雨が降っていた。
空はどこまでも暗く、灰色の空を切り裂く様に稲妻が時折走る。
その雲からは大粒の雨が容赦無く地上を打ちつけ、
全てを冷たく濡らし続けていた。
ユイは真冬の雨に打たれていた。
傘もささず、ただ立ち尽くす。
白いブラウスは隙間なく肌に張り付き、プリーツのスカートの裾から雫が絶え間無く落ちる。
足元は泥に汚れ、純白だった靴下も薄く汚れていた。
ユイの前には立派な墓石。
頂部から流れ落ちる雨が、ユイには涙の様に見える。
「ユイ君。」
掛けられた声に、ユイは振り向いた。雨に濡れた前髪の隙間から、生気の無い瞳が覗いた。
「体に障る。これで体を拭くと良い。」
キールが傘を差し出し、タオルを頭から掛ける。
それでも一向に手を動かそうとしないユイに、キールは手を引いて止めてあった車の中へと座らせた。
「すみません、おじさま……」
謝罪の言葉を口にしたユイに、キールは軽く頭を振って応える。
「気にする事は無い。君の事はご両親から生前頼まれていた。
そして私も喜んでそれを受け入れたのだから。」
本当に亡くなってしまったのは気の毒だが、と付け加え、キールは運転手に命じて車を走らせた。
窓の外は雨。心なしか、先程よりもひどくなっていた。
「父と母は……殺されたんでしょうか?」
タオルで顔を隠したまま、ユイはキールに尋ねる。
問われたキールは一瞬の逡巡の後、首肯した。
「恐らく、な……
残念ながら君のご両親は敵を作り過ぎた。
私も忠告はしたんだが……」
「いえ、私も両親の性格は承知しています。父も母も傲慢なところがありましたから……
なのに見捨てずに頂いて、私の方も気に掛けて頂いて感謝しています。」
髪から落ちる雫もそのままにユイはキールに向かって頭を下げた。
だがキールは再び頭を振った。
「いや、これは私の力不足の結果だ。彼を止めれなった私の責任だ。」
それきり車内に沈黙が訪れる。雨音だけが小さく響く。
どれだけ走っただろうか。信号が赤に変わり、ブレーキが軽く悲鳴を上げた。
「何故……」
はらり、とユイの髪からタオルが落ちた。
濡れた頬は雨の所為か、それとも。
「何故、人はお互いに憎む事が出来るんでしょうか……」
前を見据えるユイの瞳。微かに揺れるそれは何を映し出しているのか。
何を今、思っているのだろうか。
横顔を見ながら、キールは終ぞ問いの答えを返す事が出来なかった。
「キール様。」
自身を呼ぶ声に、キールはゆっくりと目を開けた。
背中には皮の感触。どうやら眠っていたらしい。
意識をバイザーに集中させると、見慣れた男が直立のままキールを見下ろしていた。
「サードの件、無事完了致しました。」
「そうか。」
簡潔な答えを返すと、報告に来た男を退出させる。
先ほどまで見ていた夢の所為か、今は誰とも会話する気にはなれない。
男が出ていき、扉が閉まる。その音を聞き、キールは大きく息を吐き出した。
「あの時、君の中に計画が生まれたのかもしれんな……」
自身が傷つくのを恐れ、誰かが傷つくのを恐れた。
憎しみが支配し、人が殺し殺される世界。それを君は人並み以上に忌避し、嘆いていた。
だが今、私は君の理想を引き継ぎながらも君の息子を利用し、壊そうとしている。
「ユイ君、君は……」
「我々をどう思うだろうな……?」
冬月は溜息を吐きながら隣のゲンドウを見た。
傍らの男はリツコの報告を聞きながらもポーズを崩さない。
暗い部屋に隠れて表情は見えないが、冬月はゲンドウの心中に想いを馳せる。
眼に見える限り、ゲンドウの様子は普段と変わらない。
冬月にはそれが無理をしている様にも見えたが、実際はどうなのだろうか。
「問題無い。」
冬月の予想とは別にゲンドウは冷徹に言い放った。
そこには、これまで冬月が感じ取れていた動揺や不安、心配といった感情が全くと言っていいほど無い。
「他人の内など誰にも窺い知る事など出来ん。
ましてや駒の感情など考えるだけ無駄だ。」
「だが最終的にはシンジ君に我々は頼らねばならんのだぞ?」
「思考を誘導してやればいい。」
背後からの光に照らされ、サングラスの隙間からゲンドウの瞳が露わになる。
冷たい双眸はただ前を向いていた。
「ですがもうスペアがありませんが。
破壊された施設の復旧は最早絶望的で、スペアの方もシンジ君、レイの両方とも一つ残らず壊されています。
今、シンジ君がもし……」
リツコが報告書から顔を上げて口を開く。
彼女も冷静さを装っているが、途中で噤んだ様からも心配している様子が見て取れた。
(彼女が心配しているのは……)
果たしてシンジの事か、それとも計画の事か。
冬月はリツコの表情からそれを読み取ろうとしたが、すぐに意味のない事だと思考を切り替えた。
どちらにしろ、計画は進めなければならない。
ならここでシンジの心情を慮っても時間の無駄だ。
「我々に残された時間は少ない。
が、逆に言えばその少ない時間さえ持ってくれればいい。
赤木君はシンジ君の行動には十分気を配ってくれたまえ。」
リツコに指示を出すと、冬月はこれでよいのだろう、とゲンドウの方に顔を向ける。
ゲンドウは冬月の顔を一瞥すると、何も言わずにそのまま視線をリツコの方に戻した。
「報告は以上か?」
リツコがゲンドウの問い掛けに頷くと、ゲンドウは退出を促す。
何か言いたげにリツコは口を動かすが、そのまま何も言わずに一礼して部屋を出ていく。
出る前に一度振り返るが、ゲンドウはそれに気付かない振りをした。後には二人だけが残された。
「……良いんだな、本当に。」
「今更ですよ、冬月先生。我々に残された道は一つしかない。」
「そして残りは後一つ、か……」
「それも間もなくこちらに来ますよ。」
そうだな、と頷く冬月。見上げれば眼に入るセフィロト。
行きつく先は神か、それとも。
ソファに深く腰掛け、冬月は溜息と供に目を閉じた。
第弐拾四話 涙
「フィフスチルドレン?」
「ええ、ついさっきマルドゥック機関から通達があったわ。」
訝しげな表情を浮かべるミサトを無視して、リツコは事務的に書類だけを手渡す。
やや乱暴に差し出されたそれをミサトが受け取ると、
リツコは珍しく自室に戻らずにそのままミサトの執務室に留まった。
普段はマコトが座る椅子に腰掛けたかと思うとすぐに立ち上がり、
