a nuisance―――











風が吹いていた。
枯れ木の隙間を風が駆け抜けて揺らし、乾いた音を立てる。 吹きつける冷たい北風とは裏腹に空は晴れ、暖かい日溜まりでは小さな芽ぶきの気配が感じられた。
カタ。
頬を刺す冷たさに、レイは病室の窓を閉じた。
空気の入れ替えの為に窓を開けてみたが、やはりまだ寒すぎた。 春が来るのはまだずいぶんと掛かりそう。
風に吹かれてやや乱れた髪を直し、レイはベッドの脇へと歩み寄る。
そして、髪と同じく乱れたシーツを掛け直した。

何も無い宙をただ見つめる。 そこに光は無い。
生きているのか、それとも死んでいるのか。それを知らせるのは傍らの心電計のみ。
まばたきもせずにアスカは真白な天井を眺め続けた。

「また来るわ……」

無言でアスカを見つめ続けていたレイだったが、やがて一言告げると ベッドに背を向けた。
スライド式のドアに手を掛け、音も無く開かれる。
だが外に一歩踏み出した所で再びレイはアスカの方を振り返った。

「おやすみ、アスカ……」

ドアが閉まる。
後に残されたのは静かな空間。心電図だけが単調な音を立て、人影は無い。
何も言わずアスカはただ前だけを見続ける。
一人ぼっちのアスカ。彼女は夢を見る事も無く眠り続ける。






「弐号機パイロットの状態はどうなのだ?」

ゼーレの一人が口を開く。 以前のような自身の姿を映し出したホログラムでは無く、 今は一枚の大きなモノリス。その為、その表情は誰からも窺い知る事は出来ない。
だがその口調からは焦りと苛立ちを見て取る事が出来た。

(若造が……)

キールは冷ややかな眼でそのモノリスを見つめていた。
こうも口調から感情を滲み出していてはモノリスにしている意味もあまりあるまい。

(奴も危険だな……)

表情は見えねども、その心根は目に見える様に分かる。 恐らくは計画の事などどうでもよく、弐号機パイロットを使って自分の思い通りにするつもりだったのだろうが。
奴も切り捨てねばならんな。
内心で吐き捨てて、他のモノリスに目を移した。

「恐らくは使い物にならんだろう。」
「左様。これで寄り代を変更する必要が出てきた。」
「ロンギヌスの槍、弐号機の喪失。
計画は変更せざるを得まい。」
「碇の椅子は最早ここには無いな。」

対照的に他の者は一切感情を見せない。 見せるとすれば、それは嘲笑の時だけか。
無論キールも感情の一切を隠して口を開く。

「予備を使う。」
「しかし、先日その力を危惧したばかりでは?」
「しかもあのイエローにまだ頼ると仰られるのか?」
別のメンバーがキールに異論を唱える。
だがキールは已むを得ん、と続けた。

「弐号機パイロットは最早こちらで制御出来ん。
だが予備の方はそれが可能だ。」
「……碇の奴に主導権を渡すつもりですかな?」
「碇の裏切りは必至。これ以上奴に力を認める事には、いかに議長のお考えとは言え賛成しかねますな。」
「議長、何をお考えですか?」
「静まれ。」

キールが発したのは決して大きな声では無い。 しかし、重厚な重みを持ったそれは荒れ掛けた場を一瞬の内に静まりかえらせた。

「すでに種は蒔かれておる。」

低い音と共に一対のモノリスが消え、バイザーを着けた老人の姿が室内に現れる。
やや半身で左腕を机に突いた状態のまま、微動だにせず口だけをキールは口を開く。

「予備の方を動かす。」
















第弐拾参話 夢の終わり
















「ただいま。」

古びたドアが開いてレイを迎え入れる。 閉まり際にギギギ、と耳障りな音を立て、レイはわずかに眉間に皺を寄せた。
今度手入れをしてもらおう。
それだけ思って靴を脱ぎ、コンビニのビニルをぶら下げて部屋の方へと向かった。

部屋の中に入ったレイは予想外の寒さに身を震わせた。 家の中だというのにその寒さは外と寸分変わらず、家を出る時も暖房を点けっ放しだったにも関わらず この寒さはおかしい。エアコンの方を見れば稼働中を示すランプは点いており、 近寄って手を当ててみても、暖かい空気はきちんと吐き出されている。
妙に思っているレイに別の方向から冷たい風が当たる。
その方向に目を遣ると、窓枠が風が吹く度にガタガタと音を立てていた。
そう言えば、とレイは出掛けに換気の為に窓を開けていたのを思い出した。 まさかずっと開けっ放しにしておくとは思ってもみなかったが。

「閉めて、と言ったはずですが。」

いささか不満げな表情を浮かべて、レイはベッドの下でうずくまるシンジに声を掛けた。
だが返事は返ってこない。代わりに戻ってきたのは小さな嗚咽。
レイとしても特別期待していなかった為、特に気にする事無くコートをベッドに脱ぎ捨てる。
冷蔵庫に買ってきた物を適当に放り込み、そして入っていた弁当を取り出して、レンジにかけた。



突然だった。
夜中に玄関に物音がして、レイが開けるとシンジが立っていた。
だがその目は虚ろで、何も映しておらず、外套も来ていない体は服越しにでも冷え切っているのがレイには分かった。
生気のないその姿はまるで死者の様。そして―――
昼間見たアスカの姿がシンジに重なる。
そんな事は無い。シンジもアスカもまだ生きている。 そして、失わない。
不吉な感情を頭を振る事ではらい、レイはシンジを部屋の中に入れた。

レイは足元さえ覚束無いシンジを座らせたが、どうすべきか思案する。
何故ここにシンジが居るのか、何があったのか。
聞きたい事はあったが、とりあえず、とレイはキッチンへと向かう。
戸棚を漁り、紅茶のパックを取り出してお湯を注ぐ。
憔悴した様子のシンジに対し、何をすればよいか分からなかったが、 ともかく体は温めた方が良いだろう、との考えの元、レイは紅茶を持ってシンジの元へ向かった。
シンジはレイが座らせた状態から身じろぎ一つしていなかった。 変わっていたのはただだらしなく口元を開いたまま床の方だけを見ていた事だけ。

