刺した。
それぞれの量産機を中心とした円が出来る。そしてそれらが繋がり、一つの模様が出来上がる。
全体の中心には弐号機と初号機が重なっていた。
それはネルフの司令室に描かれていた紋様。
セフィロトが今、空に描かれる。
「まさか……!」
モノリスの一つから叫びがあがる。
その声が聞こえていたかの様に、量産機の一つが嬉しげに顔を歪めた。
そしてその首筋から、ダミーシステムを表す深紅のエントリープラグが飛び出す。
そこに書かれていた文字はキール。
彼らが殺したはずの男の亡霊が、そこには居た。
セフィロトを中心に爆発が起こる。
地上よりも遥か上空で起きたはずのそれは、一瞬にして第三新東京市の残骸とジオフロントの全てを薙ぎ払った。
全ての生命を、植物を含めたありとあらゆる命を吹き飛ばし、
微塵たりとも存在を許さない。
エネルギーの放出は留まらず、影響は第三新東京市の外にも広がっていった。
その爆発の最中、アスカはまどろみから抜け出せずにいた。
たゆたうのは安らかな眠りの海。心地良さに身を任せていたが、不意に水面が揺らぐ。
アスカは眼を開けた。そして瞳に映るのは一面の雲。
ただし、雲の下半分は赤く燃えていた。
痛みを感じて両手を見る。
貫かれた掌には二つの丸い痣。それが破けたスーツから覗いていた。
「初号機……?」
モニターの端には、弐号機に捕まる初号機の姿があった。
それを見てアスカは笑みを小さく浮かべた。
「そっか……アンタも寂しがり屋だものね……」
その言葉はシンジに向けられたものか、それとも初号機に向けられたものか。
呟きと共に溜息を吐き、肺に残った気泡がL.C.Lの中を昇っていく。
その様をぼんやりとアスカは見送った。
「結局…アタシは何も守れなかったのね……
ママ…ゴメンね。こんな事に付き合わせちゃって……
シンジ…レイ、ミサトも……ゴメン……」
閉じられた双眸から涙が零れる。
頬を伝い、綺麗な雫は膝の上に落ちて弾けた。
「……?」
新たな気配を感じて、アスカは地上を見下ろした。
そこでは白い何かが現れ、起き上がっていた。
それに伴って、暖かい何かがまたアスカの中で湧き上がっていく。
安心感や幸福感。悔し涙は嬉し涙に代わって同じ様に頬を伝って落ちていった。
「シン…ジ……?」
巨大な人影が弐号機の前に現れる。
白い巨人が顔を上げ、シンジの笑顔がそこにはあった。
「シンジ…そこに居たのね?」
アスカも微笑み返し、笑顔だったシンジの顔がレイに変わり同じ様に微笑んだ。
安堵の溜息をアスカは漏らし、そして顔が再び変わってミサトになる。
「良かった……ママも、シンジもレイもミサトも…皆そこに居たんだ……」
リリスはその体を三つに分かち、それぞれがシンジとレイ、そしてミサトの顔へと変わる。
三体は腕を伸ばし、溢れだした光で弐号機を優しく労わる。
三体は皆、父性と母性を以てアスカに安らぎを与えた。
(暖かい……)
幸せ……
ただそれだけが頭を支配し、アスカは眠りにつく。
そして、また光が世界中を包み込んだ。
落下。浮遊感。
どこまでも落ちていく感覚。光さえも届かない真暗な闇の中をシンジは落ちていた。
だが、やる事も無い。成す術も無く、流れに全てを任せる。
何処に落ちているのか。何処に向かっていくのか。
考える事すら億劫。うっすらとした視界にうっすらとした意識。
特に何をしようという気にもならない。生きようとする気もない。
やっと死ねるのか。
そう考えると嬉しささえこみ上げる。しかしそれもすぐに霧散。後には何も残らない。
壊れたソフトをインストールされたハードは、中身に反して生き過ぎた。
きっとそれは自ら死ぬ、という動作さえ実行できない程に壊れていたから。
きっとそれは生きる、いう事にありもしない希望をわずかながらも抱いていたから。
だけども、やっとそれも終わる。
背中に衝撃。着水の飛沫が舞い、体は深く深く沈んでいく。
周りの粘っこい水はシンジの体にまとわり付き、シンジの全てを犯していった。
「ここは……?」
眼を覚ましたシンジは白い世界に目を見張った。
付近は白い霞の様なもので覆われ、視界は良くない。
小さな呟きはどこまでも駆け抜けていく。
「アスカ……?」
風が吹き抜け、一瞬だけ眼を閉じたシンジが再び目を開くと、
そこにはアスカらしき姿があった。
雲に覆われて顔は見えない。だが姿形は紛れも無くアスカ。
「アスカ!」
確信を以てシンジはかつて愛し合ったヒトの名前を呼ぶ。