ミサトに自分があげたコーヒーメーカーへと足を運んだ。
コポコポと音を立ててカップへと注がれる。
普段とは違う落ち着きのないリツコに、ミサトもカップを持って立ち上がった。
「どうしたのよ、リツコ?何かあったの?」
「いえ……そうね、ちょっと仕事の方が行き詰ってるだけよ。
少ししたらまた仕事に戻るわ。」
言いながら席へと戻り、コーヒーには口を付けずにリツコは深い溜息を吐いた。
「それなら良いんだけど。」
音を立てて椅子に腰を降ろすミサト。
そして新たに増えた書類に溜息混じりに目を通す。
「ドイツ連邦共和国ニーダーザクセン州出身。二〇〇〇年九月十三日生まれ。
その他の経歴は全て不明。
相変わらずふざけた物を持ってくるのね、マルドゥックは。
それで、そのフィフスチルドレンはいつ来るの?」
「明日よ。」
ミサトとしては落ち込み気味なリツコに引きずられて暗くなりがちな空気を軽くするつもりだったのだが、
リツコから返ってきた答えに、ミサトはポカン、と口を開けっ放しになった。
「……は?」
「だから、明日よ。」
いやいや、とミサトは手を振った。
「いやねー、リツコ。冗談きついわよ。」
「本当よ。」
「またまたぁ。」
「残念ながら事実よ、葛城三佐。現実を見据えなさい。」
冷たいわねぇ、とミサトは背もたれに体重を預けながらぼやいた。
「もうちょっち私の精神の安定に協力してくれてもいいと思わない?」
「私の精神安定には必要な事だもの。」
コーヒーをすするリツコ。そこに先ほどまでの思い詰めた表情は無く、幾らか落ち着いて見える。
ちっ、と舌打ちして深い溜息を吐いた。
「また徹夜ね。」
「そろそろ貴女も徹夜が堪えるんじゃなくて?」
「まさか。」
さて、とミサトは体を起こす。
真面目な話をしましょう。そう言いながら机の上の受話器を取った。
マコトの携帯に電話を掛け、用件だけを告げるとすぐに切る。
「これで誰もこの部屋には来ないわ。勿論、眼も耳も無い事は確認済みよ。」
両肘を机に突き、両の掌で口を覆い隠す。
視線は鋭く、表情は冷たく。
誤魔化しは許さない。ミサトの眼がそう語る。
しくじった。内心でリツコは鋭く舌打ちするが、すでにどうしようもない。
リツコの口からは、先ほどとは違った意味の溜息が出た。
「それで何を聞きたいのかしら、葛城三佐?」
「全部。」
一瞬、息の詰まる様な空気が流れる。
リツコの背中にも冷たい汗が流れるが、表情を殺す事でそれを誤魔化した。
「と、言いたいところだけど、そこまでは言わないわ。
だけどいくつかこっちの質問に答えて下さい。」
「……いいわ。」
コーヒーを飲もうとするが、カップの中が空になっている事に気が付き、リツコは一度席を立つ。
そして椅子に座ったままのミサトに背を向け、肺に溜まった息を吐き出した。
コーヒーメーカーがカップに当り、軽い音を立てる。
自分の手を見ると、小刻みに震えていた。
注ぐとリツコは立ったままコーヒーを喉に流し込んだ。熱い液が喉を焼き、痛みが頭へと駆け抜ける。
ヒリヒリとした痛みを感じながら、だが危なげない動作でカップを持って席へと戻っていった。
「まず一つ目。
アンタ、シンジ君に何をしたの?」
まずはそこから来たか。リツコは内心で呟いた。
だが、この件に関してはリツコは何も関わっていなかった。
知ったのは全てが終えた後。犯人については予想は出来るものの、証拠は一切無い。
だからリツコはただ事実のみを口にした。
「そうね……私は何もしてないわ。」
「つまり、アンタ以外の誰かがシンジ君に手を出したという事ね。」
ミサトの問いにリツコは沈黙を以て応える。
ミサトも何も言わない。ただリツコの様子だけを脳に刻み、言葉を続ける。
「じゃあシンジ君に何かがあった。それに関しては?」
「ええ、知ってるわ。」
あっさりとしたリツコの態度に、ミサトはやや呆気に取られる。
ミサトの予想としてはこの事に関しては一切リツコは口を噤むと考えていた。
しかしその中から少しでも情報を。例えカケラであっても。
そう言った気持ちで挑んでいた為、口の軽いリツコの様子にミサトは期待が高まるのを感じた。
「でもそれについて話す事は無いわ。」
だがリツコの言葉は再びあっさりとミサトの期待を裏切る。
自然、ミサトの眦が鋭くなる。
が、それに気押される事無くミサトの顔を見つめた。
「勘違いしないでちょうだい。これはシンジ君の為でもあるの。」
「作戦課長である私にも教えられないと言うの?」
「保護者としての立場を持ち出したとしても教える事は無いわ。」
尤も、貴女にその資格があるかは知らないけど。
そう言ってリツコはコーヒーに口を付ける。
ミサトの眼が細まる。だがリツコも睨みつける様に眼を細めるとミサトは視線を逸らした。
「……いいわ。次の質問に行くわ。」
「今度は何かしら?さっきも言ったけれど仕事が詰まってるの。手短に頼むわ。」
リツコはすでに完全に落ち着きを取り戻していた。
先ほどまではゲンドウに頼りにされきれない自らの不甲斐無さに苛立ち、弱気になっていた。
加えてリツコの中で揺れ続ける倫理観と良心。
シンジとレイに対して行っていた事は必要な事だと理解したつもりであっても、
やはり感情的なしこりは残る。
そこを突かれるのではないか。ミサトからの声が上がった時、その事が頭を過り、動揺した。
だが質問の前に間を空けれた事が功を奏した。
落ち着く時間を作れた。それはリツコにとって大きい。
僅かな時間ではあったが、冷徹な仮面を被り直すには十分だった。
「加持は……加持は本当に死んだの?死んだとしたら誰に殺られたのか、そこら辺について赤木博士は何か知ってますか?」
「それは貴女の方が知ってるんじゃなくて?」
嘲りを多分に含ませてリツコは応えた。
「どういう事かしら?」
「とぼける必要は無いわ、葛城三佐。貴女と加持君が色々と探ってたのはこっちも掴んでたのよ。」
「泳がされてた、てわけね……」
「泳がせてた、というのとはちょっと違うわね。
最初貴女達が手に入れていた情報は機密でこそあれ、個人で持っている分には問題は無かった。
でも最後に加持君は知ってはいけない事を知ったの。」
「だから……!」
ミサトの眼に怒りが灯る。が、リツコの表情は変わらない。依然、嘲笑に口を歪ませる。
「だから、何かしら?
