―――ママ!

彼女は駆けていた。
人混みを抜け、道を渡り、川を越えて彼女は走った。

―――ママ!

彼女は賭けていた。
もし、もしも自分が頑張って合格したならば自分とママはもっと幸せになれるのだと。 ママと一緒にまた、昔みたいに毎日暮らして楽しい日々が始まるのだと。

―――ママ!私、なれたんだよ!

そして彼女は賭けに勝った。
厳しい審査に通り、並居るライバル達を蹴落としてエヴァンゲリオンのパイロット候補に選ばれた。
丘を越え、砂利道を走り、幾度となく転ぶ。その痛みさえも彼女にとって心地良い。
彼女の幼い胸は希望と達成感で満ち足りていた。

―――だからママ!これからはずっと一緒だよ!

病院のドアを開けて駆け込む。
後から看護婦の怒鳴り声が聞こえてくるが無視。
目指すは13階の1313号室。 エレベーターを待つのも惜しくて、階段を駆け上がる。 眼の前には1313のナンバープレート。
扉は開け放たれた。

―――ママ!!

ビシャ!
紅く染まる視界。白から紅に彩りを変える病室。
ヒトガタをした何かからボタボタと零れ落ちる紅いそれは、 生暖かい熱を以て彼女の全身をも染めた。
ビチャビチャ。
ポタポタ。
異なる速度で二つの体を流れ落ちる。
粘りを持ちながら零れ落ちる紅い雫を彼女は不思議そうに見つめ、 そして顔を下から上へと向けた。

そこには母が居た。
優しくて、いつも自分に笑いかけていた母。 だが今彼女の目の前に居る母は全身を真っ赤に染め、首から飛沫を上げながら口元を歪めていた。

―――アスカちゃん

そして母は手を振り上げた。










「はぁっ!!っぁ…はぁはぁはぁ……」

荒い呼吸を整える事も無く、アスカは跳ね起きると部屋を見渡した。
カーテンのわずかに明いた隙間から月明かりが差し込み、部屋をほんのりと照らす。 大きく見開かれた目に映るのは机に箪笥に鏡。 薄暗くも、見えるのはいつもと変わらない。 それを確認するとアスカはようやく大きく息を吐き出した。

(どうして今更……)

あの時の夢を見たのだろうか。
ずっと忘れていた、忌わしい記憶。 記憶の底に深く沈めていたはずなのに、今ははっきりと思い出せる。
飛び散る血液。紅く染まる母。そしてワラウ。アタシに嗤い掛ける。

母の姿を思い浮かべた途端、アスカの体を震えが駆け巡る。
落ち着き始めた呼吸は再び泡立ち、鼓動が激しく胸を打つ。

「っ……!」

湧き上がる吐き気を無理やり抑え込み、アスカはベッドから立ち上がった。
汗で濡れたパジャマをその場で脱ぎ棄て、一糸纏わぬ姿のまま浴室へ向かう。
乱暴にドアを開け、蛇口を捻ると熱いお湯がアスカの体を流れ落ちる。
項垂れた頭から透明な雫が滴って床に波紋を広げ、 それをアスカはぼんやりと眺めていた。



動けなかった。
アスカの脳裏にケージでの光景が蘇る。
シンジが消え、そして帰ってきたあの日。 アスカは部屋の中から動けなかった。
駆け出していったレイの後ろ姿を見送るだけで、足は動かない。
制御室に居た誰もが歓喜の声を上げる中、アスカは全てに取り残された様な錯覚を覚えていた。

使徒戦では特別役に立っているわけでもない。 シンジとの距離は広がったまま。レイの様にシンジを心配して駆け寄る事も出来ない。
唯一のシンジの秘密であったシンやリコの存在も最早自分だけのものでも無い。
自分は一体何なのか?
昔ならはっきりと主張できただろう。自分は自分であると。 自分の存在はエヴァの為にあり、例えそれが歪んだ自分であっても自分を確認出来た。
だが今はどうなのか?
歪みはそのままで、より中途半端な立ち位置。覚束ない足元。
何処にもいない自分。

いつからこんな風になってしまったのだろうか?
シンジが消えた日?シンジが暗い海に飲み込まれた日?それともシンジと関係を結んでしまった日だろうか。
そもそも何故自分はシンジを求めた?
何故?それは……シンジと自分が似ていると思ったから。
誰かに自分を見てもらいたい。アタシ自身を見ていて欲しい。 それはアタシ達に共通した、歪んだ望みだった。 互いに傷を舐め合う為だけの関係だった。
一人はイヤ。
だけどシンジはもう一人じゃない。だってこんなにもたくさんの人が心配し、帰還を喜んでる。
レイもミサトもシンジの事をきっと心から想ってる。
ならアタシは?アタシに何かあったら……



不意にアスカの頭に先ほどの夢が再びフラッシュバックする。
優しかったママ。笑ってたママ。嗤ってナイフをアタシに振りかぶった……

キュッ。
熱めのシャワーを止め、アスカは浴室を出る。
体を拭く事もせず、雫がアスカの体から滴り落ちる。
張り付いた前髪が視界を隠し、それでもアスカはそのまま自分の部屋へと足を進めた。
月明かりがシャワーを浴びる前と同じ様に部屋をわずかに照らす。
その光を浴びながら、アスカは鏡の前に立った。
濡れた体が自分の正面に浮かび上がる。
ぴったりと張り付いた濡れた前髪の隙間から濁った蒼い瞳が覗く。
くすみの無い、白人種独特の綺麗な肢体を覆う深紅の鮮血。 紅い髪から絶え間無く零れ落ちる母の血液。

部屋に、何かが砕ける音だけが響いた。











第弐拾弐話 終わる世界















煙が立ち上る。
ゆらりゆらりと口に加えたタバコの先では、灰が今にも落ちそうなほどの長さになって、 ぼんやりと天井を眺めてた僕は慌てて灰皿を手元に持ってくる。 が、間に合わずベッドのシーツに落ちてしまい、僕は顔をしかめた。
ベッドからそっと出て、そばのティッシュを取る。
その際に隣で寝ているミサトさんの白い肌が目に入った。
ぐっすりと眠ってて、起きる様子は全く無い。
ミサトさんと暮らし始めてそれなりの時間が経って、ミサトさん自身の事も それなりには知ってるけど、ミサトさんは他人の気配に敏感で、寝てる時でも誰かの気配がするとすぐに目を覚ます。 なのに今は珍しく熟睡してて、それはきっとミサトさんの溜まった疲労の具合を表してるんだと思う。