レイは湯気の昇るカップを黙って握らせる。
カップからの温もりがシンジの掌へと伝わり、冷えた体がわずかに暖まった。

「碇さん……」

眼に力は無く、口元も開かれたまま。 だが眼からは涙が溢れ、口からは小さな嗚咽が聞こえ始めた。



グルグルと周っていたレンジが音楽を奏でる。 レイはそれを楽しむ事無く扉を開け、音楽が途切れた。

十分に暖まった弁当を手に、レイは泣き続けるシンジの傍らに腰を下ろした。

「お弁当。ここに置いておくから。」

床に弁当を置いてレイは立ち上がった。 そしてそのままシンジに背を向けた時、背後から聞こえていた嗚咽が止まる。

「……ありがとう、綾波さん。」

返事が返ってくるとは思っていなかったレイは思わず振り返った。
シンジはそんなレイの様子に気付いていないのか、弁当のラップを丁寧に剥がしていく。
それを見たレイは、再びキッチンに向かって紅茶を入れ、 小さくて簡素な白いテーブルを組み立ててシンジの前へと持ってきた。

「これ、使って。」
「うん。ありがと。」

シンジは笑顔で礼を言うと、テーブルを自分の方へ手繰り寄せて弁当を置く。
テーブルの上には紅茶が注がれたカップが二つ。 シンジと向かい合う様にしてレイはカーペットの上に座った。
シンジは黙々と弁当を食べ、レイも何をするでもなく黙ってシンジの様子を見ていた。 先ほどまで泣いていたはずだが、目の前のシンジはそんな素振りを見せない。 眼元にはまだ涙の跡が残っているので、泣いていたのは確かだが。

「……アスカはどうだった?」

不意にシンジが口を開く。視線は弁当へと注がれたままで上げられる事は無い。

「別に。前と特に変化は無かったわ。」
「そっか……」

簡潔に返事をしただけで、再び部屋に沈黙が流れる。
止まった箸が動き始め、箱の底をつつく音がレイの耳に届いた。

「何故……」

再度降りた沈黙の帳を今度はレイから破る。 カチャ、とカップが音を立て、その音に合わせてシンジも顔を上げた。

「何故、ここに来たの?」
「……何だか家に居たくなくってさ。気が付いたら綾波さんの家に居たんだ。」

シンジは伏し目がちに笑う。眼には自嘲だけが色濃く浮かんでいた。

「葛城三佐は?家族じゃないの?」
「うん……そうだね。僕らは家族……だった。」
「……家族、だった?」

過去形で語られた返事に、レイは思わず聞き返す。
だがシンジは小さく笑みを浮かべただけで、それ以上何も言わなかった。

ミサトとの間に何があったのか。 そもそもシンジとアスカは付き合っていたのではないのか。
ミサトは言った。シンジは家族だと。アスカは家族だと。そして自分も家族だと。
家族。血の繋がりを持った、生活を共にする集団。
だけどミサトは言ってくれた。血の繋がっていない自分を家族だと言ってくれた。
いつか読んだ事がある。家族は掛け替えのないモノだと。
その中に自分も加われる。それだけで自分の中の何かが暖かくなるのを感じた。
思った。理由なんてない。だけど、決して失ってはいけないモノだと。
なのに……そんなに簡単に失くしてしまうモノなのだろうか。

レイはじっとシンジの顔を見つめた。
レイの視線を感じているのか、シンジは横目でチラ、とレイの方を見るが そのまま食事を続ける。

家族の崩壊。もし、先ほどのシンジの言葉がそれを意味しているのならば、 原因は何にあるのだろうか。
アスカにあるのか。アスカが入院しているのがその原因なのだろうか。
だとすればひどい間違いだ。レイは思う。 アスカはただ眠っているだけだと。そしてまた帰ってくると。決して家族は崩壊なんてしていない。 私はここに居る。

「……アスカはすぐに元気に帰ってくるわ。」

シンジの言葉を訂正するように、レイはやや強い口調でそう言った。
うん、そうだね。
小さく応えたシンジの顔は、どこか寂しそうにレイには見えた。

「ごちそうさま。」

立ち上がって食べ終えた弁当箱と割り箸をゴミ袋の中へ。
ほんの数秒動いた後、元の位置に戻ってシンジは膝を組んだ。

「ありがとう、綾波さん。
そして……ゴメンね。」

何を謝るのか。
レイは尋ねようとするが、それより先にシンジは膝を抱え、顔をそこに埋める。
程無く、レイの耳にすすり泣く声が再び聞こえ始めた。








     ―――fade away










暗い。何処までも暗い。
眼を閉じたわけでもないのに僕の眼の前は暗かった。
なら瞳を閉じても世界は変わらない。僕は気だるい気分に任せて眼を閉じた。 ほら、やっぱり何も変わらない。
何をやっても変わらない。なら何をやっても無駄。 僕がどれだけ望んでも、望んだ物はするりと手から滑り落ちていく。 手に残るモノなんて何もない。

何故だろう。
僕は自問する。何が悪かったのか。何故僕はこうなのだろうか。
この身に残るのは僕が特に望んでも無いモノだけ。
半端に望んだモノは手に入るのに、心から望んだモノはどれだけ努力しても手に入らない。

普通の生活を望んだ。手に入らないから異常なセカイを欲した。
両親に囲まれた生活がしたかった。出来なかったから親なんて居ないと思い込んだ。
血の繋がりなんて無くていいから、家族が欲しかった。 一度目は裏切られた。二度目は自分で壊してしまった。壊したくなんてなかったのに。

望んだのが悪かったのか。僕が還って来たのが悪かったのか。
あのまま母の温もりに甘えて、エヴァに残っていればアスカを僕は殺さずに済んだのか。 僕の居た家族は僕の居ない家族として継続できたのだろうか。まだ笑いあえてたのだろうか。
次々にわき上がる疑問が僕を責め、僕にヒビを入れる。

違う。僕じゃない。僕の所為じゃない。なら誰の所為?
ミサトさん?―――違う。
綾波さん?―――違う。
アスカ?―――違う。
なら神様?この世に神は居るのか。否、神なんて居ない。少なくとも僕らに都合の良い神なんてものは。
居ればこんなに不公平なわけない。何が平等だ。僕を助けてくれない神なんてくそくらえ。
神は居ない。だから僕は神を責めれない。なら僕はどうすればいい? 誰を責めればいい?僕は僕を責めるしかない。
全ての責任は自己に還ってくる。僕が望んだのが悪いのだと。僕自身が悪だと何かが責め立てる。
だから僕は望まない。何も望まない。望まなければ、こんなにも辛い思いはしなくていいから。