果たして、雲が流れて露わになった顔は確かにアスカだった。
アスカは満面の笑みを浮かべた。
対してシンジはアスカの姿を認めた直後は嬉しそうに笑ったが、
すぐにその表情が曇る。
手を二、三度開閉し、やがて顔を上げてアスカの方へ踏み出した。
「アスカ。」
三度名前を呼び、愛しいヒトの手を握ろうと腕を伸ばす。
しかしシンジの手は宙を空しく掻いた。
半歩退いて避けたアスカに、シンジは驚きの表情を向けた。
それでもアスカは笑顔を崩さない。
「シンジ。」
嗤ったまま、すでに懐かしい声で自分の名前を呼ぶ。
そして、一言だけ言い放った。
「死んで。」
ズブリ、と明らかな異物が自分の体に入っていく、気色の悪い感覚。
それが、自分が刺された事に依るものだと、数瞬の間の後にシンジは気付いた。
「どう…して……?」
「決まってるじゃない。
アンタが嫌いだからよ。」
冷たい顔をして、冷ややかな声で、アスカはシンジの耳元で囁いた。
抉る様に、アスカはナイフを差し込んでいく。
その度にシンジの口から血とうめき、瞳からは涙が零れ落ちた。
「あ…やなみ…さん……」
視線の先にシンジはレイの姿を認め、手を伸ばした。
「碇さん……」
レイらしい、だがレイらしくない邪気の無い笑顔で笑い掛ける。
「嫌いです。」
振り下ろされたナイフがシンジの背中へと沈んでいく。
見開かれた瞳から涙が散った。
「ミサト…さん……」
一緒に暮らしていたヒトの名を呼ぶ。
そしてミサトが現れる。
「嫌いなのよ、貴方の事。」
懐から引き抜かれた拳銃は、刹那の戸惑いも無く鉛の弾をシンジに向かって発射し、
シンジの体を貫く。
膝をつき、血反吐を吐き、何故、と声の出せないシンジは視線だけで問うた。
だが答えは返ってこない。
気付けば周りは多くの人で囲まれていて、代わりに誰もが同じ答えを返してくる。
「嫌いなの。」
「ワリぃ、お前の事嫌いなんだわ。」
「嫌いなんだ、君の事。」
「嫌いだ。」
「スマンね、嫌いなんだよ。」
「どっか行ってくれないかな。嫌いなんだ、君が。」
「ゴメンなさい、嫌いなの、シンジ君の事。」
「嫌いなんですわ。」
「嫌いなんですよ。」
「嫌い…です。」
嫌い嫌いキライきらいきらいキライ。
ただその言葉が呪詛の様にシンジの耳に、体にまとわり付き、絶え間無く木霊する。
耳を塞ぐ事も、目を閉じる事も出来ない。
ひたすらにそれだけがココロを支配する。
腕も足も内臓も顔も頭さえも切りつけられ、止め処なく全身から流れ落ちる血の海の中にシンジは身を沈めた。
(そうだ……)
全身を赤く染めながらシンジは口元を歪めた。
体の奥底から笑いがこみ上げてくる。
「は…はは……」
小さな嗤い。嘲笑。何に向けられたか分かり辛いそれは、どす黒い感情を伴ってシンジを染め上げる。
堪え切れない衝動はシンジの唇を割って現れ、終には大声で鳴き始める。
「く…くっく…あはははははははははははははははははっ!」
何故忘れていたんだろう。忘れるはずの無い事なのに、忘れていた。
それがおかしくて、シンジは尚も嗤い続ける。
世界はそんなにヤサシクない。僕をアイしてくれるはずなんてない。
世界はどうしようなく残酷で、冷徹で、誰もを苦しめる。
平穏を望めば混乱を。信用には裏切りを。恩には仇を。慈愛には暴力を。
利益と打算だけで支配され、狡猾なモノだけが得をする。
笑顔でヒトを切り刻む。
何故ヒトはヒトを傷つけるのか。何故ヒトは世界を傷つけるのか。
何故世界はヒトを傷つけるのか。何故…僕はヒトを傷つけるのだろうか。
世界は壊れている。それとも僕が壊れているのか。
世界は希望を見せて絶望を与える。なのにヒトは絶望の中に希望を見つけてそれにすがる。
割に合わない小さな幸せを見つけて、最期に幸せだったと息を引き取る。
そんな世界なんて、僕は望まない。
世界を僕は愛さない。世界は僕を愛さない。
ならばそんな世界は―――
「消えてしまえばいいのに。」
シンジの呟きと共に世界は変わる。
顔に笑顔を張り付けたまま、アスカの首から血が噴き出す。レイの体が裂ける。
ミサトの眼が抉り取られる。
首が落ち、腸が飛び出し、脳しょうが飛び散る。
シンジを取り巻いていた誰もが崩れ、血を撒き散らし、悲鳴を上げずに倒れていく。
伏した体はL.C.Lとなって弾け、血の匂いだけを残して消えた。
「消えろきえろキエロキエロ、ミンナキエテシマエ!」
シンジはワラウ。泣きながらワラウ。
悲しくて哀しくて、それでもシンジはワラッタ。