「う……うぅ…ん……」

小さい寝言だったけど、静かな部屋だと良く聞こえる。
起こしてしまったかと、慌てて顔だけミサトさんの方に目を遣る。
寝言と一緒に寝返りをうつ。そしてその拍子にシーツがずれて、 ミサトさんの胸と、そこにつけられた赤いキスマークが僕の目に入った。

その瞬間僕のモノが勃って、灰を拭いてた手が止まった。
恥ずかしさと興奮による気分の高揚。 だけどそれも一瞬の事で、昨晩の事を思い出したのと同時に、 僕の頭は冷や水を浴びせられたみたいに冷たくなった。








「別れましょう?」

唐突だった。
別に直前まで喧嘩をしてたわけでも無いし、僕自身もそんな事を言われる心当たりが全く無かった。
たまたまネルフでの実験がいつもより早く終わって、 久しぶりにアスカとデートでもしようと誘って、実際にデートをしただけ。 その間に特に何かあったとも思えない。
ただ、このところアスカの元気が無かったのは気になってた。 話してる時はいつも通りを装ってはいたけど、会話が途切れた時にふとアスカの方を見ると 何か思い詰めてた表情をしてた。
何を悩んでるのかは知らない。
アスカの右腕に巻かれた包帯が気になって聞いてみたらそれはガラスで切っただけだって答えてくれたし、 その時の表情と比べて、今は見るからに深刻そうだったし、無理に聞き出すのもどうかと思って 問いかけたりはしなかった。
ただ一時だけでもそれを忘れて欲しいと、 そう思って僕にしては珍しく、自分からあちこちアスカを連れ回した。
そして最後に辿り着いた場所は、第三新東京市の街並みを一望できる丘の上の公園。
夕焼けの空が町全体を照らしていて、僕はこの景色が好きだった。
アスカとも何度か来た事もあって、アスカも口には出さなかったけどこの景色を気に入ってくれたっぽくて、 少しは元気になってくれるかと思って、彼女をここに連れて来てみた。

横に居るアスカを見て想う。
アスカが愛しい。アスカと共に居たい。
そう思って僕は還ってきた。
母さんにひどい事を言って、背を向けて還ってきた。 だから後悔しない様に生きよう。 その想いを胸に抱えて、アスカに笑ってもらえる様、これからは努力をしよう。 そう思ってアスカを僕は連れ回して、実際、その間はアスカも笑ってくれてた。
だから僕も少し安心してた。そしてその所為で余計アスカの言ってる事が理解出来なかった。

「いや……別れて。」

疑問形からお願いへ。だけどもそれは僕には命令に近い形で聞こえた。

「なん……で……?」

かろうじて僕の口から出たのはそんな言葉で、自分でもびっくりするくらいかすれてた。

「驚く程の事じゃ無いでしょ?始めからその程度の関係のつもりだったじゃない。」

お互いの寂しさを紛らわす為だけの関係だったでしょ?
アスカは少し僕から目を逸らしてそう言った。

アスカの言う通りだ。
僕らはお互いを求めた。それは体だけじゃなくてココロでさえも。
でもそれは愛だとかそんな良く分からないモノじゃなくて アスカの、ホント言う通り、寂しさを紛らわす為の関係。
お互いに親の愛を覚えて無くて、誰かに見て貰いたくて、 でも自分達からは口に出して言えなくて。
そんな中で僕らはお互いを見つけた。
慰め合う相手を見つけ、傷を舐め合って、そしてもうその関係は終わりだ。
つまりはそう言う事なんだ。

だけど……僕にとっては違う。少なくとも今は。
始まりはそうでも、僕にとってアスカはもうそんな相手じゃなくて、 寂しいからとかそんな理由じゃ無くアスカを手放したくはない。
アスカの勝気な性格や、コロコロ変わる表情。 怒りっぽくて自分勝手で、だけど寂しがり屋で、時には、僕にジャケットをプレゼントしてくれたりと優しかったりする。
そんなアスカに僕は本当に魅せられてしまってた。

僕はまだ十七で、アスカは十六。愛なんて知らない。 口にするのもきっと大人から見ればおこがましいとか思われるかもしれない。
でも……でも今僕が抱いている感情は、そうなんじゃ無いかって勝手に思ってる。
そこに何の根拠も無い。ただ言えるのは、僕は、アスカと離れたくはない。

「……いやだ。」
「……アタシは別れたいって言ってんのよ。」
「僕は嫌だ。」

ここでアスカを手放したら何の為に戻って来たのか分からない。 アスカの為に、アスカのおかげで僕はこの世界に戻って来られた。
もしアスカを失ったら僕は……

「初めはアスカの言う通りかもしれない。でも……」
「でも今はアタシを愛してる?」

うん、と頷いた僕は顔を上げた。
眼の前にはアスカの顔。普段は明るい笑顔を浮かべてくれてた。
なのに今、彼女は僕に向かって嘲笑を浮かべていた。

「ふんっ……」

鼻で笑う声が僕の耳を打つ。
何と言われようと構わない。僕は僕の気持ちを伝えるだけ。 じゃないときっとアスカはもう一度振り向いてくれない。

「アスカが考え直してくれるなら何度でも言うよ。
アスカ。僕はアスカが好きだ。僕には君が必要で、君が居ないと僕はダメなんだ。」
「……何よ、そのクサイ台詞。どっかのB級映画見たい。」
「うん、今自分でもそう思った。」

口には出してみたけどやっぱり恥ずかしい。
だけどその甲斐あってか、アスカの表情は緩んで、見慣れた柔らかいモノになってた。
よかった……
ホッと一息吐いて胸を撫で下ろす。
はにかんで、アスカの眼を見つめる。そして逸らさない。
大丈夫、大丈夫……
何度も口の中で繰り返しながら、アスカの返事を僕は待った。

どれだけ長い時間が流れただろうか。でもそれはきっとこういう場面では、ホンの数秒。
実際は数秒で、僕にとっては何時間にも感じるほどの沈黙の後、アスカは笑顔を浮かべた。