眼を閉じて広がる音も光も無い世界。そこで僕に聞こえてきたのは、誰かがすすり泣く声。
ああ、知ってる。この声はリコだ。彼女は泣いてくれる。僕の代わりに泣いてくれる。 泣けない僕の代わりに。

いつからだろう。僕が悲しい時に涙を流せなくなったのは。
悲しいドラマを見た時、何の関係も無い人の死を見た時なら簡単に涙は出るのに、 僕が悲しくても僕は泣けない。
だからなんだろうか、彼女が僕の中で生まれたのは。
彼女はいつでも泣いている。泣きやむ時なんて無い。 止める時があるとすればそれは彼女が僕の中で眠っている時だけ。

きっと綾波さんは迷惑に思ってるだろう。なにせ自分の家で延々と泣かれているのだから。
不機嫌なのも分かる。リコは泣く事以外しないから。言われた事もしないし、他人にとっては居るだけ邪魔な存在。
だけど黙ってここに居させてくれる綾波さんが、ちょっとだけ嬉しかった。

「碇さん。」

僕らに向かって呼びかける声。でもそれが指しているのはきっとリコでもシンでも無く僕で、 だから僕は眼を開けて暗闇の海を泳ぐ。
暗闇の中で一点、穏やかな光の降り注ぐ場所へ。 そしてそこの中でうずくまってる女の子を見つけた。
近寄って来た僕に気付いたのか、涙に濡れた顔を彼女は上げて僕の方を見る。
同じ僕なのに小柄な体。少し僕より垂れ気味の眼。ふっくらとした頬。
父さんに似てきた僕と違って、リコはあの時出会った母さんの面影が強く出てる。 そして綾波さんにも。

加持さんは死んだ。その原因にはもしかしたら僕が頼んだ事がそうなのかもしれない。
そう考えると陰鬱な気分がまた広がり、僕は半ばリコを押しのける形で表に出た。

「……何?」

嫌な気分を極力押し殺して、簡潔に綾波さんに問う。 でも多分、押し殺し切れて無い。
感情の制御が出来ない自分が恨めしくて、余計に気は重くなった。

「使徒を葛城三佐が目視で確認。至急本部に集合するように、との事です。」










「目標は本日一三〇九時に突如大涌谷上空に出現。 円形ヒモ状の外見を持ち、以後中心点で定点回転を続けています。」
「波長パターンは周期的にオレンジから青へと変化しています。」

マヤさんの報告はマイクを通ってプラグの中に流れ、 だけどもそんなのは僕の耳を簡単に通り抜けていく。
音は音としてだけ存在して、僕の中で意味は持たない。

「どういう事?」
「何の為、またどういう原理で、て言うのは一切不明ね。」
「MAGIも回答不能を提示しています。答えを導き出す為にはデータ不足です。」
「分かるのは形状が固定形体ではないという事と、 A.Tフィールドを常時展開している事くらいかしら?」

発令所で交わされる会話。それらを僕は一切聞いていなかった。
何故、僕はここに居るんだろう?
そんな疑問だけがグルグルと周り続けて、だけど答えは出ない。

人を傷つけるしか出来ない僕。この手でたくさんの人を傷つけた。
鈴原君の妹さんを傷つけた。鈴原君を殺した。ミサトさんを傷つけた。 アスカを殺した。ならきっと次は綾波さんを傷つける。
エヴァ。思えばこれに乗った事がそもそもの間違いだったのでは?
初めは無理やり。でも次からは自分の意志で。こいつにはそれだけの価値があると思った。 傷つく事も多かったけど、それまでとは違った世界を見せてくれた。
麻薬の様に僕の中に入り込んで、快感と絶望を与えてくれる。 使徒との戦いなんて、思えば二の次だったのかもしれない。

でも今はどうだ?シンクロしても何故か前の高揚も無し。 楽しくも何ともない。なのに人を傷つける事だけは僕の中で確定事項。 逃れようも無い重量感を持ったまま僕の中に沈み込む。

「準備はいい?碇三尉。」
「いつでもどうぞ。」

今、きっと僕はひどい顔をしてる。だから僕は発令所との映像回線を遮断して、声だけを届けた。
正直、発令所の指示は何も聞いてない。
戦闘が終わったらこっぴどくミサトさんに怒られるだろう。
でもそれでもいい。もう全てが面倒。殴られようがなじられようが構わない。
どうせ結末は変わらないんだから。

僕の素っ気ない返事。だけどミサトさんは何も言わない。
僕もミサトさんの方を見ない。僕はもう、何も感じない。















    a nuisance―――









アルミサエルは待っていた。
いつからか、どれ程の時を待っていたのか。そもそも何を待っていたのかさえ最早分からない。
分かるのは、何かを待っていた、という事実のみ。
時は時として意味を成さない。悠久の時をただ眠って過ごしてきたのだから。

全にして一。
単体にして完全体と言える存在。 遠い昔に産み落とされてから、ただ一人で生きてきた。 長い眠りから覚め、そして魂を引き継ぎながら何かに急かされる様に目指した場所はここ。
場所は変わらない。しかし求めたモノは増えた。
何かが湧き起こる。
何かが去来する。
それが何か、自覚する事は出来なかった。 だがそれが通り過ぎた瞬間、暖かさが過る。 そして一瞬のそれと共に寂寥感。

アルミサエルはくるくると回り続ける。 その動きは苦しみを抑える様で、来る予感を楽しみに待つ様で。

そして時は来た。

引き伸ばされたゴムが弾ける。
一本へと形を変えたアルミサエルは真っ直ぐにその場を飛び出した。







地上へと昇っていく零号機を見ながら、ミサトは胸騒ぎに襲われていた。


今回は第三新東京市からやや離れた場所に使徒は居る。 そこで使徒は定点回転を続けるだけで動く気配はない。 かと言ってそのまま黙って見ているわけにもいかない。

こちらのエヴァは二機。普段より一機少ない状況で、しかも兵装ビルの援護も無ければ 遮る壁となる物も無い。
こちらから動くか、それとも敵の動きを待つか。

ミサトは悩んだ。迂闊な判断は出来ない。こちら側はすでに一体エヴァを失っているのだから。
チラ、とシンジの方を見る。
顔にこれといった表情は無い。 だがそこにはある種の諦観がミサトには見てとれた。
何も、期待していない。何も欲しない。ただ漫然と時を過ごす。 そんな風に見える。
視線を下に落とす。
全て自分が壊してしまったのではないか。不意にそんな思いに駆られた。
シンジ、レイ、アスカと過ごした家族としての日々。 それらは予想もしない程に容易く崩壊してしまった。