勘違いしないでちょうだい。私が問題無いと言ったのは情報の価値としての話。
機密漏洩は立派な重罪よ。
ネルフという組織を考えれば、本来なら即座に銃殺刑でもおかしくない程のね。」
ミサトは一言も言い返せなかった。
リツコの話は全てが尤もで、そこに反論の余地は無い。
今、こうして自分がリツコと話せているのは紛れも無くリツコのおかげ。
責められこそすれ、自分がリツコを責める事などできはしない。
だけど、とミサトは呟いた。
どうせならば自分も殺してくれればよかったのに。
そうすればあんなにも悲しまなくてもよかった。苦しまなくてもよかった。
家族は……壊れなかったかもしれない。
全ては可能性の世界。加えて八つ当たりでしかない。
ミサトは高ぶる感情を無理やりに抑え、激情に駆られた言葉を飲み込んだ。
「加持は……最後に何か言ってた?」
「いいえ。加持君は現行犯で射殺された。私が知ってるのはそれくらいだわ。」
「そう……」
ミサトの口からはそれ以上の言葉は出ず、代わりに深い溜息が零れた。
天を仰いだミサトは、机の引き出しを開けるとタバコの箱を取り出す。
そして慣れた手つきで火を点ける。メンソールの香りがリツコの鼻孔をくすぐった。
「タバコ、また吸い始めたのね。」
「ええ。」
天井の明りを見ながらミサトは短く答えた。
タバコを右手に持ったまま、それきり沈黙を守るミサト。
それを見てリツコも白衣のポケットからタバコを取り出した。
向かい合う二人の手元からユラユラと煙が昇っていく。
ミサトもリツコも、黙ってその行方を見送る。何処に行きつくのか、消えていくその行方を思い浮かべながら。
長い沈黙が部屋を支配する。
そして、その静寂を先に破ったのはミサトだった。
「ねえ……」
「何?」
「もし、もしもリツコの大事な人が何かを成し遂げようとして、途中でそれを続ける事が出来なくなったらどうする?」
そうね、とリツコは左手を額に当てて前髪を掻きあげた。
脳裏に浮かぶのは自らの想い人。誰にも頼ろうとせず、ただ利用するだけ。
それしか方法を知らない、寂しい人。
「私なら、意志を継いで成し遂げるわ。」
「例えそれが間違った事でも?」
体を起こし、タバコを一吸い。思い切り肺に取り込み、肘を机に突きながら煙を吐き出した。
「何が正しくて何が間違ってるか。そんなものは所詮主観的なものに過ぎないわ。
戦争だって一方の正義は一方の悪でしかない。
世間的には間違っていても、私が正義だと感じたならば私にとってはそれは正義よ。
なら私は私の道を行くだけ。どれだけ冷徹な結論を迫られようとも。
じゃないと私はそんな人と付き合わないわ。」
宙に視線を彷徨わせ続けるミサトに向かって、リツコは凛と言い放つ。
それは確たる意志。何者にも止められない決意。
強い想いは声だけでもミサトに伝わった。
「そっか……」
小さく呟いたミサトは、よっ、と声を上げて勢いよく体を起こす。
そして勢いそのままにタバコをもみ消すと、音を立てて立ち上がった。
「もういいの?」
「ええ、これ以上有益な情報は得られないでしょうし、こっからは自分で探るわ。」
「呆れた人ね……さっき私が言った事をもう忘れたの?」
これまでと違った色の籠った溜息を吐き、リツコは頭上のミサトの顔を呆れた表情で見た。
「いいえ。でもリツコはリツコで自分の道を進むんでしょ?なら私もやりたい様にやるだけよ。」
だがミサトの表情は先ほどまでと違い、幾分晴れやかだった。
重かった脚がそれに伴って軽くなった様にもミサトには感じられ、
その足でそのまま扉へと向かって行く。
リツコはその背中を見送りながら、何度目か分からない溜息を吐いた。
「なら今回は長い付き合いのよしみで見逃してあげるわ。誰にも見つからない様に十分気を付けなさい。」
「ん。あんがと。」
部屋から踏み出しながらミサトは未だ椅子に座っているリツコに向かって手を振る。
ミサトに見られていないのを確認したリツコは、小さく笑みを浮かべた。
「それから、後一つだけ。」
背後からの声にミサトは足を止めた。
振り返るミサトに、リツコは背を向けてただ言葉だけを紡ぐ。
「正しき使徒は十二体。最後の使者は恐らく近々現れる。」
「……OK。感謝するわ。」
今度こそミサトは部屋を出る。
強く握られた両手。それがミサトの決意を表していた。
ミサトの姿が消えると、リツコの表情から仮面が剥がれ落ちる。
一気に肺から空気が押し出され、それと共にリツコの額から汗が零れ落ちた。
「加持君、貴方は……」
どこまでミサトを連れていくのか。
何も知らないままでいれば良かったのに。
内心で嘆くが、すでに流れは激流。ならば出来るのは警告するだけ。
自分では加持を止められても、ミサトは止められない。止めるには後ろ暗い事が多過ぎる。
頭を二、三度振り、暗い表情でリツコも部屋を後にした。
「あ、日向さん。」
訓練も終わり、独りで廊下を歩いていたシンジは向かってくるマコトの姿を認め、
小さく会釈した。
対するマコトもそれに手を挙げて応えるが、シンジの眼からはやや疲れているように見える。
「これからもう帰宅かい?」
「ええ。日向さんは大変そうですね。」
「まあね。しかももうしばらくは忙しいのが続きそうで、ちょっとシンジ君が羨ましいよ。」
「はは。どうぞ羨んで下さい。僕はこれで失礼します。」
「ああ。気を付けて帰るんだよ。」
もうすぐ高三になるんですけど、とややふくれて見せながら、シンジは再び頭を下げてマコトの元を辞する。
マコトもちょうどシゲルとマヤの二人の姿を見つけ、シンジに手を振りながら三人で食堂へと消えていった。
夜も大分遅い。シンジの腕時計は午後9時を回り、定時労働者は消え、残るのは直接使徒戦に関わる者のみ。
廊下には人影は無い。ただシンジの足音だけが小さく木霊した。
笑顔を常に浮かべ続けていたシンジの表情が不意に崩れた。
眼は細まり鋭く。だが足は変わらず動き続ける。
「もういいだろう?」
声は紛れも無くシンジ。しかしながら口調は短いながらもシンジのそれとは異なり、またシンのものでも無かった。
皮肉気に、だがどこか嬉しげな色を多分に含ませ、誰も居ない虚空に話しかけ続けた。
「しかしなかなか面白い物だな、誰かのフリをするというのは。」
(ふん。お前にもそんな感情があるとは意外だな。)
「お前達が感情と呼ぶモノは昔からあったが、このように大きく揺らぐ事は無かった。
今の私を作ったのはお前達二人、いや、三人によるものだ。
しかし、思いの他この体は扱い易い。」
心底嬉しそうにシンジ―――の殻を被った何かは笑みを浮かべた。
が次の瞬間にはその表情が不満に歪んだ。
「勘違いしないで貰いたい。お前に体の主導権を譲ったのはあくまで体の維持が理由だ。
お前に自由をさせる為じゃない。」
(分かっている。
とは言え、ある程度の自由は与えてもらえるんだろう?)