「でもアタシは必要無い。」









ザッ、ザッと足音だけが聞こえる。 さして遅い時間でも無いのに人の姿が見えないのは、きっとこの雪の所為なんだろう。
日が完全に落ちる頃から降り始めた雪はあっという間に街を白く染めて、 僕の体をすぐに凍りつかせる。

寒い。
そう思うけど温かい物を買おうとか、早く家に帰ろうとか思えない。
冷え切った体をそのままに、一歩、一歩と少しずつ足を進めた。
正直、帰りたくなかった。
ゆっくりと、でも確実に家へと近づいていって、終には玄関の前に僕は立っていた。

眼の前にはミサトさんの家じゃなくて、隣のアスカの家。
最近は二つの家の垣根はほとんど無くなってた。 毎日とまではいかないけど、一緒に皆で晩御飯を食べて、その後リビングでテレビを見たり、 時にはアスカがこっちに泊まり、時には僕もアスカの家に泊まってた。 何度となくくぐった玄関。 なのに、今は固く閉じられて、いつもと変わらないそれが僕を拒絶してる様にも思えた。
呼び鈴に手を伸ばしても僕の手はそこには届かない。
宙だけを掻いて、僕は隣の玄関をくぐった。



六時を回ると外は暗い。
その闇は当り前の様に家の中まで黒く染めて、前は好きだったはずのそれは 容赦無く僕のココロを締め付ける。

(気にするな。昔に戻っただけだ。)

ずっと黙っていたシンがそっと声を掛けてくる。
そう、前に戻っただけ。
そもそもアスカという存在が常に僕のそばに居た、それこそが異常。
周りにはたくさんの人が居て、それでも僕は一人だった。 なのにここ数か月、アスカというそれまでの他人とは違う他人が居て、 それはきっと感謝すべき事なんだろう。
だけど今は……こんなにも辛い。

何が悪かったのか。何がいけなかったのか。
全ての原因は僕にあり、僕が何かを間違ったから辛い思いをする。 悲しさに身を凍らせる。
あの公園から何度自問し、何度振り返ったか分からない。
前向きに生きようと思った。嫌いだった僕を好きになろうと心に誓って帰ってきた。 自分が自分を好きにならなければ他人も僕を見てくれない、好きになってくれないと思って。
それがこの結果。
まだ戻ってきて間もないのに、僕は目的を失くしてしまった。

(何かあるぞ。)
シンに言われ、顔を上げると目に入るのは ダイニングのテーブルの上に置かれた小包と封筒。 我ながら緩慢な動きでそれを手に取った。

「誰だ……?」

包みの方はミサトさん宛で封筒は僕宛。どちらも同じ送り主で、でもその名前に心当たりは無かった。

「ミサトさん、帰ってるのかな?」

荷物がここにあるって事は誰かが受け取ったって事で、 それが出来る人は、残念ながらもうミサトさんしか居ない。
でも電気も点けないで……寝てるのか、それとも荷物だけ受け取ってまたネルフに行ってしまったのか。

「ミサトさん?」

部屋のドアをノックする。すると小さく物音が聞こえてしばらくしてからドアが開いた。
部屋から出てきたミサトさんの髪は少し乱れてて目元が少し赤く腫れていた。

『泣いてた……?』

何があったんだろうか?
ミサトさんは眼を擦り、眼を覚ます様に二、三度頭を振った。

「お帰りなさい、シンジ君。」

いつも通りの笑顔で僕を迎えてくれた。 だから僕も何も無かった様に、無理やり笑顔を浮かべた。

「ただいま。
荷物がテーブルの上にありましたけど……」
「ああ、そう言えば……」

ミサトさんの後ろに着いて行きながら、僕は自分宛の封筒を開ける。

「同じ人からみたいですけど、ミサトさんは心当たりあります?」
「いえ、無いわ。誰かしら……?」

封筒の中からは一枚の便箋が出てきて、でもそこには何も書かれてなくて、 代わりに二つの小さなチップが包まれていた。

「何だ、これ?」

何かしらのデータが入ってるんだろうけど、こんな物を貰う相手も何故貰うかも全く心当たりは無い。 そもそもこれはどうやって再生するんだ?
そこら辺についてミサトさんに聞いてみようと思って振り向いた時、 ミサトさんの様子がおかしい事に気付いた。

「ミサトさん?」

呆然としてこっちを見てたミサトさんだったけど、 次の瞬間には人が変った様に乱暴に包みを掴み取って 力任せにビリビリに包み紙を破いてしまった。
中から出てきたのは飾り気のない箱。 装飾なんて一切無くて、何処にでもある何でもないそれをテーブルの上に置き直して 震える手をミサトさんは伸ばした。
ゆっくりと開けられていく箱。 何かを恐れているみたいに、ミサトさんの手はまだ震えていた。
中にあったのはまた箱。 だけど今度は青くて、見るからに高級そうで、衝撃に備えてか、その周りには緩衝材が敷き詰められていた。
慎重な手つきでミサトさんはその箱を手に取る。数センチ四方の小さなそれに入っている中身について、 僕はすぐに想像がついた。

「……!…っ、くっ……」

箱を開けた途端、ミサトさんの口から嗚咽が漏れる。
膝から崩れ落ちて、止め処無い涙が頬を濡らしていた。

「あ…ああ……っ……」

泣き声が僕を揺らし、僕は全てを悟った。
ミサトさんが手に取った箱の中にあったのは輝く指輪。 小さくないダイヤモンドが電灯の光を反射し、ミサトさんの手の中でその存在を主張させていた。

加持さん。
具体的に加持さんがどんな仕事をやっていたのかは知らない。
役職は何で、普段何処に居たのか。
僕が知っていたのはミサトさんの昔の恋人で、気さくないいお兄さんって感じで、 加持さんとの会話は僕も好きだった。
近すぎず、遠すぎず。その距離感は僕を怯えさせる事無く心地良いモノ。
そして……何かいつも危ない橋を渡っていたのは気付いた。
地下で見せてくれた白い何か。あれだってあの時のミサトさんの様子からすると かなり危険だったに違いない。 でもそれを感じさせなかった。
いつもそうだったんだ。
どんな危険な橋でも構わず渡ろうとして、渡り切っていた。それを決して僕らには見せずに。
今度は何を調べてたのか知らない。ただ一つ分かる事。 それはもう、加持さんとは……会えないという事。