あの日、何故自分はシンジと寝てしまったのか。
いや、理由など分かり切っている。寂しかった。辛かった。
加持の死。
職業柄、いつこうなるか分からない。覚悟は出来ていたはずで、 しかも自分達はもっとドライな関係なつもりだった。
お互いを愛してる。だが純粋な愛に溺れる程子供でも無い。
なのに。
なのに、ミサトは耐えれなかった。足元が崩れ、世界が歪む。
気が付けば一人泣き濡らし、シンジに縋りついていた。

「ミサト。」

リツコの声にミサトは我に返った。
不安げな表情を隠し、顔を上げる。
揺れるミサトの瞳に映っていた足元がひどく不安定に思えた。

かすかに過る弐号機の姿。天からの光の中、もがき苦しむアスカ。
あの日からミサトの耳にアスカの悲鳴がこびりついて離れない。
動くか、動かざるか。
シンジとレイの顔を交互に見比べる。

ミサトは二機の発進を指示した。




「目標の波長パターンに変化!!」

マヤが叫ぶ。言うが早いか、発令所のモニターは姿を変えるアルミサエルの姿を捉えていた。
一繋がりだった体が途切れ、次の瞬間にはミサト達の視界から消えた。

「レイ!!」

ミサトは弾かれた様にレイに向かって叫んだ。
レイが出る場所は山裾。目視で確認は出来ない。
レイもミサトの声に無言で頷き、警戒を強める。 説明などしている時間は無い。だが詳細は分からずとも良い。 少なくとも無防備なままでのダメージは避けられる。

光が瞼を焼く。地上に出てレイは使徒の動きに身構えた。
しかし正面の開けた場所からは何も出てこない。 自然、無意識にレイの体から力が抜けた。

轟音が響き、レイの視界が岩の塊で埋まる。
そして鈍い音。腹から伝わる激痛。全身に広がっていくおぞましい寒気。
閉じかけた瞼を強引に開き、レイは自分の腹部を見た。
衝撃を受けてわずかにへこむプラグスーツ。 そしてそこから全身に向かって徐々に筋の様な物が浮き上がっていった。

筋が間欠的に広がる。その度にレイの中を虫が這い回る感覚が襲う。 次いで激痛。レイの口から小さく悲鳴が零れる。

レイを貫いた白い光。それは零号機の腹から山の中へと伸びていた。




「初号機、急いで!!」

ミサトから叱責にも近い怒声が届く。
予想外の事態。先の使徒戦の様に、広範囲に影響が及ぶ可能性を考慮して二機を分けて配置したのが仇となった。
ミサトの見ている前で、使徒は少しずつ零号機の中へと潜り込んでいく。
山裾からはみ出した使徒の一部。それがドクドクと脈動し、ひどく気味悪い。

「くぁっ……」

耐えるレイから苦痛の声が漏れる。
その頻度が高まるに連れて、ミサトとリツコの表情が険しくなっていく。

「早く!!」

爪を噛んで待つミサトの前に、ようやく初号機の姿が映し出される。
シンジは何も言わず使徒に向かって手に持ったナイフを振り下ろす。
うねうねと動き回る白い表面に突き刺さり、切り裂かれて紅い体液が溢れだす。
そして悲鳴も。

「きゃああああぁぁっ!!」
「なっ!?」

ミサトはレイの悲鳴に驚き、慌ててマヤの方を見る。
マヤもミサト同様大急ぎで手元の端末を操作し、驚愕の声を上げた。

「そ…んな……
目標と零号機の生体融合率が30%を超えています!」
「零号機からもパターン青を検出!!」
「何ですって!?」

ミサトがモニターへ視線を戻すと、初号機によって切り裂かれた箇所が見る見る間に自己修復していく。
出血が止まり肉が盛り上がる。不格好に変形した一本の光る糸。その一端が姿を変える。
ミサトは息を飲んだ。一瞬の内に体中に鳥肌が立ち、血の気が引く。
傷ついた体。そこに幾つものレイが浮かび上がる。
不気味な笑い声がマイクを通じて発令所に響き渡る。
あれは、レイでは無い。誰もがそれを理解し、だがそれを口に出来ない。
色こそ違えど姿形はレイそのもので、だからこそ割り切れないでいる。

一つ、また一つと生まれる。大声で笑っているレイ。 クスクスと顔を伏せて笑うレイ。ポロポロと涙を流すレイ。 無表情のまま黙して語らないレイ。様々なレイがうごめく。
そしてその中でプラグの中のレイも涙を零し続けていた。












NEON GENESIS EVANGELION 
Re-Program



EPISODE 23




You Are Not only One.
















第三新東京市の各所に設けられた地下シェルター。その中の一つ、775シェルターにカケルは避難していた。
皆が集まっている広間から離れ、備え付けの自動販売機に硬貨を入れる。 本当は人数確認の面から、勝手に動き回ってはいけないのだが、今はそれを注意する人は居ない。
買ったジュースを取り出して通路から元の広場へと戻り、全体を見渡してみた。

(少なくなったな……)

基本的にこのシェルターは第壱高校、第壱中学全体が避難する。 ほんの半年前には、こうやって避難する度に満員になっていた。
だが今はどうだろうか。級友たちは皆疎開し、残っているのは自分みたいな親無しか、 病気か何かで動かせない家族が居るものくらい。それともドンパチが好きな物好きか。
カケルには、特別親しい友人は多くない。だが騒がしかった空間が静まり返る。 その事に少し寂しさを覚えた。

(トオルの奴はちゃんと避難出来たんかな……)

カケルは病院に居る彼女に想いを馳せる。 これまでも避難の際には病院に頼んで避難を任せ、きちんとそれが行われてきた。
それでも不安は不安だった。何度同じ場面になってもそれには慣れない。 自分が避難する度に彼女も出来ているか、心配で仕方無かった。

(碇の奴も……)