そして意識は闇へと包まれていった。
二機のエヴァとリリスを中心とした光は、世界中を覆っていった。
何処までも広がっていき、にもかかわらず世界は黒く変化する。
そしてその中に輝く、小さな無数の十字架。
L.C.Lと化し、束縛から解き放たれた生命が刹那の存在を主張する。
命の輝きが暗い宇宙に映え、それらは全てリリスの元へと集まっていった。
途絶える事無く命がリリスへの方へと吸い込まれ、リリスは巨大化していく。
レイの顔を持ち、白く、柔らかそうな両掌の中にあるのは黒き月。
それを愛おしそうに、紅い瞳で愛でていた。
やがてリリスはその体を起こす。
のけ反る様にして暗い宇宙を眺め、その背中からは白い翼が生える。
翼と翼の間に亀裂が入り、そこに大きな割れ目が出来上がる。
集まった光の渦は全て、そこに吸い込まれていった。
「う…ん……」
シンジはエントリープラグの中で目を開けた。
血の匂いのする、だけども落ち着くL.C.Lの匂い。
プラグスーツも着て、見慣れた景色。
だが違うのはモニターには何も映っていない。黒に塗りつぶされて何も見えない。
どうしてここに居るのか。記憶を探っても出てこない。
それどころかそれまで自分が何をしていたかさえ思い出せない。
悩むシンジだったが、突然モニターの中心が光った。
針の先ほどの小さな点。しかしそれは何故かシンジの心を捉えて離さない。
シンジは腕を伸ばした。理由は無い。ただそうしたかったからそうした。
腕を伸ばすと同時に襲う急激な加速。
何かに引っ張られる様に光へと向かって動き出す。
光が徐々に大きくなり、やがてシンジを覆う程になる。
期待に胸を膨らませ、シンジは光の中に飛び込んだ。
その先にあったのは―――
(な…んだよ…これ……)
絶望。
痛み、恨み、妬み、憎しみ、怒り、苦しみ、悲しみ、空しさ。
ありとあらゆる負の感情が激流となってシンジの中へ飛び込んでくる。
詰め込まれる情報に頭が弾けそう。
襲い来る激情にココロが砕けそう。
全ての物が混じり合い、混沌とした濁流の中でシンジは翻弄される。
絶えず頭の中で響き続ける声がシンジのココロを蝕んだ。
「なんで俺がこんな事やんなきゃいけねえんだよ。」
「あいつの…あいつの所為で……!」
「いてえ…いてえよぉ……」
「くそっ、あの七光りが。」
「なぁ、アイツ、ヤっちまわねえ?」
「キャハハハ!いいねえ!マワすか!?」
「どうして…あの人が殺されなきゃならないの!?」
「あー、ダリぃ……」
「死ねぇぇぇ!!」
「どうせ何をしたって、世の中変わらないんだろ?」
「苦しいなぁ…いてえなぁ…ワリィ、楽にしてくれや……」
「うるさい子ね。アンタなんて産むんじゃなかった。」
「あーもう……死ぬならさっさと死んでくれればいいのに。」
「イヤアアアアァァァ!!」
「アイツうざくね?ちょっと声掛けてやったらすぐ友達ヅラしやがってよ。」
「全ては神の為。侵略者は排除せねばならん。」
「いいよなぁ…アイツばっかり優遇されて。」
「この が!てめえなんて生きてる価値無いんだよ!」
「なんで俺ばっかりがこんな目に……」
「また税金上がるのかぁ…良いよな、政治家は。」
「どうしてアンタはそんなに出来が悪いのかしらね。お兄ちゃんに比べてアンタは……」
「ちょっとぉ、聞いた?あそこの人、実は……」
「帰ってきても誰も居ない……やっぱ僕なんて……」
「憎き を追い出せ!ここは我らの地だ!!」
「おいアイツ見てみろよ。まだ生きてやがるぜ。散々虐めてやったのに。」
「所詮私なんて……」
「あの売女が!」
「全く、使えない奴だ。」
「絶対…殺してやる……!!」
「貴方と…いつまでも居たかった……」
「ここは僕だけの世界だ!みんな居なくなっちゃえ!!」
「最近つまんないんだ。何もかもが。」
「あ?世の中結局は金なんだよ!金の無い奴はのたれ死ね!」
「はっ…口先だけの奴がよく言う。」
「どうして…私は生きてるんだろう……?」
「なんで俺は生きてるんだ?」
「生きる価値なんて無いのに……」
「お父さんもお母さんも僕を好きじゃないんだ。」
「誰も私を好きになってくれないの。」
「だから一緒に死んで。」
「何故…僕はここに居るんだろう……?」
「司令に呼ばれたからでしょ?」
「他にやる事もなかったから…」
「なんでアタシはここに居んの?」
「エヴァに乗る為じゃないの?」
「それしか価値を見出せないから。」
「私は…どうしてここに居るの?」