ミサトさんの体が震える。
押し殺した泣き声は容赦無く僕の胸の内を締め付け、叩き、砕こうと力を込める。 一度ココロが叩かれる度にココロが悲鳴を上げる。軋む。
ギシギシと音を立てて、ヒビが少しずつ僕の中で広がっていった。

指輪を抱きしめるミサトさんの背中。
僕より背の高くて鍛えられて、でも優しい温かさを持ったその背中が今はとても弱々しい。
不意に頭によぎるアスカの顔。
最初は嘲っていたのに、最後は泣きそうだった。 泣きそうな顔で、僕を拒絶した。

立ち尽くす僕を抱きしめる感触。染み込んでいく涙。
ミサトさんは顔を僕に押し付けてただ、泣く。
暖かいはずのミサトさんの体はとても冷たくて、壊れそうで。

『所詮僕は……』

どれだけ決意をしても、どれだけ大人ぶろうとまだガキでしか無くて、 弱くて、情けなくて、力も無くて、一人で自分を慰める事も誰かを慰める事も出来ない。
苦しくて、苦しくて、壊れそうな自分を守るだけで必死で、 うずくまっている誰かに手を差し伸べる事さえ出来ない。 誰も傷つけずに済む、その為の手段も知らない。
何をしたら良いのかそれすらも知らず、 全てを誤魔化す為に僕は、ミサトさんにそっと口付けした。







灰を全て拭き終えて、下着姿のまま僕はベッドに腰掛ける。 片付けたばかりなのに落ち着かなくて、タバコにまた火を点けて思い切り吸い込んだ。
浮遊感。頭の中が一瞬真白になり、次いで急降下。 吐き気がこみ上げてくる。

何を僕はしているのか。
目元に浮かんだ涙を拭いながら自分に問う。
アスカに別れを告げられて、落ち込んだと思ったらその日の内に別の人と。 しかも相手はミサトさん。どうかしてたとしか言い様がない。
これが何を意味するのか、僕は分かっていたはずなのに。

背中側からシーツが擦れる音がして、だけどその後に聞こえるのは布ずれの音。
僕は背中を向けたまま、手元のタバコだけを見つめていた。
僕は何も言わず、彼女も何も言わない。静かな部屋で、服を着ていく音だけが僕の耳に届く。

「もういいわ……」

静かにミサトさんはそう告げた。
でも僕は振り向けず、うつむいて動けない。
ミサトさんもそれっきり何も言わず、ドアに向かって歩き始める。
無言のまま僕の前を通り過ぎ、扉の開く音が聞こえた。

「ごめんなさい……」

呟く様にミサトさんは謝罪の言葉を口にして部屋を出て行った。


僕らは知っていた。 僕らの行動がもたらす行動の結果を。
後に襲ってくるのは後悔と自己嫌悪。なのに僕らは耐えられなくて、禁を犯した。
そうして僕らは失った。









NEON GENESIS EVANGELION 
Re-Program



EPISODE 22




Missin' Link











「目標は本日一○四一時に高度三八キロメートル上空に出現。 高度二十キロまでゆっくりとした速度で降下後、現在は対流圏界面付近で停滞しています。」

マヤさんが状況を発令所全体に向かって報告する。
現れた使徒はまたしても何の前触れも無く、だけども今度は成層圏でしかも もう随分と同じ高度に留まってて降りてくる気配はあまり無い。

「助かった、と言うべきかしらね。」

リツコさんの言葉はきっと発令所の気持ちを代弁してたと思う。
もう僕らに使徒に対して前もって準備する時間は与えられない。
元々何処からやってくるのか、誰も分からなかったけど、ここ数体の使徒は 突然僕らのすぐそばまでやって来ている。 今までみたいに早期に発見して威力偵察なんて悠長な手段は取る事も出来ず、 極限られた時間で対処法を考えないといけない。
今回の使徒だって、上空だから随分遠くに感じるけど地上での直線距離で考えたら四〇キロ なんてあってないようなもので、更には僕らは地上から迎え撃たないといけない。
それを考えたら突然攻撃をされなかっただけ運が良かったのかもしれない。

「目標について何か分かった?」

ミサトさんは厳しい表情のまま、親指の爪をかじりながら前に座ってる日向さんに問いかけた。

「ダメですね。衛星からの電波、磁場その他一切の信号を通しません。 恐らくはA.Tフィールドの所為だと思われます。
先の球体の使徒と同じですね。」

情報は光学観測によるもの、つまりはカメラからの映像だけ。 だけど日向さんはもうそんな状況に慣れたのか、肩をすくめただけ。 これも多分皆同じ思いだと思う。
ミサトさんも特に期待して無かったのか、特に表情を変える事無く僕らエヴァの状態を尋ねる。

「弐号機、零号機共に配置位置に着いています。
弐号機はポジトロンライフルを、零号機はポジトロンスナイパーライフルを装備して待機中。」
「シンクロ率は?」
「芳しくは無いわね。
レイはいつも通りだけど、アスカは……ひどいものね。前回のテストより一三ポイントも落ちてるじゃない。」

責める様な視線をリツコさんが送ってくるけど、ミサトさんは正面を向いたまま答えなかった。
ミサトさんの視線は恐らく僕の隣に映っているだろうアスカに向けられてて、でも アスカの声は聞こえては来なかった。

「それで、僕はどうすればいいんですか?」

アスカも綾波さんも地上で待機中だけど、僕は未だケージの中。 プラグの中には入っているけど、シンクロもしてなくて置いてけぼりで何の指示も聞いてない。
ミサトさんも時々こっちに意識を向けてくれてるみたいだから忘れてる、なんて事は無いと思うんだけど……
そんな事を思いながら返事を待ってると、ミサトさんは 厳しかった表情を更に厳しくして、それこそ苦虫を噛み潰したみたいな顔をしてチラッと後ろを見た。

「初号機は現在凍結中なのよ。委員会命令でね。」

それは……どういう事だ?まさか出られないのか?二人に任せっきりって事か。
頭に前回の使徒戦の光景が浮かんでくる。血に濡れた二機のエヴァ。 顔を切り裂かれた零号機。首から先が無い弐号機。
リアルな質量を以て襲いかかってくる不安。こみ上げてくる嘔吐感と絶望。 幻視した光景に、僕自身を黒く染め上げる誘惑を必死で堪える。