シンは彼の問いに答えない。代わりに体の主導権を返してやる。
「ここは感謝する所か?」
(知らん。勝手にしろ。)
ぶっきらぼうに応えるシンだが、彼はふふ、と小さく笑い声を漏らした。
(後、俺に話しかける時はいちいち声に出さなくていい。
周りに変な眼で見られるだろうが。)
「いいではないか。周囲には気を配っている。
例えカメラに映っていたとしても……」
シンの注意にもかかわらず声に出し続けていた彼だが、
正面に何かを認め、ほう、と声を上げた。
「シン、少し代われ。」
一方的にシンに告げ、シンジの肉体がシンに明け渡される。
唐突の事に一度シンジの体が大きく崩れかけ、しかし膝を突く直前にシンがそれを何とか押し留めた。
「くそ、あいつ……」
わざと相手に聞こえる様に内心で悪態を吐き、立ち上がって顔を上げたところで
シンは正面で向かい合う二人に気付いた。
レイともう一人、見慣れない少年が立っている。
やや長い髪は白とも銀とも言えない色で、一目で外国人である事が分かる。
シンからは横顔しか見えない為にはっきりとは言えないが、
外国人らしくかなり整った容姿であるらしい。
少年は楽しげにレイに話しかけているが、一方のレイの方は表情を動かす事無く黙って聞いていて
二人の間の温度差を感じさせる。
その後、レイは一言二言返事をしてはいたが、やがて少年の方は用を終えたのか、
シンの方へと足を向けた。
「碇、シンジ君だよね?」
「そうだけど、君は?」
なるべくシンジとの差を見せない様に言葉に気を付けながらシンは問う。
それを受けて少年は、邪気のない笑みを浮かべた。
「僕の名前はカヲル。渚カヲル。
フィフスチルドレンだ。君と同じ仕組まれた子供さ。」
声を聞いた瞬間、シンの中で何かが動いた。
もぞもぞと、それまで全く動く事の無かったそれが久々に動きを見せ、
シンは驚きと喜びを以て問いかけた。
『出たいのか?』
何も答えない。だがシンにとっては喜ばしい事で、特に気を悪くするでもなく体を譲った。
「渚、君?」
「カヲル、でいいよ。君の方が年上なんだし。」
「あ、なら僕もシンジで良いよ。
これから一緒に戦う事になるし、宜しくお願いします。」
丁寧にシンジは頭を下げた。
そしてそれを見てカヲルはクス、と小さく笑いを零した。
そんな仕草にシンジはやや怪訝な表情を浮かべるが、
ゴメンゴメン、とカヲルは手を振る。
「いや、君が僕の想像した通りの人だったから。
こちらこそ宜しく。」
互いに握手を交わし、笑みを浮かべる。
そして気になったのか、シンジは不意に「想像した通りって?」と尋ねた。
「うん、優しくてとてもいい人だと思ってたんだ。そして本当にいい人だったから嬉しくてね。」
「そんな……僕は……」
シンジの口から否定の言葉が吐き出され掛ける。
しかしカヲルは手を前に出し、その言葉を留める。
「自分を否定するのはいい事では無いよ。
常に君は他人に優しく、いい人であろうと悩んでいる。
そしてそれが出来ない自分が嫌いで、だから自分を隠し、新たな自分を演じて見せてる。」
でも、と一度カヲルは言葉を区切り、シンジの顔を見て微笑みかけた。
「僕は今の君の方が好ましい。隠す事は無い。そう思うよ。」
NEON GENESIS EVANGELION
Re-Program
EPISODE 24
Final Sequence
ネルフから出る最終バスの中、最後尾で彼は目を閉じて揺られていた。
他に誰も乗っていないバスで彼は耳にイヤホンを差し込み、うっすらと意味を浮かべて
音楽を楽しむ。
時折、リズムを刻む様に脚が揺れ、また口からは鼻唄が零れる。
バスの揺れと相まって気持ち良さそうに帰途を楽しんでいた彼だが、
シンが話しかける事によって中断された。
「なんだ?折角人が楽しんでいるというのに。」
(さっきの事、詳しく説明してもらおうか。)
「さっきの事?」
渚カヲルの事だ、とシンが告げると彼はああ、と頷いた。
一しきりカヲルと話をした後、カヲルが去るのと同時にシンジは再び自らの奥底へと戻って行った。
最近はほとんどシンジが表に出てくる事は無い。
殻をひたすらに被り、シンやシンジ自身を含め誰にも認識できない程に自分を覆い隠す。
それは自分という存在を守る為。自分だけの世界で自分だけを活かす世界。
小さくも広大で深遠な世界の中でシンジは生き続けていた。
そんな中で久々にシンジが外に興味を示したのはシンにとっては非常な驚きで、
だからその時は特に気にもせずにシンジに体を明け渡した。
だが落ち着いて考えれば違和感が残る。
他人を恐怖するシンジが初対面の人間と話そうとする事実。
それと時を同じくして彼が急に奥へと引っ込み、またシンジの話し方もシンが知るそれとは違った。
シンジが初対面の相手と接する時、幾重にも壁を作り、年齢以上に大人びた様に振舞う。
しかしあの時のシンジは、壁こそ存在していたが普段とは逆に話し方は何処か幼さを感じさせた。
それは初めて会った人との接し方を知らず、挨拶をする親の真似をする様で。
違和感があったいずれにも共通するのは一つ、渚カヲルという存在。
そこに何かがある事は容易に想像がつく。
「なに、ただ知り合いに会っただけに過ぎない。
そしてあの場で会うのは適当では無かった。それだけだ。」
(知り合いだと?)