「その為に生み出されたからだよ。」
「目的が果たされたからもうアンタは用済みね。」
「どうして僕は僕らしく生きられないのかな?」
「ホントのアンタを知ったら、皆が嫌いになるからよ。」
「貴方は望んで自分を隠した。」
「どうしてアタシは失っていくの?」
「自分で捨てたんじゃないか。」
「捨てられる事が怖いのね。」
「どうして私は何も持っていないの?」
「何も得ようとしなかったからね。」
「なんでもかんでも与えられると思ったら大間違いよ。」
「何の為に僕らは生きてるのかな?」
「何を願ってアタシ達は生きてるのかしら?」
「私達の居場所はここには無い……」
「なら僕らは何処に行けばいいの?」
「ならアタシ達は何を目指していけばいいの?」
「分からない……」
「僕らに価値はあるの?」
「分からない……」
「アタシ達の価値がない世界に意味はあんの?」
「分からない……」
「価値を見出せない僕らと世界は等価値なのかな?」
「分からない……」
「そんな世界は壊れちゃえばいいのに。」
「それは違うわ。アナタ以外の人にとって必要だもの。」
「じゃあアタシ達はここに居ていいの?」
無言
「ああああああああああああああああああぁぁぁぁぁっ!!」
「もう……いやだ……」
眼を閉じ、耳を塞ぎ、ココロを閉ざしてシンジはうずくまる。
自らを全てから守り、傷つける自分からも守る為に。
光なんて要らない。何も要らない。
そう何度も何度も呟いて自分の膝を抱え込んだ。
それを表す様にシンジの周りは暗闇だけで、他には何も無い。
誰も居なくて音も無い。
そこには寂しいだけの世界があるだけだった。
(寂しくなんて…ない……)
小さく、自分に言い聞かせる。
他人なんて居るから痛いんだ。他人なんて居るから寂しいんだ。
なら始めから居なければ痛くも寂しくもない。
固く閉じられた瞼に、わずかな光が差し込むのをシンジは感じた。
だが開けない。頑なに、瞼に力を込めて必死に閉じる。
衝動を抑え、甘美な誘惑に耐え、ただひたすらに力を込め続ける。
どれくらいの時間が経ったか。
光が薄れ、やがて途絶える。
それに気付いたシンジは、ゆっくりと眼を開いた。
その瞬間、消えていた光が再燃し、ゆらゆらと松明の様に揺らめいた。
白でもなく黒でもない。暖かい燈色でそれはシンジを迎える。
手を伸ばしては引っ込める。その動作を数回シンジは繰り返したが、
意を決するとそれに向かって手を伸ばした。
しかし、その光に手が届く前に透明な壁に手が触れる。
だが決してそれは拒絶する為の物ではなく、ほんのりとした温もりを持っていた。
シンジは体ごと近づき、光を覗き込む。
そして、世界に彩りが生まれていった。
光が収まると、シンジは公園に居た。遊具と何もないグラウンドが半々に分かれている公園で、
子供達がはしゃぎながら走っている。
その中で、一人走るのが遅い子がシンジの眼に留まった。
見るからに運動が苦手そうで、それでも必死に他の子供達について行っている。
息を切らせながら、時には足がもつれて転びそうになりながらも、遅れまいと懸命に足を動かしていた。
だが限界が来たのか、敢え無く脚がもつれて転ぶ。
泣くかな、とシンジはその子を見て思った。
膝は擦りむいて血をにじませ、眼には今にも零れそうな程に涙を溜めていた。
痛みに耐えてか、転んだ少年はうずくまっていたが、そんな彼に手が差し出された。
少年は顔を上げる。一緒に遊んでいた子供達が心配そうに彼の顔を覗き込んでいる。
口々に何か言っている様だったが、シンジには聞こえない。
それでも少年達の不安そうな様子は見て取れた。
呆然として見上げる少年。そして手を差し出した少年は、無言でずいっと転んだ少年へ手を近づける。
少年は涙を拭いてその手を取る。
手を出した少年は、立ち上がるのを見るとニカッと満面の笑みを浮かべた。
それを見て全員が笑顔を浮かべる。転んだ少年も笑顔を浮かべる。
そしてまた走り出した。
景色が変わる。
今度は何処かの部屋で、女性がパソコンに向かって何かを打ち込んでいた。
激しくキーを打ち鳴らす音がして、その音が止まったかと思うと頭を抱える。
しばらくして再び打ち込み始め、やがて止まる。
その動作を何度か繰り返していたが、不意に女性はバンッと机を叩いて立ち上がり、
キーボードを力任せに薙ぎ払った。
そして乱暴にソファへ腰を下ろし、両手で頭を抱えて項垂れる。
天を仰ぎ、力無い溜息を吐く。そこに差し出される一杯のコーヒー。