(シンジ!)
「碇三尉!!」

シンとミサトさんの声に、はっとして我に返る。
気が付けば僕は操縦桿を強く握りしめ、微かに初号機との繋がりを感じ始めていた。

「落ち着きなさい……」

諫められて一度深呼吸して自分を落ち着かせる。 シンクロは解除されて高まりかけていた興奮を……あれ?いつもみたいにテンションが上がってない?
思い出した記憶に揺さぶられはしたけど、いつものシンクロみたいに高揚感とかそういうものを何も感じなかった。

『どういう事だ?』

例外無く感じていた全能感と高揚感。完全にシンクロして無かったとは言え、多少なりとも感じるはず。 なのに今回はそれが無い。
原因を探る思考に埋没しそうになるけど、それをマヤさんの鋭い声が遮った。

「目標移動開始!来ます!!」










    a nuisance―――













誰も居ない第三新東京市。 戦闘形態に移行した為、市民にとっては見慣れない、だがアスカにとってはもう幾度となく見た 街並みの中で、弐号機は待機していた。
ビルの背後に隠れて膝を突く。 朝から降り続く雨が右手に持ったポジトロンライフルを濡らし、 体を打ちつける音にアスカはわずかに眉をひそめる。

雨は嫌いだ。
声には出さず口の中だけでアスカは呟いた。
自分が直接雨に曝されているわけでもないのに微かに感じる雨。 エヴァ越しに伝わる微妙な感触が気持ち悪く、 シンクロしている以上どうしようもないが、苛立ちは湧き上がる。

気を紛らわそうとアスカは意識を正面に集中させる。 頭上から降りてきたバイザーにはMAGIで処理された映像が送られてきていて、 分厚い雲の向こうに居る見えない相手の姿をはっきりと映し出していた。

(早く降りて来なさいよ……!!)

感じる苛立ちそのままにアスカは見えない敵を睨みつける。
もう自分に戻る場所は無い。そんなものは切り捨てた。 今の自分に残るのはエヴァ(ここ)だけ。
そう、何だかんだあっても自分が落ち着く場所はここだ。
湧き上がる苛立ちを抑えつける様に自分に言い聞かせる。
自分はこれに乗る為にずっと駆け抜けてきた。ずっと努力してきた。 ただちょっと寄り道して、そして戻ってきただけ。
ならば自分はその努力の結果を示さなければならない。
自分の立ち位置を皆に示さなければならない。

「目標移動開始!来ます!!」

アスカは喝采をあげた。
沸き立つ心そのままにビルの陰から躍り出る。
バイザーに浮き出るカーソル。細かく揺れるそれが徐々に一ヶ所に収束していく。

「これでも喰らいなさい!!」

操縦桿を握る右腕に力を込める。 指が操縦桿のスイッチを押し込むその瞬間―――





突如として鳴り響くアラーム。
異常を知らせる赤色灯が発令所を紅く紅く染め上げた。

「どうしたの!?」
「弐号機パイロットの脳波が乱れています!」
「光線の様な物を目標が発していますが詳細は不明!!」
「熱源反応その他一切反応ありません!」

ミサトの目の前で表示されたグラフが激しく躍る。
頭を抱えてうずくまるアスカ。 それに呼応して弐号機もその身をのけ反らせる。

「こぉんちくしょぉぉっ!!!」

雄叫びにも近い怒声を上げ、アスカは傍らのライフルを抱え引鉄を絞った。
轟音が街に響く。マズルフラッシュが無人の第三新東京市を焼き、放たれた光弾が雲を切り裂いて使徒アラエルへと迫った。
だが光はアラエルに届く事は無く、放物線を描いて街の郊外へと着弾する。

「がああああぁぁぁっ!!」

眼は眼球が零れ落ちそうな程見開かれ、口からは苦悶の声が絞り出される。
しかしそれでもアスカは引鉄に力を込め続けた。
次から次へと吐き出される弾丸。だが狙いさえ満足に定められていないそれはでたらめな方向へと飛び出して行った。
民家を焼き、ビルを破壊し、アスファルトに山に穴を穿ち、終にはカチ、カチと弾切れを示す乾いた音が 空しくプラグに反響する。

「L.C.Lの精神防壁は!?」
「ダメです!まるで効果がありません!」

問い掛けに返ってきたシゲルの答えにミサトは苛立ちそのままに舌打ちをすると、 すぐにレイに呼び掛ける。

「レイ!!」

ミサトの声を受けたレイはすぐさまビルの陰から飛び出し、ライフルを構える。
双子山の決戦時に用いられたスナイパーライフル。急造時よりも改良が加えられ、 充填時間は短縮されたとは言え、照準を合わせるにもそれなりの時間を要する。
わずか数秒。その時間さえもどかしくミサトは爪を噛みしめる。
そしてその想いはレイも同じ。 MAGIの照準計算を待つのも煩わしいと、レイは充填が終わるや否やすぐに引鉄を引き絞った。

重力、磁場、遠心力、コリオリ力と様々な力が陽電子に作用して複雑な軌道を描く。
だがそれでもレイの放った弾丸はアラエルへと向かっていった。
空に彗星が橋を架ける。そしてその星屑は見えない壁にぶつかって幾つもの流れ星となった。

「そんな……!」
「陽電子消滅!この距離からA.Tフィールドを突破するにはまるでエネルギーが足りません!!」

ガキッ
歯が欠ける音がミサトの口から零れる。
が、どれだけミサトが傷つこうとも状況は変わらない。

「精神汚染、レベルYに突入しました!!」
「もうアスカの精神が保たないわ!
ミサト!!」

アスカの怒声は悲鳴へと変わり、代わってリツコの叱責がミサトを責める。
構わない。どれだけ自分が責められようとも構わない。
しかしミサトがどれだけ自分を責め、頭を回転させようとも有効な手段は見つからない。
自らのふがいなさに怒り、そしてその沸騰しそうな頭を鎮めようと、アスカを救う術をミサトは思いつけなかった。

やがてマイクからミサトを責め立てていた声が途絶えた。

「アスカ!!」







暗闇の中でアスカは目を覚ました。
何処までも暗く、先は見えない。何かが泥の様に体にまとわり付き、鉛が巻きつけられたみたいに重い。
立ち上がり、一歩前へ進む。足を踏み出す度に沈む様な感覚に陥るが、 アスカには今は歩くしか出来ない。