彼の言葉にシンは疑念と驚きとが入り混じった声を上げる。
彼はそうだ、と短く返事をし、視線を窓の外へと移した。
ネオンの光が通りを昼間の様に照らし、行き交う人々はともすれば昼間よりも活気付いているかもしれない。
ぼんやりとその様子を眺めながら、彼は話を続けた。
「とは言っても直接的な知り合いでは無い。
私は奴に会った事は無いし、奴も私を見た事は無いはずだ。」
(ならば渚カヲル、奴は……)
「お前の想像の通りだ。」
何て事だ、とシンは天を仰ぎたくなった。
そしてシンジの事を想う。
カヲルと話をしている間、シンジの声は喜びを如実に表していた。
何の恐れも無い、ただ純粋に碇シンジとして楽しむ会話。
それはシンジにとって何年ぶりの事か。恐らくシンジ自身も覚えていないだろうし、
そもそもこれまでの十年との違いさえ自覚してはいないだろう。
それでも楽しかった思い出としてシンジの中で残っているのは間違いない。
奥底へ戻る中、心が躍っていたのをシンも感じ取れた。
だがそれは否定される。
カヲルは敵で、自分の目的を果たす為には倒さなければならない。
シンジとカヲルが友として肩を並べる事は恐らくもう無く、
後何度出会えるかも分からない。
その事実が、シンの心に重く圧し掛かる。
「序でに教えてやろう。奴―――タブリスの業は自由意志。
全ての柵から切り離されて自由になる。
碇シンジの様子がお前の記憶と異なっていたのは、その業によるものに過ぎん。」
つまりはアレが碇シンジ本来の姿だ。
彼はそう言ってのけるが、シンは返事を返せなかった。
何処か嬉しそうに口元を歪めていた彼だったが、反応の無いシンに興が削がれたか、
面白くなさそうに鼻を鳴らすと再び窓の外に意識を戻した。
いつの間にかバスは都心部から離れ、住宅街は死んだ様に暗闇を提供していた。
「ふわ……」
深夜の発令所でシゲルは隠す事無く欠伸をした。
ネルフという組織の性質上、最低限の人員は深夜であっても残しておかないといけないのは分かるが、眠いものは眠い。
仕事の方は、情報分析が主のシゲルにとっては平時に急ぎの仕事はそう多くない。
あるとすれば書類整理くらいか。
当番なので夜勤をしては居るが、退屈な書類仕事ばかりでは気も緩む。
不謹慎だとは思うが、こればっかりは仕方がない。
自分に対して言い訳しながら、シゲルは自身と反対側に座っているマヤに視線を向けた。
シゲルとは対照的に、忙しそうにキーボードを叩いては溜息を吐き、
何かを考えているのか頭に手をやってはまたキーボードを叩きだす。
そして再び溜息。
そんな様子をぼんやりと眺めていたシゲルだが、椅子にもたれ掛かっていた体を勢いをつけて起こすと、
発令所から出ていく。
しばらくして再び発令所のドアが開き、手に持っていた缶コーヒーを差し出した。
「や。お疲れさん。」
「あ、青葉君。ありがとう。」
「さっきから悩んでるみたいだけど、また赤木博士に難題でも言いつけられたのかい?」
「まさか。葛城さんじゃあるまいし。」
マヤの言葉にだよねぇ、と同意して二人で笑い合う。
「マコトの奴もなぁ。いい加減に葛城三佐の事諦めりゃいいのに。
アイツ今日も葛城三佐の用事で走りまわってるよ。」
「日向君も一途だから。」
「違いない。
ところで……」
話しながらシゲルはマヤの端末を覗き込む。
そこには様々なグラフが並べられていたが、普段から見慣れていたシゲルには
それが何のグラフなのか、すぐに分かった。
「これは…この前のシンクロテストの結果?
確か渚君が初めて参加したやつの。」
「うん、そうなんだけど……」
マヤは歯切れ悪く言葉を濁す。
そして、一度モニターとシゲルの顔を往復させると、続きを口にし始めた。
「まずはこれを見て欲しいんだけど……」
そう言いながらマヤは端末を操作し、数枚のグラフをシゲルに見せる。
全くの狂いもなく水平に伸びる一本のライン。
やがてある座標から垂直に落下したかと思うと、またある点から垂直に上昇している。
次に、とマヤはまた別のグラフを表示させる。
細かく振動するそれは周期性を示しており、それもまたある点を境に振幅と周波数が変化していた。
そして二つのグラフを重ねると、各々のグラフの変化点が寸分の狂いも無く重なる。
その挙動は確たる意志を持ち、まるで何かを確かめるかのようで。
マヤはシゲルの顔を見遣る。
そしてマヤの予想通り、シゲルの表情は驚愕に彩られていた。
「そんな……いや、でもまさか。」
「そう、意図的にシンクロ率を操作するなんて、理論上そんな事は出来ないはずなの。
でも渚君はそのまさかをしているとしか思えないの……」
マヤの言葉にシゲルは言葉を失った。
それと時を同じくして平穏な時期は終わりを告げる。
突如として鳴り響くアラーム。深紅に染められるモニター。
そのモニターの一角でMAGIが示していた文字列。
パターンブルーが静かに存在を主張していた。
静かな深夜の発令所はあっという間に喧騒に包まれた。
だが夜中故に人員は少なく、初動が遅れる。
ミサトも例外では無く、寝起きのボサボサ頭のまま発令所に駆け込んだ時には、
すでに事態はより深刻なものへとなっていた。
「何があったの!?報告を!!」
「分かりません!弐号機が突然起動してメインシャフトを降下していっています!」
「そんな!?アスカは!?」
「303号室で確認しています。」
「エントリープラグの中に生命反応なし!無人です!!」
パニック寸前の発令所からの報告に飲み込まれそうになるが、
ミサトは一度深呼吸をして気を落ち着けると全員に向かって一喝した。
「落ち着きなさい!!」
全体に遅滞なく届き、静寂の帳が発令所を包み込む。警告を示す赤色灯だけが音も無く回り続ける。
静かになった事を確認するように見回し、ミサトは凛とした声で指示を口にした。
「弐号機に停止信号を発信して。それと可能ならプラグ内の映像を主モニターに。
それとメインシャフトを緊急閉鎖。
あ、青葉二尉。降下中の二号機の映像をお願い。それからシンジ君とレイを大至急呼び出して下さい。」
一瞬の沈黙。そして再び喧騒が場を支配する。
怒号。壊さんばかりに叩かれるキーボード。ガタガタとキータッチの音が喧しい程に声に混じってミサトの耳に届く。