目元を覆っていた手をどかし、女性はコーヒーカップの先へ視線を動かす。
視線の先に居た男性はカップを女性に持たせると、自らも湯気の上がるカップを手に女性の隣に座る。
肩が引っ付く程の近い距離。女性は男性の顔を見上げ、男性はそれに笑顔で応える。
それを見て女性も小さく笑みを浮かべた。
そして頭を男性の肩に預けて、大事そうにカップを抱えて眼を閉じた。
また景色が変わる。
今度は日本では無い何処か。風が吹けば壊れる様なボロボロの家の中で、何人もの子供達が暮らしていた。
年長の子供達は水を汲みに行き、質素な料理を作る。
何か売れそうな物を探したり、畑を耕したり。
幼い子供達は兄弟の世話を見て、兄や姉の手伝いをする。
誰もが手はあかぎれ、ボロボロになって働いている。でも暮らしは貧しく食べる物も十分でなくて
痩せこけていた。
だが、みんな笑っていた。歌を歌い、手を叩き、明日がよりよいモノになると信じて。
次々と景色は変わりゆく。
友人と談笑しながら日々を過ごす高校生。
両親の墓前に手を合わせ、涙を流しながらも立ち上がる女性。
部活でしごかれても、チームメイトに倒されても、なお地面を踏み締める少年。
時に挫け、腐り、全てを投げ出したくなっても彼らは立ち上がっていた。
自らの弱さに嘆き、泣き叫び、だが誰かが差し伸べる手を支えに、時には相手を支える為に強くなる。
前を向き、空を見上げ、空元気を出して日々を生きていく。
そして最後に浮かび上がる二つの景色があった。
幼い少女を抱きかかえて微笑みかける母親の姿。
少女は柔らかな母の腕の中で穏やかな寝息を立てて、母は愛おしげに眼を細め、
サラサラの髪を何度も撫でる。
「アスカちゃん……」
娘の名前を呼ぶが、アスカは一度身をよじって居心地の良い場所を探す。
可愛い寝顔。それを見ただけでキョウコのココロは満ち足りた。
父は居ない。縁が無かったが子供は欲しかった。
エゴだと思いつつも、将来苦労が少ないように優秀な遺伝子を買って子供を産んだ。
その結果生まれた子供。その子の面影に自分の幼い頃の姿を見て取れて、キョウコはそれがどうしようもなく嬉しかった。
「アスカ……」
もう一度名前を呼ぶ。その度に愛おしさがこみ上げる。
アスカ。今日を生きるのが自分であるなら、この子には明るい明日を生きて欲しい。
今が苦しくても明日には希望があるのだと、希望を持って生きて欲しい。
そう願ってつけた名前。そしてそれが現実になる事を願って已まない。
キョウコは眠り続けるアスカの額にキスをする。
そしていつまでも寝顔を眺め続けていた。
「シンジ……」
風景は変わり、今度は薄暗い部屋の中。部屋をグルリと取り囲む水槽からの淡い光がゲンドウの姿を映し出している。
水槽の中にはシンジのクローンが無数に漂い、
意志も無く浮かんでいる。
そして部屋の中央にはおびただしい数のケーブルが集中し、一本の円筒の中にもまたシンジの姿があった。
意識は無く、胸の辺りには真新しい縫い痕があった。
ゲンドウはそこに近づき、分厚いガラス越しにラミエル戦で出来た傷痕を撫で、
ひざまずいた。
「すまん…すまない、シンジ。」
暗い、静かな部屋に小さく嗚咽が漏れる。
やってはいけない事だとは分かっていた。それと同時に倫理観など、レイに対して同じ事をした時に捨て去ったはずだった。
だが今、ゲンドウの胸に去来するのは後悔と申し訳無さ。
もう息子を傷つけまいとシンジを遠ざけたはずだったのに、またしても傷つけてしまった事に悔しさが溢れた。
そして今回はもう取り返しがつかない。
今はこうして何とか生き長らえ、死んだはずの肉体も新たな物を用意した。
しかし半ば死んだ魂は新たな肉体に耐えられず、肉体も魂に引きずられて崩壊してしまう。
それを埋め合わせる為のモノが必要で、最初のヒトを移植しなければならない。
だがそれは息子をヒト成らざるモノにする行為で、シンジがそれに気付いた時、深い絶望に襲われるだろう。
それでも。
ゲンドウは耐えられなかった。愛する妻を失い、自分と共に愛した息子が自らの所為で死んでしまう事に耐えられなかった。
エゴであると、後悔すると分かっていながらもゲンドウは手を出してしまった。
どれだけ嗚咽と声無き慟哭が続いたか。
神に懺悔する仕草でうつむいていたゲンドウだったが、やがて立ち上がった。
涙の跡は残っていなかった。
光は収まり、淡い光を発するだけに変わる。
ポタリ、と暖かい雫が落ちる。涙が、止まらない。