不意に浮遊感。そして墜落。
風がアスカの身を叩いて髪が舞い上がり、先の見えない闇の中へと落ちていく。
落下の恐怖にアスカは目を閉じて身を強張らせたが、落下の時と同様に衝撃も無く不意に足の裏に地面を感じた。

「偉いのね、アスカちゃんは……」

頭上から聞こえてきた声にアスカは顔を上げる。
そこには全身を黒い服で固めた女性が立って、アスカを見下ろしていた。
辺りを見渡す。周りの人も皆眼の前の女性と同じ様に黒い服を着て、神妙な面持ちで顔を伏せていた。
女性はハンカチで口元を抑え、アスカの目線に合わせて屈み込む。

「いいのよ、泣いても……」
「いいの。」

自分の声でアスカは気が付いた。

―――ああ、ここはママのお葬式。

女性の後ろには墓があった。刻まれた名前は惣流=キョウコ=ツェッペリン。 紛れも無く母の墓だった。

「アタシは泣かない。」

―――だってママなんて居ないもの。

アタシは独り。初めから独り。
アタシは試験管の中で生まれた。ママはただ遺伝子をくれただけ。 アタシを殺そうとしたママなんて居ない。ママなんて単なる幻想だ。
ママなんて居ない。アタシは独りで生きていく。 だから涙なんて必要がない。だからアタシは泣かない。

アスカは決意と共に顔を上げた。
そして世界は再び暗闇に包まれ、女性も墓も何もかもが消えていた。

―――アタシは世界で独り。誰の助けも要らない。独りで生きていく。

再び始まる落下。深く深く、何処までも堕ちていく。
目を閉じ、独りきりでアスカは頭から降下していった。
いつしかプラグスーツは消え、裸のまま、だが今度は風を感じる事は無い。
何かに守られている様に、髪がなびく事は無い。
だが徐々に風がアスカの体を撫で始め、それに気付いた時、 アスカの目の前に光が広がった。



「アスカちゃん。」

名前を呼ばれてアスカは後ろを振り返る。 風になびく綺麗な金髪。柔らかそうな手。そして優しげに微笑んだ顔。
草原の中に母が居た。
その姿を見た瞬間、どうしてだかアスカは無性に泣きそうになった。
訳も無くココロの中を駆け巡る衝動に、アスカは走り出していた。
ぼふ、と音を立てて母にアスカは飛び込む。 そんなアスカにキョウコは、あらあら、と頭を撫でた。

「どうしたの、アスカちゃん?」

キョウコが尋ねるが、アスカはギュッとキョウコの服を掴み、顔を押し付けてフルフルと頭を振った。

「何でもないの……」

柔らかく、いい匂いのする母を全身に感じながらアスカは微笑みを浮かべていた。

(ママ……)

何故だろう、ママから離れたくない。ずっとずっとそばに居たい。

(あれ……?)

どうして離れたくないなんて思ったんだろう? ママと私はいつも一緒に居るのに。
勿論ママはいつも忙しくてお仕事ばっかりだけど、お仕事がお休みの時はいつも私と遊んでくれるのに。 ママは私と一緒に居て、それが当たり前。なのに、何でこんな事を私は思ったんだろう。

疑問はアスカの中で浮かびあがってすぐ消えた。
今、目の前に母が居て、そして自分が居る。なら大丈夫。何も怖い事なんて無い。
落ち着いたアスカは満面の笑みを浮かべて母を見上げた。

「ママ?」

だが見上げた先に母の姿は無く、代わりに目の前には分厚いガラスの壁が広がっていた。

「ひどいものだな。」
「ああやってぬいぐるみを娘さんと思って一日中離さないんです。
よっぽど娘さんを愛してらっしゃったんでしょうね。」

アスカの耳に医師らしい男と女性の会話が聞こえてくる。
柱の陰に隠れて姿は見えないが、声は小さいながらもアスカにははっきりと聞こえた。

「新たな実験の提唱者本人が被験者になる。その精神は認めるがね。」
「いつもお子さんと一緒の時間が取れないのを嘆いていました。」
「今度の仕事を最後に一線を退くとか言っていたな、そういえば。
仕事を辞める為の仕事で娘と会えなくなるとは……皮肉なものだ。」

アスカは耳を塞いだ。それ以上耳をそちらに傾けず意識を正面の母へと向けた。
病室の中の母は何かを大事に抱えて話し掛けているようだった。
窓から入り込む逆光の所為でアスカの眼にははっきりとは見えなかったが、 ベッドの上の母の姿はアスカの記憶の中のそれと全く変わらない。 優しい笑顔に口元を歪め、自分の手の中にあるモノを慈しむ。
だた一つ違う箇所は、そこに居るのはアスカでは無い事。
アスカの代わりに人形を母は抱きしめる。温もりがアスカに与えられる事は無い。
地面にはワタが出て、首が折れ曲がっている人形がいくつも転がっていた。

再び場面は変わる。
次から次へと後ろへ流れる景色。上下に揺れる視界。絶え間無く聞こえてくる自分の吐息。
周りには新緑の草原が広がり、どこまでも駆け抜けていけそうだった。

何故自分は走っているのだろうか。
浮かんだ疑問はすぐに消える。決まっている。ママに報告する為だ。
ママは仕事で忙しい。だからママに会いたくても会えないし、ママも会いたいのに会えない。
なら自分がママと一緒に居れる様になればいい。 そうすればママも寂しくない。私も寂しくない。 ママは今は少し変だけど、一緒に居ればきっとまた元気になってくれる。 私を見てくれる。

「これをママに上げるときっと喜んでくれるよ。」

先ほど渡された物を右手に持って走る。
走りながら陽に当って反射するそれを見て、頬を緩める。

ママ、喜んでくれるかな?
ううん、きっと喜んでくれる!

走る。走る、奔る、走る。
呼吸が苦しい。―――でも苦しくない。
脚がもつれてこけてしまいそう。―――でも絶対に転ばない。
一分でも一秒でも、一歩でも早く、速く。

青い草原は遥か後ろに。足元は柔らかい芝生から砂利道へと。
何処までも続きそうな青空はいつしか分厚い雨雲に覆われていた。

病院のエントランスを駆け抜け、階段をそのままの勢いで登り切る。
背後からは看護士さんの声が聞こえるがそれも無視。

―――ママ、ママ、ママ!