戦っているのだろうか。
予め陣取っていた場所に戻ってくると、今度は数少ない親友の事を思い出す。
もう何日もシンジを見ていない。今までも何日も、ヘタをすれば数週間見なかった事もあるが、 その時はきちんと学校にも連絡がいっていた。
しかし今回はこれまでとは違った。担任に聞いても知らないと言う。
何かがあったのか。
天井を見上げる。まだ戦闘の様な音は聞こえてこない。 その事が妙にカケルを不安にさせた。

「カケル君?」

掛けられた声にカケルは振り返る。するとそこにはコダマが立っていた。
そして傍らには妹のヒカリとノゾミが。

「よぉ、洞木。」

軽く手を挙げて応える。コダマは妹二人から離れるとカケルの前まで歩み寄った。

「ここカケル君の場所?」
「ん?ああ、そうだけど?」
「私達今来たところなんだけど、隣に座っていい?」

言いながらコダマは両手に持っていた荷物をカケルの隣のスペースに置き、中からブルーシートを取り出して広げ始める。
カケルとしても別に断る理由も無かったので、そのまま黙って腰を下ろす。
コダマは立ち上がって、ノゾミに手を引かれているヒカリを座らせた。

「……カケル君は疎開しないの?」
「まあな。」

俺はまだ離れる訳には行かねえしな。
内心で呟き、だがその理由は他人にそうそう言う話でも無い。
金もねえし、とだけ答えると、反対にコダマに尋ねる。

「ウチはお父さんが研究所勤めだし、ヒカリがね……」

そう言ってコダマは隣に座らせたヒカリを見る。
ヒカリは震えていた。顔を伏せて何かに耐える様に、だがその震えは傍で見ているカケルにもはっきり分かるほどだった。
両手を姉妹二人に握られているが、震えは止まらない。

「普段は大丈夫なんだけどね。こういう事が起こると止まらないみたいなの。
その癖疎開は嫌だって言い張るのよ。」

コダマは呆れた様に溜息を吐く。

(コイツも被害者か。)

理由は分からないが、よっぽどの理由があるんだろう。
だが、俺には関係ない事だ。
一瞥しただけでカケルは再度天井を見上げ、同じ様にコダマも鋼鉄の空を見つめる。

「……碇君達、戦ってるんだよね?」
「ああ、碇も惣流さんも。」
「後、綾波もですよ。」

後から聞こえてきた声に、ヒカリを除く全員が振り向く。

「委員長。」

ケンスケは三人の視線を抜け、ヒカリの前へ来るとしゃがみ込み、目線をヒカリに合わせる。
ヒカリはケンスケの声にも反応を示さず、俯いたまま。 それでもケンスケはヒカリに語りかける。

「……俺も辛かったよ。トウジの奴が死んだなんて信じられなかった。
散々泣いたし、今でも学校に行ったらトウジがジャージ姿で座ってるんじゃないかって思うよ。
でもさ……」

そこでケンスケは一度言葉を区切る。その表情は今にも泣き出しそうで、それでも必死に 耐えようとしているのがカケルにも分かる。

「俺、決めたんだ。どんな時だって顔を上げていようって。
俺らはトウジを亡くしてしまったけど、綾波だって碇さんだって 俺らと違ってトウジの死を背負ってしまったんだって、そう思う。
なのに俺とか委員長がいつまでも引きずって、綾波達を恨むなんて、 そんなの出来ないよ。」
「相田君……」

震えながらもヒカリは顔を上げる。
そしてその瞳からは涙が零れ始めた。

「トウジだって戦闘が大変な事だって分かってた。
それでもアイツは選んだんだ。
トウジの奴、いつも言ってた。綾波や碇さん、惣流さんが頑張ってるのに、自分は何も出来ないのが辛いって。
トウジは出来る事を見つけた。結局、力にはなれなかったみたいだけどさ。でも後悔は無いと思う。
俺らは何も出来ない。だけど三人と居る場所をずっと守れるんじゃないかって、そう思うんだ。」

かなりくさいセリフだよな。そう言ってケンスケは泣きながら、恥ずかしそうに頬を掻く。
ヒカリも涙を流しながら、頷く。震えは止まっていた。

二人の様子を笑顔で見守るコダマとノゾミ。
そしてカケルは苦笑いを浮かべ、その場に寝転んだ。

本当にくさいセリフ。シラフじゃとても言えやしないな。
でも、悪くない。

俺に出来る事はなんだろうか。カケルは眼を閉じて考える。
あの二人じゃないけど、笑って碇とアスカちゃんを迎えてやるか。勿論からかい100%で。
眼を開けるとやはり視界に入るのは天井。世界は変わらない。
それでも。
不意にカケルの中から笑いがこみ上げてくる。
この世界も悪くないかも。そう思った時、不安が少しだけ和らいだ気がした。








水面に一つ波紋。何処までも湖は広がっていき、端は見えない。
何処からか落ちた波紋はさざ波となって無限に伝わり、 反射する事も無く消えた。

レイは水の中に立っていた。 気が付けば使徒の姿は無く、エントリープラグの中でも無い。 先ほどまでの景色は無く光も無い。だが水面だけはLCLの様に紅く淡い光を発していた。

「貴女は誰?」

不意に掛けられた声に振り向く。蒼い髪、白い肌にプラグスーツ。
顔は伏せられ、前髪に隠されて見えない。だが紛れも無い自分がそこに居た。

「私は私。綾波レイと呼ばれるモノ。」
「貴女は何?」
「エヴァンゲリオン零号機パイロット。マルドゥック機関によって選ばれた最初の適格者。」
「貴女は誰?」
「私は私。たくさん居る綾波レイの中の一人。」
「貴女は誰?」
「私は私。紅い水の中で生まれたモノ。」

次々に眼の前のレイから質問が投げかけられ、自然とレイの口は答えを紡いでいた。
一つ、また一つと問い掛けられる。その度に静かな水面は波紋を広げる。 波は次第に高さを変え、無いはずの寄る辺からレイの元へと押し返してきた。

「貴女は何処に居るの?」
「私は……」

単純なはずの質問。だがレイの口から答えが出てこない。
私はここに居る。こことは何処?何処に私は居るのか?
エヴァの中?―――違う。
第三新東京市?―――違う。
ネルフ?―――違う。