シンジの両目からは絶える事無く涙が零れ落ち、小さな溜まりを足元に作った。
そして、シンジのそれの向いに出来るもう一つの涙の水溜り。
両手に温もりを感じて顔を上げれば、鏡合わせの様にして涙を流すアスカの姿があった。
壁は消え、シンジとアスカの手が重なる。
絡み合う指と指。二人の体が触れ合い、暖かさで満たされていく。
二つの唇が重なり合った時、二人のココロは溶けていった。
途絶えていた意識が覚醒する。
眠りから目覚める時の浮遊感を感じ、目を開いた。
そこはそれまでの暗い空間とは打って変わって明るく、ほんのりとした赤みを帯びていた。
上を見上げれば月にも似た球体が浮かんでいて、前後左右は何処まで行っても変わらない。
地平線さえ曖昧。だがそれも悪くない。
冷たくも熱くもない、穏やかな空気。時の流れが止まったかのように、全てに動きは無かった。
「シンジ、アスカ。」
呼ばれて振り向くと、そこにはシンジと同じ顔をしたヒトが二人とレイ、ゲンドウの姿があった。
更に後ろには皆に隠れる様にして、シンジによく似た小柄な女の子が居る。
「えっと…シンとリコ、それにアダム?」
「ああ、そうだ。」
苦笑しながらシンはシンジの言葉を肯定する。
みな同じ顔をしているのによく見分けがつく、と驚き半分、そして嬉しさ半分の笑み。
その想いが伝わる様に、周囲の雰囲気も暖かくなる。
「ここは何処なのよ?」
「世界だ。」
アスカの問い掛けにシンに代わってアダムが応える。
「何処までもが自分で何処までもが他人。
全ての生命がL.C.Lと化し、ヒトとヒトとの境界が消えさった曖昧な世界。」
「そして容易く壊れてはすぐに造り替えられる脆弱な世界でもあるわ。」
「誰にも等しく権利が与えられ、誰もが等しく蹂躙される。
お前達を除いてな。」
「どういう事?」
「お前達が願った世界だという事だ。」
そう言うとシンジとアスカ以外の体が溶け、境が消え去る。
ぼんやりとした境界線は完全にぼかされ、明確に五人の区別が出来るのに何処から何処までが誰であるのか
全く認識できない。
「他者の存在を憎み、他者の喪失を願った。それは同時に自らの喪失にも繋がる。」
「他の人が居るから…私は私なんだと分かるの。自分しか居ないならそれは自分も居ない事と同じ意味なんだと思う。」
「それと同時に碇さんとアスカは世界の消滅も望んだ。
だから世界も同時に滅んだの。」
シン、リコ、そしてレイと順に二人に説明する。
でも、とアスカは疑問を口にする。
「私達が居るここは何?」
「希望なのよ。」
「一度消えて新しく作られた世界。だがパンドラの箱に希望が残った様に、前の世界にも希望が残ったんだ。
おかげで前の世界の残滓もこの世界に取り込まれたまま。」
「けれど、まだこの世界は色付けがされていないの。
全てはシンジとアスカの二人次第なの。」
リコのその言葉を裏付ける様に、全員を取り巻く世界が次々に変わっていく。
色は赤から青へと虹色に、決まった形を作ったかと思えばまた流体に戻り、
何も無いのっぺりとした世界になったかと思えば複雑な幾何学模様を描き出す。
「シンジ。」
それまで黙っていたゲンドウが口を開く。
ゲンドウの形が明確になり、二人が見慣れた姿へと変貌した。
「私と一緒に…戻らないか?」
「何処へ?」
「過去だ。」
ゲンドウは何もない空を見上げて、言った。
その背後に小さな穴が空き、暗闇が顔をのぞかせる。
「私は全てをやり直す。
そもそも南極で白き月を見つけた事、それが全ての誤りだったのだ。
アダムを発見した事で世界の歪みはひどくなり、ヒトは狂っていった。
世界はどうしようもない。お前も見たはずだ。
常にヒトとヒトが争い、殺し合い、奪い合う。意味もなく蔑み、優秀だ劣等だと区別をつけたがり、
それが絶対の基準であるかの様に振舞う。
それらが原因でユイも狂っていった。」
「母さんが……」
「気付けなかった私の責任だ。
ユイは…私を愛してくれた。こんな私でも、だ。
私はユイに何も返してやれていない。
そしてシンジ。
お前も苦しめてしまった。
だから、今度は私の番だ。私に……償うチャンスを与えてはくれないか?」
「…皆は、どうするの?」
「俺とリコはゲンドウについていく。」
シンは前を見据え、厳しい表情を浮かべて二人の顔を見る。
「正直、ゲンドウの言っている事は都合のいい事だ。
しかし、もしやり直せるのなら、そのチャンスを掴むべきだ。そうは思わないか、シンジ?