4階の病室まで一気に駆け上り、母の居る病室のドアにアスカは手を掛けた。
逸る気持ちを抑えようともせず、感情の赴くままにドアを開ける。

ママ、私選ばれたんだよ!エヴァのパイロット候補に選ばれたんだよ!
これからママのお仕事のお手伝いが出来るよ!ママと一緒だよ! ずっとずっと一緒なんだよ!!
だから!

―――私を見て!!

扉が開かれた病室。その中に母は居た。
左手に人形を。そして右手にナイフを持って。

「アスカちゃん……」

伏せられた顔が上げられ、ぼさぼさの髪の隙間からキョウコの蒼い瞳が覗く。
目に光は無く、だらりと両手は下に。だらしなく開けられた口が言葉を紡ぐ。

「寂しかったでしょう?今まで一緒に居られなくてゴメンね……」
「うん!でも大丈夫!これからは……」
「これからは、ずっとずっと一緒に居ようね……」

だからアスカちゃん。
―――一緒に死んでちょうだい。









     ―――fade away











「いやあああああああああああああぁぁぁぁぁっ!!!」
「アスカぁっ!!」

アスカの悲鳴が胸を抉る。
ミサトさんが叫び、リツコさんが怒鳴り声をあげて、マヤさんが泣きそうな声で報告をする。
綾波さんは何度も何度もライフルを撃って、その度に跳ね返される。 そして僕はそれをプラグの中で、ただ黙って見ている。

『僕は……』

無力だ。アスカに手を差し伸べる事も出来ず、指を咥えて見ているしか出来ない。

(本当にそうか?)

シンの問いかけ。チクリ、と何かが痛む。

(本当に何も出来ないのか?)

そう……だ。何も出来ない、無力で情けない人間なんだ、僕は。

(出来ないのではない。やらないだけだろう?)

うるさい。黙れ。僕は兵士で命令には逆らえない。 待機と言われたらその通りにするしか無いじゃないか!

……本当にそうなのか?
僕の中で疑念が湧き上がる。
言い訳じゃないのか、それは?
僕は今までずっと他人の目を、視線を気にして生きてきた。 決められた枠からはみ出さない様に、細心の注意を払って。
だけどもそれはいつしか僕にとっての枷でしか無くって、 煩わしくも思い始めてる僕が確かに居る。

『僕はこの世界を選んだ。』

母さんの元から離れ、この醜い世界へ。選んだからには変わらないといけない。
今、僕にとって大切なモノは何か?誰かに逆らわずに生きていく事か? 今の地位を維持する事か?
答えは否。僕はまだ……アスカを諦め切れて無い。
ミサトさんと関係を持ってしまったけど、やっぱり僕は皆と一緒に居たい。 ミサトさんと綾波さんと、そしてアスカと。 その為にはアスカが必要なんだ。このままアスカを失えばきっともう僕らは元には戻れない。
未練がましいと思われてもいい。でも僕は……

「シンジ君?」

腕に力を。ココロに想いを。
リツコさんに気付かれたけど、もう止まらない。止めない。

「ケージの初号機のシンクロを確認!!」
「碇三尉!止めなさい!!」
「お断りします。」

目を閉じて心の壁を思い浮かべる。僕を束縛するもの全てを拒む頑強な壁を。

「停止信号は!?」
「ダメです、受信を拒否されています!」
「シンクロ率上昇!!80%を突破!」

僕からは見えない壁。だけどそれは確実にケージを破壊していく。
ごめんなさい、と口には出さずに謝って、だけど僕は止めない。

「シンジ。」

それまで僕に呼び掛けられていた声とは違うそれ。 低く重々しい声だけれどそれは多少ながらも現実的な重みを持って僕を抑えつけた。

「……邪魔しないでよ。」

父さんの方を見らずに僕は呼び掛けに応えた。
もう時間が無い。さっきの悲鳴はアスカの断末魔の声で、一秒でも早く助けないと、じゃないと……

「どうするつもりだ?」
「決まってる。アスカを助ける。」
「どうやってだ?武器も持たないお前がどうやって弐号機パイロットを助けると言うのだ。」

……父さんの言う通りだ。今、僕が出て行ったところで使徒を倒せる訳じゃない。
敵は空に居て僕は飛べない。飛び道具も無い。あったとしても最大の武器であるポジトロンライフルも 効かなかった。 打つ手はないのかもしれない。それでも……

「アスカを助ける事くらいは出来るさ。
少なくとも何もせずに見ているだけよりは良い。」

僕は再び目を閉じる。思い浮かぶA.Tフィールド。これがあれば壁くらいにはなれるさ。

「……ドグマに居りろ。」
「ドグマ?」
「碇!!」

記憶が蘇って白い巨人が僕の前に現れる。
見たのは一瞬。その後すぐ倒れて記憶を失ったけど、その姿は覚えている。そしてその胸に突き刺さっていた紅い槍を。

「急げ。」

副司令の声を無視して父さんが急かす。
その声に僕は無言で頷いて、機体を歩かせた。










    a nuisance―――









「……本当に良かったのか、碇?」

冬月は正面のモニターを見ながら隣に座るゲンドウに問う。
モニターにはすでに動きを止めた弐号機が空を見上げていた。
膝を突き、天から降り注ぐ光を全身に浴びるその姿が、冬月には神の許しを乞う罪人の様に見えた。

「構わん。最早我々には必要の無い物だ。」
「また老人達が騒ぐな。」

階下から見えない様にして深い溜息を冬月は吐いた。
またゼーレの老人達の小言を聞かねばならぬ、と思うと陰鬱な気分を一層沈めてくれる。

「我々と老人達はすでに道を別っている。今さら何も出来はしない。」
「大人しくしてくれればいいがな。」

喧騒は止まない。
動かなくなった弐号機にミサトやマヤが呼び掛ける声がアラームに混じり続ける。
冬月は横目でゲンドウの様子を見るが、ゲンドウはいつもの通りで微動だにしない。

「もう遅かったかもしれんな……」
「その時はこちらの予定通りに事を進めるだけだ。」
「だがその通りには進めたくはないのだろう?」

冬月の言葉にゲンドウは無言で応える。
冬月もそれきり何も言わずに黙って事態を見守り続けた。









     ―――fade away










上昇するカタパルトの中、じっと待つ。
手には先ほど――スから抜いたロン―ヌ―の槍。血の中で眠ってた様な深紅の姿が僕の目を引く。

「―――わね、シ――君?目――の補正はMAGI―計算して――ら」

―――ああ、やっと手に入れた。

「―ンジ君?」

うるさいな。誰だよ、一体。折角人が喜びに浸ってるっていうのに。
ノイズの混じった声に悪態を吐く。
気分が台無しだ。邪魔をしてくれたあの人をどうしてくれようか?いっその事―――

(シンジ!!)