波はますます高くなり、くるぶしまでしか無かった深さはいつの間にか膝まで来ていた。
弱々しかった波は姿を変えてレイを押し流す。レイは踏ん張ろうと両足に力を込めるが、じりじりと流され始めていた。

「貴女は何故そこに居るの?」

何故自分はここに居るのか。そもそも自分はここに居るのか。
問いは更なる問いを呼び、水面を波が激しく打ちつけた。

「貴女は何処に居るの?」
「貴女は何故そこに居るの?」
「貴女は誰?」
「貴女は何?」

同じ質問が繰り返しレイを苛む。
一言一句変わらぬ問い。だが繰り返される度に重みは増していく。

ピシリ、と何かにヒビが入った。
ヒビはレイの体を駆け巡り、スーツ全体をクモの巣の様に一瞬で覆い隠した。

「貴女は何故泣いているの?」

ポタリ。涙が零れる。
それは痛みか、それとも辛さか。
否。レイは理解した。

「そう……寂しいのね。」

もう一人のレイの言葉をきっかけに、涙が止め処なく流れる。
際限なく涙は頬を濡らし、両手で幾ら拭おうとも止まる事は無かった。





「ああああぁぁぁっ!!」

叫び、空気が捻れる。
もがき苦しみ、手足を乱雑に地面に打ち付ける。
零号機のその様はまるで先の弐号機の様で、だが子供が泣き叫んでいるかの様にも見える。

気付かなかった。レイはプラグの中で泣き叫ぶ。
何故自分は問いに答えられなかったのか。何故、自分がここに居る、と断言出来なかったのか。
答えは単純。「ここ」に居ると思えなかったから。
私の体はここに居る。でも私の存在はここに居ない。
ずっと私の中にあったしこり。乏しい、私が私であるという実感。
どれだけ本を読み、周りの景色に目を向けてもココロの隙間は埋まらなかった。
たくさん居る自分。多量に居るからこそ薄められる感覚。 そしてそれがもたらす感情。
孤独、寂しさ、寂寥。冷たい風だけが自分のココロを満たしていく。

「くぅっ……!」

レイは胸を抑える。零れ落ちる自分の中の何かを落としてしまわない様に。
苦しい。痛い。その思いだけがレイの頭を占め始めた。

零号機は手を伸ばす。空に向かって、震える腕を懸命に伸ばす。
宙に浮いた手は何を望み、何を求めているのか。

「あっ、う、わあああ……」

両手で何かが零れ落ちるのを防ぐ代わりか、口からは嗚咽が絶え間無く落ちる。
モニターの向こうには、自らに姿を変えた使徒が微笑みかけていた。
自分で自分へ向ける笑み。なんて、空しい。
それでも。
両ひざを突き、ともすれば崩れ落ちそうな両腕は必死で目の前の自分を求めた。

「っ!?」

突如として感じる、掴まれる感覚。涙に濡れたレイの眼に入って来たのは初号機の腕だった。
自分の体に浮き上がった血管の様な模様が、初号機の腕を伝っていく。
それでも初号機の腕に込められた力が緩められる事は無かった。 ずりゅ、と音を立てて使徒が零号機の体から引き抜かれていく。 そしてその度にレイの体に更なる孤独感が襲いかかっていった。

「あ、ぐ、いやぁ……」

無意識にレイの腕は初号機の方へと伸ばされていた。正確には使徒の方へと。
そして静かに壁は失われていく。



最初に異変に気付いたのはマヤだった。
聞こえてくるレイの叫びに耳を塞ぎ、戦闘の様子を映し出す主モニターからも目を逸らしていたが、 手元の端末に表示されていたA.Tフィールドの広がりを見て、マヤは目を疑った。

「何…これ……?」

消えていくA.Tフィールド。零号機を中心として放射状に広がっていった。
傍目には通常の中和と変わらない。 だが位相を表すグラフは明らかにこれまでとは異なり、そしてマヤにはそれが理解出来た。

「っ!センパイ!!」

マヤの声にリツコもグラフに目を移し、そして絶句した。
次いで視線は主モニターに。
リツコの眼に映ったのは、色を徐々に変えていく芦ノ湖の水面。青から黄、そして紅。
別のグラフは、すでに芦ノ湖から生命反応が失われていた事を示していた。

「レイッ!!」




「ハッ!」

ゲンドウの声に反応して、レイの意識が戻る。
そして使徒へと伸びていた零号機の腕に気付き、すぐにそれを引っ込めた。
今、何を自分を考えていたのか。
全てを求め、全てを自分のモノに。 どこまでも自分で、そこに境目は無い。
足元をレイは見た。色の変わってしまった湖を見た。
それは自分が長く過ごしてきた容れ物と同じ色。全ての始まりであり全ての終わり。 そこには何も存在しない。他人が存在しない。そして、自分というモノが存在しない。

不意に蘇る記憶。
学校での授業。ほとんど話す事の無かったクラスメイト。 言葉を交わす事の多かったヒカリ、ケンスケ、トウジ。ネルフで出会った人。 家族と自分に言ってくれたミサト。自分を助け、ありがとうと言ってくれたシンジ。 姉の様に色々教えてくれたアスカ。
他人の存在が自分を形作り、自分もまた他人の一部。

(私は……居たのね……?)

私は何処にでも居る。ここにも居る。自分が誰かの中に居る様に、誰かの中に確かに自分は居る。
そして誰かの中にはまた他の誰かが居る。そうして世界は何処までも一つに。
寂しさを感じる必要なんて、何処にも無い。

苦しみに歪んでいたレイの顔に、笑顔が浮かぶ。
引っ込めた腕を再度伸ばし、力強く自身からはみ出した使徒を掴んだ。
腕を再び模様が浮かび上がる。だが今度は、代わりに初号機に浮かんだそれが吸い込まれる様に消えていく。

「綾波さん……?」

すでにモニターは機能していない。マイクだけが音声を拾い、レイに届けてくれる。
シンジの呼び掛けに、レイは映らないモニターに微笑みかける事で応えた。
腕に力を込める。苦痛に顔が歪む。快楽と苦痛が同居する中で、レイの体が大きくのけ反った。