安堵の息を漏らした時、ミサトの背後で場にそぐわない間の抜けた音がした。
「遅いわよ。」
ミサトの文句には応えず、リツコは黙ってミサトの横に立つ。
そしてそのまま無表情に何も映っていないモニターを見つめ続けた。
「赤木博士が言ってた最後の使者。それがついに来たわけですね。」
「でしょうね。まさかこういう手段で来るとは思わなかったけど。」
「でもどうやって弐号機を動かしているのですか?」
モニターにエントリープラグ内部の映像が映し出される。
だが予想された通り、中には誰一人として乗っていない。
「……何らかの方法でエヴァとシンクロしてる。それが一番考えやすいけれど、情報が少なすぎるわね。」
「以前の使徒みたいに細菌タイプとかは?」
思いつくままにミサトは口にする。それほど根拠も無しに言っただけだが、
リツコは眉に皺を寄せて呆れた様に口を開いた。
「何言ってるのよ、ミサト。それは無いわよ。」
「どうしてですか。同じタイプの使徒が来る事は無いとどうして言い切れるんです?」
「確かに見た目で判断するのは危険だし、使徒に常識を求めるのは酷だけど、
今回は流石に有り得ないわ。」
だって。
主モニターにメインシャフトの映像が現れる。
渚カヲル。オワリのシ者が弐号機の隣で佇んでいた。
「居た。」
プラグの中でシンは小さく呟いた。
緊急で出された出撃命令。
シンはワイヤーも使うのが惜しいとばかりにシャフトを自由落下で降下していた。
全ての準備は整えられていた。
いつカヲルが動き出しても構わない様に、時間を問わずここ数日ネルフに詰めていた。
出来れば動き出さないでほしい。自分がこうして待っているのが徒労に終わってほしい。
奴の言葉が嘘であってほしい。
クモの巣よりも壊れやすい願いだと自覚していたが、それでも願わずには居られなかった。
が、やはり現実は冷たい。
腰かけていた椅子は、すぐにその温もりを失っていった。
頭痛がする。それもとびきりの。
鈍く鋭い、矛盾した痛みに何度も顔をしかめ、それでも正面の虚空をにらみ続ける。
伝わってくるのは激痛に加えて激しい拒絶。
シン自身、エヴァとシンクロするのは初めてでは無かったが、こうして痛みに苛まされた事は無かった。
理由は分かっている。シンジが居ないからだ。故にエヴァが自分とシンクロするのを嫌がっている。
今こうして僅かながらもシンクロ出来ているのは―――気に入らないが―――奴のおかげ。
奴が居なければこうして使徒を追う事も出来ない。
拒絶に更に加わるのは悲鳴。
絶望に泣き叫ぶシンジの叫び声がシンのココロをも蝕む。それに呼応したリコの嘆きがココロを砕く。
もう少しだけ、堪えろ。
シンは自分に言い聞かす。折れそうなココロと心が最後の一線を飛び越えてしまうのをかろうじて留める。
途切れそうな意識をかき集め、ただ目標を追いかける。
やがて、深紅のフォルムが視界の中で大きさを加速度的に増加させてくる。
「なぎさぁっ!!」
ウェポンラックからナイフを手に取り、振り被る。
高振動の刃がカヲルに迫り、だがそれを濃紅の腕が遮った。
「やっと来てくれたね。」
「どうしてっ!お前はぁっ!!」
ギリギリと二本のナイフが鍔迫り合い、眩い光がシンの激情に駆られた瞳を焼き尽くす。
頭痛も苦痛も忘れ、ただ荒れ狂うココロに従いナイフを振るう。
二度、三度とナイフがぶつかり合う。
その度に光が溢れ、間近で戦いを見守るカヲルの横顔を浮き上がらせた。
「君は……そうか、君がシンなんだね。」
「何故アイツの前に現れた!?」
反動で体勢を崩した所を初号機のナイフが襲う。
サバイバルナイフの大きな刃がズブリ、と弐号機の首元に沈む。
だが弐号機に痛覚は無い。痛みに身を捩じらせる事無くカッターナイフが初号機の右胸に突き刺さった。
「ぐ……おおおおおおおっ!!」
激痛がシンの中を駆け巡る。
焼ける様な痛み。しかしそれも激情に凌駕される。
突き刺さったナイフを以て抉らんと二機の巨体が腕に渾身の力を込め、火花と共に宙を舞う。
「それが僕の役目だからね。御老体達も最後の調整に入ったみたいだ。」
「やはりお前は!!」
「だけど勘違いしないでほしい。」
カヲルは見上げた。その先には初号機の両眼。
弐号機に向けられていたそれは、一瞬のみカヲルに向けられる。
「僕自身もシンジ君に会ってみたかったというのも事実だよ。
彼は好意に値する。だけど、君はそうじゃない。」
「誰もお前なんかに好かれたくなど!!」
初号機は弐号機の腕を握る。そしてジリジリと自身の胸からナイフを引き抜く。
ゴキリ。鈍い音がシャフト内に響く。それと同時に弐号機の手からナイフが弾き飛ばされた。
カヲルの目の前に巨大なナイフ。だがカヲルは身じろぎせずにそれを向い入れる。
熱を持ったそれがカヲルに触れる刹那、輝く壁が自身の空間を犯されまいと悲鳴を上げた。
「どうして君はいつまでも彼を殺し続ける?」
「どういう事だ!?」
「君も気付いてるはずだ。」
君の存在こそがシンジを狂わせる。
嘲りでも怒りでも無く、カヲルは淡々とそう告げた。
「君はシンジ君が本来持っている物を奪い、使って生きている。」
「そんな事はない!!」
「喜び、怒り、悲しみ。
感情を君に分け与えた所為で彼は世界に興味を失い、守る為のモノを失った結果、
自身を犯される恐怖に苦しみ、新たな自分を構築しなければならなかった。
歪み、捻れ。初めはそれは小さなモノだった。だが長い年月の間に少しずつ成長を続け、
君が確固たる人格を得て溜まっていた捻れが明確に表に現れ始めた。それが今の彼だ。」
「シンジには確かな感情がある!」
「確かに君の言う通り、彼には感情はある。
だがそれは儚くて一瞬のモノだ。薄くて本来彼が持つはずのそれをただなぞっているに過ぎない。
そしてシンジ君はそれを自覚している。少なくとも彼自身は。
自分を歪んでいると思う。だからそれを改善したい。そう願う。だが出来ない。
今度は歪みを受け入れようとする。しかしそれは歪みを拡大するだけだ。
ならどうすべきか。君という存在が消え、彼に全てを返すしかない。」
「そんなはずは……」
「なら君はシンジ君が心から怒りに震えているのを見た事があるのかい?