シンの声に僕の意識は覚醒した。
聞こえる声に掛かっていたノイズは消え、視界も思考もクリアになる。

『僕は何を……』

思考がクリアになる代わりに、さっきまで何を考えていたか分からない。思い出せない。
シンの声がきっかけだったけど、今はもうシンはこっちから呼びかけても返事をしてくれなかった。

「シンジ君、どうしたの?大丈夫かしら?」
「え、ええ。大丈夫です。」

リツコさんは僕の声に安心したらしく、胸をなで下ろすと説明を始めてくれた。
そうだ。今はそんな事はどうでもいい。それよりもアスカを……

「今MAGIに弾道計算をさせてるわ。
あの光線の詳細は分かってないからどの位影響を受けるか分からないけど、地上に出てすぐに計算が終わると思うわ。」
「なら地上に出る前に投擲の体勢は整えた方がいいですね。」
「そうね。」

改めて一秒の重さを感じる。この一秒が活きてくれればいいけど……

「地上まで残り千二百。三十秒で出ます。」
「目標に動き!光線の目標が弐号機から移動していきます!
これは……」
「まずい!!」

ミサトさんの叫びに僕は何が起こったのか、何となく分かった。
でもここで止めるわけにはいかない。

「地上まで残り十秒!!」
「このまま行きます!」
「シンジ君!!」
「出ます!!」

鋼鉄の壁からビルへと視界は変わって、雨の感触が僕の体を走り抜ける。
右手に大きく後ろに引き絞り、照準が合う音と同時に左足を踏み出す。
そしてそれと同時に僕の世界は光に包まれた。







世界が変わる。
真白でも無く漆黒でも無くて、でも見た目には黒く見えるドス黒い紅。 気持ち悪いほどの臭いが鼻について、胃液が奥底から湧きあがってくる。
それでも僕は口元を抑えて歩きだす。
ここが何処か分からない。でも何処かに向かって歩き出す。

「死んでちょうだい。」

そんな声が突然聞こえて、その方向に向き直ると世界はいつの間にかその様を変えてた。
真白な病院服の女性と、その胸くらいまでしか無い小さな女の子。 彼女は右手を大きく振りかぶった。その手にはナイフ。

「待……」

僕が止める間もなく女性はナイフを振り下ろした。
上がる血飛沫。綺麗な紅が二人を、そして僕を濡らす。

「えっ……?」

倒れたのは女性の方だった。
首から重力に逆らって血が吹き出し、びちゃびちゃと音を立てる。
噴き出す血をそのままに、女性は女の子に倒れながら抱きついて、僕の良く知る名前を呼んだ。

「アスカちゃん……」
「ママ―――」

女の子―――アスカは頭の先からだらだらと血を垂れ流しながら立っていた。
元は茶色のさらさらとした髪はべったりと顔に張り付いてて、 白い肌は紅く、可愛らしかっただろう服はもう模様が見えない。
アスカは右手に小さなナイフを持って、倒れたまま起き上がらない母親にそれでも話し掛けていた。

「ママ、お仕事お疲れ様。
ママも寂しかったんだよね?だけど大丈夫だよ。 これからアタシもママをお手伝いできるよ?ママと一緒に居れるんだよ? だからママは少しお休み出来るよ?」

怖い。
アスカが怖い。
誰だ、あれは?決まってる。アスカに決まってるだろ?
本当にアスカなのか?僕の知ってるアスカはいつも笑って、怒ると怖くて、でも あんなにキモチワルイ姿はしてない。怖くなんて、ない。

「ねえ、ママ?何で何も言ってくれないの?
折角プレゼントも持って来たんだよ?ママ、喜んでくれないの?
ねえ、ねえ!」

倒れたお母さんに何度も何度もナイフを振り下ろして、その度にアスカの顔が汚れていく。

「何で?何で何も言ってくれないの、ママ……」

息を切らして、アスカは呆然と立ち尽くす僕に向き直った。

「お兄ちゃん、誰?」
「ぼ、僕は……」
「お兄ちゃんも邪魔をするの?アタシとママの邪魔をするの?」

ぴちゃ。アスカが足を踏み出す。嫌な音が耳を打つ。
ぴちゃ。血は頭から、ナイフから、小さなアスカの全身から滴り落ちる。

「邪魔させない。アタシはママとずっと一緒に居るのよ。」
「アスカ。」
「邪魔するやつは居なくなればいい。」
「アスカ、僕だよ。」
「みんなみんな、居なくなっちゃえばいいのよ。」


―――だからさ。

大人になったアスカがナイフを振り上げた。

「死んで。」
「うわああああああああああぁぁぁぁぁぁっ!!!!」





ココロが歪む、軋む。
右手に力を込め、槍が捻れる。
二股の槍から一本の真直ぐな螺旋へ。それはまるで僕を象徴しているようで。
振り下ろされるナイフを前にそいつは僕の手から離れた。


僕はアスカを貫いた。









「弐号機の処理は第六班に移行して下さい。」
「第三班は引き続き零号機の整備を続行。」

僕は座ってた。何をするでも無く。
雨は止み、空はいつの間にか晴れ渡ってる。 なのに青はくすんで、眼の前には弐号機の赤がいつもより紅く見える。

「碇さん。」

綾波さんの声に僕はのっそりとした動作で振り返った。
白い肌。普通じゃあり得ない蒼い髪。 そこに居たのはいつもと変わらない綾波さんの姿。
だけど今は全てが紅く、紅く。 眼に見えるモノ全部が血に濡れて見えた。

僕はアスカを殺した。




















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