そして、お前らは幸せになるべきなんだ。
十分に苦しんだ。ならばその苦しみは報われなきゃいけない。
だがここじゃそれも叶わない。ここに居るべきじゃない。
だからシンジ、アスカ。一緒に来い。」
手を差し出してくるシン。
シンジとアスカはその手を見つめ、そしてアダムの方を見る。
「私とリリスはここに残る。
折角互いの半身とやっと会えたのだ。もう我らの願いは叶った。手放す様な真似などせんよ。」
「リリスとしての私はここに居る。
でも、綾波レイとしての私は碇司令と一緒に行く事になると思う。
それが、この子の願いだったから……」
「そう…なんだ。」
シンの方へ振り返る。
手は差し出されたまま。ただ、シンジとアスカが掴むのを待っている。
それきり誰も何も言わない。
身動きさえ、ない。
幾度もの逡巡を見せる。
そして、二人は口を開いた。
「僕らは……ここに残るよ。」
「この曖昧な世界にか?それとも新たな世界を作るか?」
「いや、僕らの世界に戻るんだ。」
前を向いてシンジとアスカはシンを見つめた。
シンは一瞬、驚きの表情を浮かべるが、それもまたすぐ消える。
「あの…互いが傷つけ合う世界に戻すというのか……?」
「うん……」
「他人を拒絶したお前がまた他人を望むのか?」
「うん。」
「A.Tフィールドがヒトを分け、他人の恐怖が始まる。なのに…どうして……」
「……分かったんだ。」
一つだったシンジとアスカの体。中性的な声から男声と女声の入り混じった不協和音へと変わっていく。
肉体も一つから二つ。左右にシンジとアスカの二人に別れていった。
「僕らは決して一人じゃない。それに気付けたんだ。」
「その事もお前はすでに気付いていたじゃないか。だが分かっても理解出来なかった。
実感できなかった。そう言って嘆いてた。」
「うん、どんなに周りに人が居たって、結局は僕一人なんだってそう思ってた。」
「他人はアタシ達を傷つけるだけだと思ってた。口では当たり障りのいい事を言ってたって、
その実、誰も本気で自分を見てくれる事なんてない。気にしてくれる人なんて居ないって。」
「でも違った。
ヒトとヒトは完全に理解する事なんてきっと無理で、だから時に僕らは喧嘩し、争い、泣いて……
だけどそれは他人を理解しようとしてるって事なんだ。
そしてその時は間違いなく僕らだけを見てくれてる。」
「アタシ達もそこに居ていいと思えるの。」
完全に二人は別れる。
だがその手はしっかりと繋がれていた。
「……正直、やり直したい気持ちもあるんだ。」
「なら!」
「でも、僕らは違うと思ったんだ。
やり直したらきっと前より上手く出来る。
でもそれは、当り前だけど、それまでの自分を否定する事なんだ。」
「辛い事ばかりで、嘆く事しかしなかったけど、アタシはそれでも意味はあったと思う。」
「否定するのは自分だけじゃない。
それまで僕を支えてくれた人達の想いも全部無かった事にしてしまう。
良い人ばかりじゃなかった。僕を傷つける人も多かった。
けれど、そういう人も今の僕を作ってるんだ。」
「今のアタシは嫌い。」
「今の僕が嫌いだ。」
「だけど、多分、アタシに関する全てが今のアタシを作ってて、
それが、アタシが好きになれるアタシに繋がっていく。」
「だから僕らは過去を振り払っちゃダメなんだ。
過去は過去として、それを元に好きになれる自分を作っていくんだ。
どれだけ絶望しても明日は今日より良い日なんだって、前を向いて生きていかないといけないって、
そう思ったんだ。」
向き合うシンジとシン。アスカとレイ。
互いに眼を逸らさず、強い意志を瞳に乗せて相手を見る。
「後悔はしないな?」
「後悔なんて、これから何度だってする。
でもその度に一歩進める。そう思ってる。」
「そうか……」
シンは手を差し出した。
ただしそれは、先ほどの差し伸べる為のものではなく、訣別の握手。