「生体融合率、80%を突破!!」
「使徒を抑え込むつもり!?」
「レイ!何をしてるの!?止めなさい!!」

リツコとミサトの声はきちんと届く。
良かった。
心からレイはそう思った。

使徒は全て零号機(自身)の中に取り込んだ。
後は自分諸共消えていくだけ。だけど機体を自爆させる事は出来ない。そんな事をすれば、 みんな消えてしまうから。

「碇さん……」

か細い声でレイはシンジに呼び掛けた。思った以上に小さい声に、レイはきちんと届いたか気になったが、 返事はすぐにシンジから返ってきた。

「分かってる……」

レイと同じく消えてしまいそうな声でシンジは呟いた。
レイもそれ以上何も言わない。使徒を介して繋がった時、全ては伝わっているのだから。
無言のまま、初号機はプログナイフを装備した。狙いはただ一ヶ所。全てが一つになった零号機のコア。

「止めるんだ!シンジ君もレイちゃんも!!」
「止めなさいっ!
初号機と零号機のシンクロカットは!?」
「そんな……!ダメです!!全ての信号受信がエヴァから拒否されてます!!」

腰溜めの体勢から一気に加速する初号機。

「レイっ!!」

自らに迫る刃を見ながら、レイは心の中で呟いた。

(ゴメンなさい……)

そこでレイの意識は途絶えた。










     ―――fade away








僕は天井を見上げていた。 病院のベッドでも無く、ミサトさんの家の天井でも無く、いつもと同じ自分の部屋。 そして隣には誰も居ない。
人は慣れる。例えそれが嬉しい事でも辛い事でも、そして悲しい事でも。
僕は軽薄な人間だ。 だから悲しみは人一倍早く慣れてしまう。
あれだけ深かった悲しみも、アスカを失った衝撃も、もう全て過去の物になってしまった。

寂しさは心の中に隠れ、涙はリコだけが流す。
僕の生活はいつも通り。違うのは、もう一人だと言う事だけ。

いつもより固く感じるベッドの上で僕は自分の手をかざす。 思い出されるナイフが刺さる感触。人の命を初めて奪う目的で僕はナイフを振るった。
命を奪うにしてはあっさりとしていた。そして、感触と同じ様に命も。

だけど、綾波さんは生きていた。確かに生きていた。
なのに……彼女は別人になっていた様な錯覚を、僕は見た時に覚えた。



病室で彼女は眼を覚ました。
怪我も無く白い肌はそのままで、静かに両目を開けて彼女の特徴的な紅い瞳が現れる。
意識がはっきりしないのか、二、三度瞬きを繰り返し、体を起こすとベッド脇に座ってた僕の方を見た。

「……無事で良かった。」

そう話し掛けたけど、彼女からの返事は無かった。
綾波さんの寝起きは悪い。何度か彼女の寝起きの様子を見た事があったけど、しばらくは足元も覚束ないほどだった。
だから今回もまだ目が覚め切ってないのだろう、と当りをつけて、 意識がはっきりするまで僕は椅子に座ったまま待っていた。 そしてその間、綾波さんはこっちには聞こえない程の小さな声でブツブツと呟いてたけど、 やがてそれが一段落したのか、こちらを向いて口を開いた。

「貴方は碇三尉?」
「?そうだよ。他の誰に見えた?」

まだ寝ぼけてるのか。
綾波さんが無事だったのと相まって、僕は安堵の溜息を吐いた。
やれやれ、と頭を掻きながら顔を上げ、そしてその時初めて彼女と目があった。

こちらをじっと見つめる双眸。 その目は見慣れぬモノを観察している様で、でもそこに悪意は無くて、 ただ知らない物を知ろうとする純真さだけがあった。
そんな眼に圧され、僕が口を開けないでいると彼女は興味を失ったのか、 僕から視線を外し、何も無い正面を見据えた。

「いえ、知らないだけ。私は多分二人目だから。」



二人目。あれは、どういう意味だったんだろうか。
死んだ母さんと瓜二つの綾波さん。二人目だという本人。そして誰も知らない綾波さんのバックグラウンド。
加持さんから貰ったあのチップはまだ再生してない。 あの中に、どんな情報が入っているのか、僕はまだ知らない。 綾波さんの情報が入っているのか、それとも新たに分かった事実が書き込まれているのか。
でも確信は無いまでも、何となく想像はついてる。
ここに来て8か月が経つ。その間、これまでの常識が覆る様な事はいくつもあった。
それに、ネルフには怪しいところが多い。 人道に配慮なんて言葉は何処かに追いやられて、倫理上問題ありそうな事なんて腐るほどあるに違いない。
それに関しては僕は特に何も思わない。 それも、特に僕に損得が関係無いからかもしれない。

寝転がってると、枕元の携帯が鳴った。 表示された番号を僕は知らない。
どうしようか一瞬迷ったけど、とりあえず出てみると、携帯から聞こえてきた声はやっぱり知らない男の人だった。

「加持二佐の件で話をしたい。」

出てこれるか、との問いに僕はイエス以外の答えを持たなかった。



「加持二佐から頼まれたんだ。」

外に出た僕を待っていたのは黒服にサングラス。見なれた諜報部っぽい人だった。
促されるままに車に乗り込み、しばらく走り出した後で彼は話し始めた。 名前を尋ねたけど、それは職務上の理由で断られた。 そこは特に拘るところでも無かったので、僕も続きを促す。

「君はもう加持二佐から送られた中身を見たか?」
「いえ、まだです。
まずかったですか?」
「いや、気にしないで良い。どちらにしろこれから見てもらえば全て分かる。」

つまりは心構えが出来るかどうかの違いか。
緊張に喉が鳴る。だけど運転する彼は僕に注意を払う事無く、前だけを見てる。

「加持二佐から、もし自分に何かあった時には君を連れて行く様に言われた。
葛城三佐と赤木博士には極秘にする様に、との注文付きでね。」

ミサトさんにもリツコさんにも秘密。これは、どう解釈すればいいんだろうか。
二人に知られたらまずいのか、それとも知らせないでいる方がいいのか。
そもそも僕に見せたいと言っても、僕に直接関係があるのか、それとも僕が加持さんに頼んでた事に関係があるのか、 それさえもはっきりしない。
横の人に尋ねてみても、詳細は知らないらしい。 ただ自分は頼まれただけだ、と繰り返すだけだった。