悲しんだシンジ君が涙を流したのを知っているのかい?
彼は泣き、笑い、怒り、恐れ、嘆く。その中で彼が未だに保持しているのは恐怖と、ただ自分を嘆く、それだけだ。
怒りは君が譲り受け―――尤も、君は滅多に怒りを表さないけどね―――悲しみは……確か、リコ君だったかな、彼女が受け継いだ。」
「何故お前がそこまで知っている!
さっきまでの話でもそうだ。あたかもシンジの全てを知っているかの口ぶりだが、どうしてそこまで……」
「簡単な話さ。僕はシンジ君を
ミたからね。」
まさか。
シンは視線を弐号機からカヲルへと向けた。はたして、カヲルは自嘲の笑みを浮かべた。
「僕らは全にして一つ。過去に君達に出会った僕らが蓄積されて今、こうして君の目の前に居る。」
飲み込まれた世界。暗闇の中で全てを思い出すシンジ。
降り注ぐ光。包み込まれる弐号機、そして初号機。貫かれる零号機、光の帯を掴む初号機。
これまでに訪れた全ての使いはただの一つ。願いも想いも。そして目的も。
不意に襲う物理的な衝撃。予期せぬそれに頭を揺られシンの意識が飛ぶ。
いつの間にかメインシャフトを降下し終わり、衝撃でぶれる視線を辺りに飛ばす。
何だここは。
着地時に立ち上った水しぶきが治まり、現れたのは一面の紅い湖。遠くには白くそびえる何かの柱。
それ以外には何も無い。が、遠くには何か扉の様な物が見える。
殺風景で、そこはまるで全ての終末を示している様。シンは知らず身震いした。
「さて、僕はもう行くよ。」
「待て!!まだ聞きたい事が……」
浮かんだまま遠ざかるカヲル。その背中を追いかけてシンは手を伸ばす。
が、追いすがる初号機の両足を弐号機の腕が掴んで離さない。
「もし、もしも君が本当にシンジ君の事を想うなら君だけで追いかけてくるんだ。
その為に彼女を利用させてもらう。」
初号機の体にしがみついて離さない弐号機を、シンは必死に引き剥がそうと両腕に力を込める。
しかし弐号機は背中にしっかりと抱きつき、自分に刺さっていた初号機のナイフを引き抜いた。
「それじゃあね。」
そう言い残してカヲルは去っていく。
背後からは金属音が響いていた。
「ターミナルドグマに……到着しました……」
マコトの報告に発令所は静まり返った。
ついに到達してしまった。これまで11体の使徒を何とか倒してきた。
絶望的な状況も乗り越え、ここまでやってきた。
しかし、これで全てが水泡へと帰す。
(いや……)
まだだ。
ミサトは右手をギュッと握りしめた。
リツコは言った。これが最後の使徒であると。
ならばまだ手段はある。あちらが最後であるのと同様に、こちらにも最後の手段が。
だが、とミサトは歯を強く噛みしめた。
それは本当に最後の手段。文字通り、それを行使した後には何も残らない。
使徒も、地下の白い使徒も、ネルフも街も、そして人でさえも。
それでも人類が残るなら、やる価値はある。
加持の意志を完遂できない事、そしてシンジ、レイ、アスカを巻き込んでしまう事が心残りだが。
大きく息を吸い込んで深呼吸。
一度閉じた瞳は鋭さを増し、ミサトは指示を出すべく口を開けた。
「待ちなさい、ミサト。」
小さくも鋭い声がミサトを制止する。
リツコはモニターを見つめたきり、口を閉ざした。
「まだ……何かあると言うの、ですか?」
「いいえ。
そうね、シンジ君を信じる、という事かしらね。」
呟く様にミサトの問いに答えた直後、再びアラームが発令所を染める。
「何が起こったの!?」
「分かりません!!ドグマに設置された全ての情報が遮断されました!」
「電波、磁場、その他一切のデータが取れません!」
誰かが呟く。まさに結界。
報告を聞き、ミサトはリツコを睨みつける。
その視線に気づいたか、リツコは横目でミサトの顔を見るが
それも数瞬の事で、また何事も無かったかのようにモニターに戻す。
ただ、何も映し出していないモニターに向けられていた顔は歪んでいた。
「更にエリアが拡大……えっ?」
「反応が二つ……いえ、消失しました!」
何が起きているのか、誰も予想し得ない。
最初と比べ、落ち着きを見せていた発令所も理解出来ない状況に再度混乱の様相を見せ始めている。
そんな中でのリツコの恍惚とした、今にも蕩けそうな笑み。
今まで眼にした事のないリツコの様子に、
ミサトは今、最下層で起きている何かに恐れを感じざるを得なかった。
「来たか……」
何十メートルもある巨大な扉をくぐったその先。
白い巨人が磔になっている十字架の前でカヲルは振り返った。
期待の籠った視線。しかしそこに居たのは彼の期待した人物では無かった。
「なんだ、君か。」
「そうよ。悪い?」
「いや、ただ期待してた人では無かったというだけさ。」
カヲルは再び正面の巨人を見上げた。
磔になっているそれは、カヲルには生命の息吹を感じる事は出来るが、命の躍動を見て取る事は出来ない。
ただ生きている。言ってみれば抜け殻。
「リリス。君もついに戻るのかい?」
「いえ。まだその時じゃないから。」
カヲルに答えながら、レイはゆっくりと歩み寄った。
一歩一歩、LCLの海の上を歩きながら。
「それと、私はリリスじゃないわ。」
「それは失礼した。
だが僕としてはすぐにリリスとして覚醒してほしいんだけどね。」
背後にレイの存在を感じ、カヲルはレイの方へと向き直った。
顔には笑みを浮かべて、だが眼は真剣にレイの紅い瞳を見つめる。
「我らが母たるリリス。僕らはずっと貴女に会う為の時を待ち、この地を目指した。
貴女の盾となり、貴女の矛となって守りアダムを退ける。
全てを終わらせる為に。」
「全てを、終わらせる?」
「そう、全てを。」
カヲルは眼を細めて、そして大仰に両手を大きく広げて歌う様に言葉を紡ぐ。
「夢は現実に、現実は夢に。終わりは始まり、始まりは終焉へ。