対してシンジは、力強くその手を握りしめた。
「ありがとう……」
NEON GENESIS EVANGELION
Re-Program
FINAL EPISODE
Here I am
墓前に手を合わせて僕は祈りを捧げた。
今までの感謝と、謝罪。
正直なところ、どれだけ感謝しても感謝しきれなくて、どれだけ謝っても謝りきれない。
それだけの事を僕はやってしまったと思ってる。
きっと、この後悔はこれからもずっと僕を蝕み続けてやまない。
だけど僕はそれで良いと思う。
忘れちゃいけない事だから。
クロスを墓の前に置いて立ち上がる。
そして眼に入る一つの名前。
第三新東京市はもう無くなってしまって、ミサトさんの遺体を探す事は出来なかった。
本当はミサトさんのお父さんやお母さんのお墓と同じ墓地にお墓を作ってあげたかったけど、
あの時に職員のデータとかも全部無くなっちゃってて、出身地とかも知る事が出来なかった。
そうやって奔走して、僕もアスカもつくづく感じた。
僕らも結局、何も知らなかったんだと。何も見ようとしてなかったんだと。
アスカと相談した結果、最終的にミサトさんのお墓は第三新東京市の郊外の墓地に建てる事にした。
遺体も何も無い、ただ名前だけが記された墓。
ミサトさんという人を考えた時、あまりにも寂しいけれど、僕らはそれ以上の事は出来なかった。
そう言う意味で、僕らはまだ何の力も無い子供なんだと実感させられる。
サードインパクトが起きたあの後、全てが元に戻った。
少なくとも見た目だけは。
だけどネルフは無くなって、それと同時にゴタゴタも結構あったみたいで、
結局未だにどう処分されるかは分からないまま。
僕らもどうなるかは分からないけど、とりあえず今を生きてる。
あのミサトさんのマンションで。
「シンジ〜、行くわよ。」
アスカに呼ばれて僕は墓石に背を向けた。
そしていつもと同じように一歩を踏み出す。
世界はあんな事があったのに前と変わらず回り続ける。
テレビでは毎日の様に殺人事件や、世界の何処かで起こってる紛争のニュース、それに
政治の世界での足の引っ張り合いばかりを報道してる。
その一方で平和条約を締結したり、体を張って誰かを助けたりといった、
心暖まる様な出来事も起こってる。
本当に、相変わらずのどうしようもなくて、でも美しい世界。
全ての出来事一つ一つにもきっと意味があって、
それがまた何処かで誰かを作り上げている。
空を見上げてみる。晴れ上がった空からは眩しい太陽から暑い日差しが降り注いでる。
そこに手をかざしてみた。右目を隠す形になって、薄暗く変わる。
でも手を除ければまた眩い太陽が顔を覗かせる。
墓地へと続く草原に、風が吹き抜けた。
アスカのスカートを揺らして、思った以上に強い風にアスカは被っていた帽子を慌てて抑えてた。
風は僕の胸を貫いていく。
ぽっかりと空いた、僕をずっと支えてくれてたアイツらの居た場所。
もうアイツらは誰も居ないけれど、僕はここで生きていくって決めたから、
その事には後悔はしていない。
気付けば僕の隣にアスカが立っていた。
どうやらいつまで経っても追いつかない僕に、アスカの方から近づいて来たらしい。
怒った顔をしてそっぽを向いてる。でもその頬が少し赤い。
僕はそっとアスカの左手を握った。
柔らかくて、暖かい体温が伝わってくる。
顔を上げたアスカと眼が合った。
僕らはどちらともなく微笑んで、太陽と風の中を二人で歩き始めた。
世界はいつも厳しくて、時々優しい。
時に泣いて、時に怒り、時にはしゃいで、時に喜ぶ。
前を見たり、後ろを振り返ったりを繰り返しながら
それでも僕らは前に進んできた。
だからこれからも僕らは歩いていく。
辛くても、悲しくても
それでも……
それでも僕らは……
完
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