周りの景色は見慣れた景色で、車に乗って一通り話が終わると、それから間もなくネルフに着いた。

「今から十分後、カメラは全てダミーの映像に切り替わる。その間にここに書かれている通りに すれば目的の場所に着ける。」

男の人はそう言って僕に一枚の紙とカードを差し出した。
書かれていた指示は簡潔で、一通り目を通したか確認すると、彼はライターで紙に火を点けた。

「もうすぐ時間だ。そろそろ向かった方が良い。」

証拠隠滅だろうか。
足元で燃えている紙くずを見ながら、言われるがまま僕はその場を後にした。








    a nuisance―――








男はシンジがゲートをくぐり抜けたのを見送ると、懐から携帯を取り出した。
番号を確認するまでも無く、慣れた手付きで番号を押し終えて携帯を耳に当てる。 程なくしてコール音が途切れ、雑音に紛れて返事が返ってきた。

「サードが侵入した。手はず通りにやれ。」
『了解。』

短く応答を終えると携帯をまたスーツの内ポケットにしまい、車に乗り込んだ。
真黒なサングラスを外すと、その下からは青い透き通った瞳が露わになる。 次いで右手でエラに手を掛け、勢い良くフェイスマスクをはぎ取った。
鬱陶しげにやや長めの前髪を掻き上げ、はぎとったマスクを後部座席に放り投げた。

「全てはゼーレの為に……」

男は小さく洩らすと、車を急発進させる。
誰も居なくなった後には、燃え尽きた紙が風に吹かれて舞い上がっていた。







     ―――fade away









言われるがままにネルフに入ったけど、その雰囲気は何処か不気味だった。
今僕が歩いている通路は元々人通りは多く無かったけど、 今は全く誰も居ない。
誰も居なくても珍しくは無いのかもしれないが、 こんな風に思ってしまうのは、今からする事に後ろめたさを感じているからかもしれない。

紙に書かれてあった通りにD-13通路の突き当りのエレベーターに着く。 ぴったし十分にはまだ一分程あるけど、まった方がいいのだろうか。
そう考えていると、突然エレベーターの階数表示が動き始めた。
誰かが使っているだけかもしれないのに、それだけで少し僕の心臓が跳ねる。
緊張しながらエレベーターの動向を見ていると、音を立てて僕の前で扉が開いた。
中には誰も乗って無かった。
時計を見ればあれから十分ちょうど。つまりこれに乗れと言う事だろうか。
周りを確認してエレベーターに乗り込む。 そしてポケットから貰ったカードを取り出し、階数ボタンの下のカバーを外すと、 本当にカードリーダーが現れた。

(まさかホントにこんなのがあるなんて……)

驚きながらもリーダーにカードを差し込む。 すると、ボタンを押してもいないのに突然エレベーターが動きだした。
ゴク、と喉が鳴る。
バクバクと音を立てる心臓に手を当てて深呼吸を繰り返した。

(いくぞ……)

開いた扉から一歩踏み出す。 鬼が出るのか、蛇が出るのか。暗い廊下を僕はゆっくりと足を進める。
そして現れた部屋。プレートに書き込まれた文字は古ぼけていたけど、はっきりと読める。
人工進化研究室第三分娩室。
その名前に、綾波さんの姿が浮かんだ。

(やはり彼女は……)

母さんのクローンなのか。
さっきと同じカードをまたリーダーに通す。
ピー、と甲高い音が静かな廊下に反響して、扉がゆっくりと開いていった。



「っ!?」

扉が開いて、僕を出迎えた光景は想像を絶するものだった。
部屋の中心には空の円筒状の入れ物。人が一人は余裕で入る大きさで、中はLCLで満たされてて、 それを取り囲む様にガラス窓が部屋の壁全体に広がっていた。
そしてその中には―――綾波レイが居た。
何人も何人も居る綾波さん。おびただしい数の綾波レイがLCLの中を漂っていた。

浮かんでいる綾波さんは皆、同じ顔をしていて笑みを顔に張り付けていた。
そこに感情は無くて、籠められていたのはひたすらの空虚。 何も無い綾波さんがそこには居た。
同じ人間が何人もそこに居る。その事実はおぞましさを感じさせ、僕は思わず息を飲んだ。

「これは……」

まさかこうなってるとは予想していなかった。 確かにクローンであるなら一体しかいない保証なんて無かった。 むしろ一体であるはずがない。僕らは常に死と隣り合わせだった。 もし、代わりが用意できるなら何体でも用意するはずだ。

通常ならあり得ない光景。 同じ顔がいくつも並んでいるその景色は、嫌悪と気持ち悪さしか感じさせない。
だけど僕はそれから目を離せない。
ガラス窓をなぞる様にして僕は部屋の中を廻る。

やがて窓が途切れる。そしてもう一つの扉がある事に僕は気が付いた。
取っ手に手を掛け、僕は何気無くその扉を押し開ける為に力を込める。
瞬間、寒気が背筋を駆け巡った。
ヤメロ。僕の中で何かが叫ぶ。警報を鳴らす。
だけど、全てが遅過ぎた。




開かれた扉の中にあったのは同じ物。 円筒形の入れ物に、周囲を覆うガラス窓。
でも違った。
綾波さんが居た水槽に漂っていたのは……僕だった。

何も映していない瞳。零れ落ちた感情。
虚ろな視線は、ただ空だけを見つめていた。

「あ……」

思い出される記憶。死にかけた僕に掛けられた綾波さんの言葉。

『気付いてないのね……』

アレが意味してたのは何だ?何に気付いてないんだ?
もし……もしあの時、僕が死にかけたんじゃなくて死んだと仮定すれば……

「僕は……誰だ?」

僕は死んだ。碇シンジは死んだ。なら今ここに居る僕は二人目? そもそも僕が死んだのは一度だけなのか?これまでに何度も死んで、その度に新しい体に入れ替えられていた? いつから僕は僕だった? 僕は本当に僕なのか?こいつらは僕なのか?形だけ同じでそれで僕と言えるのか?
僕は……何処に居るのか?

ぐにゃりと世界は歪む。全てが砂上の楼閣であり、全てが偽りの世界。 何より僕自身が偽りの存在。
砂の城は容易く崩れる。足元が崩れ、まっすぐ立っていられない。

顔を覆う指の隙間から見える、ガラスの向こうの碇シンジのカケラ達。
その中の一人が僕を見下ろしていて、そして、そいつは口元を歪めた。

『お前が死んでも代わりは居るんだよ。』












「ああああああああああああああああああああああっ!!!!」




























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