全ては一つになって、世界は新生する。
かつての先人達が願った世界。どういう訳か彼らは失敗した。だけど僕らなら新しい世界を作れる。」
だから、さあ。
レイの手を取ろうと、カヲルは手を伸ばした。
刹那―――
ずる、ボトリ。
「なっ!?」
肘の辺りから腕が落ちた。
血も滴る事無く、まるでそれはあたかも存在してはいけないかの様に。
レイが口を開く。
「でもその世界に―――」
「お前が居る必要は無い。」
振り返る。その先にはシンジの姿―――をした始まりのヒト。
「アダム……
そうか。シンジ君、君が―――」
「ふん。中々見事な口上だったな。あんまりにも素晴らし過ぎてへそで茶が湧きそうだったぞ。」
尤も、最後はフラれたがな。
アダムは嘲笑を前面に押し出し、カヲルは眉間に皺を寄せてアダムを睨みつける。
「だが先ほどのシンに対して言ったセリフ。あれは評価してやろう。
あれは中々シンジに対して過保護の所があるからな。その為に存在する、と言えばその通りだが、いい薬にはなったろう。」
「そいつはどうも、だね。」
「しかし、貴様如きが説教を垂れる事の方が私には面白かったがな。」
「……何が言いたいんだい?」
カヲルは警戒を露わにしてアダムに問い質す。
「なに、高々一人の人間の中を無遠慮に覗き見しただけでヒトという種を理解した気になっている
愚か者を嗤っているだけだ。」
「君は……!」
「自由意志を司る使徒、タブリス。なるほど、確かに貴様は何物にも縛られん。その役割以外にはな。
だがヒトという種は様々なモノに縛られて生きている。
貴様の様に自由奔放になど生きられなどしない。
大体貴様は何をしたいのだ?
私には貴様は思いついたままに行動している様にしか見えん。
ヒトの業にも気付かず偉そうに分かった風にして、愉快を通り越して逆に不愉快だ。」
「なら君は分かっているでもいうのかい?」
「分かるだと?
バカか、貴様は。分かろうとも思わん。」
だが、と尚もアダムはカヲルに向かって話し続ける。
「代わりにヒトをどうこうしよう等とも思わん。
ヒトが私を利用しようとな。
奴らは奴らの営みを続け、私は私のしたい事をするだけだ。
ヒトという種は私から見れば全く理解できん。そもそも感情というのが私にはつい最近まで謎だったのだからな。
悩み、妬み、悲しみ、怒り……同じ種でありながらその時々でそれぞれが違った感情を抱き、
ぶつかり、矛盾の中で生きている。
ヒトという種の間でさえ互いを理解できんというのに我らができるはずがなかろう?」
そこまで言い終えてアダムは一つ溜息を吐いた。
「まあ、そんな事はどうでもいい。
それで貴様はどうする?」
問われてカヲルは弾かれた様に顔を上げた。
浮かんでいた笑みは消え、眉間には深い皺が寄っている。
「どうすると言われてもねぇ……
僕に残された選択肢というのは何があるというんだい?」
「なんだ。タブリスが最後には自由を失ったか。」
アダムは鼻で笑う。
しかしカヲルは気にした風も無く、再び笑みを顔に張り付ける。
「リリスには嫌われ、今の僕では覚醒した君に勝てるべくもない。
後に続く僕も居ない。
だけど僕の名はタブリス。名の示す通り自由な意志を持った使徒だ。
だから最後もその名前に恥じない様にしたい。」
カヲルは残った左腕を前に突き出すと、その腕を勢い良く自分の胸に―――
「っ!!……が、はっ……」
「残念ながらお前に死の自由などやらん。」
背中から突き出た腕。
血に染まったその掌の中には主から離れても時を刻み続ける心の臓、そして紅い生命の実。
「やはり心臓と同じ位置に隠してあったか。」
「どう、して……」
「言っただろう?私は私のしたい様にする、と。
未だ不完全な体では目的を果たす事が出来んのでな。
助かったぞ。お前があっさりと目的を放棄してくれたからな。」
「まさ、か……まだ、足りない物が、ある、とはおも、わなかったよ……」
「少し考えれば分かりそうなものだがな。
この体は知恵の実しか持たぬヒトだ。全てを完成させるには足りない物を他から持ってくるしかなかろう?」
ニヤ、と口元をアダムは歪めた。
アダムと突き合わせた顔をカヲルは悔しげに歪め、首だけを捻って背後に立つレイを見つめた。
カヲルを見るレイに表情は無い。しかし上から見下ろすレイの顔は、カヲルには見下されている様に感じられた。
意識が薄れていく。
その中で、カヲルは一転して諭す様に話すアダムの言葉を聞いた。
「見ただけで全てを決めつけ、あっさりと諦める。だから私は貴様が嫌いだ。
ヒトの姿を模したのなら、もっと足掻けば良かったのだ。
足掻いて足掻いて足掻いて……どんなに生き汚くとも粘れば何かが変わる。
生きていれば状況は好転する事もあり得た。
それはとてもヒトらしかった。
そして私は、例え理解できなくともそんなヒトの方が好ましかった……」
言い終わるが早いか、カヲルの体が弾け、紅い雨が降る。
L.C.Lにレイとアダムの体が濡れ、残ったのはアダムの手の中にあるカヲルのコアのみ。
正面のリリスの体を仰ぎ見る様にし、自身の内から聞こえてくる悲鳴を聞きながらアダムは両腕を広げて雨を感じた。
程なく雨は止み、濡れた二人の頭髪から紅い雫が滴り落ちる。
アダムは視線をレイへと向け、泣きそうな表情で笑ってみせた。
そしてソフトボール大のコアをアダムは握力だけで砕き、小さくなった欠片を丸ごと口の中へと放り込んだ。
一瞬の静寂。そしてアダムは眼を見開いて咆哮を上げた。
喉を通り、食道を下って細胞の一つ一つが喜びにむせび泣く。
泡立つ全身。満たされていく感覚に、アダムは声なき歓喜の声を叫んだ。
「……終わったの?」
「ああ、全ての準備は整った。」
手を差し出すアダム。そしてレイはその手をしっかりと握りしめる。
「後は……」
「時が満ちるのを待つだけだ。」